「東電強制起訴無罪判決」の歴史的意味2019/09/25 11:48

「東電強制起訴無罪判決」で、次の一節を思い浮かべた。
本来、国家とは国民の生命と財産を守るのが使命である。ところが国の指導者たちは生命と財産を次々とつぎ込んで、博打のような戦争を起こした。その結果、多くの無辜の命が失われた。しかし、そうした戦争の責任はいまに至っても曖昧なまま放置されている。
(保阪正康・著 『田中角栄と安倍晋三 昭和史で分かる「劣化ニッポン」の正体」序章より)

↑この「戦争」という部分を「原子力ムラ利権構造ビジネス」と置き換えてみれば、今回の構図と同じだと分かる。


首相が国会で「議会については、私は立法府の長であります」とのたまい、官庁は平気で公文書を破棄・偽造する。司法は常識を超えた判決を下す。
三権分立が機能しなくなった国家は、悲惨な崩壊寸前だと知ろう。
「東電強制起訴無罪判決」は、歴史的にはそういう意味を持っている。

完爾と賢治2019/09/22 11:43

宮沢賢治(左)と石原完爾(右) Wikiより
このところ、日本の近代史に関する本を読みまくっている。妻が「なぜ急に?」と訊くので、こう答えた。
「小林和平や岡部市三郎がどんな時代を生きていたのか、時代の空気感や人々の心情、世相を知りたいから。これも「狛犬史」研究の一環かな」
でも、和平や市三郎の時代の『続・小説神の鑿』を書くかどうかは未だに悩んでいる。
歴史上実在の人物だけに、時代が近くなるほど書くのが難しい。彼らがあの時代、日本の対外政策や戦争についてどう思っていたかは、まったく分からないからだ。
終戦後、誰もが脱力し、悪夢から覚めたような気持ちになったであろうことは想像がつく。和平が戦後に彫った赤羽八幡神社の狛犬には「平和記念」と彫られているし、多くの戦没者慰霊碑の前に立つ和平の表情は、戦前の強気で頑固そうな表情とは一変している。

昭和25(1950)年旧7月、和平69歳。東禅寺戦没者慰霊碑群の前で


和平と同年代の岡部市三郎は明治37(1904)年2月~明治38(1905)年9月の日露戦争に従軍しており、上の戦没者慰霊碑が完成した昭和25年の前、昭和22(1947)年9月1日に満65歳で亡くなっている。
小林和平の師匠である小松寅吉が亡くなるのは大正04(1915)年2月22日で、行年72歳(満70歳)。そのとき和平は33歳だが、その10年前の明治38(1905)年9月5日には日露戦争に勝利したのに賠償金なしとは何事かと、国民が不満を爆発させて日比谷焼き討ち事件を起こしている。
自由民権運動を牽引し、石川町から政界に進出した河野広中は、その焼き討ちの現場で民衆をアジテートしていたという。
和平の最高傑作といえる古殿八幡神社の狛犬は昭和7(1932)年10月建立(和平51歳のとき)で、台座には「満州事変皇軍戦捷記念」と彫られている。和平の銘も「石川郡沢田 彫刻師 小林和平」と、初めて「彫刻師」という肩書きを使っている。
寅吉は、明治の神仏分離令と廃仏毀釈で仕事がなくなり、人生でいちばんエネルギーのあった時期を奪われた。
後に続く和平や市三郎は、その後の日本の領土拡大ムードに浮かれる世相の中で狛犬や馬の像を彫っていた。
そういう激動の時代の空気感を、戦後生まれの自分がしっかり書けるとは思えないのだ。

しかし、あの時代の正確な日本史を学校ではしっかり教えないし、司馬遼太郎の小説などのおかげで、ずいぶんと歪曲された歴史観を今の日本人は抱いていると思うので、小説の形で描けないかという挑戦は価値があるはずだ。しかも軍人や政治家が主人公ではなく、アート志向の石工の視線で描く……あまりにも難しいテーマだけれどねえ。

この難題に挑めるかどうかは分からない。その前に、利平編を大幅に改定して、もっと娯楽要素を増やすべきではないかと思っている。

完爾と賢治

そういえば、石原完爾の写真を見ていて、どこかで見覚えのある顔のような……と思った。宮沢賢治に似ているような……?
……とフェイスブックに書いたら、「どちらも法華思想で共通してますね」「宮沢賢治の童話って、ちょっと怖いなと感じること、ありますね。たしかに法華思想という怖さがあるのかもしれません」といったコメントがついた。

石原完爾は明治22(1889)年1月18日、山形県庄内町に生まれて、昭和24(1949)年8月15日に亡くなっている。
宮沢賢治は明治29(1896)年8月27日、岩手県花巻市に生まれて、昭和8(1933)年9月21日に亡くなっている。
二人とも東北で生まれ、ほぼ同時代を生きた。宇宙的な規模で世界を俯瞰するという視野を持ち、自分なりの理想の世界を追い求めたという共通点もあるように思う。
ただ、空想力の向かう方向や才能を発揮する具体的な方法が違った。かたや飛び抜けた頭脳を持った軍人、かたや田舎暮らしの教員。生きる場所も、戦場と農村で違った。
また、賢治は日中戦争の拡大・激化や太平洋戦争は知らないまま30代で死んでいる。満州国建国宣言や5.15事件あたりまでは知っているが、これも東北の田舎で事件のことを聞いただけだっただろう。戦後まで生き続けたら、どんなものを書いていたのだろうか。
人がどんな人生を生き、後にどう評価されるかは、ほんとうにちょっとした運やタイミングの違いで大きく変わってくるのだろうと、改めて思った。

馬鹿がトップに立つ怖ろしさ

よく言われる「IF」の一つだが、石原完爾と東条英機が入れ替わっていたら、日本史どころか、世界史がガラリと変わっていたかもしれない。どう変わっていたのか……想像するのは怖いのだが……。

読みあさっている本の中には、保阪正康さんのものが何冊かあるが、こんなインタビューを見つけた。
僕は東條(英機)が憎いとかなんとかじゃなくて、こういう人が首相になって、陸軍大臣になって、しかも兼務ですよ。最後のほうは参謀総長、内務大臣など。なんでこの男がこんなに権力を握ったのかという、そのからくりの全体がきちんと整理されていかないと、戦争の反省なんてありえないと思うんです。(略)
(東條は)人間観がものすごく狭いんですね。おまけに、(略)文学書や哲学書なんて読んだことがない。ものを相対化する力がないわけです。戦争へ行ったら、勝つまでやるというプログラムしかない。こういう人が指導者になっちゃいけないんだということを、我々は共通の認識で持たなきゃいけないと思います。
東條英機の妻、石原莞爾の秘書に会ってきた。『昭和の怪物 七つの謎』の凄み) 講談社BOOK倶楽部)

まったくその通りで、石原完爾のような頭のいい人が、怖い思想、世界観で軍隊を率いたら怖ろしいけれど、少なくとも、馬鹿が軍隊のトップ(国政のトップ)にいるよりはいい。まともな思考力があれば、最悪の事態を避ける努力をするはずだからだ。
さらには、本当に頭がいい人間は自分の過ちを認め、軌道修正ができるが、馬鹿は最後まで馬鹿なままだ。反省も学習もしない馬鹿に自分たちの命を預けるなんて、そんな怖ろしいことがあるだろうか。

石原完爾と東條英機が入れ替わっていたらというのは「想像」の話だが、「ものを相対化する力がない」馬鹿が国のトップにいたら、という恐怖は、令和時代の「現実」である。そのことを、多くの人たちがなめてかかっていることが、さらに怖ろしい。


もしも日本が先に原爆を完成させていたら2019/09/08 21:23

石川町でウラン鉱採掘に動員された石川中学(現・学法石川)の生徒たち(Wikiより)
福島県の石川町は、石工・小林和平が生まれ育ち、数々の名作を生み出した土地である。
その石川町が、日本における原爆開発研究ともつながりを持っていると知ったのは20年ほど前のことで、狛犬つながりからだった。

アメリカが原爆開発(マンハッタン計画)に本格着手したのは1942年10月だが、それに遅れること数か月、日本でも陸軍の要請により理化学研究所仁科芳雄博士をリーダーとする「ニ号研究」、海軍の要請で京都帝国大学の荒勝文策教授をリーダーとする「F号研究」と呼ばれる原爆開発研究がほぼ同時にスタートした。
その原料となるウラン235を入手する場所として選ばれたのが石川町で、1945年4月から終戦までの5か月間、旧制私立石川中学校(現在の学法石川)の生徒が勤労動員として採掘作業にあたった。炎天下、わら草履に素手で作業させるなど、ひどい状況だった。しかし、採掘できた鉱石はごくわずかで、ウラン含有率も少なく、使いものにならなかった。

軍部の思惑とは裏腹に、研究者たちは日本で原爆が製造できるとは思ってはいなかったらしい。しかし、仁科や荒勝らには、若い研究者たちが戦場に送りこまれるのを防ぐと同時に、軍からの潤沢な予算を得ることで、原子核の基礎研究を進めたいという思いがあったと、「日本の原爆 その開発と挫折の道程」の著者・保阪正康氏は分析している。
ニ号研究のほうは、昭和20(1945)年5月下旬に、仁科自身が陸軍に「ウラン鉱石すら入手できないようなこの状況ではもう無理である」と告げて、研究者たちも次々に疎開し、そのまま立ち消えてしまった。
海軍では海軍技術研究所科学研究部長の黒田麗(あきら)少将を部長に、(略)F号研究を受け持った。昭和20(1945)年7月21日、琵琶湖のホテルで話し合いの場が持たれている。(略)
黒田は「できれば原子爆弾を作ってほしい」との発言を行った。(略)
「理論的にはまったく可能だが、現状の日本の国力などから考えても無理だといってかまわないと思う」と、荒勝グループの研究者たちは声を揃えた。正式に中止の決定をしましょう、というのが荒勝らの一致した提案だったのである。
「日本の原爆 その開発と挫折の道程」 保阪正康・著 新潮社2012年刊 P170より)

そして、その2週間後には、広島に原爆が投下された。
アメリカのハリー・トルーマン大統領が、広島に投下されたのは原子爆弾であると発表したのは、ワシントン時間で8月6日午前11時(日本時間7日午前1時)であった。(略)長文のこの声明は、アメリカがこの原子爆弾の開発製造のために、いかに国力の総てをつぎ込んできたかを詳細に述べた。(略)
連合国各国がこの“偉業”を賞えていると、アメリカのラジオ放送は伝えた。(略)トルーマン大統領の声明が各国から賞えられるなかで、人類にとって原子爆弾の投下は汚点である、との意見はローマ法王庁ほか、わずかの機関からしか発表されなかった。(略)
当時の日本国民はラジオでアメリカの短波放送を聞いたりすればすぐに逮捕されてしまう時代だから、こういう連合国や国際社会の動きなどはまったく知るよしもなかった。
むしろ内閣情報局での会議、つまりこのニュースをいかに国民に伝えるかの会議では、陸海軍からの出向組は、「トルーマン声明は策略かもしれないではないか」とか、「原子爆弾だと伝えると、国民に衝撃を与え、戦争指導上問題がある」といった強硬意見が出された。
同「日本の原爆」より)


「もしも日本がアメリカより先に原爆を完成させていたら?」という「IF」は、ときどき語られる。
戦時下の昭和19(1944)年には、朝日新聞が「ウラニウム爆弾」について記事で紹介し、「新青年」という読み物雑誌には『桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ』と題した小説も掲載された。ウラン235を入手した日本では原子力の実用化に成功し、原子力飛行機で軽々と太平洋を横断し、敵国アメリカのサンフランシスコ上空8000メートルから原爆を投下する、という内容の小説だという。
こうした記事や小説がきっかけで、「マッチ箱1つの大きさで大都市が吹っ飛ぶ爆弾」が発明され、日本は戦争に勝つという噂が日本国中に広まった。
しかし、当時の状況からして、日本がアメリカより先に原爆を完成させていた可能性はない。
「ニ号研究」では、
容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった。(略)
しかし、同様の経緯である1999年9月の東海村JCO臨界事故により、殺傷力のある放射線が放出されることは明らかとなっている。 (Wikiより)

……つまり、完成させられないまでも、そのまま研究が進み、原材料が調達できていたら、実験段階で日本国内で悲惨な事故が起きていた可能性が高い。そして、当然、それは隠されただろう。
なにしろ、1944年(昭和19年)12月7日に起きた東南海地震(M7.9。死者・行方不明者1223名)も報道規制され、隠されたくらいだから。

「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」と並べてはいけない

こうした歴史に学ばず、2011年3月の原発爆発では、福島県は国に先がけて深刻な放射能漏れを知ったにもかかわらず、それを隠した

歴史は繰り返すというが、こんな歴史を繰り返していいはずがない。

保阪正康氏は著書『日本の原爆』の最後で、非常に重要な指摘・主張をいくつもしている。
原子力や核開発に対しての考え方の違いを超えて、多くの人たちが見落としがちな視点・視座だと思うので、いくつかをほぼそのままの内容で紹介しておきたい。

  • 原子爆弾の製造⇒戦争の終結⇒東西冷戦下の核開発⇒核の均衡による平和⇒核技術の「平和利用」 ……この構図の中には政治と軍事が科学者たちを下僕化したという現実と、政治が「平和利用」の名のもとに科学者を巧みに利用した現実が凝縮している。
  • 原子力の二つの顔(原子爆弾と原子力発電)は、単純に「悪魔と天使」とに二分できるものではない
  • ヒロシマ・ナガサキ・フクシマを並べて論じてはならない。ヒロシマ・ナガサキは基本的にはアメリカが爆弾を投下したという問題だが、フクシマは我々の国のシステムや技術、原発に対する考え方の歪みが起こしたものであり、「我々の国の責任問題」である。
  • 原爆製造計画では、軍事指導者が「聖戦完遂」の名のもとに軍事研究を要求し続けた。原子力発電は、軍事指導者に代わって、政治家や官僚が「平和利用」と「生活の向上」の名のもとに「電力というエネルギーの供給を」と訴え続けた。どちらの大義もその時代が要求する価値観でしかなく、歴史的普遍性に欠けている
  • 日本での原爆製造計画が未遂に終わったために、我々は人類史の上で加害者にはならなかった。しかし、原発事故では、我々のこの時代そのものが、次世代への加害者になる可能性を抱えてしまった。我々が放射線をあびたとしても、それはそうしたシステムを許容した我々自身の責任である。しかし、次世代の人たちに放射能障害の危険性を残していいわけはない。


原発爆発後の日本を見ていると、責任者が責任をとらないどころか、開き直って嘘の上塗りをし、それを国政が後押しする。システムの反省や改善どころか、さらなる欠陥や非合理、不正義を押し進める……。
  • 放射性廃物を永久処理する方法は未だに発見されていないし、地震の巣である日本では、放射性廃物を安全に保管できる施設は作れない。それがはっきり分かっている今も、後始末(廃炉と放射性廃物管理)ではなく、再稼働や、原発の輸出(!)などを押し進める。
  • 原発爆発でばらまいた放射性物質を含んだ土や瓦礫くずを健全な水源地にまで運んで埋めてしまおうなどという馬鹿げた計画を「環境省」がごり押しする。
  • 原発ビジネスとまったく同じ「国が税金を投入して業者を儲けさせる」システムで、「再生可能エネルギー」という新たな名のもとに、大規模環境破壊と国民への不要な経済負担を「国策」として進める。

原爆を投下された直後の日本よりも、今の日本のほうが、人々の理性・判断力・倫理観が劣化しているように思えてならない。


嫌韓報道を続けるメディアの害毒2019/09/04 22:09

形は違っても、中身は同じ「アジ」ア……
酒の席で、初対面の男性からいきなり「私は日本は特別な国だと思っているんですよ」と切り出されて面食らったことがある。
その「特別」とはどういう意味なのだろうか? 神国日本とか、そっち系? それとも、世界でも類をみないほど水と森に恵まれ、四季が存在するというような意味? その意味によって対応はまるで変わってくるが、どうも前者のようだった。

日本の軍部が暴走して真珠湾攻撃をする直前の昭和15(1940)年、日本国中に「皇紀2600年」キャンペーンが張られ、一種浮かれた世相があった。
狛犬巡りをしていると、あちこちの神社で「皇紀2600年もの」の狛犬、燈籠、記念碑などに出くわす。
今放送中のNHK大河ドラマ『いだてん』でも、「皇紀2600年」に合わせてオリンピック招致に躍起になったことが描かれている。東京では万国博覧会の開催も予定されていたが、日中戦争の泥沼化によってすべて中止・延期された。

↓ ↓ ↓

皇紀2600年のポスター。11月14日までと15日以降ではガラッと趣旨が変わっている(Wikiより)


この「皇紀」というのは、初代天皇であるとされる神武天皇が即位した年(西暦だと紀元前660年にあたる)を元年とする「神武天皇即位紀元」と呼ばれるもので、明治政府が明治5(1872)年に制定した。
神武天皇の即位がBC660年だというのは、日本書紀の記述をもとにしたものだが、言うまでもなくこれは、歴史学的にも考古学的にも否定されている。

日本の古代史には謎が多いが、大和朝廷を築いたのは朝鮮半島から渡って来た渡来系の人々であり、それ以前に日本列島に暮らしていた人々は見た目も使用言語も生活習慣もバラバラな多民族だったことは概ね分かっている。
多民族がなんとなくうまく暮らしていた平和な土地に、鉄の武器や稲作農耕技術などを持った大陸系の人々が来て、原住民を武力制圧していった……というのが、ほぼ正しい日本の古代史だろう。ただ、明治以降、そうした「大陸民族による日本征服」という古代史は曖昧にされ、一方では征服者が書いた歴史書である日本書紀の記述は、いくら非現実的であろうとも、政府によって「常識」であるかのように固定されていった。
『日本書紀』『古事記』を「歴史資料」として鵜呑みにすることを批判した津田左右吉(早稲田大学教授 1873-1961)は、まさに皇紀2600年の昭和15年に、『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発売禁止の処分にされ、早稲田大学教授も辞職させられ、版元社長の岩波茂雄とともに出版法違反で起訴された(津田事件)。

無知なのか? 同族嫌悪なのか?

「日本は特別な国」とか「神国日本」という一種の信仰は、古代史と近代史をきちんと学んでこなかった人たちの妄想なのか、それとも、それが分かっているからこその同じアジア人への同族嫌悪(そしてその裏返しである欧米白人社会へのコンプレックス)なのか……。
多分、その両方なのだろうと思う。
そう認識した上で、現在の日本のメディア(特にテレビのワイドショーなど)による嫌韓煽りともいえるような報道ぶりを見ると、まさに「大政翼賛会」を彷彿とさせる。

 8月15日の日本の敗戦の日を前後して、韓国のシュプレヒコールは、「NO JAPAN」から「NO ABE」に変わりました。
 私の周りの韓国人の友だちもそれに安堵しているようです。(略)
 それにしても、「NO JAPAN」から「NO ABE」に変わったこと。事の本質が変わった大切な事なのに、日本の報道はそこを特に取り上げない。本質には触らない、タブー視、忖度……日本に住む人々を欺くことになるのに印象操作は続きます。
韓国に「上から目線」のワイドショー、酷くない? 日本の「嫌韓」に対し、韓国は「嫌日」になっていません! 藏重優姫

RONZAに掲載されたこのコラムは、冷静さを訴えるものだが、本来、メディアはこうした事実こそをしっかり伝えていくべきだろう。

Googleで画像検索すると、↓こうした画像がどさっと出てくる。

当初はハングルで「NO 아베」と書いていたが、日本のメディアがこのプラカードを「反日デモ」などと報道するのを知って、「NO 安倍」と漢字表記するようになってきた。それでもメディアは「反安部政権」デモではなく「反日デモ」だと伝えるか、無視する。

このデモ行動の背景や意味を、冷静に分析し、伝えようとしている記事もある。
集会の正式名称は「安倍糾弾 第2次キャンドル文化祭」。主催は「安倍糾弾市民行動」という596の市民団体やNGO(非政府組織)による連合体だ。
(略)
いわば韓国市民団体の「オールスター」とも言える組織がデモを主催している訳だが、この布陣は、2016年10月末から2017年3月にかけて当時の朴槿恵(パク・クネ)大統領を弾劾に追い込んだ「キャンドルデモ」と同様だ。力の入った運動主体といえる。
中でも、この日特に存在感を発揮していたのが「自主派」と区分される政党・市民団体の旗だ。「民衆党」や「祖国統一汎民族連合(汎民連)」、「民主主義自主統一大学生代表者協議会(民大協)」など、民族主義を強く打ち出すNL(民族解放)系列の組織が勢揃いしていた。
韓国「安倍糾弾デモ」のメカニズム 徐台教 コリアン・ポリティクス編集長

さらに、 北朝鮮政府との無条件での対話路線を続ける文在寅政権と対立する韓国の第一野党である自由韓国党(保守派)は、一方では、
植民地時代に大日本帝国に積極的に協力することで権勢をふるい、1945年の解放後や48年の大韓民国建国後にもそれを維持し、さらに「日韓癒着」を重ねてきたいわゆる「親日派」と、日本の「再武装」を掲げる安倍政権の「戦前回帰イメージ」が重なり、強い不満となって表れているのだ。
つまり、「安倍政権=韓国保守派=南北宥和の敵」という論理だ。これは今回の「安倍糾弾デモ」をセッティングした、いわば主催者側の主張といえる。安倍政権を糾弾しつつ、韓国の保守派も攻撃するという二重の目的を持った集会ということだ。(同記事より)

……と、徐氏は分析する。

最初に引用した藏重さんの記事でもそのへんのことは報告されている。
 今年の終戦の日前後は、ソウルでいろんなイベントや集会に参加しましたが、日本をひとまとめにして「ダメ!」という演説の無かったことに救われました。
 ただ、与党と野党の攻防合戦、国民感情を政治家に有利なように誘導するような発言は見え見えでした。
 少し感じ取ったのは、政治家が自分の良いように過去の事実を引き出し演説することには、韓国の人ももう慣れているようで、政治家の発言は政治家の発言。歴史問題解決はしないといけないという点では人々の考えは一致しているが、その方法論では世論は割れている。
日韓境界人のつぶやき より)


このへんの複雑さは、日本で暮らしている日本人には容易には理解できない。しかし、少なくとも、今、韓国で起きている「反安部」デモや日本製品不買運動、日本への旅行取りやめなどの動きの背景が、単純な国粋主義的な感情からだけではないことは知っていないといけない。

徐氏の記事の中で紹介されている、(組織とは関係なく「NO 安倍デモ」に参加したという)二人の韓国人男性の声は、特に傾聴に値する。
「日本社会全体に反感を抱いているのではない。(自分の)海外生活の経験から見ても、世界で最も親しくなれるのは日本人。しかし、正直言って、安倍政権がなぜ続くのか分からない。この点では日本の市民に不満がある。安倍政権が早く退陣し健全な政権に変わってほしい」(49歳・男性)

「日本の安倍首相一族の政治的系譜に悪い印象を持っている」(52歳・男性)


日本では「安倍首相一族の政治的系譜」と言われても、ピンとこない人が多いのではないだろうか。
日本では幕末から昭和にかけての近代史を、事実に沿って正しく教えていないからだ。
まったく必要なかった戊辰戦争、「長州閥陸軍」のあまりに愚かで人命を軽視した暴走……などと書くと、今度は日本国内で西と東(薩長と奥羽越同盟)の無駄な対立を引き起こしそうだが、言いたいのは、あくまでも国、地域、人種といった線引きで対立軸を作るな、という極めて単純なことだ。
時の権力者の顔色をうかがい、不正義を「これが仕事」と認識して淡々と遂行していく「優秀な人たち」。不正義を行っても、その不正義が権力者の意向に沿ったものであれば、罪に問われないどころか、安泰な老後生活が保障される。そうした「官僚主義的無責任体制」と、それを許してしまう国民性こそが、この国の人々を大きな不幸に陥れてきた、という歴史を学びましょう、と言いたいのだ。

韓国では「お友達」を優遇した前大統領は弾劾訴追、逮捕された。少なくとも、国会や司法が独立して機能した。
一方、同じときにこの国ではどうだったのか……。

歴史に学べ! 答えはそこにある。
とにかく、この一言に尽きる。


「反社会的勢力」「反社」という言葉の怖ろしさ2019/07/25 21:06

吉本興業問題の報道や議論を見ていて非常に気になったのは、誰も彼もが(番組司会者、学者、弁護士、タレント……すべて)「反社会的勢力」「ハンシャ(反社)」という言葉をあたりまえのように使っていることだ。これは極めて危険なことではないのか。
「反社会的」とはなんなのか? さらには「集団」「組織」といわずに「勢力」といっているのはなぜなのか?
気がつくと、時の権力者に異を唱える者や集団を「反社条例」なるもので引っ捕らえて投獄できるような時代になりはしないのか?

「反社会」とはどういう意味なのか?

この言葉は、従来、暴力団、ヤクザと呼ばれてきた組織が巧妙に企業体の体をなしてきたために、「暴力団」といえないような組織が犯罪を犯している現状を鑑みて作られた言葉らしい。
しかし、ヤクザや暴力団の定義が変わってきたというのなら、単純に「犯罪集団」「犯罪組織」でいいではないか。
「半グレ」という言葉にも違和感を感じる。表向きがまともそうな企業業態であっても、裏で違法行為をしているなら、それは「半分」でも「グレー」でもなく、犯罪集団そのものではないか。
今回、吉本の芸人が犯罪集団の宴会に(相手が犯罪集団とは知らずに)呼ばれて、ギャラを受け取っていたということに端を発した騒動にしても、その宴会をしていたのは紛れもなく「犯罪集団」である。隠れ蓑にしていた企業体の名前で主催していたとしても、化けの皮が剥がれた時点で「犯罪集団」といえばいいだけのことである。
日本は法治国家であるはずだ。何よりもまっ先に、法を犯しているのかいないのか、が問われるべきである。

anti-social forces ?

そもそも「反社会」とはどういう意味なのか?
「社会に反する」ということであれば、「社会」とはなんなのか?

「反社会的勢力」を英訳すると Anti-Social Forces なんだそうだ。
しかしこの言葉の用例を検索すると、出てくるのは金融庁の文書などがほとんどで、一般的な英文の中で使われている用例がほぼ見つけられなかった。
では、「犯罪集団」を英語ではなんというのかと調べると、crime syndicate、 criminal syndicate という言葉が出てくる。
これなら分かる。英語でははっきりと「crime(犯罪)」という言葉を使っている。
なぜこう呼ばないのか? 「犯罪集団」「犯罪組織」なら漢字4文字で済むのに、「反社会的勢力」は6文字も使った上で、意味がよく分からない。

anti-social は「socialではない」という意味だが、そもそもsocialはどういう意味の言葉なのか。
Man is a social animal.(人間は社会的動物である。)……という使い方がいちばん分かりやすい。
social problems such as poverty and crimes(犯罪や貧困のような社会的問題)
a social movement called the anti-nuclear movement (反核運動という社会運動)
 といった使い方を見ても分かるように、social自体がよいとか悪いということではない。
「群をなす」「社交的」というニュアンスも強い言葉だ。
He has recently got anti‐social.(彼は最近つきあいが悪くなった。)

そういう言葉(social や「社会」)を使って犯罪者集団のことを指し示さなければならないのはなぜなのか?

「反日」という言葉にも似ている

「反社」という言葉は「反日」という言葉にも通じる曖昧さがある。
「反日」とはなにか?
Wikipedia にはこうある。
反日とは、日本の一部または総体に対して反対・反発感情・価値観を持って行われている教育・デモ・活動・外交、それを行っている人物・組織・国家に対して使われる言葉。

↑こんな定義をされてしまったら、「日本の一部」が何を指すのかによって、どんなものも「反日」になってしまう。実際、そうなってしまっているわけだが。
「反社」という言葉があたりまえのように使われるようになると、これと同じことになる。
「反日」の「日」が日本の現政権(日本の一部)である、ととらえると、その「日」は日本という「国」であり、日本の「社会」である、というようなことになりかねない。
この怖ろしさをしっかり自覚しなければいけないだろう。特に弁護士や法律家、ジャーナリズムに身を置く人たちには、この言葉が安易に広まることに対する警戒心をしっかり持ってほしい。

最後にこんな例文を見つけたので掲載しておきたい。
Never losing its antisocial nature, many rakugo acts were suppressed and forbidden during war.
(落語は反社会性が抜けず、戦時中に多くの演目が禁演落語として弾圧された)
Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス


参院選2019まとめ 山本太郎のゲリラ戦法など2019/07/22 14:10

重度障害者の候補者二人が当選!
記憶が薄れないうちに、今回の参院選で「忘れてはいけないこと」をいくつかまとめておきたい。

投票所に足を運ぶ気力がない

投票率が48.8%で、50%を割ったのは24年ぶり。過去2番目の低さだというが、過去最低の44.52%は1995年の参院選で、このときはまだ期日前投票制度がなかった時代だから、実質、今回が過去最低といえる。ちなみに今回の期日前投票数は過去最高である。
要するに、国民の多くが、もはや投票所に足を運ぶだけの気力すらないほどに疲弊し、空虚感、無力感に支配された生活をしているということだ。

策士・山本太郎 ゲリラ戦を仕掛けて勝利

れいわ新選組を立ち上げた山本太郎は、比例区でおよそ98万票を獲得して、比例区の個人獲得票では断トツの1位になった。ちなみに2位、3位は自民党、公明党の候補者でどちらも59万票あまり。
しかし山本自身は重度障害を持つ候補者二人を「特定枠」に置いたために、れいわが獲得した2議席分の得票(224万票あまり)では届かず、断トツ1位得票者でありながら落選した。
このことをマスメディアは「山本太郎落選」と伝えるが、車椅子や介護者がいないと発言も移動もできない議員を二人も国会に送り込んだことは、歴史的な出来事である。
議場では投票の際に議員が階段を上らなければならないし、車椅子で着席できる仕組みもない。議場には議員本人しか入れないという現行ルールを改正しない限り、当選しても議員は議場にすら入れない。この「国会の場がそもそもバリアフリーになっていない」ことを、山本は国民に改めて知らしめた。
これは、巨大な敵に立ち向かうためのゲリラ戦としては見事な勝利である。

意図的に山本太郎を黙殺するマスメディア

選挙前に、山本の行動をしっかり報じているマスメディアはほとんどなかった。特にテレビは完全無視に近かった。
本来なら、重度障害者を立候補させるということが分かった時点で報道価値があるはずである。候補予定者本人に取材してしかるべきだろうに。
これは何に対しての「忖度」なのか?
前に言いましたが、選挙終わってから候補や政党や支援団体のことを特番で見せられてもどうしろと言うんですか?
遅いだろう! 全く役に立たない。メディアが公職選挙法の改正を大優先にしないなら、開票特番やめて全部アニメでいいです。オチはありませんm(__)m
デーブ・スペクターのツイッターより
まったくその通りである。

立憲民主党の「社民党化」「硬直化」を懸念する

れいわ新選組の健闘に対して、立憲民主党の魅力が一気に薄れたことが強く印象づけられた選挙でもあった。
自治労役員、野田内閣時の首相補佐官、郵政労組役員、NTT労組出身の情報労連組織内候補、私鉄総連局長。
↑これは立憲民主党比例区上位当選者5候補のプロフィールである。この5人までが10万票を超えた。この結果を見れば明らかなように、立民は候補者選びの段階で国民に魅力を発信できていない「個人の力」を引き出し、活躍させる土壌ができていないのだ。
テレビCMも下手すぎる。依頼している広告代理店が意図的に「ダサく」作って立民離れを仕掛けているのではないかと思うほどひどい。
要するに立民は「自己分析」ができていないのだ。
実働部隊として戦力になる候補者がいないわけではない。
原発問題で超人的な情報収集、データ解析能力を発揮してきたおしどりマコや、元NHK記者で、普天間基地問題の現場にも突撃取材を敢行する「元気な老人」小俣一平らは、議会に送り込めれば何人分もの起爆力を持っていたと思う。
しかし、おしどりマコは3万票に届かず、立民の比例区候補者(当選は8人)のうち12位、小俣は1万票すらとれずに同18位。
今回、NHKから国民を守る党が1議席を獲得したことが話題になっているが、立民は「今のNHKのあり方に憤りを感じている人は、ぜひ小俣一平氏に一票を投じてください。NHKの内実をいちばんよく知っているのは彼です」といったPRをすればよかった。
そういう戦略、小回り戦法ができないと巨大与党と渡り合えるはずがない。
「ならぬものはならぬ」「正々堂々と正面から挑む」とか言って、鎧甲冑に槍を持って新政府軍に突っ込んでいって討ち死にした会津藩みたいなことになる。それでは過去の社会党と同じ運命をたどることになりはしないか。
枝野代表は真面目さ、清廉さが売りだが、それだけでは「無党派層」を惹きつける求心力が足りない。合理性を持った策士や力技で動けるパフォーマーが必須だ。
山本太郎はその二役を一人でこなしたといえる。
マコ&一平は、次は衆院選でれいわから立候補してほしい。今の立民にいる限りは、活躍の場が与えられないまま歳だけ取ってしまうだろう。
ちなみにテレ東の選挙特番で、池上彰が山本太郎に「なぜ旧体制を守ろうとした新選組の名前を使うのか」みたいなことを言っていたが、戊辰戦争のことをよく分かっていないのではないか。
新選組(あのときは「新撰組」)は、東北戊辰戦争で会津藩の総大将となった西郷頼母(たのも)に「ゲリラ戦でなければ勝てない」と主張した。頼母はそれを拒否して「我々は正面から正々堂々と戦う」などと言って、最新兵器を持ちながらゲリラ戦を仕掛けてくる新政府軍に甲冑姿で突っ込んでいき、玉砕した。それではダメなわけで、「新選組」という名前はあながち間違ってはいないと思う。

若者を無理に投票所に引っぱり出さなくてもよい

18、19歳有権者の投票先は自民が41%でトップ。立憲が13.9%で2位。れいわは4番手の7.4%。 年代別では自民は20代、公明は10代で最も高く、立憲は40代まで、共産は50代までの得票率が全世代の平均値を下回り、ともに70代以上の得票率が最高だった。(時事通信より)
このままでは若い人たちに安心した社会を引き継がせられないと訴える野党が若い世代からは支持されておらず、ある程度歴史を見てきた高齢者たちが現政権に危機感を抱いて野党に投票しているというのは実に皮肉だ。
選挙のたびに、若い世代に「投票しましょう」と呼びかけるポスターやら広告を目にするが、もういいんじゃないか。
そんな呼びかけよりも、メディアが現実をきちんと伝える努力をすることが先だ。

「世界陸上」における日本選手の歴史2019/05/31 13:47

陸上競技の世界最高峰大会は、オリンピックよりも世界陸上選手権かもしれない。
名誉やニュース性ではオリンピックのほうが上かもしれないが、参加選手数や優勝者の記録レベルでは世陸のほうが上だ。特に、最近では真夏に開催されるオリンピックより、世陸のほうが競技コンディションがよいので、真の「世界最高レベル」が見られる可能性が高い。

というわけで、世陸における日本選手のメダル獲得歴史を振り返ってみた。

1987年 ローマ

   メダルなし

1991年 東京

  • 谷口浩美  金 男子マラソン (2時間14分57秒)
  • 山下佐知子  銀 女子マラソン (2時間29分57秒

1993年 シュツットガルド

  • 浅利純子  金 女子マラソン (2時間30分03秒)
  • 安部友恵  銅 女子マラソン (2時間31分01秒)

1995年 イエテボリ

   メダルなし

1997年 アテネ

  • 鈴木博美  金 女子マラソン (2時間29分48秒)
  • 千葉真子  銅 女子10000m (31分41秒93)

1999年 セビリア

  • 市橋有里  銀 女子マラソン (2時間26分33秒)
  • 佐藤信之  銅 男子マラソン (2時間14分07秒)

2001年 エドモントン

  • 室伏広治  銀 男子ハンマー投げ (82m92)
  • 土佐礼子  銀 女子マラソン (2時間26分06秒)
  • 為末大  銅 男子400mハードル (47秒89)

2003年 パリ

  • 野口みずき  銀 女子マラソン (2時間24分14秒)
  • 末續慎吾  銅 男子200m (20秒38)
  • 室伏広治  銅 男子ハンマー投げ (80m12)
  • 千葉真子  銅 女子マラソン (2時間25分09秒)

2005年 ヘルシンキ

  • 為末大  銅 男子400mハードル (48秒10)
  • 尾方剛  銅 男子マラソン (2時間11分16秒)

2007年 大阪

  • 土佐礼子  銅 女子マラソン (2時間30分55秒)

2009年 ベルリン

  • 尾崎好美  銀 女子マラソン (2時間25分25秒)
  • 村上幸史  銅 男子やり投げ (82m97)

2011年 テグ

  • 室伏広治  金 男子ハンマー投げ (81m24)

2013年 モスクワ

  • 福士加代子  銅 女子マラソン (2時間27分45秒)

2015年 北京

  • 谷井孝行  銅 男子50km競歩 (3時間42分55秒)

2017年 ロンドン

  • 荒井広宙  銀 男子50km競歩 (3時間41分17秒)
  • 小林快  銅 男子50km競歩 (3時間41分19秒)
  • 多田修平、飯塚翔太、桐生祥秀、藤光謙司  銅 男子4×100mリレー (38秒04)

日本選手は初期の頃、マラソンで優勝者を3人出している(谷口、浅利、鈴木)。
特筆すべきは個人のトラック競技でメダルをとっている千葉真子(銅 女子10000m、1995年 アテネ)、為末大(銅 400mハードル、2001年 エドモントンと2005年 ヘルシンキ の2回!)、末續慎吾(銅 男子200m、2003年 パリ)だろうか。
あと、メダルには届かなかったが、8位入賞までを見ると、
  • 1991年 東京 7位 高野進 男子400m 45秒39
  • 1997年 アテネ 8位 弘山晴美 女子5000m 15分21秒19
  • 1999年 セビリア 4位 弘山晴美 女子10000m 31分26秒84
  • 2005年 ヘルシンキ 6位 原裕美子 女子マラソン 2時間24分20秒
                 8位 弘山晴美 女子マラソン 2時間25分46秒
  • 2017年 ロンドン 7位 サニブラウン・A・ハキーム 男子200m 20秒63

……といったあたりが印象的だ。
ヘルシンキの女子マラソンで6位の原裕美子はその後、競技の成績ではなく、あんなことで有名になってしまったし、弘山晴美はトラックでもマラソンでも結果を出している(3大会で3度入賞!)のに、オリンピック代表選考レースでは悲劇を味わった。
逆に、高橋尚子は優勝確実と言われた1999年の世陸セビリア大会は、代表に選出されていたが脚の怪我で欠場。世陸での成績は1つも残していないが、翌2000年のシドニーオリンピックの金メダルで歴史にも人々の記憶にも名を残すことになった。
競技レベルではどちらも世界最高レベルなのに、世陸とオリンピックの「格差」がいかに大きいかを改めて感じさせられる。

スポーツも、世界最高レベルで競い合えるのはほんの一握りの人たちの、人生におけるごく短い時間。その時期を過ぎた後の人生をどんな風に生き抜くか。一度、「世界レベル」を味わい、死闘を繰り広げた人たちにとっての「その後」はどんなものなのだろう。
見ているだけの我々は、ただ単に競技というドラマに興奮する時間を与えられるだけだが……。

オリンピック陸上競技にまつわる名レースTOP52019/05/31 11:09

昭和30(1955)年生まれの私は、来年まで生きていれば「東京オリンピック」をリアルタイムで2回見る世代になる。
そこで、オリンピックにまつわる、忘れられないシーンのTOP5はなんだろうと思い浮かべてみた。
こうなった↓

5位:1992年のバルセロナ五輪男子マラソン

谷口浩美の「こけちゃいました」……靴を踏まれて飛んだ靴を探して履き直していたロスタイムと、その後の追い上げタイムを計算すると、踏まれていなければ間違いなく谷口の優勝だった。そうなっていれば、谷口はオリンピック陸上フィールド以外の種目で日本人初の金メダルという名誉を得て、歴史に名を残していた。
「オリンピック陸上フィールド以外の種目で日本人初の金メダル」は、8年後に高橋尚子が成し遂げたが、あのシーンを見たときも「谷口があのとき靴を踏まれなかったらなあ……」と思ったものだ。

4位:2000年1月の大阪国際女子マラソン

この大会は9月開催のシドニー五輪女子マラソン代表選考レースの1つだった。弘山晴美は、陸連から1万メートルでの出場を促されていたが「マラソンで出場」と拒否し、出場。しかし、ゴール直前リディア・シモンに抜かれ、2位に。2時間22分56秒は世界歴代9位(当時)・日本歴代3位(当時)の好記録でゴールしながら代表になれなかった。(前年のセビリア世界陸上で2時間27分02秒で市橋有里が2位入賞してすでに内定していたため。市橋の2時間27分02秒は生涯自己ベスト)

3位:1995年の東京国際女子マラソン

アトランタオリンピック代表選考レース。残り5キロという地点でトップ集団を走っていた浅利純子(ダイハツ)が、前を走る吉田直美(リクルート)の靴のかかとを踏んで、浅利、吉田、そして後ろにいた後藤郁代(旭化成)がもつれて転倒。1人、転倒を免れた原万里子(万引きで有名になってしまった選手とは別の「原」)がここぞとばかりに独走態勢に入ったが、ゴール直前で追い上げてきた浅利に逆転された。吉田は靴が脱げ、履き直さなければならず、3人の中でいちばん痛手を負ったが追走してトップと10秒差の4位に。靴を履き直すタイムロスは10秒以上あったので、踵を踏まれなければ吉田が優勝していただろう。
浅利が「転倒に負けず逆転勝利。オリンピック代表に」という物語を美しく飾るため、転倒時のスロービデオは、その後、二度と流されることはなかった。

2位:1964年東京五輪男子マラソン

ぶっちぎりで優勝したアベベ・ビキラ(エチオピア)に大きく遅れて競技場に2位で入ってきたのは円谷幸吉(陸上自衛隊)。しかし、ゴール直前でイギリスのベイジル・ヒートリー(当時の世界最高記録=2時間13分56秒保持者)に抜かれて3位に。その後、体調不良や鬱状態になり、自殺。
ほとんどの日本人にとって、円谷の最後の姿は東京オリンピックで銅メダルを取ったときの映像になってしまった。
ちなみに、1936年ベルリンオリンピックで田島直人(三段跳・金、走幅跳・銅)、孫基禎(マラソン・金)、南昇竜(マラソン・銅)、原田正夫(三段跳・銀)、西田修平(棒高跳・銀)、大江季雄(棒高跳・銅)の後は、1964年東京オリンピックまでの間の陸上全種目で日本人選手が取ったメダルはゼロ。1964年東京オリンピックでも、陸上のメダルは円谷のマラソン銅メダルだけである。(※孫基禎と南昇竜は日本占領下の朝鮮の選手)

1位:1987年12月、ソウル五輪代表選考会の福岡国際マラソン

12月の福岡国際で一発選考と言われていたのに、怪我で出場を断念した瀬古利彦(ヱスビー)に対して陸連は「3月のびわ湖で好成績なら選ぶ」と、急遽方針を変更。怒りの中山竹通(ダイエー)は「自分なら這ってでも出ますけどね」と発言。レース当日は5mの強風とみぞれで異常な寒さ。その中を中山はいきなり飛び出して、ずっと14分台で飛ばし、中間点では1:01:55。35キロ地点まで当時の世界記録を49秒上回るハイペースを続け、最後に失速するも2位以下に2分以上の大差をつける2時間8分18秒で圧勝。ゴール後は「とにかく寒くて身体が動かなくなった」と。
中山の異常なペースに惑わされ、有力視されていた谷口浩美(旭化成)は2:12:14の6位。宋猛(旭化成)は途中リタイヤで「お茶が温かかった」の名言。あのときの中山ほどかっこよかったランナーはいないなあ。
このレースはスタートからゴールまで完全録画して、その後何年も持っていたのだが、ビデオデッキの時代ではなくなり、引っ越しも何度もしたために、ビデオテープは全部処分してしまった。残念。

……と書いてきたら、あれ? 全部マラソンだ。しかも、オリンピック本番レースは2つしかなくて、あとは選考会レースか。
優勝した選手よりも強烈な印象を残した「敗者」たち。……あたしって、やっぱり表舞台に立てない性格なのだろうか。

五輪陸上競技日本選手メダリスト

で、オリンピックの陸上競技でメダルをとった日本選手のリストというのを見たら、思っていたよりずっと少ないのだね。
戦後は、マラソン以外でメダルをとるのは考えられない状況で、だからこそQちゃんが出てきたときは驚いたんだなあ。

1928(昭和3)年 アムステルダム大会
織田幹雄:三段跳 金
人見絹枝:800m 銀

1932(昭和7)年 ロサンゼルス大会
南部忠平:三段跳 金・走幅跳 銅
西田修平:棒高跳 銀
大島鎌吉:三段跳 銅

1936(昭和11)年 ベルリン大会
田島直人:三段跳 金・走幅跳 銅
孫基禎:マラソン 金
原田正夫:三段跳 銀
西田修平:棒高跳 銀
大江季雄:棒高跳 銅
南昇竜:マラソン 銅
※マラソンの孫基禎、南昇竜は日本占領下の朝鮮の選手
──ここまでが戦前。戦後は……

◆1948年 ロンドン、1952年 ヘルシンキ、1956年 メルボルン、1960年ローマの4大会連続でメダルなし

1964(昭和39)年 東京大会
円谷幸吉:マラソン 銅

1968(昭和43)年 メキシコ大会
君原健二:マラソン 銀

◆1972年 ミュンヘン、1976年 モントリオール、1980年モスクワ(不参加)、1984年 ロサンゼルス、1988年ソウル大会の5大会連続でメダルなし

1992(平成4)年 バルセロナ大会
有森裕子:マラソン 銀
森下広一:マラソン 銀

1996(平成8)年 アトランタ大会
有森裕子:マラソン 銅

2000(平成12)年 シドニー大会
高橋尚子:マラソン 金

2004(平成16)年 アテネ大会
室伏広治:ハンマー投 金
野口みずき:マラソン 金

2008(平成20)年 北京大会
塚原直貴末續慎吾高平慎士朝原宣治:4×100mリレー 銀

2012年(平成24)年 ロンドン大会
室伏広治:ハンマー投 銅

2016(平成28)年 リオデジャネイロ大会
山縣亮太飯塚翔太桐生祥秀ケンブリッジ飛鳥:4×100mリレー 銀
荒井広宙:50キロ競歩 銅

4x100mリレーでメダルをとるというのがどれだけすごいことか分かるなあ。

ドラマが書き換える歴史(1)インスタントラーメン誕生史2019/03/06 11:07

Wikipediaより 横浜のカップヌードルミュージアム(安藤百福発明記念館)
NHK連続テレビ小説『まんぷく』のモデルが、日清食品創業者の安藤(呉)百福とその妻・仁子であることは周知されている。
実在の人物をモデルとしますが、激動の時代を共に戦い抜いた夫婦の愛の物語として大胆に再構成し、登場人物や団体名は改称した上、フィクションとしてお届けします。(NHKの番組紹介公式サイトより)

で、その二人の生涯を調べると、知らなかった戦後史や、今まで間違って覚えさせられていた常識(「インスタントラーメンは日本人が発明した」など)が覆されて、とても勉強になる……という話は、以前、「チキンラーメンが教えてくれた戦後史」というタイトルでチラッと書いた。
あれを書いた時点では、ドラマもまだ始まったばかりで、史実との違いはまあ許容範囲かなと思って、控えめに書いていたのだが(怖いし……)、ドラマの終盤まできて、即席ラーメンの特許の話まで完全に都合よく書き換えられているのを見ていると、さすがにここまでやってはいかんだろうと思う。
江戸時代以前の歴史を扱ったドラマ(時代劇)であれば、何が史実なのか分からないことだらけなのだから、大胆に脚色して、フィクションとして再構築するのはかまわないと思う。水戸黄門なんて、そもそも諸国漫遊の事実がないわけだし、「あれはまったくの作り話である」ということを多くの人が「常識」として知っているのだから、問題ない。
しかし、インスタントラーメン誕生物語となると、これは昭和、しかも戦後のことで、ほぼすべての「史実」がはっきりしている。それを、いくらドラマ(フィクション)だとはいえ、あまりにも主人公たちを美化したり、都合の悪いことをすべてなかったことにしたり、いいように書き換えてしまうというのは、「国民的ドラマ」としてはどうなのか。ここまでくると、何か意図があって、積極的に歴史の改竄をしようとしているのではないか、と疑われても仕方がないレベルではないだろうか。

「チキンラーメンが教えてくれた戦後史」では敢えて触れずにいたが、改めて『まんぷく』と日清食品とチキンラーメン誕生の歴史を比較してみると、ざっとこれだけの相違点がある。

出生と事業創業

  • 主人公・立花萬平:日本人(東京生まれ?)。両親を早くに亡くした。大阪に出てきて、25歳の時に会社を設立。幻灯機や根菜切断機などを作る。
  • 日清食品創業者・呉百福:日本占領下の台湾生まれ。両親共に台湾人だが幼いときに死別し、呉服商である祖父の下で育つ。両親の遺産を元手に日本で注目され始めていたメリヤスの輸入業で成功を収める。正妻・黄梅との間に長男・宏寿をもうけるが、妻と長男を台湾に残して、第二夫人・金鶯を連れて日本に渡り、昭和8(1933)年、大阪にメリヤス問屋の日東商会を設立。メリヤス事業が低迷期に入ると、軍用エンジンの部品や幻灯機の製造をする会社を共同設立。1948年に大阪に移住し、その後、安藤仁子と結婚。1966年に日本国籍を取得し、安藤姓を名乗る。

家族

  • 萬平:戦前に大阪のホテルに勤めていた福子に一目惚れして結婚。その後、一男一女をもうける。
  • 百福:台湾時代に第一夫人・黄梅と結婚。長男・宏寿の他に幼女・呉火盆。宏寿はその後、日本に呼び寄せ、日清食品代表取締役社長に。日本に連れてきた第二夫人・呉金鶯との間には呉宏男、武徳、美和の2男1女。呉金鶯はその後、台湾に戻る。美和氏は晩年、台湾で遺産詐欺被害にあう。三番目の妻・安藤仁子とは1945年3月に結婚。第一子(女)は死産。その後に一男一女(宏基と明美)。宏基は後に日清食品三代目社長に。

福子と仁子(まさこ)

  • 今井(立花)福子:大阪出身で三人姉妹の末っ子。女学校卒業後にホテルに就職。萬平にプロポーズされ、戦前に結婚。
  • 安藤仁子:福島県二本松神社の神職次男・安藤重信の三女。重信は大阪で人力車の会社を経営して財を成したが、その後行き詰まった。ホテルのフロント係をしているときに百福にプロポーズされ、1945年3月、第一次大阪大空襲の8日後に挙式。このとき百福35歳、仁子28歳。

主人公(福子と仁子)については、3人姉妹の末っ子ということと、大阪のホテルのフロント係をしていたときに口説かれたということが共通しているが、結婚相手(萬平と百福)についてはまったく違う。
朝ドラの主人公が三番目の妻であったというのはまずいということで、第一夫人、第二夫人の存在や子どもを消し去ったところまではまだ許容範囲かもしれない。家族構成や結婚歴、恋愛歴などは「個人的な」ことだからだ。
しかし、夫が台湾華僑であったことを変えてしまうのはさすがにまずいだろう。
なぜなら、百福は台湾出身であったがゆえに、戦後は「戦勝国民」として莫大な保険金(約4000万円=現在の数百億円相当)を手にして「日本一の大金持ち」と呼ばれたり、占領軍に出入りして物資を仕入れたりしていたからだ。これは「個人的な史実」ということを超えて、当時の社会を知るための重要な史実なのだから、そこまで書き換えてしまうと、日本の占領下にあった朝鮮や台湾の人たちの悲劇と成功劇という、重要な史実が消えてしまう。
天皇が無条件降伏を宣言した途端、四川劇の「変面」さながら、台湾人は日本国民から中華民国の国民へと早変わりしていた。おまけに、中華民国が連合国だったおかげで、終戦直後の日本にいた台湾人は、戦勝国民という新たな肩書を手に入れ、その威勢のよさは、まさに虎の威を借る狐であった。(『日本統治時代の台湾 写真とエピソードで綴る1895~1945』 (陳 柔縉・著、天野 健太郎・訳。PHP研究所 2014)

インスタントラーメンは台湾が生んだ

もう一つ、重要な「歴史改竄」につながるのは、インスタントラーメン誕生物語という、このドラマの核心ともいえる部分の「史実書き換え」だ。
インスタントラーメン特許紛争は史実であり、争っていたのは張国文(東明商行)、陳栄泰(大和通商)、呉百福(サンシー殖産=後の日清食品)らだ。この3人全員が台湾華僑である。
ドラマ『まんぷく』では、油揚げ麺に湯を注いで戻すというスタイルが「萬平」がゼロから発明したかのように描かれているが、麺を油で揚げる料理「伊府麺」はすでに清朝中国に存在していて、それが台湾に渡り、揚げた麺をゆでてもどす「鶏絲麺」として普通に食されていたという。
これを日本でも売れば儲かるのではないかと商品化したのが張国文や陳栄泰で、「鶏糸麺」(大和通商)、「長寿麺」(東明商行)は、百福がチキンラーメンを売り出す1958年(昭和33年)8月25日の数か月前、春の時点ですでに日本で発売されていた。
第一次南極越冬隊(1956年)が持っていった即席麺はニュースにもなったが、これがまさに張国文の「長寿麺」で、この時点では一般販売こそされていなかったものの、越冬隊に供給する食品としてすでに存在していた(ただ、あまり美味いものではなかったようだ)。

さらには、チキンラーメンに出遅れること2か月の1958年秋頃、伊藤製粉製麺(創業者・伊藤哲郎。創業1945年。現在のイトメン)が「トンボラーメン」という袋麺を発売(のちに「ヤンマーラーメン」に改名し、ヤンマーディーゼルと商標使用をめぐって訴訟騒ぎになる)。
1959年に、梅新製菓(創業者・村岡慶二。創業1948年。後のエースコック)が「エースラーメン」を発売している。

特許に関しては、以下のような時系列になる。
  • 1958年12月18日 東明商行の張国文が「味付乾麺の製法」を特許出願(特願昭33-36661号)。
  • 1960年11月16日 上記特許が出願公告(特公昭35-16974号)。
  • 1959年1月22日  安藤須磨(百福の義母)名で「即席ラーメンの製造法」を特許出願(特願昭34-1918号)。
  • 1960年11月16日 上記特許が出願公告(特公昭35-16975号)。
  • 1961年 日清食品が東明商行が先行出願していた「味付け乾麺の製法」特許の権利を2300万円で買い取り、「即席ラーメン製造法」と合わせて特許登録

これを見ても、百福が「インスタントラーメンを発明した」とはいえないことは分かる。
また、「インスタントラーメン第1号」が張国文が作った「長寿麺」であれ、陳栄泰の「鶏糸麺」であれ、百福の「チキンラーメン」であれ、インスタントラーメンを生んだのは日本人ではなく、在日台湾人(華僑)だった(百福が日本国籍を取得したのはチキンラーメン発売から8年後の1966年)。

……こうして見ていくと、インスタントラーメン開発史は実にドラマチックであり、これをそのままドラマ化したほうがよほど面白い。とくにエースコックと明星の日清食品への対抗手段の違い(徹底抗戦を試みたエースコックと、実利を取って争いを避けようとした明星)とか、アメリカ市場をめぐる日清と東洋水産のバトルとか、カップヌードルの10年も前に明星はカップ麺を発売していたといった史実はとても興味深い。(もっとも、史実はあまりにもドロドロしていて、知れば知るほど胃もたれするかな。業界ではすぐに訴訟を起こしてライバル企業を追い落とそうとする日清の手法を「日清戦争」と揶揄しているそうだ)
この「本当は怖い」題材を、心温まる「家族愛」を基調にしなければならない(?)朝ドラに取り込もうとしたところに根本的な無理があったのだろう。
しかも、『まんぷく』の中に登場するいくつかのエピソード、軍需品横流しの嫌疑をかけられて拷問を受けたとか、栄養食品開発の際に食用蛙が爆発して飛び散ったとか、福子の長姉が美人で、歯科医が馬に乗って求婚しに来たとか、塩を作ったとか、脱税で逮捕され裁判闘争を展開したとか、信用組合の理事長になったものの組合をつぶしてしまったといった話は史実と微妙に重なるので、さらに罪が深い。
例えば、理事長を引き受けた「大阪華僑合作社(大阪華銀)」は華僑が出資した信金で、百福が理事長を引き受けた時点ですでに放漫経営でおかしくなっていたらしい。百福は理事会も経ずに華銀の金を大豆相場に注ぎ込んで失敗し、回復不能な大赤字を作ったとも……。

詳細を検証するのは難しいとしても、百福をモデルにしたインスタントラーメン誕生物語が、立派で美しいエピソードだけで彩られるのはどうなのか、と、誰もが思うだろう。
戦前戦中は「台湾出身の三等国民」として辛酸をなめ、戦後は「戦勝国民」として思わぬ巨利を得たことや、インスタントラーメン開発商戦での熾烈な競争と生々しい駆け引き、取り引きなどは、やはりそのまま再現してほしかった。

例えば、王貞治氏は今も国籍は日本ではなく中華民国だが、彼をモデルにして、「立花治男」という日本人の両親を持つ日本人少年が世界のホームラン王になっていくドラマを作り、「これはフィクションです」と開き直っていいのだろうか。
王さんの父親・王仕福は、戦時中にスパイ容疑をかけられて警察に連行され、拷問まで受けていたという。
軍事物資横流しの嫌疑をかけられて憲兵に連行され、拷問を受けた呉百福と重なるような話だが、こういう時代背景を不自然に書き換えてまで、実在の人物をモデルにしたドラマを作るべきではない。そのドラマの中でフィクションが完結するならまだしも、それがほぼ史実だと思い込んだままの視聴者を大量に作りだし、国民の歴史観そのものが変わってしまう恐れがあるからだ。

朝ドラは、ある時代を背景にした、女性が主人公の人間ドラマというスタイルが定着しているが、余計な罪を犯さぬよう、今後は完全なフィクションに徹するべきではないか。
手本は『ひよっこ』かなあ。あれを超える朝ドラは、今のところないのではなかろうか。

『いだてん』はベルリン五輪をどう描くのか

で、ついでに書けば、放送中のNHK大河ドラマ『いだてん』で、ベルリンオリンピックがどう描かれるのか、特に、当時、日本統治下にあった朝鮮の孫基禎と南昇竜が「日本選手」としてマラソンに出場し、それぞれ金メダル、銅メダルをとったことをどう扱うのか(まさか、まったくスルーすることはできないと思うのだが……)にとても興味がある。
注目したい。

「飛翔獅子」という呼称について2019/03/01 21:30

鹿島神社の「飛翔獅子」(吽像)

川田神社の飛翔獅子。寅吉自身が奉納した記念すべき最初の飛翔獅子 明治25(1892)年11月15日「浅川町福貴作 石工小松布孝作之」の銘



鹿島神社の狛犬(裏側から) 明治36(1903)年 「福貴作 石工 小松布孝」の銘

小説版『神の鑿』上巻 小松利平、は、目下160枚ほど書いて、利平がようやく福島に初めて足を踏み入れようとするあたり(天保年間)まできた。
小説化するにあたって、毎日、執筆時間よりも調べ物をしている時間のほうが多いのだが、ネット検索していると自分が書いた文章やサイトにぶつかることもある。
今日は朝日新聞のこんな記事を見つけた。
白河市を中心とする福島県南部には、全国でもめずらしい……というよりは、この地方だけではないかといわれる“飛翔する狛犬”たちが見られる。

……と始まる「城とラーメンの町で注目を集める新名物は“飛翔する狛犬たち”/福島県白河市ほか」(文・写真 中元千恵子 2017年3月22日)という記事。
2017年3月だから、2年も前に書かれていたのね。

で、ここでも書かれている
通常は前足を伸ばして腰を下ろした姿勢だが、白河地方では“飛翔獅子(ひしょうじし)”とよばれる独特のスタイルが生まれた。雲に乗り、尾やたてがみを風になびかせた姿は躍動感があり、彫りの美しさからも、もはや芸術、と称されている。

の、「飛翔獅子」や「雲に乗り」という部分がおかしいと主張している人がいると最近知った。
実際に問い合わせもあった。
狛犬の下の部分は明らかに「雲」ではない。雲ではないのだから、「空を飛ぶ」もおかしいのではないか、という趣旨のご指摘だ。
「雲に乗り空を飛ぶ」というのは、拙著『狛犬かがみ』にこんな記述がある。
江戸獅子の豪華版として獅子山というスタイルがある。獅子山の獅子は、今にも飛びかかりそうな躍動感にあふれているものが多い。加賀地方には、山の上で逆立ちしている獅子像がある。広島には玉に乗った狛犬が多い。しかし「雲に乗り空を飛ぶ狛犬」という構図は、ほとんど見たことがない。石で造るがゆえに、あまり自由な構図が許されないからだろう。
寅吉は生涯何体もの狛犬を彫っているが、ついにはこの「飛翔獅子」というスタイルに行き着く。これが寅吉の「発明」だとすれば、大変な功績といえよう。
(『狛犬かがみ』バナナブックス)

獅子を支えている部分については、「雲」ではない、と言われればその通りかもしれない。
しかし、江戸獅子の獅子山とは発想がまったく違う。仏像の蓮華座そのものかといえば、そうともいえない。蓮の意匠をあしらった部分もあるし、牡丹の花を添えているのもあるが、「あの部分」に関しては、おそらく、「後ろ脚を蹴り上げて飛んでいるような格好の石獅子を台座の上でバランスよく成立させるためには、どのような造形にすればいいか」という命題から出発して、あのようにまとめ上げたのだと思う。獅子と一体に一つの石から彫られているのも、そのためだ。

寅吉の出発点(発想の最初)はあくまでも、龍のように「天翔る獅子」を彫りたい、だっただろう。
重い石獅子をあの形で仕上げるには、前脚だけが台座に接続しているのでは無理がある。長くもたせるためには、重量バランスを考えて、なおかつ全体のデザインが壊れないようにまとめなければならない。そこで、「台座にのせる」という発想から一旦離れて、「獅子をあの形で宙に浮かせるためにはどういう形にすればいいか」という発想に切り替えた結果なのだ。
悩んだ末に、蹴り上げた後ろ脚を支える支柱の代わりに、モコモコっとした「何か」を後肢方向に盛り上げて、その「何か」込みで全体のデザインと重量バランスをまとめる、という作業に取り組み、完成させた……と見る。
あの「何か」が岩山なのか蓮華座なのかという定義は、寅吉にとってはあまり意味のないことだったのではないか。それをどう呼ぼうが「後付けの問題」で、あくまでも「天翔る獅子」を成立させるための「デザイン」が必要だった、ということだろう。儀軌的な定義ではなく、あのスタイルを実現するための物理学的な工夫の結果だった。雨水が溜まらないように随所に空洞を作るという工夫もされている。
あの部分に蓮や牡丹の意匠を採用していても、それは「ここはこうあるべきだ」ではなく、不自然さがなく、かつ、豪華、豪快にまとめるためのパーツ(木彫扉の錺金具のようなもの)だったと思うのだ。
あれを岩山であるとか、蓮華座であるとか厳密に「規定」してしまうと、途端に主役の獅子の動きが止まってしまい、躍動感や感動が薄れてしまう気がする。
あくまでも主題(目的)が「天翔る獅子」であるならば、「それを可能にするためのデザイン」として下にあるものを「雲にたとえて」もいいのではないか。

もちろん、寅吉自身が「空を飛ぶ獅子」というイメージをまったく抱いていなかったという可能性はありえる。
蹲踞した狛犬ではつまらないから、獅子に何か驚くようなポーズをとらせたいと考えた末に、後ろ脚を高く持ち上げてみた……というだけだった。それを見た人たちが勝手に「すごい! 狛犬が空を飛んでいる!」「雲に乗っている!」と感じた(解釈した)だけだ、という可能性……。
そうであったとしても、それまで誰も挑戦したことのない造形を生み出そうとしたことは間違いない。であれば、あれを見た人がイメージした「天翔る獅子」「飛翔獅子」が表現や呼び方として定着するのは、悪いことではない。たとえ寅吉がそう意図していなかったとしても、「雲に乗って空を飛ぶ獅子」と評されることを、寅吉自身、喜ぶのではないか。

芸道や芸術の修業における段階を表す「守破離」という言葉がある。
」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。(デジタル大辞泉より)

仏教では「習絶真」という言葉がこれに近い。
寅吉にとって、飛翔獅子の考案は、守破離の「破」から「離」に相当するものであった。それは確かだ。

思うに、寅吉の師匠である利平は、寅吉よりずっと自由人だった。利平に比べたら、寅吉はむしろ儀軌を重視する保守的な一面も持った人だった。
しかし、自由を愛した利平も、獅子を飛行させることはできなかった。アイデアはあったかもしれないが(そのアイデアを寅吉に語っていた可能性は大いにある)、彫り上げることはできなかった。
寅吉は、並外れた努力と技術で、それを形にしてしまった。……そういうことだ。

残念なのは、利平が寅吉の飛翔獅子を見ることなくこの世を去ったことだ。生きていたら、飛翔獅子を完成させた寅吉にどんな言葉をかけただろうか。

謎の飛翔獅子

矢吹町中畑字根宿の八幡神社には、後肢に支えのないアクロバティックな飛翔獅子がいる。

根宿八幡神社の飛翔獅子 明治41(1908)年。石工名なし


明治41(1908)年旧8月という銘があるが、石工の名前がない。
間違いなく寅吉の工房で彫られていると思うが、寅吉の作ではない。作風がまるで違うし、このとき寅吉はすでに64歳で、八雲神社の燈籠(「福貴作小松布孝六十五年調刻」の銘)にかかりきりだったはずだからだ。
極めて端正な顔とスマートな体躯。これは一体誰が刻んだのだろうか。
私の推理としては、当時まだ20代だった和平か、和平の同僚であった(?)岡部市三郎、あるいはこの二人の合作ではないか。
和平や市三郎以外の腕の立つ職人が石福貴にいたのかもしれない。

これは、「飛翔獅子を後肢に支えをつけないで設置できるのか」というテーマ(タブー?)に挑戦した作品であろう。
そういうことをやろうと思うのは、若く、反骨精神旺盛なときだと思う。守破離でいえば、「破」であがいている時期か。
老境に入って、自分の石工人生を振り返りつつあった寅吉は、弟子がそういう生意気な挑戦をすることについて黙って見守っていたのかもしれない。
あの飛翔獅子を彫ったのが和平だとすれば、後に「やはりあれは無茶だった。師匠が完成させた形を受け入れよう」と改心して、なおかつ「自分にしか彫れない飛翔獅子」を生み出そうと試行錯誤した結果、石都都古和気神社の親子獅子以降の傑作が生まれたのではないだろうか。

……とまあ、過去の物語をいろいろ想像しながら、目下、小説版『神の鑿』上巻を執筆中。
勉強することが多すぎて、寅吉や和平が登場するまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。



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