Amazonでオリジナル書籍を売るまでの道のり2019/09/22 21:28

ISBNコードを振ってA5判からB6判208ページ構成に改定した『新・マリアの父親』
オンデマンド出版なら赤字を抱えずに本が作れる、という時代になった。しかし、赤字にならないのはいいが、とにかく売れない。個人が運営するWebサイトだけでPRするのは限界があるし、カード情報の入力なども抵抗があるからか……。
オンデマンドブックをAmazonで売れたらいいのだがなあ……ということは以前から考えていた。
『狛犬かがみ』は初版と改訂第2版のいずれも売り切って、現在在庫なし状態が続いている。一般書店で数千冊も売れたとは到底考えられないので、ほとんどはAmazon経由ではないかと思う。
現在の版元(トランスビュー)は取次を通さない「一人出版社」の先駈け的存在で、その販売手法はいろいろなメディアで取り上げられている。
哲学思想、宗教、教育などを中心に、日販・トーハンといった取次店を通さず、直接書店に書籍を郵送する方法で卸す独自の営業で注目されている。取次店では太洋社のみ取引があるが、このルートで流通された商品は書店からの返品を認めない。また配本部数も全て書店に一任されており、他の出版社が行う新刊委託(注文がなくても、出版社・取次店側が見計らって送品すること)は一切行わない。
池田晶子「14歳からの哲学」( ISBN 978-4-901510-14-1 )は30万部を超えるベストセラーとなった。
Wikiより

トランスビュー方式とは、「書店に直で卸す本は、送料自社持ちで返品も認めるが、返品するときは送料は書店持ちでね」という方式。
しかし、この方法でも、本はオフセットでまとまった冊数作っておかねばならないし、受注・発送などの作業も全部自分でやらなければならないから、労力も運転資金もかなり必要になる。

ISBN出版者コードを取得する

商業出版では売れないと判断される本を自分で次々に出版しようとする場合、在庫を抱える方式は到底無理なので、オンデマンド出版以外は考えられない。しかし、オンデマンド本をAmazonで売ることは可能なのか?
調べていくと、最初の条件は「ISBNコードをつける」ことだった。
Amazonでは、商品としての本には必ずこれがついていることを条件としている。

ISBNとは何か?
出版業界の人には説明不要だが、一応書いておくと、ISBNは書籍を識別するための世界共通コードで、本の戸籍のようなもの。ISBNコードをつけることで、日本だけでなく、世界中ですぐにその本が何かを特定することができるようになる。
13桁のコードで表され、日本の出版物の場合、通常は、
ISBN978 - 4 - AAAA - BBBB - C
という構成になっている。
最初の978-4は出版元が日本または言語が日本語であることを示している。ちなみに978-0および978-1は英語、978-2はフランス語、978-3はドイツ語……だ。
A部分は「出版者記号」、B部分は「書名記号」で、それぞれの桁数は決まっていないが、合計で8桁になる。
A部分が2桁なら残りは6桁だから、000000から999999までの100万冊分の書名コードが割り振れる。
最後のC部分の1桁は「チェックディジット」といって、検算機能を持っている。ISBNコードが正しいかどうかを決められた数式にあてはめて計算した結果の0 - 9の数字1桁が入る。
『医者には絶対書けない幸せな死に方』には、ISBN978-4-06-291514-4 という13桁のISBNコードがついている。
06が講談社を示し、291514は『医者には絶対書けない幸せな死に方』という本に個別に振られたコードだ。
ちなみに2桁コードを持っている出版社を番号が若い順に並べていくと、
  • 00 岩波書店
  • 01 旺文社
  • 02 朝日新聞社出版
  • 03 偕成社
  • 04 角川書店
  • 05 学研
  • 06 講談社
  • 07 主婦の友社
  • 08 集英社
  • 09 小学館
……である。
これらは計算上は100万タイトルまでは順番にISBNコードを振っていけることになる。

ISBNを取得するには、出版社や発行人となる個人や団体が日本図書コード管理センターに登録申請をして「出版者コード」を決定してもらうことが第一歩となる。

今回、「タヌパック」が取得した出版者コードは910117で、6桁コードなので、その後に使えるのは2桁(00~99)。つまり100冊(100タイトル)分のISBNコードを取得した。死ぬまでに100タイトル使いきるかどうかは分からないが、10タイトルでは不足なのは明らかだから、とりあえずは100タイトル分取得したわけだ。

Amazonで売るための3つの方法

さて、ISBNコードをつけたオンデマンド本をAmazonで売るためには、以下の方法があることが分かった。
  1. Amazon PODという、Amazon自身がやっているオンデマンド本販売システムで売る。ただし、これはAmazonが契約した取次業者を通してしか使えない。
  2. 「e託」という方法で、Amazonに本を預けて売ってもらう。Amazonの仕入れ数はAmazonが決める。売れたら、その分、Amazonから納入依頼が届くので、都度、Amazonに本を納入する。
  3. Amazonに毎月契約料を払って「大口販売業者」となり、マーケットプレイスで販売する。売れても売れなくても契約料は支払わなければならないし、本の発送も自分で行う。

このそれぞれについて、経費やリスク、運営する上での自由度や満足度を調べた結果、3の方法しかないと分かった。
1は本の形式がAmazonで細かく決められており、本を作る上での自由度が制限される。また、取次業者に本を登録(PDFファイル)した後は、訂正が効かない。もちろん、取次業者への手数料がかかる。
2は、Amazonに支払う手数料割合が大きい上、都度、本をアマゾンに納入する手間とコストがハンパない。
3は、自分で配送するから、印刷・製本所から購入者に直送できるので、送料と時間を節約できる。ただし、売れても売れなくても大口取り引き契約者としての契約料(毎月約5000円)は払い続けるし、個別の売り上げにもAmazonへの手数料(15%+80円)はかかるので、赤字は確実に出るであろう……。

ここまで調べて、計算をするのだけでもかなりのエネルギーを使った。しかし、ISBNと出版JANコード取得(これはAmazonでしか売らないなら必要ないのだが、一応、将来どうなるか分からないので取得した)も済んだので、後には戻れない。

最後の壁は、Amazonのカタログに本を新規登録することだった。新たにISBNを振る本だから、当然、どこのデータベースにも存在しない本なわけで、「こういう本を新規に出版しますので、Amazonさんのカタログに登録してください」と申請し、認めてもらわないといけない。
これが実はいちばん不安だった。その不安は的中して、最初にいろいろやりとりがあって、行き違いもあったのだが、数日で解決し、今は自由に「新刊書」をAmazonのカタログに登録できるようになった(今後、システムやポリシー変更などがないことを祈るばかり)。

現在、「タヌパック」がAmazonで売っている本は⇒こちらからどうぞ。

ISBNと出版JANコードのバーコードを規定通りに印刷した本。このバーコード、デザイナーにはとても評判が悪い。これのおかげで本の表4デザインが台なしになってしまうから……。実際、その作業をしてみると、「邪魔だよなあ」という気持ちになる

賢治に比べたら……

……というわけで、なんとかタヌパックの本がAmazonを通じて販売できるようになった。

しかし、これでめでたしめでたしとは当然ならない。
最大の誤算は、「Amazonに出しても売れない」ということだった。
すでに1週間以上経過したが、見事に1冊も売れていないのである。
10月からは消費税も上がり、印刷・製本代、送料、Amazonへの契約料など、すべての経費が上がる。
人々の生活も苦しくなり、本を読む気力も時間も金銭的余裕もなくなる一方だろう。
こうなったら、しっかり覚悟を決めるしかない。
どうせ残された時間はわずかなのだから、生死に関わらない範囲なら、金勘定のことでアッパトッパすることはない。
宮沢賢治は、生きている間は自分の作品がまともに本にさえならなかった。
生前に刊行されたのは、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』だけだが、どちらも自費出版だ。『春と修羅』は地元花巻の印刷所に持ち込んで1000部を作り、ある人物に500部委託して東京での販売を頼んだものの、「ゾッキ本」(売れない新刊本)として流され、定価2円40銭のところ、古本屋で50銭で売られたという(Wikiより)。
『注文の多い料理店』のほうは、盛岡高農の後輩たちの協力を得てなんとか出版費用を工面して1000部作ったが、まったく売れず、賢治自身が父親から借金して200部を買い取ったそうだ。

まあ、それに比べたら、今の自分ははるかに恵まれた環境にいる。この幸福を味わい尽くしてから死ぬぞ、という前向きな気持ちになれる。

改定の道程も作品?

今回、Wikiの「宮沢賢治」を改めてチェックしていて、
賢治の作品は、一旦完成した後も次から次へ書き換えられて全く別の作品になってしまうことがある。これは雑誌に発表された作品でも同様で、変化そのものが一つの作品と言える。(Wikiより

という一節を初めて読んだ。
ああ、これって、オンデマンドならいくらでもできるんだよな、と思った。ISBNコードの役割からしたら、同じ番号の書物の内容がどんどん書き換えられるのは御法度だろうが、誤字訂正とかなら当然許容範囲だし、デジタル時代の出版物というのは、改訂作業の自由度が高いことも大きなメリットといえる。
Kindleブックなどは、同じ登録書籍のカバーや内容改定をいつでもWEB上の編集ページから行えるしね。

現在、ISBNコードを振りながら、コストの問題もあって、A5の2段組で作った本をB6の1段組に編集し直したりしているのだが、2013年に作ったA5判の『新・マリアの父親』には、だいぶ直したつもりだったが、かなり誤字・脱字が残っていた。細部の表現や間違いなども直しながら、頭からていねいに編集した。
その編集作業をしながら、へえ~、こんな話だったのか、と、感心している「作者」。ラストシーンでは思わず涙ぐんでしまったよ。

1冊も売れていないのに、あれもこれも……と、やりたいことが一気に増えた。楽しい60代を送るための赤字なら、それはもう人生の必要経費でしかない。
しかし、オンデマンド本は1冊も売れなければ、「もの」として存在しなかった本になってしまうわけだから、このままではいかんわなあ……。



「絶対」音感なんてものはない2019/02/11 21:25

学校の放送室

「移動ド音感」と「固定ド音感」

学校のチャイム

テスト1


とりあえずこれ↑を聴いてほしい。(音が出ない場合は左端の三角印をクリック)
どう聞こえるだろうか?
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

1の人は、メロディを聴くとドレミファ……という階名をラベリングする習慣がある。
2の人は、メロディを階名と結びつける習慣がない。

世の中の人は、概ねこの2通りに分けられる。
ちなみに上のメロディを譜面に表せばこうなる↓

テスト2

では、次のこれ↓はどうだろうか(三角印をクリック)


  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ファラソド ファソラファ ラファソド ドソラファ ……と聞こえる
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない


1の人は移動ド音感である。
2の人は固定ド音感である。
3の人はどちらでもない。(メロディは「ああ、あれだ」と分かっても、階名には結びつかない)

最初のケースの1の人が、2つのグループに分かれたわけだ。
ちなみに上のメロディを譜面に表すとこうなる。

これを移動ド音感の人は、キー(調)に関係なく、「長調のメロディ」として聞こえてくるので、

↑こう聞こえる。ちなみにF(和音名=ヘ)の音をドレミ……のドにした長音階(ヘ長調)に相当するので、本来譜面の横には b(フラット) が1つつくが、この学校チャイムのメロディには「B」(和名音名なら「ロ」)に相当する音が含まれていないので、b がなくても演奏には影響がない。

一方、固定ド音感の人は、あくまでもA=440Hzの調律をした楽器の「Cの音をドと固定して聴いている」ので、

↑こう聞こえる。

テスト3

では、次はどうだろうか?(三角印をクリック)

  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ファラソド ファソラファ ラファソド ドソラファ ……と聞こえる……かな?
  3. ミ ソ# ファ# シ ミ ファ# ソ# ミ ソミファシ シ ファ# ソ# ミ ……と聞こえる……かな?
  4. 気持ちが悪い
  5. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

1はもう説明不要だが、移動ド音感の人である。
2.3.4.は固定ド音感の人だが、いわゆる「絶対音感」というものにどれだけ忠実な耳であるかで反応が分かれる。
実はこれ、A=422.5Hzというチューニングになっている。
現代では、A=440Hzというチューニングが標準とされ、クラシックなどでは少し高めのA=442Hzあたりのチューニングをすることもある。
しかし、A=422.5Hzまで下げると、A=440Hzのときの半音下のAb(G#)が415.3Hzなので、ヘ長調(Fメジャー)でもホ長調(Eメジャー)でもない中途半端なチューニングになる。(FメジャーよりはEメジャー寄り)

念のために、半音下げたEスケール(ホ長調)でも聴いてみよう。↓



これはA=440Hzのチューニングなので、「気持ちが悪い」という人はいなくなり、
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ミ ソ# ファ# シ ミ ファ# ソ# ミ ソミファシ シ ファ# ソ# ミ ……と聞こえる
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

の3通りに分かれると思う。

しつこいようだが、Gスケール(ト長調)でも聴いてみよう。



これだと、
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる(移動ド音感)
  2. ソシラレ ソラシソ シソラレ レラシソ ……と聞こえる(固定ド音感)
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

の3通りのグループに分かれるはずだ。

端的に言えば、固定ド音感の人にとって、Fスケールの学校チャイムとEスケールの学校チャイムは(違う高さの音で構成されている)「別々のもの」だが、移動ド音感の人にとってはこの両者は(「学校チャイムのメロディ」という意味で)「同じもの」なのである。

音楽は「相対音感」の文化である

さて、多くの人たちは、耳で聞いたメロディを即座に楽器で演奏してみせる人のことを「絶対音感」がある、などというが、それは間違いである。
まず、世の中の多くの人たちが「絶対音感」と呼んでいる音感は、ほとんどが「A=440Hz調律をしたときの固定音感」とでも呼ぶべき音感である。
このタイプの「固定音感」の持ち主は、クラシック音楽の演奏家などに多い。
「譜面に強い」のも特徴で、上のテストで固定ド音感であった人たちの多くは、この程度のメロディであれば、聴いた音をサラサラと譜面に書きおこすこともできる。
一方、移動ド音感の持ち主は「相対音感」を持っている。基準音がどんな周波数に調律されていようと、1オクターブ(周波数が倍音の関係)の間を12に分割した音の相対関係が正確であれば、音楽的には何の問題もなく、ちゃんと「メロディ」として把握できる。
優れた「相対音感」の持ち主もまた、メロディを聴けば譜面なしで歌ったり演奏したりできる。
この「相対音感」こそが、音楽(特に作曲や即興演奏)にとって重要な音感である。

固定音感(世の中の多くの人が「絶対音感」と呼んでいる音感)を持っていても音痴な人はいる。逆に、相対音感を持っていても「譜面は読めない」「譜面には弱い」という人はとても多い。
典型的な相対音感人間の例は安全漫才のみやぞんだ。

みやぞんはメロディを相対音感でとらえているので、譜面などなくてもメロディを再現できる↑
ガヤの中から「絶対音感があるやん」という声が聞こえるが、これは間違い。「相対音感」があるのだ。


上の動画を見て分かるように、原曲のキーに関係なく、みやぞんはすべてFスケール(ヘ長調)で弾いている。それが自分にとって弾きやすく、コードなどもFスケールの指癖で覚えてしまっているからだろう。
彼にA=422.5Hzでチューニングされたメロディや歌を聴かせても、長調であれば全部ヘ長調で演奏するに違いないし、A=440Hzからずれたチューニングであることも気づかないはずだ。

「半音」部分を言い表せない移動ド音感

ドレミファ……の階名には一つ大きな問題がある。
長音階(メジャースケール)、短音階(マイナースケール)から外れた音に対するラベリング(名前付け)がないことだ。
ひとつ例を挙げよう。
もうひとつ例を挙げよう。

月桂冠のテレビCM
この「好きだよね 月だよね」というジングル(広告コピーや社名、商品名などを短いメロディにのせたもの)はとてもよくできている。
こういうメロディだ。



これはBbスケール(変ロ長調)を基本にしたメロディなので、移動ド音感の人は、最初のところは

レミレドミ

……と聞こえる。
ちなみに、フリューゲルホルンやテナーサックス、ソプラノサックス、トロンボーン、ユーフォニウム、バスクラリネットなどは「Bb管」と呼ばれる管楽器で、基本のドレミファ……がBbスケール(Bbが「ド」)の音になる。だから、これらの楽器で「レミレドミ……」と吹けば、上の音になる。
これらは「移調楽器」なんて呼ばれるけれど、固定ド固定音感の人がこうした移調楽器を演奏しようとするとき、あるいは記譜しようとするときは、頭の中で一旦移調しなければならず、混乱するという。

ところで、このメロディのチャームポイント?は、二度目の「だよね」の「だ」がブルーノート(メジャースケールにもマイナースケールにも含まれない音)になっているところだ。
完全な長調のメロディだとちょっと面白くないのだが、ここにブルーノート(移動ドでいえばレとミの間の半音)が入ることでちょこっとおしゃれ感というか、ブルーステイストが出る。
しかし、ドレミファの階名だと、こういう半音部分は名前がないので、移動ド音感の人は、そこだけドレミで歌えなくなる。

レミレドミ ラソ●~レド

と聞こえるのだ。
●のところは普通に行けばミになりそうだが、ミではない。思わず頭の中では「む~」とか「ん~」となってしまう。
それに引きずられて、その後に続く最後の「レド」も、この音の後だともはや「レド」とは聞こえず、

レミレドミ ラソむ~むむ~

……みたいに聞こえてくるかもしれない。

一方、固定ド固定音感の人たちにはこうしたことはまったく関係ない。これがミbであることはすぐに分かるからだ。この音はこれでしょ、と、楽器上で勝手に指が動く。そういう訓練を受けている人たちが多い。


ちなみにみやぞんがこれを聴いて「ピアノで弾いてみて」と言われたら、迷わずFメジャー(ヘ長調)で弾き始めるだろう。
こういう感じで↓



シンプルにコードをつければこんな感じかな。





相対音感人間が激減している?

みやぞんが優れた相対音感の持ち主であることは間違いないが、彼がメロディを聴いたときにドレミ……の階名ラベリングを頭の中でしているかどうかは分からない。
また、ドレミ……でラベリングできるかどうかは、さほど重要なことでもない。
ドレミ……という階名は長調と短調のスケールの中でのラベリングであって、ジャズのようなテンションや転調がコロコロ出てくる音楽ではドレミ……ラベリングはあまり意味をなさないかもしれない。
実際、耳で聴いたときの階名ラベリングができなくても優秀な相対音感を持っている人たちもたくさんいる。ドレミは分からないし、譜面も読めないけれど、一度聴いたらすぐに歌えてしまう人などはそういうタイプだ。

ただ、みやぞんのような相対音感人間がどんどん少なくなってきていると感じるのは私だけだろうか。

「絶対音感」なんてない

固定ド固定音感の人たちが、移動ドや相対音感のことを、上から目線で「育ちが悪い」とか「音が狂っているのに分からないなんて」とか「ファソラなのにドレミって歌うなんて吐きそうだ」とか言っているシーンを目にする。音大生やプロの演奏家にも多い。
そういう人たちは、自分たちが「絶対音感」の持ち主であることにエリート意識を持っている。しかし、彼らは「絶対音感」という言葉の「絶対」という部分にマインドコントロールされているだけではないのか。
調律の仕方に「絶対」なんてない。どんな高さに調律しても、個々の音の相関関係がしっかりしていればなんの問題もない。ピアノの名門・スタインウェイ社は、一時期、A=435Hz~460Hzまで、何種類ものピアノを作っていた。
それに、平均律12音階ではない、ピタゴラス音律や純正律といった調律法、音階も存在する。純正律主義者?に言わせれば、ピアノやギターの平均律は「12音すべてが平均的に狂っている調律」だということになる。

また、ベートーベンもモーツァルトもバッハも、A=440Hzで音楽を作ったり聴いたり演奏してはいない。
Aの音(ハ長調の「ラ」の音)を440Hzにしようと決めたのは20世紀になってからのことだ。1917年にアメリカの音楽協会がA=440Hzを決めて、その後、1953年にISO(国際標準)が正式にひとつの基準として認定した。
しかし、それ以前の音楽の歴史を遡れば、A=440Hzというチューニングはむしろ異端で、時代によって、また同じ時代でも場所によって、もっと高かったり低かったりした
彼らの時代に演奏されていたオリジナルの音楽をそのまま今聴けば、「固定音感」の人たちはきっと「調律が狂っていて気持ちが悪い」と感じるだろう。
昔は録音機がなかったから、どんな音の高さで演奏されていたかは分からないではないかと言われそうだが、使用されていた調律用の音叉が残っている。
ヘンデルが使った音叉はA=422.5Hzで、ベートーベンの時代にはA=433Hzまで上がったそうだ。
A=422.5Hzというのは、A=440Hzで調律したときのAbが415Hzだから、今ならAとAbの中間あたりの音である。
そう、さっき聴いた学校チャイムの聴音「テスト3」がこれだ。
もう一度聴いてみよう。


ヘンデルはこの音程で調律した楽器を使っていたのだ。この調律で演奏される音楽が気持ち悪いと感じる人は、ヘンデルと一緒に演奏はできないことになる。
現在、バロック音楽の演奏会ではAの音を半音低い415Hz(Ab)に調律することが多いが、それはバロック時代の調律が今より低かったことが分かっているものの、現代の調律の標準であるA=440Hzとの整合性をとるために、A=422.5Hzなどという「中途半端」な調律にはせず、便宜上、Abの高さまで(半音ちょうど)低くしているわけだ。

もうお分かりだと思うが、要するに絶対音感と呼ばれる音感の「絶対性」は、基準点をどこに決めるかで変わってしまうのだ。
その意味で「絶対」音感などは存在しえない。あるとすれば、ある基準音を決めたときの「固定」音感とでも呼ぶべきものだ。

クラシックの名作曲家たちは、おそらくすぐれた相対音感の持ち主であっただろうし、チューニングの基準をどこに決めるかなんてことは、演奏する際の便宜にすぎないということを理解していた。「優れた音感」はあっても、「絶対音感」などという概念はなかったのではなかろうか。
人間音叉になってしまうような固定音感は、決められた調律で与えられた譜面通りに演奏するのには都合がいいかもしれないが、それでは「人間MIDI」ではないか?
メロディを作りだしたり、自由に楽しむためにはむしろ弊害のほうが多いと思われる。

誤解してほしくないが、私は、どんな音感が偉いとか言っているのではない。ただ、固定ド固定音感をつけさせることが音楽のエリートを養成する第一段階のようになってしまったら、それはとても怖いことだと思うのだ。
私にとっての音楽は、「音そのもの」よりも、音同士の相対性の関係(メロディ)に価値(美)を見出す文化だ。
一方で、固定ド固定音感の音楽世界は、音色の美しさや演奏技術の高さに最高価値を置いている世界観、言いかえれば「音そのものの価値観」の世界のような気がするのだが、どうだろうか。
どちらが「偉い」とか「高尚だ」という話ではない。同じ「音楽」といっている文化だが、人によって価値観が違うだけでなく、聞こえ方そのものが違う、という話である。

あなたはどうだろう?
譜面を与えれば、どんなに難しい曲も弾きこなせてしまうが、簡単なメロディの伴奏も譜面なしではできない演奏家と、演奏技術は大したことはないが、耳から入ってきたメロディを自分の好きなキーですぐに再現できるみやぞんタイプ……あなたなら、どちらになりたいだろうか?

今敢えてソニーAマウントを買う理由2018/12/14 13:11

古いソニーα300とAマウント最終形のα57

Aマウントならカメラ+レンズが5万円以下で揃う!

久々に「ガバサク」ネタを書く。
どんなシーンでもカッコいい写真を撮るために必要な道具(カメラとレンズ)で、今いちばんコストパフォーマンスが高い方法を再確認したのでご報告したい。
答えは、
ソニーのAマウントでカメラとレンズを揃える
だ。

その答えを導き出すまでの理屈をまとめると、
具体的なお勧めは、カメラ本体はソニーのα57、α65、α77のいずれか。それにタムロンかソニー(中身は同じタムロン製)の18-250mm/F3.5-6.3というズボラズームをつける。
この組み合わせ、カメラは程度のよい中古を探すしかないが、2~3万円で見つかる。レンズは新品でも2万円弱で買えるので、なんと、5万円以下で強力な「なんでも撮れる万能デジイチセット」が手に入るのだ。
カメラがどんどん高級路線になった今、5万円以下で本格的な写真が楽しめる方法というのは他に見つからない。
ほぼ同じ内容をEマウントで揃えると、例えば中古のα6000が3万円台Amazonで購入新品のタムロン18-200mmが約5万円Amazonで購入で、合計8~9万円はかかる。
さらにこれをフルサイズモデルで揃えると、レンズだけで12万円以上。カメラもフルサイズとなれば当然、中古でも10万円以下はなかなか見つからない。

具体例としては、中古のα7Sが10万円台(新品だと約16万円)、フルサイズ対応のEマウントレンズ、ソニーの24-240mm/F3.5-6.3が実売価格が12万円以上Amazonで購入で、合計23万円以上となる。しかも、フルサイズだと望遠端が240mmまでで、AマウントのAPS-C専用ズボラズームの375mm相当には負ける。フルサイズセンサーならトリミングして拡大しても画質はかなり確保できるから、実質では負けないかもしれないが……。

レンズ交換式カメラでズボラズームをセットした場合のまとめはこうなる。
  1. フルサイズ:最低でも23万円以上。望遠端は240mm。
  2. EマウントのAPS-C:最低でも8万円以上。望遠端は300mm相当。
  3. Aマウント5万円以下で可能。望遠端は375mm相当

……となれば、今からでも、敢えてAマウントのカメラとレンズで揃えるという戦略は極めて正しいではないか。私のような、写真趣味は捨てられないが、道具にそんなに金をかけられない人間にとっては、まさに「魔法の解」である。

バランスがよい、1600万画素CMOSの最終モデル α57はAmazonで購入で2万円台から売られている。ヤフオクよりAmazonのほうが出品者に対して厳しい指導を行っているので何かと安心だろう。


2400万画素のAPS-Cモデルα77も、中古ならAmazonで購入で2万円台から売られていることがある。性能的には新品が10万円前後で売られているα77Ⅱと基本的には変わらないので、程度のよい中古を狙うのは賢いやり方。


実際にやってみた

というわけで、2018年12月に、ソニーのα57というAマウントのカメラを敢えて購入してみた。Amazonで2万2000円だった。中古だが、きれいな完動品で、文句なし。
かつてα300につけていたSONYの18-250mmズボラズームをつけて撮ると……さすがにα300とは別次元の気持ちよさだ。画質はほとんど変わらない(場合によってはα300のほうがいいのでは? と思えることもある)が、AFの速さや連写速度などは雲泥の差。ファインダーの視野角も大きくなって別世界。なんでもっと早く気がつかなかったのだろうと後悔した。
Aマウントはもう新機種は出ないが、最終形となったα57やα65、α77の性能なら、残りの人生10年20年を写真趣味三昧で楽しむのにまったく不足はない。これ以上カメラに金をかけるより、旅行の費用にでもあてたほうがずっといい。

世の中がどんどんおかしくなっていき、老後を楽しく平穏に過ごすには相当な「技術」と「思考回路の再構築」が必要になってきた。
そうした「生き抜く技術」の一つとして、こんなこともご紹介してみた次第。
ヒントとなれば幸いだ。
次へテスト撮影の様子を日記に紹介

ガバサクのサイトでのまとめ次へこちら

注目したいAマウントレンズ群


●TAMRON AF18-250mm F/3.5-6.3 Di II LD Aspherical [IF] Macro用 A18S
かつては実売価格が5万円以上した18-250mmズボラズーム。Aマウントが絶滅危惧種になった今はAmazonで購入新品でも1万円台で売られている。みんなが気づいて買いに走る前に入手したほうがいいかもしれない


ストイックな求道者用レンズ 30mm/F1.4(シグマ)

見かけの画角は45mm相当。いわゆる標準レンズ。ストイックにこれ一本で風景から人物まで全部撮るというのも潔い。画質はピカイチ。明るいので暗い場所でもOK。Amazonで購入で3万円台


Neewer 32mm F/1.6

これは面白い! マニュアルフォーカスだがなんと新品がAmazonで購入7000円で買える! 静物撮りならこれでOK!ユーザーの評判も上々。


TAMRON AF70-300mm F4-5.6 Di MACRO フルサイズ対応 A17S

なんとフルサイズにも対応している超望遠レンズ(105-450mm相当)も、AマウントならAmazonで購入でたった1万円!



AdobeのCC商法につき合わないで済む方法2018/10/12 12:00

ヤクザのみかじめ料まがいのビジネスがまかり通る時代

前回紹介したアジャ博士はTA2020を3ドルで売りに出し、トライパス社は消えてしまった。
発明や新技術を開放して広く世の中に役立てるか、権利を独占して巨利を得るか……天才と呼ばれる人たち、あるいは先駆的な技術を開発した企業は必ずこうした別れ道に立たされる。

MacOS、Windows、Linux、Tron……コンピュータのOSが、作られた後、ライセンスをどのようにしたかを振り返ってみるといい。
コンピュータなしでは成立しない現代において、OSは共通言語といえる。英語やドイツ語にライセンスがあり、「アジア人が英語を使うにはライセンスが必要です」とか「ドイツ政府に無断でドイツ語文献を翻訳してはいけません」なんていう世界になったら、とても不自由だ。
しかし、IT世界ではそれに近いことが普通に行われている。

Adobe社は2013年5月から、Creative Cloudという、月額いくらという使用料を支払い続ける方法でしか製品を使えなくした。
それまで単体でも販売していたIllustratorやPhotoshop、InDesignといったDTP業界御用達のソフトはすべて通常販売を終了。バージョンアップもできなくなった。
すべての製品が使えるライセンスは月額4,980円で年間契約(新規ユーザーの場合)。PhotoshopやIllustratorなど、単体製品のみだと2,180円/月(同)……とまあ、年間で万単位の料金を支払い続けないとソフトが使えないという、ものすごいことになっている。
おかげで、プロの現場からも猛反発が出ている。
クラウドとは名ばかり、ぼったくり殿様商売に気づきましょう
Amazonのカスタマーレビューより

Adobeから完全撤退
自身のPCからAdobe製品/アプリケーションをすべて削除したいのですが、どのようにすれば可能ですか?方法を教えて下さい。
(略)
アプリケーションソフトを先進的に進めて来たのはもう過去の出来事となってしまいました。衰退する事柄を言い表すのに「あぐらをかく」と言うことがありますが、まさにAdobeに対してそれを感じています。残念ながらMicrosoftやApple、Googleのような恒久性のある存在ではないと判断しましたので、PC内のAdobeすべてを削除/アンインストールする方法を教えて下さい。1秒でも早く私の時間からAdobeを無くしたいです。
Adobeフォーラム内での質問より

これって、クラウドアプリっていえるもんなんですかねぇ。
(略)
要するに、1ヶ月で使えなくするタイマー付きのアプリ(いわゆる体験版ですね)をベースにして、契約した者だけに毎月クラウドで認証(タイマーリセット)して継続使用させるというシステムなんでしょう。
クラウドからリセットかけないと、すぐに使えなくなるクラウド管理型ワンマンスアプリ。
(略)
そもそも、Adobe って、ほんとに創造力のある会社なのかというところからして、私は疑問に感じています。
きちんと、オリジナルの技術で作り上げたのは、ポストスクリプト言語と、その応用技術である PDF くらいなんじゃないんでしょうか?(それらも、あくまで技術成果品であって、創造という類いのものではないですし)
アプリケーションに関していえば、Illustrator 以外はほとんど社外からの買取り・買収品のオンパレードだし。
その Illustrator ですら、初期のバージョンから最新の CC に至るまで、ひたすら FreeHand のマネばかりしてきたコピーまがい商品だから、本当にユーザーの期待に応えてくれる創造力のある会社だとは思えないわけで。
(略)
というわけで、私個人的には、Adobe には何も期待していないし、かかわりたくもないので、とりあえずは Creative Cloud 契約を交わす予定はありません。今後新しいアプリが必要になったら、まずは選択肢から Adobe を外して色々探すことになるでしょう。その方が開発環境の独自性も保てるというものです。
ちょっと一言、Creative Cloud と Adobe に想うこと [FreeHandで行こう!] より)


本当に嫌な時代になった。
新しいものを創り出すというエネルギーではなく、既得権益にしがみつき、いかに合法的、強制的に金を巻き上げ続けられるかという方法論が先行するビジネスモデル。
これは明らかに「文化」としては退廃であり、衰退だろう。

僕がAdobe CC商法に気づかず5年以上過ごせたわけ

Tanupackが、電子書籍だけでなく、オンデマンドで紙の本を製作・販売するようになってだいぶ経つ。
印刷所への入稿は印刷所が指定するフォーマットのPDFで入れている。
DTP業界では今でも、入稿はIllustrator(aiかeps)、Photoshop(PSD)、あるいはPDF形式がほとんどだ。すべてAdobeのフォーマット。

Adobeがすべての製品を月額使用料いくらの方式でしか売らなくなったのは2013年5月のことで、すでに5年以上経っている。ところが、僕はAdobeが上記のような商法に切り替えたことについ最近まで気づかなかった。
そんな長い間、僕がそのことに気づかず、Adobe製品を使い続けてこられたのは、運よく使っている製品がすべて古いバージョンだったからだ。
DTPソフトのInDesignはCS5。Photoshop Elementsは 5 を使っている。
使わなくなって久しいが、Illustrator8、Photoshop7、Acrobat9も持っている。
調べてみたら、Illustrator8の発売は1998年、Photoshop7は2002年、Photoshop Elements 5.0は2006年、Acrobat9は2008年、InDesign CS5は2010年だった。
Illustrator8は20年も前のものだったのか。上智大学の非常勤講師になったとき、アカデミックパックを買うなら今だと思って他のものとセットになっているやつを購入したのだった。以後、印刷所に入稿するのに最終的なaiファイルを作るために使うことがあったが、基本的にはまったく使っていない。

先日、何年ぶりかでPhotoshop7を立ち上げた(PCに入っていないと気づき、インストールディスクからインストールした)が、これはPhotoshopの機能を使うわけではなく、Elements 5.0で作成したRGBのPSDファイルを読み込んでCMYKに変換するためだけ、要するに「ファイルコンバーター」としてのみ使った。
以前からその使い方しかしたことがない。印刷所にPDF入稿するのがあたりまえになってからは、PSDファイルでの入稿からも遠ざかっていた。
今回は、6年ぶりに音楽CDを作るのに、ジャケットや盤面印刷のファイルがIllustratorかPSDの指定だったので、IllustratorよりはPhotoshopのPSDファイルのほうが簡単でいいや、ということで立ち上げたのだった。
ちなみにIllustrator8も、購入時から何かの「制作」に使ったことは一度もなく(あんな使いづらいソフトはないと思う)、もっぱらai形式かeps形式のファイルにコンバートするためだけに使っていた。

Acrobat9は、オフセット印刷に回すときの版下をPDF入稿する際、以前使っていた「パーソナル編集長6.5」で作成したファイルを印刷所指定のPDFに出力するために使っていた。つまりこれもファイルコンバーターとしてしか使っていなかった。
今はパーソナル編集長は使っていない(過去に作成したファイルを呼び出して再利用することはある。名刺印刷とか……)。InDesignには細部をカスタマイズした仕様のPDFに出力する機能がついていて、その際、埋め込んだRGB画像をCMYKに変換してくれるので、AcrobatもPhotoshop7も必要なくなった。
そんなわけで、Adobeのあこぎな商法に悩まされることなく、本や印刷物を作ってこられたというわけだ。

旧バージョンで固定してしまえばいいじゃないの

Illustratorはバージョンが新しくなるとファイル形式の仕様が変わってしまうことが多く、新しいバージョンのIllustratorファイルを古いIllustratorで開くことができない。開けたとしてもレイアウトが崩れたりする。しかし、基本的に古い形式のファイルを新しいバージョンのIllustratorで開くことはできる。
ちなみに、これはMicrosoftのワードなどでも同じで、うちにはdocxに対応したワードはないので、テキストファイルで済むような文書がdocx形式で送られてくると腹が立つ。一応docx形式をdoc形式にコンバートしてくれるコンバーターが出ているので、古いワード(うちで使っているのはWord2002)で内容が読めないようなことはまずないのだが、コンバートする時間がかかるのが腹立たしい。(まあ、10秒もかからないけど)

DTP業界では今でもIllustratorのファイルをやりとりするのはあたりまえになっているが、以前一度だけ利用した小さな印刷所では「入稿はバージョン8形式で」と指定していた。賢明な対応だと思う。
ただ、20年前のIllustrator8はWindows7などにはインストールさえできない。インストーラーに16bitコードが含まれているかららしい。
以前、それで困って検索したら、すぐに⇒このページが見つかり、無事インストールできた。以後、パソコンが代わって再インストールする際にも困らないように、内容はメモにしてとってある。

16年前のPhotoshop7は、保存するドライブの空き容量が概ね1TB以上あると「保存先の容量が足りません」といってきてファイルを保存できないバグを抱えている。
バージョン7が出た2002年当時にはテラバイト単位の保存ドライブなど想定外だったのだろうが、なんともお粗末だ。
仕方なく、Photoshop7でCMYK変換したPSDファイルは一旦容量の小さなドライブに保存してから大きなドライブにコピーするなどしていたが、今回は何の問題もなく読み書きできた。ファイル保存に使っている外付けHDDは4TB。3TB以上になるとOKなのか、それとも4TBのドライブも空き容量が1TB以下なっているのでOKだったのかはよく分からない。まあ、ファイルコンバーターとしてしか使うことはない(それも、PDF入稿が増えた今は、滅多なことでは使わなくなった)ので、問題はない。

最初からPhotoshop7を使わず、Photoshop Elements 5.0を使っているのは、16年前のPhotoshop7よりは12年前のElements5のほうがはるかに使いやすく、機能も豊富だからだ。
Photoshop Elementsだけは今も単独パッケージ販売しているようなので、買えるうちに最新バージョンを買っておこうかなともちょっと思うが、入れた途端に古いAdobe製品すべてを検出して、なんやらガチガチにライセンス関連を固めてしまうとか、使用状況を裏で送信するなどのスパイウェアもどきの機能が仕込まれていそうで怖いのでやらない。

CCを使わずに印刷版下を入れるためには

以上のことをまとめると、AdobeのCC商法に関わることなく印刷所にDTP版下を入稿するために最低限必要なAdobe製品は、
  1. InDesignのCS6以前のバージョン
  2. PhotoshopElements
の2つだ。
この2つがあれば、InDesignがRGB画像をCMYKに変換してからPDF出力してくれるので、AcrobatやPhotoshopはいらない。

CS6以前のInDesignが手に入らない場合は、DTPソフトにパーソナル編集長を使うという手もある。今のパーソナル編集長は、たいていの印刷所が対応してくれる「PDF/X-1a」形式のPDFに出力してくれるので、AcrobatがなくてもPDF入稿ができる。

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印刷所が「PDF/X-1a」PDFに対応しておらず、PSDかIllustrator形式のファイルしか受け付けてくれない場合は、古いPhotoshopがあればファイルコンバーターとして使える。Photoshop形式(PSD)のファイルはバージョンに関係がないので、ファイルコンバーターとして使う限り、古いバージョンで何の問題もない。20年前のPhotoshop7で保存しても大丈夫なのだ。

え? Illustrator? ファイルコンバーターとしてじゃなくて、最初から画像作成に使う?
この際、他のソフトに乗り換えたほうが精神衛生上いいかもしれませんよ。
特に、これからデザイン業界で仕事をしていこうとしている若い人たちには、AdobeのCC商法にはまる前に、CC契約をしなくても仕事ができる方法を模索することを強く勧めたい。
Illustratorに代わるソフトとしては、Inkscapeというフリーソフト(!)がいちばん人気だ。ai形式のファイルも開くことができ、編集もできる(一部形式を除く)。ai形式での保存はできないがeps形式なら保存できるので、eps形式を要求する印刷所にも渡せるのでは?
Windows、MacOS X、Linuxに対応でOSを選ばないのも素晴らしい。

……といっても、自分が使わなくても、最新形式のIllustratorファイルを受け取らなければいけないプロ現場の人たちはどうしようもないか……。
でも、プロはすでに旧バージョンを持っているはずだから、それで開けないようなファイルが送られてきたら「バージョン○以前の形式にして送ってください」と差し戻す運動でも始めたらいいと思う。

DTP業界全体としても、このままAdobe製品に支配されたままでいいのか、考え直す時期が来ているのではなかろうか。
かつてDTPではPost Scriptフォントを使うのが慣例だったが、販売されるフォントセットの高額さに多くの印刷所やデザイン事務所は泣いていた。
今は高品質で安価 or フリーのOpen Typeフォントがいくらでも出回っていて、そういう商売は通用しなくなった。
今後は、Illustratorの入稿ファイルは「Version○形式まで」で止めるとか、PDF入稿をいっそう進めるとかして、Adobe支配に抵抗する業者が増えていくのではないかと思う。



ワンセグケータイ裁判のデタラメ2018/07/28 22:53

「合法的集金稼業」に前のめりになっている弁護士事務所が増えた。テレビをつければその手のCMがわんさか流れてくる。
集金ターゲットが高利貸し業者ならまだいいのだが、IT弱者ともいえる高齢者を狙う手法もエスカレートしているようだ。
以前、「老人よ、弁護士とNTTとNHKから身を守れ」と題する日記を掲載した。これに関して、同様の被害を受けたので裁判を起こしているというかたからメールが来た。
僕が日記に書いたのは自分の例ではなく、親父の契約についてだから、契約締結時のいきさつやその後のことはよく分からない。しかし、メールのかたはご自分の契約のことで、したはずのないオプション契約を勝手に締結され、十数年間もクレジットカードから引き落とされていたという。このかたは海外に在住しており、明細が示されていない一括引き落としだったために気づくのが遅れたそうだ。
海外生活に入る前に結んだ契約時の書類も出てきて、相手方(プロバイダ)の説明がウソだらけであることも証明できているという。
「海外のマスコミも視野に入れ、なんとかこの事実を高齢者の方にも知ってもらい、自分が課金されているものの詳細をチェックするように働きかけたい」という。しかし、相手は巨大企業。個人で裁判を続けていくのは大変だろう。
日本の裁判所は、ワンセグケータイを持っているだけでNHKとの受信契約を結ばなければならないというトンデモ判決を出す。そういう国なのだ。
テレビを視聴できるワンセグ機能付き携帯電話の所持者に、NHKと受信契約を結ぶ義務があるかが争われた訴訟の控訴審判決で、東京高裁(深見敏正裁判長)は26日、1審・さいたま地裁判決(2016年8月)を取り消し、「契約義務がある」としてNHK側の逆転勝訴を言い渡した。同高裁では別の裁判長らも22日に契約義務を認める判決を2件出しており、控訴審ではいずれもNHKの勝訴となった。
「ワンセグ携帯 NHK逆転勝訴 義務認定3件目 東京高裁」 毎日新聞 2018/03/26)

「別の裁判長らも22日に契約義務を認める判決を2件出しており」というのは、水戸地裁と千葉地裁で起こされた同様の裁判を22日に東京高裁が控訴棄却したことをさしている。
控訴していたのは50代と60代の男性で、どちらもテレビを所持していないのに、ワンセグ受信可能なケータイ端末を所持していたというだけでNHKとの契約を結ばされたというもの。
どちらの裁判でも、
  • ワンセグ機能付きの携帯電話を所持する=放送法が定める「受信設備の設置」にあたる
  • ワンセグ携帯ユーザーにNHKを受信する意思がなくても、受信契約の締結義務がある
とした。
家にテレビを持っていない中高年が、ケータイの小さな画面でわざわざワンセグテレビを見るとは到底思えない。
これがまかり通るなら、速度超過運転をする意思がなくても時速200km出せる自動車を所持しているだけで違法だとか、そういう話にもなるのではないか。

NHKを視聴しなくても契約義務が生じるという滅茶苦茶な論理の根拠となっている放送法第64条を改めて見てみよう。
【放送法第64条(受信契約及び受信料)】
第1項  協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であつて、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。第126条第1項において同じ。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。

ここには「設置」とある。
2016年8月26日のさいたま地裁判決では「ワンセグ機能付き携帯電話の所持は放送法上の受信機の設置にあたらない」として、原告勝訴となった。あたりまえの判決だろう。
しかし、上記、今年(2018年)3月26日の東京高裁では、このさいたま地裁判決を取り消し、放送法64条第1項の「設置」は備え置くだけでなく、携行も含む、という拡大解釈までしてNHKの逆転勝訴とした。ケータイを所持していることが「NHKを受信できる装置を設置した」ことになるというこの「解釈」を、はたしてどれだけの人が受け入れられるだろうか。
デジタル放送になって、テレビ受像器はB-CASカードなしでは受信できなくなった。放送法を現状に合わせて改定し、NHKもWOWOW同様、スクランブルをかけて放送すればいいだけのことだ。「公共放送」というのであれば、災害時の緊急放送などだけノンスクランブルで放送すればよい。現状ではNHK総合は、災害時にもL字枠に「死者○人」などと出すだけで、ドラマやスポーツ中継を流している。民放となんら変わらないのだから。

最近、こんな事例を知った。
東北のある町から大都市の大学に進学し、初めて都会のひとり暮らしを始めたばかりの女性の部屋に「NHKの契約はお済みですか?」と男が訪ねてきた。
女性はテレビを部屋に持っていなかったし、これからも持つつもりはなかったが、そう答えると、「携帯電話は持っているんじゃないですか?」と問い詰められ、ワンセグ受信が可能なケータイだったため、契約書、しかも銀行口座から自動引き落としする契約書にその場で署名捺印させられたという。
この話を聞いて、高齢者だけでなく、田舎から都会に出てきた若い女性なども集中的に狙われるのかと、暗澹たる気持ちになった。
社会正義とか公平公正などという言葉が通用しない日本の法律、法の運用。それを利用して非生産的なビジネスにしがみつく大企業やら弁護士事務所やら……本当に情けない国になってしまった。


↑これは私の「遺言」です