『阿武隈裏日記』を改題しました。
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2つの白河の関2018/01/12 17:18

『白河二所の関』
お袋の出自、特に母方のほう(白河)を調べ直していて、この本『白河二所の関』を見つけたので購入してみた。
お袋が死んでしまった今となっては確認することができないのだが、お袋が生まれた細野家と境の明神にあった茶屋「南部屋」の主だった石井家とは親戚で、僕も子供の頃はお袋やお袋の長兄(僕にとっては伯父)夫妻に連れられて何度か明神にある石井家を訪ねたことがある。
そこには「ひろしおじさん」と呼ばれる博識な親戚がいて、境の明神こそが「白河の関」である、という論を張っていた。
中学生のとき、夏休みの宿題の1つとして、歴史にまつわる場所を訪ねて作文を書く、というのが出た。そのとき、お袋は張りきって「じゃあ、白河の関について書きなさい。明神のひろしおじさんのところを訪ねましょう」と、連れられていった。
そこで「ひろしおじさん」から直接講義を受けた。
  • 白河の関は2つある。
  • 今、国の指定史跡となっている旗宿の「白河関跡」は、大和朝廷時代に東北の蝦夷攻撃の拠点として作られた砦跡であって、江戸時代にはすでになかった。
  • 一遍上人絵伝などに出てくる「白河の関」は、奥州街道の関所として、関東と東北の境界にもうけられた「関所」であって、戦闘用の砦とは違うもの。
  • その意味での「白河の関」はここ境の明神であり、こここそが「白河の関」なのに、まったく無視されているのは無念である。
  • 境の明神には、福島と栃木の県境を挟んで2つの神社(下野側が住吉明神、陸奥側が玉津島明神)が並んでいる。そのため別名「二所の関」といって、相撲の二所ノ関部屋由来の地でもある。当の二所ノ関部屋関係者は誰一人そのことを分かっていないし、ここにお参りにも来ない。だから最近、あの部屋の力士たちは成績が悪いのだ。
……とまあ、そんな内容だった。

夏休みの宿題として僕が書いた「2つの白河の関」は、写真もたくさん貼り付けた大作だったが、歴史教師は中身を読まずにハンコだけ押して戻してきた。
実は、夏休み後の最初の授業のとき、「読書感想文ではなく、歴史的な名所旧跡などを訪ねて紀行文を書いた人は手を上げて」と言われたのだが、僕はなんとなく手を上げなかった。そのとき、手を上げた生徒の名前をメモしていたので、気にはなったのだが、きっとこれを読めばどれだけ頑張ったか分かるはずだと思って、敢えて名乗りを上げなかったのだ。原稿用紙数十枚に写真まで貼り付けた分量のものだから、読み落とすはずはない、と。
それがそのまま読んだ形跡もなく戻ってきたので、がっくりきたものだ。

……という話はさておき、お袋が生まれた細野家と石井家の関係を整理し直すと、
白河藩最後の藩主だった阿部正静(あべ まさきよ)は父親である幕府の老中・阿部正外(まさと)が兵庫開港要求事件で英仏蘭連合艦隊の要求を呑んだことを咎められて隠居処分となったために白河藩主を継ぐと同時に棚倉藩へ転封となった。
その正妻との間の娘が石井家に嫁ぎ、その娘が伊勢崎の蝋燭問屋に嫁いだ。それがお袋の母親・石井香……というような話だったと思うのだが、女系の系譜ゆえ、このへんのつながりは今となってははっきり確認できない。
とにかく、伊勢崎の蝋燭問屋がつぶれて、白坂に開拓農民として入った細野家の親戚筋が石井家だったことは確かだ。
で、僕が夏休みの宿題を書き上げるために講義を受けた「明神のひろしおじさん」こそが、上記の本の監修者となっている石井浩然氏らしい。
プロフィールからしてこれは間違いない。
1911年生まれというから、僕が会って話を聞いたとき(1968年くらい)は50代の終わりくらいだった。

そんな懐かしさもあって、この本を購入してみたのだが、内容的にはかなり拍子抜けしてしまった。
本の前半は著者かなやまじゅん氏の創作読み物になっているのだが、「仲良し3人の妖精たちの物語」とかなんとか……はぁ~?
後半には「監修」となっている石井浩然氏が書いた短い文章や、白河の関論争に関連した何人かの文章(司馬遼太郎や徳富蘇峰、齋藤庸一ら)の抜粋とそれに対するかなやま氏の解説が掲載されている。
後半部分が資料的に参考になったのでよかったが、最初のページを見たときは正直「買って失敗した!」と思ったのだった。

で、その後半部分を読んだことも含めて、今さらだが「白河の関論争」を僕なりにまとめてみると、以下のようなことだろうか。

  • 大和朝廷時代、坂上田村麻呂率いる東征軍が、東北蝦夷(縄文系原日本人)と向き合う戦略的拠点としての砦(関)を何か所かに作った。その1つが白河にあった(元祖?白河の関、古関)。
  • その「白河の関」は10世紀頃には存在意義が薄れ、12、13世紀にはすっかり消滅していた。
  • しかし、歌枕(和歌の題材にされた名所旧跡)として、和歌の世界では使われ続けた。
便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白河の関はこえぬと (平兼盛)

都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関 (能因法師)

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関 (源頼政)

秋風に草木の露を払はせて 君が越ゆれば関守もなし (梶原景季 ※「君」とは主君・源頼朝のこと)

平兼盛は991年没、能因法師は1050年没、頼政は1180年没、頼朝の奥州遠征は1189年。
この時代に、対蝦夷の砦として作られた白河の関は存在していたのだろうか?

文治3年(1187年)に死した奥州藤原三代秀衡が「ねんし(念珠関)、白河両関をば錦戸に防がせて、判官殿を疎(おろそか)になし奉るべからず」と遺言で語ったことが「義経記」に書かれており、このころ、白河の関はまだ健在だったようである。

また、浄土宗西山派の祖、証空上人(1177~1247)の詞書や歌から、上人が陸奥を訪れたとき(具体的な年代は不明)、白河の関は既に関の体裁を成していなかったと思われるので、廃絶の時期は、秀衡が死した1187年から上人が死した1247年の間と推定することができるだろう。
みちの国へまかりける時、関をこえて後、白河の関はいづくぞと尋ね侍りければ、過ぎぬる所こそかの関に侍れと蓮生法師申し侍りければ、光台の不見も思ひいだされて光台に見しはみしかはみざりしをききてぞ見つる白河の関 (証空上人「新千載和歌集」)
「芭蕉と白河の関」より)

……ということなので、どうやら、上の3首に読まれている「白河の関」が、存在自体はほぼ消えていたが場所としては分かっていた「元祖白河の関」(古関)のことなのか、それともすでにこの頃は奥州街道での往来が普通になっていたので、境の明神のことをさしているのか、微妙なところだ。
能因法師は関西の人で、白河の関を訪れたことはないらしい。だとすれば、完全に想像の世界でこの歌を詠んでいる。
つまり、この頃(11~12世紀)には、すでに白河の関は、実際の場所としてよりも、歌枕として有名になっていたのだ。


一遍聖絵(一遍上人絵伝)にも白河の関が出てくる。これは、1299年に描かれているので、元祖白河の関は完全に消滅した後だと思われるが、絵にはしっかりと街道が描かれている。
ということは、これは境の明神のことだろうか。
もっとも、この絵は実際の地形を写実したものではなく、想像で描いた部分が多そうだから、証明材料としては無理がある。

上は一遍聖絵に描かれた白河の関、下は現在の境の明神付近をGoogleマップの俯瞰写真で見たもの



こちらは国指定史跡である旗宿の「白河の関跡」。関は山の中にあって「越えていく」ことにはならない


8世紀に詠まれた平兼盛の歌にも、12世紀に頼朝に命じられて詠んだ梶原景季の歌にも、白河の関は「越える」と表現されている。
上の衛星写真を見れば分かるように、旗宿の「関」は道を見下ろす小山そのもので、敵を見張って襲うために作られたことがよく分かる。
蝦夷はゲリラ戦を得意としていたので、それに対抗するためにはこうした「砦」を構える必要があった。
しかし、蝦夷(原日本人)が大和朝廷(大陸からの渡来系)に完全に屈した後は、戦の仕方も変わっていった。それによって、砦ではなく、境界を越える道の要所を守るための関所、いざとなったらそこで敵の隊列を止める、あるいはスパイの出入りや武器の輸送をチェックするという役割での「関」が設けられた。
また、昔の人にとって、「境界線」は特別な存在だった。あの世とこの世の境界、魔界と日常世界の境界、領土の境界……。
ただでさえ都の人間にとって東北は「陸奥(みちのく)=道の奥」という未知の世界であり、その境界のシンボルとしての「白河の関」には、特別なイメージがあっただろう。
だからこそ、歌の世界ではずっと人気のある歌枕であり続けた。

春はただ花にもらせよ白河のせきとめずとも過ぎんものかは (道興准后=どうこうじゅごう)

この歌は室町時代の僧侶・道興(1430-1527年)が、文明18(1486)年から2年間かけて東国を回ったときに記した『廻国雑記』に出てくる。
この歌の前には、
(略)白河二所の関にいたりければ、幾本となく山桜咲き満ちて言葉も及びはべらず、しばらく花の陰に休みて、
とある。
ここにははっきりと「二所の関」と記されており、歌の中の「白河のせき」は、イメージとしての境界というよりも、境の明神のことを指していると思える。

境の明神と石井家

大和朝廷が作った対蝦夷用の砦である白河の関とは関係なく、関東と東北の境界にある二所の関明神は古くから多くの人が参拝する場所だった。旅人は道中の安全を願い、武将は戦捷祈願をし、文人は東国への思いを胸に参拝した。

八戸藩史稿によると、寛文4(1664)年徳川幕府の命令で、八戸藩を創設することになった南部直房と、その本家である盛岡藩主南部重信とが、両家相続のことではじめて幕府に呼ばれて江戸に上る途中、この白坂道を通り二所の境明神に詣り、その社前にあった石井七兵衛の家で休憩した。
そのとき、七兵衛の老妻がつくって出したあべかわ餅が大いに気に入って、その後、盛岡八戸両藩主は、江戸参観の折には必ずこの境明神前の石井氏宅に休憩し、あべかわ餅を賞味することを恒例とするようになった。
時代が移って石井氏宅では、老婆がいなくとも、若い娘が老婆のよそおいをして餅を献ずるというしきたりを続けたので、これを白河の「南部おばば」とまで呼ばれるようになった。
(略)
盛岡(南部)藩おかかえの関取・南部二所ノ関軍之丞が二所ノ関部屋の創始者であり、二所ノ関部屋名が、この白河二所の関明神と大いに関係があったことはうなずけるものがある。
(『ようこそまほろばみちのく 白河二所の関』 かなやまじゅん・著 の参考文献より、「二所の関の意味と白河の関 ──古関の関屋は白坂道か旗宿道か──」岩田孝三 『関趾と藩界』より抜粋収録)

ここに出てくる石井七兵衛は南部藩の家老だったが、陸奥国で産出した金を幕府へ供出する際に産出量をごまかしていたことが発覚し、その責任を家老だった七兵衛が一手に受けて浪人になった。
その際、藩主が石井家の離散消滅を不憫に思い、白坂明神前の土地を与えて、ここで茶屋を開けと計らったのが茶屋「南部屋」の始まりで、元和3(1617)年のことだという。

ちなみに、この話はお袋(鐸木能子)からも聞かされたことがある。お袋は「ひろしおじさん」からの受け売りで話していたわけだが……。
また、いろいろ調べていくと、境の明神にいわゆる「入鉄砲と出女」の検問をしていた「関所」があったかというと疑問だ。古くからあった南部屋を国境の関所に見立てて、石井家を「関守」と表現していたのかもしれない。
ただ、石井家には幕府との関連を示すものがいくつか残されていて、茶屋を装いながら隠密裏に情報収集や武器移送の監視をしていたのではないか、という話を聞いたことがある。今となっては確かめようがないが……。

芭蕉と白河の関

さて、江戸時代になると、歌枕としての「白河の関」は完全に一人歩きを始める。
有名な芭蕉の『奥の細道』には、こう記されている。
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
 卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良

「いかで都へと便求しも断也」というのは、平兼盛が詠んだ「便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白河の関はこえぬと」を指している。白河の関を越えたことの感慨をどのようにしたら都の人たちに伝えられるだろうか……という古人の思い。
「秋風を耳に残し、紅葉を俤にして」の秋風は能因法師の、紅葉は頼政の歌を引いているのだろう。
「風騒の人、心をとゞむ」は、古の詩人たちがみなこの関に心を寄せて歌を詠んだ、ということで、芭蕉がどれだけ気合いを入れて白河の関までたどり着いたかがうかがえる。
「古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ」については、
平安末の和歌百科全書とも言うべき藤原清輔の『袋草紙』にある、次の記事をもとにしている。

竹田大夫国行と云ふ者、陸奥に下向の時、白川の関過ぐる日は殊に裝束(さうぞ)きて、みづびんかくと云々。人問ひて云はく、「何等の故ぞや」。答へて云はく、「古曾部入道の『秋風ぞ吹く白川の関』とよまれたる所をば、いかで褻(け)なりにては過ぎん」と云々。殊勝の事なり。
国司として陸奥に下った藤原国行は、能因法師の名歌に敬意を表し、盛装して関を通過した、という。かつて蝦夷地との境界をなし、軍事上の要地であった白河の関は、平安中期にはもう関としての機能を殆ど持たなくなり、もっぱら「和歌の聖地」として名高い場所になっていたのである。能因を慕って陸奥を旅した西行もまた、この地で「秋風ぞ吹く」の歌を想起したことは言うまでもない。
「歌枕紀行 白河の關」より)

ということだ。

芭蕉にとってこれだけ思い入れの強い白河の関なのに、芭蕉自身は白河の関を詠むことなく、弟子の曽良の歌がサラッと書かれているだけ。
これはどうも、芭蕉ですら、歌枕として超有名になってしまった「白河の関」に翻弄され、実際に現地を訪れたときには、その場所がどこかも分からなくなって、拍子抜けしたということではないだろうか。
歌人たちにとっての「白河の関」は、みちのくというミステリーゾーンへの入り口、境界を表すシンボルであり、それを「越えて」向こう側の世界に入ることが一種ロマンチック、ドラマチック、アドベンチャラスな儀式だった。
ところが、実際に訪れてみると、歌枕としての白河の関がどこなのかがはっきりしない。
写実主義の芭蕉としては、想像の世界で句をでっち上げることはできない。もやもやして、とても句を詠む気になれなかったのかもしれない。

『奥の細道』で芭蕉が白河に入ったのは元禄2(1689)年だが、この時代にはもうすっかり「白河の関」は実体のないものになっていたわけだ。
(このへんのことは、「芭蕉と白河の関」に詳しく解説されている

白河楽翁と白河の関

松平定信が「こここそ白河の関だ」と、旗宿の地を認定したのは1800年のことだから、「奥の細道」からさらに100年以上後のことだ。
後に発掘調査で、どうやらそこが対蝦夷の砦としての「元祖白河の関」跡に違いないことは証明された。さすが、白河楽翁。
しかし、歌の世界でも、紀行文学などでも、白河の関は奥州への境界シンボル「越えていく」ものと認識されており、その意味では境の明神こそが「白河の関」だったので、ますます混乱することになった。

松平定信(白河楽翁)は、『退閑雑記』の中で、
白河の関は、いづ地にありや知らず、今の奥野の境、白坂宿に玉津島の明神の社あるを、古関のあとといふはひが事なり。

と書いている。
境の明神を古関の跡だというのは「僻事(間違い)」だとわざわざ断じているわけだ。
これに対してのかなやま氏の反論がとても興味深い。
私の全くの私見ですが、ひがみは松平侯にあったのではないかと推察します。参勤交代では南部の殿様も、仙台の殿様も白河城や白河宿を無視したかのように白坂の宿に隣接した明神を参拝し、仙台侯にあっては、南部屋を休み処として、参勤交代の度に五石という大量の千代餅を撒き、それ欲しさ、見たさに、三千人を超す人びとが参集したそうですから、その時の松平侯の心の内は穏やかではなかったはずです。
(『白河二所の関』)

松平定信が書いている「僻事」は単純に「間違い」という意味で、「ひがみ」という意味はないと思うが、和歌をたしなむ知識人として、歌枕の「白河の関」が境の明神であってたまるか、という思いは、確かにあったのかもしれない。

……とまあ、長くなったが、長い間続いている「白河の関論争」を僕なりにまとめてみると、以下のようなことになるだろうか。

  • 大和朝廷軍が作ったもともとの白河の関(古関)は12世紀くらいには消滅しており、江戸時代には、都や江戸の文化人にとっては、異世界ともいえる東北への入り口としてのシンボル、イメージの歌枕としてのみ存在し、一人歩きしていた。
  • この時点で、「白河の関」はもはや「高天原」や「鬼ヶ島」のような「伝承の地」になっていて、大和朝廷が作った古関とはあまり関係がなくなっていた、ともいえる。
  • 一方で、現実世界での「白河の関」としては境の明神が実際の「奥州への入り口」として機能していた。自らの足で奥州へ入っていった人たちや、奥州と江戸を行き来した東北の殿様たちにとっては、境の明神こそが「白河の関」だった。
  • しかし、古関としての白河の関は確かに旗宿の山一帯にあったし、そのことを松平定信はしっかり推定し、お墨付きも与えた。国も発掘調査をしてそれを追認した。
……そういうことだ。
だから、どちらが正しいという論争は意味がない。どちらも「白河の関」であり、どちらかが偽物だということではない。

ただし、旗宿の「白河の関跡」に街道の関所を模したような建物を作って、土塁の跡を指し「ここを殿様たちの大名行列が通ったんだ~」と説明するのは明らかな「間違い」だし、境の明神に大和朝廷が作った古関があったとするのも間違いだ。
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