自然災害と「国防」2019/10/20 15:38

箱根町が近づけないほどの大雨で危機に瀕しているときにこれ……
2019年10月、日本列島を襲った台風19号は、接近するずっと前から気象庁が異例の警戒を呼びかけていた。
「今まで経験したことのないような被害に見舞われる可能性がある。命を守る行動を!」というその警告にもかかわらず、民放テレビは土曜日定番のグルメ番組などを流し続けていた。
箱根町が観測史上最大の降雨量を記録し、大雨特別警報が出されている12日午後になっても、よりによってTBSなどは「箱根のお持ち帰りグルメ50品を全部食べきるのにどれだけかかるか」などとやっていた。

被災地以外の国民が被害の大きさ、深刻さを知るようになるのは台風が去ってしばらくしてからだった。テレビに悲惨な映像が次々に映し出される。
被害が出てから「大変です」「ひどいことになってます」と騒ぎ立てても遅い。
民放テレビ局の発想(というか本音)は「視聴者=災害現場ギャラリー」なのだろう。

問題は国を筆頭とした行政である。
颱風も地震も大雨も必ず襲ってくる。それを人間の手で防ぐことはできない。地球温暖化が原因だのなんだのと言ったところで解決しない。人間ができることは、「被害をいかに小さくするか」を考えることである。

警戒地区の中に放射性廃物ゴミを溜め込む


栃木県内でまっ先に「非常に危険」とされた荒川


今回の台風は風の被害より雨による河川氾濫が怖いことは事前に分かっていた。なので、NHKの防災アプリで河川の警戒レベル情報をずっとチェックしていたのだが、栃木県内でまっ先に赤く表示された(危険レベルに達した)のは塩谷町の中を流れる荒川だった↑。
塩谷町は環境省が「放射性物質を含む指定廃棄物の最終処分場の候補地」として指定して、今も地元の反対を押し切って計画を進めようとしている場所。しかもその候補地は水源地である。
その塩谷町の処分場候補地を見に行ったときの日記が⇒こちら(数ページある)
候補地は山の頂上に近い斜面で、進入路は狭く、このときは台風で壊れ、通行止めだった。
山に入っていく道も細くて折れ曲がっており、工事が始まるだけでも大型車が行き交い、大変危険なことになるだろう。

すでにこの時点で、塩谷町は赤く染められた危険区域のまっただ中↑


環境を破壊し、人々の命を危険にさらし、幸福を奪う環境省。進次郎よ、きみの仕事はそんなことではないだろう? この問題をセクシーに解決してくれるのか?

その後、またたくまにほとんどの河川が氾濫危険になってしまった↑

「再生可能エネルギー」で人が殺される


台風19号による河川氾濫被害は広範囲に及び、被害状況全貌は数日経っても摑みきれなかった。
栃木県では鹿沼市の粟野地区で、北から流れてくる思川(おもいがわ)と粟野川の合流地点を中心に、多くの家屋が水没した
この上流にあたる横根高原の斜面に、ミズナラを大規模伐採してメガソーラーを作るという馬鹿げた計画も、事業者はまだ引っ込めてはいない。
鹿沼市と日光市にまたがる100ヘクタールを超える大規模な計画だったが、鹿沼市が難色を示したために、範囲を変えて、今は日光市の部分を59ヘクタールに増やして建てると言っているらしい。

横根高原メガソーラー建設予定地(左上の青い○の場所)と、今回、浸水被害でひどいことになった鹿沼市粟野地区(右下の青い○の場所)との位置関係(⇒拡大
この高原を水源とした川は北側の足尾町にも流れ込んでいる。足尾は過去何度も洪水被害に見舞われている。
ただでさえこうなのに、上流側の木を伐ってメガソーラー? 正気とは思えない。保水作用は奪われ、表土は簡単に流れ、崩れて……もう、殺人行為ではないか。

さらには、那須御用邸のそばにも約37ヘクタールのメガソーラー建設計画があり、地元住民らが反対している
こういう問題が出るたびに、反対する側は揃って「自然エネルギーには賛成だが、場所を考えてほしい」的な主張をするが、「自然エネルギー」「再生可能エネルギー」と呼ばれている風力発電、太陽光発電の正体をしっかり勉強し直してほしい。「自然」だの「再生可能」だのといううたい文句で補助金、税金をかっさらい、建て逃げを図る企業によって、地下資源はむしろ枯渇を早める。もちろん、温暖化が防げるわけでもない。無駄が増えて、その分、一部の企業に金が集まるという構造は原発ビジネスと同じなのだ。
そういう基本的な認識ができず、資源物理学の基礎が分かっていない民主党政権時のトップが、自然エネルギー万歳の能天気な発想でFIT法を制定した罪は極めて重い。結果、現安倍政権と経産省の悪政を強力に後押しし、軌道修正をしにくくさせてしまった。

外国企業が狙う「建て逃げビジネス」

横根高原も那須御用邸脇も、事業者は外資系である。外国企業が日本の山を食い物にして儲けるという図式。
発電効率なんて考えていない。
関西電力と高浜町の原発マネー贈収賄事件が発覚したが、国から巨額の金が出る事業では必ずこうした図式ができあがる。
関西電力の傘下にあるシーテックの本社課長は、ウィンドパーク笠取(2000kw×40基)を建設する際、「風力発電は、発電では採算が合わないのではないか」と質問され、「その通りです。しかし、補助金をいただけますので、建設するのです」と堂々と答えている
儲かるか儲からないかが判断の基本にある企業と、税金の使い方に無神経かつ不正義な政治が結びつくと、必ずこうなる。
発電プラントを製造する企業、建設する企業は、施設を建てた段階で儲けが確定するので、その後の発電事業には極力関わろうとせず「建て逃げ」する。
昨今話題になっている水道事業の民営化問題も、最終的にはそうした図式になっていくことははっきりしている。
何が「再生可能エネルギー」だ。環境破壊、殺人事業以外のなにものでもないではないか。こういうのをこの国では「経済効果」というのか?

国民が危険な目に遭わないようにする、幸福な生活を破壊されないようにする、将来にわたって持続できる社会を維持できるようにするのが「国防」であり、国の使命のはずだ。
その際に最重視すべきは合理性と持続性である。
しかるに、環境省も経産省も、まったく逆のことをしている。


即位の礼2019/10/27 11:37

木目込みの雛人形(鐸木能子・作)
2019年10月22日。朝から雨が降る中、即位の礼。あのテレ東も含めてすべての地上波テレビ局が中継した。
テレ東の中継を見ていたら、解説役で呼ばれたゲストが「雛人形のモデルは天皇・皇后ですから」ということをポロッと口にした。
それを聞いた妻が「室町雛や有職(ゆうそく)雛は違う」と主張するので、調べてみた。
そもそも雛人形、ひな祭りとは、
  • 平安時代(あるいはそれ以前、土偶などの時代から?)、疫病や穢れを祓うために人形(ひとかた)、形氏(かたしろ)といった、人の代わりに悪いものを引き受ける身代わりとなるものを主に紙で作り、川などに流して災厄を遠ざけるという「禊祓(みそぎはらえ)」の風習があった。それが貴族の間の行事「上巳の節句(じょうしのせっく)」として定着する。
  • 天児(あまがつ)這子(ほうこ)などはそのためのもので、紙から次第に布製のものになり、これが雛人形の起源といえる。一方、子供たちの間では、そうした小さな人の形をしたものでママゴトのようなことをする「ひいな遊び」が流行る。これも「ひな人形」「ひな祭り」へと結びついていく。
  • 室町時代には立ち雛のようなものが登場する。最初は紙などで作られたため平べったく、自立できないようなものだったが、次第に豪華になり、木目込(きめこみ)人形の立雛へと進化していった。
  • 江戸時代になると、人形は川などに流すのではなくそのまま「飾り雛」として飾られるようになり、庶民の間でも平安時代の宮廷を模した雛壇の雛人形となって大流行する。これが今の雛人形、ひな祭りへと続いていく。

……といったことらしい。諸説あるが、大体こういうことなのだろう。

今のような雛人形が庶民の間で流行するのは江戸時代になってからだ。
次第に衣装が派手になっていく傾向に対して、「いやいや、本来の貴族の装束はそんなに下品なものではないぞよ」と、正式なルールに則った装束の雛人形が特注で作られるようになり、主に公家社会や大名家などの上層階級に好まれたという。衣装・装束のルールを担当していた公家の高倉家、山科家が1700年代中頃に作ったといわれている。これが「有職雛」。有職雛の「有職」というのは、宮中の衣装や調度品などの決まり事を、各部門の有識者たちが集まってまとめた「有職故実」のこと。下々が勝手に作った雛人形とは格が違う、これが正式だ、というわけだ。
即位の礼をすべてのテレビ局が生中継し、日本中で見守る──庶民の宮中文化への憧れは、江戸時代も今も変わらないのだなあと、改めて認識させられた。
木目込みで作られた十二単の座り雛(鐸木能子・作)

平成と令和で即位の礼は変わったか

閑話休題。
今回の即位の礼は、平成のときとほぼ同じ形を踏襲したという。
平成のときは、時の総理大臣海部俊樹氏が、宮内庁から「束帯姿で」と要求されたのを拒否して燕尾服で参列し、万歳三唱のときも、「ご即位を祝して」と述べてからのものになった。これは、国民主権をうたう憲法の下での儀式であることを踏まえて、ということだそうだ。
国民の代表として選挙で選ばれた自分が、皇室の宗教色の強い儀式に合わせて束帯姿で出席し、一段低い庭に下りて「天皇陛下万歳」を叫ぶことはおかしい、という、最低限のわきまえを表明するものだったのだろう。
平成の即位の礼では、儀式の場所そのものを京都御所から皇居に移した。
そうした数々の「改革」が、今回はさらに一歩進むのかと思いきや、やはりそうはならなかった。
万歳三唱や21発の礼砲は前回通り行われた。

そもそも現在の即位の礼の儀式内容は明治新政府がアレンジしたものが元になっている。それまでは中国の儀式や意匠を真似て唐風だったものを、岩倉具視が神祇官副知事亀井茲監(これみ)らに「唐の模倣ではない庶政一新の時にふさわしい皇位継承の典儀を策定せよ」と命じたものだという。
当然、それまでは「天皇陛下万歳」や礼砲もなかった。
「日本の伝統的な~」という言葉が検証もなく安易に使われるが、こういう場合は「明治政府が決めた~」「明治になってからこうなった~」と、はっきり言うべきだ。

今回の式典では、新天皇の「お言葉」に注目が集まった。平成のときの文面と比較して、「世界の平和」という言葉が2回、「国際社会の友好と平和」という言葉も加わって、日本国内だけでなく、広く「世界」の平和と共存を願っているのだという思いを強調したと評されている。
一方で、平成のときの「日本国憲法を遵守し」が今回は「憲法にのっとり」にかわったことに懸念を示す学者もいる。
「『のっとり』だと、どんな憲法でも『従えばいい』という感じを与えます。集団的自衛権の行使容認のように、たとえ政権側が憲法解釈をねじ曲げても、その憲法に従わざるを得ないという印象です」
「『憲法遵守』が後退したのは、改憲を目指す政権側の意向がにじんだ結果とみるのが妥当でしょう。憲法4条の『天皇は国政に関する機能を有しない』との規定をいいことに、政治に口を出せない天皇のお言葉を利用して護憲ムードを抑え込む。そんな政治利用も辞さない政権に、この先も天皇が押し切られないか心配です」(立正大名誉教授・金子勝氏=憲法) 「即位の礼」天皇のお言葉を徹底検証 憲法言及は「遵守」から「のっとり」へ 日刊ゲンダイDigital 2019年10月25日

庶民が儀式の衣装や雰囲気に感激している裏には、官邸と皇室の見えない対決があるのかもしれない。

憲法の中の天皇

こうした皇室関連、天皇制関連の話題は、問題の本質に深く入り込むことはタブーで、識者の多くも本音や正論を口に出すことができないでいる。
天皇制そのものに対しては多くの国民が賛成の意を示しているというが、そこで人生を過ごす皇族方、特に天皇・皇后という役割を負う人たちの「基本的人権」について発言する人はほとんどいない。
現行の日本国憲法にはこうある。
第一章 天皇
第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条  皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。
第三条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条  天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

これはいくらなんでも基本的人権を無視していないだろうか。
職業選択の自由がない。少しでも「政治的」と思われる発言は一切できないだけでなく、選挙権も被選挙権もない。
離婚はできるのだろうか? プライベートな旅行なんていうのも、事実上不可能だ。それどころか、「この作家のこの作品が好きです」「俳優の○○さん、男前ですよねえ」なんてことさえ軽々しくは言えない。そんな人生。そんな一生を、自分の意志とは関係なく規定されてしまうのだ。

ちなみに「天皇の国事に関する行為(国事行為)」とは、具体的には、
  • 内閣総理大臣の任命(日本国憲法第6条第1項)
  • 最高裁判所長官の任命(第6条第2項)
  • 憲法改正、法律、政令及び条約の公布(日本国憲法第7条第1号)
  • 国会の召集(第7条第2号)
  • 衆議院解散(第7条第3号)
  • 国会議員総選挙の施行公示(第7条第4号)
  • 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状の認証(第7条第5号)
……などなど(まだまだある)で、実に多い。
これらのすべてで天皇は「形式上の行為」を行わなければならない。そのお姿は時折テレビなどでも放映しているが、それを見る一般庶民の感覚としては「大変だなあ。形式だけなんだから、わざわざ天皇がお出ましになることもないのに」といったものではないだろうか。
しかもこれらに関して天皇ご自身は「行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」「内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」のだ。
ご自身の意志や考えとは無関係に、ただただ形の上での「行為のみを行う」と決められているわけで、これほど個人の人格を無視した法はない。

今回の即位の礼にしても、極めて宗教的事柄が含まれるのだから、国事として行い、多額の税金を使うことに天皇家の人々は反対だったという。しかし、現行憲法に「のっとれ」ば、「行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(国事だとされた段階で、ご自分の事でありながら意見を言えない)「内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」(最終的に内閣の言うことには反対できない)のだ。
しかも、こうした話は口にすることだけでも怖ろしいタブーなので、誰も助けてはくれない。そうした一種極限状況ともいえる制限の中で、どれだけ一人の人間として「自分の意志」「考え」に誠実に従い、行動できるか……想像を絶する困難と孤独を伴うことは間違いない。
そうしたことに思いを及ばすことなく、「天皇陛下万歳!」にしても「天皇制反対!」にしても、あまりに天皇家の人々の資質に甘えていないだろうか。多くの矛盾や弊害を抱えた問題を天皇と天皇ご一家に押しつけているのではないか。
今回、平成天皇が生前退位という道を開いたことも、どれだけ大変なことだったか。本来なら「主権」を有する国民の側から提案していかなければならないものだったのではないか。
平成天皇・皇后ご夫妻が生きてきた人生の誠実さ、強さ、そして誰にも言えぬ孤独を想像したとき、自由お気楽に生きてこられた一庶民としては、目眩がし、言葉を失ってしまうのである。

憲法改正論議はとかく9条問題に片寄りがちだが、それより先に、まずは天皇や皇族の基本的人権問題を解決すべきではないかと思う。
その議論から逃げて、タブーに守られたきれいごとに祭り上げているうちは、政治家も庶民も、現憲法に手をつける資格がないのではないか。

天皇が戦争に利用された歴史は否定しようがない。その結果、多くの人が理不尽な死を強いられた。現憲法はその結果生まれた。人は愚かだから、同じ過ちを繰り返す。そうさせないために、権力者が暴走するのをどうしたら抑えられるかという意図が随所に入れられた。
今また、天皇を道具として利用しようとする不埒な輩が力を伸ばしている。その勢力に、ギリギリまで制限された条件の中で、静かに、誠意を持って立ち向かっているのが現在の天皇家の人たちだという気がしてならない。

天皇家を愛するというのなら、庶民もまた天皇家と一緒に悩み、考え抜き、「国際社会の友好と平和」を本気で希求する気概を示す覚悟が必要ではないか。


「シ」で始まる曲を作った2019/10/28 22:14

今回の録音に使ったギター2台
いわゆる「ドレミファソラシド」のことを音階という。この並びでドから始まる音階を長音階(メジャースケール)、ラから始まる音階を短音階(マイナースケール)という。
個々のドとかレのことを「階名」というが、階名は絶対的な音の高さを表しているのではない。音階の中での音の位置(音階のはじめの音=主音からの相対的な位置)を表している。 これに対して、音の高さを表すのが「音名」で、英語ならABCDEFG、日本式だとイロハニホヘトで表す。
ちなみにイタリア式だとドレミファソラシで、世界で「階名」として最もよく使われているドレミ……は、イタリア式音名をそのまま階名にも使っているというわけだ。

現代の音楽は、IOS(International Organization for Standardization=国際標準化機構)で440Hz(ヘルツ=1秒間の振動数)の音をAとしましょう、と決められている。
このA=440Hz(1秒間で440回の振動の音。Aの音叉を鳴らしたとき、あのUの部分は1秒に440回振動している)の倍の振動数の音(倍音)までの間を12等分して、その各々の音に音名を振ったのが「平均律」という音律(音の並び方)で、一般的なピアノやギターなどはこれに合わせて調律している。

ドレミファソラシドの長音階は、ミとファの間、シとドの間が他の音の間の半分の間隔しかない。この間隔を「半音」という。他の部分、例えばドとレの間にはもう1つ音があって、ド♯とかレ♭などと呼ぶこともあるが、♯や♭は音名につけるべきだという考え方からすれば変な呼び方になる。
ド♯やレ♭にも独立した階名を与えるべきだという考え方から、英語圏の国々では、ドレミのイタリア式音名を基にして、♯は母音をi、♭は母音をeに変えて発音する(Reの場合は元々母音がeなので♭はaにする)という方法も採用されている。ただ、これだとレの半音下は「ラ」、ラの半音下は「レ」となって、RとLの区別がつかない日本人には同じに聞こえてしまって大混乱になる。(本来、レはRe、ラはLaで、子音がRとLで違う)

この「半音部分」はとりあえず置いておいて、ドレミファソラシドの長音階、ラシドレミファソラの短音階だけに話を絞ると、世の中の多くの曲は、この長音階、短音階のいずれかの音階を基にしたメロディである。
童謡『チューリップ』は、ドレミ ドレミ ソミレドレミレ……と始まる長音階(長調)の曲であり、『荒城の月』はミミラシドシラ ファファミレミ……と始まる短調の曲である。

ドレミファのうち、長調ならドが音階の主音、短調ならラが主音で、メロディの中でいちばん安定した音に聞こえる。つまり、長調ならドで、短調ならラで終わると落ち着く。実際、『チューリップ』の最後(どの花見ても、きれいだな)は、ソソミソララソ ミミレレドー、と、ドで終わっているし、『荒城の月』の最後(昔の光 今いずこ)はミミラシドシラ ファレミミラ、と、ラで終わっている。
主音の次に安定して聞こえるのは3度(主音から3番目)と5度(主音から5番目)の音で、長調ならミとソ、短調ならドとミである。
主音でも3度、5度でもないレ(長調なら2度、短調なら4度)、ファ(長調なら4度、短調なら6度)、シ(長調なら長7度、短調なら2度)という音は、メロディの最初や最後に来ることは滅多にない。
滅多にない例を探してみると、『君が代』はレで始まりレで終わるという珍しい曲であり、トワエモアが歌ってヒットした『空よ』はファで始まっている(終わりはドなので普通)。
さて、シで始まったりシで終わっている曲というのはあるだろうか? 有名な曲ではなかなか思い浮かばない。
シは長調では主音のドの半音下で、なんとかドにたどり着きたいよ~という不安定な音に聞こえる。これを「導音」という。(ちなみに短音階の場合、主音のラの下のソは半音ではなく全音離れているので不安定さはなく、「導音」とは呼ばない)

というわけで、「シ」は、長音階では導音という不安定な音、短音階では2度という、主役にはなりづらい音なのだ。だからシで始まったりシで終わったりする曲は簡単には見つからない。

Beginning with ‘Si'

では、シで始まり、シで終わる曲が作れないだろうか?

と、ふと思いついたのがひと月以上前のことだった。
これは、2音だけで曲が作れないかという発想で作った『Two Note Waltz』にも似た発想で、苦し紛れというか悪あがきの作戦。いいメロディがなかなか思い浮かばないので、ヒントというか、わざと条件を厳しく与えることによって、個性的でいいメロディが生まれないか……という思惑。

頭の中で「シー……」と思い描きながらいくつかのメロディを組み立ててみる。寝ているときもずっと考えていたので、朝、変な夢を見て起きた直後にも頭の中には「シ」が鳴っている。
この「シ」はあくまでも音階の中の「シ」であって、Bの音ではない。つまり頭の中で鳴っている「シ」は、そこからつながるメロディに導くシである。

シーーーー シドレミレドミ シーラシーーーーー
……というメロディは当初からずっと頭の中で鳴っていた。でも、そこから展開するメロディがつまらなかったりして、何度も捨てては拾い、の繰り返しになった。
ある程度の小節数浮かんだときは、MuseScoreという記譜ソフトでメモしておく。翌日は疲れて確認するのも嫌で、数日後にその譜面を見ると、そのときに思い浮かべていたメロディとは全然違っていて、あれ? じゃあ、やっぱりこのメロディでは不自然なのかな、駄作にしかならないのかな、と、見捨てることになる。
そんなことを何度か繰り返していたが、その間はずっと例の「紙の本」作りに一日の大半を費やしていたので、実際にはほとんど「シで始まる曲作り」には向き合っていなかった。

国会図書館に送る本の第一陣が準備できたので、久々に「シから始まる」に向き合ってみた。
歌にしたかったので、歌詞がつかないといけない。どうせなら歌詞も「し」で始まり、「し」で終わらせてみたい。
これは『ドミソの歌』のときにも苦労した制約。ドやレはいいのだが、ファで始まる単語がない。あるとしても外来語だからね。ファイトとかファンファーレとか、そのへんはもう使われていたし……。

で、「白い」で始めると、「しろ」は弱起(小節の前にはみ出した部分)になるだろうな、弱起で2音入れるなら、シラシーーーとしたかったのだが、それだと「白い」のイントネーションには合わないよなあ。「白い」で始めたいなら、シラシーーではなく、シドシーーーだよなあ……などなど、またいろいろ制約が出てくる。
そういう制約を楽しみながら作ったのだが、結局、イントロがマイナーナインスコード、サビ部分は「いいメロディに聞こえる魔法のコード進行」を使ってしまうというクリシェ(使い古された手法)三昧。
……情けない。シで始まるというユニークさを追求したのに、出来上がりは自分にとってのクリシェだらけかい。

でもまあ、最後はそれでいい、ってことにした。
コードや作風はタクキ節なんだけど、シで始まりシで終わるというルールは達成できたし、サビだってファで始まっている。
十分健闘したということにしておこう。

……以上はメロディにおける話だったけど、この曲には他にもいくつかの暗喩を込めている。「シで始まる曲を作ってみようかな」とフェイスブックで呟いたとき、すでにその暗喩を見抜いている人もいたので、歌詞がついた今は、誰にでも分かることだと思うけれど。

長い前置きはここまで。

出来上がった曲はこんな感じ↓ まともなスピーカーで聴いてほしいけれど、スマホの人は、せめてちゃんとしたイアフォンで聴いてね!

シから始まる from TANUPACK

ちなみに、最初はEmで演奏してみたのだが、Em9で始める曲があまりにも自分にとって定番なのと、もう少し高いほうがきれいに歌えそうだったので、Fmで演奏してみた。Fm(ヘ短調)だから、この演奏における「シ」はGの音である。


ついでに「2つの音だけでメロディを作る」という発想から生まれた『Two Note Waltz』も復習?としてどうぞ↓

Two Note Waltz  TANUPACK on Vimeo.

ちなみにこのイントロ(ベース音が半音ずつ下がっていく)の演奏方法を音楽の世界では特に「クリシェ」といっているが、クリシェはもともとは「使い古された陳腐な方法」というような意味のフランス語である。