IOC利権独占路線での五輪の末路が東京20202021/04/08 15:56

2020年3月、ギリシャで点火された東京五輪用の聖火。トーチの「火種」は古い映画フィルムだった?

誤解だらけのオリンピック史

今年、1年延期された東京五輪が開催されるかどうか極めて怪しい中、異様な聖火リレーが始まった。
森喜朗の「(沿道の密を避けるためには)有名人は田圃を走ったらいい」発言あたりからすでに「何のためにやるんだ?」という当然の疑問が上がっていたが、丸山達也島根県知事の「県内での聖火リレー中止要請もありえる」発言、さらには大音量で音楽を流し、車上でDJ風の男が踊り、沿道の観衆に向けて大声で叫ぶ異様な光景がネットで広まって、SNSでは広告コンボイを出しているスポンサー企業の製品購入ボイコットを呼びかける書き込みまで現れた。

この救いがたい末期症状を見て、「今のオリンピックは商業主義に堕してしまって本来の意義が薄れている」「商業五輪は1984年のロサンゼルス五輪が始まりだ」という声をよく聞くが、どちらも誤解が多く含まれている。

森喜朗発言騒動のおかげで、我々世代が「近代オリンピックの父」として教えられたクーベルタンが、実は「オリンピック競技は男性によって保有されるべきだ」「男性の参加しているすべてのフィールド競技への女性の参加を禁止する」といった発言をするゴリゴリの性差別主義者だったことや、聖火リレーは五輪を政治利用したいナチスの発明で1936年のベルリン五輪から始まっていることなどを改めて知ることになった。
このように、オリンピックの歴史は正しく教えられず、歪められ、美化されて我々庶民に刷り込まれてきたが、「1984年ロス五輪が商業主義五輪の始まり」という悪者イメージの喧伝も間違いである。
ネット上で様々な情報、記録を集めていけば分かるが、今回はそれを分かりやすくまとめてみようと思う。

開催都市立候補がなかった時代

多くの人が忘れている、あるいは知らずにいるが、そもそも、あのとき開催都市に立候補したのはロサンゼルスだけだった。
それまでの五輪を振り返ると、

1968年メキシコシティー大会:黒人隔離政策を続ける南アフリカに抗議してアフリカ諸国がボイコットを表明。旧ソ連など東欧勢も同調して南アは不参加に。大会開催直前にソ連は民主化を進めるチェコスロバキアに侵攻。ようやく開催された大会では、陸上男子200mで優勝したトミー・スミスと3位のジョン・カルロスの2人が表彰台で黒い手袋をして片手を突き上げてアメリカの黒人差別に抗議して物議を醸す。

1972年ミュンヘン大会:大会終盤にさしかかる11日目にパレスチナの過激組織が選手村のイスラエル選手団を襲撃。西ドイツ(当時)の政府が射殺命令を下したSWATと銃撃戦の末、選手団、犯人合わせて14人が死亡するという五輪史上最悪の事件が勃発。

1976年モントリオール大会:南アフリカの人種差別政策を巡る問題が再発。中国は台湾参加に抗議してボイコット。当初3億2000万ドルの予算が15億ドルに膨れあがり、大会は10億ドルの大赤字を計上。これが尾を引いて、カナダはその後長いこと財政悪化に苦しんだ。

モントリオール五輪と同じ1976年に開かれることになっていたアメリカ・デンバーの冬季大会は、市民から環境破壊や経費負担への懸念・批判が凄まじく、1972年10月に実施された住民投票で大会開催が返上されるに至った。(代わりにオーストリアのインスブルックで開催された)

……こうした問題山積の大会が続き、もはや世界のどの都市もオリンピックなど怖くてできない、と考えるようになっていた。
もはや五輪の歴史もこれまでか、という状況で、ロサンゼルスだけが「じゃあ、うちがやろうか」と申し出たのだ。
しかもロサンゼルス市が立候補したというよりは、名乗りを上げたのは南カリフォルニア・オリンピック委員会(SCCOG)という民間の任意団体だった。
同委員会はIOCに対して、「我々が五輪のために完全に民間の組織委員会を設立し、税金を一切投入せず、民間資本だけで独自に大会を組織・運営するという条件を飲むなら引き受ける」と迫った。
王族や元アスリートなど、セレブの集まりみたいなIOCはそれを聞いてビックリ仰天。そんな事態はまさに「想定外」で、とんでもない、と拒否しようとしたが、双方が立てた弁護士団が揉めに揉めた挙げ句、渋々その条件を呑んだ。他に候補地がない以上、拒否すればオリンピックは開けないわけで、条件提示交渉では最初からロス側が優位に立っていた。

徹底した節約と競争原理を働かせた金集め

開催を引き受けた南カリフォルニアオリンピック委員会は、民間「企業」としてロス・オリンピック組織委員会(LAOCC)を設立した。
その組織委員長は一般公募した。条件は「①40歳から55歳までの年齢で、②南カリフォルニアに住み、③自分で事業を始めた経験を持ち、④スポーツが好きで、⑤経済的に独立しており、⑥国際情勢に通じている」という6つ。
応募してきた数百人の中から、コンピュータが選び出したのはピーター・ユベロスという当時42歳の旅行代理店社長だった。
ユベロスはポケットマネーから100ドルを出して口座を開き、小さなオフィスを借り、電話1つに相棒1人で立ち上げた会社を北米第2位の規模にまで育て上げた。その手腕と経歴が評価されての抜擢だった。
組織委員会委員長になったユベロスは、すぐに自分の会社を売却し、大会運営準備に専念した。
基本方針は徹底的な節約と金集め
無駄な金は一切使わない。既存の施設を徹底的に利用する。企業から金を集めまくる。
金集めの面では、マーケティング部長として採用したジョエル・ルーペンスタインが大いに手腕を発揮したという。
メイン会場は1932年のロス五輪当時の競技場を改修。選手村は大学(UCLA)の寮を活用。組織委員会事務所もUCLAのキャンパス内に間借りし、事務局職員は大会直前になっても46人だけ。運営会議は同大学の教室で行い、役員らもマイカー通勤。
大赤字となったモントリオール五輪は、628社のスポンサー企業がついたが、そこからの収入総額は700万ドルにすぎなかった。それなら、大金を出せる企業に絞ったほうがいいと考えた結果、「1業種1社」に限定する方法を考案。これによって、清涼飲料水部門ではコカコーラとペプシがスポンサー契約を争い、競り勝ったコカコーラの契約金は1260万ドルにまで上がり、コカコーラ一社でモントリオール大会の628社分を軽く上回る協賛金を得ることができた。
テレビ放映権料も「放送権料2億ドル以上、プラス放送設備費7500万ドルを前払い」という、それまでの常識をはるかに超えた金額を提示して3大ネットワーク(ABC、NBC、CBS)などに入札制で競わせた。結果ABCが2億2500万ドルの放送権料+7500万ドルの放送設備費で競り勝った。これらの契約金は前払いされたので、ギリギリまで銀行に寝かせて利息を稼いだ。
聖火リレーも3mを1ドルで売って、誰でも金を払えば走れるようにした。これにはさすがにIOC側が「聖火の冒瀆だ」と抵抗したが、押しきって聖火リレーだけで1090万ドルもの収益を生んだ。
その結果、大会は2億1500万ドルの黒字を計上。その黒字のうち60%が米国オリンピック委員会に、40%が南カリフォルニアに寄付され、スポーツ振興にあてられた。

ロス五輪方式をIOCが盗んだ

ロス五輪の成功を見て、ああ、こうやればオリンピックは儲かるのかと知ったIOCは、以後、あらゆる利権を独占するようになった。
先頭を切ってIOCの体質を変えていったのがファン・アントニオ・サマランチ IOC第7代会長だった。
それまでのIOCは、貴族、王族、元アスリートなどのセレブが集まるサロン的な性格が強く、政治やビジネスに長けた人材は少なかったが、サラマンチはロス大会の手法を丸ごとIOC利権として組み入れ、オリンピックの商業化を加速させた
例えばテレビの放映権料については、ロス五輪のときにIOCがロス・オリンピック組織委員会(LAOCC)と結んだ契約では、組織委員会が3分の2、IOCが3分の1を得るという内容だったが、ユベロスの組織委員会側は「放送設備費の7500万ドルは放送権料ではない」として、2億2500万ドルの3分の1だけをIOC側に支払った。
これに腹を立てたIOCは、以後、「IOCの署名がない契約は一切認めない」として、オリンピックに関わるすべての権益をIOCの完全管理下に置いた。
結果、ロス五輪以降の五輪では、開催地側はIOCに運営に関わるすべての権益を握られ、交渉もできなくなっていった。
1988年のカルガリー冬季大会とソウル夏季大会からは、テレビ放映権はサラマンチ会長率いるIOCが開催地大会組織委員会に代わり契約主体になった。
オリンピックの放映権料の大半はアメリカNBCが支払っている。残りを欧州放送連合(EBU)、日本ではNHKと日本民間放送連盟加盟各社で構成されるジャパンコンソーシアム(JC)が支払っているが、日本の場合、IOCが日本向けの放映権販売を電通に委託していて、JCは電通から放映権を購入しているという。
この構図からも、日本のテレビ局がオリンピックに対してマイナスイメージとなるような報道はしにくくなっていることがよく分かる。
例えば、今回の東京2020の聖火リレーでは、聖火ランナーの前方で騒音をまき散らして進むスポンサー企業の広告コンボイ(トラック集団)に批判が集まったが、その映像を流したテレビ局は皆無である。そればかりか、東京新聞の記者がスマホで撮影してYouTubeにUPした動画も、東京新聞が、
IOCのルールに則り、動画は28日夕方までに削除します。このルールは「新聞メディアが撮影した動画を公開できるのは走行後72時間以内」というもので、2月に報道陣に伝えられました。今回の件で抗議や圧力があって削除するものではありません。
とのコメントと共に削除してしまった。
それに対しては江川紹子氏が「聖火リレー報道規制IOC「ルール」に法的根拠はあるのか」と題して疑問を呈している。
この記事の中で江川氏からインタビューを受けた曽我部真裕・京都大教授の「一般人やフリーランスにIOCのコントロールは効かないが、報道機関はコントロールができるから、でしょう」という言葉を、我々一般庶民はしっかり噛みしめる必要があるだろう。

放映権だけでなく、一業種一企業に絞ったスポンサー企業契約も、IOCが権利を統括しているので、開催地の組織委員会が自由に采配できるわけではない。
例えば、我々1964年の東京オリンピックを生で見ていた世代には、シンプルなデザインながら重厚な聖火台の印象が強く残っているが、あの聖火台は埼玉県川口市の鋳物師によって作られた。町工場の職人が腕をふるって素晴らしい五輪遺産を作った物語を日本人は世界に誇れたのだが、今回、あの聖火台は撤去されてしまっている。新しく聖火台をどこかで作っているのかどうか分からないが、その聖火台を製作した工場がオリンピックのスポンサー企業になっていなかった場合、自分たちが聖火台を作ったのだということを公表することができないらしい。中小企業や個人営業の職人さんが五輪開催にどれだけ腕をふるっても、それを認めてもらえない。そんなオリンピックにどんな夢や希望を託せるというのだろう。

IOC利権独占路線での五輪の末路が東京2020

消滅寸前だったオリンピックを救ったのは1984年のロス五輪であり、ピーター・ユベロス組織委員長やジョエル・ルーペンスタイン マーケティング部長らが実現した革新的運営モデルの成功だった。
それを見て、それまでは貴族的なサロン体質が色濃く残っていたIOCを超国家的独占企業に作り替え、世界のスポーツ界を支配したのがサラマンチ会長、ということだろう。
ロス五輪のようにやればオリンピックは儲かる、と分かった後、オリンピック開催地に立候補する都市は増えた。
1996年の開催地には、アトランタ(アメリカ)、アテネ(ギリシャ)、トロント(カナダ)、メルボルン(オーストラリア)、マンチェスター(イギリス)、ベオグラード(ユーゴ)の6都市が、2000年の開催地にはシドニー(オーストリア)、北京(中華人民共和国)、マンチェスター(イギリス)、ベルリン(ドイツ)、イスタンブール(トルコ)の5都市が最終的に立候補した。まさに「ロス以前、ロス以後」でガラッと変わった。
しかし、IOC委員に対して金で票を買う動きも出てきて、2002年のソルトレークシティ冬季大会では、招致をめぐって賄賂が飛び交い、多くのIOC委員が追放される事件にもなった。
今回の東京2020でも、同じように「賄賂で票を買った」疑惑が出ているのは周知の通りだ。

ここまで見てくるとはっきり分かる。東京2020は、手本としなければいけないロス五輪の成功に何も学ばないどころか、IOCが歪めた商業オリンピック路線の悪い部分だけを増殖させた……ということになるだろう。

最後に、1984ロス五輪と2020東京五輪の比較を簡単にまとめてみよう。

候補地立候補
ロス1984:他に立候補する都市はなかった。立候補したのは市ではなく民間団体。ロサンゼルス市議会は、税金を一切投入しないことを決議。
東京2020:2011年の東日本大震災、原発爆発直後、2016年開催地招致にすでに一度落選していた東京が、再立候補を表明。石原慎太郎都知事はすでに乗り気でなく、次期都知事選にも出ないつもりだったが、森喜朗に「それでは息子の伸晃の立場がなくなるぞ」と迫られて「その代わりに伸晃をよろしく」という経緯で……。

IOCに対しての姿勢
ロス1984:「完全に民間の組織委員会を設立し、税金を一切投入せず、民間資本だけで独自に大会を組織・運営するという条件を飲むなら引き受ける」と交渉し合意させる。
東京2020:電通が2013年、東京五輪招致委員会の口座に約6億7000万円を寄付として入金した銀行記録をロイターが伝える。さらに、東京五輪招致委員会はシンガポールのコンサルタント会社、ブラックタイディングス社への計2億円超を含め、海外に送金した総額が11億円超に上ると報じられる。招致委員会は、森喜朗元首相が代表理事・会長を務める非営利団体「一般財団法人嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センター」にも約1億4500万円を支払っているが、同団体はすでに解散している。
フランス検察は、東京五輪の招致をめぐる疑惑の贈賄側としてJOC竹田恒和前会長(招致委理事長)を捜査対象にする。武田氏はJOC、IOC役職を辞任。

五輪組織委員会
ロス1984:委員長はピーター・ユベロス(就任時42歳)。一般公募。事務所は大学(UCLA)構内に間借り。職員数は大会直前の最大時で46人。会議は大学の教室で行い、役員も含めて職員は全員マイカー通勤。
東京2020:委員長は森喜朗(就任時76歳)。下村博文五輪担当相と竹田恒和JOC会長、東京都の秋山俊行副知事が都内で3者会談を行い要請を決め、森元首相が受諾。事務所は虎ノ門ヒルズなど数か所。虎ノ門ヒルズの8階(フロア面積は982坪、3,246.3㎡)の1フロアを丸々借りている家賃だけで月に4,300万円。2016年時点での事務所家賃総額は月額6000万円と報じられた(サンデー毎日 2016年11月6日号)。職員数は2021年4月1日時点で3929人。大会時には当初計画通り8000人規模となる見通し(時事com)。

メイン会場と選手村
ロス1984:メイン会場は1932年のロス五輪で使用した競技場を改修。選手村はUCLA学生寮を活用。
東京2020:メイン会場は1964年の東京五輪で使用した国立競技場を壊して新築。一度決まったザハ案が白紙に戻るなどゴタゴタ続き。選手村は晴海の都有地18ヘクタールに14~18階建ての宿泊棟21、約3900戸を新築。大会後は宿泊棟を改修し、新設する50階建ての超高層2棟とともに約5600戸を分譲・賃貸住宅として供給する予定だったが、現在は大会が延期された上に開催そのものが危ぶまれており、住宅として購入契約した人たちとのトラブル続出。ゴーストタウンのようになっているが、コロナ感染者隔離施設として利用する案はまったく無視され続けている。

収支
ロス1984:支出 5億3155万ドル。収入 7億4656万ドルで、2億1500万ドルの黒字。
東京2020:支出 組織委による昨年末の発表(バージョン5)では1兆6440億円だが、最終的には3兆円を下らないのではないかとの予測も。


東京五輪をここまで惨めで情けないものに追い込んだのは決してコロナだけではない。歴史に学ばず、利権まみれ、不正だらけの手法を増長させてきた者たちの罪である。
東京五輪が開催されようとされまいと、これまでの悪行と腐敗した精神を根本的に反省し、日本が今からでも世界のスポーツ界や国家・宗教を超えた平和運動のためにできることは何かという困難な課題に真摯に向き合う覚悟を持たない限り、東京2020は永遠に汚点としてだけ語り継がれることになるだろう。
(主な参考文献)
オリンピックにおけるビジネスモデルの検証──商業主義の功罪(永田 靖 広島経済大学経済学部准教授)
「オリンピックとスポーツ放送権ビジネスと国際社会」(大野俊貴)
ヴァーチャル大学「まっちゃま」
オリンピック・パラリンピックのレガシー(笹川財団)
聖火リレー報道規制IOC「ルール」に法的根拠はあるのか(江川紹子 2021/04/03)
東京五輪、やれなさそうでもやろうとしている スポーツ評論家・玉木さんが語る政治との関係 (京都新聞社 2021/01/21)
東京オリンピック・パラリンピック 招致からこれまで【経緯】(NHK 2020/04/20)
東京五輪・パラ組織委職員3929人 大会時は8000人規模へ(時事.COM 2021/04/01)
森氏が組織委員会会長に就任 正式に受諾(産経ニュース 2014/01/14)



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江戸時代の元号を語呂合わせで覚える2021/03/21 15:42

文化13(1816)年のキツネ
狛犬を見ていると、江戸の元号の順番や、西暦だとどのあたり?というのが分からず、モヤモヤすることが多い。
我々の感覚だと慶長も慶應も十把一絡げに「江戸時代」という感じになりがちだが、江戸時代は長い。慶長と慶應では250年くらい違う。
天変地異や時の為政者の政策で、10年違えば世相や食糧事情がガラッと変わっていることもあるはずだ。
江戸時代の元号をしっかり覚えておきたいものだなあ。でも、生まれつき記憶力が弱いのに、今は老化で脳みそがボロボロだから、無理だよなあ。

なんとか今からでも元号の切り替わりの西暦を語呂合わせで覚えられないものか……。
「鳴くよウグイス平安京」みたいな暗記法で。

……ということで、挑戦してみる。
まずは1600年代。関ヶ原の戦いの1600年は「一路雄々しく関ヶ原」って、小学校のとき覚えたなぁ。
その後、家康という「おっさん」(1603)が江戸に徳川政権を樹立した……と。ここからが江戸時代だね。
  • 慶長元(1596)年 「けいちょうふはく(軽佻浮薄)な殿様、いご、くろう(以後、苦労)する」
  • 元和元(1615)年 「きげんなおして、ひろいこころ(広い心)で」
    げんなりするぜ。16ひこう(非行)」(小さいときは可愛かったのに、やっぱりグレたか)
  • 寛永元(1624)年 「かんえいじ(寛永寺)なら いちろにし(一路西)へ」
  • 正保元(1644)年 「しょうほう(商法)を学べ、ヒロシよ
  • 慶安元(1648)年 「慶安の変で由井正雪、いちむしゃ(一武者)として死す」
    けいあんずるな(刑案ずるな)、ヒロシやらかしたけど」
  • 貞応元(1652)年 「じょうおう(女王)さまと言え、ヒロコには」(ドSなの)
  • 明暦元(1655)年 「頭脳めいれき(明晰)、ヒロコご立派 」(SMの女王は頭もいい)
    めいれかないヒロコご立派」(Sだもの。命令はする側だぜ)
  • 万治元(1658)年 「まんじ休す(万事休す)。ヒロコやらかした。」(そんなヒロコ女王も失敗はする)
  • 寛文元(1661)年 「かんぶん読むならヒロムいちばん」(勉強家の弘くん)
  • 延宝元(1673)年 「えんぽう(遠方)よりいちろ(一路)なみ(波)越え船きたる」
  • 天和元(1681)年 「じゅうろくはい(16杯)も蕎麦くってんな
    テンイン・エイト……カウントダウンイベントでひろばいっぱい」
  • 貞享元(1684)年 「じょうきょう(状況)次第で ひろうはし(拾う箸)」(汚いとか言ってらんない)
  • 元禄元(1688)年 「げんろくおきらく 色ババア」(遊郭のお局様?)

……1600年代だけで13個もあるのかよ。改元しすぎだろ。
小学生のときなら覚えられたかもしれないけど、今からだと無理だなあ、きっと。
ヒロシやヒロコは、やらかしたりご立派だったり……一体どういうやつなんだ? という難しさもある。
あと、天和が相当ヤバいな。

めげずに1700年代、いってみよ~!!(いかりや長介)

  • 宝永元(1704)年 「ほうえいご(英語)得意なのね、
  • 正徳元(1711)年 「しょうとく太子はいないひと?」(架空の人物説も)
  • 享保元(1716)年 「きょうほの選手、いないね、だね」(苦しい競技だからねえ)
  • 元文元(1736)年 「げんぶん一致だ、さぶろう(三郎)」
  • 寛保元(1741)年 「かんぽの勧誘、ひとなしいちばん」(ひどかったねえ、あの保険のやり口は)
  • 延享元(1744)年 「えんきょう(月の家 圓鏡)人気でなしよ
  • 寛延元(1748)年 「かんちゃんえんちゃん、なしや
  • 宝暦元(1751)年 「イナゴいっぴき」(どういうカレンダーやねん)
  • 明和元(1764)年 「めいわく千万、ひなんむし(避難無視)」(Jアラート? あれは迷惑だったわ)
  • 安永元(1772)年 「アンエイカップ、じゅうしちなつ(夏)」
  • 天明元(1781)年 「テンめいわく(迷惑)、ひなんばい」(火の不始末で森林火災。避難ばい~博多弁のテン?)
  • 寛政元(1789)年 「かんせいど(完成度)高いなっぱくれ」(最上級の菜っ葉しかいらん)

円鏡って、あたしらの世代だと、後の橘家圓蔵だけど、若い人は知らんだろうな。で、「かんちゃん、えんちゃん」は関西の人気漫才コンビってことでいいかな?
アイドルのアンちゃんは貧乳で夏は水着に苦労する? いや、17歳で巨乳は不自然だから、むしろそれでいい(ペコパ)

1700年代も12個もある。もう一息だ。1800年代に突入!

  • 享和元(1801)年 「きょうはいい天気、はれいちばん
  • 文化元(1804)年 「ぶんか勲章逃して、いや~、おしい!」
  • 文政元(1818)年 「みぶんせいどなんて、いやいや~」
  • 天保元(1830)年 「天保の飢饉ではさん(破産)。貯金ゼロだわ」
  • 弘化元(1844)年 「こうかい(後悔)したくない。いやよ、し(死)ぬのは」
  • 嘉永元(1848)年 「かえい(カレー?)作らせたら、いっぱしやね」(ココイチでバイトしてたからね)
  • 安政元(1854)年 「あんせいにして、こしを治す」
  • 万延元(1860)年 「いちまんえんで、ハムを買う」
  • 文久元(1861)年 「なにぶんきゅう(なにぶん、急)で、ハローワークへった」(いきなりリストラされた?)
  • 元治元(1864)年 「げんじてんでは、無視してよろしい」
  • 慶応元(1865)年 「慶應卒のむこ(婿)がきた」

……いやぁ、最後は息切れですね~。
幕末は安政が「安静にして腰を治す」で1854年と覚えたら、そこからはめまぐるしく変わるから、「あんまんぶん、げんけい」(餡饅を賄賂に差し出したら、その分、減刑された)と覚えておけばいいかな。この順番でわずか10年ちょっとの間に元号が5つも並んでいる。
そんなこんなで、1800年代も11個あるのか。

というわけで、なんとか語呂合わせ暗記を考えたわけだが、改めて全部を見てみると、「寛」がつく元号が5つもあるのがややこしい。
寛永元(1624)年、寛文元(1661)年、寛保元(1741)年、寛延元(1748)年、寛政元(1789)年。
寛永と寛政では160年以上離れている。でも、「寛」がつけば1700年代以前だと分かるので、台座に「寛」の文字があればテンションが上がるかな。

それにしても、である。
関ヶ原の戦い(1600年)で家康が勝利してから戊辰戦争(1868年)で徳川政権がつぶされるまで、実に268年ある。
戊辰戦争から現在(2021年)までは153年。
寛永と寛政を読み間違えると、それより長い時間を間違えることになる。

太平洋戦争で日本が敗戦(1945年)からはまだたったの76年。
我々が「戦後」と呼んでいる時代は江戸時代の3分の1以下しかないわけだ。
江戸時代って、気が遠くなるほど長かったのだなあ、と、改めて思う。
これも一助になるかな?



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「森喜朗的なもの」を見つめ直す2021/02/12 22:41

#わきまえない女 というハッシュタグがSNSを賑わせた今回の「森喜朗事件」。その後も「後任の乱」だの「おじいちゃんたちの中二病」だの「男が多い会議が長引いて後任がなかなか決まらない」だのと、大喜利状態になっている。
今回はたまたま女性蔑視発言が引き金になったが、実際はそれも含めた「森喜朗的なもの」すべてにNOをつきつけているのだ。
今まで職場や家庭などで、この手の「分かってない上の連中」に辟易しながらも、諦めたり我慢したりしてきた鬱憤が、ここに来て一気に吹き出した、という図だろう。
しかし、忘れてはいけない。これは町内会や村のお祭りレベルの話ではなく、国の命運がかかっている話だということを。

3万円の観覧料で見せられている無効試合

レッドカードもらった選手が勝手に選手交代を告げた。
⇒その選手が笛が鳴る前にボールを蹴り始めて再び試合中断。
⇒最後は1点も入れられないままオウンゴールだけで大敗かと思いきや、無効試合に。
……そういうしょーもないショーを我々は見せられている。
それもただではない。
東京五輪の総費用は昨年発表されたバージョン5で1兆6440億円だそうだ(もっと膨れあがるだろうが)。
で、日本の総世帯数は約5700万世帯。桁数の大きな計算は苦手なのだけれど、割ると1世帯およそ3万円くらいになる。日本国民は3万円という高い観覧料を払って、とんでもないアホ試合、猿芝居を見せられてるのだ。

先日の「東京五輪中止発表前に振り返る"天罰五輪"の不愉快な備忘録」でも書いたが、そもそも、東日本大震災直後に五輪の再誘致をぶち上げるという天をも恐れぬ狂気が今の国難を招いた。
東日本大震災が起きなくても、21世紀に入ってからのオリンピックは、もはや開催国にとって大きなリスク要因となることは分かりきっていた。それを理解できず、かつてのオリンピックのイメージや、麻痺しまくった金銭感覚で飛びつくという思考回路やセンスしか持ち合わせていない人たちが、国や大企業のトップに座り続け、好き放題やれる社会である、という現実。
それを理解できず、この後に及んで「余人を持って代えがたい」「これまでの功績の大きさを考えると……」などと言っているスポーツ評論家やら政治家やらも、「森喜朗的な国難」をガッチリと固めている。
……そういう大問題なのだ。

粛々と後始末ができる人は……

また、これはもう、辞任して当然だの、後任は誰が適任だのという簡単な問題でもない。
東京五輪ができないことはもはやはっきりしている。少なくとも、今までのような形ではできない。

近藤隆夫氏が山口香JOC理事にインタビューした記事を読んで、山口氏の見識の高さに感心させられた。
今回、『IOCが中止を発表するか、東京が返上するか、それによって違約金の問題が生じるからチキンレースだ』みたいに言われていますよね。でも本当のところは私も知りません。なぜならば、IOCと東京都が、どのような契約を結んでいるかがオープンにされていないからです。こんな状況下では開催できないと東京が返上した時に、どれだけの違約金を支払うのかは契約時に決まっているはずです。それを国民にオープンにするべきではないでしょうか。 それが開示されたならば国民の判断材料になります。コロナ対策費と比べてどうなのか、五輪を開催すべきかやめるべきなのかを、お金=税金の観点からも考えることができます。なのに、この部分が国民に知らされていないのはおかしい。
山口氏のこの発言はとても貴重だ。
つまり、中止するのかどうか、中止する場合はIOCのほうから言い出すのか東京都が返上するのかで日本国民が負担する金額が違うのではないか、という話。
これ以上無駄金を捨てるのはなんとしてでも避けたいという判断から、無観客でもなんでもいいから開催したことにして、NBCの放映権料だけは確保したいというのがIOCと日本政府、東京都の共通目標なのではないか、という推理。
メディアの報道だけ見ていても、こうした視点はなかなか得られない。だからますます国民は疑心暗鬼になる。

要するに、これから組織委員会の会長になる人というのは、中止にしても無観客開催(国内の感染者増の危険性を伴う)にしても、今まで惚け老人たちが散々食い散らかしてきた残飯処理をしなければならない。どうやったところで「よかったね」とは言われない。非難を浴び続けながらも、なんとか損害を少しでも減らせるようにという強い意志と献身的精神を持ち続けて仕事をしていかなければならない。悟りを開いた宗教者か聖人、しかも超人的な突破力を持ったタフな人物でなければ務まらないではないか。そんな人物がいるのか? いたとしても、今からそれを押しつけるのはあまりにも可哀想だ。
森喜朗とIOCバッハ会長の関係を「毒を持って毒を制す」などと評した「スポーツジャーナリスト」がいたが、森が毒の使い方が分からない人物だからここまでひどいことになってしまったわけで、今から毒を持ってバッハとやりあって日本の「損害額」を減らせるとも思えない。
山口氏はこうも述べている。
こんな状況だからこそ、アスリートたちには考えてもらいたいんです。自分にとって五輪とは何なのか、スポーツとは何なのかを。もともとは好きで自分のためにスポーツをやってきたわけですよね。その頂点を目指すのであれば、世界選手権もあります。では、自分にとって五輪とは何なのか。五輪に出られる出られないではなく、もう少し深い部分まで考えて、答えを持ってほしいと思います。

これは、アスリート以外の我々にもいえることだ。
我々庶民は、オリンピックに何を望んでいたのか、何を求めていたのか。それが無理だと分かった今、東京五輪というお荷物(敢えていう)とどう向き合うべきなのか。

1964年の東京五輪でいちばん感動的だったのは閉会式である。
入場行進が始まった途端に、各国の選手が入り乱れ、踊りながら、抱き合いながら、全員が満面の笑顔で国立競技場になだれ込んできた。
これがオリンピックなんだ、と、誰もが感動した。
あの光景がまた見られるなら、冥土の土産にもなる。私の年代の人間の多くはそう思ったのではないだろうか。
しかし、その国立競技場は取り壊され、あの聖火台も消えてしまった。
代わりに作られた競技場の客席は、人がまばらでも気にならないようにと、椅子がわざとランダムに色づけされている。なんという皮肉!

日本の社会に根強くはびこる森喜朗的な空気と価値観。それがいかに大きな国難であるかを見つめずにここまで来てしまった我々は、3万円の授業料を払って学び取り、やり直すことができるのか? それが問われている。

東京五輪2020とはなんだったのか。
日本は、どこでどう間違えたのか。
その重い問いを最後に突きつけたことが、森喜朗が果たした仕事だったのだろうか。
でも、そういう役割なら、別にあの人じゃなくても「余人」はたくさんいるけれどね。


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東京五輪中止発表前に振り返る 「天罰五輪」の不愉快な備忘録2021/01/21 21:19

未だに中止決定発表がない東京五輪2020だが、もはや開催不可能なことは明白だ。こうしている間にも毎日無駄金が垂れ流されている。さっさと中止を発表し、国全体でしっかり反省を始めなければいけないのに、これでは敗戦を認められずに国民の被害を悲惨なものにしていった終戦前と同じだ。

なんでこんなことになってしまったのか?
WEB上には、大手メディアから個人ブログまで含めて、怒りともため息ともとれる「反省」的なまとめが散見される。
NHKのは書き方がゆるくて核心部分が伝わってこないし、Wikiは力作だけれど長すぎて読む気がしないという人もいるだろう。
不愉快なことではあるけれど、過去のネットでの記事を中心に、自分向けの備忘録を作っておこうと思う。

そもそもの責任は石原慎太郎にある

忘れている人も多いのではないかと思うが、そもそも東京にオリンピック誘致を決めたのは石原慎太郎都知事時代の2006年のことだ。
  • 2006年3月8日、東京都議会で2016年のオリンピック開催招致を決議。4月1日、都庁内に招致本部を設置。
  • 2007年には石原慎太郎直轄の都知事部局に「生活文化スポーツ局スポーツ振興部」を新設(初代部長:後に東京都スポーツ振興局長で2020招致委員会理事→東京臨海熱供給社長)。2007年9月11日、閣議で2016年夏季オリンピックを東京都に招致することを了承(Wikiより)。9月13日がIOCへの立候補受付締め切だったが、東京の他にシカゴ(アメリカ)、マドリード(スペイン)、プラハ(チェコ)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ドーハ(カタール)、バクー(アゼルバイジャン)の計7都市が立候補した。
  • 2008年6月、IOC理事会での審査で、上記立候補7都市のうち、東京、マドリード、シカゴ、リオデジャネイロの4都市が残った。
  • 2009年10月、IOC総会で投票が行われ、1回目の投票で東京はマドリード(28票)、リオデジャネイロ(26票)、に次ぐ22票で3位。シカゴが落選。続く第2回投票で東京は最下位となり落選。3回目の決選投票でリオに決定した。


2009年12月4日、時事通信の記事より

このときの招致用パンフレットのPDFは、今もJOCのサイトに残っている

ここでやめておけば傷はまだ浅くて済んだのに、石原はすぐに次の2020年開催地への再立候補への執念を見せた。

2011年3月、東日本大震災が発生し、福島第一原発が爆発。全世界に放射能をばらまくという歴史的大事件が起きた。
その最中の3月14日、石原は蓮舫節電啓発担当相(当時)と会談した後に、報道陣に「この津波をうまく利用して(日本人の)我欲を1回洗い落とす必要がある。これはやっぱり天罰だと思う」などと語った。その直後の会見で記者団から「不謹慎ではないか」と指摘されても、「日本に対する天罰ですよ」「いやそれはやっぱり、これをどう受け止めるかという受け止め方の問題だ」と開き直り、発言の撤回を拒否した。
都庁に非難の電話などが殺到し、翌日には「言葉が足らずに被災者の皆様、国民、都民を深く傷つけたことをおわびし、発言を撤回する」と述べたが、この「天罰発言」はしばらくは人々の頭に残った。
石原都知事、「天罰」発言を撤回し謝罪
東京都の石原慎太郎知事は15日に記者会見し、東日本巨大地震に関して「津波をうまく利用して(日本人の)我欲を一回洗い落とす必要がある。これはやっぱり天罰だと思う」と述べた14日の発言について、「言葉が足らずに被災者の皆様、国民、都民を深く傷つけたことをおわびし、発言を撤回する」と述べた。「かつてない困難にある被災者の失意、無念は拝察するにあまりある」とも語った。(日本経済新聞 2011年3月15日

この有名な「石原天罰発言」を正確に再録すると、
「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と指摘した上で、「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを(津波で)一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心のあかを」と話した。一方で「被災者の方々はかわいそうですよ」とも述べた。(「大震災は天罰」「津波で我欲洗い落とせ」石原都知事 朝日新聞 2011年3月14日)
……ということらしい。
この発言が、被災した人たちへの配慮が足りなすぎるのはあたりまえだが、「天罰」という言葉を、石油文明にどっぷり浸かって、欲望を満たすだけの生き方を変えようとしなかった現代人への警鐘である、という意味で使ったのであれば、確かに「どう受け止めるか」という問題だとは思う。
しかし、あれだけのことがあっても反省しないどころか、ますます謙虚さを失い、増長し、狂った方向に「我欲に縛られてポピュリズムでやっている政治」を暴走させたのは他ならぬ石原自身だった。
そして、「天罰」という言葉だけを捉えて騒いだ後は、石原の傲慢政治を許してしまったメディアや市民もまた、反省すべき点は多いはずだ。

さらに大きな災厄・森喜朗

森喜朗×田原総一朗「石原慎太郎が揺れた都知事選と東京五輪招致の裏側」という現代ビジネスの記事に、五輪招致ドラマのことが非常に興味深く出ている。
森によれば、2016年五輪の招致に負けたとき、石原慎太郎都知事は帰りの飛行機のベッドの中で泣いていたという。
:翌日、話をしたら「オレ、選挙に負けたことがないんだよ。こんな悔しいことはない。オリンピックはもう止めた」と言うわけね。「JOC(日本オリンピック委員会)副会長の水野(正人)がIOC委員と『ハグ(抱擁)をしろ』とか『もっと心を込めて握手しろ』とか言いやがって冗談じゃない。なんでオレが好きでもない男とハグしなきゃいけないんだ」と言って(笑)、非常に機嫌が悪かったんです。(現代ビジネスの記事 2013.12.31より)

さらには、
  • 2011年のJOC創立百周年パーティで、石原が森のところへ行き「JOC副会長の水野(正人)は生意気で不愉快だから辞めさせろ。あいつを辞めさせないとオリンピック招致をやらないよ」と言った。
  • それで森は、「JOCは純粋なアマチュアスポーツ団体なのに、スポーツ用品メーカー(ミズノ)のトップが副会長や専務理事をやっているのはおかしい」と言ってみたが、竹田恒和JOC会長が水野氏を庇うので、竹田に石原と話し合うように伝えた。ところが、今度は竹田会長が石原都知事に怒鳴られて「オマエも辞めろ。でなきゃ、オレは(オリンピック招致を)やらねえよ」と言われた。さらには森にも石原から「水野も竹田も辞めさせろ」という電話があった。
  • そのゴタゴタに、元西武グループ総帥の堤義明氏が仲介役として入って、石原はなんとか東京五輪招致運動を続けることになったが、2011年2月になって、次の都知事選には出ないと言いだした。
  • 森は慌てて、当時自民党幹事長だった石原の長男・石原伸晃の顔が潰れるからなんとか出てくれと懇願。「石原さん、あなたも人の親だろう。あなたが出馬しないと伸晃はどういう立場になると思う。自民党の幹事長が東京都知事選の候補者を擁立できず、その相手が自分の父親だということになったら、これは大変な問題ですよ。息子の将来を考えるなら、もう一度、考え直してほしい」……そう言って出馬を口説いた。
石原さんが「わかった。やりゃ、いいんだろう。その代わり、伸晃のことを頼む」と言うので「わかりました」と答えたんです。二〇一二年の自民党総裁選挙で、わが派(清和会)から会長の町村信孝だけでなく安倍晋三まで出馬したにもかかわらず、「オレはどちらも応援しない」と言って伸晃を支持したのは、そういう理由があったからなんです。(現代ビジネス 森喜朗×田原総一朗「石原慎太郎が揺れた都知事選と東京五輪招致の裏側」 2013.12.31より)


まさにこの直後に東日本大震災~原発爆発~全世界に放射能をばらまく……という事態が起きたのだ。
石原がその渦中で「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを(津波で)一気に押し流す必要がある」と口にしたのは、自分を取り巻く政治状況をさしていたのではないかとさえ思う。

石原は結局、森らに押しきられる形で都知事選に再出馬し、東京五輪招致を公約の1つに掲げた。4月10日の都知事選で当選。当選直後には五輪招致を口にしている
朝日新聞 2011年4月10日


2011年6月17日、東京都議会の所信表明でも、石原都知事は2020年夏季オリンピックの招致を目指す意向を表明した。
自分が「天罰」と言った災害の問題を無視して、我欲の塊のような政治家たちと談合し、息子可愛さもあって五輪招致を決める──これこそ天に唾を吐く所業ではないのか。

「呪い」ではなく「天罰」

こんな経緯で始まった東京五輪2020が開催不能となったのは、石原流に言えばまさに「天罰」なのではなかろうか。
新型コロナウイルス感染症の世界的蔓延で開催が危ぶまれていた2020年3月、麻生副総理(当時)が「呪われたオリンピックってね。マスコミの好きそうな言葉でしょう、これ」と発言したことをとらえて、一部のメディアは石原の「天罰」発言のとき同様に「無神経だ」と非難したが、麻生は単に「40年周期でそういうことが起こってきた」という歴史を語ったに過ぎない。これは「呪われた」ではなく、やはり「天罰」なのだ。
IOCのオリンピック憲章は、オリンピックの理念は「スポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するもの」と定め、その目的を「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」だと表明している。
東京五輪は、誘致から今まで、こうした理念とはまったくかけ離れたものに埋め尽くされてきた。これこそスポーツや競技者への冒瀆だ。

忘れてしまわないように、報道記事ダイジェストでざっと振り返ってみる。
2012年7月 石原都政を引き継いだ猪瀬知事はツイッターで「世界一カネのかからない五輪」だと明言。


2014年、新国立競技場建てかえ問題が紛糾。2015年にはザハ案が白紙撤回。(記事画像はFACTA ONLINE 2014年9月号より)


2015年、五輪ロゴマーク盗作疑惑問題で一度決まったロゴを白紙撤回。



ザハ案から隈研吾設計に変更になった後も、聖火台はどこについている? とか、サブトラックがなければ陸上競技場として使えないのでは? といった問題が噴出。五輪後の維持費問題も浮上して暗雲漂うばかり。(記事画像はダイヤモンドオンライン「新国立競技場やっぱり無駄だらけ、五輪後の採算に赤信号」 2017年11月28日より)



↑そもそも開催地決定の経緯に賄賂や不正工作疑惑が持ち上がり、フランスで訴訟も起こされる。(記事画像はREUTERSより



↑挙げ句の果てに……。(記事画像は時事ドットコムより

これだけのデタラメや不正を重ねてきたのだから、「呪い」などではなく、石原慎太郎の言葉を借りれば「まさに天罰」というべきだろう。

この五輪招致がなければ、国も東京都も、今これだけ緊急支出が必要なときに、もっと余裕を持ってコロナ対策などに向き合えた。
海外からの渡航者チェックによるウイルス水際防止作戦があそこまでガバガバゆるゆるになることもなかったかもしれない。

謙虚さを失い、利権政治の沼にどっぷり浸かったままここまで来てしまった日本。

なぜこんなことをいつまでも続けているのか。
この不愉快な備忘録を見ながら、メディアや政治家だけでなく、我々一般市民も大いに反省する必要がある。


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明治神宮の狛犬と陽明門の狛犬の背景を探る2020/11/13 22:14

大宝神社の重文狛犬(「獅子・狛犬」京都国立博物館 より)

狛犬界?では有名な大宝神社の木造狛犬というのがある。
明治時代にすでに国宝(後の法律では「国指定重要文化財」)になっており、鎌倉時代の作とされている。
当時の他の木造狛犬(屋内に置かれた、いわゆる「神殿狛犬」)の中では異色ともいえるほどスマートでかっこよく、人気がある。
人気があるためにコピーもたくさん作られ、10月11日の日記に書いたように、明治神宮には創建当時から置かれたし、日光東照宮陽明門の裏側にも置かれている。
さらには、これをモデルとした岡崎古代型という石彫狛犬が日本全国に多数存在する。

最近、大宝神社にはこの有名な狛犬の他に、もう一対、木造狛犬(県指定文化財)が伝わっていたことを知った。
栗東歴史民俗博物館(栗東市小野)に寄託されていて、先月、同館の開館30周年記念展「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」で披露されていた。
大宝神社の「もう一対の」狛犬 (栗東歴史民俗博物館)

これは知らなかった。国重要文化財に指定されている狛犬が有名すぎたこともあるが、今まで、写真が公開されたこともほとんどなかったのではないだろうか。
平安後期~鎌倉時代あたりの木造狛犬の特徴を備えている。修復されているのだと思うが、実にきれいに残っていたものだ。
で、この「もう一対の狛犬」を見ているうちに、以前から有名な「カッコいい」ほうの狛犬に抱いていた一種の違和感というか、モヤモヤしたものがまた甦ってきた。
なぜ、あの狛犬だけが、当時の他の木彫狛犬とは違う印象を放っているのだろう……という思いだ。

いち早く「国宝」に指定されている

平安後期から室町時代にかけて、宮中を始め、公家社会や有名社寺ではいくつもの木造狛犬が彫られ、国の重要文化財の指定を受けているものも多い。
現時点で国の重要文化財に指定されている「狛犬」を指定された日付順に並べると、↓こうなる。

■国指定重要文化財の狛犬一覧

(所有者 種類 製作年代(推定含) 指定年月日)
  1. 和歌山県 丹生都比売神社 木造狛犬 鎌倉 1899.08.01(明治32.08.01)
  2. 和歌山県 丹生都比売神社 木造狛犬(2対) 鎌倉 1899.08.01(明治32.08.01)
  3. 広島県 厳島神社 木造狛犬(14躯) 平安~桃山 1899.08.01(明治32.08.01)
  4. 滋賀県 大宝神社 木造狛犬 鎌倉 1900.04.07(明治33.04.07)
  5. 香川県 水主神社 木造狛犬 室町 1901.03.27(明治34.03.27)
  6. 京都府 八坂神社 木造狛犬(伝運慶作) 鎌倉 1902.04.17(明治35.04.17)
  7. 兵庫県 高売布神社 木造狛犬 鎌倉 1904.02.18(明治37.02.18)
  8. 福岡県 宗像大社 木造狛犬 桃山 1904.02.18(明治37.02.18)
  9. 福岡県 宗像大社 石造狛犬 中国北宋時代 1904.02.18(明治37.02.18) 建仁元年施入ノ背銘アリ
  10. 福岡県 観世音寺 石造狛犬 鎌倉 1904.02.18(明治37.02.18)
  11. 京都府 御上神社 木造狛犬 平安 1909.04.05(明治42.04.05)
  12. 京都府 由岐社 石造狛犬 鎌倉 1909.09.22(明治42.09.22)
  13. 京都府 高山寺 木造狛犬 鎌倉 1911.08.09(明治44.08.09)
  14. 京都府 高山寺 木造狛犬(3対あり) 鎌倉 1911.08.09(明治44.08.09) 内二躯ノ台座ニ嘉禄元年八月一六日行寛ノ記アリ
  15. 愛知県 深川神社 陶製狛犬 室町 1912.09.03(大正1.09.03)
  16. 岐阜県 日吉神社 石造狛犬 桃山 1914.08.25(大正3.08.25) 天正五年五月不破光治造之ノ銘アリ
  17. 薬師寺(東京国立博物館保管) 木造狛犬 平安 1924.04.15(大正13.04.15)
  18. 石川県 白山比咩神社 木造狛犬 鎌倉 1924.08.16(大正13.08.16)
  19. 広島県 御調八幡宮 木造狛犬 鎌倉 1917.08.13(大正6.08.13)
  20. 滋賀県 白鬚神社 木造狛犬 鎌倉 1928.08.17(昭和3.08.17)
  21. 京都府 藤森神社 木造狛犬 平安 1936.05.06(昭和11.05.06) 胎内ニ徳治二年修補ノ銘アリ
  22. 奈良国立博物館 木造狛犬 1940.10.14(昭和15.10.14)
  23. 京都府 籠神社 石造狛犬 桃山 1942.12.22(昭和17.12.22)
  24. 広島県 吉備津神社 木造狛犬(3躯) 鎌倉 1942.12.22(昭和17.12.22)
  25. 東京都 大国魂神社  木造狛犬 鎌倉 1949.02.18(昭和24.02.18)
  26. 千葉県 香取神宮 古瀬戸黄釉狛犬 鎌倉~室町 1953.03.31(昭和28.03.31)
  27. 宮崎県 高千穂神社 鉄造狛犬 鎌倉 1971.06.22(昭和46.06.22)
  28. 石川県 白山比咩神社 木造狛犬 鎌倉 1989.06.12(平成1.06.12)
  29. 奈良県 手向山八幡宮 木造狛犬 鎌倉/附 江戸 2000.06.27(平成12.06.27)
  30. 岡山県 吉備津神社 木造獅子狛犬 南北朝 2002.06.26(平成14.06.26)
  31. 東京都 谷保天満宮 木造獅子狛犬 鎌倉 2003.05.29(平成15.05.29)
  32. 滋賀県 若松神社 木造獅子狛犬 平安 2015.09.04(平成27.09.04)
  33. 京都府 教王護国寺 木造獅子狛犬 平安 2019.07.23(令和1.07.23)

大宝神社の「国宝」指定は、丹生都比売神社、厳島神社(同時に指定)の次に古い。
それだけ早い時期から重要な狛犬だと認定されていたわけだ。
なぜなのだろう?

廃仏毀釈の反省から生まれた「国宝」

ここで改めて、国宝とか国指定重要文化財というものの歴史を振り返ってみる。

明治4(1871)年、明治新政府は、自分たちが発した神仏分離令が引き起こした廃仏毀釈の嵐によって全国で多くの文化財が破壊されたり、流出したことに危機感を抱き、「古器旧物保存方」を布告して、古器旧物の目録および所蔵人の詳細なリストの作成・提出を命じた。
その後、明治28(1895)年に内務省に古社寺保存会が設置され、明治30(1897)年6月に「古社寺保存法」が定められた。
これが文化財保護を目的とした最初の法律で、以後、昭和4(1929)年の「国宝保存法」、昭和25(1950)年の「文化財保護法」へと引き継がれていく。
この古社寺保存法によって、いわゆる「国宝」が誕生した。
現在は国宝と国指定重要文化財とは区別されているが、古社寺保存法の制定時は、「特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範」であるものを「特別保護建造物」または「国宝」としたので、建造物以外の文化財、美術品などはすべて「国宝」とされた。
上のリストは指定順なので分かりやすいが、大宝神社の角のない獅子像は、古社寺保存法制定3 年後の明治33年4月に、早くも国宝の指定を受けている(現在は重要文化財指定)。
このとき「国宝」とされたことで権威もついたため、以後、多くの模倣作が生まれたわけだが、丹生都比売神社、厳島神社に次いで、大宝神社の狛犬が早々と指定されたのはどんな理由で、どういう人たちの決定によるものだったのかが気になる。

丹生都比売神社、厳島神社、大宝神社などの国重要文化財狛犬は、簡単には見られないが、コピー狛犬には簡単に出会える。

例えば、日光東照宮には2対の木造狛犬が置かれていて間近で見ることができるが、どちらも模作(コピー)だ。
大鳥居をくぐって参道を行くと、最初に出会うのは表門(仁王門)にある狛犬で、これは宮中で最初に「獅子・狛犬」形式が出現したときからの、阿像は角なしの獅子、吽像は角ありの狛犬という「正統派」狛犬である。

日光東照宮表門の狛犬。古くからの神殿狛犬を忠実に再現している。


この狛犬と同型のものは多数あるが、京都御所清涼殿御帳台両脇に置かれた狛犬や八坂神社の狛犬(国指定重要文化財)が代表例だ。



八坂神社の狛犬 (京都国立博物館「獅子・狛犬」より)


八坂神社の狛犬は運慶の作とも伝えられているそうで、もしそうならば鎌倉時代を代表する狛犬といえるだろう。

これより古そうなタイプとしては、教王護国寺(東寺)の狛犬がある。長い間注目されていなかったようだが、2対伝わっていたうちの1対、東寺八幡宮伝来のものが昨年(2019)7月、ようやく国指定重要文化財になった。
教王護国寺(東寺)八幡宮伝来の獅子・狛犬(文化庁発表「文化審議会答申」資料より)


手向山八幡宮の狛犬(外から覗き見られるのはレプリカで、オリジナルは見られない)もこのタイプ(座高が高く、スッと蹲踞している顔長タイプ)に近い。
昨年の文化審議会による答申資料には、
東寺八幡宮に伝来した獅子狛犬の一対。ともに前後二材製で、尾まで共 木で彫出する構造に平安前期的な要素をとどめ、10ないし11世紀の製作とみられる。獅子(阿形)は迫力のある形相と精悍な姿態が表され、動物彫刻の優品として注目される、狛犬(吽形)は彫直しの手が加わっている可能性があるが、一対としてみれば大寺院の鎮守社に置かれるにふさわしい風格を示している。
という解説が載っている。

この東寺タイプや八坂神社タイプ(清涼殿タイプ)がどこか高貴さを備えた公家文化的な狛犬だとすれば、大宝神社の重文狛犬は精悍で攻撃的な武家社会の文化を象徴しているように感じる。

日光東照宮陽明門の狛犬は大正時代のものだった

日光東照宮で2番目に出会うのが陽明門裏の木造彩色の狛犬だが、これは大宝神社狛犬(国重要文化財指定のほう)のコピーである。

日光東照宮陽明門裏の狛犬。平成の大修理で彩色し直された後の撮影。

この狛犬を見るたびに「なぜこんなに新しそうなものがここに?」という違和感を覚えていたのだが、この狛犬は東照宮に元々あったものではなく、大正5(1916)年に「追加」発注されたものが置かれたという。東照宮のWEBサイトに「(陽明門の)狛犬は滋賀県の大宝神社が所蔵する国宝(現在は重文)の狛犬を模して、大正5年に製作したものです」と書かれているので、間違いないだろう。
陽明門は国宝指定されているが、この狛犬は大正期に持ち込まれたものなので、当然、含まれていない。
ついでにいえば、表門の狛犬と仁王像も重要文化財にはなっていない。
一方、「跳び越えの獅子」(石柵と一体化している一部として)、奥社参道の石造狛犬、鋳抜門の銅製狛犬は重文指定されている。

表門の仁王像は、京(左京)の大仏師・法眼康音の作とされている。
法眼康音は、その子・法眼康知とともに、正保4(1647)年に、家康の三十三回忌法要に合わせて本尊である虚空蔵菩薩像を造像したとされているので、現存の仁王像が康音の作であればその時代からあることになる。
この仁王像は、明治の神仏分離令によって大猷院に移動させられた。その後、明治30(1897)年に元に戻されるまでは、裏にあった獅子・狛犬を表に持ってきて、空いた裏側のスペースには花瓶が置かれていたという話もあるので、表門の狛犬が仁王像とセットで奉納されたものかどうかは疑問だが、少なくとも明治以前には存在していたようだ。


話を陽明門の狛犬に戻す。
陽明門の狛犬が大正期の作であると分かって、すぐに思い出したのが明治神宮内陣の狛犬だ。
大正9(1920)年に創建された明治神宮でも、彫刻家・米原雲海が彫ったとされる大宝神社狛犬の模作が内陣に置かれていた。
10月11日の日記に書いたように、当時の政府や軍部関係者は、この狛犬こそが「故実に準拠」し、「国民崇敬の中心率」となるものとしてふさわしいと惚れ込んでいたようだ。
神社用の装飾は、国民崇敬の中心率とならねばならぬから、故実に準拠することは、我が国体の上から見ても争われぬ事項に属する。(「明治神宮御写真帖 : 附・御造営記録」帝国軍人教育会・編纂)

戊辰戦争で徳川から政権を奪った明治新政府は、神仏分離政策を進めると同時に、「神社制限図」などを定めて、神社の様式を細かく規定しようとしていた。その流れの延長で、神社の「装飾品」としての狛犬も「故実に準拠」し、「国民崇敬の中心率」となるものとして統一的な様式を規定したかったのだろう。大宝神社の狛犬は、まさにそうした意図、お眼鏡にかなった「優等生」「模範生」的な狛犬と認定されたのだ。
明治神宮内陣に置かれていた狛犬(大正9年発行「明治神宮御写真帖」より)

それ故に明治神宮に置かれたのは分かるとして、新政府軍に倒された徳川の聖域である日光東照宮にも持ち込まれたというのは、徳川側にしてみれば屈辱的なことではないだろうか。
陽明門の狛犬に感じていた違和感の正体はまさにそれだったのか、と、今さらながら思うのだ。

東照宮を含め、日光の社寺は徳川政権が滅ぼされた後、荒廃の一途を辿っていた。それを憂えた地元有志や旧幕臣たちが中心となって明治12(1879)年12月に「保晃(ほこう)会」という団体を立ち上げ、社寺や文化財の保護のために寄付金を集めたり、新政府と交渉を重ねるなどして奮闘した。
その保晃会が解散したのが、奇しくも大宝神社型狛犬が陽明門に置かれた大正5(1916)年である。
狛犬を発注し、陽明門に置いたのは日光社寺共同事務所だという話も聞いたが、社寺共同事務所が設立されたのが大正3(1914)年なので、時期としては合致する。
何か関係があるのかどうかはよく分からないが、保晃会と日光社寺共同事務所が入れ替わった時期に大宝神社型狛犬が陽明門に置かれた、ということになりそうだ。

……と、ここまでいろいろ考えてきた上で、改めて大もとの大宝神社の狛犬を見ると、謎はますます深まる。
そもそも「鎌倉時代」の作というのは本当なのだろうか。
台座の裏には「伊布岐里惣中」という墨書きがあるという。
「伊布岐里」は伊吹山麓にあった村だろう。
「惣」は、中世後期から出てきた村の自治組織で、荘園時代からの領主に対して村民が談判したり、村の結束を固めるために作った寄り合い組織のこと。
つまり、この狛犬は、公家や大名ではなく、村民が奉納したらしい。
となると、鎌倉時代の農民に、あれだけのカッコいい木彫狛犬を奉納するだけの力(財力や余裕)があったのだろうか、という疑問がわくのである。
もしかすると、鎌倉時代ではなく、室町後期くらいなのではないか。戦国時代直前には、惣の主導者階層は武家社会に接近し、次第に武士化していったともいわれており、その時期であれば、自分たちの地位を確認する意図で、あのような立派な木彫狛犬を有名神社に奉納することがあったかもしれない。もちろんこれは勝手な想像にすぎないし、別に、鎌倉時代でなければ価値がないなどと言っているわけではない。
時代云々よりも、村民が突然あれだけのカッコいい(関西人風に言えば「シュッとした」)狛犬を奉納したということに不思議さを感じるのだ。
伊布岐里の惣は、一体誰にあの狛犬の制作を頼んだのだろうか。運慶、快慶などの慶派の仏師に、山里の村民が狛犬を発注できたとは思えないのだが、それにしては慶派の仏師顔負けの完成度の高いものに仕上がっている。そのことがどうにも不思議でしかたない。

ともあれ、大宝神社の狛犬には、誕生後何百年経っても歴史を動かすだけの魔力というか、不思議なパワーが秘められていたといえるだろうか。
あの狛犬を彫った彫師も、まさか自分の死後何百年も経って、日本全国に模作が置かれることになろうなどとは夢にも思っていなかったに違いない。

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