めいどの土産の赤い月2018/02/02 21:53

2018/01/31 日光より

廃仏毀釈のことを調べているうちに、明治維新っていうのは跳ね上がりの若造たちによるとんでもないテロだったんじゃないか、というような話を読み始めることになり、ふむふむ……と読んでいるところに、母親の介護で実家に行っている助手さんからメールが入った。

皆既月食始まってるよ。逗子は快晴

ん? 天気予報ではくもりで見えなそうということだったけど、見えてるのか?
窓から見たが見えない。バルコニーに出ると、少し欠けた月が煌々と輝いていた。

21時05分。外に出て空を見たら、すでに欠け始めていた

じゃあ、写真撮っておくか……とFZ1000を持ち出したら電池切れ。あれやこれややっているうちに身体が冷え切って耐えられない。
何度も部屋の中と往復しながら撮ってみた。
せめてAPS-Cサイズのα6000で撮ればいいのだろうが、望遠レンズがないから、とっかえひっかえやるだけの気力がない。なにしろ寒い。

でも、凍えながら撮ったので、ここにまとめておきますね。(大きな画面で見ている人は、各写真をClickすると拡大します)

21時15分。ゆっくりと欠けていく。こんなに時間かかるんだっけ?



35mm相当で撮る。まだ月が明るすぎて、回りの星はほとんど写らない



21時23分。800mm相当。F4、1/1600秒、ISO 125。なんか普通の月の写真になってしまうな



21時28分。回りの星を写し込もうとすると、月の欠けが分からなくなってしまう。まだまだ普通の月



21時42分。だいぶ感じが変わってきた。欠けた部分がぼんやり見えているが、明暗差がありすぎて、欠けてない部分のクレーターは写し込めない



21時47分。欠けた部分がはっきり見えてくる。なるほど赤い



21時48分。月の明るさが落ちてきたので、周囲の星も見えてきた



21時49分。もうすぐ完全に隠れる。これは見たことのない月だわ



21時49分。なんとか地上の風景も写し込めないかと踏ん張る。コンパクト機のXZ-10で撮ってみた。F1.8、1/2秒、5mm(26mm相当)



21時54分



21時56分。周囲の星が一緒に見えているという、この夜空の感じがすごかった



21時57分。絵みたいだねえ



22時42分。寒くて部屋に入っていたけれど、風呂に入る前にもう一度……と思って外に出たら、まだ赤いままだった



生きているうちに、こんなのをもう一度見られるだろうか? これはもう、冥土の土産レベルの風景だったかもしれないねえ。



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死ぬ夢は見ても殺される夢は見ない2018/02/02 22:14

雪明かり
先日、夜中に久しぶりに「死ぬ夢」を見た。
どういう状況で死ぬのか、思い出せないのだが、何か黒くて四角い巨大なアイコンというかスイッチのようなものが目の前にあって(垂直ではなく、地面の上に置いてあるような感じ……そのへんはっきりしない)、そこに乗るだか触れるだかした瞬間、あ! これで死ぬんだ! とはっきり分かり、思わず軽い悲鳴を上げて目がさめた。
毎晩、寝るときには「このまま目がさめなければいいかもしれない。そんな死に方ができたら最高だ」と思いながら、す~っと眠りに落ちるのだが、寝ている最中はまだまだ死への恐怖、生への執着があるのだと実感した一瞬だった。

心身ともに疲れて、ああ、睡い、身体が重い、このまます~っと死ぬならそれでいい……と思うような死に方ならいいのだが、気持ちが伴わないままで、突然死を突きつけられるのはやはり怖いのだな。

しかし、考えてみると、「死ぬ夢」は見ても、「殺される夢」というのは見た記憶がない。見ているのかもしれないが、覚えてない。銃で撃たれたり、ナイフで刺されたり、刀で斬られたり……そういう夢は見たことがない(と思う)。それだけ平和な時代に生きているということだろうか。
これが戦国時代や戦時中なら、絶対に「殺される夢」を見るのではないだろうか。

たまに見る死ぬ夢のうち、いちばん多いのは高いところから落ちるというもの。あ、ここから落ちたら絶対に助からない。あと1秒か2秒で死ぬのだ……と思って、恐怖のうちに目がさめる、というパターン。
死ぬ準備ができていないままの死は怖い。

目がさめてから思った。
まだ生きる気満々じゃん、俺って。やることはいっぱいある。それを人から評価されるかどうかはどうでもいい。自分の価値観に従って生きられるだけでも、奇跡のような幸運、幸福ではないか……と。



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ホリエモン、籠池夫妻、貴乃花の共通点と相違点2018/02/06 14:30

12年前の戌年の今頃、メディアはホリエモン逮捕のニュースで埋め尽くされていた。ワイドショーは連日そのことを大きく取り上げて、人びとは嫌でも彼の顔を見せられた。
そのときAIC(朝日新聞デジタル版のコラム)に書いたものが⇒ここに残っていたので読んでみた。
一部抜粋してみる。
今回の逮捕につながった直接の違法行為は、主に「粉飾決算」と「風説の流布」ということらしい。
粉飾決算というのは、まずいことになっている実態をごまかして、大丈夫ですよ、心配いりませんよと思い込ませるために嘘をつくことである。
例えば、国民年金を破綻させた社会保険庁がさんざんやってきたこともこの類のことであろう。
風説の流布というのは、自分の都合のいいように嘘の情報を流して世の中の流れをミスリードすること。アメリカ政府がやった「イラクには大量破壊兵器が……」という嘘情報などはまさにそれだろう。
「気持ち悪さの正体」 2006年1月31日にAICに掲載)
どう考えてもおかしいよな、と分かっていても、相手が大きすぎると、自分の日々の生活には関係のない話のように感じて、いちいちムキになって反応しない……これは仕方のないことかもしれない。
で、このコラムではこう続く。
昔から「ひとり殺せば殺人犯だが、千人殺せば英雄」という言葉がある。
ホリエモン逮捕のニュースと、それを報道する姿勢に対して我々が抱く気持ちの悪さの正体は、そこにあるような気がする。
つまり、「小物がスケープゴートにされた」ことをみんな内心では感じているのだが、日頃の鬱憤を晴らすために、ついつい「そらみたことか」「真面目に生きなきゃダメだよ」と反応してしまう。今のホリエモンは、ガス抜きの「安全弁」なのだ。

もっともっと巨大数のインチキ、大規模で悪質な嘘を操る力には所詮逆らえない
嘘のうまい大統領や総理大臣は、そのことで罪を問われることはない。
国民から強制的に集めた金を滅茶苦茶に運用し、とんでもない損失を出した役人のトップもまた、そのことで罪に問われることはなく、死ぬまで使い切れないような巨額の退職金をもらって老後を暮らしている。
この国には、そこにズバッと切り込むメディアも存在しない。これから先も、期待できない。
だから、せいぜいホリエモン逮捕で憂さを晴らしておく。そんな自分の矮小さを、みんな心のどこかでは分かっている。
「やっぱりね」「遅すぎたよね」「こんなことが許されていいはずがないよね」などと言いながらも、いまひとつカタルシスを得られない理由はそこにある。

二宮清純氏がこう言っていた。
「ホリエモンは、すべての人の心の中に存在している負の姿。彼を見ていると、見たくない自分自身の嫌な部分を見せつけられているようで、気持ちが悪くなる」
まさにその通りだろう。
ざまあ見ろ、と言えば言うほど、じゃあ自分はどうなの、という心の声が聞こえてくる。

あれから時が一回り。12年後の今はどうだろう。
テレビをつければ相撲協会の不祥事と貴乃花の理事選落選なんて話に異常な時間を使って垂れ流している。ホリエモンと貴乃花ではまったく性格は違うが、人びとに一種のガス抜きショーを与えるスケープゴートにされている点では似ている。
その意味では籠池夫妻も同じ役割をしていた。
常人とは違う特異なキャラクターの持ち主が、倫理観をなくした権威集団、利権集団に刃向かった末につぶされる図を見て面白がる。
でも、そのドラマは鞍馬天狗や水戸黄門や仮面ライダーみたいなシンプルな構造ではない。
下世話な興味で見てしまうが、どう展開したところでカタルシスは得られない。

「これだけテレビが食らいついてアンチキャンペーンを張るということは、相撲協会には強力な安倍友がいないということだ」という卓見を聞いた。
なるほど。
ホリエモンにも政権内に友達はいなかった。籠池夫妻は途中から切り捨てられ、今は危険な邪魔者として留置所に異常な長期間拘留されている。ちなみに貴乃花親方が
「国家安泰を目指す角界でなくてはならず“角道の精華”陛下のお言葉をこの胸に国体を担う団体として組織の役割を明確にして参ります」(AERA dot.「貴乃花親方が池口恵観氏にあてたメール全文」より)
などと書いた手紙を送った相手である池口恵観氏は、安倍晋三はじめ多くの政治家と親交があることから「永田町の怪僧」と呼ばれているそうだ。
貴乃花と安倍官邸は直接のつながりはないかもしれないが、共通のお友達(師匠?)はいるということなのだろうか。
さらには、貴乃花親方が理事選で二票しかとれずに落選した直後、笑顔で節分の豆まきをする姿がテレビに映し出されていたが、あの豆まきをしていた場所は宇治市の龍神総宮社という宗教法人だ。
「龍神総宮社は、天のご使命を持って御誕生された辻本源冶郎祭主先生により、作られた宗教法人です。平成6年3月に祭主先生が天上界に御帰魂された後も、その御尊志は御長子である辻本公俊 祭主先生に継承され、祭事が執り行われております。」(同社WEBサイトでの紹介文)

その少し前は、弟子の貴公俊が十両昇進を決め、一足早く十両になっている貴源治とともに「史上初の双子関取」が誕生したことも報じられたが、この二人の四股名は、先の龍神総宮社の紹介文にも書かれているように、同社の創始者と現祭主の名前からとっている。
貴乃花は昔から霊能者だの占い師だの教祖だのといった人たちへの傾倒が激しく、右傾化、カルト化しやすいことでいろいろ話題を提供してきたが、その危うさは今も変わらない。
その点で、単純なお金信奉者のホリエモンの時よりも全体の関係図が少し複雑になって、モヤモヤ感が増してはいる。
ともあれ、「安倍友パワー」がないらしい相撲協会でさえ、結局は守旧派温存、誰も責任を取らないで済んでしまうということが分かって、ドラマを見させられていた国民はますます白けてしまった。

思えば、ロッキード事件とかハチの一刺しの頃は、政界ドラマも派手だった。
今は、籠池夫妻のような格好のテレビ向きトリックスターが出てきても、存分に活躍?させることなく、ちょろちょろと水をかけて消火してしまう。
どれだけまずい証拠が出てきても政権は安泰。逮捕状が出ている容疑者を逮捕寸前に上からの命令でもみ消す。
誰の目にも「悪」「不正」「不条理」であると映ることが、大した知恵も実行力もない権力機構に取り込まれ、かき混ぜられ、薄められ、なんとなくうやむやのままになっていく。そんな国であることを、国民が選んでいる。
その貧乏くささや張りのなさが、今の弱った日本の姿そのものなのだなあと思うと、どうしても気が滅入るのだよなあ。



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靖国神社の「狛犬」と脚気と「舞姫事件」2018/02/12 19:24

靖国神社の中国獅子。大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成が三学寺に奉納したもの
狛犬を見続けていると、江戸期の狛犬は結構残っているのに、明治になった途端、パタッと狛犬が建立されていないことに気がつく。再び奉納されるようになるのは明治20年代くらいからだ。明治一桁代建立の狛犬というのはほとんどない。あったとしても、江戸期の狛犬をへたくそに模したようなものが多く、銘品と呼べる力作や新種の狛犬はまず出てこない。

拙著『神の鑿』の最後には利平・寅吉・和平の年譜も載せてあるが、それを見ても、
慶應元(1865)年 沢井八幡神社の狛犬 利平61歳? 寅吉21歳 願主石工菅田庄七

明治20(1887)年 関和神社(白河市)の狛犬(銘なし)寅吉43歳
↑この間、20年以上、作品の記録が空白なのだ。
明治初期、廃仏毀釈を皮切りにして、いかに庶民文化がつぶされ、停滞したかを物語っているかのようだ。

そこで、改めて「明治維新」前後の歴史をおさらいしているところだ。

森鴎外と脚気

その作業をしていて、ひょんなことから森鴎外(森林太郎)が陸軍兵士数万人の死に関係していたと知った。

ネット上にもたくさんの関連記事があるが、中でも、⇒これなどはとてもよくまとまっているのでご一読を。
 陸軍が嘱望する若き軍医森林太郎は、日清・日露の戦争を控え、兵士の健康を維持する大役を担った。そして当時の軍隊において最大の健康問題が脚気流行である。

 全陸軍の疾病統計調査は明治8年から始まるが、明治9年には兵員千人に対し脚気新患者108人、17年には263人、つまり4人に一人がこの病気にかかっている。そして致死率は約2~6%だった。しかし、戦時には、これらの数字が跳ね上がる。
(略)

明治27~28年の日清戦役では、陸軍の戦死者がわずか977人にたいし、傷病患者約28万人、患者死亡約2万人であり、脚気患者は約4万人という奇妙な現象が起こる。前代未聞の脚気大流行であるのに、陸軍首脳はまだ懲りなかった。海軍には軽症脚気は認められたが重症例の多発はなかった。

 明治37~38年の日露戦争では、陸軍の戦死者約4万6千人、傷病者35万人であり、そのうち脚気患者25万人という驚くべき数字になる。しかも、戦病死者3万7千人中、脚気による死者が約2万8千名に登った。

 日清・日露戦役での大惨事を起こした陸軍脚気対策に、森林太郎の誤りが深く関っていた事実は、東京大学医学部衛生学教授山本俊一が、1981年初めて、学会誌「公衆衛生」において指摘した。両戦役からすでに一世紀近い月日が経っていた。
(医療法人和楽会 フクロウblog 大井玄先生のコーナー 「病と詩(11) 軍医森林太郎と脚気」 より)

日清・日露戦争において、直接の戦死者よりも脚気で死んだ兵士のほうが多かったというのは、学校で学ぶ日本史には出てこないと思う。
上記のブログやWikiの詳しい解説などをもとにまとめてみると、
  • 全陸軍の疾病統計調査(明治8(1875)年開始)によれば、明治17(1884)年には4人に1人以上が脚気にかかり、致死率は約2~6%だった
  • 海軍医務局長・高木兼寛は、イギリス留学中にヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主とする兵食に原因があるのではと推論し、周囲の猛反対、猛反論を押し切って明治18(1885)年以降、海軍の兵食をタンパク質の多い麦飯に切り替えた結果、海軍での脚気発症をほぼ根絶させた。
  • 一方、陸軍では、陸軍一等軍医森林太郎(森鴎外)が明治18(1885)年にライプチヒで執筆した論説「日本兵食論大意」を根拠に、陸軍軍医総監・石黒忠悳らは「脚気伝染病説」を信じており、白米を基本とした兵食を変えてはならないと主張した。
  • 明治21(1888)年に帰国した森は、講演「非日本食論ハ将二其根拠ヲ失ハントス」で、高木兼寛を「英吉利流の偏屈学者」と呼び、非難する。また、米食、麦食、洋食を食べさせる比較試験の結果、「カロリー値、蛋白補給能、体内活性度」のすべてで米食が最優秀という結果が得られたとして、陸軍兵食の正当性を主張した。
  • 結果、日清戦争(その後の乙未戦争も含む)における陸軍の脚気患者は4万1,431人、脚気による死亡者4,064人という惨事を引き起こした。(『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』)
  • さらに、日露戦争では、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であったにも関わらず、大本営陸軍部が「勅令」として白米食を指示したため、戦地で25万人強の脚気患者が発生。戦地入院患者25万1,185人のうち脚気が11万0,751人 (44.1%)で、入院脚気患者2万7,468人が死亡した。(陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計)

……というようなことだったらしい。
森林太郎(鴎外)が主張した「米食が最優秀」説の罪がいかに大きいかが分かる。
海軍では麦飯に切り替えて脚気が激減したという明らかな結果が得られているにもかかわらず、日清戦争の10年後の日露戦争時にさえ改善できず、何万という死者を出しているのだ。

石黒忠悳と靖国神社の「狛犬」

ところで、森の論文や主張に流される形で陸軍内に脚気を蔓延させた石黒忠悳軍医総監は、僕の中では「靖国神社の中国獅子」にまつわる裏話に登場して初めて名前を目にした人物だ。
その内容は⇒ここに詳しく書いているが、簡単にまとめると、
  • 日清戦争(1894-95年)の最中、海城の三学寺が日本軍の野戦病院にあてられていた。
  • そこの総責任者であった石黒忠悳軍医総監が、戦が終結して帰国していた明治28(1895)年、軍司令官の山縣有朋を訪ねたおり、三学寺にあった獅子像が「古奇愛すべき」ものであったと語った。
  • それを聞いた山縣が、そんなにいいものならぜひ日本に持ってきて「陛下の叡覧に供して大御心の程を慰め奉りたい」ということになった。
  • そこで石黒は、満州に留まっていた奥保鞏(やすかた)中将(後の元帥)に連絡を取り、寺より譲り受けて日本に運ぶように依頼した。
  • 奥中将は、白くて大きな獅子一対と、青みがかった一体(これは対になっていない)を選んで日本に運んだ。
  • 日本に運び込まれた3体の中国獅子を山縣が明治天皇に献上したところ、天皇は喜んだ様子で、白い石の一対は靖国神社に、青い一体は山縣に与えた。
  • というわけで、白くて大きな一対は現在も靖国神社にあり、青色の一体は栃木県矢板市にある山縣有朋記念館の敷地内に置かれている

靖国神社にある中国獅子を、ほとんどの参拝客は「変わった狛犬だねえ」と見上げるが、あれはそもそも「狛犬」ではない。大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成という人物が三学寺に奉納した獅子像なのだ。

『舞姫』の記憶

僕にとって、石黒忠悳軍医総監は「靖国神社の中国獅子」だが、森鴎外といえば『舞姫』くらいしか記憶にない。
『舞姫』は高校の国語の教科書に載っていて、じっくり、1行1行読解させられた。
当時の国語担当は臼井先生といって、相当変わったキャラクターの教師だった。
感情の起伏が激しく、機嫌のいいときはニコニコしながら好きな谷崎潤一郎論などを延々と喋り続けるが、機嫌が悪いと「チッ! こんな問題もできないのか。馬鹿ばっかりだなこのクラスは。もういい、帰る」と言い放ち、さっさと教室を出て行く。
そんなわけで、生徒からの評判はすこぶる悪かったのだが、僕は彼の授業は決して嫌いではなかった。
『舞姫』を題材にした授業では今でも印象に残っているシーンがある。

臼井先生「このページの中に、豊太郎とエリスがすでに性交渉をしたと分かる一文がある。それはどこか。分かる人」

こういうとき、誰も手を挙げないと先生の機嫌がどんどん悪くなるのを知っている生徒たちは、必死で答えを探す。
何人かが答えて、その度に「違う!」「馬鹿!」などとはねつけられた末に、クラスでいちばん元気のよかった平岡くんが恐る恐る手を挙げた。
  • 「うん、平岡!」
  • 「はい! 『鬢の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる腦髓を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何にせむ』……のところだと思います」
  • 「もっと絞って」
  • 「鬢の毛の解けてかゝりたる……」
  • 「そう! そうだね! 『鬢の毛の解けてかかりたる』というのは、もうこの二人の間に男と女の関係ができたということを暗示しているんだね! さすがは鴎外。そのへんの三文小説家なら、性描写に3ページくらい割くところを、鴎外は『鬢の毛の解けてかかりたる』という、これだけで伝えているんだな」

生徒たちは半ばポカ~ンとその解説を聞いていた。僕も、この『鬢の毛の解けてかかりたる』がどれくらいすごいのか、今でもよく分からないのだが、平岡くんが他の生徒より早熟だったことは確かだろう。

『舞姫』のエリスが Elise Marie Caroline Wiegert (エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト 1866年~1953年)という実在の女性をモデルにしていて、主人公の豊太郎は鴎外自身がモデルであろう、ということは、今では周知されている。
鴎外は4年間のドイツ留学時代に、エリーゼと恋仲になったが、別れて帰国した。その直後に、エリーゼは鴎外を追って日本まで来たが、ひと月あまり後にまたドイツに戻っている。
鴎外の東大医学部時代の同期生・小池正直は、後に陸軍軍医総監石黒忠悳に宛てた手紙(明治22(1889)年4月16日付)の中で、
兼而小生ヨリヤカマシク申遣候伯林賤女之一件ハ能ク吾言ヲ容レ今回愈手切ニ被致度候是ニテ一安心御座候。
(私がしっかり言いきかせましたので、この「ベルリン賤女」の一件は、今度こそ手切れになると思います。どうぞご安心を)
と書いている
これはエリーゼが帰国したときのことをいっているのだろう。
年譜にすると、
  • 明治17(1884)年 鴎外、ドイツに留学
  • 明治21(1888)年 9月8日、ドイツより帰国。
  •          9月12日、エリーゼが鴎外の後を追って来日。
  •          9月18日、赤松登志子と婚約。
  •          10月17日、エリーゼが帰国。
  • 明治22(1889)年 2月 赤松登志子と結婚
  • 明治23(1890)年 民友社社長の徳富蘇峰の依頼により『舞姫』を執筆。1月『国民之友』付録として発表。
  •          9月、長男於菟(おと)誕生。
  •          11月27日、登志子と離婚。
  • 明治35(1902)年 荒木志げと再婚。
  • 明治36(1903)年 長女・茉莉(まり)誕生。
  • 1909年 次女・杏奴(あんぬ)誕生。

……という経過で、この間のエリーゼ来日から登志子との離婚あたりの一連のゴタゴタが「舞姫事件」「エリス事件」などと呼ばれている。
で、改めてこれを「日本の脚気史」「靖国神社の中国獅子」と重ねて見ると、
  • 明治17(1884)年 1月、海軍軍医・高木兼寛の意見などで海軍で洋食への切り替えが図られ、脚気新患者数、発生率、および死亡数が明治16(1883)年には1,236人、23.1%、49人だったものが、1884年には、718人、12.7%、8人。1885年には41人、0.6%、0人と激減した。
      同年、森林太郎(鴎外)がドイツに留学。
  • 明治18(1885)年 鴎外、ライプチヒで「日本兵食論大意」を執筆し、日本式白米食の優越性を強調。陸軍の白米主義の根拠となる。
  • 明治21(1888)年 鴎外ドイツより帰国。エリーゼが鴎外の後を追って来日し「エリス事件」に。
  • 明治22(1889)年 赤松登志子と結婚
  • 明治23(1890)年 『舞姫』発表。長男於菟(おと)誕生。登志子と離婚。
  • 明治27(1894)年、日清戦争勃発。石黒忠悳軍医総監が野戦病院であった三学寺で中国獅子に興味を持つ。脚気患者が約4万人に。
  • 明治28(1895)年、日清戦争終結後、石黒が山縣有朋に三学寺にあった獅子像の話をしたことで、中国獅子像3体が日本に持ち込まれる。
  • 明治35(1902)年 鴎外、荒木志げと再婚。
  • 明治36(1903)年 長女・茉莉(まり)誕生。
  • 明治37(1904)年 日露戦争勃発。陸軍内の脚気患者25万人。入院していた脚気患者の死者数は約2万8千人に。
  • 明治42(1909)年 次女・杏奴(あんぬ)誕生。

……とまあ、日清日露戦争をはさみ、脚気蔓延と三学寺の中国獅子が日本に持ち込まれた件と「舞姫事件」が同時進行していたことが分かる。

脚気で数万人死んでいったときにカフスボタン紛失を嘆く鴎外

扣鈕       森鴎外

南山の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん*
ひとつおとしつ
その扣鈕(ぼたん)惜し

べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ* 電燈あをき
店にて買ひぬ
はたとせ*まへに

えぽれつと* かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女(をとめ)
はや老いにけん
死にもやしけん

はたとせ*の 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ

ますらを*の 玉と碎けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕

(森鴎外の日露戦争従軍詩歌集『うた日記』より)
*こがねのぼたん:金のカフスボタン *パサージュ:ここではアーケード商店街のこと *はたとせ:20年 *エポレット:コートなどの肩につける装飾。軍服由来 *ますらを:勇壮な男。ここでは兵士たちのこと *ももち:百千(大人数)

日露戦争で死んでいった多くの兵士たちも惜しいけれど、かつての愛人との思い出が詰まった金のカフスボタンが片方だけになってしまったのも惜しい、と歌っているわけだ。

この詩について、鴎外の長男・森於菟(おと)は、『父親としての森鴎外』の中で、こう述べている。
この「黄金髪ゆらぎし少女」が「舞姫」のエリスで父にとっては永遠の恋人ではなかったかと思う。(略)
私が幼時祖母からきいた所によるとその婦人が父の帰朝後間もなく後を慕って横浜まで来た。これはその当時貧しい一家を興すすべての望みを父にかけていた祖父母、そして折角役について昇進の階を上り初めようとする父に対しての上司の御覚えばかりを気にしていた老人等には非常な事件であった。親孝行な父を総掛かりで説き伏せて父を女に遇わせず代りに父の弟篤次郎と親戚の某博士とを横浜港外の船にやり、旅費を与えて故国に帰らせた。
(略)
『歌日記』の出たあとで父は当時中学生の私に「このぼたんは昔伯林で買ったのだが戦争の時片方なくしてしまった。とっておけ」といってそのかたわの扣鈕をくれた。歌の情も解さぬ少年の私はただ外国のものといううれししさに銀の星と金の三日月とをつないだ扣鈕を、これも父からもらった外国貨幣を入れてある小箱の中に入れた。
私はある時祖母が私にいうのを聞いた。「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶らせたが父の気に入らず離縁になった。お前を母のない子にした責任は私達にある」と。
(森於菟著『父親としての森鴎外』)


コラム「病と詩 軍医森林太郎と脚気」の最後は、こう結ばれている。
鴎外森林太郎は、「玉と砕けし」兵士「ももちたり(百、千人)」よりもはるか多くが脚気に罹り倒れたことを知っていても、自分の知的誤り・傲慢さが、どんなに大きくそれに寄与していたかに、気づいていなかったろう。

本当に生涯このことに気づいていなかったのだろうか……。
まあ、そのことに責任を感じていたら、日露戦争のときにまでこんな詩を書いているわけはないか……。

ともあれ、鴎外には文学よりも軍医としてちゃんと仕事してほしかったと思う。


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廃仏毀釈と狛犬史の断絶2018/02/14 10:36

三國神社の狛犬 (1990年撮影)
上の写真は1990年に福井県の三國神社を訪れたときのものだ。まだデジカメもなく、暗い境内で小さなフィルムカメラで撮っていた。
この神社にはたくさんの狛犬がいるのだが、中でも異様だったのはこの真っ二つに切られた(?)ような狛犬だ。
事故で首が落ちたとか、身体の一部が欠けたとかには見えない。人為的に「真っ二つ」に切断されているように見えて気味が悪かったのを覚えている。
もともと石に層理(違った成分などの境界面。堆積岩では泥や砂などの堆積物が堆積していった面)があって、風化が引き金でその面できれいに割れたのではないか、と教えてくださったかたがいるが、なるほどそうかもしれない。
その後も、各地で「不自然に壊れた」狛犬を見ることが何度かあった。台座から落ちて首が折れたとか、そういう例はたくさんあるが、どう見てももっと不自然に、何かで叩き壊されたのではないかとか、切断されたのではないかと思えるような壊れ方だ。
そういう狛犬を見るたびに、なぜこういう壊れ方をするのだろうと、もやもやしていたのだが、後に、明治新政府が発令した神仏分離をきっかけに起きた廃仏毀釈の嵐の中で、仏像などと一緒に狛犬も被害にあう例があちこちであったらしいことを知った。

神仏分離令はそれまでの慣わしであった「神仏習合」の緩さを改め、天皇の神格化を神道を利用して進めようとしたものだった。明治政府は寺社打ち壊しや仏像などの破壊まで意図していなかったとされているが、これを受けて、各地で庶民による寺院、仏像、仏堂、仏塔、経典などの破壊、処分がヒステリックに行われていった。
庶民による破壊活動がここまで激化したのは、それまで幕府が寺請制度によって民衆を管理してきたため、特権階級のようになった仏教関係者が腐敗したことへの民衆の反発があったともいわれている。文字通り「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の図だ。

狛犬は今では「神社にあるもの」と認識されているから、廃仏毀釈には関係なさそうに思えるが、ルーツが中国獅子であり、仏像などと同列に見られたために「神聖なる神社にこのような獣の像があるとはけしからん」と、破壊、廃棄の対象になった例もあったのだろう。
長州とともに明治新政府の中心となった薩摩(鹿児島県)では、1066あった寺院すべてが廃寺とされ、僧侶2964人が還俗させられたという。
その鹿児島にあるいちき串木野市冠嶽では、道の両脇に仁王像と狛犬が置かれているが、市の教育委員会が設置した案内看板によれば、
この仁王像は、現在地と神社との中間に仁王門があり、そこにあったといわれている。明治初年の廃仏毀釈時に、この仁王像も壊され、やぶの中に捨てられていた。それを昭和34年に、土地の有志たちが復元し、現在の位置に建てたものである。
(略)この狛犬も廃仏毀釈時に、一部壊されているが、像形は、まだしっかりしている。

と説明されている
同じような例は他でも見られる

僕が1990年に三國神社を訪れたときに見た「真っ二つの狛犬」も、同じような被害にあったのだろうか。
三國神社は越前だが、越前においても、明治4(1871)年、福井藩が84もの寺を「無禄無檀」の寺院として政府に廃合処分を伺い出た。白山修験道の拠点だった平泉寺も、仏堂、仏像、仏具などを破壊され、白山神社に改変された(『福井県史』通史編5 近現代)という
「真っ二つの狛犬」が、その渦中であのような姿にされてしまったのかどうかは分からないが、全国で「不自然に壊れた」狛犬を見るたびに抱く違和感のスタートになったので、今も強烈な印象が残っている。

森田健司氏(大阪学院大学経済学部准教授、専門は社会思想史。特に江戸時代の庶民思想の研究)は、著書『明治維新という幻想』のあとがきにこう書いている。
私が江戸時代に惹かれる理由は、実にシンプルだ。そこに眩い庶民文化があったから、である。
(略)
江戸の人びとが真摯に生きて、麗しく咲かせた「文化」という名の花は、明治の世が進んでいくにしたがって、目に見えて萎んでいった。
新たな価値観や文化を創出できたなら、それはそれで結構な話だろう。しかし実状は、まったく、そうではなかった。明治政府は、江戸のすべてを否定したが、異なる新しい文化の花を咲かせられなかった。それでも、社会の紐帯を維持できていたのは、「江戸時代の遺産」があったからに違いない。
(『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』洋泉社歴史新書y 2016年)



これはまったく同感で、明治になった途端に庶民文化が途絶え、停滞し、退化した様子はあまりに極端で、驚かされる。
狛犬に関していえば、明治一桁や10年代にはほとんど建立がないし、あっても、江戸時代の残り火のようなものばかりだ。庶民パワーや自由な発想を感じさせる狛犬が再び登場するのは明治20年代くらいからで、そこから一気にアートを追求したような作も出てきて、大正期あたりで爛熟する。

それが昭和に入ると、国威発揚を意識したような岡崎古代型や爬虫類っぽい顔のいかつい狛犬が増え、皇紀2600年(昭和15年)の奉納ブーム前後では、画一化された狛犬ばかりが目立つようになる。

日光に来てから知った彫刻屋台も「庶民の文化」としての溌剌としたパワーが魅力だが、それを生んだ江戸時代の空気を、現代日本に生きる我々は感じ取ることができるだろうか。
それにしても、である。魅力的な文化を生み出す庶民が、その文化を破壊する暴徒にもなるという事実に戦慄する。
獅子狛犬の詳しい知識がない(正統派狛犬?を見たこともない)まま「おらが村の鎮守様にも、そのこまいぬつうもんを奉納すんべえ」的なノリで全国各地で作られた「はじめ狛犬」。あの素敵な文化を生み出したのと同じ「庶民」が、神仏分離令をきっかけとして廃仏毀釈という暴挙をも行った──その歴史的事実をどうとらえればいいのだろうか。

閉塞感におしつぶされそうになる現代、庶民は知らないうちに、あの廃仏毀釈のような暴発に向かっていないだろうか……。
もしそうであれば、暴発する閾値を超える前に気づき、歴史を正しく見つめ直し、時代の空気やシステムを修正していくことが必須だろう。

小説版『神の鑿』を書くとしたら、テーマは「庶民文化」「自由な芸術」に生涯を捧げた者たちの魂、というようなものだろうと思っている。
それを描くための材料集めや歴史の掘り起こし作業を思うと、生きているうちに完成させる自信がどんどんなくなる。
しかし、とっかかりの時点で、「隠された歴史」がいろいろ見えてくるだけでも面白い。
まだまだ人生、楽しめるかな。


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