ドラマが書き換える歴史(1)インスタントラーメン誕生史2019/03/06 11:07

Wikipediaより 横浜のカップヌードルミュージアム(安藤百福発明記念館)
NHK連続テレビ小説『まんぷく』のモデルが、日清食品創業者の安藤(呉)百福とその妻・仁子であることは周知されている。
実在の人物をモデルとしますが、激動の時代を共に戦い抜いた夫婦の愛の物語として大胆に再構成し、登場人物や団体名は改称した上、フィクションとしてお届けします。(NHKの番組紹介公式サイトより)

で、その二人の生涯を調べると、知らなかった戦後史や、今まで間違って覚えさせられていた常識(「インスタントラーメンは日本人が発明した」など)が覆されて、とても勉強になる……という話は、以前、「チキンラーメンが教えてくれた戦後史」というタイトルでチラッと書いた。
あれを書いた時点では、ドラマもまだ始まったばかりで、史実との違いはまあ許容範囲かなと思って、控えめに書いていたのだが(怖いし……)、ドラマの終盤まできて、即席ラーメンの特許の話まで完全に都合よく書き換えられているのを見ていると、さすがにここまでやってはいかんだろうと思う。
江戸時代以前の歴史を扱ったドラマ(時代劇)であれば、何が史実なのか分からないことだらけなのだから、大胆に脚色して、フィクションとして再構築するのはかまわないと思う。水戸黄門なんて、そもそも諸国漫遊の事実がないわけだし、「あれはまったくの作り話である」ということを多くの人が「常識」として知っているのだから、問題ない。
しかし、インスタントラーメン誕生物語となると、これは昭和、しかも戦後のことで、ほぼすべての「史実」がはっきりしている。それを、いくらドラマ(フィクション)だとはいえ、あまりにも主人公たちを美化したり、都合の悪いことをすべてなかったことにしたり、いいように書き換えてしまうというのは、「国民的ドラマ」としてはどうなのか。ここまでくると、何か意図があって、積極的に歴史の改竄をしようとしているのではないか、と疑われても仕方がないレベルではないだろうか。

「チキンラーメンが教えてくれた戦後史」では敢えて触れずにいたが、改めて『まんぷく』と日清食品とチキンラーメン誕生の歴史を比較してみると、ざっとこれだけの相違点がある。

出生と事業創業

  • 主人公・立花萬平:日本人(東京生まれ?)。両親を早くに亡くした。大阪に出てきて、25歳の時に会社を設立。幻灯機や根菜切断機などを作る。
  • 日清食品創業者・呉百福:日本占領下の台湾生まれ。両親共に台湾人だが幼いときに死別し、呉服商である祖父の下で育つ。両親の遺産を元手に日本で注目され始めていたメリヤスの輸入業で成功を収める。正妻・黄梅との間に長男・宏寿をもうけるが、妻と長男を台湾に残して、第二夫人・金鶯を連れて日本に渡り、昭和8(1933)年、大阪にメリヤス問屋の日東商会を設立。メリヤス事業が低迷期に入ると、軍用エンジンの部品や幻灯機の製造をする会社を共同設立。1948年に大阪に移住し、その後、安藤仁子と結婚。1966年に日本国籍を取得し、安藤姓を名乗る。

家族

  • 萬平:戦前に大阪のホテルに勤めていた福子に一目惚れして結婚。その後、一男一女をもうける。
  • 百福:台湾時代に第一夫人・黄梅と結婚。長男・宏寿の他に幼女・呉火盆。宏寿はその後、日本に呼び寄せ、日清食品代表取締役社長に。日本に連れてきた第二夫人・呉金鶯との間には呉宏男、武徳、美和の2男1女。呉金鶯はその後、台湾に戻る。美和氏は晩年、台湾で遺産詐欺被害にあう。三番目の妻・安藤仁子とは1945年3月に結婚。第一子(女)は死産。その後に一男一女(宏基と明美)。宏基は後に日清食品三代目社長に。

福子と仁子(まさこ)

  • 今井(立花)福子:大阪出身で三人姉妹の末っ子。女学校卒業後にホテルに就職。萬平にプロポーズされ、戦前に結婚。
  • 安藤仁子:福島県二本松神社の神職次男・安藤重信の三女。重信は大阪で人力車の会社を経営して財を成したが、その後行き詰まった。ホテルのフロント係をしているときに百福にプロポーズされ、1945年3月、第一次大阪大空襲の8日後に挙式。このとき百福35歳、仁子28歳。

主人公(福子と仁子)については、3人姉妹の末っ子ということと、大阪のホテルのフロント係をしていたときに口説かれたということが共通しているが、結婚相手(萬平と百福)についてはまったく違う。
朝ドラの主人公が三番目の妻であったというのはまずいということで、第一夫人、第二夫人の存在や子どもを消し去ったところまではまだ許容範囲かもしれない。家族構成や結婚歴、恋愛歴などは「個人的な」ことだからだ。
しかし、夫が台湾華僑であったことを変えてしまうのはさすがにまずいだろう。
なぜなら、百福は台湾出身であったがゆえに、戦後は「戦勝国民」として莫大な保険金(約4000万円=現在の数百億円相当)を手にして「日本一の大金持ち」と呼ばれたり、占領軍に出入りして物資を仕入れたりしていたからだ。これは「個人的な史実」ということを超えて、当時の社会を知るための重要な史実なのだから、そこまで書き換えてしまうと、日本の占領下にあった朝鮮や台湾の人たちの悲劇と成功劇という、重要な史実が消えてしまう。
天皇が無条件降伏を宣言した途端、四川劇の「変面」さながら、台湾人は日本国民から中華民国の国民へと早変わりしていた。おまけに、中華民国が連合国だったおかげで、終戦直後の日本にいた台湾人は、戦勝国民という新たな肩書を手に入れ、その威勢のよさは、まさに虎の威を借る狐であった。(『日本統治時代の台湾 写真とエピソードで綴る1895~1945』 (陳 柔縉・著、天野 健太郎・訳。PHP研究所 2014)

インスタントラーメンは台湾が生んだ

もう一つ、重要な「歴史改竄」につながるのは、インスタントラーメン誕生物語という、このドラマの核心ともいえる部分の「史実書き換え」だ。
インスタントラーメン特許紛争は史実であり、争っていたのは張国文(東明商行)、陳栄泰(大和通商)、呉百福(サンシー殖産=後の日清食品)らだ。この3人全員が台湾華僑である。
ドラマ『まんぷく』では、油揚げ麺に湯を注いで戻すというスタイルが「萬平」がゼロから発明したかのように描かれているが、麺を油で揚げる料理「伊府麺」はすでに清朝中国に存在していて、それが台湾に渡り、揚げた麺をゆでてもどす「鶏絲麺」として普通に食されていたという。
これを日本でも売れば儲かるのではないかと商品化したのが張国文や陳栄泰で、「鶏糸麺」(大和通商)、「長寿麺」(東明商行)は、百福がチキンラーメンを売り出す1958年(昭和33年)8月25日の数か月前、春の時点ですでに日本で発売されていた。
第一次南極越冬隊(1956年)が持っていった即席麺はニュースにもなったが、これがまさに張国文の「長寿麺」で、この時点では一般販売こそされていなかったものの、越冬隊に供給する食品としてすでに存在していた(ただ、あまり美味いものではなかったようだ)。

さらには、チキンラーメンに出遅れること2か月の1958年秋頃、伊藤製粉製麺(創業者・伊藤哲郎。創業1945年。現在のイトメン)が「トンボラーメン」という袋麺を発売(のちに「ヤンマーラーメン」に改名し、ヤンマーディーゼルと商標使用をめぐって訴訟騒ぎになる)。
1959年に、梅新製菓(創業者・村岡慶二。創業1948年。後のエースコック)が「エースラーメン」を発売している。

特許に関しては、以下のような時系列になる。
  • 1958年12月18日 東明商行の張国文が「味付乾麺の製法」を特許出願(特願昭33-36661号)。
  • 1960年11月16日 上記特許が出願公告(特公昭35-16974号)。
  • 1959年1月22日  安藤須磨(百福の義母)名で「即席ラーメンの製造法」を特許出願(特願昭34-1918号)。
  • 1960年11月16日 上記特許が出願公告(特公昭35-16975号)。
  • 1961年 日清食品が東明商行が先行出願していた「味付け乾麺の製法」特許の権利を2300万円で買い取り、「即席ラーメン製造法」と合わせて特許登録

これを見ても、百福が「インスタントラーメンを発明した」とはいえないことは分かる。
また、「インスタントラーメン第1号」が張国文が作った「長寿麺」であれ、陳栄泰の「鶏糸麺」であれ、百福の「チキンラーメン」であれ、インスタントラーメンを生んだのは日本人ではなく、在日台湾人(華僑)だった(百福が日本国籍を取得したのはチキンラーメン発売から8年後の1966年)。

……こうして見ていくと、インスタントラーメン開発史は実にドラマチックであり、これをそのままドラマ化したほうがよほど面白い。とくにエースコックと明星の日清食品への対抗手段の違い(徹底抗戦を試みたエースコックと、実利を取って争いを避けようとした明星)とか、アメリカ市場をめぐる日清と東洋水産のバトルとか、カップヌードルの10年も前に明星はカップ麺を発売していたといった史実はとても興味深い。(もっとも、史実はあまりにもドロドロしていて、知れば知るほど胃もたれするかな。業界ではすぐに訴訟を起こしてライバル企業を追い落とそうとする日清の手法を「日清戦争」と揶揄しているそうだ)
この「本当は怖い」題材を、心温まる「家族愛」を基調にしなければならない(?)朝ドラに取り込もうとしたところに根本的な無理があったのだろう。
しかも、『まんぷく』の中に登場するいくつかのエピソード、軍需品横流しの嫌疑をかけられて拷問を受けたとか、栄養食品開発の際に食用蛙が爆発して飛び散ったとか、福子の長姉が美人で、歯科医が馬に乗って求婚しに来たとか、塩を作ったとか、脱税で逮捕され裁判闘争を展開したとか、信用組合の理事長になったものの組合をつぶしてしまったといった話は史実と微妙に重なるので、さらに罪が深い。
例えば、理事長を引き受けた「大阪華僑合作社(大阪華銀)」は華僑が出資した信金で、百福が理事長を引き受けた時点ですでに放漫経営でおかしくなっていたらしい。百福は理事会も経ずに華銀の金を大豆相場に注ぎ込んで失敗し、回復不能な大赤字を作ったとも……。

詳細を検証するのは難しいとしても、百福をモデルにしたインスタントラーメン誕生物語が、立派で美しいエピソードだけで彩られるのはどうなのか、と、誰もが思うだろう。
戦前戦中は「台湾出身の三等国民」として辛酸をなめ、戦後は「戦勝国民」として思わぬ巨利を得たことや、インスタントラーメン開発商戦での熾烈な競争と生々しい駆け引き、取り引きなどは、やはりそのまま再現してほしかった。

例えば、王貞治氏は今も国籍は日本ではなく中華民国だが、彼をモデルにして、「立花治男」という日本人の両親を持つ日本人少年が世界のホームラン王になっていくドラマを作り、「これはフィクションです」と開き直っていいのだろうか。
王さんの父親・王仕福は、戦時中にスパイ容疑をかけられて警察に連行され、拷問まで受けていたという。
軍事物資横流しの嫌疑をかけられて憲兵に連行され、拷問を受けた呉百福と重なるような話だが、こういう時代背景を不自然に書き換えてまで、実在の人物をモデルにしたドラマを作るべきではない。そのドラマの中でフィクションが完結するならまだしも、それがほぼ史実だと思い込んだままの視聴者を大量に作りだし、国民の歴史観そのものが変わってしまう恐れがあるからだ。

朝ドラは、ある時代を背景にした、女性が主人公の人間ドラマというスタイルが定着しているが、余計な罪を犯さぬよう、今後は完全なフィクションに徹するべきではないか。
手本は『ひよっこ』かなあ。あれを超える朝ドラは、今のところないのではなかろうか。

『いだてん』はベルリン五輪をどう描くのか

で、ついでに書けば、放送中のNHK大河ドラマ『いだてん』で、ベルリンオリンピックがどう描かれるのか、特に、当時、日本統治下にあった朝鮮の孫基禎と南昇竜が「日本選手」としてマラソンに出場し、それぞれ金メダル、銅メダルをとったことをどう扱うのか(まさか、まったくスルーすることはできないと思うのだが……)にとても興味がある。
注目したい。

「飛翔獅子」という呼称について2019/03/01 21:30

鹿島神社の「飛翔獅子」(吽像)

川田神社の飛翔獅子。寅吉自身が奉納した記念すべき最初の飛翔獅子 明治25(1892)年11月15日「浅川町福貴作 石工小松布孝作之」の銘



鹿島神社の狛犬(裏側から) 明治36(1903)年 「福貴作 石工 小松布孝」の銘

小説版『神の鑿』上巻 小松利平、は、目下160枚ほど書いて、利平がようやく福島に初めて足を踏み入れようとするあたり(天保年間)まできた。
小説化するにあたって、毎日、執筆時間よりも調べ物をしている時間のほうが多いのだが、ネット検索していると自分が書いた文章やサイトにぶつかることもある。
今日は朝日新聞のこんな記事を見つけた。
白河市を中心とする福島県南部には、全国でもめずらしい……というよりは、この地方だけではないかといわれる“飛翔する狛犬”たちが見られる。

……と始まる「城とラーメンの町で注目を集める新名物は“飛翔する狛犬たち”/福島県白河市ほか」(文・写真 中元千恵子 2017年3月22日)という記事。
2017年3月だから、2年も前に書かれていたのね。

で、ここでも書かれている
通常は前足を伸ばして腰を下ろした姿勢だが、白河地方では“飛翔獅子(ひしょうじし)”とよばれる独特のスタイルが生まれた。雲に乗り、尾やたてがみを風になびかせた姿は躍動感があり、彫りの美しさからも、もはや芸術、と称されている。

の、「飛翔獅子」や「雲に乗り」という部分がおかしいと主張している人がいると最近知った。
実際に問い合わせもあった。
狛犬の下の部分は明らかに「雲」ではない。雲ではないのだから、「空を飛ぶ」もおかしいのではないか、という趣旨のご指摘だ。
「雲に乗り空を飛ぶ」というのは、拙著『狛犬かがみ』にこんな記述がある。
江戸獅子の豪華版として獅子山というスタイルがある。獅子山の獅子は、今にも飛びかかりそうな躍動感にあふれているものが多い。加賀地方には、山の上で逆立ちしている獅子像がある。広島には玉に乗った狛犬が多い。しかし「雲に乗り空を飛ぶ狛犬」という構図は、ほとんど見たことがない。石で造るがゆえに、あまり自由な構図が許されないからだろう。
寅吉は生涯何体もの狛犬を彫っているが、ついにはこの「飛翔獅子」というスタイルに行き着く。これが寅吉の「発明」だとすれば、大変な功績といえよう。
(『狛犬かがみ』バナナブックス)

獅子を支えている部分については、「雲」ではない、と言われればその通りかもしれない。
しかし、江戸獅子の獅子山とは発想がまったく違う。仏像の蓮華座そのものかといえば、そうともいえない。蓮の意匠をあしらった部分もあるし、牡丹の花を添えているのもあるが、「あの部分」に関しては、おそらく、「後ろ脚を蹴り上げて飛んでいるような格好の石獅子を台座の上でバランスよく成立させるためには、どのような造形にすればいいか」という命題から出発して、あのようにまとめ上げたのだと思う。獅子と一体に一つの石から彫られているのも、そのためだ。

寅吉の出発点(発想の最初)はあくまでも、龍のように「天翔る獅子」を彫りたい、だっただろう。
重い石獅子をあの形で仕上げるには、前脚だけが台座に接続しているのでは無理がある。長くもたせるためには、重量バランスを考えて、なおかつ全体のデザインが壊れないようにまとめなければならない。そこで、「台座にのせる」という発想から一旦離れて、「獅子をあの形で宙に浮かせるためにはどういう形にすればいいか」という発想に切り替えた結果なのだ。
悩んだ末に、蹴り上げた後ろ脚を支える支柱の代わりに、モコモコっとした「何か」を後肢方向に盛り上げて、その「何か」込みで全体のデザインと重量バランスをまとめる、という作業に取り組み、完成させた……と見る。
あの「何か」が岩山なのか蓮華座なのかという定義は、寅吉にとってはあまり意味のないことだったのではないか。それをどう呼ぼうが「後付けの問題」で、あくまでも「天翔る獅子」を成立させるための「デザイン」が必要だった、ということだろう。儀軌的な定義ではなく、あのスタイルを実現するための物理学的な工夫の結果だった。雨水が溜まらないように随所に空洞を作るという工夫もされている。
あの部分に蓮や牡丹の意匠を採用していても、それは「ここはこうあるべきだ」ではなく、不自然さがなく、かつ、豪華、豪快にまとめるためのパーツ(木彫扉の錺金具のようなもの)だったと思うのだ。
あれを岩山であるとか、蓮華座であるとか厳密に「規定」してしまうと、途端に主役の獅子の動きが止まってしまい、躍動感や感動が薄れてしまう気がする。
あくまでも主題(目的)が「天翔る獅子」であるならば、「それを可能にするためのデザイン」として下にあるものを「雲にたとえて」もいいのではないか。

もちろん、寅吉自身が「空を飛ぶ獅子」というイメージをまったく抱いていなかったという可能性はありえる。
蹲踞した狛犬ではつまらないから、獅子に何か驚くようなポーズをとらせたいと考えた末に、後ろ脚を高く持ち上げてみた……というだけだった。それを見た人たちが勝手に「すごい! 狛犬が空を飛んでいる!」「雲に乗っている!」と感じた(解釈した)だけだ、という可能性……。
そうであったとしても、それまで誰も挑戦したことのない造形を生み出そうとしたことは間違いない。であれば、あれを見た人がイメージした「天翔る獅子」「飛翔獅子」が表現や呼び方として定着するのは、悪いことではない。たとえ寅吉がそう意図していなかったとしても、「雲に乗って空を飛ぶ獅子」と評されることを、寅吉自身、喜ぶのではないか。

芸道や芸術の修業における段階を表す「守破離」という言葉がある。
」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。(デジタル大辞泉より)

仏教では「習絶真」という言葉がこれに近い。
寅吉にとって、飛翔獅子の考案は、守破離の「破」から「離」に相当するものであった。それは確かだ。

思うに、寅吉の師匠である利平は、寅吉よりずっと自由人だった。利平に比べたら、寅吉はむしろ儀軌を重視する保守的な一面も持った人だった。
しかし、自由を愛した利平も、獅子を飛行させることはできなかった。アイデアはあったかもしれないが(そのアイデアを寅吉に語っていた可能性は大いにある)、彫り上げることはできなかった。
寅吉は、並外れた努力と技術で、それを形にしてしまった。……そういうことだ。

残念なのは、利平が寅吉の飛翔獅子を見ることなくこの世を去ったことだ。生きていたら、飛翔獅子を完成させた寅吉にどんな言葉をかけただろうか。

謎の飛翔獅子

矢吹町中畑字根宿の八幡神社には、後肢に支えのないアクロバティックな飛翔獅子がいる。

根宿八幡神社の飛翔獅子 明治41(1908)年。石工名なし


明治41(1908)年旧8月という銘があるが、石工の名前がない。
間違いなく寅吉の工房で彫られていると思うが、寅吉の作ではない。作風がまるで違うし、このとき寅吉はすでに64歳で、八雲神社の燈籠(「福貴作小松布孝六十五年調刻」の銘)にかかりきりだったはずだからだ。
極めて端正な顔とスマートな体躯。これは一体誰が刻んだのだろうか。
私の推理としては、当時まだ20代だった和平か、和平の同僚であった(?)岡部市三郎、あるいはこの二人の合作ではないか。
和平や市三郎以外の腕の立つ職人が石福貴にいたのかもしれない。

これは、「飛翔獅子を後肢に支えをつけないで設置できるのか」というテーマ(タブー?)に挑戦した作品であろう。
そういうことをやろうと思うのは、若く、反骨精神旺盛なときだと思う。守破離でいえば、「破」であがいている時期か。
老境に入って、自分の石工人生を振り返りつつあった寅吉は、弟子がそういう生意気な挑戦をすることについて黙って見守っていたのかもしれない。
あの飛翔獅子を彫ったのが和平だとすれば、後に「やはりあれは無茶だった。師匠が完成させた形を受け入れよう」と改心して、なおかつ「自分にしか彫れない飛翔獅子」を生み出そうと試行錯誤した結果、石都都古和気神社の親子獅子以降の傑作が生まれたのではないだろうか。

……とまあ、過去の物語をいろいろ想像しながら、目下、小説版『神の鑿』上巻を執筆中。
勉強することが多すぎて、寅吉や和平が登場するまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。



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ノーベル賞は「偉い」のか?2018/10/04 20:52

ノーベル物理学賞発表直前のテレビはこんな感じだった

「教科書を信じない」の波紋

一番重要なのは、何か知りたい、不思議だと思う心を大切にする。教科書に書いてあることを信じない。本当はどうなっているのかという心を大切にする。自分の目でものを見る、そして納得する。そこまであきらめない。

先日、ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏のこの言葉が話題になった。
NHKのニュースでのインタビューでも同じことを言っていた↓


この「教科書を信じない」発言は、かなりのインパクトがあったようで、ネット上にはさまざまな反応コメントが飛び交った

この発言を鵜呑みにするな的な反応をまとめると、
「教科書を信じない」を真に受けて教科書も読まないような馬鹿は論外。「教科書を勉強しなくていい」ではない。教科書は信じておいたほうがいい
……となるだろうか。
でも、この手のコメントをムキになって書き込んでいる輩がいっぱいいる時点で、今の日本はかなりダメなんじゃないかと思う。


小学生向けの教科書副読本「わくわく原子力ランド」 2010年11月、文部科学省発行 中学生向けには「チャレンジ!原子力ワールド」という同様の副読本が配布されていた


これは副読本だが、国が作っていた「教科書」だ。
2011年の原発爆発後にすべて回収されたらしいが、「歴史的資料」として、今でもネット上にはあちこち残されている。「わくわく原子力ランド」で検索すれば簡単に見つけられる。こういうものが、ついこの前まで国が作った教科書副読本として小中学生に与えられていたという「歴史的事実」をしっかり記憶に刻んでおきたい。



国会図書館での検索結果



↑「トンデモ本」と呼んでもいい内容なだけでなく、子供たちにトンデモなことを信じ込ませる、巧妙な誘導に終始していた↓



↑火力発電を悪者に仕立てるために、イラストもこんな風にアレンジされているなど、随所にあからさまな「誘導」「洗脳操作」がある


この「副読本問題」については、福島大学放射線副読本研究会というグループが「放射線と被ばくの問題を考えるための副読本」という興味深いものを出しているので、ついでに紹介しておきたい。

学校で使う「教科書」は、国が「検定」している。その時点で、時の政治権力の意向が入っていると考えるほうが自然なことだろう。

ノーベル賞は「偉い」のか?

毎回嫌になるのが、日本人がノーベル賞をとった、とらないということに焦点を絞って報道しているメディアの低俗さだ。
本庶さんがノーベル医学・生理学賞を受賞したことで、翌日、物理学賞もいけるんじゃないかと、ニュース番組では「物理学賞をとれそうな日本人学者リスト」なるものをデカデカとパネルにして待ち構えていたが、日本人以外が受賞と決まった瞬間「残念でした」とだけ伝えて終わってしまった。受賞した学者はどんな人で、どんな研究成果をあげたのかという肝心な部分にまったく触れないのだから、どうしようもない。

↑とれるか? と騒がれた人たちはとんだ迷惑だったのでは?


本庶さん流に言うなら、そもそも

ノーベル賞ってそんなにすごいのか?
ノーベル賞をとることに価値があるのか?

という疑問を持つべきだろう。
ノーベル賞の中でも、平和賞と文学賞は、「西欧社会が世界をどうみているか、どうあるべきだと考えているか」というメッセージ発信ツールになっているという指摘がかねてからされてきた。
特に平和賞の受賞者に関しては常に議論が巻き起こる。
佐藤栄作、金大中、ヘンリー・キッシンジャー、イツハク・ラビン、シモン・ペレス、ヤーセル・アラファト、アル・ゴア……みんなノーベル平和賞受賞者だ。
バラク・オバマは2009年の大統領就任当初(候補者推薦の締切が就任12日後)に受賞しており、大統領として何かを成し遂げたからではなく「黒人がアメリカ大統領に就任したこと自体に意味がある」という解釈しかできない。

平和賞はスウェーデンではなくノルウェーで授与される。選考を司るノルウェー・ノーベル委員会は、ノルウェーの国会が指名する5人の委員と1人の書記で構成されている。つまり授与主体はノルウェー国家である、といってもいい。
西欧先進国社会を代表してノルウェーが、この人に平和賞を与えることが我々が考える世界平和のメッセージだ、と発信している、といえるだろう。

日本人の頭には「ノーベル賞受賞者=歴史に名を残す=偉人」という刷り込みがあるようだが、それは大間違いだ。
今年は金正恩とドナルド・トランプが平和賞の候補ではないかなどと冗談のような噂が飛び交ったが、実際、2000年には「史上初の南北首脳会談を実現させた」という理由で、当時の金大中大韓民国大統領が平和賞を受賞しているし、さらに遡れば、アドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニ、ヨシフ・スターリンといった名だたる独裁者らが候補にあがっていたことも判明している。(ヒトラーは皮肉を込めて推薦されたというが……)


文学賞に関しても同様だ。
例えば、2006年のノーベル文学賞はトルコのオルハン・パムクが受賞したが、これも西欧世界からイスラム社会へのメッセージだという人たちがいる。
彼の受賞にスウェーデン・アカデミーの、選考過程で政治的状況は考慮していないとの公式発表は 全く信じない。『第二次世界大戦回顧録』で受賞したチャーチルがいい例だが、文学賞であれ政治的状況が強く反映されるのは知られている。たとえ優れた作品 をいくら書いたところで、パムク氏がアルメニア人大量殺害を認めない姿勢ならば、受賞は絶対出来なかっただろう。
トーキング・マイノリティ トルコ初のノーベル文学賞受賞

「トルコは東西の懸け橋、と形容されることが多いが、重要なのはパムク氏がヨーロッパ側に橋を渡ってきた人だということ。彼への受賞には、イスラム教徒が固有文化の障壁を自ら越えて西欧的価値観を共有してほしいという、西欧知識人のメッセージが読み取れる」と池内(恵)氏は見る。
(2006/10/17 読売新聞)


2016年は音楽畑のボブ・ディランが受賞して話題になったが、あれも穿った見方をすれば、トランプを大統領にして、乱暴粗雑低教養を加速させているアメリカに対してのヨーロッパ側からの嫌みかもしれない。

その視点で考えれば、日本国内で何年もの間「村上春樹がノーベル文学賞を取れるか」と騒いでいるのは能天気な勘違いであり、昨年、日本で生まれたがイギリス国籍を取得して「イギリス人」になったカズオ・イシグロが受賞したことも頷ける。
ちなみに、日本の文部科学省は、南部陽一郎氏(2008年、物理学賞。アメリカ国籍)、中村修二氏(2014年、物理学賞。アメリカ国籍)は「ノーベル賞を受賞した日本人」としているが、イギリス国籍のカズオ・イシグロ氏は数に入れていない。

NHK大河ドラマの罪

教科書に出てくる武将だの政治家だのは「歴史上の人物」かもしれないが、ほとんどの場合「偉人」ではない。直接間接を問わず、彼らのせいで死んだり殺されたりした人がどれだけいるか考えてみればよい。
人びとにまともな歴史観をもたせなくさせている元凶がテレビの「歴史ドラマ」、映画、歴史小説の類だ。
今年のNHK大河ドラマは西郷隆盛が主人公。それにあやかったわけでもなかろうが、2019年版の中学道徳教科書にこんな題材が入ることになった。
2019年度版の中学3年生向け教科書「中学道徳3 とびだそう未来へ」(教育出版)に、150年前の戊辰戦争で激しく敵対した薩摩藩の西郷隆盛と庄内藩の菅実秀の戦後の深い交流を紹介したコラム「徳の交わり―西郷(せご)どんと菅(すげ)はん」が掲載されている。敗れた庄内藩に対する西郷の寛大な処分と、西郷の人柄に引かれた菅ら庄内藩士と西郷の交わり、西郷の教えを基にした松ケ岡開墾、菅らによる「南洲翁遺訓」の編さんに触れ、郷土の復興に尽くした先人の姿を通じて、郷土の発展のために寄与することの意義を伝えている。
荘内日報 2018/06/25 西郷隆盛と菅実秀「徳の交わり」 中3生の道徳教科書に


これに対して異を唱えているのが「ワッパ騒動義民顕彰会」。⇒こちらのブログにその内容が詳しく出ている。
複数の資料から検証される西郷、菅の実像を紹介した上で、結論部にはこう記されている。
(菅はん」こと菅実秀が、1890(明治23)年に出した)『南洲翁遺訓』に見られる「徳」は、「君子」つまり支配者、治政者、上司としての在り方や心構えの「徳」であり、民主主義の現代社会における価値とは相いれないのではないかと考えられます。
教科書掲載を機に、地域の歴史を学び地域を知り地域を創るきっかけになれば幸いですが、史実に目を閉ざし情緒的な「美談」が流布してしまうことにならないか懸念しています。
道徳教科書への「徳の交わり~西郷どんと菅はん」掲載についての意見書 結び部分)


今年(2018年)から、道徳が小学校の正式な教科として加わった。中学は来年度からだ。↑これは、その教科書の話である。

3.11後、「わくわく原子力ランド」は回収されたが、教育界全体をみると、歴史的大失敗に学ぶどころか、以前にも増して危ない方向に突き進んでいる。
柴山昌彦文部科学相は2日の就任会見で、教育勅語に関し「同胞を大切にする、国際的協調を重んじるといった基本的な記載内容について現代的にアレンジして教えていこうと検討する動きがあると聞いており、検討に値する」と述べた。
日本経済新聞 2018/10/03


新しい文科相は、教育勅語はその中身よりも、それが歴史の中でどのように使われたかということが問題だという認識がまったくできていないようだ。
今、この国のトップには戦前回帰志向という極めて特殊な思考傾向の人たちが集まって、歴史を作ろうとしている。
一方で、「難しいことはよく分からないけど、私の回りではみんなこう言っている」という人が増えている。
そのレベルに合わせて、メディアが「日本人ノーベル賞受賞者」が出るか出ないかで騒いでいていいのか。
そうではないよ、本当はこうなんだよ、こういう考え方もあるんだよ、と分かりやすく教えてあげるのがメディアの仕事ではないのか。


北朝鮮とキューバ 「ポストソ連」政策の差2018/08/06 16:23

前回のまとめ(まっとうな社会論かを見極める判断基準)の内容はエントロピー環境論をかじった人たちには至極あたりまえのことだろう。
ひとつ、ん?! と思ったのは次の部分だった。
北朝鮮とキューバは、ソ連崩壊によって、石油ショートを初めて突然に経験しました。
北朝鮮は、専制的な執政の下で、従来の農法を踏襲しました。キューバは石油ショートを認識したとき、有機農法への移行という解決法を持ち合わせていました。政府の政策、科学者と農民の共働で有機農法と地産地消に努め、餓死を出すことなく平和的に文明の転換に成功しました。


そうか! と一瞬食いついたが、すぐに冷静になった。
有機農法への移行が完全解決策であるというように鵜呑みにはできないだろうし、過剰な幻想を抱くのも危険だろう。
キューバの農業改革については以下のような指摘もある。
「平和時の非常時」において、当面の外貨収入の増大をもたらす観光の推進、外国投資の誘致、外貨所持の自由化といった政策では経済危機の本格的な対策としては不十分であり、政府は、94 年から生産力を解放して、生産を増大するため、市場機能を導入した種々の経済改革政策を開始した。海外資本の積極的な誘致、各種自営業の拡大、国営農場の協同組合生産基礎組織(UBPC)への改編、農産物の自由市場の創設、工業製品の自由市場の創設、飲食自営業の承認、銀行制度改革、税制改革、企業改革などが推進された。しかし、カストロ議長は、急進的な経済開放から引き起こされるかもしれない経済混乱に乗じて米国の介入が予想されるとして、市場機能の導入には極めて慎重な態度を取っている。製造業、小売業において限られて業種で個人営業は認められているものの、小規模私企業は認められていない。

こうした経済危機の中で、食糧生産が、経済活動の第一の目標に置かれた。危機の 5 年間で国民の食料摂取は、30%減少した。政府は、乏しい外貨の中で、食料輸入を最優先におくとともに、食料の増産政策を進めた。激減した農業機械、石油燃料、化学肥料、化学農薬、化学除草剤を補うために、国内で利用できるものは何でも代替資材とされた。大規模農場は解体されて、協同組合生産基礎組織(UBPC)に改編されるとともに、農場の規模を 10 分の 1 程度にダウンサイズし、牛耕が行われ、バイオ肥料、バイオ農薬が使用されるようになった。このように、キューバにおいて、有機農業は、食料生産を維持するという歴史的事情から追求することを余儀なくされた農法の一手段であり、目的ではない
キューバの有機農業を論じるときには、この観点を失うと有機農業の現実を過度に美化することになりかねない。
「キューバにおける都市農業・有機農業の歴史的位相 」新藤通弘 『アジア・アフリカ研究』2007年第2号)

有機農業が目的化されると、再エネ信仰のような宗教になってしまいかねないのは確かだろう。しかし、現実に、北朝鮮とキューバの人たちのどちらが今、幸せそうに暮らしているかどうかを見れば、キューバのほうが国の運営に成功していることは誰の目にも疑いがない。
要するに、一国のリーダーが知性と理想と献身の精神を持ち、合理的な判断をできるかどうかが問われているのだ。
それを考えるサンプルとして、北朝鮮とキューバは実に分かりやすい。
そして、いうまでもなく、日本はその意味においては最悪レベルの国の一つになっており、戦後に蓄積した財産を急速に失っている。

↑エントロピー環境論を子どもから大人まで伝えたいという気持ちで書いた、これは私の「遺言」です

「道徳教育」が日本を滅ぼす2018/06/04 12:47

「育鵬社」の次に「よ」と入力しただけで、Google検索ではこんな予測検索ワードが表示された

教育現場破壊の問題では地方自治体の首長がいちばん怖い

imidasの「時事オピニオン」コーナーに、前文科省事務次官・前川喜平氏のロングインタビューが掲載されている。主に2020年から導入される予定の新しい学習指導要領についてのQ&Aだが、その内容がとても興味深く、かつ怖ろしいので少し紹介してみたい。

まず、学習指導要領の改定、見直しにあたっては、その前に「政治的な議論」や「圧力」があるという。
小中と同じように「高校でも道徳教育が必要だ」という議論。中には「徴兵制を導入して高校生も鍛え直すべきだ」なんてことを真顔で言う人もいるぐらいで、高校生のための道徳教育、あるいは日本人としての自覚を持たせる教育、愛国心教育みたいな内容を高校教育に織り込ませたいという声が、常に自民党の中にあるわけです。
新しい高校学習指導要領で導入される「公共」という教科などは、まさにそういう議論の中から出てきたものです。

質問者が、「前川さんご自身が愛知県の公立中学で講演をされた際に、自民党の国会議員が文科省に圧力をかけ、名古屋市教育委員会に講演内容などに関して質問し報告を要請したという事件がありましたよね」と話を向けると、こう答えている。
政治が教育に手を突っ込むというのは、大抵、こういうやり方なんですね、要するに「騒ぎ立てる」。今回のように国会議員が騒ぎ立てる場合も多いのですが、怖いのは地方議会ですよ。あと、もっと怖いのが地方自治体の首長です。教育委員会に圧力をかけて「右の教科書」を採用しようとしたりしますからね。
防府市の松浦正人市長が会長を務める「教育再生首長会議」という団体があるのですが、彼らは教育、特に教科書の採択は教育委員会でも、現場の教員でもなく、選挙で選ばれた自分たちが決めるべきだと主張しています。「新しい歴史教科書をつくる会」から分派した団体で、安倍首相直属の諮問機関「教育再生実行会議」の有識者委員でもある八木秀次・麗澤大学教授が理事長を務める「日本教育再生機構」とともに、育鵬社の教科書採択を広める活動を積極的に展開しています。

……と述べている。
公立学校というのはほとんどが県立や市立なのだから、自治体の長が国粋主義者だったりすれば、その地域全体の公教育がガラリと変わることもありえるわけだ。
名古屋市の教育委員会のように毅然とした態度をとれればいいが、そうではない自治体がたくさんあるだろう。

「育鵬社」の次に「よ」と入力しただけで、Google検索ではこんな予測検索ワードが表示された。中田前市長の「功績」だそうだ


ここでも出てきた「育鵬社の教科書」だが、ネットでこのキーワードを検索すると、ヒットするページの多くは、「育鵬社の教科書を採用しないのはけしからん」「日本の未来を引っ張っていく大人に育てるのは育鵬社の教科書しかない」といった主張を展開している。
どうも、この問題に関しては、冷静で具体的な議論がされず、右が~、左が~、というののしり合いになってしまっている印象を受ける。
そんな中で、ああ、これは冷静な議論だなあと感じたのは⇒この東洋経済ONLINEの記事だ。
2001年、いち早く育鵬社の教科書を採択して注目された東京都大田区教育委員会で委員長を務めた経験を持つ櫻井光政弁護士へのインタビュー。
櫻井氏はまず、

歴史教科書を選ぶ際に私が大事だと思うことがいくつかあります。まず、何が歴史を動かしたのかを客観的に観察していること。特に、誤りがなぜ起きたのかきちんと分析することが大事です。

という大前提を述べた上で、育鵬社の歴史教科書にはその視点が欠けていると、いくつかの例を挙げて説明している。

沖縄の問題に関しては、書いてある内容が正反対という印象を受けました。帝国書院は、日本軍によって食料を奪われたり、安全な場所から追い出されたりして犠牲になった住民の様子が書かれています。「最後の一兵まで戦え」という命令を残して自害した日本軍司令官の話もあり、犠牲者が増え続けた理由や責任の所在が分かります。
一方、育鵬社は、沖縄県民の献身的な働きや戦争の悲惨さを描いてはいます。しかし、命令が残っていたために被害が拡大したことには触れられていません。
私は、その戦争の中で立派に行動した人がいた、ということに触れるだけではいけないと思います。負けることが分かった時にどういう指揮を取るか、というのがとても大事で「最後まで戦え」という命令を残して自決するのはリーダーとしては失格ではないでしょうか。自分の美学に殉じるのはよいですが、残った者の命をどう考えるのか。特に非戦闘員の命をどう守るのか考えられない人は、指導者としては批判の対象になるものだからです。そういうことを学ぶのが「歴史」だと私は思います。
[採択相次ぐ!「育鵬社教科書」本当の問題点  「右・左」だけでなく、グローバル視点で課題] 東洋経済ONLINE 2015年6月3日


「自分で考える力」をつけさせるのが教育

話を前川氏のインタビュー記事に戻す。
前川氏も櫻井氏同様に、誤りがなぜ起きたのかきちんと分析することの重要性を強調している。
例えば「ワイマール憲法」という当時では世界で最も民主的な憲法の中から、なぜヒトラーのような独裁者が生まれたのか? こういう愚かなことを日本人だって繰り返さないとは限らないよという、そのことを学ぶってものすごく大事だと思うんです。(略) つまり害虫の巣を残しちゃった国(今の日本)と、完全に駆除した、あるいは、それを常に駆除し続けなきゃいけないと思っている人たち(今のドイツ)との違い。 それだけの痛恨の歴史を持っている国。ワイマール憲法がヒトラーを生み、ヒトラーがホロコーストをしでかして、とんでもない戦争で何千万人もの人を殺したと。そういうとんでもないことを、しかしそれに迎合し支持した国民がいたという……。それだけシビアな歴史観、民主主義観というのが常に彼らの中にはあって、その運用をいかに間違えないかということに対する意識が、常に一定のブレーキというか、必ず考えなければいけないプロセスとして残っているということなんですね。
imidas 前川喜平さんロングインタビュー

しかし、今の日本の教育は、子供に「なぜそうなったのかを考えさせない」「間違いを繰り返さないためにはどうするべきなのかを自分の頭で考える力をつけさせない」方向にどんどん進んでいると危惧している人は多いはずだ。
日大アメフト部事件はまさにそのことをはっきりした形で突きつけた。

こんなツイートを見つけた。

↑まさにこれ!

前川氏のインタビューでも、こう続く。
一方で、政治の側にはそういう「目覚めた主権者」は困ると言う人もいるわけです。(略) 最近の「公文書問題」などを見ても象徴的ですが、現実には「民はよらしむべし。知らしむべからず」みたいな社会に戻ろうとしていますよね。とにかく、真実を国民に伝えないようにしようと。その一方で、他国の脅威とか、ヘイトのような国民のネガティブな感情に訴えて、支持を勝ち取ろうという、ポピュリズム的な政治手法です。 基本的に、国民はバカだと思っているんですよ。だませると、最後までだまし通せると思っている。


日大事件でも、前監督や現理事長の言動を見ていると、まさに「国民はバカだ。最後までだまし通せると思っている」としか思えない。
今は騒いでいても、どうせそのうち忘れる、と。
実際、そうなっている。森友事件では、まだ渦中にありながら、佐川・財務相前理財局長らはさっさと全員不起訴になった。
こんなことが続けば、この国は間違いなく壊れ、また悲惨な状態に陥る。
そうならないように、人を育てるのが教育なのに、教育現場がどんどん壊されていくのは本当に怖ろしいことだ。

前川氏のインタビュー記事はこう結ばれている。
公教育は「国」のためではなく、一人ひとりの「個人」のためにあるはずです。ひたすら強いものに付き従うのではなく「自分で考える力」を身に着けた「目覚めた主権者」の存在なしに、本当の民主主義などありえないのですから。




↑これは私の「遺言」です

通銅鉱山神社と磐裂神社の狛犬は入れ替わっていた──その後訂正2018/05/01 22:35

通銅鉱山神社の狛犬 背中の銘

単なる「間違い」ではない?

通銅鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬が「入れ替わっている」という説をさらに突っ込んで考えた末の結論を以下まとめてみる。

通銅鉱山神社の狛犬の背中には奉納者の名前がはっきり刻まれている。足尾郷の名士・神山氏が、先祖代々守ってきた地元の総鎮守・磐裂神社(妙見さん)ではなく、わざわざ山の上の、山師たちが建てた神社に、あれだけ出来のよい狛犬を奉納するだろうか。
これこそが今までの説明のように「簀子橋山神社から遷座された狛犬」ではないという推論の最大の根拠である。私の中ではこれはほぼ確信に変わっている。

また、現在、磐裂神社にある前脚のない狛犬こそが、かつては簀子橋の神社にあって、明治23(1890)年に流されてきた狛犬であろうこと、その奉納の時期は足尾銅山最盛期の延宝年間あたりではないかということも、半分以上の確率であたっていると思っている。
であれば、どこでどう入れ替わってしまったのか?
通銅鉱山神社の狛犬が簀子橋山神社から遷座されたという説明は単純な間違いなのか、それとも恣意的な嘘なのか……。そのへんをもう少し深く考えてみたい。

通銅鉱山神社ができたのは大正9(1920)年だが、それより30年前の明治22(1889)年には、前年に足尾銅山鉱業所長に就任した木村長七が音頭を取って大々的に寄付を募り、本山坑口前の山に本山鉱山神社(杉菜畑鉱山神社)を建立している。
しかし、皮肉にもその翌年に足尾大洪水が起きて、塩野門之助の妻子をはじめ、多くの村民が亡くなってしまった。神社の御利益どころか、まるで山の神の怒りに触れたかのようだ。

当時、木村長兵衛と塩野はピルツ炉の改造をめぐって対立していたことはすでに述べた。前年の明治21(1888)年には、塩野は辞職している。このときの木村長兵衛と塩野の関係は最悪だっただろう。しかし塩野が辞職した翌月、木村長兵衛が急死。その後、塩野は説得されて復職している。
時系列で並べると、
  • 明治21(1888)年、銅山運営をめぐって所長の木村長兵衛と技師の塩野の対立が深まり
  • ⇒塩野が辞める
  • ⇒その直後に木村長兵衛が急死し、木村長七が後を継ぐ
  • ⇒塩野が復帰
  • 明治22(1889)年、木村長七の主導で本山鉱山神社建立
  • 明治23(1890)年、大洪水で塩野の妻子を含む多くの村民が死ぬ
……となる。
失意の塩野は、かつて住友を辞める原因となった住友総理の広瀬宰平ではなく、その息子・広瀬満正に、再び別子銅山へ戻りたいと直訴するが、足尾でのベッセマ転炉建設計画が中途であることを理由に慰留される。
明治26(1893)年、塩野が指揮して日本初のベッセマ転炉が足尾に完成。その直後、塩野はさっさと足尾銅山を辞職し、別子銅山に設計部長として戻っている。
3年後の明治29(1896)年には再婚もして、完全に「人生のやり直し」をはかったように見える。

この後も、足尾銅山は様々な事件やトラブルの歴史を続ける。
  • 別子銅山に戻った塩野門之助が再婚した明治29(1896)年には、足尾でまた大きな洪水が起きて、1万3000戸以上の家屋が浸水した。
  • 明治33(1900)年 政府に請願するため上京しようとした鉱毒被害農民3,000人が警官隊に阻止される「川俣事件」。
  • 明治34(1901)年11月30日 古河市兵衛の夫人・為子が神田橋下で入水自殺。
  •         12月10日、田中正造田中正造が天皇へ直訴。逮捕される。
  • 明治40(1907)年 鉱毒の被害を受けていた谷中村が強制破壊により廃村に。

この時期は、鉱山の営業停止を求める運動がどんどん盛りあがっていった、古河にとっては「負の歴史」を刻んだ時代といえる。
本山鉱山神社で行われていた祭りなども消えていった。散々毒をまき散らし、山を破壊して洪水を起こし、人びとを苦しめておいてなにが鉱山神社だ、山祭りだ、という反発があったことは容易に想像できる。

そして、大正2(1913)年9月、反対運動のシンボル的存在だった田中正造が亡くなる。同じ年、古河鉱業会社理事長に就任していた木村長七が引退。激動の時代に一区切りがついたかのようだ。
古河にとっては触れたくない傷、思い出したくない人物である田中正造が亡くなり、激動の時期に銅山を牽引してきた木村が引退して7年後、通銅鉱山神社が建立された。明治14(1881)年 当時の鉱長・木村長兵衛の指揮下、大鉱脈が発見されて足尾銅山が一気に盛り返す大転換期からは40年近く経っている。

神社を作ったのは古河だから、通銅鉱山神社に今の狛犬を置いたのも古河ということになる。
狛犬を置いた責任者は、30年前に足尾大洪水があって、古河にとっては日本初のベッセマ転炉を作り上げた技師・塩野門之助の妻子が流されて死んだことを知らなかったのだろうか? そうとは思えない。

また、なぜ自前で新しい狛犬を建立せず、古い狛犬をよそから持ってきたのだろうか? 費用をケチっただけなのか? それとも、そうしたほうがいい理由があったのだろうか?

寛保3(1743)年の狛犬奉納の背景

ここで、寛保3(1743)年の狛犬がどのような時代背景のもとに奉納されたのかを考えてみよう。
奉納者は「下松原丁神山清右門」。下松原は現在の足尾歴史館があるあたりだから、まさに妙見さんのすぐそばで暮らしていた。
神山清右門がどういう人物なのかはよく分からないが、神山というのは足尾郷を開いた最初の5姓の1つだ。
日光市のWEBサイトにある旧足尾町歴史年表には、
「正和4(1315)年 足尾の5姓(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)が足尾に移住したと伝えられる」
とある。
このうちの神山氏は新田義貞の挙兵に参加し、戦国期には佐野氏に仕えたとも伝えられている。
また、栃木県神社庁の資料によれば、磐裂神社(妙見さん)の起原について、
往古、足尾郷民の祖日光中禅寺より足尾の土地に移住し土着せるものにして中禅寺の鎮守にして己等の氏神、妙見天童を一族の内、神山文左エ門、齋藤孫兵衛の両祖、交互に霊代を背負い奉り来りて遠下の地をとして鎮座せしめて足尾の鎮守となせり。
天安二年八月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として境内坪数千九百七十三坪と定め社殿を造営して名実共に鎮守となせり。
……とあるので、神山氏が妙見さんと密接な関係にあったことは間違いない。
この神山氏が寛保3(1743)年に狛犬を奉納したわけだ。もちろん、奉納先は妙見さん(現・磐裂神社)だっただろう。
足尾銅山はこの頃、全盛期を過ぎて、産出量が激減していた。日光市WEBサイトにある旧足尾町歴史年表によれば、
  • 延宝4(1676)年 この年から12年間、毎年1300トン~1500トンを出し、溶解炉32座、銅山師44人で足尾は極めて繁栄し、足尾千軒といわれた。また以後17年間足尾産銅を長崎に送り、そこからオランダに輸出した。輸出銅の20%を占めたので5か1銅と呼ばれた。
  • 貞享元(1684)年 足尾の産銅額が年産1500トンになる。
  • 元禄13(1700)年 産銅が急減し年産150トンになる。

だそうで、わずか十数年で1500トンが一気に150トンと10分の1にまで落ち込んでいた。
そこで、
  • 寛保元(1741)年 山師から山元の困窮を救うための鋳銭の許可願いが出される。
  • 寛保2(1742)年 5年間にわたり鋳銭座を設けて寛永通宝(足字銭)を2000万枚鋳造した。

……となった。
狛犬は1文銭鋳造を始めた翌年に奉納されているので、郷民の代表として神山清右門が総鎮守である妙見さんに、足字銭鋳造を機に足尾にまた活気が戻りますように、という願いを込めて奉納したのだろう。
神山清右門が鉱山師だったのかどうかは分からないが、神山家は足尾銅山が開坑する前からの郷士なのだから、狛犬をわざわざ離れた簀子橋山神社に奉納するはずがない。
また、そのときすでに簀子橋には狛犬一対がいた。というのも、産出量が激減したこの時期に、山師たちに狛犬を奉納するような余裕があったとは思えず、狛犬は銅がじゃんじゃん掘れていた延宝、天和、貞享年間あたりに「勢いで」奉納されたと思われる。
産出量が一気に増えたのが延宝4(1676)年で、翌年の延宝5(1677)年には妙見さんに燈籠が奉納されているから、狛犬が奉納されたのもこの頃だろうか。

磐裂神社の移転と通洞鉱山神社の建立

次に、通洞鉱山神社が建立される大正9(1920)年の少し前に、磐裂神社が移転したことに触れたい。
古河が切幹沈殿場を拡張するために神社を移転させることになった。
明治44(1911)年に神社庁より移転許可が下り、3年後の大正3(1914)年に社殿を解体して移築させたらしい。
通洞鉱山神社建立がその6年後だから、当然、通洞鉱山神社建立の責任者らは磐裂神社の解体・移築にも関与していたはずだ。
そのとき、磐裂神社に二対の狛犬がいることを確認したのではないか。
一対はボロボロで脚がなく、明治23(1890)年の足尾大洪水の際に簀子橋山神社から流れてきたものだという。古河にとっては忌まわしい過去だ。いくら古くて、足尾銅山黄金期に奉納された狛犬とはいえ、心機一転これから頑張ろうという時期に建てた新しい神社に持っていく気にはなれない。
一方、もう一対はとてもきれいで、背中には足字銭鋳造開始時期に奉納されたことが分かる銘がはっきり刻まれている。鉱山の歴史を物語る狛犬としてうってつけだ。これを持っていけば、新しく作って奉納するよりも箔がつくと思ったのかもしれない。
そこで神社関係者たちに「この狛犬をもらえないか」と持ちかけた。当時の古河と村民の力関係からして、妙見さんの氏子たちも嫌とは言えなかっただろう。

で、新しい神社に177年前の古い狛犬を持ち込むわけだから、それなりの説明が必要だが、古河としては鉱山の歴史よりずっと古い村社から持ってきたとは言いづらい。鉱山開拓初期の舞台であった簀子橋から持ってきたことにしたのだろう。
しかし、簀子橋の神社から大洪水のときに流れてきた狛犬のことを、地元の長老たちはまだ覚えている。だから「あれは流された狛犬だ」という話が次の世代にも伝わっていった。
「狛犬が流された」という話は地元の人たちには知られていても、表向きの説明には一切出てこない。古河にとっては掘り返したくない過去なので触れないし、旧足尾町も古河に忖度して、狛犬の起源については無難に「簀子橋山神社から遷座された」としか説明しなかった。その説明が今では完全に固定してしまった。
あっさりと「遷座された」というが、通銅鉱山神社が建てられた大正9(1920)年には簀子橋一帯に山神社は1社も残っていなかったのではないか。 塩野門之助の妻子が流された明治23(1890)年の大洪水の後にも、明治29(1896)年にも大洪水、明治35(1902)年には大暴風雨「足尾台風」……と、何度も大水害に見舞われている。保水力が低下していた山にあった神社もことごとく消えている。狛犬もとっくに流されていた。

……そういうことではないか。


━━━━━━━━━以下、2018/07/16 追記・改稿━━━━━━━━━

……と書いてきたのだが、その後、そもそも「通銅鉱山神社の狛犬は簀子橋山神社にあったのが洪水で流されてきた」「狛犬が流されたときに、別子銅山から来ていた塩野門之助の妻子も洪水にのまれて亡くなっている」という2つの大前提が間違っているらしいことが分かった。
明治22(1889)年に創刊された「風俗画報」という雑誌がある。Wikiでは「日本初のグラフィック雑誌」と紹介されている。大正5(1916)年に終刊するまで27年にわたり特別号を含む全518冊を刊行したそうだ。
その第234号(明治34(1901)年7月発行)の号が「足尾銅山図会」という特集号で、そこに狛犬のことが絵付きで紹介されている。

風俗画報 臨時増刊234号


簀橋不動…宿より渋川に向かえば…左に石段を登れば鉱山神社なり、背に『寛保癸亥天六月吉日願主下松原町神山清右衛門』と刻み、鉱石を以て造れる有名なる一対の獅子は此祠前にあるなり

風俗画報 臨時増刊234号 より

通洞鉱山神社が建立される大正9(1920)年より19年前の雑誌にこう書かれているし、このイラストはどう見ても現在の通銅鉱山神社の狛犬だから、この狛犬が簀子橋の神社にあったことは間違いないだろう。
当然、塩野門之助の妻子が流されたという明治23(1890)年の洪水のときにも、流されることなどなく、ここにあったわけだ。

伝聞情報だけで推理していくととんでもない間違いが生まれる、というよい例になってしまった。
「通銅鉱山神社の狛犬は簀子橋山神社にあったのが洪水で流されてきた」「狛犬が流されたときに、別子銅山から来ていた塩野門之助の妻子も洪水にのまれて亡くなっている」という話は町の長老が話したことが広まっていって現町民の多くも共有しているようなのだが、老人の記憶は時とともに怪しくなり、特に時系列が滅茶苦茶になりやすい。一つのトピックを元に関係ない話を勝手に作り上げてしまうのもよくある症状。やはり、物証で補完していかないといけないのだなあ……と。
自戒の念を込めて、間違った推論部分はそのままにしておく↑
しかしまあ、2対の狛犬がそこにいる、というだけでこれだけの歴史──しかも、表の歴史だけでなく、その時代を生きた人たちの生々しいドラマが浮かび上がってくるのだから、やっぱり狛犬は面白い。


足尾 磐裂神社の狛犬の謎(2)2018/05/01 22:27

江戸期には間違いないが……

狛犬の寄進年が推定できそうな他の寄進物がないかと境内を歩き回っていると、壊れた燈籠が目に留まった。
柱にうっすらと「延宝五」の文字が読み取れる。延宝5(1677)年か……そのくらいの年代の狛犬だといわれたら、それはそれで不思議はない。

バラバラになったまま放置されている燈籠



泥を落としてみると、延宝5(1677)年と読めた




ここは修験道信仰の庚申山への一丁目にあたり、庚申山碑や一丁目標もある。庚申山の上には猿田彦神社があり、明治23年(1890)に小滝坑の山神社として坑夫により建立されている

文久3(1863)年に寄進されている



寄進者は神田須田町の丹後屋安右衛門




参考:猿田彦神社↑ 2012年の足尾行きの際に訪れた

神田須田町の丹後屋安右衛門とは何者かと調べたところ、江戸の柿問屋らしい。
神田須田町や淡路町一帯は江戸時代には武家屋敷町を形成していた。
淡路町交差点あたりは、江戸時代、堀丹後守屋敷で、丹後殿前と呼ばれた。湯女を置いて客を招く湯女風呂街で、この界隈を徘徊する男達の着ていた衣装を丹前風といった。今湯上りに着る丹前の由来だそうだ。
「千代田区神田淡路町・須田町の町並み」より)

で、そこに柿をはじめ水菓子(果物)販売を商いとする丹後屋があった。
信州・飯田市三穂地区の立石(たていし)集落というところで「立石柿」という干し柿が作られており、それが江戸まで運ばれて売られていた。
美穂の立石寺(りっしゃくじ)に文化11(1814)年、江戸の柿問屋たちが奉納した絵馬が残されていて、伊勢屋惣右衛門(堀江町二丁目)、遠州屋又兵衛(堀江町二丁目)、丹後屋安右衛門(神田須田町)、伊場屋勘左衛門(堀江町二丁目)という名前がある。
中でも丹後屋安右衛門は慶応元(1865)年の「御用水菓子納人申合帳」では、世話人として名を連ねているという。(飯田市WEBサイト内 「立石柿」 出典は『みる よむ まなぶ 飯田・下伊那の歴史』編集:飯田市歴史研究所 発行:飯田市)

その果物問屋の丹後屋が、なぜに庚申山への一丁目標を寄進しているのか? 丹後屋は熱心な庚申講信者だったのか?
もしかすると丹後屋のルーツは修験者で、全国の山を歩いているうちに立石柿など各地の特産物を見つけ、それを江戸に運んで売るという商いを始めたのかもしれない。

さて、この立石寺と同じ名前の立石寺が山形にある。「山寺」と呼ばれて有名な山形の立石寺は、ここ足尾の妙見山が氏神と定めた天童の妙見神社がある田麦野から山一つ超えた隣に位置している。

ここで再び、来福@参道さんの力を借りる。
 この田麦野から山を越えた所に、芭蕉の句で有名な山寺立石寺があります。立石寺は慈覚大師の開基になる天台宗の古刹です。また、ヒヒ退治で有名な早太郎伝説の残る信濃の光前寺は、慈覚大師の直弟子である本聖上人が開いたもので、立石寺と光前寺は深い関係があったことが分かります。
 もしかしたら、べんべこ太郎を連れて来た僧とは山一つ越えた立石寺の僧であり、信濃のべんべこ太郎とは、早太郎と同様に光前寺に飼われていた狼犬だったのかもしれません。(狼神話 山口・妙見神社)

べんべこ太郎の話は⇒こちらのサイトなどで取り上げられている。
坊さまは、その話聞いで、真夜中に神社さ行ってみだんだど、ほして静がに待ってだったらば、ふとあったげ風吹いできて、生臭い匂いしたがど思ったら、怪物らが集まってきて酒盛り始めだんだど。 しばらぐして酔っぱらった怪物らが歌うだいだして、「ボンボゴボン、おらんだが一番おっかねなは、信濃の国のべんべご太郎だ。ボンボゴボン」って歌うんだっけど。(秩父・仙台まほろばの道「べんべご太郎」

修験道、狼犬、柿問屋……一見関係のなさそうなものを介して、信州~足尾~山形が結ばれたかのような気持ちになった。

寺の話が出てきたが、足尾の妙見さんには、かつて別当寺(明治より前、神仏習合だった時代に、神社を管理するために置かれた寺)として妙見山龍福寺という寺もあったが、足尾銅山の衰退で廃寺となっているという。足尾銅山の衰退というよりも、単純に明治の神仏分離令によって消えたのかもしれない。
「明暦元(1655)年、日光寺社奉行・荒井孫兵衛尉秀元、崇敬の念篤く、釣鐘一箇を寄進して栄代不朽の重器となせり」(栃木県神社庁 磐裂神社)と記載されている釣鐘は、この龍福寺に奉納されたものかもしれない。

このあたりの年譜をもう一度まとめると、
  • 1655年(明暦元年)日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元が釣鐘を寄進
  • 1677年(延宝5年)燈籠寄進あり
  • 1712年(正徳2年)天神、大神、山神、稲荷、熊野の5神を境内に合祭
  • 1809年(文化6年)改築
  • 1863年(文久3年)江戸の果物問屋・丹後屋が庚申山一丁目標を寄進
  • 1871年(明治4年)神仏分離令により磐裂神社と改称

……となる。狛犬もこのあたりのどこか(200年以上幅があるが)で奉納されたものだろう。

流された狛犬はこれではないのか?


……と、ここまでは、この狛犬の奉納年を推定することに集中していたのだが、家に戻ってきてから、通洞鉱山神社の狛犬が明治23(1890)年8月の足尾大洪水の際に流されてきたという話をまとめた後、なにかモヤモヤするものが残っていた。
通銅鉱山神社の狛犬は日光地域に残っているはじめ狛犬の中でも飛び抜けてきれいだ。洪水で1kmも流され、川から引き上げられた狛犬には、どうしても見えないのだ。
「あまりにもきれいすぎるよねえ」と言っていたら、助手さんが呟いた。
「流されたのは磐裂神社の狛犬のほうだったんじゃないの?」
……?!……
なるほど、それならすんなり分かる。あの摩耗の仕方、阿吽ともに脚がなくなり、角が丸くなっているのが、上流から流されてきたからだとすればしっくりくる。
ゴロゴロと転がり落ちる間に足がもげ、水圧で角が削られて丸くなっていったと解釈できる。
もしかして、通洞鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬はどこかで「入れ替わって」しまったのではないか?

そもそも通洞鉱山神社の造営は大正9(1920)年。狛犬の奉納は寛保3(1743)年だから、狛犬のほうが200年近く古い
寛保元(1741)年に、足尾で銅を採掘していた山師たちが寛永通宝(一文銭)を足尾で鋳造させてほしいと請願し、翌・寛保2(1742)年に許可が下りる。以後、5年間で2000万枚あまりの一文銭を鋳造した。裏に足尾の「足」の字が刻まれていることから「足字銭」と呼ばれ、お金のことを「お足」というようになったもとだという説明は、鉱山観光の中でもされている。
寛保狛犬は一文銭の鋳造許可願いが叶ったのと銅の産出が増えるようにと願って「簀子橋の山神社に奉納した」ものといわれているわけだが、奉納先は本当に簀子橋の神社だったのだろうか? ふもとの古刹である妙見さんに奉納した可能性はないだろうか?

日光市教育委員会が設置した簀子橋(すのこばし)山(さん)神社大鳥居の説明看板には、
  • 慶長16(1611年)年に江戸幕府の直山となり、簀子橋を中心に開発された。
  • 文化3(1806)年に描かれた絵図には、簀子橋一帯に金山社、山神社(4社)、不動堂(2堂)が記されていて、いずれも有力な山師たちが建てたもの。
  • 寛保3(1743)年に金山社に奉納された狛犬一対が、ご神体とともに大正9(1920)年に通洞山神社新殿に遷座された。
……と書かれている。
この説明だと、狛犬があったのは山神社ではなく金山社で、流されて下流で見つかったという話も出てこない。いろいろなところに出ている説明が微妙に少しずつ違っているのは、伝承ばかりで、確たる証拠が残っていないからだろう。

足尾銅山の全盛期は延宝4(1676)から20年ほどで、以後は銅の産出が激減していったという。妙見さんの崩れたままの燈籠が延宝5(1677)年の奉納であることを合わせて考えると、当時から簀子橋一帯に山師たちが建てた神社やお堂だけでなく、麓の妙見さんにいろいろ奉納していたことが分かる。銅山が発見されてから山師たちが建てた神社と違って、大同年間創建とされ、秩父の妙見、相馬の妙見と並んで「関東三大妙見」と称された足尾総鎮守である妙見さんは格がまったく違う。奉納するなら妙見さんへ、と考えるのは当然のことだろう。

寛保3(1743)年の狛犬の背中には、寄進者として「下松原丁神山清右門」の名前が刻まれている。下松原は現在の足尾歴史館があるあたりで、妙見さんのすぐそば。そんな場所に住んでいる「神山」氏が、地元の総鎮守・妙見さんではなく、わざわざ簀子橋の山神社に狛犬を奉納するのは不自然


一方で、簀子橋に山師たちが建てた5社(?)の神社のいずれかに狛犬が奉納されていて、明治23(1890)年8月の大洪水の際に流され、後に下流で発見され引き上げられたという話も本当だろう。しかし、その「流された狛犬」が、今、通銅鉱山神社にいる、きれいでできのよい狛犬だとは、どうしても信じられないのだ。

狛犬が明治23(1890)年に流されたとすると、通洞鉱山神社ができる大正9(1920)年までの30年間は別の場所にあったことになる。
川で発見され引き上げられたのが正確にいつなのか分からないのだが、発見された場所は渋川から渡良瀬川に流れる手前だという。
30年も川底にあったというなら、あんなきれいなわけはないだろう。通銅鉱山神社が作られる前に引き上げられていたとすれば、引き上げられた後に、とりあえず磐裂神社に置かれていたと考えるのが自然だ。

そこでこんな仮説を立ててみた。
  • 足尾銅山全盛期の1600年代後半、延宝年間あたり、当時の採掘中心地であった簀子橋地区に山師たちが建てた神社の一つに狛犬が奉納された。(あれだけ大きな狛犬を山の上に奉納するには相当な金が必要で、銅山が衰退期に入ってからでは難しい)
  • 寛保3(1743)年、徳川から一文銭鋳造許可が出たことを祝し、今後の銅山発展を祈念しつつ、足尾郷民の祖でもある神山氏の本家が村の総鎮守である妙見さんに狛犬一対を奉納した。(足尾郷民の祖であり、妙見さんの総代のような神山氏が狛犬を奉納したのだから、奉納先は山師たちが建てた山神社ではなく、地元である足尾総鎮守の妙見さんのほうが自然)
  • この狛犬は社殿の軒下あるいは内陣前あたりに直に置かれ、風雪による摩耗などが少ないままきれいに保管されていた。
  • 明治23(1890)年8月、山林伐採により被害が拡大した洪水によって、簀子橋の神社にあった(延宝年間奉納の)狛犬が流された。その洪水で、別子銅山を辞めて足尾銅山に来ていた日本有数の鉱山技師・塩野門之助の妻子も亡くなった。
  • 簀子橋から流れてきた狛犬は渋川から渡良瀬川に流れる手前で発見され、引き上げられた。その後、妙見さんの境内に置かれた
  • 大正9(1920)年、足尾銅山通洞口に新たな山神社が作られたのを機に、古河が妙見さん(そのときはすでに「磐裂神社」)に奉納されていた寛保3(1743)年の狛犬を遷座させた。磐裂神社には簀子橋の神社から流されてきた狛犬だけが残った。
  • いろいろな伝承が入り交じり、いつしか通銅鉱山神社の狛犬は簀子橋山神社の狛犬だと誤認識されるようになった。

……以上はもちろん推論にすぎないが、二対の狛犬を比べてみて、足尾銅山の歴史を振り返ってみた今は、これが正解に近いのではないかと思っている。さらにいえば、どちらの狛犬も、越前禿型狛犬のテイストを取り入れながらも、狼信仰、つまり山犬をイメージして彫られたものかもしれないとさえ思い始めている。
古河の社史や磐裂神社の奉納帳、あるいは流された狛犬が発見された当時の記録などに狛犬の記述が残っていれば、もう少し裏付けがとれそうな気もするが、難しいだろうなあ。


「ほほう……よくそこまで考えたな」と言っているだろうか……



(⇒この項さらに続く)

足尾 磐裂神社の狛犬の謎(1)2018/05/01 22:07

磐裂神社の狛犬

磐裂神社はわたらせ渓谷鉄道の単線を渡った先にある




足尾の狛犬といえば通銅鉱山神社の狛犬が有名だが、そこからあまり離れていない磐裂神社という古社に「謎の狛犬」がいる。
この狛犬、以前から写真は見ていたのだが、実際には見逃していた。というのも、磐裂神社は歴史のある神社なのに、なぜか市販の地図などにはのっていないことがほとんどなのだ。
案内板にもある通り、創建は大同3(808)年というのだが、本当だとしたら平安時代!だ。
ただ、鉱山には開坑を大同2年、また大同年間とする伝承が数多いそうなので、鉱山で開けた足尾の総鎮守だけに、後になって大同年間創建とした可能性もありそうだ。

さて、日光中禅寺より足尾に移住してきた足尾郷民の祖といわれている人たちの中で神山文左衛門と齋藤孫兵衛の両氏が氏神を妙見天童としてここ遠下(とおじも)の地に鎮守を祭ることとしたという(『栃木県神社誌』 栃木県神社庁・編 1964)。
天安2(858)年8月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として社殿を造営、以後、神山氏、斎藤氏が交互に守ってきたという。
(しかし、日光市のWEBサイトでは、神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内の「足尾の5姓」が移住してきたのは正和4(1315)年と伝えられているとあり、足尾郷に人が住み始めた時期、妙見宮が創建された時期については伝承がかなりばらけている感じだ)
さて、正確な時期はともかくとして、この話でまず興味を引かれるのは、足尾郷の祖といわれる神山氏と斎藤氏が「妙見天童」を氏神としたことだ。
妙見天童とは、山形県天童市下山口妙見橋のたもとにある妙見神社のことと思われる。
妙見神社には狼信仰の伝説があるそうだ。
 その昔、この地では三年に一度魔物に人身御供を捧げる風習がありました。魔物達が恐れているのが「信濃のべんべこ太郎」であることを知ったある僧侶が、べんべこ太郎を探しに信濃へ赴きましたが、べんべこ太郎とは大きな犬でした。苦労の末、僧がべんべこ太郎を借り受け魔物を退治したと伝えられています。
 言い伝えによれば、べんべこ太郎と魔物たちの戦いは麓の山口から谷の奥の田麦野まで激しく繰り広げられたそうです。その後には魔物の正体であるタヌキが骸をさらしていたといいます。べんべこ太郎も力つき、山口まで辿り着いた時に息絶えたと言われています。村びとがこの地に、べんべこ太郎を葬りお堂を立てたのが、この妙見神社のはじまりだそうです。田麦野とはタヌキ野の意味であり、大昔からタヌキが田畑を荒らす害が深刻だったと言われています。このため魔物退治の伝説が生まれたのでしょう。
「来福@参道」狼信仰─妙見神社 より)


人身御供を要求する化け物を退治する犬の伝説は信濃の早太郎そのものだし、須佐之男の八岐大蛇退治の話にも通じる。そういう話が日本全国に散見されるのはとても興味深い。
それにしても、中禅寺から足尾に移住してきた郷民の祖がなぜ山形県天童の妙見さんを氏神としたのか? 天童の妙見さんに伝わるという狼信仰伝説も足尾までくっついてきているのだろうか? いきなり謎だらけだ。

さて、その後、徳川が日光東照宮を建てた後は、足尾郷は日光領となって徳川の支配下に入る。足尾銅山を徳川が直営していたのもそのためだ。
神社庁の資料によれば、明暦元(1655)年に、日光寺社奉行・荒井「孫兵衛尉」秀元が「崇敬の念篤く釣鐘一箇を寄進」している。この荒井秀元と火縄銃田布施流秘伝者・新井孫兵衛秀重や足尾の星野氏との関係を書いているブログもあったが、ここではこれ以上は踏み込まない。
ただ、鉱山をまたにかけた山師たちと修験者たちの関係、山に生きる者たちが妙見信仰を篤く信奉していたことは伝わってきた。
そもそも妙見信仰とは北極星と北斗七星を神格化して信仰したもの。真っ暗闇に包まれる山の中で野宿することも多かった山師たちが、夜空を見上げたとき常にそこにある不動の星・北極星や、その回りを正確な時を刻みながら回る北斗七星を神格化したことごく自然なことかもしれない。
また、鉱脈探索に犬が使われていた歴史はあるし、そこから狼信仰が出てきた可能性もありそうだ。

前置きが長くなってしまったが、ではさっそく謎の狛犬の元へGO。

第一印象は「けっこうでかいな」であった。はじめ狛犬であれば小さいだろうと想像していたのだが、通洞鉱山神社の狛犬より一回り大きいか。

手前にある岡崎現代型はスルーして、目的の謎の狛犬のもとへ



おお! ようやく会えたね



阿像。前脚は完全に喪失。丸く削れている



吽像も同様に前脚は欠損。後肢も、おそらく蹲踞した形だったものが失われている



阿像は舌を出している



三越のライオン像を思わせるような鬣。越前禿型の影響を感じる



阿像の尾↑と吽像の尾↓ きちんと形を変えている



腹の下がきれいにくり抜かれていることから、はじめ狛犬とは言い難い。腹部に銘はなかった



目が細い。この目の表情に特徴があるが、残念ながらかなり摩耗してしまっている




背中に文字が刻まれていたかどうか……あったのが摩耗して読めなくなったような、最初からなかったような……



吽像のほうがまだ表情が残っている。歯がこのようにいっぱい並んでいるのは古い狛犬によく見られる造形



よく見ると、胸のあたりに瓔珞(ようらく)的なものも見られる。
さて、この狛犬はいつ頃建立されたのだろうか? 通銅鉱山神社の狛犬、寛保3(1743)年よりも古いのか? 新しいのか?
この大きさからして、何か特別なイベントがあったときに奉納された可能性が高いように思える。
改めてこの神社の歴史を振り返ると、

  • 1655年(明暦元年)日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元が釣鐘1筒寄進
  • 1712年(正徳2年)天神、大神、山神、稲荷、熊野の5神を境内に合祭
  • 1809年(文化6年)改築
  • 1871年(明治4年)神仏分離令により磐裂神社と改称
  • 1881年(明治14年)神饌幣帛料供進神社となる
  • 1914年(大正3年)古河鉱業の資金で、解体後現地へ移転復元
……分かっているのはこれくらい。古ければ1600年代、新しければ大正3年の移転時だが、形や摩耗の進み方からして大正はないだろう。
となると、古くて1600年代半ば、新しくて文化文政時代くらいだろうか?
(⇒この項続く)


狛犬から知った、住友と古河の鉱山史2018/04/28 21:29

足尾 通銅鉱山神社の狛犬 寛保3(1743)年奉納
日光市足尾に通洞鉱山神社という小さな神社があり、そこに超個性的な狛犬がいる。



この狛犬は日光の「はじめ狛犬」(狛犬をあまり見たことのない村石工などが彫ったプリミティブな造形の狛犬)を代表する傑作で、狛犬ファンの間ではかなり有名になってはいるが、実は隠れたドラマがあるということを知った。

足尾といえば銅山。足尾銅山といえば有名なのは大規模な鉱毒被害とそれを告発して反対運動を死ぬまで続けた田中正造。
そこまではなんとなく知っていたのだが、今回、足尾在住のNさんに「この狛犬はもともと簀子橋(通洞鉱山神社の真北約1.5km)の山神社にあったのが、洪水で下まで流され、川から引き上げられてここに置かれた」という話を聞き、それは一体いつの話かと調べてみた。

狛犬が流されたとき、住友が経営する別子銅山から古河が経営する足尾銅山に移ってきた技師・塩野門之助の妻子が、洪水にのまれて亡くなっているという。そこでまず塩野門之助という人物を調べてみた。すると、古河鉱業だけでなく、足尾と並ぶ銅山だった愛媛の別子銅山を経営していた住友の歴史も知ることになり、塩野門之助と広瀬宰平、広瀬満正、伊庭貞剛といった人物との関わりも分かり、様々なドラマがあったことが分かった。
以下、足尾銅山、別子銅山略史と塩野門之助の人生を並べて記してみる。

足尾銅山、別子銅山と塩野門之助


  • 慶長15(1610年)年 足尾に銅山が発見される。以後、1700年代初めまでに年1300~1500トンの銅を産出。産出した銅の5分の1ほどは長崎に運ばれ、外国へ輸出もされていた。
  • 寛永7(1630)年 京都の銅吹き屋・蘇我理右衛門の子で住友家に婿養子として入った住友友以(とももち)が大坂に本拠を移し、銅精錬・銅貿易の泉屋を開業。住友家2代として住友財閥の基礎を築く。
  • 寛文2(1662)年 住友家2代・友以没(56歳)、長男・友信が16歳で3代として家業を継ぐ。
  • 貞享元(1684)年 住友友信の弟・友貞は独立して大坂で金融業を成功させていたが、この年 幕府関連の取引で失敗し、取りつぶし処分となる。兄・友信も連座責任を負わされ39歳の若さで引退させられる(住友家の危機)。後を継いだ4代目・友芳(16歳)は、父・友信とともに新たな鉱脈探査に乗り出す。その際、足尾銅山の調査もしたが、すでに低迷期に入っており、採算がとれないと判断した。
  • 元禄3(1690)年 愛媛県東部に別子銅山が発見され、翌元禄4(1691)年 住友が別子銅山を開坑。住友家は江戸時代最大の鉱業家となる。
  • 文化14(1817)年 足尾銅山は産出量が著しく落ち込み、一旦休山となる。この頃、別子銅山も産出量が激減していく。
  • 嘉永6(1853)年 島根藩士・塩野鉄之丞の長男として塩野門之助誕生。
  • 慶応元(1865)年 住友財閥の前身・泉屋の大番頭・広瀬宰平広瀬宰平が別子銅山支配人に抜擢され、廃坑寸前状態からの建て直しを進める。
  • 明治3(1870)年 門之助、藩校修道館で仏語修行を命ぜられる。
  • 明治4(1871)年 足尾銅山が民営化決定。
  • 明治7(1874)年 住友がフランス人鉱山技師ラロックの通訳として門之助を外務省よりヘッドハンティング。
  • 明治8(1875)年 泉屋は住友本社に改組され,別子銅山は住友本社の直営となる。
  • 明治9(1876)年 門之助、ラロックの「別子鉱山目論見書」を翻訳。この年 住友の私費留学生として渡仏。翌年 サンテチェンヌ鉱山学校予備校に入学。
  • 明治 10(1877)年 古河市兵衛古河市兵衛が渋沢栄一らの協力を得て足尾銅山の経営に乗り出す。このときの産出量はわずか52トン/年。
  • 明治13(1880)年 足尾銅山から出た鉱毒が川に流れ込んで、魚が浮いて死んでいるのが発見される。栃木県令が魚類捕獲禁止令を出す。
  • この年 門之助、サンテチェンヌ鉱山学校を卒業し、鉱山の実地修行。
  • 明治14(1881)年 足尾銅山の鉱長・木村長兵衛(古河市兵衛の甥)の指揮下、大鉱脈が発見される。
  •          門之助、フランスから帰国。
  • 明治15(1882)年 門之助、別子鉱山技師長就任。
  • 明治19(1886)年 門之助、溶鉱炉研究のため自費で欧米出張。
  • 明治20(1887)年 門之助帰国。住友の別子銅山では煙害が発生し、農民が決起する騒動に。門之助は惣開の中央製錬所構想を上申するが、採用されず、住友総理の広瀬宰平と衝突して退職。友人の福岡健良(古河・本所熔銅所長)の推挙で足尾銅山に就職。足尾銅山は年産6000トン以上を産出し続け、「殖産興業」の代表格になっていた。(当時、銅は生糸・絹製品に次いで日本第二の輸出品だった。1890年代には足尾、別子、日立などの銅山から出た銅の輸出は世界の総産出量の5%以上を占めていた)
  •          足尾の総責任者であった木村長兵衛は、赴任してきた門之助に現行の「ピルツ炉」の改造を命じるが、そのことで門之助は木村と対立していく。
  • 明治21(1888)年 門之助、第二代住友総理事で「別子銅山中興の祖」と呼ばれる伊庭貞剛伊庭貞剛にベッセマ転炉の採用を進言し、同時に別子へ戻りたい旨を懇願。
  •         4月、ピルツ炉の改造をめぐって坑長・木村長兵衛との対立が深まり、辞職。*1
              5月、木村長兵衛が急死。後任として木村長七が坑長に就任。その後、門之助が復職。
  • 明治22(1889)年 電気製練法が採用され生産性が一気に上がるが、亜硫酸ガスも増大。田中正造が足尾銅山鉱毒被害について帝国議会で質問。            この年、坑長・木村長七が中心となって本山抗口の前の山に本山鉱山神社(杉菜畑鉱山神社)を建立。
  • 明治23(1890)年 8月、山林の伐採により、足尾で大洪水が発生門之助の妻子も洪水にのまれて死亡このとき、簀子橋山神社にあった狛犬も流出し、1km弱下流にまで流される。沿岸には鉱毒が氾濫し、各町村で鉱毒反対の動きが活発に。門之助は住友の広瀬満正へ別子銅山へ戻りたいので取りはからってくれと懇願する。
  • 明治24(1891)年 群馬県議会、鉱毒防止の建議書可決。
  •          1月、門之助、足尾銅山小滝分局長,木部末次郎の名で「製煉法之儀ニ付伺」と題する上申書を提出。かねてより注目・研究していたベセマ錬銅法の採用を提言。
  • 明治25(1892)年2月、この提言を受け、古河市兵衛は翌2月に塩野をアメリカに派遣し,当時世界でただ一か所ベッセマ錬銅法を実用化していたモンタナ州ビュート銅山のパロット製錬所を視察させる。帰国後、門之助は製錬課長となり、ベッセマ転炉の建設に着手。
  •          3月、伊庭貞剛宛に再び別子銅山帰山を懇願。6月には広瀬満正宛にも懇願するが、ベッセマ転炉が完成するまでは許されず。
  • 明治26(1893)年 日本初のベッセマ転炉完成。製錬工程でカギとなる先進技術。塩野門之助塩野門之助の功績
  • 住友家総理人・広瀬宰平が辞職。伊庭貞剛が本店支配人のまま新居浜に赴任。門之助、ようやく足尾銅山を辞職。
  • 明治28(1895)年 門之助、別子鉱山に再就職。設計部長となる。このとき門之助は43歳。
  • 明治29(1896)年 門之助、再婚。
  •          足尾で大旱魃の後に大洪水。浸水家屋13,802戸。鉱業停止運動が活発になる。
  • 明治33(1900)年 鉱毒被害農民3,000人が政府に請願するため上京。その途中、館林市川俣において警官隊に阻止、鎮圧される(川俣事件)。
  • 明治34(1901)年11月30日 毎日新聞の鉱毒被害追及記事をうけ、古河市兵衛の夫人為子が神田橋下で入水自殺。世論が大きく動く*2。12月10日、田中正造田中正造が天皇へ直訴。逮捕される。直訴状が天皇に渡ることはなかったが、これがきっかけで世論がさらに盛りあがり、鉱毒事件が全国に知られることになる。
  • 明治40(1907)年 鉱毒の被害を受けていた谷中村が強制破壊により廃村となる。
  • 大正2(1913)年9月 田中正造没(71歳)。
  • 大正9(1920)年 古河が足尾通銅鉱山神社を建立。
  • 昭和8(1933)年7月 塩野門之助没(80歳)。
  • 昭和10年代、足尾銅山が浮遊選鉱法を採用。これにより鉱さいはが細かくなり、鉱毒被害が一層ひどくなる。
  • ~~~
  • 昭和22(1947)年 カスリン台風襲来。足尾の洪水被害甚大。沿岸市町村は鉱毒対策委員会を結成。県は実態調査を実施。
  • ~~~
  • 昭和48(1973)年 足尾銅山閉山。同年 住友の別子鉱山も閉山
    *1
    「独逸の如き拳大の塊鉱製煉にはピルツ炉は或は可なるも,足尾の如き選鉱して大部分は粉粒鉱を処理する処では,ピルツ炉は高きに過ぎて不向であるのを米国で見て来て居るので,この改造は容易でない。殊に末松君の失敗した炉だから困るとて大いに談じ込んだのですが,長兵衛さんは中々承知せられぬのです。『それならうまく行くかどうか疑問だがやって見ませう』とて取掛り,四五ヶ月で五尺の高炉を三尺の高さに縮め甚だ不十分ながら幾分米国式に改造したのですが,送風機其他も不完全であり,且鉱石も不純分が多く熔解困難な含有物が多いのと,熟練した職工もなく仕事に馴れないので成績良く参りませんでした」(茂野吉之助『木村長兵衛伝』追憶篇)

    *2
    ただ望む。市兵衛たる者、爾(なんじ)がかかる運命に接したるは、是、心機一転の時期なるべきを悟り、亡き妻によって残されたる一大訓戒の意味をば正しく了解して、人道の為の尽くすの人ならん事を。(新聞「万朝報(よろずちょうほう)」明治34(1901)年12月1日

    ……こう見ていくと、日本の近代史、特に鉱工業や経済史の中で、住友や古河がどのように成功していったかが分かる。
    住友は足尾銅山が衰退していたときに調査もしていたという。
    足尾のわたらせ渓谷鉄道通洞駅近くには「泉屋旅館」があり、古河の幹部や古河が招いた客人の定宿となっていた。同旅館は閉山後も細々と営業していたが、地元の人たちは「泉屋旅館」の場所一帯を「泉屋」と呼んでいたそうで、住友が足尾銅山の採算性や将来性を調査していた時期にそこに滞在していたのではないかとのこと。そうであれば、住友の旧屋号をつけた旅館でライバルの古河が芸者を上げて酒盛りをしていたわけで、なんとも皮肉な話に思える。
    もしも、住友が足尾を見限らず、手をつけていたら、別子だけでなく足尾も手に入れてダブルで大儲けしていたかもしれない。そうなると古河市兵衛の成功もなかったわけで、歴史はどこでどう変わるか分からないものだ。
    ちなみに古河市兵衛は生涯3度結婚しているが、3人の妻・鶴子、為子、清子のうち、為子は足尾銅山鉱毒事件の渦中に神田川に入水自殺している。

    「東の足尾、西の別子」と呼ばれた日本の二大銅山を行き来した塩野門之助の人生は特に興味深い。
    当時の世界最先端技術を日本に導入するという活躍をした一方で、山林伐採による洪水被害や鉱毒垂れ流しによる甚大な環境汚染を引き起こした時代、妻子を失い、住友と古河の間で上司とは常に対立したり懇願したりといったストレスフルな人生を送ったことがうかがわれる。


    門之助の妻子を呑み込んだ洪水は簀子橋の山神社の狛犬も押し流したが、狛犬は下流でその後発見されて引き上げられ、新たな居場所を得た。ガイドブックなどには「簀子橋山神社にあったものが移された」と説明されているが、移されたというより、「流れ着いた」のだ。
    その狛犬が今は「廃墟観光」の代名詞のようになっている足尾銅山跡地で、観光客を見送っている(通洞鉱山神社は足尾銅山観光ルートの出口からしばらく行ったところに位置しているので、多くの観光客は帰り際に横目で見るような形になる)。
    すごいドラマを背負った狛犬だったのだ。
    1kmも流されたのに、欠損や摩耗がなく、背中の銘までくっきり読めるというのも、ちょっと信じられない。まさに「奇跡の狛犬」か(これに関しては「そうではない」という推論へと続く)。

    このときの洪水だけでなく、足尾では何度も洪水被害が起きているが、鉱山開発による大規模山林伐採で山が保水力を失い、流出した土砂の堆積で麓の川底が上昇して「天井川」を形成してしまったことが大きな原因となっており、鉱山開発が引き起こした被害といえる。
    その洪水で門之助の妻子はなくなった。古河市兵衛の二番目の妻が、鉱毒事件の最中に自殺していることとも合わせて考えると、男たちが仕事での成功と地位を追いかける陰で、家族が犠牲になっていた当時の時代空気というものも感じてしまう。


    人は死に、建物も焼けたり流されたりして消える。
    しかし、石の狛犬はいろいろな災害を見つめつつ、長い時間、生き続ける。
    「石」というものの凄さを改めて感じると同時に、石に命を吹き込む石工たちや、祈りを込めた庶民の心に思いをはせずにはいられない。
    参考文献一覧


    足尾の銅山遺構をめぐった写真紀行が⇒ここ(「足尾銅山遺産と歴史を探る」 旧愚だくさんブログ)にある。見応えがあるので、興味があるかたはぜひ。



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  • 大化の「改新」と明治「維新」のトリック2018/02/16 01:49

    最近読んだ3冊

    「聖徳太子はいなかった」説

    聖徳太子という人物はいなかった、という学説が複数出てきて、もうすぐ日本史の教科書からこの名称が消えるだろうといわれている

    まず、聖徳太子というのは後世でつけられた名で、当時の名前は「厩戸王(うまやとおう)」、より正確には「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」といい、574~622年に実在した人物とされている。用明天皇(518~587年)の皇子で、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。19歳で推古天皇(554~628年)の摂政となって政治にあたった……と、このことについては極端な異論はないようだ。
    しかし、彼が「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など、従来の歴史教科書に書かれていたことをすべてやったということに対しては、証拠となる資料がなく、大いに疑問視されるようになった。
    聖徳太子というのは、いろんな偉業を成し遂げたから「聖徳太子」(聖なる徳を持つ偉大な皇子)なのであり、その実体(実在の人物)とされる厩戸王がそれらを成し遂げたのではない、とすれば、「聖徳太子」なるスーパーヒーローは存在しなかったといえる……という論法が出てきたのだ。

    厩戸王の死後23年経った645年、中大兄皇子、中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を暗殺して、当時権勢を誇っていた蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした。
    僕らが小学生、中学生のときは、たしかこれを「大化の改新」として習った。
    これを習ったときも、よくある政治クーデターなのに、なぜこれだけ「改新」と呼ぶのだろう、と疑問を抱いたのを覚えている。
    倒される蘇我氏の側の人名が、稲目、馬子、蝦夷、入鹿……と、なんか悪者イメージになっていて、倒した側は中大兄皇子……って、なんか名前からして後世で書き換えられているんじゃないかとも思った。
    今はこのクーデターのことは「乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)」と呼び、その翌年646年に出された「改新の詔」を皮切りに、それまでの豪族支配から天皇中心の律令国家成立の流れを「大化の改新」と呼んでいるらしい。(ただし、改新の詔の内容は日本書紀編纂のときに書き換えられ粉飾されている)

    で、この「大化の改新」後、すんなり天皇中心の律令政治が始まったかというとそうはいかず、672年には天皇家内部で後継者争いによる内乱(壬申の乱)が起きる。
    その後、720年に日本書紀が編纂され、そこで初めて聖徳太子なる人物像が登場する。
    血で血を洗うようなドロドロした抗争が続いた後、ようやく安定しかけた政権にとって、天皇家による統治を正当なものであるという印象を与える必要があった。そのために、聖徳太子というスーパーマンを「創作」する必要があったのではないか……というのが、いくつかある「聖徳太子創作説」の中でも主流となっているようだ。

    政権を握りたい勢力が対抗勢力や邪魔者、ときには先住民を殺して権力を握る──これは古今東西、常に繰り返されてきたことで、少しも珍しいことではない。武力やテロ、暗殺、密殺などの手段で権力の座についた者たちが、その行為を正当化するために歴史を都合よく書き、「正史」「国史」として定着させるのも同様だ。
    日本史ではよく「○○の乱」「○○の変」という名称の戦争やテロが登場するが、これが○○「征伐」とか「平定」なんて名称になっているときは要注意だ。
    悪いやつを鎮圧したのだ(征伐)、乱れていたのを沈静化させて平和にしたのだ(平定)、という印象操作だからだ。

    大化の「改新」の時代は1400年近く前のことで、当時の権力者闘争の実相や庶民の暮らしぶりなどは正確には「分からない」というのが学術的には正直な態度だろう。
    少なくとも「聖徳太子」という人物が数々の改革を行ったというような記述を日本史から外すことは正しい。

    明治「維新」と大化の「改新」

    大化の「改新」同様、明治「維新」という言葉にも、子供の頃からずっと違和感を抱いていた。
    武力クーデターなのに、なぜ「乱」とか「戦争」といわずに「維新」というのだろう、と。
    当然、その後の政権、権力者たちにとって、あれを「正しいものだった」「旧悪を一新するものだった」というイメージ戦略が必要だったのだろうな、ということは感じていたが、恥ずかしながら、この歳になるまで真剣に調べたり学んだりしてこなかった。
    あまりにも生々しくて、知ることが楽しくないという理由もある。もっと楽しく、苦しまずに生きていたほうが楽だもの……。

    遅ればせながら、ここにきて近現代史を少しずつ勉強し始めたのは、小説版『神の鑿』を書くための準備という意味合いが強い。
    利平・寅吉・和平の年表を作成しているのだが、明治初期の作品記録がまったく空白なのだ。
    明治に入る前、最後に分かっている作品は、慶應元(1865)年、沢井八幡神社に奉納された狛犬で、このとき利平61歳、寅吉は21歳だった。
    利平が亡くなるのは明治21(1888)年8月1日で83歳。明治に入っても20年以上生きていて、その時期、弟子の寅吉は20代~40代だから、石工として存分に腕をふるえる時期だった。
    寅吉の作と思われるものが登場するのは明治20(1887)年 関和神社(白河市)の狛犬(銘なし)で、このとき寅吉はすでに43歳になっている。
    この間、利平と寅吉の師弟がほとんど作品を作っていないというのはどういうことなのか?
    その答えの一つが廃仏毀釈だろう。
    明治になってから世の中の空気がガラッと変わってしまった。江戸末期までは盛りあがっていた庶民の文化創造力が一気に押しつぶされていた……そう考えるしかない。
    そこで、当時の空気を知るために、幕末から明治にかけての日本史を勉強し直しているという次第だ。

    冒頭に写っている3冊はいずれも「明治維新」についての通説に疑問を呈し、今の日本近代史は「薩長史観」で歪曲されていると主張している本だ。
    しかし、著者たちの立ち位置は少しずつ違う。
    また、主観的な表現や断定論調が多くて、そのまま鵜呑みにするとまずいな、と感じる箇所がまま見うけられるのも共通している。
    ただ、3人とも「テロ行為を美化してはいけない」ということを明言している。
    維新の精神的支柱とまでいわれる吉田松陰が、事あるごとにどれほど暗殺を主張したか、それゆえに当の長州藩がいかにこの男に手を焼いたか、はたまたどういう対外侵略思想をもっていたか、もうそろそろ実像を知っておくべきであろう。(略)私はテロリズムは断固容認しない。テロを容認しないことが、当時も今も正義の一つであると信じている。
    (『三流の維新 一流の江戸』 原田伊織、ダイヤモンド社、2016)

    江戸時代を無批判に称揚するのは危険だろう。しかし、あの265年間が、高く評価すべき実績を残したということは、いかにしても否定できない。そのなかで最も重要なものは、平和であり、治安のよさであり、それらを支えた道徳である。
    もし慶喜がロッシュの意見に動かされ、抗戦を開始していたら、(略)旧幕府軍の主力となったフランスと、新政府軍の主力となったイギリスが、日本を二つに分割していた可能性が高い。
    (『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』 森田健司、洋泉社歴史新書y、2016)

    卑劣な暗殺をも正当化するような「物語」がまかり通ってしまえば、日本をふたたび亡国に導かざるを得ないと、著者は真剣に危惧する。実際、「物語」の枠組みに従って、薩摩や長州のテロ行為をも正当化し続けてきたことが、昭和になって軍部や右翼によるテロリズムの横行を生んだのではなかったか。戦後においてもなお、(略)立憲主義もないがしろにするという、現在の政府与党の姿勢を許すことにつながっているのではないのか。
    (『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義の夢』 関良基、作品社、2016)


    奇しくも3冊とも2016年に刊行されている。この3冊だけでなく、ここ数年、「明治維新」という「薩長史観」を見直すべきだ、と主張する本がいろいろ出版されている。
    今の日本が極めて危うい状況にあることを知っている人たちが、声を上げている。

    明治「維新」の時代は、わずか150年前である。大化の「改新」の飛鳥時代とは違い、一次資料も豊富に残っている。
    それなのに、明治政府による歴史改変粉飾イメージ戦略が今なお日本人の心を支配している。これは国としても極めて恥ずかしいことだ。

    関氏は『赤松小三郎と~』の中で、こう述べている。
     日本には、太平洋戦争以前にも、世界を相手に戦争をして敗北したという経験を持つ人びとがいた。他でもない、維新政府の長州の元勲たちだ。長州は下関戦争で、英仏蘭米の四か国と戦い、散々に敗北した。外では覇権国に従属しつつ、内では専制的にふるまうというレジームは、1945年の太平洋戦争の敗戦によって生じたものではなく、1864年の下関戦争の敗戦によって発生したのである。それは「長州レジーム」と呼ぶべき、明治維新以来の特質なのだ。
    (略)
     安倍首相は、「戦後レジーム」によって日本が汚されたと悲観する必要はないのである。GHQが行った「改革」など、明治維新がつくりあげた官尊民卑の官僚支配、覇権国の要求に従いながら、国内的には、万機公論に決しない上意下達の専制支配を行う長州レジームに、小手先の修正を加えたにすぎなかったからだ。それほどまでに、長州の元勲たちがつくりあげた官僚支配の長州レジームは強固だった。GHQですら、それを崩せなかったという事実について、安倍首相は誇るべきであろう。全く卑下する必要はないのである。
    (『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義の夢』 関良基、作品社、2016)


    ちなみに、太平洋戦争後もこの国は「国家的敗北」を経験している。それは原発爆発だ。国を挙げて押し進めてきた「安全神話」が完全に吹き飛ばされた。
    しかし、その「敗戦処理」においても、政府は見事に「官尊民卑の官僚支配、万機公論に決しない上意下達の専制支配」を成功させている。
    国民もまた、この大きな過ちを単なる「東北で起きた悲劇」として矮小化し、見て見ぬふりをしている。
    このツケは間違いなく近い将来、取り返しのつかない負債として国民全体に襲いかかるだろう。


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