2つの「除染」2012/08/16 11:48

国が決めた「除染実施区域」
■2つの除染

福島第一原発放射性物質漏洩事件からもうすぐ1年半経つ。
多くの人たち、特に東北から離れて生活している人たちは、そろそろ原発の話題に疲れてきている。
再稼働反対デモの盛り上がりや、それに対する批判的意見などが最近の話題の中心になっている感があるが、国全体で何がどういう風に進んでいるのかを俯瞰して見ると、絶望的なことばかり見えてくる。

例えば、前から問題点をいろいろ言ってきた「除染」。
誤解なきよう最初に断っておくと、現時点でやっている除染には2種類ある。
1つは、実生活に危険が入り込まぬよう、人の住空間に発生したホットスポットをつぶしていく除染活動。これは南相馬市で児玉龍彦教授率いるチームがボランティアでやってきた除染活動が代表的なもので、言わば「やむにやまれぬ除染」「しなければいけない除染」「生活を取り戻すために必要な除染」である。

もう1つは、「金儲けのための除染」。
それによって地域の暮らしを守るという目的よりも、金が動くことそのものが目的とされる除染。
費用対効果の点から、やる意味が見いだせない除染。

宮台真司氏が言うように「日本では、現状にマッチした政策を策定できず、まず利権に基づく政策シナリオありきで、それを成立させるために現状認識の歪曲がなされる」「自治創造学会シンポジウム(2012年5月11日)」での発言
まさにこの指摘そのままに行われている「除染」。

この2番目の「経済行為としての除染」がどんどん進められている。

まず、国は「国が除染を実施する地域(除染特別地域)」というものを決めて、すでに除染活動に入っている。



(環境省サイト http://josen.env.go.jp/progress/tokubetsuchiiki/tokubetsuchiiki_01.html より)


さらには、追加被ばく線量が年間1ミリシーベルト以上(地域の平均的な放射線量が1時間あたり0.23マイクロシーベルト以上)の地域を含む市町村を、汚染状況について重点的な調査測定が必要な「汚染状況重点調査地域」として市町村単位で指定し「追加被ばく線量が年間1~20ミリシーベルトの地域」を「除染実施区域」とし、指定された市町村は「必要に応じて重点的な調査測定を実施して実際に除染を行っていく区域(除染実施区域)を定めた上で、当該区域についての除染の計画(除染実施計画)策定し、この計画に則って除染を進める」こと、とされている。





(上記、いずれも環境省のサイトより)


言うまでもなく、汚染状況の調査は徹底的にしなければならない。
現時点でどうなっているのか、正確に知ることからしか何も始められないのだから。
しかし、それが意味のない金の使われ方に悪用されるのではどうにもならない。

最近、興味深い資料が2つ手元に届いた。
1つは、原発保守関連の会社で、今は除染をやっている会社から流れ流れてきたもの。除染の際の注意事項やら、上記URLに載っているエリアの一覧表やらのコピー。
もう1つは、今年5月に大阪市大学文化交流センターが行った講座の最後を締めくくった、同大学院医学研究科の木村政継准教授による「福島原発事故による放射線の影響」という講演のレジメ。
僕はこの講演を直接聞いてはいないが、レジメを見る限り、真面目な内容だったのだと想像する。

「パニックになることはない」「心配しすぎることはない」と述べる学者に対して、問答無用で「御用学者」とレッテルを貼り、言論封殺するような風潮が一部の人たちの間で見られるが、これは非常によろしくない。
まずは言っている内容、調査の方法や結果をしっかり見極める努力をした上で、自分の頭で考えてから判断しなければ、まともな考察にはならない。

3.11直後は相当混乱していたが、その後、学者、研究者たちの多くは、冷静に現状を分析し続け、現時点では「はっきりしたことは誰にも分からない。しかし、幸運なことに、今の汚染の状況からは、内部被曝を合わせても、爆発的ながんの増加とかは考えられない。注意すべきポイントなども分かってきているので、今後はその部分に目を光らせ、どのような状況にあるかは常に調査し続けることが大切」という見解で一致していると思う。
医者や学者の立場から、積極的に除染を勧めるべきだと勧告している人は非常に少ない。
これは「御用学者が多い」からではなく、彼らの方法論、思考方法からはそうした結論にたどり着くということなのだ。それは色眼鏡をかけずに、きちんと読み取らなければならない。

僕自身、多くの情報、資料に接してきて、今はこうした学者たちの認識はそう間違っていないと思っている。
リスクということで言えば、放射能パニックによる心労や、家族、コミュニティの分断による被害のほうがはるかに大きな問題になっている。
妻と子どもが自主避難し、仕事のために一人福島に残った夫が家族の「避難先」に週末会いに帰る際、高速道路で事故死したというようなニュースに接するたびに、やりきれなくなる。
横浜に住んでいた家族が「ここももう危ない」と九州まで引っ越しして、その先で豪雨被害にあうなどという話もある。
どう動くかはそれぞれの家族の判断になっていくが、この原因を作った者たちはなんのお咎めもなく、今も組織のトップに居座り、あるいは除染の親玉として動いている。
ついでに言えば「除染のプロ」「除染の専門家」なんているはずがない。そういう事態が日本では今までなかったのだし、それこそ「想定外」だと言ってきた人たちが想定外のことに対して「自分たちは専門家だから」と言う。こんなふざけた話はない。

汚染は隠しようがない。
郡山市、福島市、伊達市、本宮市、二本松市などの一部は、今でも原発30km圏の一部よりはるかに高い空間線量を示し、土壌汚染もはっきりしている。
そこで人々は今まで通りに暮らし、農作物も作っている。
そのことを声高に非難する人たちがいるが、それは間違っている、と、この際はっきり言っておきたい。

日本の原子力行政を根本から変えることは絶対に必要だ。
原発は止めるべきだ。
何よりも核燃サイクルというバカげたものは一刻も早くやめて、これ以上無駄な金を使わせず、危険を増やさないことが求められている。
しかし、そのことと、「福島はもうダメだからそこにいてはいけない。子どもを連れて早く逃げろ」と叫ぶことがリンクしてしまうのは間違いだ。単純に現状認識が間違っている。

もちろん、今後、福島第一原発(1F)がどうなっていくのか、予断を許さない。その意味で、1Fに近い場所は危険ではある。
しかし、現状の汚染状況を評価すれば、無理矢理、福島の都市部から脱出しなければ命が危ないと煽り立てるのは明らかなミスリードだし、福島で暮らしている人々の命を脅かすことにさえなってしまっている。

さて、福島内部の問題に目を向ける。
もういちど宮台氏の言葉を借りてみたい。

//日本には、零式艦上戦闘機を作る技術的能力はあっても、戦争を合理的にマネージする社会的能力がありませんでした。同じで、日本には原子力発電所を作る技術的能力はあっても、原発政策を合理的にマネージする社会的能力がありません。この社会的無能力が、地方自治の体質に由来するのだというのが、僕の考えです。地方自治の民度があきれるほど低い。//自治創造学会シンポジウム 2012年5月11日での発言より)

宮台氏本人は同意してくれるかどうか分からないが、この「地方自治の体質」を如実に表している一例が、「<森林除染>福島県と町村会、環境相に要望書」(毎日新聞 8月15日配信)」というニュースではないか。


//福島県と県町村会は15日、東京電力福島第1原発事故で放射性物質に汚染された森林の除染を求める要望書を細野豪志環境相に手渡した。細野環境相は「しっかり取り組む必要がある。どうやって解決するか見えていないが、福島の皆さんに納得していただけるようにしたい」と応じた。

 除染方法を話し合う環境省の有識者検討会は7月末、森林内の放射性物質が水や大気を通じて森林の外に拡散する割合はかなり小さいとして、「森林全体の除染の必要性は乏しい」との考えを表明。近く方針をまとめる。

 これに対し、要望書は「県民の期待を裏切るもので極めて遺憾」と反発。除染方針の検討に県や地元自治体、関係団体の意見を反映させることや、「県の実証事業で効果があった」と間伐を除染の手段に採り入れることを求めた。【比嘉洋】//


調査・分析が政策や実際の活動にいかに生かされていないかがよく分かるし、金が入ってくるなら「なんでもいい」という自治体の姿勢が、まさに究極の形で現れていると思わざるをえない。

言うまでもなく、現場で除染作業に従事している人たちにはなんの罪もない。
除染をやっている会社の人たちは「箱根からむこうは全部汚染されてるんだ。原発で生活をしていた僕らが“除染”しなければ!!」と、せっせと原子力機構から言われるままに除染活動をしている。
もちろん中には、「生活のため、金を得るためだから、言われたようにやるよ」と、淡々とやっている人も多いだろうが、人間、自分の行為には何か動機づけや正当化するものがほしいから、「原発で金を得てきた人間の一人として除染に精を出すのは当然」という言い方になるのはよく分かる。
しかし、実際にはその人たちが公金から生活費を抽出することはできても、福島で生活している多くの人たちにとって、実質的な健康被害リスクが低下されるわけではない。むしろ、いろいろかき回されて生活環境がおかしくなるデメリットのほうが大きいだろう。また、言うまでもなく自然環境は確実に破壊される。
どう考えても、莫大な死に金になる。

除染にしても瓦礫処理にしても、効率や意味が無視されて「金の動き方」が中心で話が進められている。
誰がいくら儲かるかという視点で策定されていく。
何のために金がいるのか(生き甲斐)という視点がない。金が儲かるかどうかだけ。金が手段ではなく目的化してしまうとこういうことになる。
生き甲斐がなく、ただ単に金を与えられ、ご飯を食べていければいいという生き方を選択するような土地に、誰が好んで住みたいと思うだろうか。福島は、首都圏の人たちがリタイア後に住みたい土地のトップだった。福島は生き甲斐を持って美しく暮らせそうな土地として「ブランド」だった。そのブランド価値を捨てて、外から金だけ入ればいい、それで食えればいいと開き直ったら、もう福島は終わりだ。
これでは人間の飼い殺しではないか。人生の尊厳がないではないか。

福島でなんとかもう一度元の暮らしを取り戻したいと、いろいろ奮闘している人たちの努力は痛いほど分かる。
しかし、そのためには金が必要だから、除染でもなんでもいいから外から金と人が入ってきてほしいという発想になってしまったら負けだろう。
それだけの動機で動いていたら、今までと何も変わらない。原発を誘致したときからの間違いをもう一度繰り返し、さらに取り返しがつかない場所にしてしまってはならない。
「なんでもいい」ではダメなのだ。
金は生かさなければ。せっかく入ってくる金なら、それを使って幸福にならなければ。

このままでは、外から注入される金が、福島で暮らしていく人々の心を歪め、さらに絶望と虚無の方向に追いやってしまうことになりかねない。
ただでさえ、外から特別な目で見られるようになってしまった「福島」で暮らすのは疲弊することなのに、金が異常な使い方をされることで、引っかき回され、言いようのない疲労感、徒労感、空虚感が蓄積されていく。
福島の中にいる人たちはそのことを毎日感じているはずだ。
このままどんどん変な方向に行くのかな。まずいなあ。でも、どうしようもないなあ……と。
でも、外から見ている人たちには分からない。
福島が大変だ。なんとか「してあげなければ」……という発想で動く。
ガンバレ福島、と叫んで、乗り込んでいって歌を歌ったり、いろんなイベントをやったり、お金を集めて渡したり……それらはもちろんすべて善意からのことなのだが、「される」側の福島の人たちは、「してくれる」人たちに対して決して口にしない思いをいつも抱えている。
これは沖縄と本土の人の意識の違いととても似ていて、今後もそういう乖離が進むだろう。

とにかく、すごくやっかいなことになっている。

「再稼働反対」と叫ぶ人が増えていっても、「除染反対」と叫ぶ人はいない。
そんなことをしたら、福島の側から「ふざけるな!」と猛反発をくらうことも分かっている。
実に見事な言論封殺システムが構築されてしまった。