人形作家・鐸木能子のネット葬2018/01/09 17:31

銅鐸をモチーフにした異色の人形

母親を「ネット葬」で送る

古いネガフィルムの中から、こんなのが出てきた。
なんともおどろおどろしいと感じるのだが、中には「これ、いい! 好きだ」という人もいて、感性というのは本当に様々だなあと思う。
↑これはお袋(鐸木能子)が人形制作を始めた頃、「銅鐸を題材にした人形を作ってみる」と言って作ってしまったもの。
写真だと分からないと思うが、表面は革(バックスキン)で、桐の木を彫ったものに木目込みして、その革の上から着色を施している。
人形とは何か、自分が作る人形はどうあるべきなのか……と、悩んでいる時期の興味深い作品。

そもそもお袋はなんで人形作家をめざしたのだろう。
「何か一つ、一生をかけて追求するものを見つけたい」と言って始めたのだが、そうなるまでにはいろんな紆余曲折があった。

もうすぐ出る本『医者には絶対書けない幸せな死に方』(講談社プラスα新書)の中で僕は、
死者を弔うという行為は、気持ちをどれだけ寄せられるかが大切であるはずです。であれば、時間を置いて「偲ぶ会」を宗教色なし、会費制で行うなどのほうが、参加者の心に残る、意味のある会になるように思います。
 それも大変なら、メモリアル動画をYouTubeにアップして、離れた人でもそれを見ながら死者との思い出や死者への敬意を持つ時間を作れる「YouTube葬」はどうでしょう。

……と書いた。
その精神で、お袋の人生を少しだけ振り返ってみたくなった。

人形作家・鐸木能子の生涯

お袋・鐸木能子は、昭和3(1928)年3月に群馬県の旧佐波郡伊勢崎町の蝋燭問屋・細野智之助の4女(7人兄弟の6番目)として生まれた。
母親は香といい、福島県白河の出身。奥の細道や一遍上人絵伝に出てくる「白河の関」の関守であった石井家とは親戚関係で、小峰城のお姫様で、子供の頃に棚倉城に移されたとかなんとか……そのへんの話はどうもはっきり分からないが、ともかく武家の娘だったことは確か。
子供の頃はよく「よしみつは時代が時代なら、侍大将として敵軍に突っ込んでいかなければならなかったのよ。なにを泣き言言ってるの!」と叱られたものだ。

父・細野智之助は伊勢崎で2番目の金持ちで、屋敷は広大で、門から母屋まで歩く間に使用人の家が両側に何軒もあって……というような話も、子供の頃はよく聞かされていた。
ところが父親が亡くなってからは、武家出身の母親が商売にまったく疎いお嬢様だったため、たちまち金を騙し取られて無一文になり、白河の白坂というところに開拓農民として移り住んだ。
父親代わりとして妹たちを育てていた長男は出征し、ボルネオ島で通信兵をしていたときに現地妻を作り、娘が生まれたが、その後、捕虜になり、妻子とは離ればなれになった。
帰国後は開拓農民として白坂の土地を開墾し、その土地(2町7反歩と聞いている)を払い下げてもらい、農業をする傍ら、教員免許を取って地元の小学校の教師として働いた。結局、ボルネオ島に残してきた妻子には二度と会うことはなかった。

お袋は5人の姉妹の4番目で、早くに死んだ父親の記憶はほとんどなく、長兄が父親代わりだった。貧乏だったので上3人の姉はみんな尋常小学校どまり。兄弟の中では初めて女学校まで行かせてもらったらしい。(ちなみに次兄は兄弟の中でいちばん頭がよかったが、病弱で、結婚後、娘を1人もうけた後に死亡)
お袋は上京して聖路加女子専門学校に学び、看護師の資格を取った。
そのときの恩師が有名な日野原重明氏(故人)で、戦時中は聖路加国際病院に担ぎ込まれる怪我人たちの手当や看護をしていた。
聖路加病院は立教大学と同じく、日本聖公会(イギリス聖公会の日本バージョン)の系統で、その影響で日本聖公会で洗礼も受けた。
その影響が強くて、若いときから西洋美術やキリスト教文化に強い憧れ(一種のコンプレックスかもしれない)を抱いていたようだ。

終戦後は立教女学院に就職。その後、看護師として白河市の病院に勤務。
そのとき、結核病棟に入院していた僕の父親(実父)と、看護師と患者として知り合い、結婚する。
実父は福島県の職員で、林業担当だった。犬と演歌と森が好きだったらしいが、そのことは大人になるまで知らなかった。
結婚後、白河の病院を辞めて、福島市に移り、福島大学附属中学に養護教諭として就職。そこで僕が生まれた。このときお袋は27歳。

20代終わり頃のお袋

その後、附属中学に今の親父(養父)鐸木經彦が理科の教師として赴任してきた。
で、親父はお袋に一目惚れしたらしく、同僚であるお袋に熱烈なラブレターもどきを書いて手渡したそうだ。
その話はお袋から聞いたが「子持ちの人妻である同僚にラブレターを渡すなんて、一体この人は何を考えているのか、って呆れたわよ」と言っていた。

お袋は附属中学の同僚である音楽教師から絶対音感の話を聞き、まだ2歳だった僕に絶対音感をつけさせようと、福島市内で適任者を探す。探し当てたのは市内の修道院にいたカナダ人シスターで、僕はそこに通って音感教育を受けた(当時の記憶はほとんどない)。

当時お袋が附属中学で影響を受けたものに「立体版画」というのもあった。
これは普通の版画のように版木に紙をあてて転写するのではなく、インクをつけたローラーを版木の上に転がし、そのローラーをそのまま紙の上に転がして、ローラーに残ったインクの濃淡を転写する、というもの。普通の版画とは違って、左右反転して彫る必要はない。
考案者は泉田さんといったかな。美術教員だったのか、課外教室の講師のような立場で附属中学に来ていたのかは知らないが、何年もの間、立体版画の年賀状が届いていた。
お袋も用具一式を購入し、年賀状は毎年その「立体版画」だった時代がある。
当時から、美術に対する興味や情熱はかなりのものだったのだろう。

B型のお袋は自由な生き方を愛し、当時の言葉で言えば「職業婦人」であることに大変な誇りを持っていた。
附属中学は国立だから、同じ公務員でも県の職員だった実父よりも給料がよかったという話も何度も聞かされたものだ。
実父は演歌が好きで、ギターの弾き語りはセミプロ並みだったらしい。でも、お袋は演歌を「下品なもの」としか見ていなくて、僕にはクラシック音楽を聴かせようとした。
そういうところも含め、お袋と実父は性格も趣味も合わず、僕が4歳くらいのときに離婚する。
当時、実父は出張先の新潟に愛人がいて、お袋はお袋で親父(養父)から言い寄られていて、離婚は時間の問題だったのだろう。
両親が離婚したときのことは少しだけ覚えている。
  1. お袋から「離婚してもいいか」と訊かれたので「いいよ」と即答した
  2. 仲のよかった飼い犬が実父と一緒に去って行くのが悲しくて、実父が出ていくトラックに向かって「クマ~ クマ~」と何度も犬の名前を呼びながら泣いた
  3. 通っていた幼稚園で、ある朝、園児全員の前で園長先生から「今日から添田くんは細野くんになります」と紹介された
この3つは特に記憶から消えないで残っている。

その後、お袋は今の親父と再婚(親父は初婚)し、2人で教師を辞めて上京した。

上京後、親父は学研の編集者として途中入社し、お袋は日本看護協会に事務職員として就職した。そこで、看護協会出身の女性代議士に見込まれ「私の後継者はあなただ」と言われたそうだ。
お袋もそれに応えて、ゆくゆくは代議士として政治の世界に入るつもりでいた。
しかし、物心ついたときからずっと鍵っ子だった僕は、毎日、長屋で1人留守番をしている生活に耐えられず、ある日、芝居を打った。
夜遅くなっても帰ってこない両親を待ち、台所の床の上で縮こまって寝たふりをしたのだ。
この姿を見れば親として少しは気持ちが揺らぐのではないか……と。
その夜、2人は一緒に帰ってきた。
「よしみつ、ここでお腹空かせたまま寝ちゃったのね」
「かわいそうに……」
……みたいな会話を、僕は寝たふりをしながら聞いていた。この頃から知能犯だったのだ。
作戦はまんまと成功した。
お袋はしばらくして日本看護協会を辞めた。
「あのときやめていなければ、今頃は政治家だった」という、半ば恨み言のような言葉を、僕は大人になってからも何度か聞かされた。

ところが、これでお袋が戻ってくると思ったら、そうはいかなかった。
お袋が妊娠したのだ。
妊娠したとき、お袋は僕に「やっぱりパパの子も生まないと、パパに悪いから」と言った。自分の連れ子だけを育てさせるのは気が引ける、ということだ。
ところが、親父のほうはそんな風には考えていなかったようで、自分の血を引いた娘が生まれても、あまり興味を示さず(赤ん坊というものにどう接していいか分からなかったようだ)、ひたすら会社人間として夜中まで働き続けていた。

妹の赤ん坊時代、我が家は地獄のようだった。
異常なまでにカンの強い赤ん坊で、一日中大声で泣き続ける。声が涸れ、ひきつけを起こしたように顔が紫色になっても泣き止まない。
ようやく寝たかと思うと、ほんのちょっとした物音で目を覚まして、途端にまた大声で泣き続ける。
おかげで、我が家ではテレビも音を出して見ることができず、イアホンアダプターというイアホンを3本分岐させてつなぐ器具を買って、イアホンでテレビを見ていた。
それでも、うっかりイアホンが引っこ抜けてテレビから音が出た途端にギャ~と泣き始める。途端にお袋が般若のような顔になって「何やっているの!」と僕に向かって怒鳴る。一家全員が極度の育児ストレスになって、暗い家庭になった。
こうした経験もあって、僕は、自分は絶対に子供は作らないと、小学生のときにすでに決めていた。(実際、そうした)

その地獄のような日々がようやく終わり、妹が泣かなくなった頃、お袋は今度は再就職ではなく、芸術の道へ進むと言い出した。
このまま専業主婦として一生を終えるなど考えられない。自分しかできないことを探して、一生それを追求する、というわけだ。
最初はリボンフラワーとかに手を出したりしていたが、すぐに先生を抜いてしまい「こんなものは一生かけてやるものじゃない」とやめて、その後に見つけたのが創作人形作家という道だった。
人間国宝の平田郷陽という人形師の作品に感銘を受け、平田氏が主宰する「陽門会」というグループの門を叩くが、平田氏がこれ以上、弟子は取らない方針だと知り、次に、陽門会のメンバーひとりひとりに弟子入り志願し、ようやく直弟子の一人・大谷鳩枝氏に弟子入りがかなった。

それからのお袋は、人形一筋だった。
大谷氏の下で10年、平田郷陽氏の秘伝である技法を一通り伝授され、マスターすると、大谷氏のもとを離れ、独立の道を探る。
最初は神奈川県展に応募したが落選。
入選作の展示を見て「あんな下手な作品が私の作品より上なはずはない」と、人形部門の審査員に直接電話をして「なぜ落ちたんでしょう」と問い質した。その勇気というか行動力はすごいなと思う。そういうところはまったく僕には遺伝しなかったのが残念だ。
お袋の気迫に押されたのか、審査員をしていた人形師は「あなたの作品は応募作の中ではいちばん優れていたけれど、私もやはりプロなので、自分の弟子たちを入選させてしまうのですよ。美術界というのはそういうものです」と、これまた正直に答えたそうだ。
それでもお袋は引き下がらない。「では、先生が所属しているグループに私も入れてください」と申し出て、しっかりその美術家グループに入会してしまった。
その会は日展系の会で、平田郷陽氏らの伝統工芸展グループとは対立、とまではいわないまでも、別系統だった。
お袋自身、人形に関しては日展よりも伝統工芸展のほうが格が上で、技術的にもすぐれた作家が集まっていると思っていたようだが、とにかくなんらかのグループに所属していなければ展覧会に入選できないのだから仕方がない、と割り切っていた。

お袋が人形作家をめざすきっかけは展覧会で平田郷陽氏の作品を見たことだが、今、ネットで「平田郷陽」を検索すると、平田氏の「生き人形」(生身の人間のようなリアルな人形)ばかりが出てくる。
平田氏は生き人形を作る人形師だった父親の後を継いだが、次第にアート志向になり、伝統的な木彫木目込み衣装人形の技法で「アートとしての創作人形」を追求するようになる。
お袋が感動したのはそうなってからの氏の作品だ。
「平田郷陽先生の若い頃の生き人形は、技術的にはすごくても、芸術とはいえない」
というようなことを、お袋はよく口にしていた。

日展に応募するようになってからのお袋は、自分が作る人形はどうあるべきかについて常に悩んでいた。
その時期の作品を撮った写真が少し残っていた↓



ほんとに悩んでいるなあ。
当時の作品を僕はいっぱい見ているけれど、一度も誉めたことはない。
「こういうのなら、彫刻やればいいじゃない」
「そもそもなぜ『人形』なの? 人形ってアートなの?」
というようなことを言って挑発していた。
そのたびにお袋は「そうねえ……」と言葉を濁していたように思う。
お袋の中でも「人形」とはなんなのか、という答えが明確には出ていなかったのだろう。

悩みながらも彼女は日展には毎年応募し続け、10年連続で入選も果たし、「日展会友」の資格も得た。
日展では伝統工芸的な人形は馴染まなかったので、「日展向けに」作っていた、ということもあるだろう。
その当時はバブル期とも重なり、お袋の人形は有名ホテルに100万円で買い上げられたりもした。
恩師である日野原重明氏を通じて、母校の聖路加看護大学にも1体「希望」という名の人形を贈っている。
聖路加看護大学の玄関ロビーでは、マントルピースとその上に「希望」と題した人形が来訪者を迎えています。(略)
マントルピースの上に飾られている人形は、昭和22年厚生科を卒業した鐸木能子(旧姓 細野)さんが本学の新校舎落成を祝い1998年(平成10)に贈呈して下さったものです。
鐸木さんは群馬県伊勢崎市の蝋燭問屋の生まれで、前学長 常葉惠子先生と同期生ですが、1965年以降人形作家になり日展会友、新工芸会員としてアーティスティックな創作人形を創る一方、伝統技法を生かした新しい気風の雛人形作家として活躍しました。
鳩を抱え、空を見上げている女性の人形像は、平和と希望を表現した作品で、伝統技法に加えた、鐸木さん独自の人形技法をみることができます。
Lukapedia: 聖路加看護大学 ともにつくる歴史事典 「由緒ある品々」より)

この頃の作品は写真を撮らずに売られていったため、今ではどんなものだったのか、僕の記憶も薄れてきている。
人形というよりは立体造形作品のようなものが多かった。そういうものに対して、僕はずっと疑問を抱いていた。
「こういうのを作るなら、木や石を彫り上げたもののほうがずっと力強いし、感動もある。粘土や布を使って作るようなものじゃないんじゃないか」と。
お袋は僕の酷評を否定はしなかった。そんなことは重々分かっている。でも、「大人の事情」があるから……ということだろう。
ただ、彼女の中での美意識や「芸術性」に対するセンス、理解力は揺るぎないものだった。
ダサい、つまらないと感じるものに対しては容赦なかった。その自信がどこからくるのかは分からない。
彼女の中では芸術的価値は100%自分の価値観で決まるものだった。
晩年、お袋を古殿町や棚倉町まで案内し、小林和平の狛犬を見せたが、手放しで興奮し、感動していた。
世に知られているかどうかは関係ない。いいものはいい。くだらないものはくだらない。自分の審美眼に適わないものは「全然ダメね」と、ズバッと切って捨てる。

そんなお袋が雛人形という活躍の場を見つけたきっかけは、所属するグループの先輩であった彫金の作家さんから言われた言葉だったそうだ。
「鐸木さんは人間国宝の平田郷陽さんの孫弟子でしょう? せっかく平田先生の秘伝技術を学んでいるんだから、それを生かさないのはもったいない。あなたは雛人形をやりなさい。雛人形はいいですよ。あれは食えるジャンルでもありますから」
そう言われたお袋は、平田郷陽氏の流れを汲んだ伝統工芸の技法で雛人形を作るという挑戦を始めた。

雛人形を作り始めた頃。髙島屋で展示できるようにもなった


それが成功し、お袋の雛人形を見て集まってきた弟子たちも抱え、「木の鐸会」というグループも作った。

雛人形は大きく分けると立ち雛と座り雛があり、立ち雛は木目込み、座り雛は衣装人形(衣装を着せた人形)が多い。
しかしお袋は自分が学んだ木彫木目込みの技法を座り雛にも取り入れようとした。
十二単の衣装を「着せる」のではなく、「木目込む」には手間と技術が必要になる。それまでは誰もそんなことはやっていなかった。
その技法は年々磨きがかかっていき、お袋もようやく「自分が築き上げた」と自信が持てる人形と向き合えるようになった。

1995年、神奈川新聞の記事(Clickで拡大)



木目込みで十二単の座り雛を作り始めた頃の作品

座り雛の十二単衣装を「着せる」のではなく「木目込む」ことに成功した



雛人形の歴史を振り返りながら、立ち雛にもいろいろなスタイルを取り入れようとした



雛人形を始めた頃は、10回入選すれば日展会友になれるから、ということで、日展への出品作だけは作っていたが、会友になった後は雛人形一筋になっていった。
晩年は、「今年のはいい出来よ。続けているとうまくなるものなのねえ」などと、嬉しそうに言っていた。

2007年5月。写真を撮ってくれと呼ばれたときのお袋
以下は↓そのときに撮ったもの。ほぼ遺作のようになってしまった








お袋は80になる直前、電話でこう言っていた。
「死ぬ前って、こんな気持ちなのね。でも、いい人生だったわ。そう思うでしょ?」

脳梗塞の兆候が現れて認知症状が顕著になり、脳卒中で倒れるのはそれからまもなくのことだった。

……とまあ、これがお袋の人生。

自己中心で、わがままで、周囲の人間を巻き込んで不幸にすることもあったけれど、死ぬまで好きなように生きたのだから、その点では幸せな人生だっただろう。
ただ、死に方は最悪だった。
こういう死に方だけはしてはいけない、させてはいけないということを身を持って教えてくれたお袋。
死んでだいぶ経つけれど、このページは僕なりの「ネット葬」かな。

今年も木の鐸会の雛人形が展示・販売されます
日本橋髙島屋美術工芸サロン(6F):2018年1月10日(水)~1月16日(火)
横浜髙島屋美術画廊(7F):2018年1月24日(水)~2月6日(火)
売れた作品は展示から消えていきますので、全作品が揃っている初日にどうぞ!
↑写真:木の鐸会代表・鐸木郁子の作品(日本橋髙島屋出展)



医者には絶対書けない幸せな死に方2017/12/19 11:04

『医者には絶対書けない幸せな死に方』

本当に「医者には書けない」のか?

『医者には絶対書けない幸せな死に方』(講談社プラスα新書)の発売まであとひと月になった(2018年1月18日発売)。
この本の企画を講談社に持ち込んでからすでに1年以上が経過している。
企画提案以降、何度も「テスト本」を印刷・製本した。最終版のpdfの奥付記録はこうなっている。
  • 2016年12月9日 テスト版原稿 Version1.0
  • 2016年12月19日 Version1.2
  • 2017年1月6日 Version2.0
  • 2017年1月8日 Version2.1
  • 2017年2月23日 Version3.0
  • 2017年3月1日 Version4.0
  • 2017年3月11日 Version4.1
  • 2017年7月15日 Version5.1  入稿前校正用
  • 2017年7月21日 Version5.2
  • 2017年7月26日 Version5.3 
  • 2017年9月10日 Version6.4
  • 2017年10月16日 Version7.0  初稿戻しバージョン
  • 2017年10月26日 Version 8.0 校正確認バージョン
  • 2017年12月15日 Version8.1 出版前最終確認バージョン

「医者には書けない」と銘打っているからには、その根拠を説明する責任があるかもしれない。
もっとも、このタイトルが最終的に決まったのはつい先日で、僕が決めたものではない。
企画を持ち込んだ段階で僕が仮につけていたタイトルは、
死に時・死に方・死んだ後
というものだった。
しかしすでにその段階で、まえがきには、
「死に方」についての本は医療関係者や宗教関係者によって書かれることが多いのですが、私はそのどちらでもありません。しかし、医療や宗教の現場とは無関係だからこそ、体裁を繕わず、本音で、踏み込んで、あるいは一線を「踏み越えて」書けることがあります。
という一文は入っていた。

企画会議は通らず、ペンディング扱いになった。上のテスト本奥付記録で3月から7月まで4か月空いているのはそのためだ。
編集のTさん(僕は彼には全幅の信頼を置いている)は編成会議には「死ぬ技術」というタイトル、コンセプトで提案したそうだ。
これには脱帽した。なるほど「死ぬための技術書」というコンセプトか……。それなら確かに「医者や宗教者には書けない」だろう。
この「技術」という大胆なキーワードを得た上で、以後、何度も書き直しを重ね、しぶとく食い下がった。それでようやくGOとなり、入稿を始めたのが夏。それから校了までも、大きな書き直しを何度も重ねた。

人の終末期においては、苦しみを加えるだけの延命治療はやめて「自然死」をうながすべきだ、という意見を表明する医師は増えている。
僕の手元にある参考書籍の著者をざっと拾ってみても、石飛幸三、長尾和宏、中村仁一、久坂部羊、西村文夫……みんな医師である。
内容はどれも納得で、僕もずいぶん参考にさせていただいたし、彼らの姿勢には心から敬意を表したい。

自然は、私たち生き物が、穏やかに最期を迎えられるようにセットしてくれています。それを人工的な延命措置を施して自然の摂理に逆らおうとすると、生き物に与えられた自然の恩寵(神の恵み)を受けられなくなります。
身体が最後に代謝を終えるのなら、飛行機が着陸するのなら、もう水分も燃料も無理に補給することはない、欲しくなくなるのですから食べなければよいだけ、そのうち眠くなって夢見心地、老衰の最終章はそんな姿です。
「平穏死」を受け入れるレッスン 自分はしてほしくないのになぜ親に延命治療をするのですか? 石飛幸三

……「医者には絶対書けない」どころか、すでに多くの医者が書いていることじゃないか、と言われそうだ。
確かに、「自分は医師として無理な延命治療には反対である。なぜなら……だからだ。この実態をあなたも知った上で、自らの死に向き合ってほしい」……という趣旨の本は多い。
彼らは、終末期患者と接した経験をもとに「こんな死なせ方はよくない」「もっと人間らしく、穏やかに、自然に死なせるべきだ」という「意見表明」をしている。しかし、では、具体的にどうすればいいのか、という「技術」についてはあまり語っていないように思う。医療の現場から発信できる情報は案外限られているし、実際の医療制度の問題などにまで踏み込むのは現役の医師として躊躇われるということもあるだろう。

「自然死がいい」と言われても、医者ではない我々にはできないことがたくさんある

こうした本を書いているあなたのような素晴らしい医師がそばにいてくれるならいいけれど、実際には在宅看取りに理解を示し、家まで来てくれる訪問医師はほとんどいない。
「あなたの街のホームドクター」を標榜している、いつもにこやかで優しいかかりつけのお医者さんも、いよいよ最後になると「ここから先はうちでは無理なので、ちゃんとした医療措置のできる急性期病院へ」と言って、長い間診てきた患者を急性期病院に送り込むことが多い。
その大病院では、患者が入って来るなり、医療点数の高い検査や投薬を徹底的にやり、それで死期が先送りされると、今度は入院基本料が下がって「まるめ」にされてしまう90日前には一転して追い出しにかかる。

介護施設にしても、自分のところで看取りまでするというポリシーを持ったところは極めて少なく、最後、食べられなくなったら病院へ送り込むことがほとんどだ。石飛さんのような自然死をテーマにしている医師が専属で常駐している施設など、日本中探しても数えるほどだろうし、見つかったとしても人気が高くて簡単には入れない。
また、石飛さんがいるのは特養だが、今は要介護3以上じゃないと特養には入れない。石飛さん自身、言っている。
特別養護老人ホーム(特養)の入所は、厚生労働省が要介護3以上に定めたので、衰えが進んで重症化している人ばかりが入ってくるようになりました。以前は、認知症で徘徊する人や「帰りたい、帰りたい」と騒いだりする人など体力的に元気な人がいましたが、いまはそんな元気な状態で特養に入ってくる人は珍しくなりました。「平穏死」を受け入れるレッスン

要介護3というのは、ざっくりいえば、排泄、食事、入浴など、日常の行動ほぼすべてに介助が必要で、認知症の程度も重い状態だ。そういう状態になって初めて特養に入る「権利」を得られるわけで、今、普通に生活できている人が考える「幸せな死に場所」とはかけ離れているだろう。

頭はしっかりしていても金がない老人が安心して過ごせる(穏やかに死ねる)場所や環境を見つけるのは極めて困難なのだ。

金さえあれば快適な施設は見つかるかもしれない。政治家や有名人などセレブ御用達病院として有名な聖路加国際病院と提携している「聖路加レジデンス」は、65歳から79歳まで入居した場合、2億200万円~5億5200万円(税抜き)という金額が提示されているが、もちろん、一般人がそんな金を持っているはずもない。
貧富の差が広がり、年金や福祉関連の制度が崩壊していく今後、「幸せに死ぬ」ことはますます難しくなっていくだろう。医者が書く「死に方論」では、そうした視点からの具体的提言も乏しい。

また、自分では、病院には絶対に行かず、家で静かに死ぬ覚悟ができていたとしても、いざとなると家族や親族がそれを許さない可能性が高いだろう。その危険を回避するにはどうすればいいのか?

その他もろもろ、「穏やかに、幸せに死ねない」要因が山のようにあって複雑に絡み合うのが普通だ。それを解決していくための個々の技術については医者たちはあまり教えてくれない。
さらには親の認知症問題や、老後破産の問題などが重なり、解決しなければいけない問題は次から次へと増えていき、「終末期の延命治療を拒否する」という話だけでは対応できない。


『医者には絶対書けない幸せな死に方』では、現時点で考えられる限りの問題点を洗い出して整理し直し、その対応策──「技術」について、極力「具体的に」提案していった。
医者や病院とつき合う技術幸せに死なせてくれそうな施設を見つける技術認知症につぶされない技術老後破産せずに楽しく生ききる技術、そして最後には「自ら死ぬ(自殺の)技術」にも言及している。

本書を何度も何度も書き直している期間は、父の認知症と老後破産に向き合い、介護生活を実際に経験していく期間でもあった。医療や介護の現場で働く人たちの生の声にも数多く触れることができた。
介護保険制度や介護施設関連の裏事情については、ルポライターなどによる「告発もの」はよく目にするが、それを知った上で、具体的にどんな解決策があるのか、どうやって「死に場所」を見つければいいのかを書いている本は少ない。もちろん、医者が書いた「死に方の本」も、その方面のことまでは言及していない。
そうしたもろもろが「医者には絶対書けない」部分なのだと思っている。

本書の内容については⇒こちら(http://takuki.com/shinikata.html)をご参照ください。





医者には絶対書けない幸せな死に方
「医者には絶対書けない幸せな死に方」(講談社プラスα新書)
2018年1月18日発売  内容紹介は⇒こちら

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矢部宏治の憲法観2017/10/15 15:35

■矢部宏治の憲法観(オレンジ本よりまとめ) 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(オレンジ本)のP.184-186部分を要約

「日本国憲法の真実」を極限まで簡略化すると、
  1. 占領軍が密室で書いて、受け入れを強要した。
  2. その内容の多く(とくに人権条項)は、日本人にはとても書けない良いものだった。

  • 占領軍が敗戦国の憲法草案を書いて、それを日本人自身が書いたことにしたことで、憲法という国家の根幹に大きな闇が生まれてしまった。
  • もしあのとき日本人の手で憲法を作ったら、その内容が現在の日本国憲法に比べてすぐれたものになる可能性はゼロだっただろう。
  • しかし、独立時に一度、GHQ憲法草案の良い点をできるだけ生かしながら、自分たちの手で作っておけば、少なくとも現在のように、立憲主義を否定する、まるで18世紀に戻ったような改正案を掲げた与党が選挙で圧勝するという、信じられないような状況は避けられたはず。
  • 近代憲法とは、いくら内容が良くても、権力者から与えられるものではない。(政府が作成してもいけない)
  • 憲法についての日本の悲劇は、「悪く変える」つまり「人権を後退させよう」という勢力と、「指一本触れてはいけない」という勢力しかいないこと。「良く変える」という当然の勢力がいない。もちろんそれは、変えるとかならず悪くなってしまうという現実があったから。
  • 密約のせいで、戦争ができるようになった「日本軍」を、自分たちの指揮の下で使いたいというのは米軍の過去60年の欲求。それを食い止めるために「指一本触れてはいけない」という護憲神話がこれまで戦術論として有効だったことは事実。しかし、そうして問題を先送りできる時期は過ぎた。
  • 2014年7月、安倍政権は歴代自民党政権が自粛してきた「集団的自衛権の行使容認」という解釈改憲を強行した。このままでは、おそらく日本が海外で、アメリカの侵略的な戦争に加担することを止められないだろう。

結論:
問題は、私たち日本人は1946年も、そして2012年(自民党改憲案)も、国際標準のまともな憲法を自分たちで書く力がなかったということ。個人でいくら正しいことを言っている人がいても意味がない。そうした意見をくみあげ、国家レベルでまともな憲法を書く能力が、今も昔も日本にはない。その問題を、これから解決していく必要がある。(p.190の結び)


枝野幸男らが主張する「改憲に反対するわけではない。しかし、安倍政権のもとでの改憲には絶対反対」というのも、結局はこういうことなのだろう。
















矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読んだ2017/10/15 12:36

矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読んだ。
筆者の頭のよさと勇気に脱帽である。

あとがき部分が特に印象に残ったので、一部を抜粋・要約してみる。


野田首相の自爆解散によって民主党が壊滅し、安倍政権が誕生してから、日本はふたたび戦前のような全体主義国家にもどろうとしているかのように見える。
(略)

GHQが日本国憲法の草案を書く3か月前(1945年11月)、当時42歳だったマイロ・ラウエル陸軍中佐は憲法改正のための準備作業として、大日本帝国憲法(明治憲法)を分析するよう命じられる。
1か月後、彼は「日本の憲法についての準備的研究と提案」というレポートを司令部に提出した。その結果は次の通り。

「過去の日本における政治権力の運用を分析した結果、数多くの権力の濫用があったことがわかった。そうした濫用が軍国主義者たちに日本政府を支配させ、国政を私物化することを可能にしてきた。
 日本に民主主義的な傾向がしっかりと根づくためには、次のような悪弊を是正することが必要である。

  • 国民に、きちんとした人権が認められていない
  • 天皇に直結し、国民の意思を反映する責任のない憲法外の機関がある
  • 裁判所が裁判官ではなく検察官によって支配されている。両者はともに天皇の意志の代理人である
  • 政府のあらゆる部門に対して、憲法によるコントロールが欠けている
  • 政府が国民の意思を政治に反映させる責任を負っていない
  • 行政部門が立法行為をおこなっている


↑この「軍国主義者たち」あるいは「天皇」を「安倍一強」に替えれば、そのまま今の日本の状況を表しているのでは?

政治権力の濫用が安倍たちに日本政府を支配させ、国政を私物化することを可能にしてきた。
  • 安倍に直結し、国民の意思を反映する責任のない憲法外の機関がある(官邸による官僚支配)
  • 政府のあらゆる部門に対して、憲法によるコントロールが欠けている(憲法解釈変更による集団的自衛権容認)
  • 行政部門が立法行為をおこなっている(「私は立法府の長です」)

……で、矢部氏の憲法に対するスタンスは、枝野幸男氏にとても近いのではないか、とも感じた次第。
とにかく今の状況を「すこしでもまともな方向に」向かわせるよう、国民も努力しなければいけない。
衆院選2017。こんどこそ「最後のチャンス」だろう。


















『阿武隈梁山泊外伝』デジタル版を出版2016/09/27 01:32

阿武隈梁山泊外伝 


季刊「東北学」で連載が終了した『阿武隈梁山泊外伝』の補完版をデジタル出版しました。
Pubooはこちら

Kindleでももうすぐ出版されます。

小野田寛郎さんはサイコパスだった2016/03/18 21:36

左から、帰国直後最初の手記本(講談社、1974年)、最初の手記のゴーストライター・津田信氏の暴露本(図書出版社、1977年)、最初の手記本を再刊(日本図書センター、1999年)

フェイスブックの今日は何の日的な書き込みで、「57年前の今日(1959/03/15)、フィリピン、ルバング島の小野田寛郎少尉と小塚金七一等兵が日比合同捜査隊に発砲する」というのを目にした。
横井庄一さん、小野田寛郎さんの帰還はテレビで大々的に中継されていたから鮮明に覚えている。でも、小野田さんと一緒に潜伏していた日本兵が複数いて、仲間は戦後だいぶ経ってから銃撃戦の中で死んで、小野田さんだけが戻って来たことは、記憶としては残っているけれど、詳細については知らないことが多いと気づいた。
そこで、実際はどういう経緯だったのか、調べてみることにした。

時系列でまとめると、
  • 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。装備もまともになかった日本軍はあっという間に壊滅状態で、一部兵士が山の中に逃げ込んで潜伏。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と一緒に4人のグループで山奥に潜伏。
  • 1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。
  • 1945年12月 二度目の勧告ビラを確認。山下奉文将軍名による降伏命令と参謀長指示。小野田らはこれも敵の謀略と断定して無視。
  • 1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけに、潜伏していた他の兵士二人が投降。この二人の協力で同年3月下旬まで計41名の日本兵が森を出た。
  • 1949年9月 最後まで残っていた小野田グループの4人のうち、赤津一等兵が耐えきれず、小野田グループからの脱出を3回くりかえすも島田伍長にとらえられて連れ戻され、4度目にしてようやく脱出に成功。森を出てフィリピン軍に保護される。赤津の証言により、小野田、島田、小塚の3人がまだ生存して潜伏していることが分かり、フィリピン軍はさっそく投降勧告ビラを島内にばらまいた。赤津もそのビラに「投降した私をフィリピン軍は友達のように迎えてくれました」と記したが、小野田ら3人はやはり無視。その後もフィリピン軍は飛行機からビラを撒き、スピーカーで呼びかけたが3人は潜伏し続ける。一般の日本人はそのときまだフィリピンに入国を禁止されていた。
  • 1952年1月 日比賠償交渉が始まり、日本政府団に随行した新聞記者団が初めてフィリピンに入国を許可される。同年2月、元陸軍中佐がフィリピン空軍の飛行機に乗って島上空を旋回し、拡声器で呼びかけ。小野田、島田、小塚の家族から託された手紙や家族の写真をのせたビラを撒いたが、やはり無視される。
  • 小野田らの島民襲撃、略奪が続くため、内政不安定で手が回らなかったフィリピン政府も「残留兵討伐隊」を送ることを表明するが、最初の救出隊帰国後も現地に残って3人の救出に尽力していた辻豊朝日新聞記者が大統領に討伐隊派遣の延期を直訴し「私がルバング島に渡って投降勧告にあたりたい」と申し入れた。辻記者はフィリピン軍の協力で島に入って懸命に呼びかけた。知っている限りの日本の歌を歌い、上半身裸になって「この白い肌を見てくれ。日本から来た日本人だ」と叫んだが、小野田はそのすぐそばにいて見ていたが無視。
  • 1954年5月7日 共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊を自分たちの討伐隊と勘違いした小野田グループ3人が部隊に発砲。応戦したレンジャー部隊の弾にあたり、島田伍長が即死。小野田、小塚の二人はなんとか逃げた。
  • 島田伍長の遺体確認のために厚生省(当時)の係官と小野田少尉の長兄・敏郎(としお)、小塚一等兵の弟・福治が島に入り、呼びかけ、ビラ撒きを行ったが、小野田・小塚の二人は出てこなかった。
  • 1959年 小野田・小塚による島民殺傷や略奪行為が続くため、フィリピン政府が大規模な討伐隊を派遣することを決定。それを受けて、日本では家族や友人らが救出活動を呼びかけ、国会でも全議員一致で救出を決議。同年5月に小野田敏郎(寛郎の長兄・医師)、小塚福治(実弟)らを含む救出隊が島内で徹底的な捜索を開始。しかし、小野田・小塚の二人はついに現れず、11月には日本政府、フィリピン政府が共同で「小野田元少尉、小塚元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」と表明。
  • 1972年1月24日 グアム島で元日本兵・横井庄一が発見されて日本中をゆるがす。
  • 1972年10月19日 ルバング島で小塚金七がフィリピン国家警察軍によって撃たれ死亡。原因は小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたこと。小塚の遺体には蛮刀で切りつけた傷跡が多数残っていたため、直接の死因が銃弾によるものか、その後、住民によって斬りつけられたことによるものかはっきりしない。マニラ警察の検視書には「下顎、咽頭、臼歯、腕骨の破砕。顔面、胸部、右腕の弾着傷による衝撃と出血」と記されている。
  • この事件で小野田の生存が確認され、厚生省はただちに小野田の兄弟、同期生ら大勢を引き連れた捜索隊を派遣。捜索は翌1973年4月まで三回にわたって行われたが、小野田は最後まで姿を現さなかった。このとき、捜索隊の携帯品をのせた飛行機が転覆炎上し、装備品すべてを消失するという事故も起きた。このときの捜索総費用は1億円(当時)にのぼった。
  • 1974年2月 鈴木紀夫という青年冒険家?が単身ルバング島に渡り、小野田と対面。写真も撮り、「上司である谷口少佐の命令があれば山を出る」と約束させる。その写真は2月28日に日本のテレビで放映された。
  • 1974年3月9日 約束の場所に小野田が姿を現し、谷口少佐からの命令を受け、投降。
  • 1974年3月12日 日本航空特別機で帰国。

……となる。

小野田さん帰国後、各出版社、新聞社は彼の手記出版権をなんとかとろうと争奪戦を繰り広げ、講談社が獲得に成功した。
そのときのゴーストライターが作家の津田信氏で、津田氏はその後、あまりにもひどかった出版までの経緯や内容の歪曲を黙っていることができず、1977年に『幻想の英雄 小野田少尉との3ヶ月』という本を出版したが、それほど話題にはならなかった。
「ゴーストライターの仁義を忘れた恥ずべき行為」「私怨や主観が入りすぎている」などの批判も受けた。

その本『幻想の英雄 小野田少尉との3ヶ月』は絶版後、彼の子息によってネット上に長年無料全文公開されていたが、僕はまったく気づかなかった。
今回、気になって、Kindle版 を購入して読んでみた。

上記の時系列まとめも、主にこの本の内容をもとに、ネット上で検証しながら書いたものだ。

左はKindleペーパーホワイト、右はiPad mini


アマゾンの読者評を読んでいたので、正直どうなのかな……と思って読み始めたのだが、想像以上にスリリングで、一気に読んでしまった。
本を一気読みしたのは何年ぶりだろうか……というくらい面白かった。

本書は津田氏がゴーストライターを引き受け、そのことを後悔しながらも週刊誌連載を続けて、それが単行本化されるときにも様々なトラブルがあって……という体験談として書かれている。だから、一般的な読者には、津田氏の心情を細々と書き綴った部分などはうるさいと感じるかもしれない。
しかし、僕は津田氏と同業で、若いときにはタレント本のゴーストライターも経験している(どういうわけかそのタレントたちは今ではネオコンや保守政治家になっている)。
だから、津田氏の心情はよく分かるし、彼が書いていることに私情や「恨み節」がたくさん混ざっていても「嘘」はなさそうだということが理解できる。
また、彼はただ感情的に「小野田寛郎は……」と批判しているのではなく、きちんとその理由や背景を、事実に即して説明している。

最初に断っておくと、僕はこの本を根拠に小野田さん個人の人格批判や犯罪行為の断罪をするつもりはない。小野田寛郎という人物の生き方を通じて、当時の社会情勢や時代の空気をより正確に知りたいのだ。さらには、自分があの時代に生きていたらどうなっていたかを想像し、人生を見つめ直してみたいのだ。

また、なぜ小野田さんブームが起きたのか、彼が英雄的に取り上げられ、今でもほとんどの日本人の小野田寛郎像は「偉人」的なものとして根づいてしまっているのかについての分析も、自然とすることになった。
メディアによる意識的、無意識的なコントロールは、今も昔もあった。ただ、あの頃は今ほどは意識することがなかった。若かった僕には、他にやることがいっぱいあったし、小野田さん帰還のニュースは週刊誌ネタ的なものだった。
でも、還暦を過ぎて死を意識する毎日である今は違う。
知らないでいることが幸せなこともあるが、知らないまま死ぬのはつまらないとも思う。
この本は、まさにそうした部分でインパクトがある本だった。

以下、『幻想の英雄 小野田少尉との3ヶ月』を読んで、特にインパクトのあった部分、興味深かった部分を並べてみる。

小野田さんは現地の住民たちを「人」と思っていなかった

ネット上の「小野田寛郎の人物まとめ」的な書き込みを見ると、基本的な部分での誤解がたくさん見うけられる。
代表的なのは、小野田さんらは戦後も任務を完遂するために島に潜伏して「アメリカ軍と戦った」という誤解。
その際の「銃撃戦」で、仲間が次々に殺され、最後に残った小野田さんはひとりでも「戦いを続けた」というようなもの。

まるで、大勢の武装した兵士を相手に、三八銃だけで応戦したゲリラ戦士のようなとらえ方をしている人が多いのだが、調べていくとまったく違っていた。
小野田さんらが殺した相手の多くは武器を持たない現地の住民であり、武装兵士ではなかった。
4人のグループのうち、赤津一等兵は最初にグループを抜け出して保護された。残った3人のうち最初に撃たれて死んだのは島田伍長で、1954年5月7日のことだが、このときの相手は、共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊だ。
このレンジャー部隊は残留日本兵掃討のために島に来たわけではなく、戦闘演習をするためだった。
演習していたところ、突然何者かに銃撃されて驚いたレンジャー部隊が応戦し、そこで島田伍長が撃ち殺された。

二人目の小塚一等兵はフィリピン警察軍に撃たれたが、その原因は、小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたことだった。
二人は「敵」の食糧強奪、急襲、放火は「遊撃戦」の基本戦法だと教え込まれていたため、現地住民をたびたび襲って恐怖に陥れていたが、現地住民にしてみたら食糧や日用品を奪われるだけでなく、突然銃で殺され、収穫した米に火をつけられるのだからたまったものではない。
小塚さんの遺体には蛮刀で切りつけた傷跡が多数残っていたという。これは銃で撃たれて倒れた後に、現地住民が寄ってきて、今までの恨みを晴らすために斬りつけたのだろうといわれている。
家族を理不尽に殺され、なけなしの蓄えに火をつけられて燃やされたりしていた人たちの恨みはそれだけ深かった。

小野田さんらが現地住民の食糧を奪う程度でやめておけば、展開はずいぶん違っていただろう。

以下は『幻想の英雄~』からの抜き書きだ。

 彼は島民たちを「ドンコー」と呼んだ。
 落語に出てくる熊公、ハチ公と同じように、それが土民を指すときの日本兵の習慣だったらしい。だが、小野田寛郎がドンコーとくちにするとき、そこには熊公やハチ公にこめられた親しみはみじんもなく、敵意と憎しみしか感じられなかった。彼があまりにもしばしばそれを口にするので、
「寛郎、ドンコーはよくないな」
 格郎*も注意したが、
「ドンコーはドンコーです」
 寛郎はゆずらず、あんなやつらを日本人と同格に扱うわけにはいかない、という意味のことを口汚くまくしたてた。その口ぶりから察すると、彼は島民を動物並みにしか見ていないようであった。
(略)
「ドンコーのやつら、われわれの邪魔ばっかりしやがって」
 彼がなおも言い募ったとき、さすがにたまりかねたのか、
「おい、寛郎。おまえはそのドンコーに銃を突きつけて食料を奪ったんだろ。いわば彼らはおまえの命の恩人なんだぞ」
 と、格郎がたしなめた。しかし、寛郎はそれでもひるまず、すぐ言い返した。
「敵の食糧、弾薬を利用するのが遊撃戦のイロハです」
格郎:小野田格郎(ただお)は小野田寛郎の次兄。ブラジル在住。若いときの寛郎が最も影響を受けた兄


格郎「(ルバング島に)あきれるくらいいるのは犬だね。たいていの家が犬を飼っている。それもろくろく餌をやらんから痩せてひょろひょろした犬を」
寛郎「その犬をドンコーのやつら、われわれにけしかけやがるんです。あんまり癪にさわったんで仕返ししてやったことがある」
津田「どんな仕返しをしたんです?」
寛郎「ある村の副村長が何度もけしかけやがったから、そいつを三日間つけねらって、一人になったところをぶっ殺してやった。
 まず膝を狙って一発撃ち、歩けないようにしておいてボロ(蛮刀)でたた斬ってやった。その野郎、腕で顔をかばいながらいざって逃げようとしたが、こっちは日頃の恨みで容赦しねえ……」


 夕食後、敏郎(長兄)*は厚生省から頼まれた仕事を果たすため、寛郎を促して応接室へ去った。一足遅れて私が行くと、敏郎はテーブルの上にノートをひろげ、鉛筆を片手に、斜め前に腰掛けた寛郎に説明していた。
「島民が訴え出た事件で、どうにも腑に落ちない殺傷事件がいくつかあるんだ。多分、おまえがやったのではなく、別の犯人が起こした事件だと思うけど、念のため確かめてくれと言われてきたんだよ。これから読み上げるから、違うなら違うと答えてくれ」
 敏郎はまず日時、場所をあげ、次に事件の概略を読み上げてから、囁くように訊いた。
「どうだい、覚えがあるかね?」
 途端に寛郎が横を向いて呟いた。
「俺だよ」
「えっ、おまえか……」
 敏郎は絶句し、やがて仕方なさそうにノートに何か書き入れた。
 この晩、敏郎が読み上げた事件は十件ほどだったが、そのたびに兄弟の間で「俺だよ」「えっ、これもか」が繰り返された。
 敏郎は何度もため息をついた。眼鏡の奥で軽く両目を閉じ、頭を小さく左右に振った。
 寛郎はソファの上で立てた両膝を抱え、終始横を向いて眉一つ動かさなかった。
「最後にもう一つ訊くけど、昭和34年の捜索のとき、南海岸でひと泳ぎしていたマニラ大使館員にいきなり銃を撃ってきた者がいたんだ。まさかこれはおまえじゃないだろうな」
 寛郎は相変わらず顔を背けて、返事をしなかった。
 敏郎は弟の横顔をややしばらく見つめていたが、静かにノートを閉じると、肩で大きく息をついた。
敏郎:小野田敏郎は寛郎の長兄。軍医から戦後は病院院長になった。エリートの敏郎は格郎・寛郎からは疎まれている様子が本書の中では何度も出てくる


南京殺戮の検証番組や、戦争体験者の証言記録などのドキュメンタリー番組を見ていると、ときどき、現地人を殺したことを笑顔で得意げに話す老人がいる。
「今思えば、可愛そうなことをしたもんだ」などと口にするのだが、表情は険しくなく、薄ら笑いを浮かべていたりする。話しぶりにも、「どうだ、驚いたか」というような、自慢げなニュアンスさえうかがえ、そういう場面を見るたびに、人の心の深層に潜む恐ろしい闇を感じるのだが、小野田さんの発言の背景にも同じものがありそうだ。

筆者の津田氏は、より正確でリアルな文章を書くために、執筆中に現地ルバング島を訪れているのだが、そこではこんな場面がある。
 C君が煙草を一箱差し出すと、デレモスはそれを汚れたシャツのポケットに大切そうにしまってから、ラモスに何か言った。かたわらでデンもしきりに頷いた。
「何を言っているの?」
 私が訊くと、ラモスはちょっと口ごもってから、
「この村には変な殺され方をした者がいるんです」
 私とC君の顔色をうかがうように見た。
「変な殺され方?」
「村の区長をやっていた人なんですがね、ボロ(蛮刀)でなぶり殺しにされた死体が発見されたことがあるんです」
 私は息をのみ、思わずラモスから目をそらした。
「小野田さんに殺された島民はほとんど銃で撃たれていますが、その区長はめった斬りにされていたんです。だから、これは日本兵の仕業じゃない、犯人は別の者だということになっているんですが、帰ったら一応、小野田さんに確かめてくれ、と言ってます。……あなたがた、何か聞いてませんか?」
「さあ、知らないなあ」
 まさか聞いているとは言えなかった。
「私もその事件は前から耳にしていたんですが、小野田さんは立派な日本の軍人だから、そんな殺し方をするはずがないと島民たちにも言ってきたんです」
 ラモスは私たちに説明してから、デンとデレモスに向かってタガログ語で何か言った。


島民を惨殺したことを罪の意識なく、むしろ得意げに話す小野田さんと、小野田さんに島民を何人も殺され、理不尽な被害を受けた一方的な被害者であるにも関わらず「小野田さんは立派な軍人のはずだ」と信じようとするフィリピン軍人や現地ガイド。
なんとも対照的だ。

津田氏は短いルバング島滞在中でも、現地のガイドや軍人たちの優しさや親切な対応に何度も感動しているが、同じことをかつての救出隊に参加した日本人記者なども書いている。
ルバング島は小野田さんグループさえいなければ、貧しいながらも平和で静かな島だったはずなのだ。

小野田さんらが殺害した現地住民らは30人以上、負傷者を含めると百数十人、略奪・放火被害などは1000人以上にのぼるという。
小野田さん自身も自ら概ねそのように証言している。

グループから抜けて投降した赤津一等兵への異常なまでの怒り

時系列での出来事まとめの最初のほうを再掲する。

  • 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。装備もまともになかった日本軍はあっという間に壊滅状態で、一部兵士が山の中に逃げ込んで潜伏。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と一緒に4人のグループで山奥に潜伏。
  • 1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。
  • 1945年12月 二度目の勧告ビラを確認。山下奉文将軍名による降伏命令と参謀長指示。小野田らはこれも敵の謀略と断定して無視。
  • 1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけに、潜伏していた他の兵士二人が投降。この二人の協力で同年3月下旬まで計41名の日本兵が森を出た。
  • 1949年9月 最後まで残っていた小野田グループの4人のうち、赤津一等兵が耐えきれず、小野田グループからの脱出を3回くりかえすも島田伍長にとらえられて連れ戻され、4度目にしてようやく脱出に成功。森を出てフィリピン軍に保護される。赤津の証言により、小野田、島田、小塚の3人がまだ生存して潜伏していることが分かり、フィリピン軍はさっそく投降勧告ビラを島内にばらまいた。赤津もそのビラに「投降した私をフィリピン軍は友達のように迎えてくれました」と記したが、小野田ら3人はやはり無視。その後もフィリピン軍は飛行機からビラを撒き、スピーカーで呼びかけたが3人は潜伏し続ける。

赤津一等兵は小野田グループから3回逃亡を試みたが、森を抜け出す前に島田伍長に見つかって連れ戻されていた。4回目でようやく脱出に成功し、フィリピン軍に保護された。
この赤津一等兵への小野田さんの怒りと憎悪は異常なほどで、帰国後も「ぶっ殺してやる」と何度も言っていたそうだ。
津田氏はそれをそのまま手記に載せるとまずいと思い、殺意を抱いていることまでは伏せて書いた。しかし、小野田さんはゲラが上がってきてから、津田氏には相談せず、担当編集者に猛烈な申し入れをして、赤津さんへの敵意、殺意を書き加えるように主張した。

赤津さんがフィリピン軍に保護され、あと3人潜伏していることが分かってからの初期の捜索隊はフィリピン軍によって行われたが、そのときの様子を津田氏は小野田さんから聞いた内容に沿って以下のように書いていた。
 私たちは約150メートル離れたところから、討伐隊の様子をうかがった。(略)銃を持ち、ラウドスピーカーを肩にした五六人のフィリピン軍の兵士が歩いていた。
 その兵士たちの前を、白いハイキング帽をかぶった男がちょこちょこと落ち着きのない調子で歩いている。
「あれ、赤津じゃありませんか」
 と、小塚が囁いた。
 目を凝らしたが、顔がはっきり見えなかった。諦めて討伐隊が去った後、私たちは語り合った。
「赤津のやつ、とうとう敵の手先になりやがったな」

 この部分に、ゲラが出た後、小野田さんは津田氏には黙って、こう書き加えていた。

「あれ、赤津じゃありませんか」
 と、小塚が囁いた。
 まるでやどかりがいざって歩いている赤津そっくりな姿だった。私は銃の照準をピタリとその物体につけたまま追い続けた。顔がはっきり見えない。引き金を引くのを断念した。

 これを知った津田氏は強く懸念を表明し、どうしても削らないと主張して譲らない小野田さんに手を焼き、実兄の敏郎氏にまで「なんとかならないだろうか」と相談している。
 小野田さんがブラジルに行く前、最後に会った料亭での送別会の席上でも、こんなやりとりがあったという。
『幻想の英雄~』のその部分を抜き出してみる。

津田 「赤津さんについて、あんなことを書くのはまずいな。ルバング島であなたと赤津さんの間に何があったか知らないが、とにかく赤津さんは今、平和に暮らしている。25年も昔のことを持ちだして脱走呼ばわりしたり、銃で狙ったなんて書くのは……」
小野田 「まだ書き足りないくらいだ。赤津が嘘をつくから、俺は本当のことを書いたんだ」
「あなたが狙ったのは赤津さんじゃなかったんですよ。あのとき、赤津さんは捜索隊に加わっていなかったはずです」
「そんなことは知らねえ。あのとき、俺はあいつをぶっ殺してやるつもりだった」
「手記はあなたの手記だ。あなたがそう思ったんだから、その通りに書くのが当然だと僕も思っています。しかし、(略)『やどかりがいざった』だの、『物体を追い続けた」などという文章は、どう考えてもおかしい。あなたの赤津さんに対する怒りは、あんなことを書き加えなくても読者によく分かるはずです。言わぬは言うに勝るというじゃありませんか」
「だめだ!」

あまりにも強硬な小野田さんの姿勢に辟易し、それから先はもう出版社側にすべて任せたという。
実際に出版された手記(単行本)ではどうなっているのか確認してみた。
入手できたのは初版のすぐ後に出た2刷本だ。

入手できた古書。アマゾンで200円だった



初版の8日後に出た2刷りなので、おそらく初版からの内容変更はなかったのではないか



やどかりがいざって云々はなくなっているが「引き金を引く」という表現は残っている



4度目の「脱走」でついに連れ戻せなかった後に、小野田さんが残った二人の前で「自分の手で赤津を処刑する」と宣言する場面はそのまま掲載されている


小野田さんは赤津さん以外にも、作家の野坂昭如氏が週刊誌に書いた文章に怒って「轢き殺してやる」(自動車教習所に通い始めていたときだった)と、出版社スタッフの前で息巻いていた。

「野坂なんとかという野郎を轢き殺してやる」
(略)
「あんないい加減なことをいう男が、今の日本じゃ作家面していられるんですか。(略)呼び出して、轢き殺してやる。こうやって、車で何度もギシギシ轢いてやります。
 どうせ一度捨てた命です。轢き殺したら警視庁へ自首して、網走刑務所に送られたら、熊細工でもしてのんびり暮らしゃいいんだ。黒眼鏡なんかかけて、批判するなら、ちゃんと眼鏡をとってまともに相手の顔を見て言うのが礼儀だ」


大東亜共栄圏思想にとらわれていた?

小野田さんは終戦を知っていたし、それどころか、捜索隊が置いていった大量の新聞を隅々まで読み、ラジオで日本語放送を聞いて競馬中継まで楽しんでいた。それなのになぜ出ていかず、現地で山賊生活を続けていたのか?
『幻想の英雄~』の中から、筆者の津田氏が小野田さんに「本当に戦争が終わったことを知らなかったのか?」と確認する場面の一部を、以下、抜き書きしてみる。
──(日本が)いつ頃、民主国家に変わったと思いました?
「時期は知りません。ただ、新聞に民主主義社会という言葉がさかんに使われているので、自分らの知らないうちに衣替えしたんだろうと思ったんです」

──じゃあ、小野田さんは、帝国陸海軍も消滅していることがわかっていたんですね?
「いや、軍隊は残っていると思いました。昔の軍隊はなくなったかもしれませんが、それに代わる組織ができて、まだアメリカ相手に闘っていると考えたのです」

──それに代わる組織? ああ、自衛隊のことですか。
「いや、自衛隊は国内を取り締まる武装警察で、戦争をやっているのは別の組織-戦争専門の、戦争請負業みたいなものです」

──戦争請負業?
「日本は民主主義国家になったが、依然として大東亜共栄圏の確立をめざしている。だからそのために戦争請負業に金をやって、アメリカと戦ってもらっている……そう考えたのです」

──なんです、その戦争請負業というのは?
「旧日本軍を引き継いだ戦争専門の組織です。その組織が日本ばかりでなく、アジア全域の防衛を担当して、アメリカとやりあっていると判断したのです」

──アジア全域とおっしゃいましたね。すると中国も含まれるわけですか。
「もちろんです」

──中国が共産主義国になっているのはご存じなかったんですね?
「いや、知っています。新聞にそう書いてありましたから」

──すると、日本は共産主義の国とも手を結んでいると考えたわけですね。
「日本が尻押しして毛沢東を中国の指導者にしたのだと思いました。中国財閥の金を融通してもらうために。なにしろ中国の金持ちは桁違いですからね。その代わり戦争請負業が中国の国内からアメリカやイギリスの勢力を追い払ったのです」

──小野田さんがルバング島で頑張っていたのはだれのためなんです? その請負組織のためですか?
「われわれがルバンにいれば、アメリカ軍はいやでもルバンに戦力を割かねばならない。そうなれば他の戦域が手薄になって、味方はその分だけ有利になるわけです」

──するとあなたがたは戦争請負業の下請けというか、下部組織ということになりますね。けっして大日本帝国のために戦っていたわけではない……そう解釈してもいいわけですね。
「今度の戦争は大東亜共栄圏を確立するための戦いで、それには百年ぐらいかかると自分は教えられました。だから、軍隊の組織は変わっても目的は同じです。われわれが戦いを続ければ、いつかは必ず大東和共栄圏が達成できる。それはとりもなおさず日本のため……自分はあくまでも日本のために頑張ったんです」

(横にいた次兄の格郎-タダオ-)「要するに寛郎は若い頃に教え込まれた大東亜共栄圏思想の虜になっていたんです。こいつは漢口にいた当時、中国人が一方で日本軍と戦い、片方で日本の商社と取引していたのを見ています。だから新聞で対米輸出の記事を読んでも驚かなかったんだと思います」
(寛郎)「民間は民間同士で経済戦、軍部は軍部で武力戦に専念する。そうしなければ百年戦争は続けられませんからね

一見滅茶苦茶な話をしているように思えるが、よく考えると、今の日本でも、似たような発想で行動している人、しかも上層階級の人間は多いのではないかとも思い直した。
特に最後の言葉だ。
金儲けは金儲けで割り切ってやる。そこにイデオロギーや正義、倫理は関係ない。それで儲けた金を軍事力に注ぎ込んで戦争を続けることこそがより大きな目的だ……という発想、思考回路。
その戦争の目的がなんなのかはあまり関係がない。小野田さんが信じていたのは「大東亜共栄圏」で、仮想敵国はアメリカだったのかもしれないが、それを「国際社会」とか「中国、朝鮮」と置き換えれば、今の日本の世相と重なる部分があるのではないか?
「戦争請負業」という言葉も、今の世界情勢を見ると、まさに言い得ている。そう考えると、小野田さんの戦争と経済の関係論は、あながち狂気とも言えない。
「戦争請負業に金をやって、アメリカと戦ってもらっている」「アメリカに金をやって、戦争請負業をやってもらっている」と言い換えれば、まさに現代の日本のことではないのか?
そして、その戦争請負業は大金が動くから、そこに参加して分け前をもらいたがっている日本……。

小野田さんの天皇観

小野田さんはいわゆる「右翼」というのとは違う。
津田氏は、小野田さんの天皇観を2回聴いていると『幻想の英雄~』の中で書いている。

「自分の生まれた紀州は昔から地元だけでうまくやってきたんです。それも殿様ひとりの命令に従うんじゃなくて、有能な家来たちが知恵を持ち寄って、うまく指導した。上下の身分もうるさく言わなかった。そういう気風がずっと昔から、徳川時代よりもっと昔から伝統的にあった土地です。
 だから、神武天皇の軍隊が九州から来て上陸したとき、土地の豪族が追っ払い、失敗した神武天皇の軍は別の海岸から上陸し直して、やっと大和朝廷を作ることができたんです。
 大体、あの人たちの先祖を遡れば、九州どころじゃない、もっと遠くの別の国から来たんでしょう。よそ者ですよ。
 自分が手記の中で天皇に触れなかったのは、今の自分が、自分の考えを喋ったら、あちこちで問題になると思ったからです。野坂(昭如)が言うように、誰かに禁じられていたためじゃない。一億の中で、たったひとり約束を守った自分が、命令を出した者の責任を追及したらどうなるか。三百万もの人間が死んだのに、命令を出した者は知らん顔をしている。戦えと我々に命じた者は、将軍でも何でもその責任をとって腹を切るのが本当だ。それなのに、未だにのうのうとしていやがる。こんな日本に帰ってくるんじゃなかった。死んだ島田や小塚がかわいそうです」

小野田さんはこれを本の中に書き込まれることを拒否したという。ここでも言っているように「今の自分が、自分の考えを喋ったら、あちこちで問題になると思ったから」だ。それは本当だろう。
また、この天皇観が、次兄の格郎氏の影響によるものだということも津田氏は指摘している。

島を出て行くまでのミステリー

『幻想の英雄~』では、小野田さんが一人になった後、鈴木青年の前に姿を現し、帰国するまでの経緯について、様々な不自然さや疑問を投げかけている。
鈴木紀夫青年は自衛隊特殊部隊所属の工作員だったと証言する人物の話まで出てくる。
また、正確には直属の上司ではなかった谷口少佐の名前を小野田さんが「逆指名」した意図や、恨みを募らせた現地の人たちから(小塚一等兵のように)殺されずに日本までたどり着くための「サバイバル戦略」を緻密に組み立てていたのではないか、といった記述もある。
例えば、本の表紙にも使われている、軍服を着て敬礼している有名な写真は、谷口少佐からの命令を受けたときの写真を鈴木青年が撮影失敗したことが分かって、翌日にマスコミ発表用に「撮り直し」したものだそうだ。そういう「演出」もなんのてらいもなく受け入れてきっちりこなしたのは、小野田さんがすでに「日本への凱旋」を成功させるための戦略を綿密に練り上げていたからではないか、と津田氏は推察している。
そのへんも小説を読んでいるかのような面白さがあるのだが、ここでは深く掘り下げない。
津田氏の推察が合っているかどうか判断するだけの材料が乏しいし、細部はどうでもいいかな、と思うからだ。
しかし、全体的に、小野田さんの偏屈さや矮小さと、驚異的な粘り強さ、強靱さが結びついた結果がああなったのだろうということは理解できる。

小野田さんはサイコパスだった

小野田さんの思考回路には、一般人には理解しがたい頑固さ、偏狭さと、超人的な粘り強さ、意志の強さ、無慈悲でドライで迅速・正確な行動力が同居している。

こうした特質はいわゆる「サイコパス」気質というものだと主張する学者がいる。
NHKで放送された『心と脳の白熱教室』という番組に登場するケヴィン・ダットン博士(オックスフォード大学)はサイコパスを研究している。
彼によれば、人は誰でも多かれ少なかれ「サイコパス的気質」を持っていて、その程度がどのくらいか、それを実生活でどのように活用できるかによって、猟奇犯罪者にもなれば経済的な成功者にもなるのだという。
大企業のCEOや弁護士などは、一般人よりもサイコパス度合が高いというのだ。

サイコパス研究をしているケビン・ダットン博士



サイコパス気質に暴力性と知性をかけ合わせると、こんな分類になるという



ダットン博士自身、サイコパステストをするとかなりの高い得点が出るそうで、彼は自分を含めて、サイコパス的な人間は、その性格・才能をどのように利用するか、活用するかが重要だと主張する。
007ジェームズ・ボンドやゴルゴ13は完全なサイコパスだが、お話の中ではヒーロー的にも描ける。
しかし、ボンドやデューク東郷みたいな人物がルバング島の森の中に潜伏して、その強靱な意志で「決して出ていかない」と決意し、島民を相手に殺戮・強奪を繰り返したら、これはもう地獄絵になること間違いない。
まさに小野田グループが潜伏したルバング島はそうなっていたのではないか。

小野田さんが(ダットン教授がいうところの)サイコパスであったことは間違いないと思われる。
問題は、小野田さんがそのサイコパス性をあのような方向に発揮した背景だ。
彼が軍隊に入らないで、例えば企業人として終戦を迎え、戦後日本を生きていたらどんな人生を歩んでいたのだろうか。
ブラック企業の経営者として大金を稼いでいた? それとも慈善家として尊敬されるような人物になっていた?

まあ、それはどうでもいい。
小野田さん個人の人生をどうこう想像するよりも、幸運にも、彼のような人生を歩まないで済んだ私たちは、彼をひとつの「題材」として、自分の人生、人間の本性、歴史の残酷さといったことを、より深く考察することこそ重要なのではないだろうか。

読後、助手さんに内容をざっと話したところ、こう返してきた。
「戦争を知らない世代なら、普通に一生を送っていた人、いい人、ちょっと変な人、ちょっと嫌な人程度の『普通の人』が、あの時代に生まれたということだけで、一生自分でも知らなくてよかった人間の暗い本性をさらけだしてしまった、と考えると、気の毒だし、怖い」
そうだな~。
もし、自分があの時代に生まれ、軍隊の士官として中国大陸や南方戦線に行っていたらどうなっていただろうか?
とてつもなく怖い。
戦後に生まれたというだけで、自分の人生がいかに幸運だったかが分かる。

平和な時代の非暴力的サイコパスには成功者が多いというが、自分にはサイコパス要素がどのくらいあるのか……。
ネット上に出ている診断テストの類をいくつかやってみたが、すべて平凡な結果しか出なかった。
どうやらサイコパス的な才能はないらしい。
しかし、別の要素で人生を狂わせていた可能性は大いにある。
こうして戦争のない時代に生まれていても、若いときに大成功してちやほやされて大金を得ていたら、とんでもなく嫌な人間として一生を過ごしたかもしれない。それに気づくことなく死んでいったかもしれないし、何か大失敗して(女とか薬とか……)、悲惨な後半生になっていたかもしれない。

酸っぱい葡萄ではないが、自分が凡人であったこと、社会的な成功を得られなかった人生だったことも、幸せなことだったと思うことにしよう……。




『自然エネルギーの罠』(武田恵世・著) 最初の部分のまとめ2015/03/04 19:00

◇『自然エネルギーの罠 化石燃料や原子力の代わりになり得るエネルギーとはなにか』(武田恵世・著)
1~3章までの要点 メモ

序盤に書かれていることをまとめてみました。
まとめるにあたって、表現を若干変えたところ、追補したところもあります。
★で始まる見出し部分は、より深く説明するためにたくきが追補した内容で、本書に直接書かれたものではありません。



■自然エネルギーには2種類ある
風力や太陽光⇒天気任せで調整できない
地熱、水力、バイオマス⇒需要に併せて微調整できる
この両者を分けて考えるべき

■自然エネルギーによる発電で化石燃料消費は減らせない
風力や太陽光発電を増やすには、発電できない(無風、夜間、雨天など)ときのバックアップ電源が必要で、それは火力か水力。しかし今の日本では風力や太陽光を増やした分のバックアップ電源として火力や水力を増やしているわけではない。
電力会社に訊ねると「風力やメガソーラーが発電している時間帯に火力発電所の発電量を下げた記録はない。い。現状ではそれらは電力系統全体の1~2%以下にすぎず、『誤差』の範囲内だから無視している」との答え。
実際にはその「誤差」を超えた電力を風力などが級に発電してしまうと消費電力を超えて発電され、システムのトラブル・停電の危機になるので「解列」といって送電系から切り離してしまう。

■ヨーロッパでは風力発電が増えすぎて問題に
ヨーロッパはポルトガルからロシアまで全域50Hzで統一され、送電網もつながっているので許容できる『誤差』の範囲も大きい。それでも急に風がやんで風力発電からの送電がなくなったとき、バックアップの火力が対応しきれず、大停電寸前の危機になったことが何度もある(経産省報告書 2004)。
風がやんだときに火力がすばやくバックアップするには常に低出力で待機していないといけないので、燃費が悪くなり、ドイツ、スペイン、フランスなどでは、風力発電所の増加によってかえって化石燃料の消費が増えた(NEDO 2008)。化石燃料の節約にならないまま「風力を増やす」ことが目的化してしまったための本末転倒。

■風力発電に関してはいまだに大きな技術革新がない
発電の不安定さを補うため、ディーゼル発電機と組み合わせたハイブリッド型、蓄電池併用、高速フライホイール型など、いろいろな策が出てきたが、どれも本格実用化に至っていない。結局、装置をやみくもに大型化しただけで、弊害も大型化しただけ。

■風力やメガソーラーの目的は発電ではなく、企業の利益
ヨーロッパで失敗した「自然エネルギー優遇策」をそのまま真似た日本では、補助金や高額買い取りなどで儲かるとふんだ企業が先物買い、売り逃げ感覚でこの業界にとびついた。発電施設を作る際にほぼゼロ金利で融資してくれる日本政策投資銀行、日本政策金融公庫はともに財務相所轄の特殊会社で、政府が100%出資している。つまり原資は税金。
ドイツでは鉄工や化学産業などが再エネルギー賦課金を減免されているが、これに対してEU委員会は「特定の企業の割引きは実質的な補助金で市場競争を阻害する不公正」として調査を開始。
スペインでは高い買い取り価格にむらがって風発やメガソーラーが激増したため電力会社が大赤字になり、国の財政も圧迫。買い取り価格を下げざるをえなくなった。

■企業の多くは再エネルギー賦課金免除。負担しているのは一般庶民
高い電気を法律で無理矢理買い取らせるための固定買い取り制度を支える「再生可能エネルギー賦課金」は一般ユーザーの電気料金に上乗せ(再生エネルギー特措法)。
経団連の要求にこたえる形で、大量の電気を使う企業は再エネルギー賦課金の80%以上は減免に。その大義名分はいつものように「企業活動を守り、国際競争力を維持するため」。
「日本は世界で唯一の社会主義国家の成功例だ」と言った学者がいたが、社会主義国家というよりは「会社主義国家」。個人の生活・幸福より会社(企業)の利益が優先され、企業が儲かれば個人の生活もよくなるという理屈で今も基本的な政策が立てられている。

■再エネ買い取り中止は詐欺でも裏切りでもない
2014年秋に電力五社が再エネの買い取り中止を発表して騒ぎになったが、あれは再エネ特措法に最初から明記されていること(電力系統に影響を与えない範囲を超えたら買い取らない)が実行されただけ。
再エネ事業者は再エネが最初から自立できる事業だとは思っていない。このレートで確実に買い取ってもらえるなら儲かるに決まっているから参入しよう(金儲けがしたい)という動機で始めたのだから、同情の余地などない。しかも、すでに初年度の最高価格で登録できた事業者は20年間変わらない高額買い取りを約束されているが、その金は電気料金に上乗せされ、一般消費者が負担し続けなければならない。

■すでにできあがっている「再生可能エネルギー利権」ムラ
2010年まで風力発電建設には建設費の1/3~1/2の補助金が出ていたので、それを目当てにCEFや日本風力開発などの風力発電事業者がどんどん大型ウィンドファームを建てた。CEFは建てた後は電力会社系子会社に施設を丸ごと売却して一部売り逃げたが、日本風力開発などは何度も倒産の危機に陥っている。融資元の日本政策投資銀行は「風力発電による健康被害はすべて気のせいだ。環境省は騒音基準35dBなどという厳しい規制をせずにもっと進めるべきだ」と主張(日本経済新聞 2013)。
その日本政策投資銀行の参事・山家公雄氏は「風力発電に反対するのは全国的な組織やプロ的な組織で地元住民ではない」などと言っているが、こういう言い方はかつて原発推進派が「原発反対を唱えている人たちは何にでも反対する人たち。全国的なプロ組織、プロ市民で、過激派とつながっている」などと吹聴していたのとそっくり。
その山家氏が所長を務めるエネルギー戦略研究所は「中立的なエネルギーシンクタンク」だと主張しているが、実は何度も倒産しかけている日本風力開発の子会社。

新潟県村上市では、市だけでなく周辺の町も賛成して洋上風力発電計画を進めている。その事業の代表をしている名古屋大学の洋上風力利用マネージメント寄附研究部門・安田公明教授の教室は、省庁OBや風力発電業界団体代表、建設会社代表などが客員教授にいて、産学官一体となって洋上風力を進めようという部門。
「洋上風力は灯台と同じでバードストライクは問題ない」「健康被害は一部の人だけだから大丈夫」「真冬はメンテナンスは考えてない」「観光客が増え、工事屋メンテナンスの仕事も増えて地元も大いに潤う」「風発が魚礁になって魚が増えるし養魚場にもできる」などなど、疑問だらけの発言をしている。

■自然エネルギーだけで日本国中の電力をまかなえるという大嘘
風力発電で100万kwの原発1基分の電力を作ろうとすると、定格出力2000kwの大型風車が風速12m以上の風を得て最高出力で発電している状態でさえ500基必要という計算になる。500基を相互干渉させずにローター直径(80m)の7倍離して一直線に並べたら、約280km。京都から広島までの距離が必要。しかも常時風速12m(傘がまともにさせないほどの強さ)の風が吹いているなどありえないので、まったく不可能な話。
ちなみに紙片が舞い上がるくらいの風を、人は「今日は風が強い」と感じるが、これは風速8mくらい。風速8mだと風力発電機は定格出力の1/8しか発電できない(発電量は風速の3乗に比例)。
メガソーラーだと約5600ヘクタール(山手線圏内より広い)が必要。費用は5.8兆円と試算されている。これがかんかん照りの日中に発電できるのが原発一基分。
だから原発推進派は「自然エネルギーには合理性がない。原発のほうがはるかに安くでき、環境破壊も少なくてすむ」と、自然エネルギー推進論者の無知ぶりを理由に、さらに原発推進を図る。

■「設備容量」を足し算する愚
田中優氏が「東京電力が東大に依頼した研究で、犬吠埼沖に風力発電機を並べるだけで東電管内全体の電気がまかなえることが分かったが、東電は東大に口止めした。それを私がネット上に流出していたのを掴んだ」というようなことをあちこちの講演や対談で言い続けたため、Twitterやブログでたちまち広まったが、東大に確認してもそんな事実はない。東大の研究者が出した論文で「房総半島全体の沖に風力発電機を並べたら設備容量は東電管内で必要な電力に相当する」という表現をしているものがあるが、その論文は非公開でも何でもない。
設備容量というのは、傘がまともに差せないほどの強風(風速12m以上、設備が壊れるので自動停止する25m未満の風)が吹いたときに発電できる瞬間的な数値のことだから、それを単純に足し算してもまったく意味がない。
専門家と呼ばれるような人や大新聞社の科学部記者でさえ、どうも定格出力の合計(設備容量)がいつでも出せる電力だと勘違いしているフシがある。

(追補)この「東京電力が東大に依頼した研究で、犬吠埼沖に風力発電機を並べるだけで東電管内全体の電気がまかなえることが分かったが、東電は東大に口止めした」云々というお騒がせなネタ元はなんなのか探った人の解説は⇒こちら

■平気でミスリードを図る環境省や「専門家」たち
環境省が2011年4月に発表した「平成22年度再生可能エネルギー導入ポテンシャル調査の結果について」という資料には「日本での風力発電で、風が吹くときだけ発電しても、最大1億4000万キロワットの電力を生み出すことが可能で、国内全体の発電量のうち原子力で賄われる量を上回る結果となりました」などと書いている。これも設備容量の合計値に過ぎない。
「風が吹くときだけ発電しても」というのは一体どういうつもりなのか。風が吹かなければまったく発電しないことが根本的な問題なのに、その根本をこのような詐欺的な表現でごまかしてまで国民をミスリードしようという意図はなんなのか。

★なぜ環境省は風力発電にご執心なのか?(追補)
環境省と風力発電については、『電気とエネルギーの未来は? 新技術の動向と全体最適化への挑戦』(石川憲二・著、オーム社 2011年)で、こう切り込んでいる。
それにしても、環境省はなぜ、これほどまで風力発電を強くプッシュしてくるのか?
(略)電力会社の管轄官庁は経済産業省であり、(略)国土交通省も大きく関わってくる。
これらに対し、風力発電事業の担当官庁については、まだあいまいなところがある。(略)そこに「二酸化炭素排出抑制のため」という大義名分が加われば環境省だって食い込めないわけではない。(略)普及活動の主導権を奪うことだって可能だ。このため「新たな利権創出の目的から風力発電の導入ポテンシャルを過大に評価したのでは?」といった疑いが生じてくる。


★「自然エネルギー教」の伝道師たち(追補)
こうした詐欺的な表現は自然エネルギー信仰を広めている「専門家」たちの言質にも多々見うけられる。
飯田哲也氏は著書『エネルギー進化論──「第4の革命」が日本を変える』(ちくま新書)の中で、
(発電量の)変動それ自体が問題ではないという点です。平均化してもなお出力は変動しますが、それ自体が致命的な問題ではありません。なぜなら需要も時々刻々と変動するからです。電力システム全体としてみると、変動する自然エネルギーの出力と変動する需要との間を埋めることができれば、安定供給になんら問題は生じません。

と述べているが、まさに埋めることが「できない」から問題なのであって、なんの答えにも説明にもなっていない。
さらには、
自然エネルギーは膨大にあります。自然エネルギーの中心である太陽エネルギーだけでも、人類が使用する化石燃料と原油のおよそ1万倍の膨大な量が降り注いでいるのです。そのわずか1万分の1だけで、世界全体を自然エネルギー100%に転換することができるのです。
とか、
自然エネルギーはエネルギー密度が低いので産業的には使えないという批判もあります。しかし、エネルギー密度はじつは関係ないのです。電力、温熱、燃料という二次エネルギーに変換できさえすれば、自然エネルギーであろうが化石燃料であろうが原子力であろうが、まったく関係ないのです
とも書いている。
エネルギーを投入しないと使いやすい二次エネルギーに「変換できない」。変換するためのエネルギーが必要なだけでなく、必ずゴミが出る、という物理学の大前提(エントロピー増大の法則)をまったく無視して「変換できさえすれば」などと、どの口で言えるのか。
飯田氏が物理学の基礎も知らないとは思えないので、これも結局は「意図」があって大衆をミスリードしようという試みなのだろう。

合理的な思考をする人が極端に少ないのはなぜなのか?
「再生可能エネルギー」を叫ぶ人たちの分類すると、

1)心からそう信じきっている……小泉、鳩山ら元首相はこのタイプ?
2)性格的にカルト宗教のカリスマ的な人……都合のいい嘘を重ねていくうちに自分でも信じ込んでしまう?
3)再エネ利権村の住民
 (a)理屈はどうでもよくて単に利権を求める人(政治家に多い?)
 (b)本当のことは分かっているけれど保身や出世・名誉欲のために仮面をつけてしまう人(官僚に多い?)

……と、こんな風になるのかもしれない。タイプが違う人たちが、最終的には同じことを言うような構造になってしまっているために、多くの人が惑わされ、あるいは単純化したイメージだけを頭に刷り込んでしまう。「こうなるといいな」という願望に合致した情報は、冷静に検証することなく受け入れやすい。
結果、合理的な解決策がどんどん遠ざかっているのではないか?


■再エネ推進の直近の目的は「原発再稼働させるため」?
電力各社に何度も確認したが「風力発電はないものとして発電しています」と言っている。
それでもやっているのは「自然エネルギーを取り入れて『ベストミックス』でやっています」というPRのため。
「再エネも熱心に進めていますが、やはり難しいので、ここはやはり原発を……」と言いやすくするための伏線。
やればやるほどコストがかかるだけの再エネを推進しても、電力会社はそのコスト増を全部電気代に上乗せすればいいだけで、まったく腹は痛まない。
しかも、そうやってじわじわとユーザーを痛めつけることで「やっぱり原発が必要なんだな」と思わせたい。世論を原発再稼働に導きたい。

今のところ、その「罠」は見事なまでに効果を上げているように思える。

『国と東電の罪を問う』を読んで2015/02/17 12:13

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『国と東電の罪を問う 私にとっての福島原発訴訟』(かもがわブックレット199)という冊子を購入して読んだ。
イベントの発言記録ということで、正直あまり期待していなかったのだが、想像していたよりも充実した内容だった。
蓮池透さんは2012年元日の『朝まで生テレビ』で一緒だったが、そのときは僕も彼もほとんど発言できなかった。今回はたっぷり話していて、その内容も元東電社員ならではのもの。
元NHKの堀潤さんも目一杯発言している。
井上淳一さんの、石川町で学徒動員された子供たちがウラン採掘作業をしていた話も、概要は知っていたのだが、「鉄を供出していたためにツルハシも持たされず、多くの人は素手で掘っていた。靴もなくてわらじだった。しかも何を掘らされているのかは軍事機密として知らされていなかった」という内容までは知らなかった。
NHK連続テレビ小説だと2500万人くらいが見ていることになるが、そこでは戦争シーンでの描写に限界がある。各家に天皇のご真影が飾られていて、みんなが「天皇陛下万歳」と叫ぶシーンはやれない。関東大震災で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが流れて虐殺されたことも描けない。そういうのをやろうと思うと、インディーズ映画でやるくらいしか方法がないからせいぜい1万人に見てもらうのがやっとだ……というような話も、まったくその通りだな、と。
2500万人に届く反戦メッセージか、1万人にしか届かない「闘い」か。もちろん、単純な2項対立ではないと思いますが、そこのところのせめぎ合いを、無自覚な表現の自由の放棄にならないように気をつけながら、いま何ができるかということを、ぼくは真剣に考えていますし、「戦争前夜」に生きる作り手すべてに考えてほしいと思っています。(井上淳一氏)
 
このブックレットはA5判で600円+税。この体裁くらいだと、自費出版でもなんとか作れるので、僕自身、これからやっていける方法のひとつとして考えている。
それこそ「戦争前夜」に生きる作り手の一人として。

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この大きさページ数で1000円以下の価格で売れるなら、
なんとかオフセットで500部、1000部でいけるかも……

「フクシマ」を刺激的なネタとして消費しないでくれ


「フクシマ」といえば、今日もまた、某テレビ局から「働かない方がトク!というゆがんだ構図」という賠償金問題について取材させてほしいという依頼があった。
この手の依頼はすべて断り続けている。いちいち断るのが面倒なので、どうも原因となっているらしい2012年のブログ記事の最後に次のような断りを追加した。
■2015年2月3日追記■
このブログ記事を読んだ出版社やテレビメディアなどから、「補償格差」や「賠償金成金」が生まれる歪みなどについて書いてくれ、話してくれという依頼が複数来ますが、すべてお断りしています。
この問題はとても複雑かつデリケートで、どんなに言葉を尽くしても実情や問題点を伝えるのが難しいと考えています。
特にテレビは、最初から視聴者の好奇心を刺激し、「とんでもない話だ!」という反応を引き起こそうという意図の元に編集されるのが目に見えていますので、基本的に取材や出演依頼には応じません。

福島の人たちの口もどんどん重くなってきました。これを書いた時とは現場の「空気」もずいぶん変わってきました。
怒ってもどうにもならないという諦めや、下手に口にすることで問題を悪化させてしまう、ますます人間関係が分断されてしまうことへの恐れから、どうしても「沈黙は金」になっていきます。
私がこの記事を書いたのは2012年2月で、「村に戻れば補償打ち切り」「仕事を再開すればその分、補償を減らす」というとんでもないルールに怒り心頭でした。そのときの気持ちを消すことはできないし、思い起こすことが大切だと思いますので、敢えて書いた内容には手を入れないでおきます。

その後、「村に戻れば一人10万円/月は打ち切る」という馬鹿げた規定は見直され、村に戻る戻らないにかかわらず避難命令が出ていた期間の「精神的損害補償」は支払われることになりました。
また、川内村はいち早く帰村宣言をしたために、川内村の旧緊急時避難準備区域の住民に対して支払われてきた1人当たり月額10万円の精神的損害賠償は2012年8月に打ち切られています。

何度も言ってきたように、いちばんの問題はこういうことを引き起こし、どんどん悪化させていく「システム」にあります。そこに言及しないまま、福島で今起きていることだけを刺激的に報道することは、誰の得にもなりません。知ったかぶりしてネット上で騒ぐ人たちにおいしい餌を撒くだけでしょう。
補償金格差に限らず、「フクシマ」の諸問題は単に興味本位で消費されるだけになってしまうことがいちばんまずいのです
今後も、マスメディア(特にテレビ)からの似たようなリクエストはすべてお断りするつもりですので、ご了承ください。

『赤毛のアン』の訳者比較2014/03/31 01:24

27年前、茅野さんから送られてきた『赤毛のアン』と手紙
明日から始まるNHKの連続テレビ小説『花子とアン』は、『赤毛のアン』の最初の訳者として知られる村岡花子さんの生涯を描くものだそうだ。
『赤毛のアン』というと、僕にとっては親友である茅野美ど里さんが念願叶って翻訳を手がけた作品、という認識が最初にある。というか、彼女が翻訳したものを送ってくれるまで、『赤毛のアン』に興味を持ったことはなかったし、正直、今もあんまりない。
で、茅野さんが以前、「『アン』シリーズは村岡さんの訳が神聖視されているようなところがあって、なかなか他の人が手を出せる感じではなかった」というようなことを言っていたのを思いだした。
『赤毛のアン』の日本語訳を手がけた人はどのくらいいるのだろうと改めてWikiを見てみたら、

(1952年) 村岡花子訳 - 日本にアンを普及させた訳として知られているが、完訳ではなく所々に省略箇所がある。三笠書房、新潮文庫(1954年)。
(1957年) 中村佐喜子 訳 - 角川文庫。
(1969年) 岸田衿子 訳 - 学習研究社
(1973年) 神山妙子 訳 - アニメ作品の底本となった訳。旺文社文庫、新学社文庫。旺文社文庫版は絶版入手困難。グーテンベルク21のデジタルブック版は入手可(外部リンクを参照)。新学社文庫版は中学生用図書教材であり、一般書店では流通しておらず、最寄りの新学社教材取扱店が注文を受けてくれれば個人でも現在入手可。
(1975年) 猪熊葉子 訳 - 講談社文庫(旧版)。
(1987年) 茅野美ど里 訳 - 偕成社。
(1989年) 石川澄子 訳 - 東京図書。
(1989年) きったかゆみえ 訳 - 全訳に近い抄訳。金の星社。
(1990年) 谷詰則子 訳 - 篠崎書林。
(1990年) 谷口由美子 訳 - 少年少女世界名作の森 14。集英社。
(1990年 - 1991年) 掛川恭子 訳 - 完訳シリーズ。ただし、トビラでのブラウニングの詩の引用がない。講談社(2005年4月から文庫化)。
(1992年) 曾野綾子 訳 - 抄訳。河出書房新社・河出文庫、新学社世界文学の玉手箱シリーズ。
(1993年) 松本侑子 訳 - 訳者の研究による注釈が豊富な訳本。文学引用を解説している。集英社。


……と、結構ある。
茅野さんは1987年で村岡花子さんから数えると6人目の訳者らしい。

⇒このブログ に、村岡花子、掛川恭子、松本侑子 3氏の訳の比較が出ていた。
これに茅野さんのを並べてみると、とても興味深い結果になった。


原文:
A child of about eleven, garbed in a very short, very tight, very ugly dress of yellowish gray wincey. She wore a faded brown sailor hat and beneath the hat, extending down her back were two braids of very thick, decidedly red hair. Her face was small, white and thin, also much freckled; her mouth was large and so were her eyes, that looked green in some lights and moods and gray in others.
So far, the ordinary observer; an extraordinary observer might have seen that the chin was very pointed and pronounced; that the big eyes were full of spirit and vivacity; that the mouth was sweetlipped and expressive; that the forehead was broad and full; in short, our discerning extraordinary obeserver might have concluded that no commonplace soul inhabited the body of this stray woman-child of whom shy Matthew Cuthbert was so ludicrously afraid.

村岡花子・訳 (1952年三笠書房刊、1954年新潮文庫版)
 年は十一歳くらい。着ている黄色みがかった灰色のみにくい服は綿毛交織で、ひどく短くて窮屈そうだった。色あせた茶色の水兵帽の下からきわだって濃い赤っ毛が、二本の編み下げになって背中にたれていた。小さな顔は白く、やせているうえに、そばかすだらけだった。口は大きく、同じように大きな目は、そのときの気分と光線のぐあいによって、気取り色に見えたり、灰色に見えたりした。
 ここまでが普通の人の観察であるが、特別目の鋭い人なら、この子のあごがたいへんとがって、つきでており、大きな目には生き生きした活力があふれ、口元はやさしく鋭敏なこと、額は豊かに広いこと……

茅野美ど里・訳 (1987年刊、偕成社)
 十一歳ぐらいの女の子で、綿と毛の混紡織りの、なんともさえない、つんつるてんの黄ばんだ服を着ている。頭には色あせた茶色い水兵帽をかぶっており、帽子の下から、まっかもまっか、すごい赤毛の太い三つ編みが二本、背中にたれていた。顔は小さくて青白く、やせていて、そばかすだらけだった。目も口も大きく、目は角度と気分によって緑色にも灰色にも見えた。
 ここまでが、ごくふつうの人の観察である。もうすこし観察眼のするどい人なら、この少女のあごがとがって、きわだっていること、大きな目には元気と活力がみなぎっていること、くちびるが愛らしく情感にあふれていること、ひたいが広くて豊かなことに気がついたはずである。つまり、洞察力にすぐれた人が見れば、マシュー=カスバートがばかみたいにおそれている、このさすらいの少女のからだには、人なみはずれた魂がやどっていることがわかったはずなのである。

掛川恭子・訳 (1990年刊、講談社)
 年は十一歳ぐらい。白だか黄色だかわからない綿と毛の混紡の布で作った、とても短くて、とてもきちきちで、とてもみっともない服を着ている。色のあせた茶色い麦藁帽をかぶり、帽子の下から、見まちがいもないほど真っ赤な太いおさげが二本、背中までぶら下がっている。小さな顔は青白くて、やせていて、そばかすだらけだ。口は大きく、同じように大きな目は、光の具合やそのときの気分で、緑色に見えたり、灰色に見えたりする。
 そこまでわかるのは、普通の観察力のある人だ。もっと観察力の鋭い人には、それ以上のことがわかるだろう。あごがとてもとがっていて、頑とした意志を感じさせる。大きな目は気迫にあふれて、いきいきと輝いている。口もとはやさしくて、表情豊かだ。額はゆったりと広い。

松本侑子・訳 (1993年刊、集英社)
 年の頃は、十一歳くらい。黄ばんだ白の服を着ている。綿と毛の混織地で、丈が短く、幅もきちきちで、みっともない代物だ。色あせた茶色のセーラー帽をかぶり際立って赤い髪を、二本の太い三編にして背中に下げている。小さな顔は青白くて、肉が薄く、雀斑が散っている。口は大きいが、目も大きく、その瞳は、光線や気分によって緑色にも灰色にも見えるようだ。
 普通の人が見ればこの程度だが、洞察力のある人なら、こんなこともわかるだろう。あごは尖っていて凛々しいこと。大きな瞳は生き生きと生気に満ち、唇は愛らしいが、口元は表情に富み、そして額が広く豊かなこと。


……とまあ、こんな感じだ。
茅野訳以外は、引用元のブログで1つの文章の途中までの訳しか出ていないので最後のところは比較できなかったが、訳文の違いを見ていくとすごく興味深い。
このシーンは、アンが最初に登場するシーンで、ひっそりと暮らす初老の兄妹が孤児院から男の子を引き取ったつもりだったが、兄が駅に迎えに行くと、待っていたのは男の子ではなく赤毛の女の子だった……という場面。
だから、読者にどう印象づけるかがすごく重要になってくる。
小説を書くとき、こういう説明を並べただけの文章というのは結構難しい。どう書けば読者の頭にすっとイメージが浮かぶか、登場人物像をうまく印象づけられるか……テクニックの見せ所となる。

なぜか掛川恭子訳だけ sailor hat を「麦藁帽」と訳している。麦藁帽とセーラーハットでは全然違うが、単純なミスだろうか。ミスだとしてもすごく不思議なミスだ。

服の描写が、

着ている黄色みがかった灰色のみにくい服は綿毛交織で、ひどく短くて窮屈そうだった。(村岡訳)

綿と毛の混紡織りの、なんともさえない、つんつるてんの黄ばんだ服を着ている。(茅野訳)

白だか黄色だかわからない綿と毛の混紡の布で作った、とても短くて、とてもきちきちで、とてもみっともない服を着ている。(掛川訳)

黄ばんだ白の服を着ている。綿と毛の混織地で、丈が短く、幅もきちきちで、みっともない代物だ。(松本訳)

……というのも面白い比較になりそうだ。

その後、家まで馬車で送られる道中、アンが迎えに来てくれたマシュー(60歳・独身。妹と同居の小心で風采の上がらない男)に、
「いつか白いドレスがほしいんです。白いドレスを着られたら、最高のしあわせだと思うわ。あたし、きれいな服って大好き。おぼえてるかぎり、一度もきれいなドレスなんて着たことないけど、これから着られるかもしれないって思えば、そのぶんたのしみにできるでしょ? (略)けさ、孤児院をでたとき、このぼろっちい、みにくい、混紡織りの服を着なくちゃならなくて、ほんとうに恥ずかしかった!」(茅野美ど里・訳)
と告げている。
この部分の伏線にもなっているから、着ている衣服のことはちゃんと読者に印象づけなくてはいけない。
服を形容する very ugly の訳として、出版順に見ていくと、

「みにくい」(村岡)⇒「なんともさえない」(茅野)⇒「とてもみっともない」(掛川)⇒「みっともない」(松本)
 ……となっている。


ugly の訳語としては「醜い」「見苦しい」「醜悪な」「不快な」「いやな」……といったものが辞書に載っているが、日本語にするとき、この場合はどんな形容をすればいいのか……そのへんに訳者のセンスが現れる。
中学生のとき、「小説というのは描写することであり、説明してはいけない」と教えられた。
著者の主観が入った形容詞や説明はなるべく抑えるべきだとすれば、「みっともない」というのはかなり主観的な形容詞のようにも思える。
また、後から訳す人ほど、それまでの訳者の文章を参考にできるわけで、ちゃんと原文にあたって自分の訳を心がけないと、思わぬ誤訳をコピペしてしまう可能性もある。
……そんなことを考えながら訳文を比べていくと、一日どころか何か月でも遊べそうだ。
それにしても、翻訳というのは滅茶苦茶大変な作業だなあ、と、たったこれだけの文の訳を比べてみただけでも思い知らされる。
原文があるほうが大変。小説を書くのはゼロからだから楽なんだな、と思った。

上の写真は我が家の本棚の一角。茅野さんから謹呈された本が並んでいる。
『赤毛のアン』は最初の謹呈本だったと思う。
引っぱり出したら、ページはすでに黄ばんでいた。
「謹呈 訳者」と印刷されたしおりには「☆一度でいいから、こういうの、やってみたかった!」と書き添えてある。
ちなみに「こういうの」とは、翻訳のことではなく、「訳者謹呈」のことだ。
手紙も挟んであった。日付は1987年9月10日となっている。
「ここまで来るのは、本当に長かったけれど、やっと道が開けてきたみたい」と、素直に喜びを綴っている一方で、夫の実家がある地方都市に引っ越した後の生活は、その喜びを分かち合ってくれる人がそばにいないと、孤独についても書いてあった。
この孤独は、僕もずいぶん味わってきたし、今もそのまっただ中なのでとてもよく分かる。

乗り越えるには、井津先生の言葉「大勢にではなく、ひとりに向かって」を噛みしめることかな。
今は「一人に向かって」というよりは「自分の心に向かって」に近い。
自分にとって最高レベルの自己満足ができればいい……という心境。

さて、この日記を書くために『赤毛のアン』の冒頭を読んでみたのだが、ああ、小説ってこうじゃなくちゃね、と改めて思った。
描写の連続で構築する世界。
説明してはいけない。描写する。そこにどれだけのメッセージを込められるかが小説家の腕。
……ということを教えてくれたのは、聖光学院中学、高校の国語教師・臼井先生だった。
偏屈で人気のない先生だったけれど、彼のこの言葉だけはしっかり覚えている。
さらには、小説はエンターテインメントである、というのが僕のモットーでもあり、あからさまに作者の主義主張が述べられているような小説は、小説ではなくてノンフィクションやコラムとして書けばいいと思っている。
かといって「面白いだけの小説」を書きたいとも思わない。メッセージやテーマがない小説はゲームやパズルのようなもので、それはそれで必要だし、良質の娯楽を作る大変さは分かっているけれど、やっぱりテーマがないとね……って思ってしまう。
……ん? なんかこの「小説とは……」という話題で、昔、茅野さんと意見が噛み合わなかったような記憶もうっすらと……。
そうね。面白ければいいのよね、小説は。
つまらないのは論外。

しかしまあ、よい小説を書ける、出せる世の中でないとね。まずは。


追記:
「村岡花子さんの『赤毛のアン』は神聖視されていて……」という話は、もしかしたら茅野美ど里さんではなく、谷口由美子さんと話したときに聴いたような気もしてきた。
谷口さんは茅野さんのさらに先輩(二人とも上智大学英語学科卒)で、上智で非常勤講師をしたときに知り合って、何度か話をする機会があったのだった。
調べたら、谷口さんも『赤毛のアン』を訳している。
比較してみたくて、アマゾンで注文してしまった。
というわけで、上のWikiから引っ張ってきた訳者一覧に谷口さんを加えた。また、彼女の訳書が届いたら、この日記を更新することになるかな。
追記2:
この日記をUPした当初は原文が分からなかった。ありがたいことに、UPした数時間後に、ドイツ在住のFB友達・白鳥さんが原文を送ってくれたので、さっそく追記と書き換えを行った。
//私も昔、村岡花子訳にはまり、中学三年の時に渋谷で原書を手に入れ、その頃の語学力では全く歯が立たなかったにも関わらず、冒頭を暗記しようとしたり、少しでも「アン」の世界に近づこうとした「赤毛のアン」マニアでした。大学生になってからアルバイトでお金を貯め、プリンスエドワード島にまで行ってしまいました。//

……とのことで、『アン マニア』はいっぱいいるのだなあと、改めて思い知らされた次第。
ちなみにその原文ペーパーバックの表紙裏には茂木健一郎氏のサインが入っているとか。茂木氏もアン マニアで、白鳥さんと同じ原書を持っていた縁で、だとか。

雨の日曜日。ごく短時間でこれだけ楽しめ、なんだかすごくお得な気分になった。これで次の連ドラを見る目も少し変わるかな?

こういうの(謹呈)、やってみたかった! と書かれていた。27年前か……



↑美ど里さんが作詞し、僕が作曲した『Two Note Waltz』



XP終了の脅迫やら「マイルドヤンキー」というレッテル貼りに対する雑感やら2014/03/22 11:48

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ついにパソコンを起動するとこんな警告(というか脅迫?)が出るようになった。
XP問題については、今度の本『デジタル・ワビサビのすすめ 「大人の文化」を取り戻せ』(講談社現代新書 4月18日発売)でも章を1つ割いて書いている。

第三章 XPでも大丈夫!?
  • コンピュータOSという「共通言語」による世界支配
  • なぜXPを捨てなければいけないの?
  • XPは本当に使えなくなるのか?
  • 終了するのはOSのサポートである
  • 新しいOSのほうが未知の脆弱性は多い?
  • XPは「枯れたOS」「安定したOS」?
  • それでもXPを使い続けるには
  • いっそMacにする


今日は別の話題をひとつ。

アメリカ/米国不動産投資日記 ノルマは1日、5オファー(買い付け申し込み)というブログに書かれた「マイルドヤンキー賞賛とその先にあるもの、、、」という文章がネット上で話題になっていた。
「マイルドヤンキー」とはなんぞや?
どうも、
『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』 (原田 曜平・著 幻冬舎新書) あたりがネタ元らしい。

ブログ主のまとめが簡潔なのでそっくりそのまま引用させてもらえば、
  • 生まれ育った地元指向が非常に強い(パラサイト率も高い)
  • 郊外や地方都市に在住(車社会)
  • 内向的で、上昇指向が低い(非常に保守的)
  • 低学歴で低収入
  • ITへの関心やスキルが低い
  • 遠出を嫌い、生活も遊びも地元で済ませたい
  • 近くにあって、なんでも揃うイオンSCは夢の国
  • 小中学時代からの友人たちと「永遠に続く日常」を夢見る
  • できちゃった結婚比率も高く、子供にキラキラネームをつける傾向
  • 喫煙率や飲酒率が高い
……という特徴を持っているそうな。
これはものすごく興味深いというか、「ああ~、分かる分かる!」と頷ける分析ではある。


ただ、こういう分析している上から目線の人たちに対して、「マイルドヤンキー」なんぞと命名された人たちはますます見えないバリアを作るだろう。
彼らは「外の人たち」に対してバリアを作るだけで、特に攻撃はしてこない。いじわるをするわけでもない。でも、ニコニコしながら、受け入れてもくれない……。
そうした空気──受け入れてもらえないことへのもどかしさや疎外感は、地方都市や田舎に移住して暮らし始めるとすごくよく分かる。
「一緒にやろうよ」「まぜてよ」って近づいていっても、彼らのやり方以外のことを提示した時点で軽く拒絶反応が来て、無言でスルーされてしまうといった空気。
もちろんこちらにも問題がある(異分子、近づきたくない空気みたいなものを発している?)ことは分かっているのだけれど、それ以上に「あんたは別のグループの人だから」と最初に決めつけられてしまったようなアウェイ感がすごくある。

かといって、僕にとっては、ネットを使ってちょいちょいとキーボード叩いて大金を動かして儲ける技術を習得し、上から目線でマイルドヤンキーだの、低学歴低収入若年保守層とか分析している人たちは、「どーせ俺たちは馬鹿で貧乏だよ」という意識で固まっている人たちよりはるかに遠い存在、友達にはなれないグループという気持ちがある。
マイルドヤンキーなんてレッテルを貼られながらも、「地元」を愛して、そこで自分たちなりに活動している人たちがいるからこそ社会ってものは成り立っている。
その活動の中身や、やり方や、クオリティが問題なのは重々分かっているけれど、じゃあ、高学歴で世の中の仕組みを理解して、コンピュータに向かって株だの先物だの為替レート差益だの資産運用海外不動産投資だのをやって金を儲けているだけの人たちは「文化」の向上には寄与しているの? と言いたくなるのだ。
金が右から左に動くだけ、あるいはそれに伴って世の中の格差が広がり、土地が収奪され環境が汚されるだけ。そこに音楽だのアートだの哲学だのが生まれるわけじゃない。まあ、彼ら(上の図の「エリート」)は金は持っているから、文化的生産物を贅沢に「消費」することはできるだろうが……。
そんな「非文化的」(と敢えて言わせてもらう)人たちよりは、不器用ながらも地方の文化を担っていくのだという気概を持った人たちのほうがはるかに「文化人」ではないか。
僕自身は「マイルドヤンキー」より低収入で、死ぬまで生活不安を抱えて生きていかなければならないわけだが、楽しくクオリティの高い文化を築こうよ、という気持ちは誰よりも持っていると自負している。目下、なんとか新しい「地元」(日光)でそれを実践できないかなと、不得手なこと(人間関係の構築とか)も頑張ってやっているつもりなのだが、結果的には、(今のところ)どっちの側からも冷ややかに見られている感じではあるなあ。
まあ、これは自分に問題がある……はいはい。

アマゾンの書評に僕の気持ちをうまく代弁してくれている人がいたので紹介しておきたい。
ビジネスというシビアな目線での対象となるものの分析は必要かもしれないが、そこに「他を尊重する多様性」が無ければ、いつまでも日本からは世界的なヒットは生まれず、ずるずると貧しくなっていくだけだろう。
……まさにその通り!

で、このブログに引用されていたことで読みに行ったところ、もっとインパクトのあるブログに遭遇。
「私のいる世界  ひきこもり女子いろいろえっち」
みんな、いろいろ友達とSNSとかはやるし、そのやり方はおしえあうけど、その「友達」の中にだれも「インターネット」を理解してる人がいなければ、その友達はみんな、自分たちはインターネットはしてない、って考え方になる。

「低学歴の世界」って言葉は、すごいうまくいいあらわした言葉だと思った。
でもそこに属してるのは、低学歴の子供たちだけじゃないから。「低学歴の大人」や「子供を低学歴にする大人」が作ってる世界に育った子供たちが低学歴になる。
常識をおしえてもらえなかった子供たちが、その子供たちだけの常識作る。
それで、この「低学歴の世界」を、そうじゃない違う世界と切り離さないで、って思った。

「どこかでパイプ繋げて。それじゃないと、いつまでも、ちゃんとした世界に入れなくて、この世界に取り残される人がたくさんいる気がした」

……切ないねえ。

パイプを正しくつなぐジョイントは、誰もが持っているはずだ。
自分はどんなジョイントを持っているのか、そのジョイントで何ができるのか。……僕もずっと考えてきたし、これからも死ぬまで考え続けることになるんだろうな。

それにしても、ブログというものが登場してからは、読み応えのある文章を書く人がいっぱい出てきた。
この「ひきこもり女子いろいろえっち」というブログ主は自分のことを「20代ひきこもり系非正規女子のつまんないぼやき。とてもダメな人が書いてます。つまんないことしか書いてません」などと紹介しているが、なんのなんの。ダメなどころか、日経新聞にしょーもない提灯記事書いているような「識者」とかなんとかアナライザーとかいう人たちより、ずっと読み応えのある文章を書いているし、何よりも「魂」を失っていない。
(もっとも、この人が実際には中年男性のなりすましだったりすることもありえるところがネットの闇なのだけれどね。そんなことはない、と願いましょう)

彼女(多分)が強い影響を受けたというブログ「24時間残念営業」を書いていた某コンビニ店店長(らしい)なども、大変な文才の持ち主だ。
例えば⇒これ
過去にどんな最善が、あるいは最悪がおこなわれたかを知ること、ひいては世界がこのようなかたちであるのはなぜなのかを、たとえ大雑把にでもいいから知ること。そういうものを教養というのだと思う。
……なんていう結びの文、実に名言だなあ。
こういうブログが閉鎖に追い込まれたというのは、本当に残念なことだ。


てなことをやっているうちに今日も終わってしまった。おかげでフェイスブックのシステムから警告されるという始末↓

でも、本↓の再校戻し締切前にこういうのを見つけられてよかった。おかげでぎりぎり、もう一か所書き直しができたので、今日はよしとしよう。
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