大塚康生さんとの想い出 ― 2021/03/22 12:06
大塚康生さんが亡くなってしまった。
世間一般には、
当時の日本のアニメ業界を舞台にした朝ドラ『なつぞら』では、麒麟・川島明が演じた下山克己のモデルとなっているのが大塚さんだ。
昭和6(1931)年生まれだから、私の両親(昭和3年生まれ)と同世代。つまり、私とは親子ほど歳が離れている。
原画を担当した『白蛇伝』(東映動画)の公開は1958年。私はまだ3歳。
当時のアニメーション映画は、小学校の「幻灯」の時間でいくつか見た記憶がある。『安寿と厨子王丸』(1961年)はよく覚えているが、この作品でも大塚さんは原画を担当していた。
当時のアニメ映画の質は、色づかいといい、コマ割りの細かさやストーリーの豊かさなど、様々な点で、今よりもずっと高かったのではないかと思う。
ビジネスとしてだけでなく、世界レベルの作品を作るのだ、という気概にあふれていたからだろう。
伝説のアニメーター・大塚康生……でも、私の中では、アニメ作品とはリンクしておらず、「無邪気な狛犬好きの爺さん」である。
私の人生の中で出会った大塚康生さんという「人」の素晴らしさを少し書き残しておきたい。
例会のときも、例会後の懇親呑み会の席上でも、わざわざ近づいてきてさかんに話しかけてくる老人がいて、この人は一体誰なんだろう? と戸惑った。まるで旧知の仲であるかのように、あたりまえに話を振ってくるのだ。
終始ニコニコして、多動性の子供のように振る舞う。
初対面の人だし、もちろん名前も知らない。普通に受け答えしていたものの、ずっと面食らったままだった。
結局、そのときは最後までその老人の正体を知らないままだったと思う。
次に会ったのもやはり「こまけん」の例会で、そのとき、他の会員の誰かから「たくきさんって、大塚康生さんとは長いおつきあいなんですか」とかなんとか言われて、初めてお名前を耳にしたと思う。
「全然知らない人だ」と答えると、訊いてきた会員は驚いて「アニメの世界では超有名な人ですよ」と教えてくれた。
それでもまだ、自分はアニメマニアじゃないし、知らなくて当然だし……などと思っていた気がする。
どういういきさつだったのかは忘れたが、知らないうちにメールをやりとりするようになって、大塚さんから、ある日大量の画像が添付で送られてきた。欧州を旅行したときに撮影したガーゴイル(gargoyle=雨樋の役割をする化け物彫刻)の写真だという。
そのときも、変わった人だなあと思ったのだが、ガーゴイル論に発展するでもなく、そのままになっていた。
この夏、岐阜から友人の大須赤門夫妻が川内村の拙宅に遊びに来た。寅吉・和平の作品めぐりをしたいというので案内することになっていたのだが、ふと大塚さんのことを思い出してメールしてみた。よかったら一緒にどうですか、と。
即答で「行きます!」と返事が来た。
当日、磐越東線の神俣駅まで来てもらったのだが、列車が無人ホームに着くなり、笑顔でピョンと両脚を揃えてホームに飛び降りたのには驚いた。
本当に無邪気な少年のような人だ。
ご高齢なので、狛犬めぐりの間、体力が持つかしらとちょっと心配したのだが、終始上機嫌で喋りまくり、斜面にのぼって狛犬の裏側にまわって撫で回したりしている。そのうちに興奮しすぎて倒れてしまうのではないかとハラハラするほどだった。
世間一般には、
日本におけるアニメの創成期から第一線で活躍し、宮崎駿や高畑勲と組んで『太陽の王子 ホルスの大冒険』『ルパン三世』『パンダコパンダ』『未来少年コナン』『じゃりン子チエ』などを手がける。(Wikiより)……という人物として知られている。
当時の日本のアニメ業界を舞台にした朝ドラ『なつぞら』では、麒麟・川島明が演じた下山克己のモデルとなっているのが大塚さんだ。
昭和6(1931)年生まれだから、私の両親(昭和3年生まれ)と同世代。つまり、私とは親子ほど歳が離れている。
原画を担当した『白蛇伝』(東映動画)の公開は1958年。私はまだ3歳。
当時のアニメーション映画は、小学校の「幻灯」の時間でいくつか見た記憶がある。『安寿と厨子王丸』(1961年)はよく覚えているが、この作品でも大塚さんは原画を担当していた。
当時のアニメ映画の質は、色づかいといい、コマ割りの細かさやストーリーの豊かさなど、様々な点で、今よりもずっと高かったのではないかと思う。
ビジネスとしてだけでなく、世界レベルの作品を作るのだ、という気概にあふれていたからだろう。
伝説のアニメーター・大塚康生……でも、私の中では、アニメ作品とはリンクしておらず、「無邪気な狛犬好きの爺さん」である。
私の人生の中で出会った大塚康生さんという「人」の素晴らしさを少し書き残しておきたい。
出会い
初めて大塚さんと話をしたのは、2000年前後くらいだっただろうか。日本参道狛犬研究会(こまけん)の例会でのことだった。例会のときも、例会後の懇親呑み会の席上でも、わざわざ近づいてきてさかんに話しかけてくる老人がいて、この人は一体誰なんだろう? と戸惑った。まるで旧知の仲であるかのように、あたりまえに話を振ってくるのだ。
終始ニコニコして、多動性の子供のように振る舞う。
初対面の人だし、もちろん名前も知らない。普通に受け答えしていたものの、ずっと面食らったままだった。
結局、そのときは最後までその老人の正体を知らないままだったと思う。
次に会ったのもやはり「こまけん」の例会で、そのとき、他の会員の誰かから「たくきさんって、大塚康生さんとは長いおつきあいなんですか」とかなんとか言われて、初めてお名前を耳にしたと思う。
「全然知らない人だ」と答えると、訊いてきた会員は驚いて「アニメの世界では超有名な人ですよ」と教えてくれた。
それでもまだ、自分はアニメマニアじゃないし、知らなくて当然だし……などと思っていた気がする。
どういういきさつだったのかは忘れたが、知らないうちにメールをやりとりするようになって、大塚さんから、ある日大量の画像が添付で送られてきた。欧州を旅行したときに撮影したガーゴイル(gargoyle=雨樋の役割をする化け物彫刻)の写真だという。
↑大塚さんから送られてきた大量の「ガーゴイル」写真。800枚近くある。
↑いただいたガーゴイル写真の中に入っていた。おいくつくらいのときだろうか
そのときも、変わった人だなあと思ったのだが、ガーゴイル論に発展するでもなく、そのままになっていた。
即答で寅吉・和平ツアーに駆けつける
忘れられないのは、2005年8月の「寅吉・和平ツアー」だ。この夏、岐阜から友人の大須赤門夫妻が川内村の拙宅に遊びに来た。寅吉・和平の作品めぐりをしたいというので案内することになっていたのだが、ふと大塚さんのことを思い出してメールしてみた。よかったら一緒にどうですか、と。
即答で「行きます!」と返事が来た。
当日、磐越東線の神俣駅まで来てもらったのだが、列車が無人ホームに着くなり、笑顔でピョンと両脚を揃えてホームに飛び降りたのには驚いた。
本当に無邪気な少年のような人だ。
ご高齢なので、狛犬めぐりの間、体力が持つかしらとちょっと心配したのだが、終始上機嫌で喋りまくり、斜面にのぼって狛犬の裏側にまわって撫で回したりしている。そのうちに興奮しすぎて倒れてしまうのではないかとハラハラするほどだった。
↑↓古殿八幡神社の狛犬を見る大塚さん。
羽黒神社にて。この和平の狛犬(昭和8=1933年)は、その後、3.11東日本大震災で倒壊してしまった。
石都都古和気神社御仮屋にて。
↑石都都古和気神社の親子獅子、3頭の子獅子に想いをはせる自画像、とのこと。
一色の鐘鋳神社にて。
鹿島神社にて。寅吉の最高傑作を見る大塚さん。
神宮寺墓地にて、寅吉が彫った夫婦鶴の墓を見る大塚さん。
国津神社にて。梅沢敬明のデコラティブ狛犬を見る大塚さん。
借宿の羽黒神社参道口。寅吉の石柵の前で。
石柵の中の逆立ち獅子↓を撮る大塚さん↑。
川田神社にて。
沢井八幡神社の波乗り兎↑の「耳」を渡される大塚さん↓ 渡しているのはこの日、途中から案内役で加わってくださった石川町元助役の吉田利昭さん
沢井八幡神社では、和平が初めて銘を入れた石の社とキツネ像↓も
川辺八幡神社にて。和平最後の作品を見る大塚さん↓↑。
斜面に乗り出して狛犬の裏側にまで回り込む↑
↑気をつけてくださいよ~。
日本を代表するアーティストに最後の作品をしっかり見てもらえて、和平も喜んでいることでしょう。
↑いい旅だったなあ……と回想する大塚さん(自画像)
この狛犬ツアーでは、私のプジョー307で移動したのだが、移動中、車好き(特にジープ)、メカ好きという情報を得ていたので「ジープがお好きなんですって?」と話を振ったりした。
もう歳で、ああいう車は運転できないから、今はフォードのフォーカスという乗用車に乗っている、とのことだった。
クルマの話はそれ以上は膨らまず、車内ではずっと狛犬の話だった。
その夜は、赤門夫妻らと一緒に川内村の旅館「小松屋」に泊まっていただいた。
翌朝、旅館に迎えに行くと、赤門が色紙を持参していて、サインをねだっていた。大塚さんはサラサラとルパン三世の絵を描いて渡していた。
その後、妻がX-90で駅まで送って行き、一泊二日の狛犬ツアーが終了。いや、大塚さんは、待ち合わせに遅れたらいけないと思って、前日には郡山のホテルを取って「前乗り」したそうなので、二泊三日の旅になったのだった。
翌日、丁重なお礼メールが届いた。寅吉・和平の狛犬の素晴らしさを語ったそのメールの最後には、「たくきさんはきっと受け取らないと思ったので、失礼ながら、お車のドアポケットに些少ですがガソリン代を置かせていただきました」とあった。
X-90の車内を確認したところ、紙に包まれた1万円札があった。
「永遠の少年」という言い方があるが、大塚さんはまさにそういう人だったと思う。
好きなこと、興味のあることに夢中になり、真剣に人生を楽しむ。
私には「少年のような」という部分はむりだけれど、「真剣に人生を楽しむ」姿勢は見習いたい。そうした生き方の師匠である。
ああ、大塚さん。あなたがいなくなってしまうなんて、寂しすぎます。