川内村は放射能汚染を免れた「奇跡の村」だった2011/05/15 17:08

放射能汚染を免れた「奇跡の村」川内村
5月10日、日本全国のテレビのトップニュースで、我が川内村がとりあげられた。
政府が福島第一原発から20km圏内を一律に「警戒区域」として指定したので、4月21日以降、一切立ち入りができなくなってしまった。「救済策」として2時間だけ家に戻ることを認めるとした「一時帰宅」が始まり、その第一陣がここ川内村で始まったからだ。
住み慣れた家に、大袈裟なタイベックスーツを着せられ、放射線線量計とトランシーバー、70cm四方の透明ビニール袋を持たされての帰宅。この理不尽極まりない光景を中継しようというテレビが村に集まってきて、役場裏手は駐車スペースがなくなるほどだった。
テレビではあらかじめ演出を考えられていたかのような映像が映し出されていたが、我々川内村に今も暮らしている住民はみんな知っている。20km圏内であっても、タイベックスーツなど必要ないほど汚染が低いことを。
上の図(クリックで拡大)は、文科省とアメリカエネルギー省が合同で作成した「汚染マップ」だが、これが驚くほど正確であることを、線量計を持って現地を走り回っている我々はすでに知っている。川内村の中心部は郡山市や福島市よりずっと汚染が薄い。浜側の一部にやや線量が高いエリアがあるのだが、それとて、30km圏外の浪江町津島近辺などに比べたらずっと低い。ここにタイベックスーツで入っていかなければならないとしたら、福島市街を歩いている人たちは全員タイベックスーツ姿になってしまう。
「防護服」などと呼んでいるから勘違いしている人が多いのだが、このタイベックスーツは、泥や汚物などが付着したとき簡単に脱ぎ捨てられるようにと考案された一種の作業着であって、放射線を防げるわけではない。バスに乗り込むなり厳重に頭まですっぽりフードを被った報道陣の姿は滑稽でさえあった。

バスに乗り込む前からフードをすっぽり被っている報道陣


そもそも、4月21日まではみんな自由に出入りしていた。20kmの境界線には警官が立っていたが、「家に戻ります」と言えば「お気をつけて」とそのまま通してくれていた。そのやりとりさえ面倒だと感じる住民は、少し遠回りでも抜け道、裏道を使って帰宅していた。車を運転できる人たちはみな、重要なものはあらかた運び出していた。
動物保護団体も、この期間はみな20km圏内につながれたまま飢えている犬などを救出してくれていたし、家畜に餌をやるために毎日のように家に戻っている人もいた。

詳しい現場リポートは⇒ここ、表の「阿武隈日記」5月10日版に書いた
テレビ向きの感傷的なドラマを演じさせられた住民たちは、本当にいい迷惑だった。
あの日の報道で、「川内村は汚染された村」と勘違いした人がたくさんいたと思うので、しっかり書いておく。
川内村は逆に、放射能汚染を奇跡的に免れた村なのである。
村の中心部の放射線量は首都圏とあまり変わらない。農地もほとんど汚染されていない。
30km圏内が一律に作付けを禁止されてしまったが、実際には30km圏内であっても大丈夫な田畑がたくさん残っている。一方では、30km圏外で作付け制限されていない場所であっても高濃度に汚染された田畑がある。それなのに、すべて一緒くたにされて「福島県産の○○」となってしまうところが問題なのだ。

私自身は、他県の人たち同様、しばらくはスーパーに「福島県産の○○」が並んでいたら、敢えて買おうとは思わない。しかし、汚染がほとんど問題のないと分かっている場所でとれたコメなら喜んで食べる。
村の中心部にあるYさんの田圃は、無農薬・合鴨・木炭農法を続けてきた。数年前は天皇家への献上米も出した。Yさんは今年も作付けをするが、出荷はしない。売れないことは分かっている。
しかし、作ってみて、その米の放射能汚染を計測してみなければ、来年へのステップにもならない。そんなことは誰が考えても分かることなのに、県や村からは頭ごなしに「作付けしてくれるな」と圧力がかかる。
Yさんの田圃の土の上で、私はすでに放射線量計測もしているし、土壌サンプルも採取して検査機関に持ち込んでいる。Yさんの田圃で今秋収穫されたコメは、精米後、まず放射性物質の検出は不可能だろう。だから、もし分けてもらえるなら、私は喜んでそのコメを食べる。安全なことが分かっているからだ。

都会のビルの中で学者や官僚、政治家が数字をいじってああだこうだやっていても、現実は別のところに厳然と存在し、状況はどんどん動いているのだ。
現実に即して、最善と思われる行動をとっていくしかないではないか。
タイベックスーツを着せて、低濃度汚染の場所に2時間だけ入らせる「一時帰宅ショー」を全国中継することで状況がよくなることはない。逆に、住民の苦しみを増大させ、被害を大きくするだけだ。