人形作家・鐸木能子のネット葬2018/01/09 17:31

銅鐸をモチーフにした異色の人形

母親を「ネット葬」で送る

古いネガフィルムの中から、こんなのが出てきた。
なんともおどろおどろしいと感じるのだが、中には「これ、いい! 好きだ」という人もいて、感性というのは本当に様々だなあと思う。
↑これはお袋(鐸木能子)が人形制作を始めた頃、「銅鐸を題材にした人形を作ってみる」と言って作ってしまったもの。
写真だと分からないと思うが、表面は革(バックスキン)で、桐の木を彫ったものに木目込みして、その革の上から着色を施している。
人形とは何か、自分が作る人形はどうあるべきなのか……と、悩んでいる時期の興味深い作品。

そもそもお袋はなんで人形作家をめざしたのだろう。
「何か一つ、一生をかけて追求するものを見つけたい」と言って始めたのだが、そうなるまでにはいろんな紆余曲折があった。

もうすぐ出る本『医者には絶対書けない幸せな死に方』(講談社プラスα新書)の中で僕は、
死者を弔うという行為は、気持ちをどれだけ寄せられるかが大切であるはずです。であれば、時間を置いて「偲ぶ会」を宗教色なし、会費制で行うなどのほうが、参加者の心に残る、意味のある会になるように思います。
 それも大変なら、メモリアル動画をYouTubeにアップして、離れた人でもそれを見ながら死者との思い出や死者への敬意を持つ時間を作れる「YouTube葬」はどうでしょう。

……と書いた。
その精神で、お袋の人生を少しだけ振り返ってみたくなった。

人形作家・鐸木能子の生涯

お袋・鐸木能子は、昭和3(1928)年3月に群馬県の旧佐波郡伊勢崎町の蝋燭問屋・細野智之助の4女(7人兄弟の6番目)として生まれた。
母親は香といい、福島県白河の出身。奥の細道や一遍上人絵伝に出てくる「白河の関」の関守であった石井家とは親戚関係で、小峰城のお姫様で、子供の頃に棚倉城に移されたとかなんとか……そのへんの話はどうもはっきり分からないが、ともかく武家の娘だったことは確か。
子供の頃はよく「よしみつは時代が時代なら、侍大将として敵軍に突っ込んでいかなければならなかったのよ。なにを泣き言言ってるの!」と叱られたものだ。

父・細野智之助は伊勢崎で2番目の金持ちで、屋敷は広大で、門から母屋まで歩く間に使用人の家が両側に何軒もあって……というような話も、子供の頃はよく聞かされていた。
ところが父親が亡くなってからは、武家出身の母親が商売にまったく疎いお嬢様だったため、たちまち金を騙し取られて無一文になり、白河の白坂というところに開拓農民として移り住んだ。
父親代わりとして妹たちを育てていた長男は出征し、ボルネオ島で通信兵をしていたときに現地妻を作り、娘が生まれたが、その後、捕虜になり、妻子とは離ればなれになった。
帰国後は開拓農民として白坂の土地を開墾し、その土地(2町7反歩と聞いている)を払い下げてもらい、農業をする傍ら、教員免許を取って地元の小学校の教師として働いた。結局、ボルネオ島に残してきた妻子には二度と会うことはなかった。

お袋は5人の姉妹の4番目で、早くに死んだ父親の記憶はほとんどなく、長兄が父親代わりだった。貧乏だったので上3人の姉はみんな尋常小学校どまり。兄弟の中では初めて女学校まで行かせてもらったらしい。(ちなみに次兄は兄弟の中でいちばん頭がよかったが、病弱で、結婚後、娘を1人もうけた後に死亡)
お袋は上京して聖路加女子専門学校に学び、看護師の資格を取った。
そのときの恩師が有名な日野原重明氏(故人)で、戦時中は聖路加国際病院に担ぎ込まれる怪我人たちの手当や看護をしていた。
聖路加病院は立教大学と同じく、日本聖公会(イギリス聖公会の日本バージョン)の系統で、その影響で日本聖公会で洗礼も受けた。
その影響が強くて、若いときから西洋美術やキリスト教文化に強い憧れ(一種のコンプレックスかもしれない)を抱いていたようだ。

終戦後は立教女学院に就職。その後、看護師として白河市の病院に勤務。
そのとき、結核病棟に入院していた僕の父親(実父)と、看護師と患者として知り合い、結婚する。
実父は福島県の職員で、林業担当だった。犬と演歌と森が好きだったらしいが、そのことは大人になるまで知らなかった。
結婚後、白河の病院を辞めて、福島市に移り、福島大学附属中学に養護教諭として就職。そこで僕が生まれた。このときお袋は27歳。

20代終わり頃のお袋

その後、附属中学に今の親父(養父)鐸木經彦が理科の教師として赴任してきた。
で、親父はお袋に一目惚れしたらしく、同僚であるお袋に熱烈なラブレターもどきを書いて手渡したそうだ。
その話はお袋から聞いたが「子持ちの人妻である同僚にラブレターを渡すなんて、一体この人は何を考えているのか、って呆れたわよ」と言っていた。

お袋は附属中学の同僚である音楽教師から絶対音感の話を聞き、まだ2歳だった僕に絶対音感をつけさせようと、福島市内で適任者を探す。探し当てたのは市内の修道院にいたカナダ人シスターで、僕はそこに通って音感教育を受けた(当時の記憶はほとんどない)。

当時お袋が附属中学で影響を受けたものに「立体版画」というのもあった。
これは普通の版画のように版木に紙をあてて転写するのではなく、インクをつけたローラーを版木の上に転がし、そのローラーをそのまま紙の上に転がして、ローラーに残ったインクの濃淡を転写する、というもの。普通の版画とは違って、左右反転して彫る必要はない。
考案者は泉田さんといったかな。美術教員だったのか、課外教室の講師のような立場で附属中学に来ていたのかは知らないが、何年もの間、立体版画の年賀状が届いていた。
お袋も用具一式を購入し、年賀状は毎年その「立体版画」だった時代がある。
当時から、美術に対する興味や情熱はかなりのものだったのだろう。

B型のお袋は自由な生き方を愛し、当時の言葉で言えば「職業婦人」であることに大変な誇りを持っていた。
附属中学は国立だから、同じ公務員でも県の職員だった実父よりも給料がよかったという話も何度も聞かされたものだ。
実父は演歌が好きで、ギターの弾き語りはセミプロ並みだったらしい。でも、お袋は演歌を「下品なもの」としか見ていなくて、僕にはクラシック音楽を聴かせようとした。
そういうところも含め、お袋と実父は性格も趣味も合わず、僕が4歳くらいのときに離婚する。
当時、実父は出張先の新潟に愛人がいて、お袋はお袋で親父(養父)から言い寄られていて、離婚は時間の問題だったのだろう。
両親が離婚したときのことは少しだけ覚えている。
  1. お袋から「離婚してもいいか」と訊かれたので「いいよ」と即答した
  2. 仲のよかった飼い犬が実父と一緒に去って行くのが悲しくて、実父が出ていくトラックに向かって「クマ~ クマ~」と何度も犬の名前を呼びながら泣いた
  3. 通っていた幼稚園で、ある朝、園児全員の前で園長先生から「今日から添田くんは細野くんになります」と紹介された
この3つは特に記憶から消えないで残っている。

その後、お袋は今の親父と再婚(親父は初婚)し、2人で教師を辞めて上京した。

上京後、親父は学研の編集者として途中入社し、お袋は日本看護協会に事務職員として就職した。そこで、看護協会出身の女性代議士に見込まれ「私の後継者はあなただ」と言われたそうだ。
お袋もそれに応えて、ゆくゆくは代議士として政治の世界に入るつもりでいた。
しかし、物心ついたときからずっと鍵っ子だった僕は、毎日、長屋で1人留守番をしている生活に耐えられず、ある日、芝居を打った。
夜遅くなっても帰ってこない両親を待ち、台所の床の上で縮こまって寝たふりをしたのだ。
この姿を見れば親として少しは気持ちが揺らぐのではないか……と。
その夜、2人は一緒に帰ってきた。
「よしみつ、ここでお腹空かせたまま寝ちゃったのね」
「かわいそうに……」
……みたいな会話を、僕は寝たふりをしながら聞いていた。この頃から知能犯だったのだ。
作戦はまんまと成功した。
お袋はしばらくして日本看護協会を辞めた。
「あのときやめていなければ、今頃は政治家だった」という、半ば恨み言のような言葉を、僕は大人になってからも何度か聞かされた。

ところが、これでお袋が戻ってくると思ったら、そうはいかなかった。
お袋が妊娠したのだ。
妊娠したとき、お袋は僕に「やっぱりパパの子も生まないと、パパに悪いから」と言った。自分の連れ子だけを育てさせるのは気が引ける、ということだ。
ところが、親父のほうはそんな風には考えていなかったようで、自分の血を引いた娘が生まれても、あまり興味を示さず(赤ん坊というものにどう接していいか分からなかったようだ)、ひたすら会社人間として夜中まで働き続けていた。

妹の赤ん坊時代、我が家は地獄のようだった。
異常なまでにカンの強い赤ん坊で、一日中大声で泣き続ける。声が涸れ、ひきつけを起こしたように顔が紫色になっても泣き止まない。
ようやく寝たかと思うと、ほんのちょっとした物音で目を覚まして、途端にまた大声で泣き続ける。
おかげで、我が家ではテレビも音を出して見ることができず、イアホンアダプターというイアホンを3本分岐させてつなぐ器具を買って、イアホンでテレビを見ていた。
それでも、うっかりイアホンが引っこ抜けてテレビから音が出た途端にギャ~と泣き始める。途端にお袋が般若のような顔になって「何やっているの!」と僕に向かって怒鳴る。一家全員が極度の育児ストレスになって、暗い家庭になった。
こうした経験もあって、僕は、自分は絶対に子供は作らないと、小学生のときにすでに決めていた。(実際、そうした)

その地獄のような日々がようやく終わり、妹が泣かなくなった頃、お袋は今度は再就職ではなく、芸術の道へ進むと言い出した。
このまま専業主婦として一生を終えるなど考えられない。自分しかできないことを探して、一生それを追求する、というわけだ。
最初はリボンフラワーとかに手を出したりしていたが、すぐに先生を抜いてしまい「こんなものは一生かけてやるものじゃない」とやめて、その後に見つけたのが創作人形作家という道だった。
人間国宝の平田郷陽という人形師の作品に感銘を受け、平田氏が主宰する「陽門会」というグループの門を叩くが、平田氏がこれ以上、弟子は取らない方針だと知り、次に、陽門会のメンバーひとりひとりに弟子入り志願し、ようやく直弟子の一人・大谷鳩枝氏に弟子入りがかなった。

それからのお袋は、人形一筋だった。
大谷氏の下で10年、平田郷陽氏の秘伝である技法を一通り伝授され、マスターすると、大谷氏のもとを離れ、独立の道を探る。
最初は神奈川県展に応募したが落選。
入選作の展示を見て「あんな下手な作品が私の作品より上なはずはない」と、人形部門の審査員に直接電話をして「なぜ落ちたんでしょう」と問い質した。その勇気というか行動力はすごいなと思う。そういうところはまったく僕には遺伝しなかったのが残念だ。
お袋の気迫に押されたのか、審査員をしていた人形師は「あなたの作品は応募作の中ではいちばん優れていたけれど、私もやはりプロなので、自分の弟子たちを入選させてしまうのですよ。美術界というのはそういうものです」と、これまた正直に答えたそうだ。
それでもお袋は引き下がらない。「では、先生が所属しているグループに私も入れてください」と申し出て、しっかりその美術家グループに入会してしまった。
その会は日展系の会で、平田郷陽氏らの伝統工芸展グループとは対立、とまではいわないまでも、別系統だった。
お袋自身、人形に関しては日展よりも伝統工芸展のほうが格が上で、技術的にもすぐれた作家が集まっていると思っていたようだが、とにかくなんらかのグループに所属していなければ展覧会に入選できないのだから仕方がない、と割り切っていた。

お袋が人形作家をめざすきっかけは展覧会で平田郷陽氏の作品を見たことだが、今、ネットで「平田郷陽」を検索すると、平田氏の「生き人形」(生身の人間のようなリアルな人形)ばかりが出てくる。
平田氏は生き人形を作る人形師だった父親の後を継いだが、次第にアート志向になり、伝統的な木彫木目込み衣装人形の技法で「アートとしての創作人形」を追求するようになる。
お袋が感動したのはそうなってからの氏の作品だ。
「平田郷陽先生の若い頃の生き人形は、技術的にはすごくても、芸術とはいえない」
というようなことを、お袋はよく口にしていた。

日展に応募するようになってからのお袋は、自分が作る人形はどうあるべきかについて常に悩んでいた。
その時期の作品を撮った写真が少し残っていた↓



ほんとに悩んでいるなあ。
当時の作品を僕はいっぱい見ているけれど、一度も誉めたことはない。
「こういうのなら、彫刻やればいいじゃない」
「そもそもなぜ『人形』なの? 人形ってアートなの?」
というようなことを言って挑発していた。
そのたびにお袋は「そうねえ……」と言葉を濁していたように思う。
お袋の中でも「人形」とはなんなのか、という答えが明確には出ていなかったのだろう。

悩みながらも彼女は日展には毎年応募し続け、10年連続で入選も果たし、「日展会友」の資格も得た。
日展では伝統工芸的な人形は馴染まなかったので、「日展向けに」作っていた、ということもあるだろう。
その当時はバブル期とも重なり、お袋の人形は有名ホテルに100万円で買い上げられたりもした。
恩師である日野原重明氏を通じて、母校の聖路加看護大学にも1体「希望」という名の人形を贈っている。
聖路加看護大学の玄関ロビーでは、マントルピースとその上に「希望」と題した人形が来訪者を迎えています。(略)
マントルピースの上に飾られている人形は、昭和22年厚生科を卒業した鐸木能子(旧姓 細野)さんが本学の新校舎落成を祝い1998年(平成10)に贈呈して下さったものです。
鐸木さんは群馬県伊勢崎市の蝋燭問屋の生まれで、前学長 常葉惠子先生と同期生ですが、1965年以降人形作家になり日展会友、新工芸会員としてアーティスティックな創作人形を創る一方、伝統技法を生かした新しい気風の雛人形作家として活躍しました。
鳩を抱え、空を見上げている女性の人形像は、平和と希望を表現した作品で、伝統技法に加えた、鐸木さん独自の人形技法をみることができます。
Lukapedia: 聖路加看護大学 ともにつくる歴史事典 「由緒ある品々」より)

この頃の作品は写真を撮らずに売られていったため、今ではどんなものだったのか、僕の記憶も薄れてきている。
人形というよりは立体造形作品のようなものが多かった。そういうものに対して、僕はずっと疑問を抱いていた。
「こういうのを作るなら、木や石を彫り上げたもののほうがずっと力強いし、感動もある。粘土や布を使って作るようなものじゃないんじゃないか」と。
お袋は僕の酷評を否定はしなかった。そんなことは重々分かっている。でも、「大人の事情」があるから……ということだろう。
ただ、彼女の中での美意識や「芸術性」に対するセンス、理解力は揺るぎないものだった。
ダサい、つまらないと感じるものに対しては容赦なかった。その自信がどこからくるのかは分からない。
彼女の中では芸術的価値は100%自分の価値観で決まるものだった。
晩年、お袋を古殿町や棚倉町まで案内し、小林和平の狛犬を見せたが、手放しで興奮し、感動していた。
世に知られているかどうかは関係ない。いいものはいい。くだらないものはくだらない。自分の審美眼に適わないものは「全然ダメね」と、ズバッと切って捨てる。

そんなお袋が雛人形という活躍の場を見つけたきっかけは、所属するグループの先輩であった彫金の作家さんから言われた言葉だったそうだ。
「鐸木さんは人間国宝の平田郷陽さんの孫弟子でしょう? せっかく平田先生の秘伝技術を学んでいるんだから、それを生かさないのはもったいない。あなたは雛人形をやりなさい。雛人形はいいですよ。あれは食えるジャンルでもありますから」
そう言われたお袋は、平田郷陽氏の流れを汲んだ伝統工芸の技法で雛人形を作るという挑戦を始めた。

雛人形を作り始めた頃。髙島屋で展示できるようにもなった


それが成功し、お袋の雛人形を見て集まってきた弟子たちも抱え、「木の鐸会」というグループも作った。

雛人形は大きく分けると立ち雛と座り雛があり、立ち雛は木目込み、座り雛は衣装人形(衣装を着せた人形)が多い。
しかしお袋は自分が学んだ木彫木目込みの技法を座り雛にも取り入れようとした。
十二単の衣装を「着せる」のではなく、「木目込む」には手間と技術が必要になる。それまでは誰もそんなことはやっていなかった。
その技法は年々磨きがかかっていき、お袋もようやく「自分が築き上げた」と自信が持てる人形と向き合えるようになった。

1995年、神奈川新聞の記事(Clickで拡大)



木目込みで十二単の座り雛を作り始めた頃の作品

座り雛の十二単衣装を「着せる」のではなく「木目込む」ことに成功した



雛人形の歴史を振り返りながら、立ち雛にもいろいろなスタイルを取り入れようとした



雛人形を始めた頃は、10回入選すれば日展会友になれるから、ということで、日展への出品作だけは作っていたが、会友になった後は雛人形一筋になっていった。
晩年は、「今年のはいい出来よ。続けているとうまくなるものなのねえ」などと、嬉しそうに言っていた。

2007年5月。写真を撮ってくれと呼ばれたときのお袋
以下は↓そのときに撮ったもの。ほぼ遺作のようになってしまった








お袋は80になる直前、電話でこう言っていた。
「死ぬ前って、こんな気持ちなのね。でも、いい人生だったわ。そう思うでしょ?」

脳梗塞の兆候が現れて認知症状が顕著になり、脳卒中で倒れるのはそれからまもなくのことだった。

……とまあ、これがお袋の人生。

自己中心で、わがままで、周囲の人間を巻き込んで不幸にすることもあったけれど、死ぬまで好きなように生きたのだから、その点では幸せな人生だっただろう。
ただ、死に方は最悪だった。
こういう死に方だけはしてはいけない、させてはいけないということを身を持って教えてくれたお袋。
死んでだいぶ経つけれど、このページは僕なりの「ネット葬」かな。

今年も木の鐸会の雛人形が展示・販売されます
日本橋髙島屋美術工芸サロン(6F):2018年1月10日(水)~1月16日(火)
横浜髙島屋美術画廊(7F):2018年1月24日(水)~2月6日(火)
売れた作品は展示から消えていきますので、全作品が揃っている初日にどうぞ!
↑写真:木の鐸会代表・鐸木郁子の作品(日本橋髙島屋出展)



医者には絶対書けない幸せな死に方2017/12/19 11:04

『医者には絶対書けない幸せな死に方』

本当に「医者には書けない」のか?

『医者には絶対書けない幸せな死に方』(講談社プラスα新書)の発売まであとひと月になった(2018年1月18日発売)。
この本の企画を講談社に持ち込んでからすでに1年以上が経過している。
企画提案以降、何度も「テスト本」を印刷・製本した。最終版のpdfの奥付記録はこうなっている。
  • 2016年12月9日 テスト版原稿 Version1.0
  • 2016年12月19日 Version1.2
  • 2017年1月6日 Version2.0
  • 2017年1月8日 Version2.1
  • 2017年2月23日 Version3.0
  • 2017年3月1日 Version4.0
  • 2017年3月11日 Version4.1
  • 2017年7月15日 Version5.1  入稿前校正用
  • 2017年7月21日 Version5.2
  • 2017年7月26日 Version5.3 
  • 2017年9月10日 Version6.4
  • 2017年10月16日 Version7.0  初稿戻しバージョン
  • 2017年10月26日 Version 8.0 校正確認バージョン
  • 2017年12月15日 Version8.1 出版前最終確認バージョン

「医者には書けない」と銘打っているからには、その根拠を説明する責任があるかもしれない。
もっとも、このタイトルが最終的に決まったのはつい先日で、僕が決めたものではない。
企画を持ち込んだ段階で僕が仮につけていたタイトルは、
死に時・死に方・死んだ後
というものだった。
しかしすでにその段階で、まえがきには、
「死に方」についての本は医療関係者や宗教関係者によって書かれることが多いのですが、私はそのどちらでもありません。しかし、医療や宗教の現場とは無関係だからこそ、体裁を繕わず、本音で、踏み込んで、あるいは一線を「踏み越えて」書けることがあります。
という一文は入っていた。

企画会議は通らず、ペンディング扱いになった。上のテスト本奥付記録で3月から7月まで4か月空いているのはそのためだ。
編集のTさん(僕は彼には全幅の信頼を置いている)は編成会議には「死ぬ技術」というタイトル、コンセプトで提案したそうだ。
これには脱帽した。なるほど「死ぬための技術書」というコンセプトか……。それなら確かに「医者や宗教者には書けない」だろう。
この「技術」という大胆なキーワードを得た上で、以後、何度も書き直しを重ね、しぶとく食い下がった。それでようやくGOとなり、入稿を始めたのが夏。それから校了までも、大きな書き直しを何度も重ねた。

人の終末期においては、苦しみを加えるだけの延命治療はやめて「自然死」をうながすべきだ、という意見を表明する医師は増えている。
僕の手元にある参考書籍の著者をざっと拾ってみても、石飛幸三、長尾和宏、中村仁一、久坂部羊、西村文夫……みんな医師である。
内容はどれも納得で、僕もずいぶん参考にさせていただいたし、彼らの姿勢には心から敬意を表したい。

自然は、私たち生き物が、穏やかに最期を迎えられるようにセットしてくれています。それを人工的な延命措置を施して自然の摂理に逆らおうとすると、生き物に与えられた自然の恩寵(神の恵み)を受けられなくなります。
身体が最後に代謝を終えるのなら、飛行機が着陸するのなら、もう水分も燃料も無理に補給することはない、欲しくなくなるのですから食べなければよいだけ、そのうち眠くなって夢見心地、老衰の最終章はそんな姿です。
「平穏死」を受け入れるレッスン 自分はしてほしくないのになぜ親に延命治療をするのですか? 石飛幸三

……「医者には絶対書けない」どころか、すでに多くの医者が書いていることじゃないか、と言われそうだ。
確かに、「自分は医師として無理な延命治療には反対である。なぜなら……だからだ。この実態をあなたも知った上で、自らの死に向き合ってほしい」……という趣旨の本は多い。
彼らは、終末期患者と接した経験をもとに「こんな死なせ方はよくない」「もっと人間らしく、穏やかに、自然に死なせるべきだ」という「意見表明」をしている。しかし、では、具体的にどうすればいいのか、という「技術」についてはあまり語っていないように思う。医療の現場から発信できる情報は案外限られているし、実際の医療制度の問題などにまで踏み込むのは現役の医師として躊躇われるということもあるだろう。

「自然死がいい」と言われても、医者ではない我々にはできないことがたくさんある

こうした本を書いているあなたのような素晴らしい医師がそばにいてくれるならいいけれど、実際には在宅看取りに理解を示し、家まで来てくれる訪問医師はほとんどいない。
「あなたの街のホームドクター」を標榜している、いつもにこやかで優しいかかりつけのお医者さんも、いよいよ最後になると「ここから先はうちでは無理なので、ちゃんとした医療措置のできる急性期病院へ」と言って、長い間診てきた患者を急性期病院に送り込むことが多い。
その大病院では、患者が入って来るなり、医療点数の高い検査や投薬を徹底的にやり、それで死期が先送りされると、今度は入院基本料が下がって「まるめ」にされてしまう90日前には一転して追い出しにかかる。

介護施設にしても、自分のところで看取りまでするというポリシーを持ったところは極めて少なく、最後、食べられなくなったら病院へ送り込むことがほとんどだ。石飛さんのような自然死をテーマにしている医師が専属で常駐している施設など、日本中探しても数えるほどだろうし、見つかったとしても人気が高くて簡単には入れない。
また、石飛さんがいるのは特養だが、今は要介護3以上じゃないと特養には入れない。石飛さん自身、言っている。
特別養護老人ホーム(特養)の入所は、厚生労働省が要介護3以上に定めたので、衰えが進んで重症化している人ばかりが入ってくるようになりました。以前は、認知症で徘徊する人や「帰りたい、帰りたい」と騒いだりする人など体力的に元気な人がいましたが、いまはそんな元気な状態で特養に入ってくる人は珍しくなりました。「平穏死」を受け入れるレッスン

要介護3というのは、ざっくりいえば、排泄、食事、入浴など、日常の行動ほぼすべてに介助が必要で、認知症の程度も重い状態だ。そういう状態になって初めて特養に入る「権利」を得られるわけで、今、普通に生活できている人が考える「幸せな死に場所」とはかけ離れているだろう。

頭はしっかりしていても金がない老人が安心して過ごせる(穏やかに死ねる)場所や環境を見つけるのは極めて困難なのだ。

金さえあれば快適な施設は見つかるかもしれない。政治家や有名人などセレブ御用達病院として有名な聖路加国際病院と提携している「聖路加レジデンス」は、65歳から79歳まで入居した場合、2億200万円~5億5200万円(税抜き)という金額が提示されているが、もちろん、一般人がそんな金を持っているはずもない。
貧富の差が広がり、年金や福祉関連の制度が崩壊していく今後、「幸せに死ぬ」ことはますます難しくなっていくだろう。医者が書く「死に方論」では、そうした視点からの具体的提言も乏しい。

また、自分では、病院には絶対に行かず、家で静かに死ぬ覚悟ができていたとしても、いざとなると家族や親族がそれを許さない可能性が高いだろう。その危険を回避するにはどうすればいいのか?

その他もろもろ、「穏やかに、幸せに死ねない」要因が山のようにあって複雑に絡み合うのが普通だ。それを解決していくための個々の技術については医者たちはあまり教えてくれない。
さらには親の認知症問題や、老後破産の問題などが重なり、解決しなければいけない問題は次から次へと増えていき、「終末期の延命治療を拒否する」という話だけでは対応できない。


『医者には絶対書けない幸せな死に方』では、現時点で考えられる限りの問題点を洗い出して整理し直し、その対応策──「技術」について、極力「具体的に」提案していった。
医者や病院とつき合う技術幸せに死なせてくれそうな施設を見つける技術認知症につぶされない技術老後破産せずに楽しく生ききる技術、そして最後には「自ら死ぬ(自殺の)技術」にも言及している。

本書を何度も何度も書き直している期間は、父の認知症と老後破産に向き合い、介護生活を実際に経験していく期間でもあった。医療や介護の現場で働く人たちの生の声にも数多く触れることができた。
介護保険制度や介護施設関連の裏事情については、ルポライターなどによる「告発もの」はよく目にするが、それを知った上で、具体的にどんな解決策があるのか、どうやって「死に場所」を見つければいいのかを書いている本は少ない。もちろん、医者が書いた「死に方の本」も、その方面のことまでは言及していない。
そうしたもろもろが「医者には絶対書けない」部分なのだと思っている。

本書の内容については⇒こちら(http://takuki.com/shinikata.html)をご参照ください。





医者には絶対書けない幸せな死に方
「医者には絶対書けない幸せな死に方」(講談社プラスα新書)
2018年1月18日発売  内容紹介は⇒こちら

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矢部宏治の憲法観2017/10/15 15:35

■矢部宏治の憲法観(オレンジ本よりまとめ) 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(オレンジ本)のP.184-186部分を要約

「日本国憲法の真実」を極限まで簡略化すると、
  1. 占領軍が密室で書いて、受け入れを強要した。
  2. その内容の多く(とくに人権条項)は、日本人にはとても書けない良いものだった。

  • 占領軍が敗戦国の憲法草案を書いて、それを日本人自身が書いたことにしたことで、憲法という国家の根幹に大きな闇が生まれてしまった。
  • もしあのとき日本人の手で憲法を作ったら、その内容が現在の日本国憲法に比べてすぐれたものになる可能性はゼロだっただろう。
  • しかし、独立時に一度、GHQ憲法草案の良い点をできるだけ生かしながら、自分たちの手で作っておけば、少なくとも現在のように、立憲主義を否定する、まるで18世紀に戻ったような改正案を掲げた与党が選挙で圧勝するという、信じられないような状況は避けられたはず。
  • 近代憲法とは、いくら内容が良くても、権力者から与えられるものではない。(政府が作成してもいけない)
  • 憲法についての日本の悲劇は、「悪く変える」つまり「人権を後退させよう」という勢力と、「指一本触れてはいけない」という勢力しかいないこと。「良く変える」という当然の勢力がいない。もちろんそれは、変えるとかならず悪くなってしまうという現実があったから。
  • 密約のせいで、戦争ができるようになった「日本軍」を、自分たちの指揮の下で使いたいというのは米軍の過去60年の欲求。それを食い止めるために「指一本触れてはいけない」という護憲神話がこれまで戦術論として有効だったことは事実。しかし、そうして問題を先送りできる時期は過ぎた。
  • 2014年7月、安倍政権は歴代自民党政権が自粛してきた「集団的自衛権の行使容認」という解釈改憲を強行した。このままでは、おそらく日本が海外で、アメリカの侵略的な戦争に加担することを止められないだろう。

結論:
問題は、私たち日本人は1946年も、そして2012年(自民党改憲案)も、国際標準のまともな憲法を自分たちで書く力がなかったということ。個人でいくら正しいことを言っている人がいても意味がない。そうした意見をくみあげ、国家レベルでまともな憲法を書く能力が、今も昔も日本にはない。その問題を、これから解決していく必要がある。(p.190の結び)


枝野幸男らが主張する「改憲に反対するわけではない。しかし、安倍政権のもとでの改憲には絶対反対」というのも、結局はこういうことなのだろう。
















矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読んだ2017/10/15 12:36

矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読んだ。
筆者の頭のよさと勇気に脱帽である。

あとがき部分が特に印象に残ったので、一部を抜粋・要約してみる。


野田首相の自爆解散によって民主党が壊滅し、安倍政権が誕生してから、日本はふたたび戦前のような全体主義国家にもどろうとしているかのように見える。
(略)

GHQが日本国憲法の草案を書く3か月前(1945年11月)、当時42歳だったマイロ・ラウエル陸軍中佐は憲法改正のための準備作業として、大日本帝国憲法(明治憲法)を分析するよう命じられる。
1か月後、彼は「日本の憲法についての準備的研究と提案」というレポートを司令部に提出した。その結果は次の通り。

「過去の日本における政治権力の運用を分析した結果、数多くの権力の濫用があったことがわかった。そうした濫用が軍国主義者たちに日本政府を支配させ、国政を私物化することを可能にしてきた。
 日本に民主主義的な傾向がしっかりと根づくためには、次のような悪弊を是正することが必要である。

  • 国民に、きちんとした人権が認められていない
  • 天皇に直結し、国民の意思を反映する責任のない憲法外の機関がある
  • 裁判所が裁判官ではなく検察官によって支配されている。両者はともに天皇の意志の代理人である
  • 政府のあらゆる部門に対して、憲法によるコントロールが欠けている
  • 政府が国民の意思を政治に反映させる責任を負っていない
  • 行政部門が立法行為をおこなっている


↑この「軍国主義者たち」あるいは「天皇」を「安倍一強」に替えれば、そのまま今の日本の状況を表しているのでは?

政治権力の濫用が安倍たちに日本政府を支配させ、国政を私物化することを可能にしてきた。
  • 安倍に直結し、国民の意思を反映する責任のない憲法外の機関がある(官邸による官僚支配)
  • 政府のあらゆる部門に対して、憲法によるコントロールが欠けている(憲法解釈変更による集団的自衛権容認)
  • 行政部門が立法行為をおこなっている(「私は立法府の長です」)

……で、矢部氏の憲法に対するスタンスは、枝野幸男氏にとても近いのではないか、とも感じた次第。
とにかく今の状況を「すこしでもまともな方向に」向かわせるよう、国民も努力しなければいけない。
衆院選2017。こんどこそ「最後のチャンス」だろう。


















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