人形作家・鐸木能子のネット葬2018/01/09 17:31

銅鐸をモチーフにした異色の人形

母親を「ネット葬」で送る

古いネガフィルムの中から、こんなのが出てきた。
なんともおどろおどろしいと感じるのだが、中には「これ、いい! 好きだ」という人もいて、感性というのは本当に様々だなあと思う。
↑これはお袋(鐸木能子)が人形制作を始めた頃、「銅鐸を題材にした人形を作ってみる」と言って作ってしまったもの。
写真だと分からないと思うが、表面は革(バックスキン)で、桐の木を彫ったものに木目込みして、その革の上から着色を施している。
人形とは何か、自分が作る人形はどうあるべきなのか……と、悩んでいる時期の興味深い作品。

そもそもお袋はなんで人形作家をめざしたのだろう。
「何か一つ、一生をかけて追求するものを見つけたい」と言って始めたのだが、そうなるまでにはいろんな紆余曲折があった。

もうすぐ出る本『医者には絶対書けない幸せな死に方』(講談社プラスα新書)の中で僕は、
死者を弔うという行為は、気持ちをどれだけ寄せられるかが大切であるはずです。であれば、時間を置いて「偲ぶ会」を宗教色なし、会費制で行うなどのほうが、参加者の心に残る、意味のある会になるように思います。
 それも大変なら、メモリアル動画をYouTubeにアップして、離れた人でもそれを見ながら死者との思い出や死者への敬意を持つ時間を作れる「YouTube葬」はどうでしょう。

……と書いた。
その精神で、お袋の人生を少しだけ振り返ってみたくなった。

人形作家・鐸木能子の生涯

お袋・鐸木能子は、昭和3(1928)年3月に群馬県の旧佐波郡伊勢崎町の蝋燭問屋・細野智之助の4女(7人兄弟の6番目)として生まれた。
母親は香といい、福島県白河の出身。奥の細道や一遍上人絵伝に出てくる「白河の関」の関守であった石井家とは親戚関係で、小峰城のお姫様で、子供の頃に棚倉城に移されたとかなんとか……そのへんの話はどうもはっきり分からないが、ともかく武家の娘だったことは確か。
子供の頃はよく「よしみつは時代が時代なら、侍大将として敵軍に突っ込んでいかなければならなかったのよ。なにを泣き言言ってるの!」と叱られたものだ。

父・細野智之助は伊勢崎で2番目の金持ちで、屋敷は広大で、門から母屋まで歩く間に使用人の家が両側に何軒もあって……というような話も、子供の頃はよく聞かされていた。
ところが父親が亡くなってからは、武家出身の母親が商売にまったく疎いお嬢様だったため、たちまち金を騙し取られて無一文になり、白河の白坂というところに開拓農民として移り住んだ。
父親代わりとして妹たちを育てていた長男は出征し、ボルネオ島で通信兵をしていたときに現地妻を作り、娘が生まれたが、その後、捕虜になり、妻子とは離ればなれになった。
帰国後は開拓農民として白坂の土地を開墾し、その土地(2町7反歩と聞いている)を払い下げてもらい、農業をする傍ら、教員免許を取って地元の小学校の教師として働いた。結局、ボルネオ島に残してきた妻子には二度と会うことはなかった。

お袋は5人の姉妹の4番目で、早くに死んだ父親の記憶はほとんどなく、長兄が父親代わりだった。貧乏だったので上3人の姉はみんな尋常小学校どまり。兄弟の中では初めて女学校まで行かせてもらったらしい。(ちなみに次兄は兄弟の中でいちばん頭がよかったが、病弱で、結婚後、娘を1人もうけた後に死亡)
お袋は上京して聖路加女子専門学校に学び、看護師の資格を取った。
そのときの恩師が有名な日野原重明氏(故人)で、戦時中は聖路加国際病院に担ぎ込まれる怪我人たちの手当や看護をしていた。
聖路加病院は立教大学と同じく、日本聖公会(イギリス聖公会の日本バージョン)の系統で、その影響で日本聖公会で洗礼も受けた。
その影響が強くて、若いときから西洋美術やキリスト教文化に強い憧れ(一種のコンプレックスかもしれない)を抱いていたようだ。

終戦後は立教女学院に就職。その後、看護師として白河市の病院に勤務。
そのとき、結核病棟に入院していた僕の父親(実父)と、看護師と患者として知り合い、結婚する。
実父は福島県の職員で、林業担当だった。犬と演歌と森が好きだったらしいが、そのことは大人になるまで知らなかった。
結婚後、白河の病院を辞めて、福島市に移り、福島大学附属中学に養護教諭として就職。そこで僕が生まれた。このときお袋は27歳。

20代終わり頃のお袋

その後、附属中学に今の親父(養父)鐸木經彦が理科の教師として赴任してきた。
で、親父はお袋に一目惚れしたらしく、同僚であるお袋に熱烈なラブレターもどきを書いて手渡したそうだ。
その話はお袋から聞いたが「子持ちの人妻である同僚にラブレターを渡すなんて、一体この人は何を考えているのか、って呆れたわよ」と言っていた。

お袋は附属中学の同僚である音楽教師から絶対音感の話を聞き、まだ2歳だった僕に絶対音感をつけさせようと、福島市内で適任者を探す。探し当てたのは市内の修道院にいたカナダ人シスターで、僕はそこに通って音感教育を受けた(当時の記憶はほとんどない)。

当時お袋が附属中学で影響を受けたものに「立体版画」というのもあった。
これは普通の版画のように版木に紙をあてて転写するのではなく、インクをつけたローラーを版木の上に転がし、そのローラーをそのまま紙の上に転がして、ローラーに残ったインクの濃淡を転写する、というもの。普通の版画とは違って、左右反転して彫る必要はない。
考案者は泉田さんといったかな。美術教員だったのか、課外教室の講師のような立場で附属中学に来ていたのかは知らないが、何年もの間、立体版画の年賀状が届いていた。
お袋も用具一式を購入し、年賀状は毎年その「立体版画」だった時代がある。
当時から、美術に対する興味や情熱はかなりのものだったのだろう。

B型のお袋は自由な生き方を愛し、当時の言葉で言えば「職業婦人」であることに大変な誇りを持っていた。
附属中学は国立だから、同じ公務員でも県の職員だった実父よりも給料がよかったという話も何度も聞かされたものだ。
実父は演歌が好きで、ギターの弾き語りはセミプロ並みだったらしい。でも、お袋は演歌を「下品なもの」としか見ていなくて、僕にはクラシック音楽を聴かせようとした。
そういうところも含め、お袋と実父は性格も趣味も合わず、僕が4歳くらいのときに離婚する。
当時、実父は出張先の新潟に愛人がいて、お袋はお袋で親父(養父)から言い寄られていて、離婚は時間の問題だったのだろう。
両親が離婚したときのことは少しだけ覚えている。
  1. お袋から「離婚してもいいか」と訊かれたので「いいよ」と即答した
  2. 仲のよかった飼い犬が実父と一緒に去って行くのが悲しくて、実父が出ていくトラックに向かって「クマ~ クマ~」と何度も犬の名前を呼びながら泣いた
  3. 通っていた幼稚園で、ある朝、園児全員の前で園長先生から「今日から添田くんは細野くんになります」と紹介された
この3つは特に記憶から消えないで残っている。

その後、お袋は今の親父と再婚(親父は初婚)し、2人で教師を辞めて上京した。

上京後、親父は学研の編集者として途中入社し、お袋は日本看護協会に事務職員として就職した。そこで、看護協会出身の女性代議士に見込まれ「私の後継者はあなただ」と言われたそうだ。
お袋もそれに応えて、ゆくゆくは代議士として政治の世界に入るつもりでいた。
しかし、物心ついたときからずっと鍵っ子だった僕は、毎日、長屋で1人留守番をしている生活に耐えられず、ある日、芝居を打った。
夜遅くなっても帰ってこない両親を待ち、台所の床の上で縮こまって寝たふりをしたのだ。
この姿を見れば親として少しは気持ちが揺らぐのではないか……と。
その夜、2人は一緒に帰ってきた。
「よしみつ、ここでお腹空かせたまま寝ちゃったのね」
「かわいそうに……」
……みたいな会話を、僕は寝たふりをしながら聞いていた。この頃から知能犯だったのだ。
作戦はまんまと成功した。
お袋はしばらくして日本看護協会を辞めた。
「あのときやめていなければ、今頃は政治家だった」という、半ば恨み言のような言葉を、僕は大人になってからも何度か聞かされた。

ところが、これでお袋が戻ってくると思ったら、そうはいかなかった。
お袋が妊娠したのだ。
妊娠したとき、お袋は僕に「やっぱりパパの子も生まないと、パパに悪いから」と言った。自分の連れ子だけを育てさせるのは気が引ける、ということだ。
ところが、親父のほうはそんな風には考えていなかったようで、自分の血を引いた娘が生まれても、あまり興味を示さず(赤ん坊というものにどう接していいか分からなかったようだ)、ひたすら会社人間として夜中まで働き続けていた。

妹の赤ん坊時代、我が家は地獄のようだった。
異常なまでにカンの強い赤ん坊で、一日中大声で泣き続ける。声が涸れ、ひきつけを起こしたように顔が紫色になっても泣き止まない。
ようやく寝たかと思うと、ほんのちょっとした物音で目を覚まして、途端にまた大声で泣き続ける。
おかげで、我が家ではテレビも音を出して見ることができず、イアホンアダプターというイアホンを3本分岐させてつなぐ器具を買って、イアホンでテレビを見ていた。
それでも、うっかりイアホンが引っこ抜けてテレビから音が出た途端にギャ~と泣き始める。途端にお袋が般若のような顔になって「何やっているの!」と僕に向かって怒鳴る。一家全員が極度の育児ストレスになって、暗い家庭になった。
こうした経験もあって、僕は、自分は絶対に子供は作らないと、小学生のときにすでに決めていた。(実際、そうした)

その地獄のような日々がようやく終わり、妹が泣かなくなった頃、お袋は今度は再就職ではなく、芸術の道へ進むと言い出した。
このまま専業主婦として一生を終えるなど考えられない。自分しかできないことを探して、一生それを追求する、というわけだ。
最初はリボンフラワーとかに手を出したりしていたが、すぐに先生を抜いてしまい「こんなものは一生かけてやるものじゃない」とやめて、その後に見つけたのが創作人形作家という道だった。
人間国宝の平田郷陽という人形師の作品に感銘を受け、平田氏が主宰する「陽門会」というグループの門を叩くが、平田氏がこれ以上、弟子は取らない方針だと知り、次に、陽門会のメンバーひとりひとりに弟子入り志願し、ようやく直弟子の一人・大谷鳩枝氏に弟子入りがかなった。

それからのお袋は、人形一筋だった。
大谷氏の下で10年、平田郷陽氏の秘伝である技法を一通り伝授され、マスターすると、大谷氏のもとを離れ、独立の道を探る。
最初は神奈川県展に応募したが落選。
入選作の展示を見て「あんな下手な作品が私の作品より上なはずはない」と、人形部門の審査員に直接電話をして「なぜ落ちたんでしょう」と問い質した。その勇気というか行動力はすごいなと思う。そういうところはまったく僕には遺伝しなかったのが残念だ。
お袋の気迫に押されたのか、審査員をしていた人形師は「あなたの作品は応募作の中ではいちばん優れていたけれど、私もやはりプロなので、自分の弟子たちを入選させてしまうのですよ。美術界というのはそういうものです」と、これまた正直に答えたそうだ。
それでもお袋は引き下がらない。「では、先生が所属しているグループに私も入れてください」と申し出て、しっかりその美術家グループに入会してしまった。
その会は日展系の会で、平田郷陽氏らの伝統工芸展グループとは対立、とまではいわないまでも、別系統だった。
お袋自身、人形に関しては日展よりも伝統工芸展のほうが格が上で、技術的にもすぐれた作家が集まっていると思っていたようだが、とにかくなんらかのグループに所属していなければ展覧会に入選できないのだから仕方がない、と割り切っていた。

お袋が人形作家をめざすきっかけは展覧会で平田郷陽氏の作品を見たことだが、今、ネットで「平田郷陽」を検索すると、平田氏の「生き人形」(生身の人間のようなリアルな人形)ばかりが出てくる。
平田氏は生き人形を作る人形師だった父親の後を継いだが、次第にアート志向になり、伝統的な木彫木目込み衣装人形の技法で「アートとしての創作人形」を追求するようになる。
お袋が感動したのはそうなってからの氏の作品だ。
「平田郷陽先生の若い頃の生き人形は、技術的にはすごくても、芸術とはいえない」
というようなことを、お袋はよく口にしていた。

日展に応募するようになってからのお袋は、自分が作る人形はどうあるべきかについて常に悩んでいた。
その時期の作品を撮った写真が少し残っていた↓



ほんとに悩んでいるなあ。
当時の作品を僕はいっぱい見ているけれど、一度も誉めたことはない。
「こういうのなら、彫刻やればいいじゃない」
「そもそもなぜ『人形』なの? 人形ってアートなの?」
というようなことを言って挑発していた。
そのたびにお袋は「そうねえ……」と言葉を濁していたように思う。
お袋の中でも「人形」とはなんなのか、という答えが明確には出ていなかったのだろう。

悩みながらも彼女は日展には毎年応募し続け、10年連続で入選も果たし、「日展会友」の資格も得た。
日展では伝統工芸的な人形は馴染まなかったので、「日展向けに」作っていた、ということもあるだろう。
その当時はバブル期とも重なり、お袋の人形は有名ホテルに100万円で買い上げられたりもした。
恩師である日野原重明氏を通じて、母校の聖路加看護大学にも1体「希望」という名の人形を贈っている。
聖路加看護大学の玄関ロビーでは、マントルピースとその上に「希望」と題した人形が来訪者を迎えています。(略)
マントルピースの上に飾られている人形は、昭和22年厚生科を卒業した鐸木能子(旧姓 細野)さんが本学の新校舎落成を祝い1998年(平成10)に贈呈して下さったものです。
鐸木さんは群馬県伊勢崎市の蝋燭問屋の生まれで、前学長 常葉惠子先生と同期生ですが、1965年以降人形作家になり日展会友、新工芸会員としてアーティスティックな創作人形を創る一方、伝統技法を生かした新しい気風の雛人形作家として活躍しました。
鳩を抱え、空を見上げている女性の人形像は、平和と希望を表現した作品で、伝統技法に加えた、鐸木さん独自の人形技法をみることができます。
Lukapedia: 聖路加看護大学 ともにつくる歴史事典 「由緒ある品々」より)

この頃の作品は写真を撮らずに売られていったため、今ではどんなものだったのか、僕の記憶も薄れてきている。
人形というよりは立体造形作品のようなものが多かった。そういうものに対して、僕はずっと疑問を抱いていた。
「こういうのを作るなら、木や石を彫り上げたもののほうがずっと力強いし、感動もある。粘土や布を使って作るようなものじゃないんじゃないか」と。
お袋は僕の酷評を否定はしなかった。そんなことは重々分かっている。でも、「大人の事情」があるから……ということだろう。
ただ、彼女の中での美意識や「芸術性」に対するセンス、理解力は揺るぎないものだった。
ダサい、つまらないと感じるものに対しては容赦なかった。その自信がどこからくるのかは分からない。
彼女の中では芸術的価値は100%自分の価値観で決まるものだった。
晩年、お袋を古殿町や棚倉町まで案内し、小林和平の狛犬を見せたが、手放しで興奮し、感動していた。
世に知られているかどうかは関係ない。いいものはいい。くだらないものはくだらない。自分の審美眼に適わないものは「全然ダメね」と、ズバッと切って捨てる。

そんなお袋が雛人形という活躍の場を見つけたきっかけは、所属するグループの先輩であった彫金の作家さんから言われた言葉だったそうだ。
「鐸木さんは人間国宝の平田郷陽さんの孫弟子でしょう? せっかく平田先生の秘伝技術を学んでいるんだから、それを生かさないのはもったいない。あなたは雛人形をやりなさい。雛人形はいいですよ。あれは食えるジャンルでもありますから」
そう言われたお袋は、平田郷陽氏の流れを汲んだ伝統工芸の技法で雛人形を作るという挑戦を始めた。

雛人形を作り始めた頃。髙島屋で展示できるようにもなった


それが成功し、お袋の雛人形を見て集まってきた弟子たちも抱え、「木の鐸会」というグループも作った。

雛人形は大きく分けると立ち雛と座り雛があり、立ち雛は木目込み、座り雛は衣装人形(衣装を着せた人形)が多い。
しかしお袋は自分が学んだ木彫木目込みの技法を座り雛にも取り入れようとした。
十二単の衣装を「着せる」のではなく、「木目込む」には手間と技術が必要になる。それまでは誰もそんなことはやっていなかった。
その技法は年々磨きがかかっていき、お袋もようやく「自分が築き上げた」と自信が持てる人形と向き合えるようになった。

1995年、神奈川新聞の記事(Clickで拡大)



木目込みで十二単の座り雛を作り始めた頃の作品

座り雛の十二単衣装を「着せる」のではなく「木目込む」ことに成功した



雛人形の歴史を振り返りながら、立ち雛にもいろいろなスタイルを取り入れようとした



雛人形を始めた頃は、10回入選すれば日展会友になれるから、ということで、日展への出品作だけは作っていたが、会友になった後は雛人形一筋になっていった。
晩年は、「今年のはいい出来よ。続けているとうまくなるものなのねえ」などと、嬉しそうに言っていた。

2007年5月。写真を撮ってくれと呼ばれたときのお袋
以下は↓そのときに撮ったもの。ほぼ遺作のようになってしまった








お袋は80になる直前、電話でこう言っていた。
「死ぬ前って、こんな気持ちなのね。でも、いい人生だったわ。そう思うでしょ?」

脳梗塞の兆候が現れて認知症状が顕著になり、脳卒中で倒れるのはそれからまもなくのことだった。

……とまあ、これがお袋の人生。

自己中心で、わがままで、周囲の人間を巻き込んで不幸にすることもあったけれど、死ぬまで好きなように生きたのだから、その点では幸せな人生だっただろう。
ただ、死に方は最悪だった。
こういう死に方だけはしてはいけない、させてはいけないということを身を持って教えてくれたお袋。
死んでだいぶ経つけれど、このページは僕なりの「ネット葬」かな。

今年も木の鐸会の雛人形が展示・販売されます
日本橋髙島屋美術工芸サロン(6F):2018年1月10日(水)~1月16日(火)
横浜髙島屋美術画廊(7F):2018年1月24日(水)~2月6日(火)
売れた作品は展示から消えていきますので、全作品が揃っている初日にどうぞ!
↑写真:木の鐸会代表・鐸木郁子の作品(日本橋髙島屋出展)



2つの白河の関2018/01/12 17:18

『白河二所の関』
お袋の出自、特に母方のほう(白河)を調べ直していて、この本『白河二所の関』を見つけたので購入してみた。
お袋が死んでしまった今となっては確認することができないのだが、お袋が生まれた細野家と境の明神にあった茶屋「南部屋」の主だった石井家とは親戚で、僕も子供の頃はお袋やお袋の長兄(僕にとっては伯父)夫妻に連れられて何度か明神にある石井家を訪ねたことがある。
そこには「ひろしおじさん」と呼ばれる博識な親戚がいて、境の明神こそが「白河の関」である、という論を張っていた。
中学生のとき、夏休みの宿題の1つとして、歴史にまつわる場所を訪ねて作文を書く、というのが出た。そのとき、お袋は張りきって「じゃあ、白河の関について書きなさい。明神のひろしおじさんのところを訪ねましょう」と、連れられていった。
そこで「ひろしおじさん」から直接講義を受けた。
  • 白河の関は2つある。
  • 今、国の指定史跡となっている旗宿の「白河関跡」は、大和朝廷時代に東北の蝦夷攻撃の拠点として作られた砦跡であって、江戸時代にはすでになかった。
  • 一遍上人絵伝などに出てくる「白河の関」は、奥州街道の関所として、関東と東北の境界にもうけられた「関所」であって、戦闘用の砦とは違うもの。
  • その意味での「白河の関」はここ境の明神であり、こここそが「白河の関」なのに、まったく無視されているのは無念である。
  • 境の明神には、福島と栃木の県境を挟んで2つの神社(下野側が住吉明神、陸奥側が玉津島明神)が並んでいる。そのため別名「二所の関」といって、相撲の二所ノ関部屋由来の地でもある。当の二所ノ関部屋関係者は誰一人そのことを分かっていないし、ここにお参りにも来ない。だから最近、あの部屋の力士たちは成績が悪いのだ。
……とまあ、そんな内容だった。

夏休みの宿題として僕が書いた「2つの白河の関」は、写真もたくさん貼り付けた大作だったが、歴史教師は中身を読まずにハンコだけ押して戻してきた。
実は、夏休み後の最初の授業のとき、「読書感想文ではなく、歴史的な名所旧跡などを訪ねて紀行文を書いた人は手を上げて」と言われたのだが、僕はなんとなく手を上げなかった。そのとき、手を上げた生徒の名前をメモしていたので、気にはなったのだが、きっとこれを読めばどれだけ頑張ったか分かるはずだと思って、敢えて名乗りを上げなかったのだ。原稿用紙数十枚に写真まで貼り付けた分量のものだから、読み落とすはずはない、と。
それがそのまま読んだ形跡もなく戻ってきたので、がっくりきたものだ。

……という話はさておき、お袋が生まれた細野家と石井家の関係を整理し直すと、
白河藩最後の藩主だった阿部正静(あべ まさきよ)は父親である幕府の老中・阿部正外(まさと)が兵庫開港要求事件で英仏蘭連合艦隊の要求を呑んだことを咎められて隠居処分となったために白河藩主を継ぐと同時に棚倉藩へ転封となった。
その正妻との間の娘が石井家に嫁ぎ、その娘が伊勢崎の蝋燭問屋に嫁いだ。それがお袋の母親・石井香……というような話だったと思うのだが、女系の系譜ゆえ、このへんのつながりは今となってははっきり確認できない。
とにかく、伊勢崎の蝋燭問屋がつぶれて、白坂に開拓農民として入った細野家の親戚筋が石井家だったことは確かだ。
で、僕が夏休みの宿題を書き上げるために講義を受けた「明神のひろしおじさん」こそが、上記の本の監修者となっている石井浩然氏らしい。
プロフィールからしてこれは間違いない。
1911年生まれというから、僕が会って話を聞いたとき(1968年くらい)は50代の終わりくらいだった。

そんな懐かしさもあって、この本を購入してみたのだが、内容的にはかなり拍子抜けしてしまった。
本の前半は著者かなやまじゅん氏の創作読み物になっているのだが、「仲良し3人の妖精たちの物語」とかなんとか……はぁ~?
後半には「監修」となっている石井浩然氏が書いた短い文章や、白河の関論争に関連した何人かの文章(司馬遼太郎や徳富蘇峰、齋藤庸一ら)の抜粋とそれに対するかなやま氏の解説が掲載されている。
後半部分が資料的に参考になったのでよかったが、最初のページを見たときは正直「買って失敗した!」と思ったのだった。

で、その後半部分を読んだことも含めて、今さらだが「白河の関論争」を僕なりにまとめてみると、以下のようなことだろうか。

  • 大和朝廷時代、坂上田村麻呂率いる東征軍が、東北蝦夷(縄文系原日本人)と向き合う戦略的拠点としての砦(関)を何か所かに作った。その1つが白河にあった(元祖?白河の関、古関)。
  • その「白河の関」は10世紀頃には存在意義が薄れ、12、13世紀にはすっかり消滅していた。
  • しかし、歌枕(和歌の題材にされた名所旧跡)として、和歌の世界では使われ続けた。
便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白河の関はこえぬと (平兼盛)

都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関 (能因法師)

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関 (源頼政)

秋風に草木の露を払はせて 君が越ゆれば関守もなし (梶原景季 ※「君」とは主君・源頼朝のこと)

平兼盛は991年没、能因法師は1050年没、頼政は1180年没、頼朝の奥州遠征は1189年。
この時代に、対蝦夷の砦として作られた白河の関は存在していたのだろうか?

文治3年(1187年)に死した奥州藤原三代秀衡が「ねんし(念珠関)、白河両関をば錦戸に防がせて、判官殿を疎(おろそか)になし奉るべからず」と遺言で語ったことが「義経記」に書かれており、このころ、白河の関はまだ健在だったようである。

また、浄土宗西山派の祖、証空上人(1177~1247)の詞書や歌から、上人が陸奥を訪れたとき(具体的な年代は不明)、白河の関は既に関の体裁を成していなかったと思われるので、廃絶の時期は、秀衡が死した1187年から上人が死した1247年の間と推定することができるだろう。
みちの国へまかりける時、関をこえて後、白河の関はいづくぞと尋ね侍りければ、過ぎぬる所こそかの関に侍れと蓮生法師申し侍りければ、光台の不見も思ひいだされて光台に見しはみしかはみざりしをききてぞ見つる白河の関 (証空上人「新千載和歌集」)
「芭蕉と白河の関」より)

……ということなので、どうやら、上の3首に読まれている「白河の関」が、存在自体はほぼ消えていたが場所としては分かっていた「元祖白河の関」(古関)のことなのか、それともすでにこの頃は奥州街道での往来が普通になっていたので、境の明神のことをさしているのか、微妙なところだ。
能因法師は関西の人で、白河の関を訪れたことはないらしい。だとすれば、完全に想像の世界でこの歌を詠んでいる。
つまり、この頃(11~12世紀)には、すでに白河の関は、実際の場所としてよりも、歌枕として有名になっていたのだ。


一遍聖絵(一遍上人絵伝)にも白河の関が出てくる。これは、1299年に描かれているので、元祖白河の関は完全に消滅した後だと思われるが、絵にはしっかりと街道が描かれている。
ということは、これは境の明神のことだろうか。
もっとも、この絵は実際の地形を写実したものではなく、想像で描いた部分が多そうだから、証明材料としては無理がある。

上は一遍聖絵に描かれた白河の関、下は現在の境の明神付近をGoogleマップの俯瞰写真で見たもの



こちらは国指定史跡である旗宿の「白河の関跡」。関は山の中にあって「越えていく」ことにはならない


8世紀に詠まれた平兼盛の歌にも、12世紀に頼朝に命じられて詠んだ梶原景季の歌にも、白河の関は「越える」と表現されている。
上の衛星写真を見れば分かるように、旗宿の「関」は道を見下ろす小山そのもので、敵を見張って襲うために作られたことがよく分かる。
蝦夷はゲリラ戦を得意としていたので、それに対抗するためにはこうした「砦」を構える必要があった。
しかし、蝦夷(原日本人)が大和朝廷(大陸からの渡来系)に完全に屈した後は、戦の仕方も変わっていった。それによって、砦ではなく、境界を越える道の要所を守るための関所、いざとなったらそこで敵の隊列を止める、あるいはスパイの出入りや武器の輸送をチェックするという役割での「関」が設けられた。
また、昔の人にとって、「境界線」は特別な存在だった。あの世とこの世の境界、魔界と日常世界の境界、領土の境界……。
ただでさえ都の人間にとって東北は「陸奥(みちのく)=道の奥」という未知の世界であり、その境界のシンボルとしての「白河の関」には、特別なイメージがあっただろう。
だからこそ、歌の世界ではずっと人気のある歌枕であり続けた。

春はただ花にもらせよ白河のせきとめずとも過ぎんものかは (道興准后=どうこうじゅごう)

この歌は室町時代の僧侶・道興(1430-1527年)が、文明18(1486)年から2年間かけて東国を回ったときに記した『廻国雑記』に出てくる。
この歌の前には、
(略)白河二所の関にいたりければ、幾本となく山桜咲き満ちて言葉も及びはべらず、しばらく花の陰に休みて、
とある。
ここにははっきりと「二所の関」と記されており、歌の中の「白河のせき」は、イメージとしての境界というよりも、境の明神のことを指していると思える。

境の明神と石井家

大和朝廷が作った対蝦夷用の砦である白河の関とは関係なく、関東と東北の境界にある二所の関明神は古くから多くの人が参拝する場所だった。旅人は道中の安全を願い、武将は戦捷祈願をし、文人は東国への思いを胸に参拝した。

八戸藩史稿によると、寛文4(1664)年徳川幕府の命令で、八戸藩を創設することになった南部直房と、その本家である盛岡藩主南部重信とが、両家相続のことではじめて幕府に呼ばれて江戸に上る途中、この白坂道を通り二所の境明神に詣り、その社前にあった石井七兵衛の家で休憩した。
そのとき、七兵衛の老妻がつくって出したあべかわ餅が大いに気に入って、その後、盛岡八戸両藩主は、江戸参観の折には必ずこの境明神前の石井氏宅に休憩し、あべかわ餅を賞味することを恒例とするようになった。
時代が移って石井氏宅では、老婆がいなくとも、若い娘が老婆のよそおいをして餅を献ずるというしきたりを続けたので、これを白河の「南部おばば」とまで呼ばれるようになった。
(略)
盛岡(南部)藩おかかえの関取・南部二所ノ関軍之丞が二所ノ関部屋の創始者であり、二所ノ関部屋名が、この白河二所の関明神と大いに関係があったことはうなずけるものがある。
(『ようこそまほろばみちのく 白河二所の関』 かなやまじゅん・著 の参考文献より、「二所の関の意味と白河の関 ──古関の関屋は白坂道か旗宿道か──」岩田孝三 『関趾と藩界』より抜粋収録)

ここに出てくる石井七兵衛は南部藩の家老だったが、陸奥国で産出した金を幕府へ供出する際に産出量をごまかしていたことが発覚し、その責任を家老だった七兵衛が一手に受けて浪人になった。
その際、藩主が石井家の離散消滅を不憫に思い、白坂明神前の土地を与えて、ここで茶屋を開けと計らったのが茶屋「南部屋」の始まりで、元和3(1617)年のことだという。

ちなみに、この話はお袋(鐸木能子)からも聞かされたことがある。お袋は「ひろしおじさん」からの受け売りで話していたわけだが……。
また、いろいろ調べていくと、境の明神にいわゆる「入鉄砲と出女」の検問をしていた「関所」があったかというと疑問だ。古くからあった南部屋を国境の関所に見立てて、石井家を「関守」と表現していたのかもしれない。
ただ、石井家には幕府との関連を示すものがいくつか残されていて、茶屋を装いながら隠密裏に情報収集や武器移送の監視をしていたのではないか、という話を聞いたことがある。今となっては確かめようがないが……。

芭蕉と白河の関

さて、江戸時代になると、歌枕としての「白河の関」は完全に一人歩きを始める。
有名な芭蕉の『奥の細道』には、こう記されている。
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
 卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良

「いかで都へと便求しも断也」というのは、平兼盛が詠んだ「便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白河の関はこえぬと」を指している。白河の関を越えたことの感慨をどのようにしたら都の人たちに伝えられるだろうか……という古人の思い。
「秋風を耳に残し、紅葉を俤にして」の秋風は能因法師の、紅葉は頼政の歌を引いているのだろう。
「風騒の人、心をとゞむ」は、古の詩人たちがみなこの関に心を寄せて歌を詠んだ、ということで、芭蕉がどれだけ気合いを入れて白河の関までたどり着いたかがうかがえる。
「古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ」については、
平安末の和歌百科全書とも言うべき藤原清輔の『袋草紙』にある、次の記事をもとにしている。

竹田大夫国行と云ふ者、陸奥に下向の時、白川の関過ぐる日は殊に裝束(さうぞ)きて、みづびんかくと云々。人問ひて云はく、「何等の故ぞや」。答へて云はく、「古曾部入道の『秋風ぞ吹く白川の関』とよまれたる所をば、いかで褻(け)なりにては過ぎん」と云々。殊勝の事なり。
国司として陸奥に下った藤原国行は、能因法師の名歌に敬意を表し、盛装して関を通過した、という。かつて蝦夷地との境界をなし、軍事上の要地であった白河の関は、平安中期にはもう関としての機能を殆ど持たなくなり、もっぱら「和歌の聖地」として名高い場所になっていたのである。能因を慕って陸奥を旅した西行もまた、この地で「秋風ぞ吹く」の歌を想起したことは言うまでもない。
「歌枕紀行 白河の關」より)

ということだ。

芭蕉にとってこれだけ思い入れの強い白河の関なのに、芭蕉自身は白河の関を詠むことなく、弟子の曽良の歌がサラッと書かれているだけ。
これはどうも、芭蕉ですら、歌枕として超有名になってしまった「白河の関」に翻弄され、実際に現地を訪れたときには、その場所がどこかも分からなくなって、拍子抜けしたということではないだろうか。
歌人たちにとっての「白河の関」は、みちのくというミステリーゾーンへの入り口、境界を表すシンボルであり、それを「越えて」向こう側の世界に入ることが一種ロマンチック、ドラマチック、アドベンチャラスな儀式だった。
ところが、実際に訪れてみると、歌枕としての白河の関がどこなのかがはっきりしない。
写実主義の芭蕉としては、想像の世界で句をでっち上げることはできない。もやもやして、とても句を詠む気になれなかったのかもしれない。

『奥の細道』で芭蕉が白河に入ったのは元禄2(1689)年だが、この時代にはもうすっかり「白河の関」は実体のないものになっていたわけだ。
(このへんのことは、「芭蕉と白河の関」に詳しく解説されている

白河楽翁と白河の関

松平定信が「こここそ白河の関だ」と、旗宿の地を認定したのは1800年のことだから、「奥の細道」からさらに100年以上後のことだ。
後に発掘調査で、どうやらそこが対蝦夷の砦としての「元祖白河の関」跡に違いないことは証明された。さすが、白河楽翁。
しかし、歌の世界でも、紀行文学などでも、白河の関は奥州への境界シンボル「越えていく」ものと認識されており、その意味では境の明神こそが「白河の関」だったので、ますます混乱することになった。

松平定信(白河楽翁)は、『退閑雑記』の中で、
白河の関は、いづ地にありや知らず、今の奥野の境、白坂宿に玉津島の明神の社あるを、古関のあとといふはひが事なり。

と書いている。
境の明神を古関の跡だというのは「僻事(間違い)」だとわざわざ断じているわけだ。
これに対してのかなやま氏の反論がとても興味深い。
私の全くの私見ですが、ひがみは松平侯にあったのではないかと推察します。参勤交代では南部の殿様も、仙台の殿様も白河城や白河宿を無視したかのように白坂の宿に隣接した明神を参拝し、仙台侯にあっては、南部屋を休み処として、参勤交代の度に五石という大量の千代餅を撒き、それ欲しさ、見たさに、三千人を超す人びとが参集したそうですから、その時の松平侯の心の内は穏やかではなかったはずです。
(『白河二所の関』)

松平定信が書いている「僻事」は単純に「間違い」という意味で、「ひがみ」という意味はないと思うが、和歌をたしなむ知識人として、歌枕の「白河の関」が境の明神であってたまるか、という思いは、確かにあったのかもしれない。

……とまあ、長くなったが、長い間続いている「白河の関論争」を僕なりにまとめてみると、以下のようなことになるだろうか。

  • 大和朝廷軍が作ったもともとの白河の関(古関)は12世紀くらいには消滅しており、江戸時代には、都や江戸の文化人にとっては、異世界ともいえる東北への入り口としてのシンボル、イメージの歌枕としてのみ存在し、一人歩きしていた。
  • この時点で、「白河の関」はもはや「高天原」や「鬼ヶ島」のような「伝承の地」になっていて、大和朝廷が作った古関とはあまり関係がなくなっていた、ともいえる。
  • 一方で、現実世界での「白河の関」としては境の明神が実際の「奥州への入り口」として機能していた。自らの足で奥州へ入っていった人たちや、奥州と江戸を行き来した東北の殿様たちにとっては、境の明神こそが「白河の関」だった。
  • しかし、古関としての白河の関は確かに旗宿の山一帯にあったし、そのことを松平定信はしっかり推定し、お墨付きも与えた。国も発掘調査をしてそれを追認した。
……そういうことだ。
だから、どちらが正しいという論争は意味がない。どちらも「白河の関」であり、どちらかが偽物だということではない。

ただし、旗宿の「白河の関跡」に街道の関所を模したような建物を作って、土塁の跡を指し「ここを殿様たちの大名行列が通ったんだ~」と説明するのは明らかな「間違い」だし、境の明神に大和朝廷が作った古関があったとするのも間違いだ。
そこはちゃんと「区別」しなければいけない。


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