戦争を引き起こすもの2014/11/04 20:33

■戦争を引き起こすもの

サイゼリヤで実感する格差社会時代

 最近、「戦争を引き起こす要因」としていちばん大きく、やっかいなものは「格差社会」の形成ではないかということに改めて思い至っている。
 まずは少し緩いところから話を始めてみたい。
 
「サイゼリヤに最近行きましたか? なんだかすごいですよ」という話をネットで読んだ。
導入部をまとめると、
  • 子どものつながりなどで地元のお父さん仲間と飲みにいくとき、まず最初にサイゼリヤに行く
  • いきなり飲み屋(居酒屋)になんて怖くて誘えない。なぜなら、お父さん仲間がそれぞれどのくらいの所得かがわからないから
  • お父さん仲間と仲良くなって、だいたいの生活感がわかった上で、「飲み屋行きませんか?」とか「焼肉行きませんか?」とか、お誘いの単価を少しずつ上げていく

そこで、嫁と久々にサイゼリヤに行ったのですが、「なるほど、ここにみんないましたか」という感じだったんです。

 まず年齢層が幅広い。10代から60代、70代まで幅広い客層が来店しています。そして、来店しているグループも2人や4人という複数人のグループではなく、1人で来ている方もいます。ファミレスだから当然ちゃ当然ですよね。しかも、1人で来ているお客さん(若い女性)がさらっと白ワインのデカンタを飲んでいたりするんですね。これは、居酒屋じゃ当然の風景ではないですよね。もちろん、複数人で来店して、「飲み屋がわり」に利用しているグループもおりました。なるほど、みなさんここにいらっしゃいましたか、と。

 考えてみれば、「お通し」もないし、ワインは1杯100円だし(しかも並々と注いである)、ワインをボトルでいれても飲み残しを持って帰っても大丈夫だし、サイゼリヤの「お酒を飲む」お店としてのサービスレベルは高いと思うんですね。今までは駅周辺の居酒屋を散策していたのですが、なんだか「サイゼリヤで全然いいじゃん」と言う気分になっちゃいました。(しかも、どんなに頑張って食べて飲んでも1人2,000円くらいにしかならない)

……これを読んで、今の日本の格差拡大社会を改めて実感すると同時に、身につまされてしまった。

何年か前、高校の同級生と飲んだとき、「本物のビールなんて久しぶりだなあ」と呟いたら、相手はすごく不思議そうな顔をして「じゃあ、いつも何を飲んでるの?」と訊いてきたことがあった。
僕は正直に、ビールは高くて買えないから、お客さんが来たときだけで、いつもは1缶88円の第3のビールを飲んでいる、と答えたのだが、相手はさらに困惑した顔をしていた。

その第3のビールも税率を上げる動きがあるという。代わりに「本物の」ビールの税率を少し下げると言うのだが、それは結局、今でも本物のビールを飲むことがあたりまえになっている富裕層に、本物のビールが飲めない貧困層がさらに貢ぐということを意味している。

こうした、金のない貧困層からさらに金を搾り取って富裕層に渡すという政策は今に始まったことではない。
軽自動車税を上げて、高級車にはエコカー減税。登録から13年超の古い車の自動車税は増税。稼ぎに関係なくみんなが負担する消費税は増税するが法人税は減税。輸出大企業は減税どころか還付金まである。

こうしたあからさまな貧困層圧迫・富裕層のズル援護政治をしている現政権を、なぜか貧困層が支えている。
安倍晋三という人物は、戦後の首相の中でも突出した危険思想に凝り固まった人物だと思うが、その危険な政権を貧困若年層が支持しているのはなぜなのか?

その答えに結びつきそうなものに今日出逢った。
8年前、朝日新聞社の「論座」(2007年1月号)に掲載された「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。……という文章だ。
一部を抜き出してみる。
格差問題の是正を主張する人たちは、高齢者が家族を養えるだけの豊かな生活水準を要求する一方で、我々若者向けには、せいぜい行政による職業訓練ぐらいしか要求しない。弱者であるはずなのに、彼らが目標とする救済レベルには大きな格差が存在するように思える。
 どうしてこのような不平等が許容されるのか。それはワーキングプアの論理が「平和な社会の実現」に根ざす考え方だからだと、私は考える。平和な安定した社会を達成するためには、その人の生活レベルを維持することが最大目的となる。だから同じ弱者であっても、これまでにより多く消費してきた高齢者には、豊かな生活を保障し、少ない消費しかしてこなかった若者は貧困でも構わないという考え方に至ってしまうのではないか。

確かに、右傾化する若者たちの行動と、彼らが得る利益は反しているように見える。たとえば一時期のホリエモンブームなどは、貧困層に属する若者たちが富裕層を支持するという、極めて矛盾に満ちたものだった。小泉政権は改革と称して格差拡大政策を推し進めたし、安倍政権もその路線を継ぐのは間違いない。それでも若者たちは、小泉・安倍政権に好意的だ。韓国、中国、北朝鮮といったアジア諸国を見下し、日本の軍国化を支持することによって、結果的にこのネオコン・ネオリベ政権を下支えしている。
 そこで当然、「それは本当に、当の若者たちを幸せにするのだろうか? 安直な右傾化は、若者たち自身の首を絞めているだけなのではないのか?」という疑問が提示されることとなる。だが私は、若者たちの右傾化はけっして不可解なことではないと思う。極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する。多くの若者は、それを望んでいるように思う。

識者たちは若者の右傾化を、「大いなるものと結びつきたい欲求」であり、現実逃避の表れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう。
 そのために、戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。

戦争は悲惨だ。
 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。
 もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。
 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。

私たちだって右肩上がりの時代ならば「今はフリーターでも、いつか正社員になって妻や子どもを養う」という夢ぐらいは持てたのかもしれない。だが、給料が増えず、平和なままの流動性なき今の日本では、我々はいつまでたっても貧困から抜け出すことはできない。
 我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である。

これを書いたのは赤木智弘氏。当時31歳。
8年前、この文章には多くの人が反応したらしいのだが、幸か不幸か僕は知らなかった。もっと社会状況がひどくなっている今になって初めてこれを読んだのはよかった。
というのも、8年前であれば、僕もまずは反論するか、反論するのも馬鹿らしいとうっちゃっていたかもしれないと思うからだ。その後の8年で絶望要素が一気に増えた今の時期にこの文章を初めて読んだことで、反射的な拒絶ではなく、冷静な読み方ができた気がする。
まず、これだけ挑戦的な書き方をしなければ振り向いてもらえないまでに追い込まれていたひとつの才能に触れ、読んでいて単に「興味深い」を超えて、慄然とした。若い世代が抱えている危機感や閉塞感がここまできていることを常に意識した上で自分もものを言わなければいけないな、と思った。
1955年生まれの僕は赤木氏より20年早くこの世に生まれた。この20年の世代差が内包する意識や感覚の違いを、この文章は教えてくれた気がする。

僕は今まで、塾の講師や学生時代のアルバイトで時給をもらったことはあるが、会社や組織の一員として給料(固定給)をもらったことがない。もちろんボーナスも退職金ももらったことがない。
それでもなんとか生きてこられたのは、子供を作らないと決めたことで自由に動けたから、失業中の景気が今ほどひどくはなかったから、あるいはぎりぎりのところで救いの手を差し伸べてくれる人たちがいたからだ。
もし、20年遅く生まれていたらどうやって生き延びていたのだろう、と想像してみる。
ネットやデジタルツールを駆使する技術習得は今よりずっと有利だっただろうから、そっち方面で創造的な仕事を成功させられたかもしれないが、運に恵まれないまま負けが続けば、世の中の仕組みに絶望し、疲れ果て、のたれ死んでいたかもしれない。そうならなかったのは運がよかったとしか言いようがない。

秋葉原無差別殺傷事件が起きたのはこの文章が掲載された翌年、2008年。「黒子のバスケ脅迫事件」が起きたのは2012年。いずれも犯人は逮捕後に社会への深い絶望感を文章にしている。
それらの文章を読むにつけ「これだけしっかりした文章を書ける人間なら、無差別犯罪に走る前に別の方法で人生を切り開けたのではないか」と思うわけだが、赤木氏の文章は、世の中への深い絶望感、不信感が根底に流れているという点では共通しているが、ぎりぎりのところで戦い方を模索している、突破口を探しているエネルギーを感じられた。
もし彼が職人道とか芸術とか学術研究とか、理屈抜きに自分の魂をふるわせるものを見つけていて、どんな状況であろうがその道を究めたいというような人生のテーマを持っていたら、エネルギーの使い方が違っていたのかもしれない。
もちろん、こうした文章を書いていく、書き続けることもひとつの「芸道」だし、彼はそれに向いているのだろうから、文章を突破口にしようと思ったことは正解だったのだろう。

……というのは余計なお世話だね。失礼失礼。

話を戻そう。

戦争が起きたとして、そこでまた何百万人もの人間が死に、生き残った者たちは「流動性のある時代」でチャンスを得るとしよう。
しかし、その後はどうなるのか?
その流動性が徐々に失われて世の中が停滞していき、戦争を扇動した挙げ句に自分たちだけは安全地帯でうまく生き残った富裕層の子孫たちが、再び今と同じような格差社会を構築するだけではないのか。
であれば、幸せな一生を過ごせるかどうかは、そのループの中のどの時点で生まれ、育ったかという運でしかないのか。

いや、おそらくもう、そうした「ループ」にすらならないのではないか。
戦後の経済成長を可能にさせた資源や環境がもはや残っていないのではないか。
であれば、必ず不幸を生み出すループを作るよりも、やはり、社会の構成員全体が違う価値観へのシフトをしない限り、社会の持続は不可能だろう。

きれいごとでまとめるつもりはないので書いてしまうが、僕はそこまで人間社会は賢くないと思っている。

牛丼福祉論騒動

実は、赤木氏のことを知ったきっかけは、雑誌「ひとりから」55号の中の「牛丼福祉論の発生とその現実 ──若者を見殺しにする国に生きて(連載12)」(赤木智弘)という文章だった。
僕はこの文章を一昨日(11月2日)に読み、その後、この筆者はどんな人物だろうとググった結果、8年前の「論座」に掲載された前出の文章を知った次第だ。

「牛丼福祉論」自体は、しょーもない話なのでいちいち論評するのもどうかと思うのだが、行きがかり上、紹介してみる。

昨年末のことになるが、PRESIDENT ONLINE の「ネット新時代は銀行不要」の現実味 -対談:津田大介×古市憲寿×田原総一朗 という特集での古市氏の発言が物議をかもした。
「なるほど、すき家はいいですよね。牛丼やファストフードのチェーンは、じつは日本型の福祉の1つだと思います。北欧は高い税金を払って学費無料や低料金の医療を実現しています。ただ、労働規制が強く最低賃金が高いから、中華のランチを2人で食べて1万円くらいかかっちゃう。一方、日本は北欧型の福祉社会ではないけれど、すごく安いランチや洋服があって、あまりお金をかけずに暮らしていけます。つまり日本では企業がサービスという形で福祉を実現しているともいえる」
この鼎談は前後2つに分けられていて、後半部分だけ読むとさしたる内容もなかったせいもあるだろうが、古市氏(1985年生まれ)のこの発言だけが切り取られて「とんでもない!」という反発、反論があちこちから出てきた。ここ とか ここ とか。

ちなみに、この発言の前後を見てみると、
【田原】ところで、会社員の多くはつまらないと思って仕事をしているのに、なんでみんな辞めないんだろう。
 ……という問いかけに対して、
【津田】最近、ある企業の勤務体系に感心しました。その企業は業績が落ちて人件費を抑制しなくちゃいけなくなったのですが、リストラはしたくない。そこで週5勤務を週4にして給料を20%カットするかわりに、副業禁止規定をなくした。つまり週休3日あるから、好きなように副業やバイトをしてもいいというわけです。これはワークシェアリングの一種。企業社会でなかなかチャレンジができずストレスを溜めている人にとって、この制度はいい回答になるんじゃないかと。

【田原】追い出し部屋より、ずっといい。

【津田】そうです。休みの3日間はバイトしてもいいし、NPOで社会貢献したり、次に進むために資格の勉強をしたっていい。さっき古市さんがいったような自称写真家も、これならやっていけるかもしれない。その中で手ごたえがつかめれば、独立や転職という選択肢も現実的になります。
 ……といったやりとりがあり、その後で、
【古市】それは、一生勉強して成長することを求められるわけですよね。それはそれで耐えられない人も出てきそう。

【津田】いや、休みの日はボーッとしたいなら、それでもいいんです。稼ぎが落ちても、困ったらすき家があるし。
 ……という流れを受けての発言だった。
で、この後は、
【津田】家賃も東京ではなく埼玉や千葉で、駅から徒歩15分だと、かなり安い家賃で住めます。そこにネットがあれば、健康で文化的な生活は十分に送れます。

【古市】今やネットも福祉の1つです。LINEやフェイスブックのおかげで、友達とすごく安くやりとりできるようになった。これも健康で文化的な生活に貢献していると思います。
 ……と続いている。
ここでも古市氏は「ネットも福祉の一つです」と、言葉の選び方として相当おかしなセンスを披露している。
だから、基本的にはuncorrelated氏がまとめているように、
  1. 社会通念と乖離した用語(福祉)の使い方をしてしまったこと
  2. 北欧の雇用規制と外食費というサービス財の価格を安易に結びつけたこと
が問題になってしまっているのだろう。
この鼎談の前半部分でも古市氏は、
日本の会社は、能力のない人でもそこにいれば仕事を与えられて定年まで勤められるという社会福祉的な要素を持っていました。でもみんな猪子さんの会社(※注:プロジェクトごとにチームが自在に編成されて、そこで個々の社員が能力を発揮し、プロジェクトが終わればチームも解散して一社員に戻るような柔軟なシステムの会社)のようになれば、あぶれる人が出てくる。
……と、ここでも「福祉」という言葉を使っている。

津田氏(1973年生まれ)は赤木氏(1975年生まれ)と同じ世代だ。
若い世代の代表として「日本にはまだまだ工夫次第でビジネスチャンスがあるんだよ」と言いたくて、その流れの中で「困ったらすき家がある」と口走ったのだろうが、それをうけて古市氏が「福祉」なんていう言葉を使ったから、読んでいる人たちの怒りを買った。(もしかしたら、まとめた編集者が下手なのかもしれないが……)
かつて底辺アルバイターとして「希望は、戦争」という挑発的タイトルで文章を書いた赤木氏が看過できなかったのは当然だろう。

雑誌「ひとりから」55号の中の「牛丼福祉論の発生とその現実 ──若者を見殺しにする国に生きて(連載12)」(赤木智弘)の内容を一部抜き出してみる。

低所得者が低所得者の福祉を担うというのは、すなわち昨今問題になっている「老老介護」と同じ構図である。本来であれば介護される側の人間が、より動けない人間の介護を担う。これがいびつな構図であることは明らかだ。
余裕を持った人間が余裕を持たない人間を助けることが本来の福祉の構図である。しかし、現状としてはお金を持った、すなわち余裕を持った人間は一方的に金で福祉を買うことができる。その一方で、お金の少ない人たちは、安い福祉、もしくは家庭内福祉に頼らざるをえない。そして安い福祉では同時に福祉に就く労働者の賃金も安くなるのだから、老人が得られる福祉と引き替えに、若い労働者の未来が切り捨てられることになる。

牛丼屋のような安価な商品を提供するシステムは、牛丼のような安価な食品を必要とする低賃金労働者のために必要とされ、同時にその労働は安価な賃金で働かされる低賃金労働者によって賄われる。
……こう分析した上で、「牛丼福祉論はブラック企業の肯定に他ならず、日本が今後超克するべき現状である」と明言している。

先にこの文章を読んでいたので、前出の「希望は、戦争」という文章をじっくり冷静に読めたのかもしれない。

赤木氏はこの8年間で、悲鳴に近い訴えを挑戦的に書くフリーターから「牛丼福祉論」に冷静に反論するフリーライターになった。
 本来、政府というのは市場の失敗を是正するために様々な権力をもって市場に介入する存在であるはずだが、日本の政府は一貫して労働市場については、雇用に助成金を出すなど企業側に金を放り投げることでしか介入してこなかった。企業とすれば市場が不自由であればあるほど、助成金が支払われるのだから、市場が健全化するはずもない。そうして官民一体となって日本の労働市場は不健全化されてきた。
 (前出『牛丼福祉論の発生とその現実」から)  

……これは僕もまったく同感だ。

言い換えれば、システムを変えない限りは問題は永遠に解決しない。

戦争でガラガラポンして社会が流動化すれば、底辺労働者にもチャンスが回ってくる、という文章での挑発は、議論を始めるためにぶっかける最初の冷水としてはある程度効果があるかもしれないが、彼自身、少なくとも今は本気でそんなことを考えているとは思えない。
ただ、彼が8年前に書いた文章は、今の日本の状況、若い世代が抱えているどうしようもない絶望感と、戦争でもいいから「ガラガラポン」が起きないだろうかという、意識下に隠された願望をリアルに伝えている。
これこそが「戦争を引き起こす要因」としていちばん大きく、やっかいなものではないだろうか。

であれば、まずはそうした潜在的な願望が自虐的に表出して右傾化社会を形成している状況を変えることは急務だ。
日本の現政権は、絶望世代にとっては一種魅惑的なジョーカーにさえ見える「戦争」を囁きながら、同時にその絶望世代からまともな生活をする環境を奪ってさらに追い詰めていく。

これが今の日本だ。

今十分な年金をもらって悠々自適の暮らしを送る「逃げ切った」世代も、僕のような、ぎりぎり逃げ切れる(修羅場を見る前に死ぬことができる)かどうか危うい世代も、若い世代からは憎悪の対象として見られているのかもしれない。しかし、それを認識した上でなお、彼らに「悪魔の正体をしっかり見抜け」「怒りの矛先を向ける相手を間違えるな」と言い続けることくらいはできるはずだ。

……というわけで、今日も、依頼原稿の締切を前に、一銭にもならないこんな文章を書いている。

コメント

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://gabasaku.asablo.jp/blog/2014/11/04/7483025/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。