「飛翔獅子」という呼称について2019/03/01 21:30

鹿島神社の「飛翔獅子」(吽像)

川田神社の飛翔獅子。寅吉自身が奉納した記念すべき最初の飛翔獅子 明治25(1892)年11月15日「浅川町福貴作 石工小松布孝作之」の銘



鹿島神社の狛犬(裏側から) 明治36(1903)年 「福貴作 石工 小松布孝」の銘

小説版『神の鑿』上巻 小松利平、は、目下160枚ほど書いて、利平がようやく福島に初めて足を踏み入れようとするあたり(天保年間)まできた。
小説化するにあたって、毎日、執筆時間よりも調べ物をしている時間のほうが多いのだが、ネット検索していると自分が書いた文章やサイトにぶつかることもある。
今日は朝日新聞のこんな記事を見つけた。
白河市を中心とする福島県南部には、全国でもめずらしい……というよりは、この地方だけではないかといわれる“飛翔する狛犬”たちが見られる。

……と始まる「城とラーメンの町で注目を集める新名物は“飛翔する狛犬たち”/福島県白河市ほか」(文・写真 中元千恵子 2017年3月22日)という記事。
2017年3月だから、2年も前に書かれていたのね。

で、ここでも書かれている
通常は前足を伸ばして腰を下ろした姿勢だが、白河地方では“飛翔獅子(ひしょうじし)”とよばれる独特のスタイルが生まれた。雲に乗り、尾やたてがみを風になびかせた姿は躍動感があり、彫りの美しさからも、もはや芸術、と称されている。

の、「飛翔獅子」や「雲に乗り」という部分がおかしいと主張している人がいると最近知った。
実際に問い合わせもあった。
狛犬の下の部分は明らかに「雲」ではない。雲ではないのだから、「空を飛ぶ」もおかしいのではないか、という趣旨のご指摘だ。
「雲に乗り空を飛ぶ」というのは、拙著『狛犬かがみ』にこんな記述がある。
江戸獅子の豪華版として獅子山というスタイルがある。獅子山の獅子は、今にも飛びかかりそうな躍動感にあふれているものが多い。加賀地方には、山の上で逆立ちしている獅子像がある。広島には玉に乗った狛犬が多い。しかし「雲に乗り空を飛ぶ狛犬」という構図は、ほとんど見たことがない。石で造るがゆえに、あまり自由な構図が許されないからだろう。
寅吉は生涯何体もの狛犬を彫っているが、ついにはこの「飛翔獅子」というスタイルに行き着く。これが寅吉の「発明」だとすれば、大変な功績といえよう。
(『狛犬かがみ』バナナブックス)

獅子を支えている部分については、「雲」ではない、と言われればその通りかもしれない。
しかし、江戸獅子の獅子山とは発想がまったく違う。仏像の蓮華座そのものかといえば、そうともいえない。蓮の意匠をあしらった部分もあるし、牡丹の花を添えているのもあるが、「あの部分」に関しては、おそらく、「後ろ脚を蹴り上げて飛んでいるような格好の石獅子を台座の上でバランスよく成立させるためには、どのような造形にすればいいか」という命題から出発して、あのようにまとめ上げたのだと思う。獅子と一体に一つの石から彫られているのも、そのためだ。

寅吉の出発点(発想の最初)はあくまでも、龍のように「天翔る獅子」を彫りたい、だっただろう。
重い石獅子をあの形で仕上げるには、前脚だけが台座に接続しているのでは無理がある。長くもたせるためには、重量バランスを考えて、なおかつ全体のデザインが壊れないようにまとめなければならない。そこで、「台座にのせる」という発想から一旦離れて、「獅子をあの形で宙に浮かせるためにはどういう形にすればいいか」という発想に切り替えた結果なのだ。
悩んだ末に、蹴り上げた後ろ脚を支える支柱の代わりに、モコモコっとした「何か」を後肢方向に盛り上げて、その「何か」込みで全体のデザインと重量バランスをまとめる、という作業に取り組み、完成させた……と見る。
あの「何か」が岩山なのか蓮華座なのかという定義は、寅吉にとってはあまり意味のないことだったのではないか。それをどう呼ぼうが「後付けの問題」で、あくまでも「天翔る獅子」を成立させるための「デザイン」が必要だった、ということだろう。儀軌的な定義ではなく、あのスタイルを実現するための物理学的な工夫の結果だった。雨水が溜まらないように随所に空洞を作るという工夫もされている。
あの部分に蓮や牡丹の意匠を採用していても、それは「ここはこうあるべきだ」ではなく、不自然さがなく、かつ、豪華、豪快にまとめるためのパーツ(木彫扉の錺金具のようなもの)だったと思うのだ。
あれを岩山であるとか、蓮華座であるとか厳密に「規定」してしまうと、途端に主役の獅子の動きが止まってしまい、躍動感や感動が薄れてしまう気がする。
あくまでも主題(目的)が「天翔る獅子」であるならば、「それを可能にするためのデザイン」として下にあるものを「雲にたとえて」もいいのではないか。

もちろん、寅吉自身が「空を飛ぶ獅子」というイメージをまったく抱いていなかったという可能性はありえる。
蹲踞した狛犬ではつまらないから、獅子に何か驚くようなポーズをとらせたいと考えた末に、後ろ脚を高く持ち上げてみた……というだけだった。それを見た人たちが勝手に「すごい! 狛犬が空を飛んでいる!」「雲に乗っている!」と感じた(解釈した)だけだ、という可能性……。
そうであったとしても、それまで誰も挑戦したことのない造形を生み出そうとしたことは間違いない。であれば、あれを見た人がイメージした「天翔る獅子」「飛翔獅子」が表現や呼び方として定着するのは、悪いことではない。たとえ寅吉がそう意図していなかったとしても、「雲に乗って空を飛ぶ獅子」と評されることを、寅吉自身、喜ぶのではないか。

芸道や芸術の修業における段階を表す「守破離」という言葉がある。
」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。(デジタル大辞泉より)

仏教では「習絶真」という言葉がこれに近い。
寅吉にとって、飛翔獅子の考案は、守破離の「破」から「離」に相当するものであった。それは確かだ。

思うに、寅吉の師匠である利平は、寅吉よりずっと自由人だった。利平に比べたら、寅吉はむしろ儀軌を重視する保守的な一面も持った人だった。
しかし、自由を愛した利平も、獅子を飛行させることはできなかった。アイデアはあったかもしれないが(そのアイデアを寅吉に語っていた可能性は大いにある)、彫り上げることはできなかった。
寅吉は、並外れた努力と技術で、それを形にしてしまった。……そういうことだ。

残念なのは、利平が寅吉の飛翔獅子を見ることなくこの世を去ったことだ。生きていたら、飛翔獅子を完成させた寅吉にどんな言葉をかけただろうか。

謎の飛翔獅子

矢吹町中畑字根宿の八幡神社には、後肢に支えのないアクロバティックな飛翔獅子がいる。

根宿八幡神社の飛翔獅子 明治41(1908)年。石工名なし


明治41(1908)年旧8月という銘があるが、石工の名前がない。
間違いなく寅吉の工房で彫られていると思うが、寅吉の作ではない。作風がまるで違うし、このとき寅吉はすでに64歳で、八雲神社の燈籠(「福貴作小松布孝六十五年調刻」の銘)にかかりきりだったはずだからだ。
極めて端正な顔とスマートな体躯。これは一体誰が刻んだのだろうか。
私の推理としては、当時まだ20代だった和平か、和平の同僚であった(?)岡部市三郎、あるいはこの二人の合作ではないか。
和平や市三郎以外の腕の立つ職人が石福貴にいたのかもしれない。

これは、「飛翔獅子を後肢に支えをつけないで設置できるのか」というテーマ(タブー?)に挑戦した作品であろう。
そういうことをやろうと思うのは、若く、反骨精神旺盛なときだと思う。守破離でいえば、「破」であがいている時期か。
老境に入って、自分の石工人生を振り返りつつあった寅吉は、弟子がそういう生意気な挑戦をすることについて黙って見守っていたのかもしれない。
あの飛翔獅子を彫ったのが和平だとすれば、後に「やはりあれは無茶だった。師匠が完成させた形を受け入れよう」と改心して、なおかつ「自分にしか彫れない飛翔獅子」を生み出そうと試行錯誤した結果、石都都古和気神社の親子獅子以降の傑作が生まれたのではないだろうか。

……とまあ、過去の物語をいろいろ想像しながら、目下、小説版『神の鑿』上巻を執筆中。
勉強することが多すぎて、寅吉や和平が登場するまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。



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ドラマが書き換える歴史(1)インスタントラーメン誕生史2019/03/06 11:07

Wikipediaより 横浜のカップヌードルミュージアム(安藤百福発明記念館)
NHK連続テレビ小説『まんぷく』のモデルが、日清食品創業者の安藤(呉)百福とその妻・仁子であることは周知されている。
実在の人物をモデルとしますが、激動の時代を共に戦い抜いた夫婦の愛の物語として大胆に再構成し、登場人物や団体名は改称した上、フィクションとしてお届けします。(NHKの番組紹介公式サイトより)

で、その二人の生涯を調べると、知らなかった戦後史や、今まで間違って覚えさせられていた常識(「インスタントラーメンは日本人が発明した」など)が覆されて、とても勉強になる……という話は、以前、「チキンラーメンが教えてくれた戦後史」というタイトルでチラッと書いた。
あれを書いた時点では、ドラマもまだ始まったばかりで、史実との違いはまあ許容範囲かなと思って、控えめに書いていたのだが(怖いし……)、ドラマの終盤まできて、即席ラーメンの特許の話まで完全に都合よく書き換えられているのを見ていると、さすがにここまでやってはいかんだろうと思う。
江戸時代以前の歴史を扱ったドラマ(時代劇)であれば、何が史実なのか分からないことだらけなのだから、大胆に脚色して、フィクションとして再構築するのはかまわないと思う。水戸黄門なんて、そもそも諸国漫遊の事実がないわけだし、「あれはまったくの作り話である」ということを多くの人が「常識」として知っているのだから、問題ない。
しかし、インスタントラーメン誕生物語となると、これは昭和、しかも戦後のことで、ほぼすべての「史実」がはっきりしている。それを、いくらドラマ(フィクション)だとはいえ、あまりにも主人公たちを美化したり、都合の悪いことをすべてなかったことにしたり、いいように書き換えてしまうというのは、「国民的ドラマ」としてはどうなのか。ここまでくると、何か意図があって、積極的に歴史の改竄をしようとしているのではないか、と疑われても仕方がないレベルではないだろうか。

「チキンラーメンが教えてくれた戦後史」では敢えて触れずにいたが、改めて『まんぷく』と日清食品とチキンラーメン誕生の歴史を比較してみると、ざっとこれだけの相違点がある。

出生と事業創業

  • 主人公・立花萬平:日本人(東京生まれ?)。両親を早くに亡くした。大阪に出てきて、25歳の時に会社を設立。幻灯機や根菜切断機などを作る。
  • 日清食品創業者・呉百福:日本占領下の台湾生まれ。両親共に台湾人だが幼いときに死別し、呉服商である祖父の下で育つ。両親の遺産を元手に日本で注目され始めていたメリヤスの輸入業で成功を収める。正妻・黄梅との間に長男・宏寿をもうけるが、妻と長男を台湾に残して、第二夫人・金鶯を連れて日本に渡り、昭和8(1933)年、大阪にメリヤス問屋の日東商会を設立。メリヤス事業が低迷期に入ると、軍用エンジンの部品や幻灯機の製造をする会社を共同設立。1948年に大阪に移住し、その後、安藤仁子と結婚。1966年に日本国籍を取得し、安藤姓を名乗る。

家族

  • 萬平:戦前に大阪のホテルに勤めていた福子に一目惚れして結婚。その後、一男一女をもうける。
  • 百福:台湾時代に第一夫人・黄梅と結婚。長男・宏寿の他に幼女・呉火盆。宏寿はその後、日本に呼び寄せ、日清食品代表取締役社長に。日本に連れてきた第二夫人・呉金鶯との間には呉宏男、武徳、美和の2男1女。呉金鶯はその後、台湾に戻る。美和氏は晩年、台湾で遺産詐欺被害にあう。三番目の妻・安藤仁子とは1945年3月に結婚。第一子(女)は死産。その後に一男一女(宏基と明美)。宏基は後に日清食品三代目社長に。

福子と仁子(まさこ)

  • 今井(立花)福子:大阪出身で三人姉妹の末っ子。女学校卒業後にホテルに就職。萬平にプロポーズされ、戦前に結婚。
  • 安藤仁子:福島県二本松神社の神職次男・安藤重信の三女。重信は大阪で人力車の会社を経営して財を成したが、その後行き詰まった。ホテルのフロント係をしているときに百福にプロポーズされ、1945年3月、第一次大阪大空襲の8日後に挙式。このとき百福35歳、仁子28歳。

主人公(福子と仁子)については、3人姉妹の末っ子ということと、大阪のホテルのフロント係をしていたときに口説かれたということが共通しているが、結婚相手(萬平と百福)についてはまったく違う。
朝ドラの主人公が三番目の妻であったというのはまずいということで、第一夫人、第二夫人の存在や子どもを消し去ったところまではまだ許容範囲かもしれない。家族構成や結婚歴、恋愛歴などは「個人的な」ことだからだ。
しかし、夫が台湾華僑であったことを変えてしまうのはさすがにまずいだろう。
なぜなら、百福は台湾出身であったがゆえに、戦後は「戦勝国民」として莫大な保険金(約4000万円=現在の数百億円相当)を手にして「日本一の大金持ち」と呼ばれたり、占領軍に出入りして物資を仕入れたりしていたからだ。これは「個人的な史実」ということを超えて、当時の社会を知るための重要な史実なのだから、そこまで書き換えてしまうと、日本の占領下にあった朝鮮や台湾の人たちの悲劇と成功劇という、重要な史実が消えてしまう。
天皇が無条件降伏を宣言した途端、四川劇の「変面」さながら、台湾人は日本国民から中華民国の国民へと早変わりしていた。おまけに、中華民国が連合国だったおかげで、終戦直後の日本にいた台湾人は、戦勝国民という新たな肩書を手に入れ、その威勢のよさは、まさに虎の威を借る狐であった。(『日本統治時代の台湾 写真とエピソードで綴る1895~1945』 (陳 柔縉・著、天野 健太郎・訳。PHP研究所 2014)

インスタントラーメンは台湾が生んだ

もう一つ、重要な「歴史改竄」につながるのは、インスタントラーメン誕生物語という、このドラマの核心ともいえる部分の「史実書き換え」だ。
インスタントラーメン特許紛争は史実であり、争っていたのは張国文(東明商行)、陳栄泰(大和通商)、呉百福(サンシー殖産=後の日清食品)らだ。この3人全員が台湾華僑である。
ドラマ『まんぷく』では、油揚げ麺に湯を注いで戻すというスタイルが「萬平」がゼロから発明したかのように描かれているが、麺を油で揚げる料理「伊府麺」はすでに清朝中国に存在していて、それが台湾に渡り、揚げた麺をゆでてもどす「鶏絲麺」として普通に食されていたという。
これを日本でも売れば儲かるのではないかと商品化したのが張国文や陳栄泰で、「鶏糸麺」(大和通商)、「長寿麺」(東明商行)は、百福がチキンラーメンを売り出す1958年(昭和33年)8月25日の数か月前、春の時点ですでに日本で発売されていた。
第一次南極越冬隊(1956年)が持っていった即席麺はニュースにもなったが、これがまさに張国文の「長寿麺」で、この時点では一般販売こそされていなかったものの、越冬隊に供給する食品としてすでに存在していた(ただ、あまり美味いものではなかったようだ)。

さらには、チキンラーメンに出遅れること2か月の1958年秋頃、伊藤製粉製麺(創業者・伊藤哲郎。創業1945年。現在のイトメン)が「トンボラーメン」という袋麺を発売(のちに「ヤンマーラーメン」に改名し、ヤンマーディーゼルと商標使用をめぐって訴訟騒ぎになる)。
1959年に、梅新製菓(創業者・村岡慶二。創業1948年。後のエースコック)が「エースラーメン」を発売している。

特許に関しては、以下のような時系列になる。
  • 1958年12月18日 東明商行の張国文が「味付乾麺の製法」を特許出願(特願昭33-36661号)。
  • 1960年11月16日 上記特許が出願公告(特公昭35-16974号)。
  • 1959年1月22日  安藤須磨(百福の義母)名で「即席ラーメンの製造法」を特許出願(特願昭34-1918号)。
  • 1960年11月16日 上記特許が出願公告(特公昭35-16975号)。
  • 1961年 日清食品が東明商行が先行出願していた「味付け乾麺の製法」特許の権利を2300万円で買い取り、「即席ラーメン製造法」と合わせて特許登録

これを見ても、百福が「インスタントラーメンを発明した」とはいえないことは分かる。
また、「インスタントラーメン第1号」が張国文が作った「長寿麺」であれ、陳栄泰の「鶏糸麺」であれ、百福の「チキンラーメン」であれ、インスタントラーメンを生んだのは日本人ではなく、在日台湾人(華僑)だった(百福が日本国籍を取得したのはチキンラーメン発売から8年後の1966年)。

……こうして見ていくと、インスタントラーメン開発史は実にドラマチックであり、これをそのままドラマ化したほうがよほど面白い。とくにエースコックと明星の日清食品への対抗手段の違い(徹底抗戦を試みたエースコックと、実利を取って争いを避けようとした明星)とか、アメリカ市場をめぐる日清と東洋水産のバトルとか、カップヌードルの10年も前に明星はカップ麺を発売していたといった史実はとても興味深い。(もっとも、史実はあまりにもドロドロしていて、知れば知るほど胃もたれするかな。業界ではすぐに訴訟を起こしてライバル企業を追い落とそうとする日清の手法を「日清戦争」と揶揄しているそうだ)
この「本当は怖い」題材を、心温まる「家族愛」を基調にしなければならない(?)朝ドラに取り込もうとしたところに根本的な無理があったのだろう。
しかも、『まんぷく』の中に登場するいくつかのエピソード、軍需品横流しの嫌疑をかけられて拷問を受けたとか、栄養食品開発の際に食用蛙が爆発して飛び散ったとか、福子の長姉が美人で、歯科医が馬に乗って求婚しに来たとか、塩を作ったとか、脱税で逮捕され裁判闘争を展開したとか、信用組合の理事長になったものの組合をつぶしてしまったといった話は史実と微妙に重なるので、さらに罪が深い。
例えば、理事長を引き受けた「大阪華僑合作社(大阪華銀)」は華僑が出資した信金で、百福が理事長を引き受けた時点ですでに放漫経営でおかしくなっていたらしい。百福は理事会も経ずに華銀の金を大豆相場に注ぎ込んで失敗し、回復不能な大赤字を作ったとも……。

詳細を検証するのは難しいとしても、百福をモデルにしたインスタントラーメン誕生物語が、立派で美しいエピソードだけで彩られるのはどうなのか、と、誰もが思うだろう。
戦前戦中は「台湾出身の三等国民」として辛酸をなめ、戦後は「戦勝国民」として思わぬ巨利を得たことや、インスタントラーメン開発商戦での熾烈な競争と生々しい駆け引き、取り引きなどは、やはりそのまま再現してほしかった。

例えば、王貞治氏は今も国籍は日本ではなく中華民国だが、彼をモデルにして、「立花治男」という日本人の両親を持つ日本人少年が世界のホームラン王になっていくドラマを作り、「これはフィクションです」と開き直っていいのだろうか。
王さんの父親・王仕福は、戦時中にスパイ容疑をかけられて警察に連行され、拷問まで受けていたという。
軍事物資横流しの嫌疑をかけられて憲兵に連行され、拷問を受けた呉百福と重なるような話だが、こういう時代背景を不自然に書き換えてまで、実在の人物をモデルにしたドラマを作るべきではない。そのドラマの中でフィクションが完結するならまだしも、それがほぼ史実だと思い込んだままの視聴者を大量に作りだし、国民の歴史観そのものが変わってしまう恐れがあるからだ。

朝ドラは、ある時代を背景にした、女性が主人公の人間ドラマというスタイルが定着しているが、余計な罪を犯さぬよう、今後は完全なフィクションに徹するべきではないか。
手本は『ひよっこ』かなあ。あれを超える朝ドラは、今のところないのではなかろうか。

『いだてん』はベルリン五輪をどう描くのか

で、ついでに書けば、放送中のNHK大河ドラマ『いだてん』で、ベルリンオリンピックがどう描かれるのか、特に、当時、日本統治下にあった朝鮮の孫基禎と南昇竜が「日本選手」としてマラソンに出場し、それぞれ金メダル、銅メダルをとったことをどう扱うのか(まさか、まったくスルーすることはできないと思うのだが……)にとても興味がある。
注目したい。

父のネット葬 2019/03/112019/03/19 11:27

親父が日光の施設にいたときに描いた男体山の絵

3.11が命日に

2019年3月11日 月曜日。
朝、デイホームの施設長から電話。ベッドの中で電話に出た。
「訪問看護師さんを呼びました。お父様、肩で息をしているので……」
「分かりました。今から行きます」

いよいよ……かな、と、ここ数日は毎日、親父の様子を見るたびに覚悟はしていた。
前々日の土曜日は施設でのウクレレ教室(ボランティアで毎月行っている)の日だったが、親父ももう意識朦朧としていてウクレレもなにもないだろうし、スタッフにしても状態が悪くなった親父や義母の介護でウクレレどころじゃないだろうし……ということで、一旦は施設に電話して断った。
施設長が出て「分かりました」と答えたが、その後、「お父様、今日は息子さんがウクレレ教室で来るので、すでに車椅子に移って待ってますよ。最後に演奏聞かせられたらよかったのに」と言う。
ええ~。それじゃあ、行かないわけにいかないじゃん……というわけで、EWIとウクレレを持って出かけ、『MISTY』、『枯葉』、『上を向いて歩こう』などをEWIで吹いた。
親父は何も言わなかったが、演奏が終わった後、拍手の代わりにそっと両手を合わせた。
スタッフのシバニャン(施設長の娘さん)から「拝むんじゃなくて拍手でしょ」と言われていたが、今思えば、あれは精一杯の意思表示だったのだろう。
あのとき行って演奏してきてよかったな、と思いながら、施設に向かう。
でもこのときはまだ、これから先があるだろう、少なくとも今日ということはないだろうと思っていた。

施設に着いて、親父の部屋を覗くと、早い間隔での喘鳴。想像していたより切迫していた。
そこに看護師さんが到着。体温、呼吸数、心音、肺の音、血圧などを測る。
このままもうよくなることはないだろうということは分かった。それでもまだ、「今日はまだないだろう」という気がしていた。
こういう状態でも耳は聞こえていることが多い、というので、部屋にあったラジカセに、持ってきたCD『So Far Away たくき よしみつ Songbook1』を入れて再生する。
1曲目の「流れてしまった時は戻せないし 変わってしまった心も隠せない……」という出だしの歌詞が、作った40年前とはまったく違う意味を持って頭に入ってくる。
その後、隣の部屋で看護師さん、施設長と僕の3人で、これからのことを話し合う。
このまま「見守る」ことの最終的な確認、とでもいうか……。

看護師さんが最後に書いた連絡メモ

それが終わって、看護師さんが「では、一旦戻ります」ということで、玄関を出る前にもう一度部屋を覗くと「あ……止まってる?」と言った。
まさに息を引き取る瞬間だった。
僕は脈を確認されている親父をただ見守るだけだった。
部屋にはCDの11曲目『Orca's Song』が流れている。

Set me free, rushing waters fall fast away.
Go with me to a deep blue world way beyond.

All the unhappy ones go rushing by,
far and so far away they'll go.
Can you hear me cry, see my eyes,
feel my hands, and share all my heartache?
Let me go, please I only want to go.

(Orca's Song より)

ああ、なんというタイミングなんだろう。この歌は、こういうことだったのか……と思った。

辛かったこと、悲しかったことはすべて、はるか遠くへ押し流されていく
あなたには私のこの叫びが聞こえますか? 私の目が見えますか?
私の両手を感じ取れますか? この心の痛みを分かち合ってくれますか?
さあ、もう行かせてくれ  私はもう旅立ちたいんだ

本当に、僕がそう歌っているのを聴きながら、親父は旅立った。

……なんだかあまりにできすぎていて、嘘みたいだ。

すぐには「死」を実感できなかった。呼吸が楽になってスヤスヤ寝はじめたように見えてしまう。
……楽になってよかったね、とか、そういう気持ちでもない。ただただ「え? そうなの?」という、スポンと何かが抜け落ちたような感覚。

この瞬間にも、施設スタッフは他の入所者やデイサービス利用者をトイレに誘導して介助したり、昼食を作ったりしている。入所者、利用者はすぐそばの居間でくつろいでいるが、誰も親父が今死んだことには気づかない。ソファで横になっていたり、テレビを見ていたり……。
義母も、いつものようにテレビを見ている。

主治医の院長は数十分で駆けつけるだろうとのこと。
妻に電話して告げると、やはりまだ先だと思っていたようで、驚いていた。
死化粧用のお洒落な服を探して持ってきてくれと伝えた。

主治医の院長が来て、死亡確認。死亡診断書を書いてもらう。
いくつかやりとりして「老衰ということでいいですか?」「はい」……と。
大腿骨骨折の手術自体は想像以上にうまくいっていたので、骨折が死因にはならない。骨折する前からどんどん状態が悪くなっていたので、文字通り「老衰死」なのだ。
家でみんなに最後まで親切にしてもらいながら老衰で死ねるなんて、今ではごく少数の人しかできない「幸せな死に方」だ。
すごいことなんだよなあ、と改めて思うが、そのときはまだポーッとしていて、そこまでは考えられなかった。

死亡診断書の死因欄に「老衰」と書いてもらえる人は少ない。

葬儀屋さんをどこにするかとか、目の前のことも、あれだけ準備していたのに、気持ちがふわふわしたままで、テキパキとは動けない。

院長が帰るために車に乗り込んだとき、助手さんが洋服一式を持ってやってきた。帰り際の院長にお礼を述べ、見送る。
持ってきたのは冬物のジャケットとズボン。僕が何かのために持っていた新品のシャツとネクタイ。
部屋に戻り、スタッフが親父に服を着せた。最後は僕がネクタイを結んだが、きれいにまとまらず、やり直した。
まだ身体は柔らかく、着替えさせるために身体を横向きにさせたりするのを手伝ったとき、蒲団に手を置いたが、背中の下が温かいので驚いた。

スタッフに着替えをしてもらった親父。ネクタイだけ、僕が結んだ。


お昼なので、スタッフは忙しく台所で食事の準備をしている。その仕事の合間をぬって、みんな親父の部屋に来て、身体をさすり、最後のお別れの言葉を言う。
「今日はこれから忙しくなるから、二人とも今ちゃんと食べておいて」と、スタッフが僕らの分も昼食を作ってくれた。

施設スタッフが用意してくれた昼食を二人でいただく。

葬儀社の手配などがあるので、一旦家に戻る。
ここがいいだろうと決めていた業者があるのだが、施設によく花を持ってきてくれる(営業?)お花屋さんが葬儀社もやっているというので、そこも含めて3件ほど候補を選び、ネットでもう一度調べてから電話。最初に施設で教えてもらった花屋さんに電話して、結局、そこで決めて、残り2件には電話しなかった。

後から分かったが、シンプルな火葬式をするために大切なのは、きちんとした霊安室を自前で持っているかどうかが重要かもしれない。業者によってはトランクルームみたいなところを借りているところもあるようだし。
今回お願いした花屋さんは、最近自前の霊安室を作ったので云々というようなことを電話で言っていて、そのときはピンとこなかったのだが、後から、ああ、こういうことか、と分かった。

2時半までにはご遺体を迎えに行きますということなので、助手さんと二人で再び施設に。
スタッフと話をしながら待っているところに霊柩車到着。
スタッフや僕も手伝って、ストレッチャーにのせて、霊柩車へ。

今どきの霊柩車。ナンバーが「南無南無」なので分かるだけ。

手続きのために僕らもそのまま霊柩車の後ろについて、花屋さんの霊安室に向かう。

花屋さんは、完全に葬儀社に特化していた。ROOM1 ROOM2 とある立派な部屋が霊安室だった。

ここで葬儀もできてしまうな、というくらい立派な霊安室。


ここで申込書に記入して、死亡届や火葬許可などの手続きのために認め印を1つ預ける。火葬は早ければ明日の2時半でできそうだが、決まったら連絡するということで、一旦、デイホームに戻る。

ホームはいつもの日常で、入居者もデイサービス利用者も何かあったとは気づかないまま過ごしている。
すぐ隣で僕らが葬儀の話などを普通にしているのだが、誰も気にとめない。
みんな自分の世界、半分夢の中のような閉じた世界に住んでいるんだなあ、と思った。

家に戻り、葬儀屋さんからの連絡を待っていたが電話がないので、日課となっている近所の老犬を連れての散歩。
地蔵堂まで行って、いつもとは少し違う気持ちで地蔵や如意輪観音像を見た。

今日の散歩はここを目的地にしようと決めて歩き始めた。

2019/03/12

一夜明け、昼前に駅に到着した叔父夫妻を迎え、4人で行川庵に行き、昼食をとった。
ここの厨房で働いているご町内のWさん(僕らより年上の女性)と目が合い、「いらっしゃい~」と声をかけられる。
Wさんは僕が毎日近所の老犬を連れて散歩しているとき、ちょうど仕事を終えて家に戻ってくるタイミングなので、よくすれ違う。毎回、必ず車を停めて、窓を開け、「レオ~。元気~?」「ライチェル~。よかったね~」と声をかけてくれる。
火葬の時間が迫っているので、急いで5合盛りの蕎麦と天ぷら2皿を食べていると、「これはWさんからです」と、思いもかけぬ蕎麦だんご2皿が差し入れされた。
叔母が甘い物好きだそうで大喜び。

4人で5合盛り。


なんとか4人でしっかり平らげ、霊安室へ向かう。


霊安室で。



日光市がやっている火葬場は山の中にある。友引の日は休みだそう。明日が友引だということは後から知った。友引の前、気候もいい時期だからか、空いていた。

火葬場。


施設から施設長と看護師の資格も持っている経理担当のフサさんが来てくださっていた。
スタッフの一人・シバニャンが、親父に「いちばん好きな食べ物は?」と訊いたときに、迷わず「オムライス」と答えたそうで、フサさんはシバニャンが今朝親父のために作ってくれたオムライスを持ってきていたが、「食べ物はお棺には入れられません」と断られて、そのまま持ち帰ったみたいだった。(僕は気づかず、後から妻に聞いた)
骨の中にはチタン合金の人工骨頭があった。骨壺には入れられませんというので、「珍しいものだから」と、無理を言って熱いのに風呂敷に包んで持ち帰ることにした。
高価なパーツなのだが、体に入っていた時間は短かったね。
骨になった親父を骨壺に入れて外に出ると、駐車場にはうちの車以外、1台も停まっていなかった。
静かだ。


叔父夫妻を連れて家に戻り、親父の思い出話などをしながら、朝、買っておいたいちご大福を食べた。
夕方、駅まで叔父夫妻を送って別れた。

これからいろいろな事務処理などがあるので、取り寄せなければならない書類などを確認しはじめる。
手元にある膨大な書類、施設との契約書や介護用品のレンタル契約書、保険証、介護計画書、お薬手帳……これ、全部、この瞬間に必要なくなったのだと思うと、なんだか不思議な気がする。

自分のほうが絶対長生きすると信じきっていたお袋は10年前に先に逝った。
自分の身体もかなり弱ってきたと自覚した頃だっただろうか、一度だけお袋に「よしみつはここまで育ててもらったんだから、パパのことは最後までちゃんと面倒みなさいよ」と言われた。
そのときは、こんなに大変な、というか「複雑な」ことだとは思わなかった。
「ちゃんと死ぬ」「ちゃんと死なせる」ことがこんなに難しいことだとは……。

でも、最後の最後は、見事だったね。
命日は日本中の人が忘れない3.11。僕がラジカセにセットしたCDが演奏し終わる前に、Set me free... と聴きながら。

ありがとう、親父。
親父と約束していた 「YouTube葬」 


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