足尾 磐裂神社の狛犬の謎(2) ― 2018/05/01 22:27
江戸期には間違いないが……
狛犬の寄進年が推定できそうな他の寄進物がないかと境内を歩き回っていると、壊れた燈籠が目に留まった。柱にうっすらと「延宝五」の文字が読み取れる。延宝5(1677)年か……そのくらいの年代の狛犬だといわれたら、それはそれで不思議はない。
バラバラになったまま放置されている燈籠
泥を落としてみると、延宝5(1677)年と読めた
ここは修験道信仰の庚申山への一丁目にあたり、庚申山碑や一丁目標もある。庚申山の上には猿田彦神社があり、明治23年(1890)に小滝坑の山神社として坑夫により建立されている
文久3(1863)年に寄進されている
寄進者は神田須田町の丹後屋安右衛門
参考:猿田彦神社↑ 2012年の足尾行きの際に訪れた
神田須田町の丹後屋安右衛門とは何者かと調べたところ、江戸の柿問屋らしい。
神田須田町や淡路町一帯は江戸時代には武家屋敷町を形成していた。
淡路町交差点あたりは、江戸時代、堀丹後守屋敷で、丹後殿前と呼ばれた。湯女を置いて客を招く湯女風呂街で、この界隈を徘徊する男達の着ていた衣装を丹前風といった。今湯上りに着る丹前の由来だそうだ。
(「千代田区神田淡路町・須田町の町並み」より)
で、そこに柿をはじめ水菓子(果物)販売を商いとする丹後屋があった。
信州・飯田市三穂地区の立石(たていし)集落というところで「立石柿」という干し柿が作られており、それが江戸まで運ばれて売られていた。
美穂の立石寺(りっしゃくじ)に文化11(1814)年、江戸の柿問屋たちが奉納した絵馬が残されていて、伊勢屋惣右衛門(堀江町二丁目)、遠州屋又兵衛(堀江町二丁目)、丹後屋安右衛門(神田須田町)、伊場屋勘左衛門(堀江町二丁目)という名前がある。
中でも丹後屋安右衛門は慶応元(1865)年の「御用水菓子納人申合帳」では、世話人として名を連ねているという。(飯田市WEBサイト内 「立石柿」 出典は『みる よむ まなぶ 飯田・下伊那の歴史』編集:飯田市歴史研究所 発行:飯田市)
その果物問屋の丹後屋が、なぜに庚申山への一丁目標を寄進しているのか? 丹後屋は熱心な庚申講信者だったのか?
もしかすると丹後屋のルーツは修験者で、全国の山を歩いているうちに立石柿など各地の特産物を見つけ、それを江戸に運んで売るという商いを始めたのかもしれない。
さて、この立石寺と同じ名前の立石寺が山形にある。「山寺」と呼ばれて有名な山形の立石寺は、ここ足尾の妙見山が氏神と定めた天童の妙見神社がある田麦野から山一つ超えた隣に位置している。
ここで再び、来福@参道さんの力を借りる。
この田麦野から山を越えた所に、芭蕉の句で有名な山寺立石寺があります。立石寺は慈覚大師の開基になる天台宗の古刹です。また、ヒヒ退治で有名な早太郎伝説の残る信濃の光前寺は、慈覚大師の直弟子である本聖上人が開いたもので、立石寺と光前寺は深い関係があったことが分かります。
もしかしたら、べんべこ太郎を連れて来た僧とは山一つ越えた立石寺の僧であり、信濃のべんべこ太郎とは、早太郎と同様に光前寺に飼われていた狼犬だったのかもしれません。(狼神話 山口・妙見神社)
べんべこ太郎の話は⇒こちらのサイトなどで取り上げられている。
坊さまは、その話聞いで、真夜中に神社さ行ってみだんだど、ほして静がに待ってだったらば、ふとあったげ風吹いできて、生臭い匂いしたがど思ったら、怪物らが集まってきて酒盛り始めだんだど。 しばらぐして酔っぱらった怪物らが歌うだいだして、「ボンボゴボン、おらんだが一番おっかねなは、信濃の国のべんべご太郎だ。ボンボゴボン」って歌うんだっけど。(秩父・仙台まほろばの道「べんべご太郎」)
修験道、狼犬、柿問屋……一見関係のなさそうなものを介して、信州~足尾~山形が結ばれたかのような気持ちになった。
寺の話が出てきたが、足尾の妙見さんには、かつて別当寺(明治より前、神仏習合だった時代に、神社を管理するために置かれた寺)として妙見山龍福寺という寺もあったが、足尾銅山の衰退で廃寺となっているという。足尾銅山の衰退というよりも、単純に明治の神仏分離令によって消えたのかもしれない。
「明暦元(1655)年、日光寺社奉行・荒井孫兵衛尉秀元、崇敬の念篤く、釣鐘一箇を寄進して栄代不朽の重器となせり」(栃木県神社庁 磐裂神社)と記載されている釣鐘は、この龍福寺に奉納されたものかもしれない。
このあたりの年譜をもう一度まとめると、
- 1655年(明暦元年)日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元が釣鐘を寄進
- 1677年(延宝5年)燈籠寄進あり
- 1712年(正徳2年)天神、大神、山神、稲荷、熊野の5神を境内に合祭
- 1809年(文化6年)改築
- 1863年(文久3年)江戸の果物問屋・丹後屋が庚申山一丁目標を寄進
- 1871年(明治4年)神仏分離令により磐裂神社と改称
……となる。狛犬もこのあたりのどこか(200年以上幅があるが)で奉納されたものだろう。
流された狛犬はこれではないのか?
通銅鉱山神社の狛犬は日光地域に残っているはじめ狛犬の中でも飛び抜けてきれいだ。洪水で1kmも流され、川から引き上げられた狛犬には、どうしても見えないのだ。
「あまりにもきれいすぎるよねえ」と言っていたら、助手さんが呟いた。
「流されたのは磐裂神社の狛犬のほうだったんじゃないの?」
……?!……
なるほど、それならすんなり分かる。あの摩耗の仕方、阿吽ともに脚がなくなり、角が丸くなっているのが、上流から流されてきたからだとすればしっくりくる。
ゴロゴロと転がり落ちる間に足がもげ、水圧で角が削られて丸くなっていったと解釈できる。
もしかして、通洞鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬はどこかで「入れ替わって」しまったのではないか?
そもそも通洞鉱山神社の造営は大正9(1920)年。狛犬の奉納は寛保3(1743)年だから、狛犬のほうが200年近く古い。
寛保元(1741)年に、足尾で銅を採掘していた山師たちが寛永通宝(一文銭)を足尾で鋳造させてほしいと請願し、翌・寛保2(1742)年に許可が下りる。以後、5年間で2000万枚あまりの一文銭を鋳造した。裏に足尾の「足」の字が刻まれていることから「足字銭」と呼ばれ、お金のことを「お足」というようになったもとだという説明は、鉱山観光の中でもされている。
寛保狛犬は一文銭の鋳造許可願いが叶ったのと銅の産出が増えるようにと願って「簀子橋の山神社に奉納した」ものといわれているわけだが、奉納先は本当に簀子橋の神社だったのだろうか? ふもとの古刹である妙見さんに奉納した可能性はないだろうか?
日光市教育委員会が設置した簀子橋(すのこばし)山(さん)神社大鳥居の説明看板には、
- 慶長16(1611年)年に江戸幕府の直山となり、簀子橋を中心に開発された。
- 文化3(1806)年に描かれた絵図には、簀子橋一帯に金山社、山神社(4社)、不動堂(2堂)が記されていて、いずれも有力な山師たちが建てたもの。
- 寛保3(1743)年に金山社に奉納された狛犬一対が、ご神体とともに大正9(1920)年に通洞山神社新殿に遷座された。
この説明だと、狛犬があったのは山神社ではなく金山社で、流されて下流で見つかったという話も出てこない。いろいろなところに出ている説明が微妙に少しずつ違っているのは、伝承ばかりで、確たる証拠が残っていないからだろう。
足尾銅山の全盛期は延宝4(1676)から20年ほどで、以後は銅の産出が激減していったという。妙見さんの崩れたままの燈籠が延宝5(1677)年の奉納であることを合わせて考えると、当時から簀子橋一帯に山師たちが建てた神社やお堂だけでなく、麓の妙見さんにいろいろ奉納していたことが分かる。銅山が発見されてから山師たちが建てた神社と違って、大同年間創建とされ、秩父の妙見、相馬の妙見と並んで「関東三大妙見」と称された足尾総鎮守である妙見さんは格がまったく違う。奉納するなら妙見さんへ、と考えるのは当然のことだろう。
寛保3(1743)年の狛犬の背中には、寄進者として「下松原丁神山清右門」の名前が刻まれている。下松原は現在の足尾歴史館があるあたりで、妙見さんのすぐそば。そんな場所に住んでいる「神山」氏が、地元の総鎮守・妙見さんではなく、わざわざ簀子橋の山神社に狛犬を奉納するのは不自然だ
一方で、簀子橋に山師たちが建てた5社(?)の神社のいずれかに狛犬が奉納されていて、明治23(1890)年8月の大洪水の際に流され、後に下流で発見され引き上げられたという話も本当だろう。しかし、その「流された狛犬」が、今、通銅鉱山神社にいる、きれいでできのよい狛犬だとは、どうしても信じられないのだ。
狛犬が明治23(1890)年に流されたとすると、通洞鉱山神社ができる大正9(1920)年までの30年間は別の場所にあったことになる。
川で発見され引き上げられたのが正確にいつなのか分からないのだが、発見された場所は渋川から渡良瀬川に流れる手前だという。
30年も川底にあったというなら、あんなきれいなわけはないだろう。通銅鉱山神社が作られる前に引き上げられていたとすれば、引き上げられた後に、とりあえず磐裂神社に置かれていたと考えるのが自然だ。
そこでこんな仮説を立ててみた。
- 足尾銅山全盛期の1600年代後半、延宝年間あたり、当時の採掘中心地であった簀子橋地区に山師たちが建てた神社の一つに狛犬が奉納された。(あれだけ大きな狛犬を山の上に奉納するには相当な金が必要で、銅山が衰退期に入ってからでは難しい)
- 寛保3(1743)年、徳川から一文銭鋳造許可が出たことを祝し、今後の銅山発展を祈念しつつ、足尾郷民の祖でもある神山氏の本家が村の総鎮守である妙見さんに狛犬一対を奉納した。(足尾郷民の祖であり、妙見さんの総代のような神山氏が狛犬を奉納したのだから、奉納先は山師たちが建てた山神社ではなく、地元である足尾総鎮守の妙見さんのほうが自然)
- この狛犬は社殿の軒下あるいは内陣前あたりに直に置かれ、風雪による摩耗などが少ないままきれいに保管されていた。
- 明治23(1890)年8月、山林伐採により被害が拡大した洪水によって、簀子橋の神社にあった(延宝年間奉納の)狛犬が流された。その洪水で、別子銅山を辞めて足尾銅山に来ていた日本有数の鉱山技師・塩野門之助の妻子も亡くなった。
- 簀子橋から流れてきた狛犬は渋川から渡良瀬川に流れる手前で発見され、引き上げられた。その後、妙見さんの境内に置かれた。
- 大正9(1920)年、足尾銅山通洞口に新たな山神社が作られたのを機に、古河が妙見さん(そのときはすでに「磐裂神社」)に奉納されていた寛保3(1743)年の狛犬を遷座させた。磐裂神社には簀子橋の神社から流されてきた狛犬だけが残った。
- いろいろな伝承が入り交じり、いつしか通銅鉱山神社の狛犬は簀子橋山神社の狛犬だと誤認識されるようになった。
……以上はもちろん推論にすぎないが、二対の狛犬を比べてみて、足尾銅山の歴史を振り返ってみた今は、これが正解に近いのではないかと思っている。さらにいえば、どちらの狛犬も、越前禿型狛犬のテイストを取り入れながらも、狼信仰、つまり山犬をイメージして彫られたものかもしれないとさえ思い始めている。
古河の社史や磐裂神社の奉納帳、あるいは流された狛犬が発見された当時の記録などに狛犬の記述が残っていれば、もう少し裏付けがとれそうな気もするが、難しいだろうなあ。
「ほほう……よくそこまで考えたな」と言っているだろうか……
(⇒この項さらに続く)
足尾 磐裂神社の狛犬の謎(1) ― 2018/05/01 22:07
磐裂神社はわたらせ渓谷鉄道の単線を渡った先にある
足尾の狛犬といえば通銅鉱山神社の狛犬が有名だが、そこからあまり離れていない磐裂神社という古社に「謎の狛犬」がいる。
この狛犬、以前から写真は見ていたのだが、実際には見逃していた。というのも、磐裂神社は歴史のある神社なのに、なぜか市販の地図などにはのっていないことがほとんどなのだ。
案内板にもある通り、創建は大同3(808)年というのだが、本当だとしたら平安時代!だ。
ただ、鉱山には開坑を大同2年、また大同年間とする伝承が数多いそうなので、鉱山で開けた足尾の総鎮守だけに、後になって大同年間創建とした可能性もありそうだ。
さて、日光中禅寺より足尾に移住してきた足尾郷民の祖といわれている人たちの中で神山文左衛門と齋藤孫兵衛の両氏が氏神を妙見天童としてここ遠下(とおじも)の地に鎮守を祭ることとしたという(『栃木県神社誌』 栃木県神社庁・編 1964)。
天安2(858)年8月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として社殿を造営、以後、神山氏、斎藤氏が交互に守ってきたという。
(しかし、日光市のWEBサイトでは、神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内の「足尾の5姓」が移住してきたのは正和4(1315)年と伝えられているとあり、足尾郷に人が住み始めた時期、妙見宮が創建された時期については伝承がかなりばらけている感じだ)
さて、正確な時期はともかくとして、この話でまず興味を引かれるのは、足尾郷の祖といわれる神山氏と斎藤氏が「妙見天童」を氏神としたことだ。
妙見天童とは、山形県天童市下山口妙見橋のたもとにある妙見神社のことと思われる。
妙見神社には狼信仰の伝説があるそうだ。
その昔、この地では三年に一度魔物に人身御供を捧げる風習がありました。魔物達が恐れているのが「信濃のべんべこ太郎」であることを知ったある僧侶が、べんべこ太郎を探しに信濃へ赴きましたが、べんべこ太郎とは大きな犬でした。苦労の末、僧がべんべこ太郎を借り受け魔物を退治したと伝えられています。
言い伝えによれば、べんべこ太郎と魔物たちの戦いは麓の山口から谷の奥の田麦野まで激しく繰り広げられたそうです。その後には魔物の正体であるタヌキが骸をさらしていたといいます。べんべこ太郎も力つき、山口まで辿り着いた時に息絶えたと言われています。村びとがこの地に、べんべこ太郎を葬りお堂を立てたのが、この妙見神社のはじまりだそうです。田麦野とはタヌキ野の意味であり、大昔からタヌキが田畑を荒らす害が深刻だったと言われています。このため魔物退治の伝説が生まれたのでしょう。
(「来福@参道」狼信仰─妙見神社 より)
人身御供を要求する化け物を退治する犬の伝説は信濃の早太郎そのものだし、須佐之男の八岐大蛇退治の話にも通じる。そういう話が日本全国に散見されるのはとても興味深い。
それにしても、中禅寺から足尾に移住してきた郷民の祖がなぜ山形県天童の妙見さんを氏神としたのか? 天童の妙見さんに伝わるという狼信仰伝説も足尾までくっついてきているのだろうか? いきなり謎だらけだ。
さて、その後、徳川が日光東照宮を建てた後は、足尾郷は日光領となって徳川の支配下に入る。足尾銅山を徳川が直営していたのもそのためだ。
神社庁の資料によれば、明暦元(1655)年に、日光寺社奉行・荒井「孫兵衛尉」秀元が「崇敬の念篤く釣鐘一箇を寄進」している。この荒井秀元と火縄銃田布施流秘伝者・新井孫兵衛秀重や足尾の星野氏との関係を書いているブログもあったが、ここではこれ以上は踏み込まない。
ただ、鉱山をまたにかけた山師たちと修験者たちの関係、山に生きる者たちが妙見信仰を篤く信奉していたことは伝わってきた。
そもそも妙見信仰とは北極星と北斗七星を神格化して信仰したもの。真っ暗闇に包まれる山の中で野宿することも多かった山師たちが、夜空を見上げたとき常にそこにある不動の星・北極星や、その回りを正確な時を刻みながら回る北斗七星を神格化したことごく自然なことかもしれない。
また、鉱脈探索に犬が使われていた歴史はあるし、そこから狼信仰が出てきた可能性もありそうだ。
前置きが長くなってしまったが、ではさっそく謎の狛犬の元へGO。
第一印象は「けっこうでかいな」であった。はじめ狛犬であれば小さいだろうと想像していたのだが、通洞鉱山神社の狛犬より一回り大きいか。
手前にある岡崎現代型はスルーして、目的の謎の狛犬のもとへ
おお! ようやく会えたね
阿像。前脚は完全に喪失。丸く削れている
吽像も同様に前脚は欠損。後肢も、おそらく蹲踞した形だったものが失われている
阿像は舌を出している
三越のライオン像を思わせるような鬣。越前禿型の影響を感じる
阿像の尾↑と吽像の尾↓ きちんと形を変えている
腹の下がきれいにくり抜かれていることから、はじめ狛犬とは言い難い。腹部に銘はなかった
目が細い。この目の表情に特徴があるが、残念ながらかなり摩耗してしまっている
背中に文字が刻まれていたかどうか……あったのが摩耗して読めなくなったような、最初からなかったような……
吽像のほうがまだ表情が残っている。歯がこのようにいっぱい並んでいるのは古い狛犬によく見られる造形
よく見ると、胸のあたりに瓔珞(ようらく)的なものも見られる。
さて、この狛犬はいつ頃建立されたのだろうか? 通銅鉱山神社の狛犬、寛保3(1743)年よりも古いのか? 新しいのか?
この大きさからして、何か特別なイベントがあったときに奉納された可能性が高いように思える。
改めてこの神社の歴史を振り返ると、
となると、古くて1600年代半ば、新しくて文化文政時代くらいだろうか?
(⇒この項続く)
この大きさからして、何か特別なイベントがあったときに奉納された可能性が高いように思える。
改めてこの神社の歴史を振り返ると、
- 1655年(明暦元年)日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元が釣鐘1筒寄進
- 1712年(正徳2年)天神、大神、山神、稲荷、熊野の5神を境内に合祭
- 1809年(文化6年)改築
- 1871年(明治4年)神仏分離令により磐裂神社と改称
- 1881年(明治14年)神饌幣帛料供進神社となる
- 1914年(大正3年)古河鉱業の資金で、解体後現地へ移転復元
となると、古くて1600年代半ば、新しくて文化文政時代くらいだろうか?
(⇒この項続く)
狛犬から知った、住友と古河の鉱山史 ― 2018/04/28 21:29
日光市足尾に通洞鉱山神社という小さな神社があり、そこに超個性的な狛犬がいる。
この狛犬は日光の「はじめ狛犬」(狛犬をあまり見たことのない村石工などが彫ったプリミティブな造形の狛犬)を代表する傑作で、狛犬ファンの間ではかなり有名になってはいるが、実は隠れたドラマがあるということを知った。
足尾といえば銅山。足尾銅山といえば有名なのは大規模な鉱毒被害とそれを告発して反対運動を死ぬまで続けた田中正造。
そこまではなんとなく知っていたのだが、今回、足尾在住のNさんに「この狛犬はもともと簀子橋(通洞鉱山神社の真北約1.5km)の山神社にあったのが、洪水で下まで流され、川から引き上げられてここに置かれた」という話を聞き、それは一体いつの話かと調べてみた。
狛犬が流されたとき、住友が経営する別子銅山から古河が経営する足尾銅山に移ってきた技師・塩野門之助の妻子が、洪水にのまれて亡くなっているという。そこでまず塩野門之助という人物を調べてみた。すると、古河鉱業だけでなく、足尾と並ぶ銅山だった愛媛の別子銅山を経営していた住友の歴史も知ることになり、塩野門之助と広瀬宰平、広瀬満正、伊庭貞剛といった人物との関わりも分かり、様々なドラマがあったことが分かった。
以下、足尾銅山、別子銅山略史と塩野門之助の人生を並べて記してみる。
慶長15(1610年)年 足尾に銅山が発見される。以後、1700年代初めまでに年1300~1500トンの銅を産出。産出した銅の5分の1ほどは長崎に運ばれ、外国へ輸出もされていた。
寛永7(1630)年 京都の銅吹き屋・蘇我理右衛門の子で住友家に婿養子として入った住友友以(とももち)が大坂に本拠を移し、銅精錬・銅貿易の泉屋を開業。住友家2代として住友財閥の基礎を築く。
寛文2(1662)年 住友家2代・友以没(56歳)、長男・友信が16歳で3代として家業を継ぐ。
貞享元(1684)年 住友友信の弟・友貞は独立して大坂で金融業を成功させていたが、この年 幕府関連の取引で失敗し、取りつぶし処分となる。兄・友信も連座責任を負わされ39歳の若さで引退させられる(住友家の危機)。後を継いだ4代目・友芳(16歳)は、父・友信とともに新たな鉱脈探査に乗り出す。その際、足尾銅山の調査もしたが、すでに低迷期に入っており、採算がとれないと判断した。
元禄3(1690)年 愛媛県東部に別子銅山が発見され、翌元禄4(1691)年 住友が別子銅山を開坑。住友家は江戸時代最大の鉱業家となる。
文化14(1817)年 足尾銅山は産出量が著しく落ち込み、一旦休山となる。この頃、別子銅山も産出量が激減していく。
嘉永6(1853)年 島根藩士・塩野鉄之丞の長男として塩野門之助誕生。
慶応元(1865)年 住友財閥の前身・泉屋の大番頭・広瀬宰平が別子銅山支配人に抜擢され、廃坑寸前状態からの建て直しを進める。
明治3(1870)年 門之助、藩校修道館で仏語修行を命ぜられる。
明治4(1871)年 足尾銅山が民営化決定。
明治7(1874)年 住友がフランス人鉱山技師ラロックの通訳として門之助を外務省よりヘッドハンティング。
明治8(1875)年 泉屋は住友本社に改組され,別子銅山は住友本社の直営となる。
明治9(1876)年 門之助、ラロックの「別子鉱山目論見書」を翻訳。この年 住友の私費留学生として渡仏。翌年 サンテチェンヌ鉱山学校予備校に入学。
明治 10(1877)年 古河市兵衛が渋沢栄一らの協力を得て足尾銅山の経営に乗り出す。このときの産出量はわずか52トン/年。
明治13(1880)年 足尾銅山から出た鉱毒が川に流れ込んで、魚が浮いて死んでいるのが発見される。栃木県令が魚類捕獲禁止令を出す。
この年 門之助、サンテチェンヌ鉱山学校を卒業し、鉱山の実地修行。
明治14(1881)年 足尾銅山の鉱長・木村長兵衛(古河市兵衛の甥)の指揮下、大鉱脈が発見される。
門之助、フランスから帰国。
明治15(1882)年 門之助、別子鉱山技師長就任。
明治19(1886)年 門之助、溶鉱炉研究のため自費で欧米出張。
明治20(1887)年 門之助帰国。住友の別子銅山では煙害が発生し、農民が決起する騒動に。門之助は惣開の中央製錬所構想を上申するが、採用されず、住友総理の広瀬宰平と衝突して退職。友人の福岡健良(古河・本所熔銅所長)の推挙で足尾銅山に就職。足尾銅山は年産6000トン以上を産出し続け、「殖産興業」の代表格になっていた。 (当時、銅は生糸・絹製品に次いで日本第二の輸出品だった。1890年代には足尾、別子、日立などの銅山から出た銅の輸出は世界の総産出量の5%以上を占めていた)
足尾の総責任者であった木村長兵衛は、赴任してきた門之助に現行の「ピルツ炉」の改造を命じるが、そのことで門之助は木村と対立していく。
明治21(1888)年 門之助、第二代住友総理事で「別子銅山中興の祖」と呼ばれる伊庭貞剛にベッセマ転炉の採用を進言し、同時に別子へ戻りたい旨を懇願。
4月、ピルツ炉の改造をめぐって坑長・木村長兵衛との対立が深まり、辞職。*1
5月、木村長兵衛が急死。後任として木村長七が坑長に就任。その後、門之助が復職。 明治22(1889)年 電気製練法が採用され生産性が一気に上がるが、亜硫酸ガスも増大。田中正造が足尾銅山鉱毒被害について帝国議会で質問。
この年、坑長・木村長七が中心となって本山抗口の前の山に本山鉱山神社(杉菜畑鉱山神社)を建立。
明治23(1890)年 8月、山林の伐採により、足尾で大洪水が発生。門之助の妻子も洪水にのまれて死亡。このとき、簀子橋山神社にあった狛犬も流出し、1km弱下流にまで流される。沿岸には鉱毒が氾濫し、各町村で鉱毒反対の動きが活発に。門之助は住友の広瀬満正へ別子銅山へ戻りたいので取りはからってくれと懇願する。
明治24(1891)年 群馬県議会、鉱毒防止の建議書可決。
1月、門之助、足尾銅山小滝分局長,木部末次郎の名で「製煉法之儀ニ付伺」と題する上申書を提出。かねてより注目・研究していたベセマ錬銅法の採用を提言。
明治25(1892)年2月、この提言を受け、古河市兵衛は翌2月に塩野をアメリカに派遣し,当時世界でただ一か所ベッセマ錬銅法を実用化していたモンタナ州ビュート銅山のパロット製錬所を視察させる。帰国後、門之助は製錬課長となり、ベッセマ転炉の建設に着手。
3月、伊庭貞剛宛に再び別子銅山帰山を懇願。6月には広瀬満正宛にも懇願するが、ベッセマ転炉が完成するまでは許されず。
明治26(1893)年 日本初のベッセマ転炉完成。製錬工程でカギとなる先進技術。塩野門之助の功績。
住友家総理人・広瀬宰平が辞職。伊庭貞剛が本店支配人のまま新居浜に赴任。門之助、ようやく足尾銅山を辞職。
明治28(1895)年 門之助、別子鉱山に再就職。設計部長となる。このとき門之助は43歳。
明治29(1896)年 門之助、再婚。
足尾で大旱魃の後に大洪水。浸水家屋13,802戸。鉱業停止運動が活発になる。
明治33(1900)年 鉱毒被害農民3,000人が政府に請願するため上京。その途中、館林市川俣において警官隊に阻止、鎮圧される(川俣事件)。
明治34(1901)年11月30日 毎日新聞の鉱毒被害追及記事をうけ、古河市兵衛の夫人為子が神田橋下で入水自殺。世論が大きく動く*2。12月10日、田中正造が天皇へ直訴。逮捕される。直訴状が天皇に渡ることはなかったが、これがきっかけで世論がさらに盛りあがり、鉱毒事件が全国に知られることになる。
明治40(1907)年 鉱毒の被害を受けていた谷中村が強制破壊により廃村となる。
大正2(1913)年9月 田中正造没(71歳)。
大正9(1920)年 古河が足尾通銅鉱山神社を建立。
昭和8(1933)年7月 塩野門之助没(80歳)。
昭和10年代、足尾銅山が浮遊選鉱法を採用。これにより鉱さいはが細かくなり、鉱毒被害が一層ひどくなる。
~~~
昭和22(1947)年 カスリン台風襲来。足尾の洪水被害甚大。沿岸市町村は鉱毒対策委員会を結成。県は実態調査を実施。
~~~
昭和48(1973)年 足尾銅山閉山。同年 住友の別子鉱山も閉山。
*1
*2
……こう見ていくと、日本の近代史、特に鉱工業や経済史の中で、住友や古河がどのように成功していったかが分かる。
住友は足尾銅山が衰退していたときに調査もしていたという。
足尾のわたらせ渓谷鉄道通洞駅近くには「泉屋旅館」があり、古河の幹部や古河が招いた客人の定宿となっていた。同旅館は閉山後も細々と営業していたが、地元の人たちは「泉屋旅館」の場所一帯を「泉屋」と呼んでいたそうで、住友が足尾銅山の採算性や将来性を調査していた時期にそこに滞在していたのではないかとのこと。そうであれば、住友の旧屋号をつけた旅館でライバルの古河が芸者を上げて酒盛りをしていたわけで、なんとも皮肉な話に思える。
もしも、住友が足尾を見限らず、手をつけていたら、別子だけでなく足尾も手に入れてダブルで大儲けしていたかもしれない。そうなると古河市兵衛の成功もなかったわけで、歴史はどこでどう変わるか分からないものだ。
ちなみに古河市兵衛は生涯3度結婚しているが、3人の妻・鶴子、為子、清子のうち、為子は足尾銅山鉱毒事件の渦中に神田川に入水自殺している。
「東の足尾、西の別子」と呼ばれた日本の二大銅山を行き来した塩野門之助の人生は特に興味深い。
当時の世界最先端技術を日本に導入するという活躍をした一方で、山林伐採による洪水被害や鉱毒垂れ流しによる甚大な環境汚染を引き起こした時代、妻子を失い、住友と古河の間で上司とは常に対立したり懇願したりといったストレスフルな人生を送ったことがうかがわれる。
門之助の妻子を呑み込んだ洪水は簀子橋の山神社の狛犬も押し流したが、狛犬は下流でその後発見されて引き上げられ、新たな居場所を得た。ガイドブックなどには「簀子橋山神社にあったものが移された」と説明されているが、移されたというより、「流れ着いた」のだ。
その狛犬が今は「廃墟観光」の代名詞のようになっている足尾銅山跡地で、観光客を見送っている(通洞鉱山神社は足尾銅山観光ルートの出口からしばらく行ったところに位置しているので、多くの観光客は帰り際に横目で見るような形になる)。
すごいドラマを背負った狛犬だったのだ。
1kmも流されたのに、欠損や摩耗がなく、背中の銘までくっきり読めるというのも、ちょっと信じられない。まさに「奇跡の狛犬」か(これに関しては「そうではない」という推論へと続く)。
このときの洪水だけでなく、足尾では何度も洪水被害が起きているが、鉱山開発による大規模山林伐採で山が保水力を失い、流出した土砂の堆積で麓の川底が上昇して「天井川」を形成してしまったことが大きな原因となっており、鉱山開発が引き起こした被害といえる。
その洪水で門之助の妻子はなくなった。古河市兵衛の二番目の妻が、鉱毒事件の最中に自殺していることとも合わせて考えると、男たちが仕事での成功と地位を追いかける陰で、家族が犠牲になっていた当時の時代空気というものも感じてしまう。
人は死に、建物も焼けたり流されたりして消える。
しかし、石の狛犬はいろいろな災害を見つめつつ、長い時間、生き続ける。
「石」というものの凄さを改めて感じると同時に、石に命を吹き込む石工たちや、祈りを込めた庶民の心に思いをはせずにはいられない。
この狛犬は日光の「はじめ狛犬」(狛犬をあまり見たことのない村石工などが彫ったプリミティブな造形の狛犬)を代表する傑作で、狛犬ファンの間ではかなり有名になってはいるが、実は隠れたドラマがあるということを知った。
足尾といえば銅山。足尾銅山といえば有名なのは大規模な鉱毒被害とそれを告発して反対運動を死ぬまで続けた田中正造。
そこまではなんとなく知っていたのだが、今回、足尾在住のNさんに「この狛犬はもともと簀子橋(通洞鉱山神社の真北約1.5km)の山神社にあったのが、洪水で下まで流され、川から引き上げられてここに置かれた」という話を聞き、それは一体いつの話かと調べてみた。
狛犬が流されたとき、住友が経営する別子銅山から古河が経営する足尾銅山に移ってきた技師・塩野門之助の妻子が、洪水にのまれて亡くなっているという。そこでまず塩野門之助という人物を調べてみた。すると、古河鉱業だけでなく、足尾と並ぶ銅山だった愛媛の別子銅山を経営していた住友の歴史も知ることになり、塩野門之助と広瀬宰平、広瀬満正、伊庭貞剛といった人物との関わりも分かり、様々なドラマがあったことが分かった。
以下、足尾銅山、別子銅山略史と塩野門之助の人生を並べて記してみる。
足尾銅山、別子銅山と塩野門之助
5月、木村長兵衛が急死。後任として木村長七が坑長に就任。その後、門之助が復職。
*1
「独逸の如き拳大の塊鉱製煉にはピルツ炉は或は可なるも,足尾の如き選鉱して大部分は粉粒鉱を処理する処では,ピルツ炉は高きに過ぎて不向であるのを米国で見て来て居るので,この改造は容易でない。殊に末松君の失敗した炉だから困るとて大いに談じ込んだのですが,長兵衛さんは中々承知せられぬのです。『それならうまく行くかどうか疑問だがやって見ませう』とて取掛り,四五ヶ月で五尺の高炉を三尺の高さに縮め甚だ不十分ながら幾分米国式に改造したのですが,送風機其他も不完全であり,且鉱石も不純分が多く熔解困難な含有物が多いのと,熟練した職工もなく仕事に馴れないので成績良く参りませんでした」(茂野吉之助『木村長兵衛伝』追憶篇)
*2
ただ望む。市兵衛たる者、爾(なんじ)がかかる運命に接したるは、是、心機一転の時期なるべきを悟り、亡き妻によって残されたる一大訓戒の意味をば正しく了解して、人道の為の尽くすの人ならん事を。(新聞「万朝報(よろずちょうほう)」明治34(1901)年12月1日)
……こう見ていくと、日本の近代史、特に鉱工業や経済史の中で、住友や古河がどのように成功していったかが分かる。
住友は足尾銅山が衰退していたときに調査もしていたという。
足尾のわたらせ渓谷鉄道通洞駅近くには「泉屋旅館」があり、古河の幹部や古河が招いた客人の定宿となっていた。同旅館は閉山後も細々と営業していたが、地元の人たちは「泉屋旅館」の場所一帯を「泉屋」と呼んでいたそうで、住友が足尾銅山の採算性や将来性を調査していた時期にそこに滞在していたのではないかとのこと。そうであれば、住友の旧屋号をつけた旅館でライバルの古河が芸者を上げて酒盛りをしていたわけで、なんとも皮肉な話に思える。
もしも、住友が足尾を見限らず、手をつけていたら、別子だけでなく足尾も手に入れてダブルで大儲けしていたかもしれない。そうなると古河市兵衛の成功もなかったわけで、歴史はどこでどう変わるか分からないものだ。
ちなみに古河市兵衛は生涯3度結婚しているが、3人の妻・鶴子、為子、清子のうち、為子は足尾銅山鉱毒事件の渦中に神田川に入水自殺している。
「東の足尾、西の別子」と呼ばれた日本の二大銅山を行き来した塩野門之助の人生は特に興味深い。
当時の世界最先端技術を日本に導入するという活躍をした一方で、山林伐採による洪水被害や鉱毒垂れ流しによる甚大な環境汚染を引き起こした時代、妻子を失い、住友と古河の間で上司とは常に対立したり懇願したりといったストレスフルな人生を送ったことがうかがわれる。
門之助の妻子を呑み込んだ洪水は簀子橋の山神社の狛犬も押し流したが、狛犬は下流でその後発見されて引き上げられ、新たな居場所を得た。ガイドブックなどには「簀子橋山神社にあったものが移された」と説明されているが、移されたというより、「流れ着いた」のだ。
その狛犬が今は「廃墟観光」の代名詞のようになっている足尾銅山跡地で、観光客を見送っている(通洞鉱山神社は足尾銅山観光ルートの出口からしばらく行ったところに位置しているので、多くの観光客は帰り際に横目で見るような形になる)。
すごいドラマを背負った狛犬だったのだ。
1kmも流されたのに、欠損や摩耗がなく、背中の銘までくっきり読めるというのも、ちょっと信じられない。まさに「奇跡の狛犬」か(これに関しては「そうではない」という推論へと続く)。
このときの洪水だけでなく、足尾では何度も洪水被害が起きているが、鉱山開発による大規模山林伐採で山が保水力を失い、流出した土砂の堆積で麓の川底が上昇して「天井川」を形成してしまったことが大きな原因となっており、鉱山開発が引き起こした被害といえる。
その洪水で門之助の妻子はなくなった。古河市兵衛の二番目の妻が、鉱毒事件の最中に自殺していることとも合わせて考えると、男たちが仕事での成功と地位を追いかける陰で、家族が犠牲になっていた当時の時代空気というものも感じてしまう。
人は死に、建物も焼けたり流されたりして消える。
しかし、石の狛犬はいろいろな災害を見つめつつ、長い時間、生き続ける。
「石」というものの凄さを改めて感じると同時に、石に命を吹き込む石工たちや、祈りを込めた庶民の心に思いをはせずにはいられない。
参考文献一覧
足尾の銅山遺構をめぐった写真紀行が⇒ここ(「足尾銅山遺産と歴史を探る」 旧愚だくさんブログ)にある。見応えがあるので、興味があるかたはぜひ。
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『神の鑿』『狛犬ガイドブック』『日本狛犬図鑑』など、狛犬の本は狛犬ネット売店で⇒こちらです
- 塩野門之助 年表
- 「田中正造と足尾銅山鉱毒事件~まだ公害は終わっちゃいない?」(BUSHOO!JAPAN)
- 『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』(二村一夫著作集)
- 別子鉱山略年表
- さらに詳しく 足尾銅山をめぐる年表 (関東農政局)
- 足尾銅山400年 ―産業遺産の保全,廃墟観光のススメ―(小出五郎)
- 赤山とお雇いフランス人(松江一中20期WEB同窓会・別館)
- 塩野門之助(鉱山技師)家系・子供(日本の家系図)
- 豪商列伝 なぜ彼らは一代で成り上がれたのか(PHP研究所 2014、河合敦・著)
- 田中正造 Wiki
- 広瀬宰平 Wiki
- 足尾銅山が引き起こした鉱害における環境およびヒトへの影響 国際医療福祉大学学会誌 第20巻2号(2015)髙石雅樹、大嶋宏誌、浅野哲
- 技術と産業公害 第1章:足尾銅山鉱毒事件─公害の原点─(国際連合大学 1985、東海林吉郎 菅井益郎・著)
- 死の声――古河為子のこと けいこう舎(仮)マガジン
- 足尾銅山がもたらした煙害と現在への課題(水谷美奈子)
- 伊庭貞剛 Wiki
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廃仏毀釈と狛犬史の断絶 ― 2018/02/14 10:36
上の写真は1990年に福井県の三國神社を訪れたときのものだ。まだデジカメもなく、暗い境内で小さなフィルムカメラで撮っていた。
この神社にはたくさんの狛犬がいるのだが、中でも異様だったのはこの真っ二つに切られた(?)ような狛犬だ。
事故で首が落ちたとか、身体の一部が欠けたとかには見えない。人為的に「真っ二つ」に切断されているように見えて気味が悪かったのを覚えている。
もともと石に層理(違った成分などの境界面。堆積岩では泥や砂などの堆積物が堆積していった面)があって、風化が引き金でその面できれいに割れたのではないか、と教えてくださったかたがいるが、なるほどそうかもしれない。
その後も、各地で「不自然に壊れた」狛犬を見ることが何度かあった。台座から落ちて首が折れたとか、そういう例はたくさんあるが、どう見てももっと不自然に、何かで叩き壊されたのではないかとか、切断されたのではないかと思えるような壊れ方だ。
そういう狛犬を見るたびに、なぜこういう壊れ方をするのだろうと、もやもやしていたのだが、後に、明治新政府が発令した神仏分離をきっかけに起きた廃仏毀釈の嵐の中で、仏像などと一緒に狛犬も被害にあう例があちこちであったらしいことを知った。
神仏分離令はそれまでの慣わしであった「神仏習合」の緩さを改め、天皇の神格化を神道を利用して進めようとしたものだった。明治政府は寺社打ち壊しや仏像などの破壊まで意図していなかったとされているが、これを受けて、各地で庶民による寺院、仏像、仏堂、仏塔、経典などの破壊、処分がヒステリックに行われていった。
庶民による破壊活動がここまで激化したのは、それまで幕府が寺請制度によって民衆を管理してきたため、特権階級のようになった仏教関係者が腐敗したことへの民衆の反発があったともいわれている。文字通り「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の図だ。
狛犬は今では「神社にあるもの」と認識されているから、廃仏毀釈には関係なさそうに思えるが、ルーツが中国獅子であり、仏像などと同列に見られたために「神聖なる神社にこのような獣の像があるとはけしからん」と、破壊、廃棄の対象になった例もあったのだろう。
長州とともに明治新政府の中心となった薩摩(鹿児島県)では、1066あった寺院すべてが廃寺とされ、僧侶2964人が還俗させられたという。
その鹿児島にあるいちき串木野市冠嶽では、道の両脇に仁王像と狛犬が置かれているが、市の教育委員会が設置した案内看板によれば、
と説明されている。
同じような例は他でも見られる。
僕が1990年に三國神社を訪れたときに見た「真っ二つの狛犬」も、同じような被害にあったのだろうか。
三國神社は越前だが、越前においても、明治4(1871)年、福井藩が84もの寺を「無禄無檀」の寺院として政府に廃合処分を伺い出た。白山修験道の拠点だった平泉寺も、仏堂、仏像、仏具などを破壊され、白山神社に改変された(『福井県史』通史編5 近現代)という。
「真っ二つの狛犬」が、その渦中であのような姿にされてしまったのかどうかは分からないが、全国で「不自然に壊れた」狛犬を見るたびに抱く違和感のスタートになったので、今も強烈な印象が残っている。
森田健司氏(大阪学院大学経済学部准教授、専門は社会思想史。特に江戸時代の庶民思想の研究)は、著書『明治維新という幻想』のあとがきにこう書いている。
これはまったく同感で、明治になった途端に庶民文化が途絶え、停滞し、退化した様子はあまりに極端で、驚かされる。
狛犬に関していえば、明治一桁や10年代にはほとんど建立がないし、あっても、江戸時代の残り火のようなものばかりだ。庶民パワーや自由な発想を感じさせる狛犬が再び登場するのは明治20年代くらいからで、そこから一気にアートを追求したような作も出てきて、大正期あたりで爛熟する。
それが昭和に入ると、国威発揚を意識したような岡崎古代型や爬虫類っぽい顔のいかつい狛犬が増え、皇紀2600年(昭和15年)の奉納ブーム前後では、画一化された狛犬ばかりが目立つようになる。
日光に来てから知った彫刻屋台も「庶民の文化」としての溌剌としたパワーが魅力だが、それを生んだ江戸時代の空気を、現代日本に生きる我々は感じ取ることができるだろうか。
それにしても、である。魅力的な文化を生み出す庶民が、その文化を破壊する暴徒にもなるという事実に戦慄する。
獅子狛犬の詳しい知識がない(正統派狛犬?を見たこともない)まま「おらが村の鎮守様にも、そのこまいぬつうもんを奉納すんべえ」的なノリで全国各地で作られた「はじめ狛犬」。あの素敵な文化を生み出したのと同じ「庶民」が、神仏分離令をきっかけとして廃仏毀釈という暴挙をも行った──その歴史的事実をどうとらえればいいのだろうか。
閉塞感におしつぶされそうになる現代、庶民は知らないうちに、あの廃仏毀釈のような暴発に向かっていないだろうか……。
もしそうであれば、暴発する閾値を超える前に気づき、歴史を正しく見つめ直し、時代の空気やシステムを修正していくことが必須だろう。
小説版『神の鑿』を書くとしたら、テーマは「庶民文化」「自由な芸術」に生涯を捧げた者たちの魂、というようなものだろうと思っている。
それを描くための材料集めや歴史の掘り起こし作業を思うと、生きているうちに完成させる自信がどんどんなくなる。
しかし、とっかかりの時点で、「隠された歴史」がいろいろ見えてくるだけでも面白い。
まだまだ人生、楽しめるかな。
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この神社にはたくさんの狛犬がいるのだが、中でも異様だったのはこの真っ二つに切られた(?)ような狛犬だ。
事故で首が落ちたとか、身体の一部が欠けたとかには見えない。人為的に「真っ二つ」に切断されているように見えて気味が悪かったのを覚えている。
もともと石に層理(違った成分などの境界面。堆積岩では泥や砂などの堆積物が堆積していった面)があって、風化が引き金でその面できれいに割れたのではないか、と教えてくださったかたがいるが、なるほどそうかもしれない。
その後も、各地で「不自然に壊れた」狛犬を見ることが何度かあった。台座から落ちて首が折れたとか、そういう例はたくさんあるが、どう見てももっと不自然に、何かで叩き壊されたのではないかとか、切断されたのではないかと思えるような壊れ方だ。
そういう狛犬を見るたびに、なぜこういう壊れ方をするのだろうと、もやもやしていたのだが、後に、明治新政府が発令した神仏分離をきっかけに起きた廃仏毀釈の嵐の中で、仏像などと一緒に狛犬も被害にあう例があちこちであったらしいことを知った。
神仏分離令はそれまでの慣わしであった「神仏習合」の緩さを改め、天皇の神格化を神道を利用して進めようとしたものだった。明治政府は寺社打ち壊しや仏像などの破壊まで意図していなかったとされているが、これを受けて、各地で庶民による寺院、仏像、仏堂、仏塔、経典などの破壊、処分がヒステリックに行われていった。
庶民による破壊活動がここまで激化したのは、それまで幕府が寺請制度によって民衆を管理してきたため、特権階級のようになった仏教関係者が腐敗したことへの民衆の反発があったともいわれている。文字通り「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の図だ。
狛犬は今では「神社にあるもの」と認識されているから、廃仏毀釈には関係なさそうに思えるが、ルーツが中国獅子であり、仏像などと同列に見られたために「神聖なる神社にこのような獣の像があるとはけしからん」と、破壊、廃棄の対象になった例もあったのだろう。
長州とともに明治新政府の中心となった薩摩(鹿児島県)では、1066あった寺院すべてが廃寺とされ、僧侶2964人が還俗させられたという。
その鹿児島にあるいちき串木野市冠嶽では、道の両脇に仁王像と狛犬が置かれているが、市の教育委員会が設置した案内看板によれば、
この仁王像は、現在地と神社との中間に仁王門があり、そこにあったといわれている。明治初年の廃仏毀釈時に、この仁王像も壊され、やぶの中に捨てられていた。それを昭和34年に、土地の有志たちが復元し、現在の位置に建てたものである。
(略)この狛犬も廃仏毀釈時に、一部壊されているが、像形は、まだしっかりしている。
と説明されている。
同じような例は他でも見られる。
僕が1990年に三國神社を訪れたときに見た「真っ二つの狛犬」も、同じような被害にあったのだろうか。
三國神社は越前だが、越前においても、明治4(1871)年、福井藩が84もの寺を「無禄無檀」の寺院として政府に廃合処分を伺い出た。白山修験道の拠点だった平泉寺も、仏堂、仏像、仏具などを破壊され、白山神社に改変された(『福井県史』通史編5 近現代)という。
「真っ二つの狛犬」が、その渦中であのような姿にされてしまったのかどうかは分からないが、全国で「不自然に壊れた」狛犬を見るたびに抱く違和感のスタートになったので、今も強烈な印象が残っている。
森田健司氏(大阪学院大学経済学部准教授、専門は社会思想史。特に江戸時代の庶民思想の研究)は、著書『明治維新という幻想』のあとがきにこう書いている。
私が江戸時代に惹かれる理由は、実にシンプルだ。そこに眩い庶民文化があったから、である。
(略)
江戸の人びとが真摯に生きて、麗しく咲かせた「文化」という名の花は、明治の世が進んでいくにしたがって、目に見えて萎んでいった。
新たな価値観や文化を創出できたなら、それはそれで結構な話だろう。しかし実状は、まったく、そうではなかった。明治政府は、江戸のすべてを否定したが、異なる新しい文化の花を咲かせられなかった。それでも、社会の紐帯を維持できていたのは、「江戸時代の遺産」があったからに違いない。
(『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』洋泉社歴史新書y 2016年)
これはまったく同感で、明治になった途端に庶民文化が途絶え、停滞し、退化した様子はあまりに極端で、驚かされる。
狛犬に関していえば、明治一桁や10年代にはほとんど建立がないし、あっても、江戸時代の残り火のようなものばかりだ。庶民パワーや自由な発想を感じさせる狛犬が再び登場するのは明治20年代くらいからで、そこから一気にアートを追求したような作も出てきて、大正期あたりで爛熟する。
それが昭和に入ると、国威発揚を意識したような岡崎古代型や爬虫類っぽい顔のいかつい狛犬が増え、皇紀2600年(昭和15年)の奉納ブーム前後では、画一化された狛犬ばかりが目立つようになる。
日光に来てから知った彫刻屋台も「庶民の文化」としての溌剌としたパワーが魅力だが、それを生んだ江戸時代の空気を、現代日本に生きる我々は感じ取ることができるだろうか。
それにしても、である。魅力的な文化を生み出す庶民が、その文化を破壊する暴徒にもなるという事実に戦慄する。
獅子狛犬の詳しい知識がない(正統派狛犬?を見たこともない)まま「おらが村の鎮守様にも、そのこまいぬつうもんを奉納すんべえ」的なノリで全国各地で作られた「はじめ狛犬」。あの素敵な文化を生み出したのと同じ「庶民」が、神仏分離令をきっかけとして廃仏毀釈という暴挙をも行った──その歴史的事実をどうとらえればいいのだろうか。
閉塞感におしつぶされそうになる現代、庶民は知らないうちに、あの廃仏毀釈のような暴発に向かっていないだろうか……。
もしそうであれば、暴発する閾値を超える前に気づき、歴史を正しく見つめ直し、時代の空気やシステムを修正していくことが必須だろう。
小説版『神の鑿』を書くとしたら、テーマは「庶民文化」「自由な芸術」に生涯を捧げた者たちの魂、というようなものだろうと思っている。
それを描くための材料集めや歴史の掘り起こし作業を思うと、生きているうちに完成させる自信がどんどんなくなる。
しかし、とっかかりの時点で、「隠された歴史」がいろいろ見えてくるだけでも面白い。
まだまだ人生、楽しめるかな。
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靖国神社の「狛犬」と脚気と「舞姫事件」 ― 2018/02/12 19:24
狛犬を見続けていると、江戸期の狛犬は結構残っているのに、明治になった途端、パタッと狛犬が建立されていないことに気がつく。再び奉納されるようになるのは明治20年代くらいからだ。明治一桁代建立の狛犬というのはほとんどない。あったとしても、江戸期の狛犬をへたくそに模したようなものが多く、銘品と呼べる力作や新種の狛犬はまず出てこない。
拙著『神の鑿』の最後には利平・寅吉・和平の年譜も載せてあるが、それを見ても、
明治初期、廃仏毀釈を皮切りにして、いかに庶民文化がつぶされ、停滞したかを物語っているかのようだ。
そこで、改めて「明治維新」前後の歴史をおさらいしているところだ。
ネット上にもたくさんの関連記事があるが、中でも、⇒これなどはとてもよくまとまっているのでご一読を。
日清・日露戦争において、直接の戦死者よりも脚気で死んだ兵士のほうが多かったというのは、学校で学ぶ日本史には出てこないと思う。
上記のブログやWikiの詳しい解説などをもとにまとめてみると、
……というようなことだったらしい。
森林太郎(鴎外)が主張した「米食が最優秀」説の罪がいかに大きいかが分かる。
海軍では麦飯に切り替えて脚気が激減したという明らかな結果が得られているにもかかわらず、日清戦争の10年後の日露戦争時にさえ改善できず、何万という死者を出しているのだ。
その内容は⇒ここに詳しく書いているが、簡単にまとめると、
靖国神社にある中国獅子を、ほとんどの参拝客は「変わった狛犬だねえ」と見上げるが、あれはそもそも「狛犬」ではない。大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成という人物が三学寺に奉納した獅子像なのだ。
『舞姫』は高校の国語の教科書に載っていて、じっくり、1行1行読解させられた。
当時の国語担当は臼井先生といって、相当変わったキャラクターの教師だった。
感情の起伏が激しく、機嫌のいいときはニコニコしながら好きな谷崎潤一郎論などを延々と喋り続けるが、機嫌が悪いと「チッ! こんな問題もできないのか。馬鹿ばっかりだなこのクラスは。もういい、帰る」と言い放ち、さっさと教室を出て行く。
そんなわけで、生徒からの評判はすこぶる悪かったのだが、僕は彼の授業は決して嫌いではなかった。
『舞姫』を題材にした授業では今でも印象に残っているシーンがある。
臼井先生「このページの中に、豊太郎とエリスがすでに性交渉をしたと分かる一文がある。それはどこか。分かる人」
こういうとき、誰も手を挙げないと先生の機嫌がどんどん悪くなるのを知っている生徒たちは、必死で答えを探す。
何人かが答えて、その度に「違う!」「馬鹿!」などとはねつけられた末に、クラスでいちばん元気のよかった平岡くんが恐る恐る手を挙げた。
生徒たちは半ばポカ~ンとその解説を聞いていた。僕も、この『鬢の毛の解けてかかりたる』がどれくらいすごいのか、今でもよく分からないのだが、平岡くんが他の生徒より早熟だったことは確かだろう。
『舞姫』のエリスが Elise Marie Caroline Wiegert (エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト 1866年~1953年)という実在の女性をモデルにしていて、主人公の豊太郎は鴎外自身がモデルであろう、ということは、今では周知されている。
鴎外は4年間のドイツ留学時代に、エリーゼと恋仲になったが、別れて帰国した。その直後に、エリーゼは鴎外を追って日本まで来たが、ひと月あまり後にまたドイツに戻っている。
鴎外の東大医学部時代の同期生・小池正直は、後に陸軍軍医総監石黒忠悳に宛てた手紙(明治22(1889)年4月16日付)の中で、
これはエリーゼが帰国したときのことをいっているのだろう。
年譜にすると、
……という経過で、この間のエリーゼ来日から登志子との離婚あたりの一連のゴタゴタが「舞姫事件」「エリス事件」などと呼ばれている。
で、改めてこれを「日本の脚気史」「靖国神社の中国獅子」と重ねて見ると、
……とまあ、日清日露戦争をはさみ、脚気蔓延と三学寺の中国獅子が日本に持ち込まれた件と「舞姫事件」が同時進行していたことが分かる。
日露戦争で死んでいった多くの兵士たちも惜しいけれど、かつての愛人との思い出が詰まった金のカフスボタンが片方だけになってしまったのも惜しい、と歌っているわけだ。
この詩について、鴎外の長男・森於菟 は、『父親としての森鴎外』の中で、こう述べている。
コラム「病と詩 軍医森林太郎と脚気」の最後は、こう結ばれている。
本当に生涯このことに気づいていなかったのだろうか……。
まあ、そのことに責任を感じていたら、日露戦争のときにまでこんな詩を書いているわけはないか……。
ともあれ、鴎外には文学よりも軍医としてちゃんと仕事してほしかったと思う。
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拙著『神の鑿』の最後には利平・寅吉・和平の年譜も載せてあるが、それを見ても、
慶應元(1865)年 沢井八幡神社の狛犬 利平61歳? 寅吉21歳 願主石工菅田庄七↑この間、20年以上、作品の記録が空白なのだ。
明治20(1887)年 関和神社(白河市)の狛犬(銘なし)寅吉43歳
明治初期、廃仏毀釈を皮切りにして、いかに庶民文化がつぶされ、停滞したかを物語っているかのようだ。
そこで、改めて「明治維新」前後の歴史をおさらいしているところだ。
森鴎外と脚気
その作業をしていて、ひょんなことから森鴎外(森林太郎)が陸軍兵士数万人の死に関係していたと知った。ネット上にもたくさんの関連記事があるが、中でも、⇒これなどはとてもよくまとまっているのでご一読を。
陸軍が嘱望する若き軍医森林太郎は、日清・日露の戦争を控え、兵士の健康を維持する大役を担った。そして当時の軍隊において最大の健康問題が脚気流行である。
全陸軍の疾病統計調査は明治8年から始まるが、明治9年には兵員千人に対し脚気新患者108人、17年には263人、つまり4人に一人がこの病気にかかっている。そして致死率は約2~6%だった。しかし、戦時には、これらの数字が跳ね上がる。
(略)
明治27~28年の日清戦役では、陸軍の戦死者がわずか977人にたいし、傷病患者約28万人、患者死亡約2万人であり、脚気患者は約4万人という奇妙な現象が起こる。前代未聞の脚気大流行であるのに、陸軍首脳はまだ懲りなかった。海軍には軽症脚気は認められたが重症例の多発はなかった。
明治37~38年の日露戦争では、陸軍の戦死者約4万6千人、傷病者35万人であり、そのうち脚気患者25万人という驚くべき数字になる。しかも、戦病死者3万7千人中、脚気による死者が約2万8千名に登った。
日清・日露戦役での大惨事を起こした陸軍脚気対策に、森林太郎の誤りが深く関っていた事実は、東京大学医学部衛生学教授山本俊一が、1981年初めて、学会誌「公衆衛生」において指摘した。両戦役からすでに一世紀近い月日が経っていた。
(医療法人和楽会 フクロウblog 大井玄先生のコーナー 「病と詩(11) 軍医森林太郎と脚気」 より)
日清・日露戦争において、直接の戦死者よりも脚気で死んだ兵士のほうが多かったというのは、学校で学ぶ日本史には出てこないと思う。
上記のブログやWikiの詳しい解説などをもとにまとめてみると、
- 全陸軍の疾病統計調査(明治8(1875)年開始)によれば、明治17(1884)年には4人に1人以上が脚気にかかり、致死率は約2~6%だった
- 海軍医務局長・高木兼寛は、イギリス留学中にヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主とする兵食に原因があるのではと推論し、周囲の猛反対、猛反論を押し切って明治18(1885)年以降、海軍の兵食をタンパク質の多い麦飯に切り替えた結果、海軍での脚気発症をほぼ根絶させた。
- 一方、陸軍では、陸軍一等軍医森林太郎(森鴎外)が明治18(1885)年にライプチヒで執筆した論説「日本兵食論大意」を根拠に、陸軍軍医総監・石黒忠悳らは「脚気伝染病説」を信じており、白米を基本とした兵食を変えてはならないと主張した。
- 明治21(1888)年に帰国した森は、講演「非日本食論ハ将二其根拠ヲ失ハントス」で、高木兼寛を「英吉利流の偏屈学者」と呼び、非難する。また、米食、麦食、洋食を食べさせる比較試験の結果、「カロリー値、蛋白補給能、体内活性度」のすべてで米食が最優秀という結果が得られたとして、陸軍兵食の正当性を主張した。
- 結果、日清戦争(その後の乙未戦争も含む)における陸軍の脚気患者は4万1,431人、脚気による死亡者4,064人という惨事を引き起こした。(『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』)
- さらに、日露戦争では、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であったにも関わらず、大本営陸軍部が「勅令」として白米食を指示したため、戦地で25万人強の脚気患者が発生。戦地入院患者25万1,185人のうち脚気が11万0,751人 (44.1%)で、入院脚気患者2万7,468人が死亡した。(陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計)
……というようなことだったらしい。
森林太郎(鴎外)が主張した「米食が最優秀」説の罪がいかに大きいかが分かる。
海軍では麦飯に切り替えて脚気が激減したという明らかな結果が得られているにもかかわらず、日清戦争の10年後の日露戦争時にさえ改善できず、何万という死者を出しているのだ。
石黒忠悳と靖国神社の「狛犬」
ところで、森の論文や主張に流される形で陸軍内に脚気を蔓延させた石黒忠悳軍医総監は、僕の中では「靖国神社の中国獅子」にまつわる裏話に登場して初めて名前を目にした人物だ。その内容は⇒ここに詳しく書いているが、簡単にまとめると、
- 日清戦争(1894-95年)の最中、海城の三学寺が日本軍の野戦病院にあてられていた。
- そこの総責任者であった石黒忠悳軍医総監が、戦が終結して帰国していた明治28(1895)年、軍司令官の山縣有朋を訪ねたおり、三学寺にあった獅子像が「古奇愛すべき」ものであったと語った。
- それを聞いた山縣が、そんなにいいものならぜひ日本に持ってきて「陛下の叡覧に供して大御心の程を慰め奉りたい」ということになった。
- そこで石黒は、満州に留まっていた奥保鞏(やすかた)中将(後の元帥)に連絡を取り、寺より譲り受けて日本に運ぶように依頼した。
- 奥中将は、白くて大きな獅子一対と、青みがかった一体(これは対になっていない)を選んで日本に運んだ。
- 日本に運び込まれた3体の中国獅子を山縣が明治天皇に献上したところ、天皇は喜んだ様子で、白い石の一対は靖国神社に、青い一体は山縣に与えた。
- というわけで、白くて大きな一対は現在も靖国神社にあり、青色の一体は栃木県矢板市にある山縣有朋記念館の敷地内に置かれている。
靖国神社にある中国獅子を、ほとんどの参拝客は「変わった狛犬だねえ」と見上げるが、あれはそもそも「狛犬」ではない。大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成という人物が三学寺に奉納した獅子像なのだ。
『舞姫』の記憶
僕にとって、石黒忠悳軍医総監は「靖国神社の中国獅子」だが、森鴎外といえば『舞姫』くらいしか記憶にない。『舞姫』は高校の国語の教科書に載っていて、じっくり、1行1行読解させられた。
当時の国語担当は臼井先生といって、相当変わったキャラクターの教師だった。
感情の起伏が激しく、機嫌のいいときはニコニコしながら好きな谷崎潤一郎論などを延々と喋り続けるが、機嫌が悪いと「チッ! こんな問題もできないのか。馬鹿ばっかりだなこのクラスは。もういい、帰る」と言い放ち、さっさと教室を出て行く。
そんなわけで、生徒からの評判はすこぶる悪かったのだが、僕は彼の授業は決して嫌いではなかった。
『舞姫』を題材にした授業では今でも印象に残っているシーンがある。
臼井先生「このページの中に、豊太郎とエリスがすでに性交渉をしたと分かる一文がある。それはどこか。分かる人」
こういうとき、誰も手を挙げないと先生の機嫌がどんどん悪くなるのを知っている生徒たちは、必死で答えを探す。
何人かが答えて、その度に「違う!」「馬鹿!」などとはねつけられた末に、クラスでいちばん元気のよかった平岡くんが恐る恐る手を挙げた。
- U「うん、平岡!」
- H「はい! 『鬢の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる腦髓を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何にせむ』……のところだと思います」
- U「もっと絞って」
- H「鬢の毛の解けてかゝりたる……」
- U「そう! そうだね! 『鬢の毛の解けてかかりたる』というのは、もうこの二人の間に男と女の関係ができたということを暗示しているんだね! さすがは鴎外。そのへんの三文小説家なら、性描写に3ページくらい割くところを、鴎外は『鬢の毛の解けてかかりたる』という、これだけで伝えているんだな」
生徒たちは半ばポカ~ンとその解説を聞いていた。僕も、この『鬢の毛の解けてかかりたる』がどれくらいすごいのか、今でもよく分からないのだが、平岡くんが他の生徒より早熟だったことは確かだろう。
『舞姫』のエリスが Elise Marie Caroline Wiegert (エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト 1866年~1953年)という実在の女性をモデルにしていて、主人公の豊太郎は鴎外自身がモデルであろう、ということは、今では周知されている。
鴎外は4年間のドイツ留学時代に、エリーゼと恋仲になったが、別れて帰国した。その直後に、エリーゼは鴎外を追って日本まで来たが、ひと月あまり後にまたドイツに戻っている。
鴎外の東大医学部時代の同期生・小池正直は、後に陸軍軍医総監石黒忠悳に宛てた手紙(明治22(1889)年4月16日付)の中で、
兼而小生ヨリヤカマシク申遣候伯林賤女之一件ハ能ク吾言ヲ容レ今回愈手切ニ被致度候是ニテ一安心御座候。と書いている。
(私がしっかり言いきかせましたので、この「ベルリン賤女」の一件は、今度こそ手切れになると思います。どうぞご安心を)
これはエリーゼが帰国したときのことをいっているのだろう。
年譜にすると、
- 明治17(1884)年 鴎外、ドイツに留学
- 明治21(1888)年 9月8日、ドイツより帰国。
- 9月12日、エリーゼが鴎外の後を追って来日。
- 9月18日、赤松登志子と婚約。
- 10月17日、エリーゼが帰国。
- 明治22(1889)年 2月 赤松登志子と結婚
- 明治23(1890)年 民友社社長の徳富蘇峰の依頼により『舞姫』を執筆。1月『国民之友』付録として発表。
- 9月、長男於菟(おと)誕生。
- 11月27日、登志子と離婚。
- 明治35(1902)年 荒木志げと再婚。
- 明治36(1903)年 長女・茉莉(まり)誕生。
- 1909年 次女・杏奴(あんぬ)誕生。
……という経過で、この間のエリーゼ来日から登志子との離婚あたりの一連のゴタゴタが「舞姫事件」「エリス事件」などと呼ばれている。
で、改めてこれを「日本の脚気史」「靖国神社の中国獅子」と重ねて見ると、
- 明治17(1884)年 1月、海軍軍医・高木兼寛の意見などで海軍で洋食への切り替えが図られ、脚気新患者数、発生率、および死亡数が明治16(1883)年には1,236人、23.1%、49人だったものが、1884年には、718人、12.7%、8人。1885年には41人、0.6%、0人と激減した。
同年、森林太郎(鴎外)がドイツに留学。 - 明治18(1885)年 鴎外、ライプチヒで「日本兵食論大意」を執筆し、日本式白米食の優越性を強調。陸軍の白米主義の根拠となる。
- 明治21(1888)年 鴎外ドイツより帰国。エリーゼが鴎外の後を追って来日し「エリス事件」に。
- 明治22(1889)年 赤松登志子と結婚
- 明治23(1890)年 『舞姫』発表。長男於菟(おと)誕生。登志子と離婚。
- 明治27(1894)年、日清戦争勃発。石黒忠悳軍医総監が野戦病院であった三学寺で中国獅子に興味を持つ。脚気患者が約4万人に。
- 明治28(1895)年、日清戦争終結後、石黒が山縣有朋に三学寺にあった獅子像の話をしたことで、中国獅子像3体が日本に持ち込まれる。
- 明治35(1902)年 鴎外、荒木志げと再婚。
- 明治36(1903)年 長女・茉莉(まり)誕生。
- 明治37(1904)年 日露戦争勃発。陸軍内の脚気患者25万人。入院していた脚気患者の死者数は約2万8千人に。
- 明治42(1909)年 次女・杏奴(あんぬ)誕生。
……とまあ、日清日露戦争をはさみ、脚気蔓延と三学寺の中国獅子が日本に持ち込まれた件と「舞姫事件」が同時進行していたことが分かる。
脚気で数万人死んでいったときにカフスボタン紛失を嘆く鴎外
扣鈕 森鴎外
南山の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん*
ひとつおとしつ
その扣鈕 惜し
べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ* 電燈あをき
店にて買ひぬ
はたとせ*まへに
えぽれつと* かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女
はや老いにけん
死にもやしけん
はたとせ*の 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ
ますらを*の 玉と碎けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕
(森鴎外の日露戦争従軍詩歌集『うた日記』より)
*こがねのぼたん:金のカフスボタン *パサージュ:ここではアーケード商店街のこと *はたとせ:20年 *エポレット:コートなどの肩につける装飾。軍服由来 *ますらを:勇壮な男。ここでは兵士たちのこと *ももち:百千(大人数)
日露戦争で死んでいった多くの兵士たちも惜しいけれど、かつての愛人との思い出が詰まった金のカフスボタンが片方だけになってしまったのも惜しい、と歌っているわけだ。
この詩について、鴎外の長男・森
この「黄金髪ゆらぎし少女」が「舞姫」のエリスで父にとっては永遠の恋人ではなかったかと思う。(略)
私が幼時祖母からきいた所によるとその婦人が父の帰朝後間もなく後を慕って横浜まで来た。これはその当時貧しい一家を興すすべての望みを父にかけていた祖父母、そして折角役について昇進の階を上り初めようとする父に対しての上司の御覚えばかりを気にしていた老人等には非常な事件であった。親孝行な父を総掛かりで説き伏せて父を女に遇わせず代りに父の弟篤次郎と親戚の某博士とを横浜港外の船にやり、旅費を与えて故国に帰らせた。
(略)
『歌日記』の出たあとで父は当時中学生の私に「このぼたんは昔伯林で買ったのだが戦争の時片方なくしてしまった。とっておけ」といってそのかたわの扣鈕をくれた。歌の情も解さぬ少年の私はただ外国のものといううれししさに銀の星と金の三日月とをつないだ扣鈕を、これも父からもらった外国貨幣を入れてある小箱の中に入れた。
私はある時祖母が私にいうのを聞いた。「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶らせたが父の気に入らず離縁になった。お前を母のない子にした責任は私達にある」と。
(森於菟著『父親としての森鴎外』)
コラム「病と詩 軍医森林太郎と脚気」の最後は、こう結ばれている。
鴎外森林太郎は、「玉と砕けし」兵士「ももちたり(百、千人)」よりもはるか多くが脚気に罹り倒れたことを知っていても、自分の知的誤り・傲慢さが、どんなに大きくそれに寄与していたかに、気づいていなかったろう。
本当に生涯このことに気づいていなかったのだろうか……。
まあ、そのことに責任を感じていたら、日露戦争のときにまでこんな詩を書いているわけはないか……。
ともあれ、鴎外には文学よりも軍医としてちゃんと仕事してほしかったと思う。
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