狛犬から知った、住友と古河の鉱山史2018/04/28 21:29

足尾 通銅鉱山神社の狛犬 寛保3(1743)年奉納
日光市足尾に通洞鉱山神社という小さな神社があり、そこに超個性的な狛犬がいる。



この狛犬は日光の「はじめ狛犬」(狛犬をあまり見たことのない村石工などが彫ったプリミティブな造形の狛犬)を代表する傑作で、狛犬ファンの間ではかなり有名になってはいるが、実は隠れたドラマがあるということを知った。

足尾といえば銅山。足尾銅山といえば有名なのは大規模な鉱毒被害とそれを告発して反対運動を死ぬまで続けた田中正造。
そこまではなんとなく知っていたのだが、今回、足尾在住のNさんに「この狛犬はもともと簀子橋(通洞鉱山神社の真北約1.5km)の山神社にあったのが、洪水で下まで流され、川から引き上げられてここに置かれた」という話を聞き、それは一体いつの話かと調べてみた。

狛犬が流されたとき、住友が経営する別子銅山から古河が経営する足尾銅山に移ってきた技師・塩野門之助の妻子が、洪水にのまれて亡くなっているという。そこでまず塩野門之助という人物を調べてみた。すると、古河鉱業だけでなく、足尾と並ぶ銅山だった愛媛の別子銅山を経営していた住友の歴史も知ることになり、塩野門之助と広瀬宰平、広瀬満正、伊庭貞剛といった人物との関わりも分かり、様々なドラマがあったことが分かった。
以下、足尾銅山、別子銅山略史と塩野門之助の人生を並べて記してみる。

足尾銅山、別子銅山と塩野門之助


  • 慶長15(1610年)年 足尾に銅山が発見される。以後、1700年代初めまでに年1300~1500トンの銅を産出。産出した銅の5分の1ほどは長崎に運ばれ、外国へ輸出もされていた。
  • 寛永7(1630)年 京都の銅吹き屋・蘇我理右衛門の子で住友家に婿養子として入った住友友以(とももち)が大坂に本拠を移し、銅精錬・銅貿易の泉屋を開業。住友家2代として住友財閥の基礎を築く。
  • 寛文2(1662)年 住友家2代・友以没(56歳)、長男・友信が16歳で3代として家業を継ぐ。
  • 貞享元(1684)年 住友友信の弟・友貞は独立して大坂で金融業を成功させていたが、この年 幕府関連の取引で失敗し、取りつぶし処分となる。兄・友信も連座責任を負わされ39歳の若さで引退させられる(住友家の危機)。後を継いだ4代目・友芳(16歳)は、父・友信とともに新たな鉱脈探査に乗り出す。その際、足尾銅山の調査もしたが、すでに低迷期に入っており、採算がとれないと判断した。
  • 元禄3(1690)年 愛媛県東部に別子銅山が発見され、翌元禄4(1691)年 住友が別子銅山を開坑。住友家は江戸時代最大の鉱業家となる。
  • 文化14(1817)年 足尾銅山は産出量が著しく落ち込み、一旦休山となる。この頃、別子銅山も産出量が激減していく。
  • 嘉永6(1853)年 島根藩士・塩野鉄之丞の長男として塩野門之助誕生。
  • 慶応元(1865)年 住友財閥の前身・泉屋の大番頭・広瀬宰平広瀬宰平が別子銅山支配人に抜擢され、廃坑寸前状態からの建て直しを進める。
  • 明治3(1870)年 門之助、藩校修道館で仏語修行を命ぜられる。
  • 明治4(1871)年 足尾銅山が民営化決定。
  • 明治7(1874)年 住友がフランス人鉱山技師ラロックの通訳として門之助を外務省よりヘッドハンティング。
  • 明治8(1875)年 泉屋は住友本社に改組され,別子銅山は住友本社の直営となる。
  • 明治9(1876)年 門之助、ラロックの「別子鉱山目論見書」を翻訳。この年 住友の私費留学生として渡仏。翌年 サンテチェンヌ鉱山学校予備校に入学。
  • 明治 10(1877)年 古河市兵衛古河市兵衛が渋沢栄一らの協力を得て足尾銅山の経営に乗り出す。このときの産出量はわずか52トン/年。
  • 明治13(1880)年 足尾銅山から出た鉱毒が川に流れ込んで、魚が浮いて死んでいるのが発見される。栃木県令が魚類捕獲禁止令を出す。
  • この年 門之助、サンテチェンヌ鉱山学校を卒業し、鉱山の実地修行。
  • 明治14(1881)年 足尾銅山の鉱長・木村長兵衛(古河市兵衛の甥)の指揮下、大鉱脈が発見される。
  •          門之助、フランスから帰国。
  • 明治15(1882)年 門之助、別子鉱山技師長就任。
  • 明治19(1886)年 門之助、溶鉱炉研究のため自費で欧米出張。
  • 明治20(1887)年 門之助帰国。住友の別子銅山では煙害が発生し、農民が決起する騒動に。門之助は惣開の中央製錬所構想を上申するが、採用されず、住友総理の広瀬宰平と衝突して退職。友人の福岡健良(古河・本所熔銅所長)の推挙で足尾銅山に就職。足尾銅山は年産6000トン以上を産出し続け、「殖産興業」の代表格になっていた。(当時、銅は生糸・絹製品に次いで日本第二の輸出品だった。1890年代には足尾、別子、日立などの銅山から出た銅の輸出は世界の総産出量の5%以上を占めていた)
  •          足尾の総責任者であった木村長兵衛は、赴任してきた門之助に現行の「ピルツ炉」の改造を命じるが、そのことで門之助は木村と対立していく。
  • 明治21(1888)年 門之助、第二代住友総理事で「別子銅山中興の祖」と呼ばれる伊庭貞剛伊庭貞剛にベッセマ転炉の採用を進言し、同時に別子へ戻りたい旨を懇願。
  •         4月、ピルツ炉の改造をめぐって坑長・木村長兵衛との対立が深まり、辞職。*1
              5月、木村長兵衛が急死。後任として木村長七が坑長に就任。その後、門之助が復職。
  • 明治22(1889)年 電気製練法が採用され生産性が一気に上がるが、亜硫酸ガスも増大。田中正造が足尾銅山鉱毒被害について帝国議会で質問。            この年、坑長・木村長七が中心となって本山抗口の前の山に本山鉱山神社(杉菜畑鉱山神社)を建立。
  • 明治23(1890)年 8月、山林の伐採により、足尾で大洪水が発生門之助の妻子も洪水にのまれて死亡このとき、簀子橋山神社にあった狛犬も流出し、1km弱下流にまで流される。沿岸には鉱毒が氾濫し、各町村で鉱毒反対の動きが活発に。門之助は住友の広瀬満正へ別子銅山へ戻りたいので取りはからってくれと懇願する。
  • 明治24(1891)年 群馬県議会、鉱毒防止の建議書可決。
  •          1月、門之助、足尾銅山小滝分局長,木部末次郎の名で「製煉法之儀ニ付伺」と題する上申書を提出。かねてより注目・研究していたベセマ錬銅法の採用を提言。
  • 明治25(1892)年2月、この提言を受け、古河市兵衛は翌2月に塩野をアメリカに派遣し,当時世界でただ一か所ベッセマ錬銅法を実用化していたモンタナ州ビュート銅山のパロット製錬所を視察させる。帰国後、門之助は製錬課長となり、ベッセマ転炉の建設に着手。
  •          3月、伊庭貞剛宛に再び別子銅山帰山を懇願。6月には広瀬満正宛にも懇願するが、ベッセマ転炉が完成するまでは許されず。
  • 明治26(1893)年 日本初のベッセマ転炉完成。製錬工程でカギとなる先進技術。塩野門之助塩野門之助の功績
  • 住友家総理人・広瀬宰平が辞職。伊庭貞剛が本店支配人のまま新居浜に赴任。門之助、ようやく足尾銅山を辞職。
  • 明治28(1895)年 門之助、別子鉱山に再就職。設計部長となる。このとき門之助は43歳。
  • 明治29(1896)年 門之助、再婚。
  •          足尾で大旱魃の後に大洪水。浸水家屋13,802戸。鉱業停止運動が活発になる。
  • 明治33(1900)年 鉱毒被害農民3,000人が政府に請願するため上京。その途中、館林市川俣において警官隊に阻止、鎮圧される(川俣事件)。
  • 明治34(1901)年11月30日 毎日新聞の鉱毒被害追及記事をうけ、古河市兵衛の夫人為子が神田橋下で入水自殺。世論が大きく動く*2。12月10日、田中正造田中正造が天皇へ直訴。逮捕される。直訴状が天皇に渡ることはなかったが、これがきっかけで世論がさらに盛りあがり、鉱毒事件が全国に知られることになる。
  • 明治40(1907)年 鉱毒の被害を受けていた谷中村が強制破壊により廃村となる。
  • 大正2(1913)年9月 田中正造没(71歳)。
  • 大正9(1920)年 古河が足尾通銅鉱山神社を建立。
  • 昭和8(1933)年7月 塩野門之助没(80歳)。
  • 昭和10年代、足尾銅山が浮遊選鉱法を採用。これにより鉱さいはが細かくなり、鉱毒被害が一層ひどくなる。
  • ~~~
  • 昭和22(1947)年 カスリン台風襲来。足尾の洪水被害甚大。沿岸市町村は鉱毒対策委員会を結成。県は実態調査を実施。
  • ~~~
  • 昭和48(1973)年 足尾銅山閉山。同年 住友の別子鉱山も閉山
    *1
    「独逸の如き拳大の塊鉱製煉にはピルツ炉は或は可なるも,足尾の如き選鉱して大部分は粉粒鉱を処理する処では,ピルツ炉は高きに過ぎて不向であるのを米国で見て来て居るので,この改造は容易でない。殊に末松君の失敗した炉だから困るとて大いに談じ込んだのですが,長兵衛さんは中々承知せられぬのです。『それならうまく行くかどうか疑問だがやって見ませう』とて取掛り,四五ヶ月で五尺の高炉を三尺の高さに縮め甚だ不十分ながら幾分米国式に改造したのですが,送風機其他も不完全であり,且鉱石も不純分が多く熔解困難な含有物が多いのと,熟練した職工もなく仕事に馴れないので成績良く参りませんでした」(茂野吉之助『木村長兵衛伝』追憶篇)

    *2
    ただ望む。市兵衛たる者、爾(なんじ)がかかる運命に接したるは、是、心機一転の時期なるべきを悟り、亡き妻によって残されたる一大訓戒の意味をば正しく了解して、人道の為の尽くすの人ならん事を。(新聞「万朝報(よろずちょうほう)」明治34(1901)年12月1日

    ……こう見ていくと、日本の近代史、特に鉱工業や経済史の中で、住友や古河がどのように成功していったかが分かる。
    住友は足尾銅山が衰退していたときに調査もしていたという。
    足尾のわたらせ渓谷鉄道通洞駅近くには「泉屋旅館」があり、古河の幹部や古河が招いた客人の定宿となっていた。同旅館は閉山後も細々と営業していたが、地元の人たちは「泉屋旅館」の場所一帯を「泉屋」と呼んでいたそうで、住友が足尾銅山の採算性や将来性を調査していた時期にそこに滞在していたのではないかとのこと。そうであれば、住友の旧屋号をつけた旅館でライバルの古河が芸者を上げて酒盛りをしていたわけで、なんとも皮肉な話に思える。
    もしも、住友が足尾を見限らず、手をつけていたら、別子だけでなく足尾も手に入れてダブルで大儲けしていたかもしれない。そうなると古河市兵衛の成功もなかったわけで、歴史はどこでどう変わるか分からないものだ。
    ちなみに古河市兵衛は生涯3度結婚しているが、3人の妻・鶴子、為子、清子のうち、為子は足尾銅山鉱毒事件の渦中に神田川に入水自殺している。

    「東の足尾、西の別子」と呼ばれた日本の二大銅山を行き来した塩野門之助の人生は特に興味深い。
    当時の世界最先端技術を日本に導入するという活躍をした一方で、山林伐採による洪水被害や鉱毒垂れ流しによる甚大な環境汚染を引き起こした時代、妻子を失い、住友と古河の間で上司とは常に対立したり懇願したりといったストレスフルな人生を送ったことがうかがわれる。


    門之助の妻子を呑み込んだ洪水は簀子橋の山神社の狛犬も押し流したが、狛犬は下流でその後発見されて引き上げられ、新たな居場所を得た。ガイドブックなどには「簀子橋山神社にあったものが移された」と説明されているが、移されたというより、「流れ着いた」のだ。
    その狛犬が今は「廃墟観光」の代名詞のようになっている足尾銅山跡地で、観光客を見送っている(通洞鉱山神社は足尾銅山観光ルートの出口からしばらく行ったところに位置しているので、多くの観光客は帰り際に横目で見るような形になる)。
    すごいドラマを背負った狛犬だったのだ。
    1kmも流されたのに、欠損や摩耗がなく、背中の銘までくっきり読めるというのも、ちょっと信じられない。まさに「奇跡の狛犬」か(これに関しては「そうではない」という推論へと続く)。

    このときの洪水だけでなく、足尾では何度も洪水被害が起きているが、鉱山開発による大規模山林伐採で山が保水力を失い、流出した土砂の堆積で麓の川底が上昇して「天井川」を形成してしまったことが大きな原因となっており、鉱山開発が引き起こした被害といえる。
    その洪水で門之助の妻子はなくなった。古河市兵衛の二番目の妻が、鉱毒事件の最中に自殺していることとも合わせて考えると、男たちが仕事での成功と地位を追いかける陰で、家族が犠牲になっていた当時の時代空気というものも感じてしまう。


    人は死に、建物も焼けたり流されたりして消える。
    しかし、石の狛犬はいろいろな災害を見つめつつ、長い時間、生き続ける。
    「石」というものの凄さを改めて感じると同時に、石に命を吹き込む石工たちや、祈りを込めた庶民の心に思いをはせずにはいられない。
    参考文献一覧


    足尾の銅山遺構をめぐった写真紀行が⇒ここ(「足尾銅山遺産と歴史を探る」 旧愚だくさんブログ)にある。見応えがあるので、興味があるかたはぜひ。



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