生活をしていない人 生活しかしていない人2015/01/27 10:38

■生活をしていない人 生活しかしていない人


「生活」という言葉の定義はいろいろあるだろうが、多くの人たちがイメージするのは「衣食住」という言葉に置き換えられるような「日々、人間社会の中で生命活動を維持するための基本的な活動」というようなものだと思う。
「つましい生活」とか「生活が苦しい」といった使い方がそれ。

スーパーマーケットで3パック65円の納豆と120円の納豆を比べて、多少味が落ちるかもしれないけれど65円のほうを買うとか、医療保険と火災保険とどっちかにしか支払えないならどっちに入ったほうがいいか悩むとか、二人目の子供を作ったら家計が苦しくなってしまうから避妊しようとか、そういう類の精神活動、日々の行動を総括して表す言葉としての「生活」。

ところで、世の中にはこの意味での「生活」をしていない人たちがいる。
毎日SPに警護されて高級車で移動し、分刻みのスケジュールをこなしていく一国の首相や、莫大な資産を所有する多国籍企業のトップなどはその代表だろう。
彼らはスーパーの食品売り場で納豆の値段を気にすることはないし、自分でルート検索して電車を乗り換えながら移動することもないし、自分でホテルの予約を入れることさえない。
特に世襲でそのポジションについた人間は、「生活」を知らないまま大人になった可能性がある。
普通の人たちが「生活」と呼んでいる行動を経験したことがない。
そういうものと無縁であることに、優越感、満足感を抱いている。

彼らも、子供を何人作ろうか、あるいは正妻以外の女性に産ませても大丈夫だろうか、といったことは考えるかもしれない。しかし、生まれてきた子供に対しては、どこそこの学校へ入れろ、英語は話せるようにしておけ、といった指示を出す程度で、基本的には人任せになりがちだ。
そういう環境で育った子供たちが、「生活を知らない人間」というポジションを世襲する。

一方で、世の中には「生活しかしていない」人たちもたくさんいる。
毎日、起きてから寝るまで、自分と家族が生きていくのに必要な金を得るために好きでもない作業をこなし、あるいは食事を作り、洗濯をする。ゴミが溜まると寝る場所がなくなるので部屋を掃除し、PTAや町内会といった小さな社会の中での居場所を保つためにあれこれと気を使いながら動く。
そうした「生活」に日々の時間がすべて費やされる。「生活」以外のことを考えたり実行したりする時間や余力がない。

現代社会では、生活をしていない人が生活しかできない人たちを支配している。
生活をしていない人、生活を知らない人が、生活しかしていない人たちの幸福のために行動することができるだろうか?
彼らは「生活」を知らないし、したくもない。「生活」をすることはみっともないこと。だから、自分たちが「生活」をしなくていい身分、地位を守ることが人生の最重要課題だ。
そういう人たちが、生活しかできない人たちの幸福のために努力する、悩む、苦しむ、勉強する……ことをしない、できないのは、当然かもしれない。

生活しかしていない、生活以外のことをする余裕のない人たちは、自分ひとりの力では「生活をしなくていい」階級に飛び級で上昇することは不可能だと諦めている。
そこで、人生における幸福感の拠り所を、性愛や家族愛に求める。
狭いながらも楽しい我が家。おまえとならばどんな苦労も辛くはないよ。自分は大学に行けなかったが、愛する我が子にはよりよい教育を……といった価値観を持つことで、日々の「生活」に意義を見出そうとする。
しかし、実際の人生はそうした望みをも簡単に裏切ったり打ち砕いたりする。

生活をしていない人(支配者、権力者)の特権を支えているのは生活しかできない人(庶民)だ。
支配者層は、庶民が「生活するだけの人生」に満足してくれることを望んでいる。
庶民が、低価格な労働力としての子供を育て、権力に従順である社会が維持されることが望ましい。そういう状態を、支配者層は「秩序」とか「平和」とか「安定」いった言葉で表現する。
庶民がガス抜きできるように適度な娯楽を与え、大きな変化や価値観の転換が生じないように頭と権力を使う。

生活しかできない人たちは、「生活の破壊」をいちばん恐れる。生活を維持するための収入と安全が維持される社会を望む。だから、支配者層は、自分たちが統治する社会こそがその「必要最低限の安定」を維持する社会なのだと思い込ませるために情報を操作し、「時代の空気」をコントロールする。

この両者の価値観が、レベルは違っていても実は同質のものであり、破綻しないことが、両者にとって理想的な「保守社会」なのかもしれない。

さて、この2つのグループに入らない第3のグループが存在する。
生活をしている、生活を知っているが、生活だけの人生は嫌だ、と拒否する人たち。
例えば、学術、芸術やスポーツに最大の価値を見出し、一生追い続けようとする人たち。
専門家、求道者、表現者、アーティスト、アスリート……いろいろな呼び方をされるが、共通しているのは人生最大の価値が「生活」以外にあり、その価値を追求するために「生活」が必要だ、と考えている点だ。
その分野で大成功して、著名や富を手に入れたごく一部のエリートの中には、成功を手段として「生活をしなくていい」グループに編入され、その場所に満足する者も出てくるかもしれないが、例外を除けば、このグループの人たちも「生活」からは逃れられない。

オタク、引きこもり、ニートと呼ばれる人たちもこのグループのメンバーだ。
「リア充」を敵視して「二次元にしか興味がない」などと公言する人たちも「生活」はしなければならない。でも、「生活」するだけの人生に魅力を感じず、ある意味「生活」を拒否することで自分の人生を築こうとする。
ホームレスの一部もこのグループかもしれない。

このグループは、生活を知らない支配者たちにとっては、とてもやっかいな存在だ。
餌をやり、命令すれば従う犬的人種ではなく、快楽原理と自己の欲求で生きる猫的な人種だからだ。
また、生活しかしていない人たちにとっても、第3のグループは愉快な存在とは言えない。
もしかしたら自分が持っていないもの、知らないもの、諦めてしまったものを大切にして生きているのではないか、という思いが、妬みや嫌悪感を生む。だから、失敗や不完全さを見つけると徹底的に叩き、唾棄する。

格差社会などと言われながらも、生活することが精一杯の庶民が、生活を知らないごく一部の支配者層、権力者、超富裕層の腐敗を許容するのは、案外、この第3のグループを共通して不愉快だと思っているからかもしれない。

人の価値観はそれぞれだから、いろんな人生があっていいし、そうじゃないと社会は窒息する。
また、社会のシステムをどう改善しても、成功者、支配者、権力者は存在するし、必要でもある。
ただ、「生活を知らない」人たちが自分たちの地位保全原理だけで支配する社会は、合理性を失い、必ず破滅する。
合理性を失った社会では、どのグループの人間も生きていけない。

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