フクシマは福島の問題ではない(2)2013/02/12 21:07

今までここは汚染されていなかった場所だが、汚染された場所から運び込まれた土(除染)のおかげで放射線量が上がった
「フクシマ」は福島の問題ではない。
地球規模の問題、人類がこれからどう生き延びていくかというような大きな問題なのだが、この事態を引き起こした要因を考えていくと、昔からよく言われる「親方日の丸体質」の問題に触れないわけにはいかない。

宮脇昭氏が「震災がれきを活用して東北に『森の防波堤』を」と提唱している

(日本経済新聞WEB版 2012/2/1)


しかし、この提案が、国にはまったく無視されている。
その裏事情をリポートしているのが、「中央省庁の壁は、防潮堤よりも厚かった──相沢光哉・宮城県議会議員も憤る「森の防潮堤」が実現しないワケ」(2012年12月05日 磯山 友幸 経済ニュースの裏側 現代ビジネス)。


かいつまんで説明すると……、

■宮脇氏の提言:
  • 震災で生じたがれきのほとんどは、家屋などに使われていた廃木材やコンクリート。これらはもともと「自然素材」であり、土に還る。捨てたり焼いたりしないで有効に活用すべき。
  • 海岸部に穴を掘り、がれきと土を混ぜ、かまぼこ状の土塁を築く。そこに、その土地の本来の樹種である潜在自然植生の木を選んで苗を植えていけば、10~20年で防災・環境保全林が海岸に沿って生まれる。
  • 東北地方の潜在自然植生であるタブノキやカシ、シイ類などは根が真っすぐに深く地下に入る直根性・深根性の木なので、容易には倒れず波砕効果を持つ。背後の市街地の被害を和らげ、引き波に対してはフェンスとなり、海に流される人命を救う。


■相沢光哉・宮城県議会議員の憤懣:
  • 宮脇氏の提言を知り、議会で自民党から共産党までの全議員が全会一致でこの「緑の防波堤」案を採用しようと決めた
  • ところがこれに国がストップをかけた
  • 廃棄物処理法で、木質類は埋めてはいけないと決められているから「そもそもガレキを埋めるという行為自体がダメ」だと言う。
  • 国はあくまでもコンクリートと鉄で作る巨大堤防の建設を進めようとしている。
  • 防潮堤のほとんどは国土交通省の所管。民主党政権で「コンクリートから人」へということで仕事が干上がっていたのが、震災で膨大な予算が付き、目の色が変わった。海岸堤防は国交省のやりたいように進められている。
  • 東日本大震災の大津波では、高さ10メートル以上の大堤防が引き波によってことごとく倒された。
  • それにも懲りず、平野部では高さ7.2メートル、気仙沼などのリアス式海岸の場所では11.4メートルのコンクリート製の堤防を、引き波でも倒されないようにがっちり作り直すと言うが、高さ7.2メートルの堤防をそのレベルで作れば底辺の厚みは40メートルにもなる。そんなものを太平洋沿岸にズラッと築けば、陸側からは海が見えなくなるし、海側からも陸が見えなくなる。
  • そんな異常なものの建設が、現実に国の直轄事業で始まっている。


片寄った主張ととるかたもいるかもしれないので、「緑の防潮堤懐疑論」も紹介しておく。

宮脇氏の唱える「緑の防潮堤」に疑問を投げかける人たちの主張をまとめると……、

  • 有機物は埋めればいずれ腐る。その際にガスが発生したり、土地が陥没する。
  • 土木工学的に強度の裏付けがあるのか?
  • 木質瓦礫を含む堰堤を津波が越えれば水が浸透して浮力が生じる。第2波3波に耐えられるのか?
  • 余震で液状化しないか。
  • 広葉樹は深くまっすぐに根を張ると言うが、塩分の多い土壌でもそうなるのか?

……といった意見が見られる。

しかし、こうした懸念が現実になったとしても、莫大な金を投じて巨大なコンクリートの防潮堤を張りめぐらすなどという計画よりはるかにマシではないか。
仮に宮脇提言に多少の弱点があったとしても、それがコンクリートの大防潮堤建設推進を正当化する理由にはまったくならない。

相沢氏も言う。
  • 森を作るわけで、上に家を立てたり道路を造るわけではない。
  • これから、太平洋沿岸、九州の方まで大堤防の建設が進んでいく。100年に1度の津波だとしても、99年はその高い塀の中で暮らさなければならない。
  • それだけ犠牲を払っても、100年に1度の津波を抑えられる保証はない。東海、南海地震の津波は30メートルという予測なのだから。
  • そもそも自然の脅威に対して人工物で対応するということ自体、無理がある。
  • コンクリートは経年変化する。森は放っておいても更新する。自然には自然で対応するのが本当の知恵。
  • 海はときに災害をもたらすが、普段は「豊穣の海」であり、人間の暮らしに恵みを与えてくれる存在。海を拒むのではなく、海と折り合いを付けて生活していく工夫をするのが当然のこと。

……まったく同感だ。

巨大堤防は凶器にもなりえる。
東日本大震災のとき、逃げ遅れて大津波にのみこまれた人たちの中には「堤防のために逃げ遅れて命を落とした」人たちもいた。
10メートルの大堤防の向こう側は見えない。津波が10メートルの堤防を乗り越えてくるまで、迫る津波が見えなかったのだ。

実際に大槌町ですんでのところで助かった人はこう言っている。

堤防の内側にいると、海は見えないじゃない。住宅が多い町の方でもそう。だから、震災があった時に、近くにいた人は津波が来ることが分からなかったんじゃないかな。堤防の上を漁船が越えるのを見て気付いた人もいるって聞いたしね。堤防が透明だったら、どれだけの人が助かったんだろうって思う」
(「津波のことは、不思議と思いもしなかった」大槌みらい新聞 配信=2013/01/31記事=田淵 浩平)



地元の人たちは、実際に3.11の大津波で堤防の無力を体験したこともあり、堤防建設に対しては概して懐疑的だ。
しかし、「本音は反対だが復興が人質にとられているから口を閉ざしている」という。(特集ワイド:東日本大震災 巨大防潮堤、被災地に続々計画 本音は「反対」だが…復興が「人質」に 口閉ざす住民 毎日新聞 2013年02月06日 東京夕刊)

「復興が人質にとられている」とはどういう意味か?

「防潮堤計画には背後地の利用計画がセットにされていて、復興を進めようとしたら計画をのまざるをえない」
「海辺を利用してきた沿岸部住民で本音で賛成している人はいないだろう」(毎日新聞特集記事より)


つまり、地元の人たちは巨大防潮堤の建設には賛成できないが、それを呑まなければ、破壊されたインフラや産業基盤の復興への予算も削られるので、呑まざるを得ない、というのだ。
こんなバカな金の使い方が許されるだろうか。


最終的な目的は、津波から人命を守ることであって、津波を食い止めることではない。津波が来たときに命を落とさないようにすればいいのだ。
例えば、沿岸の民家、建物には、津波に呑み込まれても溺れないための「漂流カプセル」を備えればよい。
完全防水、その中に横たわればたとえ波にさらわれても呼吸が確保でき、数日間は命を守れる飲料水と栄養物を備えたカプセル。
車には、圧縮空気で瞬時に膨らむ簡易型漂流カプセルを積んでおく。消火栓のように、地域のあちこちにこうした救命用漂流カプセルを常備しておく。
これなら巨大防潮堤よりはるかに少ない予算でできる。防潮堤建設の予算を考えれば、沿岸住民、自治体に国が無償供給してもたっぷりお釣りがくる。
そういう緊急時漂流用カプセルのアイデアや技術開発によるビジネスも生まれるし、海外輸出もできる。
失われた命は戻らないが、流された建造物や資産は時間と共に取り戻せる。であれば、「津波を防ぐのではなく、いちばん大切なものを津波から守る」ことができればいい。
巨大防潮堤を建設すれば、それだけで大きなものを失う。景観や自然環境、暮らしやすさ、自然との共生という文化……そうしたものを失うに値するだけの価値があるのか?
漂流カプセルなら、何も失うものはない。
こんなことくらい、ちょっと考えれば誰でも分かるだろう。

簡単なことをやらないで、バカなことを推し進める背景は、結局「利権」なのだ。
相沢議員もインタビュー記事の中で語っている。

  • 要するに、樹木を育てて防潮堤にするという仕組み、それがまったくダメだとお役所(国交省)は頭から決めてかかる。
  • 国交省がダメなら、林野庁が頑張ってくれたらいいのだが、役所の規模が国交省とは横綱と幕下みたいなもので話にならない。
  • しかも、「森の防潮堤」は広葉樹を使うというのがポイントだが、林野庁は「海岸線はマツ。山はスギ」という風に針葉樹を植える方針で長年やってきたから広葉樹はやりたがらない。広葉樹は植えれば手をかけなくていいから、林業業者が儲からないから。
  • コンクリートの堤防であれば県は一銭も負担する必要がない。だから「ぜひ国にやってもらいましょう」となってしまう。
  • 一方、海岸部に住んでいた人はみな津波でやられ、危険区域だからもうそこには住めない。だから、もう海岸はどうでもいいと考えてしまう。
まったく同じ構図が「除染ビジネス」にもある。
森の除染など、誰もできると思っていない。また、本当に除染が必要な場所よりも、緊急性の薄い場所に莫大な金が注ぎ込まれ、費用対効果が極めて低い。中にはやらないほうがよほどいいような「除染」もある。そういうものが一緒くたに国からの金で推し進められている。
これも巨大防潮堤と同じで、「受け入れたほうが金が流れ込む」という地元の思惑と連動している。

合理性のない金の使い方は許さない、という国民の意識が低いから、「親方日の丸」意識が長い間続き、デタラメな税金の使い方であっても異を唱えなくなってしまった。
どうせデタラメな金なら、少しでも自分たちの生活が潤う方向に使わせよう、という「ぶら下がり根性」が染みつく。
それを仕切る地元の顔役が地方議員をやり、利権誘導がうまい人間、あるいは利権誘導によって動かされやすい人間が首長になる。
そういう構図で生まれた「地方経済」は自立性がないから、上からの金が途絶えれば簡単に崩壊する。それが怖くて、ますますぶら下がり体質が強化され、そこに身を寄せる地域住民には暗黙のタブー意識、結束、自由な発言や行動を封じて小さくまとまろうとする村意識が芽生え、強化される。

「フクシマ」を生んだ要因にはこうした構図がある。
原発立地では、このぶら下がり体質がものすごく強い。「フクシマ」以後、目が醒めて自立への道を歩み始めるかと思えば、逆に、ますますこの体質が強まってしまった。
「東北復興」の中でも、「福島の問題」は特にやっかいだ。

都会の人たちにお願いしたい。
「フクシマ」は、自分たちから遠い田舎で起きた地域的な問題ではない。
ましてや、原発の問題は「エネルギー問題」ではない。
東北が大変だから、困っているからお金を出してあげなければ……とか、原発をなくすには代替エネルギーを考えなくては……などという問題ではまったくないのだ。
今、福島をはじめ、東北には莫大な金(もとをただせば税金)が流れ込んでいて、その金の使われ方は合理性を欠いている。そこに問題の根源がある。
「脱原発」を叫ぶ人たちが増えるのは結構なのだが、本当に原発をなくそうと思ったら、中央の権力構造を合理的な方向に改革することから始めなければどうしようもない。なぜなら、原発立地の人たちがいつまでも「ぶら下がり」を続けようとしている限り、「地元の民意」によって原発継続は正当化し続けられるからだ。
税金の使い方に今まで通りのデタラメを許していたら、たとえ原発が全廃されたとしても、同じような失敗が形を変えて次から次へと出てくるだけだ。
★冒頭の写真は川内村の我が家への進入路に置かれた汚染土入りブルーバッグの山(2012/12/03)





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