大塚康生さんとの想い出2021/03/22 12:06

一色(いしき)の鐘鋳神社にて 2005年8月2日
大塚康生さんが亡くなってしまった。
世間一般には、
日本におけるアニメの創成期から第一線で活躍し、宮崎駿や高畑勲と組んで『太陽の王子 ホルスの大冒険』『ルパン三世』『パンダコパンダ』『未来少年コナン』『じゃりン子チエ』などを手がける。(Wikiより)
……という人物として知られている。
当時の日本のアニメ業界を舞台にした朝ドラ『なつぞら』では、麒麟・川島明が演じた下山克己のモデルとなっているのが大塚さんだ。
昭和6(1931)年生まれだから、私の両親(昭和3年生まれ)と同世代。つまり、私とは親子ほど歳が離れている。
原画を担当した『白蛇伝』(東映動画)の公開は1958年。私はまだ3歳。
当時のアニメーション映画は、小学校の「幻灯」の時間でいくつか見た記憶がある。『安寿と厨子王丸』(1961年)はよく覚えているが、この作品でも大塚さんは原画を担当していた。
当時のアニメ映画の質は、色づかいといい、コマ割りの細かさやストーリーの豊かさなど、様々な点で、今よりもずっと高かったのではないかと思う。
ビジネスとしてだけでなく、世界レベルの作品を作るのだ、という気概にあふれていたからだろう。

伝説のアニメーター・大塚康生……でも、私の中では、アニメ作品とはリンクしておらず、「無邪気な狛犬好きの爺さん」である。
私の人生の中で出会った大塚康生さんという「人」の素晴らしさを少し書き残しておきたい。

出会い

初めて大塚さんと話をしたのは、2000年前後くらいだっただろうか。日本参道狛犬研究会(こまけん)の例会でのことだった。
例会のときも、例会後の懇親呑み会の席上でも、わざわざ近づいてきてさかんに話しかけてくる老人がいて、この人は一体誰なんだろう? と戸惑った。まるで旧知の仲であるかのように、あたりまえに話を振ってくるのだ。
終始ニコニコして、多動性の子供のように振る舞う。
初対面の人だし、もちろん名前も知らない。普通に受け答えしていたものの、ずっと面食らったままだった。
結局、そのときは最後までその老人の正体を知らないままだったと思う。

次に会ったのもやはり「こまけん」の例会で、そのとき、他の会員の誰かから「たくきさんって、大塚康生さんとは長いおつきあいなんですか」とかなんとか言われて、初めてお名前を耳にしたと思う。
「全然知らない人だ」と答えると、訊いてきた会員は驚いて「アニメの世界では超有名な人ですよ」と教えてくれた。
それでもまだ、自分はアニメマニアじゃないし、知らなくて当然だし……などと思っていた気がする。

どういういきさつだったのかは忘れたが、知らないうちにメールをやりとりするようになって、大塚さんから、ある日大量の画像が添付で送られてきた。欧州を旅行したときに撮影したガーゴイル(gargoyle=雨樋の役割をする化け物彫刻)の写真だという。


↑大塚さんから送られてきた大量の「ガーゴイル」写真。800枚近くある。

↑いただいたガーゴイル写真の中に入っていた。おいくつくらいのときだろうか

そのときも、変わった人だなあと思ったのだが、ガーゴイル論に発展するでもなく、そのままになっていた。

即答で寅吉・和平ツアーに駆けつける

忘れられないのは、2005年8月の「寅吉・和平ツアー」だ。
この夏、岐阜から友人の大須赤門夫妻が川内村の拙宅に遊びに来た。寅吉・和平の作品めぐりをしたいというので案内することになっていたのだが、ふと大塚さんのことを思い出してメールしてみた。よかったら一緒にどうですか、と。
即答で「行きます!」と返事が来た。
当日、磐越東線の神俣駅まで来てもらったのだが、列車が無人ホームに着くなり、笑顔でピョンと両脚を揃えてホームに飛び降りたのには驚いた。
本当に無邪気な少年のような人だ。
ご高齢なので、狛犬めぐりの間、体力が持つかしらとちょっと心配したのだが、終始上機嫌で喋りまくり、斜面にのぼって狛犬の裏側にまわって撫で回したりしている。そのうちに興奮しすぎて倒れてしまうのではないかとハラハラするほどだった。

↑↓古殿八幡神社の狛犬を見る大塚さん。




羽黒神社にて。この和平の狛犬(昭和8=1933年)は、その後、3.11東日本大震災で倒壊してしまった。




石都都古和気神社御仮屋にて。
↑石都都古和気神社の親子獅子、3頭の子獅子に想いをはせる自画像、とのこと。



一色の鐘鋳神社にて。



鹿島神社にて。寅吉の最高傑作を見る大塚さん。

神宮寺墓地にて、寅吉が彫った夫婦鶴の墓を見る大塚さん。



国津神社にて。梅沢敬明のデコラティブ狛犬を見る大塚さん。



借宿の羽黒神社参道口。寅吉の石柵の前で。

石柵の中の逆立ち獅子↓を撮る大塚さん↑。



川田神社にて。



沢井八幡神社の波乗り兎↑の「耳」を渡される大塚さん↓ 渡しているのはこの日、途中から案内役で加わってくださった石川町元助役の吉田利昭さん



沢井八幡神社では、和平が初めて銘を入れた石の社とキツネ像↓も



川辺八幡神社にて。和平最後の作品を見る大塚さん↓↑。
斜面に乗り出して狛犬の裏側にまで回り込む↑


↑気をつけてくださいよ~。


日本を代表するアーティストに最後の作品をしっかり見てもらえて、和平も喜んでいることでしょう。



↑いい旅だったなあ……と回想する大塚さん(自画像)

この狛犬ツアーでは、私のプジョー307で移動したのだが、移動中、車好き(特にジープ)、メカ好きという情報を得ていたので「ジープがお好きなんですって?」と話を振ったりした。
もう歳で、ああいう車は運転できないから、今はフォードのフォーカスという乗用車に乗っている、とのことだった。
クルマの話はそれ以上は膨らまず、車内ではずっと狛犬の話だった。

その夜は、赤門夫妻らと一緒に川内村の旅館「小松屋」に泊まっていただいた。
翌朝、旅館に迎えに行くと、赤門が色紙を持参していて、サインをねだっていた。大塚さんはサラサラとルパン三世の絵を描いて渡していた。
その後、妻がX-90で駅まで送って行き、一泊二日の狛犬ツアーが終了。いや、大塚さんは、待ち合わせに遅れたらいけないと思って、前日には郡山のホテルを取って「前乗り」したそうなので、二泊三日の旅になったのだった。
翌日、丁重なお礼メールが届いた。寅吉・和平の狛犬の素晴らしさを語ったそのメールの最後には、「たくきさんはきっと受け取らないと思ったので、失礼ながら、お車のドアポケットに些少ですがガソリン代を置かせていただきました」とあった。
X-90の車内を確認したところ、紙に包まれた1万円札があった。

「永遠の少年」という言い方があるが、大塚さんはまさにそういう人だったと思う。
好きなこと、興味のあることに夢中になり、真剣に人生を楽しむ。
私には「少年のような」という部分はむりだけれど、「真剣に人生を楽しむ」姿勢は見習いたい。そうした生き方の師匠である。

ああ、大塚さん。あなたがいなくなってしまうなんて、寂しすぎます。



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江戸時代の元号を語呂合わせで覚える2021/03/21 15:42

文化13(1816)年のキツネ
狛犬を見ていると、江戸の元号の順番や、西暦だとどのあたり?というのが分からず、モヤモヤすることが多い。
我々の感覚だと慶長も慶應も十把一絡げに「江戸時代」という感じになりがちだが、江戸時代は長い。慶長と慶應では250年くらい違う。
天変地異や時の為政者の政策で、10年違えば世相や食糧事情がガラッと変わっていることもあるはずだ。
江戸時代の元号をしっかり覚えておきたいものだなあ。でも、生まれつき記憶力が弱いのに、今は老化で脳みそがボロボロだから、無理だよなあ。

なんとか今からでも元号の切り替わりの西暦を語呂合わせで覚えられないものか……。
「鳴くよウグイス平安京」みたいな暗記法で。

……ということで、挑戦してみる。
まずは1600年代。関ヶ原の戦いの1600年は「一路雄々しく関ヶ原」って、小学校のとき覚えたなぁ。
その後、家康という「おっさん」(1603)が江戸に徳川政権を樹立した……と。ここからが江戸時代だね。
  • 慶長元(1596)年 「けいちょうふはく(軽佻浮薄)な殿様、いご、くろう(以後、苦労)する」
  • 元和元(1615)年 「きげんなおして、ひろいこころ(広い心)で」
    げんなりするぜ。16ひこう(非行)」(小さいときは可愛かったのに、やっぱりグレたか)
  • 寛永元(1624)年 「かんえいじ(寛永寺)なら いちろにし(一路西)へ」
  • 正保元(1644)年 「しょうほう(商法)を学べ、ヒロシよ
  • 慶安元(1648)年 「慶安の変で由井正雪、いちむしゃ(一武者)として死す」
    けいあんずるな(刑案ずるな)、ヒロシやらかしたけど」
  • 貞応元(1652)年 「じょうおう(女王)さまと言え、ヒロコには」(ドSなの)
  • 明暦元(1655)年 「頭脳めいれき(明晰)、ヒロコご立派 」(SMの女王は頭もいい)
    めいれかないヒロコご立派」(Sだもの。命令はする側だぜ)
  • 万治元(1658)年 「まんじ休す(万事休す)。ヒロコやらかした。」(そんなヒロコ女王も失敗はする)
  • 寛文元(1661)年 「かんぶん読むならヒロムいちばん」(勉強家の弘くん)
  • 延宝元(1673)年 「えんぽう(遠方)よりいちろ(一路)なみ(波)越え船きたる」
  • 天和元(1681)年 「じゅうろくはい(16杯)も蕎麦くってんな
    テンイン・エイト……カウントダウンイベントでひろばいっぱい」
  • 貞享元(1684)年 「じょうきょう(状況)次第で ひろうはし(拾う箸)」(汚いとか言ってらんない)
  • 元禄元(1688)年 「げんろくおきらく 色ババア」(遊郭のお局様?)

……1600年代だけで13個もあるのかよ。改元しすぎだろ。
小学生のときなら覚えられたかもしれないけど、今からだと無理だなあ、きっと。
ヒロシやヒロコは、やらかしたりご立派だったり……一体どういうやつなんだ? という難しさもある。
あと、天和が相当ヤバいな。

めげずに1700年代、いってみよ~!!(いかりや長介)

  • 宝永元(1704)年 「ほうえいご(英語)得意なのね、
  • 正徳元(1711)年 「しょうとく太子はいないひと?」(架空の人物説も)
  • 享保元(1716)年 「きょうほの選手、いないね、だね」(苦しい競技だからねえ)
  • 元文元(1736)年 「げんぶん一致だ、さぶろう(三郎)」
  • 寛保元(1741)年 「かんぽの勧誘、ひとなしいちばん」(ひどかったねえ、あの保険のやり口は)
  • 延享元(1744)年 「えんきょう(月の家 圓鏡)人気でなしよ
  • 寛延元(1748)年 「かんちゃんえんちゃん、なしや
  • 宝暦元(1751)年 「イナゴいっぴき」(どういうカレンダーやねん)
  • 明和元(1764)年 「めいわく千万、ひなんむし(避難無視)」(Jアラート? あれは迷惑だったわ)
  • 安永元(1772)年 「アンエイカップ、じゅうしちなつ(夏)」
  • 天明元(1781)年 「テンめいわく(迷惑)、ひなんばい」(火の不始末で森林火災。避難ばい~博多弁のテン?)
  • 寛政元(1789)年 「かんせいど(完成度)高いなっぱくれ」(最上級の菜っ葉しかいらん)

円鏡って、あたしらの世代だと、後の橘家圓蔵だけど、若い人は知らんだろうな。で、「かんちゃん、えんちゃん」は関西の人気漫才コンビってことでいいかな?
アイドルのアンちゃんは貧乳で夏は水着に苦労する? いや、17歳で巨乳は不自然だから、むしろそれでいい(ペコパ)

1700年代も12個もある。もう一息だ。1800年代に突入!

  • 享和元(1801)年 「きょうはいい天気、はれいちばん
  • 文化元(1804)年 「ぶんか勲章逃して、いや~、おしい!」
  • 文政元(1818)年 「みぶんせいどなんて、いやいや~」
  • 天保元(1830)年 「天保の飢饉ではさん(破産)。貯金ゼロだわ」
  • 弘化元(1844)年 「こうかい(後悔)したくない。いやよ、し(死)ぬのは」
  • 嘉永元(1848)年 「かえい(カレー?)作らせたら、いっぱしやね」(ココイチでバイトしてたからね)
  • 安政元(1854)年 「あんせいにして、こしを治す」
  • 万延元(1860)年 「いちまんえんで、ハムを買う」
  • 文久元(1861)年 「なにぶんきゅう(なにぶん、急)で、ハローワークへった」(いきなりリストラされた?)
  • 元治元(1864)年 「げんじてんでは、無視してよろしい」
  • 慶応元(1865)年 「慶應卒のむこ(婿)がきた」

……いやぁ、最後は息切れですね~。
幕末は安政が「安静にして腰を治す」で1854年と覚えたら、そこからはめまぐるしく変わるから、「あんまんぶん、げんけい」(餡饅を賄賂に差し出したら、その分、減刑された)と覚えておけばいいかな。この順番でわずか10年ちょっとの間に元号が5つも並んでいる。
そんなこんなで、1800年代も11個あるのか。

というわけで、なんとか語呂合わせ暗記を考えたわけだが、改めて全部を見てみると、「寛」がつく元号が5つもあるのがややこしい。
寛永元(1624)年、寛文元(1661)年、寛保元(1741)年、寛延元(1748)年、寛政元(1789)年。
寛永と寛政では160年以上離れている。でも、「寛」がつけば1700年代以前だと分かるので、台座に「寛」の文字があればテンションが上がるかな。

それにしても、である。
関ヶ原の戦い(1600年)で家康が勝利してから戊辰戦争(1868年)で徳川政権がつぶされるまで、実に268年ある。
戊辰戦争から現在(2021年)までは153年。
寛永と寛政を読み間違えると、それより長い時間を間違えることになる。

太平洋戦争で日本が敗戦(1945年)からはまだたったの76年。
我々が「戦後」と呼んでいる時代は江戸時代の3分の1以下しかないわけだ。
江戸時代って、気が遠くなるほど長かったのだなあ、と、改めて思う。
これも一助になるかな?



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明治神宮の狛犬と陽明門の狛犬の背景を探る2020/11/13 22:14

大宝神社の重文狛犬(「獅子・狛犬」京都国立博物館 より)

狛犬界?では有名な大宝神社の木造狛犬というのがある。
明治時代にすでに国宝(後の法律では「国指定重要文化財」)になっており、鎌倉時代の作とされている。
当時の他の木造狛犬(屋内に置かれた、いわゆる「神殿狛犬」)の中では異色ともいえるほどスマートでかっこよく、人気がある。
人気があるためにコピーもたくさん作られ、10月11日の日記に書いたように、明治神宮には創建当時から置かれたし、日光東照宮陽明門の裏側にも置かれている。
さらには、これをモデルとした岡崎古代型という石彫狛犬が日本全国に多数存在する。

最近、大宝神社にはこの有名な狛犬の他に、もう一対、木造狛犬(県指定文化財)が伝わっていたことを知った。
栗東歴史民俗博物館(栗東市小野)に寄託されていて、先月、同館の開館30周年記念展「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」で披露されていた。
大宝神社の「もう一対の」狛犬 (栗東歴史民俗博物館)

これは知らなかった。国重要文化財に指定されている狛犬が有名すぎたこともあるが、今まで、写真が公開されたこともほとんどなかったのではないだろうか。
平安後期~鎌倉時代あたりの木造狛犬の特徴を備えている。修復されているのだと思うが、実にきれいに残っていたものだ。
で、この「もう一対の狛犬」を見ているうちに、以前から有名な「カッコいい」ほうの狛犬に抱いていた一種の違和感というか、モヤモヤしたものがまた甦ってきた。
なぜ、あの狛犬だけが、当時の他の木彫狛犬とは違う印象を放っているのだろう……という思いだ。

いち早く「国宝」に指定されている

平安後期から室町時代にかけて、宮中を始め、公家社会や有名社寺ではいくつもの木造狛犬が彫られ、国の重要文化財の指定を受けているものも多い。
現時点で国の重要文化財に指定されている「狛犬」を指定された日付順に並べると、↓こうなる。

■国指定重要文化財の狛犬一覧

(所有者 種類 製作年代(推定含) 指定年月日)
  1. 和歌山県 丹生都比売神社 木造狛犬 鎌倉 1899.08.01(明治32.08.01)
  2. 和歌山県 丹生都比売神社 木造狛犬(2対) 鎌倉 1899.08.01(明治32.08.01)
  3. 広島県 厳島神社 木造狛犬(14躯) 平安~桃山 1899.08.01(明治32.08.01)
  4. 滋賀県 大宝神社 木造狛犬 鎌倉 1900.04.07(明治33.04.07)
  5. 香川県 水主神社 木造狛犬 室町 1901.03.27(明治34.03.27)
  6. 京都府 八坂神社 木造狛犬(伝運慶作) 鎌倉 1902.04.17(明治35.04.17)
  7. 兵庫県 高売布神社 木造狛犬 鎌倉 1904.02.18(明治37.02.18)
  8. 福岡県 宗像大社 木造狛犬 桃山 1904.02.18(明治37.02.18)
  9. 福岡県 宗像大社 石造狛犬 中国北宋時代 1904.02.18(明治37.02.18) 建仁元年施入ノ背銘アリ
  10. 福岡県 観世音寺 石造狛犬 鎌倉 1904.02.18(明治37.02.18)
  11. 京都府 御上神社 木造狛犬 平安 1909.04.05(明治42.04.05)
  12. 京都府 由岐社 石造狛犬 鎌倉 1909.09.22(明治42.09.22)
  13. 京都府 高山寺 木造狛犬 鎌倉 1911.08.09(明治44.08.09)
  14. 京都府 高山寺 木造狛犬(3対あり) 鎌倉 1911.08.09(明治44.08.09) 内二躯ノ台座ニ嘉禄元年八月一六日行寛ノ記アリ
  15. 愛知県 深川神社 陶製狛犬 室町 1912.09.03(大正1.09.03)
  16. 岐阜県 日吉神社 石造狛犬 桃山 1914.08.25(大正3.08.25) 天正五年五月不破光治造之ノ銘アリ
  17. 薬師寺(東京国立博物館保管) 木造狛犬 平安 1924.04.15(大正13.04.15)
  18. 石川県 白山比咩神社 木造狛犬 鎌倉 1924.08.16(大正13.08.16)
  19. 広島県 御調八幡宮 木造狛犬 鎌倉 1917.08.13(大正6.08.13)
  20. 滋賀県 白鬚神社 木造狛犬 鎌倉 1928.08.17(昭和3.08.17)
  21. 京都府 藤森神社 木造狛犬 平安 1936.05.06(昭和11.05.06) 胎内ニ徳治二年修補ノ銘アリ
  22. 奈良国立博物館 木造狛犬 1940.10.14(昭和15.10.14)
  23. 京都府 籠神社 石造狛犬 桃山 1942.12.22(昭和17.12.22)
  24. 広島県 吉備津神社 木造狛犬(3躯) 鎌倉 1942.12.22(昭和17.12.22)
  25. 東京都 大国魂神社  木造狛犬 鎌倉 1949.02.18(昭和24.02.18)
  26. 千葉県 香取神宮 古瀬戸黄釉狛犬 鎌倉~室町 1953.03.31(昭和28.03.31)
  27. 宮崎県 高千穂神社 鉄造狛犬 鎌倉 1971.06.22(昭和46.06.22)
  28. 石川県 白山比咩神社 木造狛犬 鎌倉 1989.06.12(平成1.06.12)
  29. 奈良県 手向山八幡宮 木造狛犬 鎌倉/附 江戸 2000.06.27(平成12.06.27)
  30. 岡山県 吉備津神社 木造獅子狛犬 南北朝 2002.06.26(平成14.06.26)
  31. 東京都 谷保天満宮 木造獅子狛犬 鎌倉 2003.05.29(平成15.05.29)
  32. 滋賀県 若松神社 木造獅子狛犬 平安 2015.09.04(平成27.09.04)
  33. 京都府 教王護国寺 木造獅子狛犬 平安 2019.07.23(令和1.07.23)

大宝神社の「国宝」指定は、丹生都比売神社、厳島神社(同時に指定)の次に古い。
それだけ早い時期から重要な狛犬だと認定されていたわけだ。
なぜなのだろう?

廃仏毀釈の反省から生まれた「国宝」

ここで改めて、国宝とか国指定重要文化財というものの歴史を振り返ってみる。

明治4(1871)年、明治新政府は、自分たちが発した神仏分離令が引き起こした廃仏毀釈の嵐によって全国で多くの文化財が破壊されたり、流出したことに危機感を抱き、「古器旧物保存方」を布告して、古器旧物の目録および所蔵人の詳細なリストの作成・提出を命じた。
その後、明治28(1895)年に内務省に古社寺保存会が設置され、明治30(1897)年6月に「古社寺保存法」が定められた。
これが文化財保護を目的とした最初の法律で、以後、昭和4(1929)年の「国宝保存法」、昭和25(1950)年の「文化財保護法」へと引き継がれていく。
この古社寺保存法によって、いわゆる「国宝」が誕生した。
現在は国宝と国指定重要文化財とは区別されているが、古社寺保存法の制定時は、「特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範」であるものを「特別保護建造物」または「国宝」としたので、建造物以外の文化財、美術品などはすべて「国宝」とされた。
上のリストは指定順なので分かりやすいが、大宝神社の角のない獅子像は、古社寺保存法制定3 年後の明治33年4月に、早くも国宝の指定を受けている(現在は重要文化財指定)。
このとき「国宝」とされたことで権威もついたため、以後、多くの模倣作が生まれたわけだが、丹生都比売神社、厳島神社に次いで、大宝神社の狛犬が早々と指定されたのはどんな理由で、どういう人たちの決定によるものだったのかが気になる。

丹生都比売神社、厳島神社、大宝神社などの国重要文化財狛犬は、簡単には見られないが、コピー狛犬には簡単に出会える。

例えば、日光東照宮には2対の木造狛犬が置かれていて間近で見ることができるが、どちらも模作(コピー)だ。
大鳥居をくぐって参道を行くと、最初に出会うのは表門(仁王門)にある狛犬で、これは宮中で最初に「獅子・狛犬」形式が出現したときからの、阿像は角なしの獅子、吽像は角ありの狛犬という「正統派」狛犬である。

日光東照宮表門の狛犬。古くからの神殿狛犬を忠実に再現している。


この狛犬と同型のものは多数あるが、京都御所清涼殿御帳台両脇に置かれた狛犬や八坂神社の狛犬(国指定重要文化財)が代表例だ。



八坂神社の狛犬 (京都国立博物館「獅子・狛犬」より)


八坂神社の狛犬は運慶の作とも伝えられているそうで、もしそうならば鎌倉時代を代表する狛犬といえるだろう。

これより古そうなタイプとしては、教王護国寺(東寺)の狛犬がある。長い間注目されていなかったようだが、2対伝わっていたうちの1対、東寺八幡宮伝来のものが昨年(2019)7月、ようやく国指定重要文化財になった。
教王護国寺(東寺)八幡宮伝来の獅子・狛犬(文化庁発表「文化審議会答申」資料より)


手向山八幡宮の狛犬(外から覗き見られるのはレプリカで、オリジナルは見られない)もこのタイプ(座高が高く、スッと蹲踞している顔長タイプ)に近い。
昨年の文化審議会による答申資料には、
東寺八幡宮に伝来した獅子狛犬の一対。ともに前後二材製で、尾まで共 木で彫出する構造に平安前期的な要素をとどめ、10ないし11世紀の製作とみられる。獅子(阿形)は迫力のある形相と精悍な姿態が表され、動物彫刻の優品として注目される、狛犬(吽形)は彫直しの手が加わっている可能性があるが、一対としてみれば大寺院の鎮守社に置かれるにふさわしい風格を示している。
という解説が載っている。

この東寺タイプや八坂神社タイプ(清涼殿タイプ)がどこか高貴さを備えた公家文化的な狛犬だとすれば、大宝神社の重文狛犬は精悍で攻撃的な武家社会の文化を象徴しているように感じる。

日光東照宮陽明門の狛犬は大正時代のものだった

日光東照宮で2番目に出会うのが陽明門裏の木造彩色の狛犬だが、これは大宝神社狛犬(国重要文化財指定のほう)のコピーである。

日光東照宮陽明門裏の狛犬。平成の大修理で彩色し直された後の撮影。

この狛犬を見るたびに「なぜこんなに新しそうなものがここに?」という違和感を覚えていたのだが、この狛犬は東照宮に元々あったものではなく、大正5(1916)年に「追加」発注されたものが置かれたという。東照宮のWEBサイトに「(陽明門の)狛犬は滋賀県の大宝神社が所蔵する国宝(現在は重文)の狛犬を模して、大正5年に製作したものです」と書かれているので、間違いないだろう。
陽明門は国宝指定されているが、この狛犬は大正期に持ち込まれたものなので、当然、含まれていない。
ついでにいえば、表門の狛犬と仁王像も重要文化財にはなっていない。
一方、「跳び越えの獅子」(石柵と一体化している一部として)、奥社参道の石造狛犬、鋳抜門の銅製狛犬は重文指定されている。

表門の仁王像は、京(左京)の大仏師・法眼康音の作とされている。
法眼康音は、その子・法眼康知とともに、正保4(1647)年に、家康の三十三回忌法要に合わせて本尊である虚空蔵菩薩像を造像したとされているので、現存の仁王像が康音の作であればその時代からあることになる。
この仁王像は、明治の神仏分離令によって大猷院に移動させられた。その後、明治30(1897)年に元に戻されるまでは、裏にあった獅子・狛犬を表に持ってきて、空いた裏側のスペースには花瓶が置かれていたという話もあるので、表門の狛犬が仁王像とセットで奉納されたものかどうかは疑問だが、少なくとも明治以前には存在していたようだ。


話を陽明門の狛犬に戻す。
陽明門の狛犬が大正期の作であると分かって、すぐに思い出したのが明治神宮内陣の狛犬だ。
大正9(1920)年に創建された明治神宮でも、彫刻家・米原雲海が彫ったとされる大宝神社狛犬の模作が内陣に置かれていた。
10月11日の日記に書いたように、当時の政府や軍部関係者は、この狛犬こそが「故実に準拠」し、「国民崇敬の中心率」となるものとしてふさわしいと惚れ込んでいたようだ。
神社用の装飾は、国民崇敬の中心率とならねばならぬから、故実に準拠することは、我が国体の上から見ても争われぬ事項に属する。(「明治神宮御写真帖 : 附・御造営記録」帝国軍人教育会・編纂)

戊辰戦争で徳川から政権を奪った明治新政府は、神仏分離政策を進めると同時に、「神社制限図」などを定めて、神社の様式を細かく規定しようとしていた。その流れの延長で、神社の「装飾品」としての狛犬も「故実に準拠」し、「国民崇敬の中心率」となるものとして統一的な様式を規定したかったのだろう。大宝神社の狛犬は、まさにそうした意図、お眼鏡にかなった「優等生」「模範生」的な狛犬と認定されたのだ。
明治神宮内陣に置かれていた狛犬(大正9年発行「明治神宮御写真帖」より)

それ故に明治神宮に置かれたのは分かるとして、新政府軍に倒された徳川の聖域である日光東照宮にも持ち込まれたというのは、徳川側にしてみれば屈辱的なことではないだろうか。
陽明門の狛犬に感じていた違和感の正体はまさにそれだったのか、と、今さらながら思うのだ。

東照宮を含め、日光の社寺は徳川政権が滅ぼされた後、荒廃の一途を辿っていた。それを憂えた地元有志や旧幕臣たちが中心となって明治12(1879)年12月に「保晃(ほこう)会」という団体を立ち上げ、社寺や文化財の保護のために寄付金を集めたり、新政府と交渉を重ねるなどして奮闘した。
その保晃会が解散したのが、奇しくも大宝神社型狛犬が陽明門に置かれた大正5(1916)年である。
狛犬を発注し、陽明門に置いたのは日光社寺共同事務所だという話も聞いたが、社寺共同事務所が設立されたのが大正3(1914)年なので、時期としては合致する。
何か関係があるのかどうかはよく分からないが、保晃会と日光社寺共同事務所が入れ替わった時期に大宝神社型狛犬が陽明門に置かれた、ということになりそうだ。

……と、ここまでいろいろ考えてきた上で、改めて大もとの大宝神社の狛犬を見ると、謎はますます深まる。
そもそも「鎌倉時代」の作というのは本当なのだろうか。
台座の裏には「伊布岐里惣中」という墨書きがあるという。
「伊布岐里」は伊吹山麓にあった村だろう。
「惣」は、中世後期から出てきた村の自治組織で、荘園時代からの領主に対して村民が談判したり、村の結束を固めるために作った寄り合い組織のこと。
つまり、この狛犬は、公家や大名ではなく、村民が奉納したらしい。
となると、鎌倉時代の農民に、あれだけのカッコいい木彫狛犬を奉納するだけの力(財力や余裕)があったのだろうか、という疑問がわくのである。
もしかすると、鎌倉時代ではなく、室町後期くらいなのではないか。戦国時代直前には、惣の主導者階層は武家社会に接近し、次第に武士化していったともいわれており、その時期であれば、自分たちの地位を確認する意図で、あのような立派な木彫狛犬を有名神社に奉納することがあったかもしれない。もちろんこれは勝手な想像にすぎないし、別に、鎌倉時代でなければ価値がないなどと言っているわけではない。
時代云々よりも、村民が突然あれだけのカッコいい(関西人風に言えば「シュッとした」)狛犬を奉納したということに不思議さを感じるのだ。
伊布岐里の惣は、一体誰にあの狛犬の制作を頼んだのだろうか。運慶、快慶などの慶派の仏師に、山里の村民が狛犬を発注できたとは思えないのだが、それにしては慶派の仏師顔負けの完成度の高いものに仕上がっている。そのことがどうにも不思議でしかたない。

ともあれ、大宝神社の狛犬には、誕生後何百年経っても歴史を動かすだけの魔力というか、不思議なパワーが秘められていたといえるだろうか。
あの狛犬を彫った彫師も、まさか自分の死後何百年も経って、日本全国に模作が置かれることになろうなどとは夢にも思っていなかったに違いない。

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「飛翔獅子」という呼称について2019/03/01 21:30

鹿島神社の「飛翔獅子」(吽像)

川田神社の飛翔獅子。寅吉自身が奉納した記念すべき最初の飛翔獅子 明治25(1892)年11月15日「浅川町福貴作 石工小松布孝作之」の銘



鹿島神社の狛犬(裏側から) 明治36(1903)年 「福貴作 石工 小松布孝」の銘

小説版『神の鑿』上巻 小松利平、は、目下160枚ほど書いて、利平がようやく福島に初めて足を踏み入れようとするあたり(天保年間)まできた。
小説化するにあたって、毎日、執筆時間よりも調べ物をしている時間のほうが多いのだが、ネット検索していると自分が書いた文章やサイトにぶつかることもある。
今日は朝日新聞のこんな記事を見つけた。
白河市を中心とする福島県南部には、全国でもめずらしい……というよりは、この地方だけではないかといわれる“飛翔する狛犬”たちが見られる。

……と始まる「城とラーメンの町で注目を集める新名物は“飛翔する狛犬たち”/福島県白河市ほか」(文・写真 中元千恵子 2017年3月22日)という記事。
2017年3月だから、2年も前に書かれていたのね。

で、ここでも書かれている
通常は前足を伸ばして腰を下ろした姿勢だが、白河地方では“飛翔獅子(ひしょうじし)”とよばれる独特のスタイルが生まれた。雲に乗り、尾やたてがみを風になびかせた姿は躍動感があり、彫りの美しさからも、もはや芸術、と称されている。

の、「飛翔獅子」や「雲に乗り」という部分がおかしいと主張している人がいると最近知った。
実際に問い合わせもあった。
狛犬の下の部分は明らかに「雲」ではない。雲ではないのだから、「空を飛ぶ」もおかしいのではないか、という趣旨のご指摘だ。
「雲に乗り空を飛ぶ」というのは、拙著『狛犬かがみ』にこんな記述がある。
江戸獅子の豪華版として獅子山というスタイルがある。獅子山の獅子は、今にも飛びかかりそうな躍動感にあふれているものが多い。加賀地方には、山の上で逆立ちしている獅子像がある。広島には玉に乗った狛犬が多い。しかし「雲に乗り空を飛ぶ狛犬」という構図は、ほとんど見たことがない。石で造るがゆえに、あまり自由な構図が許されないからだろう。
寅吉は生涯何体もの狛犬を彫っているが、ついにはこの「飛翔獅子」というスタイルに行き着く。これが寅吉の「発明」だとすれば、大変な功績といえよう。
(『狛犬かがみ』バナナブックス)

獅子を支えている部分については、「雲」ではない、と言われればその通りかもしれない。
しかし、江戸獅子の獅子山とは発想がまったく違う。仏像の蓮華座そのものかといえば、そうともいえない。蓮の意匠をあしらった部分もあるし、牡丹の花を添えているのもあるが、「あの部分」に関しては、おそらく、「後ろ脚を蹴り上げて飛んでいるような格好の石獅子を台座の上でバランスよく成立させるためには、どのような造形にすればいいか」という命題から出発して、あのようにまとめ上げたのだと思う。獅子と一体に一つの石から彫られているのも、そのためだ。

寅吉の出発点(発想の最初)はあくまでも、龍のように「天翔る獅子」を彫りたい、だっただろう。
重い石獅子をあの形で仕上げるには、前脚だけが台座に接続しているのでは無理がある。長くもたせるためには、重量バランスを考えて、なおかつ全体のデザインが壊れないようにまとめなければならない。そこで、「台座にのせる」という発想から一旦離れて、「獅子をあの形で宙に浮かせるためにはどういう形にすればいいか」という発想に切り替えた結果なのだ。
悩んだ末に、蹴り上げた後ろ脚を支える支柱の代わりに、モコモコっとした「何か」を後肢方向に盛り上げて、その「何か」込みで全体のデザインと重量バランスをまとめる、という作業に取り組み、完成させた……と見る。
あの「何か」が岩山なのか蓮華座なのかという定義は、寅吉にとってはあまり意味のないことだったのではないか。それをどう呼ぼうが「後付けの問題」で、あくまでも「天翔る獅子」を成立させるための「デザイン」が必要だった、ということだろう。儀軌的な定義ではなく、あのスタイルを実現するための物理学的な工夫の結果だった。雨水が溜まらないように随所に空洞を作るという工夫もされている。
あの部分に蓮や牡丹の意匠を採用していても、それは「ここはこうあるべきだ」ではなく、不自然さがなく、かつ、豪華、豪快にまとめるためのパーツ(木彫扉の錺金具のようなもの)だったと思うのだ。
あれを岩山であるとか、蓮華座であるとか厳密に「規定」してしまうと、途端に主役の獅子の動きが止まってしまい、躍動感や感動が薄れてしまう気がする。
あくまでも主題(目的)が「天翔る獅子」であるならば、「それを可能にするためのデザイン」として下にあるものを「雲にたとえて」もいいのではないか。

もちろん、寅吉自身が「空を飛ぶ獅子」というイメージをまったく抱いていなかったという可能性はありえる。
蹲踞した狛犬ではつまらないから、獅子に何か驚くようなポーズをとらせたいと考えた末に、後ろ脚を高く持ち上げてみた……というだけだった。それを見た人たちが勝手に「すごい! 狛犬が空を飛んでいる!」「雲に乗っている!」と感じた(解釈した)だけだ、という可能性……。
そうであったとしても、それまで誰も挑戦したことのない造形を生み出そうとしたことは間違いない。であれば、あれを見た人がイメージした「天翔る獅子」「飛翔獅子」が表現や呼び方として定着するのは、悪いことではない。たとえ寅吉がそう意図していなかったとしても、「雲に乗って空を飛ぶ獅子」と評されることを、寅吉自身、喜ぶのではないか。

芸道や芸術の修業における段階を表す「守破離」という言葉がある。
」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。(デジタル大辞泉より)

仏教では「習絶真」という言葉がこれに近い。
寅吉にとって、飛翔獅子の考案は、守破離の「破」から「離」に相当するものであった。それは確かだ。

思うに、寅吉の師匠である利平は、寅吉よりずっと自由人だった。利平に比べたら、寅吉はむしろ儀軌を重視する保守的な一面も持った人だった。
しかし、自由を愛した利平も、獅子を飛行させることはできなかった。アイデアはあったかもしれないが(そのアイデアを寅吉に語っていた可能性は大いにある)、彫り上げることはできなかった。
寅吉は、並外れた努力と技術で、それを形にしてしまった。……そういうことだ。

残念なのは、利平が寅吉の飛翔獅子を見ることなくこの世を去ったことだ。生きていたら、飛翔獅子を完成させた寅吉にどんな言葉をかけただろうか。

謎の飛翔獅子

矢吹町中畑字根宿の八幡神社には、後肢に支えのないアクロバティックな飛翔獅子がいる。

根宿八幡神社の飛翔獅子 明治41(1908)年。石工名なし


明治41(1908)年旧8月という銘があるが、石工の名前がない。
間違いなく寅吉の工房で彫られていると思うが、寅吉の作ではない。作風がまるで違うし、このとき寅吉はすでに64歳で、八雲神社の燈籠(「福貴作小松布孝六十五年調刻」の銘)にかかりきりだったはずだからだ。
極めて端正な顔とスマートな体躯。これは一体誰が刻んだのだろうか。
私の推理としては、当時まだ20代だった和平か、和平の同僚であった(?)岡部市三郎、あるいはこの二人の合作ではないか。
和平や市三郎以外の腕の立つ職人が石福貴にいたのかもしれない。

これは、「飛翔獅子を後肢に支えをつけないで設置できるのか」というテーマ(タブー?)に挑戦した作品であろう。
そういうことをやろうと思うのは、若く、反骨精神旺盛なときだと思う。守破離でいえば、「破」であがいている時期か。
老境に入って、自分の石工人生を振り返りつつあった寅吉は、弟子がそういう生意気な挑戦をすることについて黙って見守っていたのかもしれない。
あの飛翔獅子を彫ったのが和平だとすれば、後に「やはりあれは無茶だった。師匠が完成させた形を受け入れよう」と改心して、なおかつ「自分にしか彫れない飛翔獅子」を生み出そうと試行錯誤した結果、石都都古和気神社の親子獅子以降の傑作が生まれたのではないだろうか。

……とまあ、過去の物語をいろいろ想像しながら、目下、小説版『神の鑿』上巻を執筆中。
勉強することが多すぎて、寅吉や和平が登場するまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。



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通銅鉱山神社と磐裂神社の狛犬は入れ替わっていた──その後訂正2018/05/01 22:35

通銅鉱山神社の狛犬 背中の銘

単なる「間違い」ではない?

通銅鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬が「入れ替わっている」という説をさらに突っ込んで考えた末の結論を以下まとめてみる。

通銅鉱山神社の狛犬の背中には奉納者の名前がはっきり刻まれている。足尾郷の名士・神山氏が、先祖代々守ってきた地元の総鎮守・磐裂神社(妙見さん)ではなく、わざわざ山の上の、山師たちが建てた神社に、あれだけ出来のよい狛犬を奉納するだろうか。
これこそが今までの説明のように「簀子橋山神社から遷座された狛犬」ではないという推論の最大の根拠である。私の中ではこれはほぼ確信に変わっている。

また、現在、磐裂神社にある前脚のない狛犬こそが、かつては簀子橋の神社にあって、明治23(1890)年に流されてきた狛犬であろうこと、その奉納の時期は足尾銅山最盛期の延宝年間あたりではないかということも、半分以上の確率であたっていると思っている。
であれば、どこでどう入れ替わってしまったのか?
通銅鉱山神社の狛犬が簀子橋山神社から遷座されたという説明は単純な間違いなのか、それとも恣意的な嘘なのか……。そのへんをもう少し深く考えてみたい。

通銅鉱山神社ができたのは大正9(1920)年だが、それより30年前の明治22(1889)年には、前年に足尾銅山鉱業所長に就任した木村長七が音頭を取って大々的に寄付を募り、本山坑口前の山に本山鉱山神社(杉菜畑鉱山神社)を建立している。
しかし、皮肉にもその翌年に足尾大洪水が起きて、塩野門之助の妻子をはじめ、多くの村民が亡くなってしまった。神社の御利益どころか、まるで山の神の怒りに触れたかのようだ。

当時、木村長兵衛と塩野はピルツ炉の改造をめぐって対立していたことはすでに述べた。前年の明治21(1888)年には、塩野は辞職している。このときの木村長兵衛と塩野の関係は最悪だっただろう。しかし塩野が辞職した翌月、木村長兵衛が急死。その後、塩野は説得されて復職している。
時系列で並べると、
  • 明治21(1888)年、銅山運営をめぐって所長の木村長兵衛と技師の塩野の対立が深まり
  • ⇒塩野が辞める
  • ⇒その直後に木村長兵衛が急死し、木村長七が後を継ぐ
  • ⇒塩野が復帰
  • 明治22(1889)年、木村長七の主導で本山鉱山神社建立
  • 明治23(1890)年、大洪水で塩野の妻子を含む多くの村民が死ぬ
……となる。
失意の塩野は、かつて住友を辞める原因となった住友総理の広瀬宰平ではなく、その息子・広瀬満正に、再び別子銅山へ戻りたいと直訴するが、足尾でのベッセマ転炉建設計画が中途であることを理由に慰留される。
明治26(1893)年、塩野が指揮して日本初のベッセマ転炉が足尾に完成。その直後、塩野はさっさと足尾銅山を辞職し、別子銅山に設計部長として戻っている。
3年後の明治29(1896)年には再婚もして、完全に「人生のやり直し」をはかったように見える。

この後も、足尾銅山は様々な事件やトラブルの歴史を続ける。
  • 別子銅山に戻った塩野門之助が再婚した明治29(1896)年には、足尾でまた大きな洪水が起きて、1万3000戸以上の家屋が浸水した。
  • 明治33(1900)年 政府に請願するため上京しようとした鉱毒被害農民3,000人が警官隊に阻止される「川俣事件」。
  • 明治34(1901)年11月30日 古河市兵衛の夫人・為子が神田橋下で入水自殺。
  •         12月10日、田中正造田中正造が天皇へ直訴。逮捕される。
  • 明治40(1907)年 鉱毒の被害を受けていた谷中村が強制破壊により廃村に。

この時期は、鉱山の営業停止を求める運動がどんどん盛りあがっていった、古河にとっては「負の歴史」を刻んだ時代といえる。
本山鉱山神社で行われていた祭りなども消えていった。散々毒をまき散らし、山を破壊して洪水を起こし、人びとを苦しめておいてなにが鉱山神社だ、山祭りだ、という反発があったことは容易に想像できる。

そして、大正2(1913)年9月、反対運動のシンボル的存在だった田中正造が亡くなる。同じ年、古河鉱業会社理事長に就任していた木村長七が引退。激動の時代に一区切りがついたかのようだ。
古河にとっては触れたくない傷、思い出したくない人物である田中正造が亡くなり、激動の時期に銅山を牽引してきた木村が引退して7年後、通銅鉱山神社が建立された。明治14(1881)年 当時の鉱長・木村長兵衛の指揮下、大鉱脈が発見されて足尾銅山が一気に盛り返す大転換期からは40年近く経っている。

神社を作ったのは古河だから、通銅鉱山神社に今の狛犬を置いたのも古河ということになる。
狛犬を置いた責任者は、30年前に足尾大洪水があって、古河にとっては日本初のベッセマ転炉を作り上げた技師・塩野門之助の妻子が流されて死んだことを知らなかったのだろうか? そうとは思えない。

また、なぜ自前で新しい狛犬を建立せず、古い狛犬をよそから持ってきたのだろうか? 費用をケチっただけなのか? それとも、そうしたほうがいい理由があったのだろうか?

寛保3(1743)年の狛犬奉納の背景

ここで、寛保3(1743)年の狛犬がどのような時代背景のもとに奉納されたのかを考えてみよう。
奉納者は「下松原丁神山清右門」。下松原は現在の足尾歴史館があるあたりだから、まさに妙見さんのすぐそばで暮らしていた。
神山清右門がどういう人物なのかはよく分からないが、神山というのは足尾郷を開いた最初の5姓の1つだ。
日光市のWEBサイトにある旧足尾町歴史年表には、
「正和4(1315)年 足尾の5姓(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)が足尾に移住したと伝えられる」
とある。
このうちの神山氏は新田義貞の挙兵に参加し、戦国期には佐野氏に仕えたとも伝えられている。
また、栃木県神社庁の資料によれば、磐裂神社(妙見さん)の起原について、
往古、足尾郷民の祖日光中禅寺より足尾の土地に移住し土着せるものにして中禅寺の鎮守にして己等の氏神、妙見天童を一族の内、神山文左エ門、齋藤孫兵衛の両祖、交互に霊代を背負い奉り来りて遠下の地をとして鎮座せしめて足尾の鎮守となせり。
天安二年八月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として境内坪数千九百七十三坪と定め社殿を造営して名実共に鎮守となせり。
……とあるので、神山氏が妙見さんと密接な関係にあったことは間違いない。
この神山氏が寛保3(1743)年に狛犬を奉納したわけだ。もちろん、奉納先は妙見さん(現・磐裂神社)だっただろう。
足尾銅山はこの頃、全盛期を過ぎて、産出量が激減していた。日光市WEBサイトにある旧足尾町歴史年表によれば、
  • 延宝4(1676)年 この年から12年間、毎年1300トン~1500トンを出し、溶解炉32座、銅山師44人で足尾は極めて繁栄し、足尾千軒といわれた。また以後17年間足尾産銅を長崎に送り、そこからオランダに輸出した。輸出銅の20%を占めたので5か1銅と呼ばれた。
  • 貞享元(1684)年 足尾の産銅額が年産1500トンになる。
  • 元禄13(1700)年 産銅が急減し年産150トンになる。

だそうで、わずか十数年で1500トンが一気に150トンと10分の1にまで落ち込んでいた。
そこで、
  • 寛保元(1741)年 山師から山元の困窮を救うための鋳銭の許可願いが出される。
  • 寛保2(1742)年 5年間にわたり鋳銭座を設けて寛永通宝(足字銭)を2000万枚鋳造した。

……となった。
狛犬は1文銭鋳造を始めた翌年に奉納されているので、郷民の代表として神山清右門が総鎮守である妙見さんに、足字銭鋳造を機に足尾にまた活気が戻りますように、という願いを込めて奉納したのだろう。
神山清右門が鉱山師だったのかどうかは分からないが、神山家は足尾銅山が開坑する前からの郷士なのだから、狛犬をわざわざ離れた簀子橋山神社に奉納するはずがない。
また、そのときすでに簀子橋には狛犬一対がいた。というのも、産出量が激減したこの時期に、山師たちに狛犬を奉納するような余裕があったとは思えず、狛犬は銅がじゃんじゃん掘れていた延宝、天和、貞享年間あたりに「勢いで」奉納されたと思われる。
産出量が一気に増えたのが延宝4(1676)年で、翌年の延宝5(1677)年には妙見さんに燈籠が奉納されているから、狛犬が奉納されたのもこの頃だろうか。

磐裂神社の移転と通洞鉱山神社の建立

次に、通洞鉱山神社が建立される大正9(1920)年の少し前に、磐裂神社が移転したことに触れたい。
古河が切幹沈殿場を拡張するために神社を移転させることになった。
明治44(1911)年に神社庁より移転許可が下り、3年後の大正3(1914)年に社殿を解体して移築させたらしい。
通洞鉱山神社建立がその6年後だから、当然、通洞鉱山神社建立の責任者らは磐裂神社の解体・移築にも関与していたはずだ。
そのとき、磐裂神社に二対の狛犬がいることを確認したのではないか。
一対はボロボロで脚がなく、明治23(1890)年の足尾大洪水の際に簀子橋山神社から流れてきたものだという。古河にとっては忌まわしい過去だ。いくら古くて、足尾銅山黄金期に奉納された狛犬とはいえ、心機一転これから頑張ろうという時期に建てた新しい神社に持っていく気にはなれない。
一方、もう一対はとてもきれいで、背中には足字銭鋳造開始時期に奉納されたことが分かる銘がはっきり刻まれている。鉱山の歴史を物語る狛犬としてうってつけだ。これを持っていけば、新しく作って奉納するよりも箔がつくと思ったのかもしれない。
そこで神社関係者たちに「この狛犬をもらえないか」と持ちかけた。当時の古河と村民の力関係からして、妙見さんの氏子たちも嫌とは言えなかっただろう。

で、新しい神社に177年前の古い狛犬を持ち込むわけだから、それなりの説明が必要だが、古河としては鉱山の歴史よりずっと古い村社から持ってきたとは言いづらい。鉱山開拓初期の舞台であった簀子橋から持ってきたことにしたのだろう。
しかし、簀子橋の神社から大洪水のときに流れてきた狛犬のことを、地元の長老たちはまだ覚えている。だから「あれは流された狛犬だ」という話が次の世代にも伝わっていった。
「狛犬が流された」という話は地元の人たちには知られていても、表向きの説明には一切出てこない。古河にとっては掘り返したくない過去なので触れないし、旧足尾町も古河に忖度して、狛犬の起源については無難に「簀子橋山神社から遷座された」としか説明しなかった。その説明が今では完全に固定してしまった。
あっさりと「遷座された」というが、通銅鉱山神社が建てられた大正9(1920)年には簀子橋一帯に山神社は1社も残っていなかったのではないか。 塩野門之助の妻子が流された明治23(1890)年の大洪水の後にも、明治29(1896)年にも大洪水、明治35(1902)年には大暴風雨「足尾台風」……と、何度も大水害に見舞われている。保水力が低下していた山にあった神社もことごとく消えている。狛犬もとっくに流されていた。

……そういうことではないか。


━━━━━━━━━以下、2018/07/16 追記・改稿━━━━━━━━━

……と書いてきたのだが、その後、そもそも「通銅鉱山神社の狛犬は簀子橋山神社にあったのが洪水で流されてきた」「狛犬が流されたときに、別子銅山から来ていた塩野門之助の妻子も洪水にのまれて亡くなっている」という2つの大前提が間違っているらしいことが分かった。
明治22(1889)年に創刊された「風俗画報」という雑誌がある。Wikiでは「日本初のグラフィック雑誌」と紹介されている。大正5(1916)年に終刊するまで27年にわたり特別号を含む全518冊を刊行したそうだ。
その第234号(明治34(1901)年7月発行)の号が「足尾銅山図会」という特集号で、そこに狛犬のことが絵付きで紹介されている。

風俗画報 臨時増刊234号


簀橋不動…宿より渋川に向かえば…左に石段を登れば鉱山神社なり、背に『寛保癸亥天六月吉日願主下松原町神山清右衛門』と刻み、鉱石を以て造れる有名なる一対の獅子は此祠前にあるなり

風俗画報 臨時増刊234号 より

通洞鉱山神社が建立される大正9(1920)年より19年前の雑誌にこう書かれているし、このイラストはどう見ても現在の通銅鉱山神社の狛犬だから、この狛犬が簀子橋の神社にあったことは間違いないだろう。
当然、塩野門之助の妻子が流されたという明治23(1890)年の洪水のときにも、流されることなどなく、ここにあったわけだ。

伝聞情報だけで推理していくととんでもない間違いが生まれる、というよい例になってしまった。
「通銅鉱山神社の狛犬は簀子橋山神社にあったのが洪水で流されてきた」「狛犬が流されたときに、別子銅山から来ていた塩野門之助の妻子も洪水にのまれて亡くなっている」という話は町の長老が話したことが広まっていって現町民の多くも共有しているようなのだが、老人の記憶は時とともに怪しくなり、特に時系列が滅茶苦茶になりやすい。一つのトピックを元に関係ない話を勝手に作り上げてしまうのもよくある症状。やはり、物証で補完していかないといけないのだなあ……と。
自戒の念を込めて、間違った推論部分はそのままにしておく↑
しかしまあ、2対の狛犬がそこにいる、というだけでこれだけの歴史──しかも、表の歴史だけでなく、その時代を生きた人たちの生々しいドラマが浮かび上がってくるのだから、やっぱり狛犬は面白い。



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