即位の礼2019/10/27 11:37

木目込みの雛人形(鐸木能子・作)
2019年10月22日。朝から雨が降る中、即位の礼。あのテレ東も含めてすべての地上波テレビ局が中継した。
テレ東の中継を見ていたら、解説役で呼ばれたゲストが「雛人形のモデルは天皇・皇后ですから」ということをポロッと口にした。
それを聞いた妻が「室町雛や有職(ゆうそく)雛は違う」と主張するので、調べてみた。
そもそも雛人形、ひな祭りとは、
  • 平安時代(あるいはそれ以前、土偶などの時代から?)、疫病や穢れを祓うために人形(ひとかた)、形氏(かたしろ)といった、人の代わりに悪いものを引き受ける身代わりとなるものを主に紙で作り、川などに流して災厄を遠ざけるという「禊祓(みそぎはらえ)」の風習があった。それが貴族の間の行事「上巳の節句(じょうしのせっく)」として定着する。
  • 天児(あまがつ)這子(ほうこ)などはそのためのもので、紙から次第に布製のものになり、これが雛人形の起源といえる。一方、子供たちの間では、そうした小さな人の形をしたものでママゴトのようなことをする「ひいな遊び」が流行る。これも「ひな人形」「ひな祭り」へと結びついていく。
  • 室町時代には立ち雛のようなものが登場する。最初は紙などで作られたため平べったく、自立できないようなものだったが、次第に豪華になり、木目込(きめこみ)人形の立雛へと進化していった。
  • 江戸時代になると、人形は川などに流すのではなくそのまま「飾り雛」として飾られるようになり、庶民の間でも平安時代の宮廷を模した雛壇の雛人形となって大流行する。これが今の雛人形、ひな祭りへと続いていく。

……といったことらしい。諸説あるが、大体こういうことなのだろう。

今のような雛人形が庶民の間で流行するのは江戸時代になってからだ。
次第に衣装が派手になっていく傾向に対して、「いやいや、本来の貴族の装束はそんなに下品なものではないぞよ」と、正式なルールに則った装束の雛人形が特注で作られるようになり、主に公家社会や大名家などの上層階級に好まれたという。衣装・装束のルールを担当していた公家の高倉家、山科家が1700年代中頃に作ったといわれている。これが「有職雛」。有職雛の「有職」というのは、宮中の衣装や調度品などの決まり事を、各部門の有識者たちが集まってまとめた「有職故実」のこと。下々が勝手に作った雛人形とは格が違う、これが正式だ、というわけだ。
即位の礼をすべてのテレビ局が生中継し、日本中で見守る──庶民の宮中文化への憧れは、江戸時代も今も変わらないのだなあと、改めて認識させられた。
木目込みで作られた十二単の座り雛(鐸木能子・作)

平成と令和で即位の礼は変わったか

閑話休題。
今回の即位の礼は、平成のときとほぼ同じ形を踏襲したという。
平成のときは、時の総理大臣海部俊樹氏が、宮内庁から「束帯姿で」と要求されたのを拒否して燕尾服で参列し、万歳三唱のときも、「ご即位を祝して」と述べてからのものになった。これは、国民主権をうたう憲法の下での儀式であることを踏まえて、ということだそうだ。
国民の代表として選挙で選ばれた自分が、皇室の宗教色の強い儀式に合わせて束帯姿で出席し、一段低い庭に下りて「天皇陛下万歳」を叫ぶことはおかしい、という、最低限のわきまえを表明するものだったのだろう。
平成の即位の礼では、儀式の場所そのものを京都御所から皇居に移した。
そうした数々の「改革」が、今回はさらに一歩進むのかと思いきや、やはりそうはならなかった。
万歳三唱や21発の礼砲は前回通り行われた。

そもそも現在の即位の礼の儀式内容は明治新政府がアレンジしたものが元になっている。それまでは中国の儀式や意匠を真似て唐風だったものを、岩倉具視が神祇官副知事亀井茲監(これみ)らに「唐の模倣ではない庶政一新の時にふさわしい皇位継承の典儀を策定せよ」と命じたものだという。
当然、それまでは「天皇陛下万歳」や礼砲もなかった。
「日本の伝統的な~」という言葉が検証もなく安易に使われるが、こういう場合は「明治政府が決めた~」「明治になってからこうなった~」と、はっきり言うべきだ。

今回の式典では、新天皇の「お言葉」に注目が集まった。平成のときの文面と比較して、「世界の平和」という言葉が2回、「国際社会の友好と平和」という言葉も加わって、日本国内だけでなく、広く「世界」の平和と共存を願っているのだという思いを強調したと評されている。
一方で、平成のときの「日本国憲法を遵守し」が今回は「憲法にのっとり」にかわったことに懸念を示す学者もいる。
「『のっとり』だと、どんな憲法でも『従えばいい』という感じを与えます。集団的自衛権の行使容認のように、たとえ政権側が憲法解釈をねじ曲げても、その憲法に従わざるを得ないという印象です」
「『憲法遵守』が後退したのは、改憲を目指す政権側の意向がにじんだ結果とみるのが妥当でしょう。憲法4条の『天皇は国政に関する機能を有しない』との規定をいいことに、政治に口を出せない天皇のお言葉を利用して護憲ムードを抑え込む。そんな政治利用も辞さない政権に、この先も天皇が押し切られないか心配です」(立正大名誉教授・金子勝氏=憲法) 「即位の礼」天皇のお言葉を徹底検証 憲法言及は「遵守」から「のっとり」へ 日刊ゲンダイDigital 2019年10月25日

庶民が儀式の衣装や雰囲気に感激している裏には、官邸と皇室の見えない対決があるのかもしれない。

憲法の中の天皇

こうした皇室関連、天皇制関連の話題は、問題の本質に深く入り込むことはタブーで、識者の多くも本音や正論を口に出すことができないでいる。
天皇制そのものに対しては多くの国民が賛成の意を示しているというが、そこで人生を過ごす皇族方、特に天皇・皇后という役割を負う人たちの「基本的人権」について発言する人はほとんどいない。
現行の日本国憲法にはこうある。
第一章 天皇
第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条  皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。
第三条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条  天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

これはいくらなんでも基本的人権を無視していないだろうか。
職業選択の自由がない。少しでも「政治的」と思われる発言は一切できないだけでなく、選挙権も被選挙権もない。
離婚はできるのだろうか? プライベートな旅行なんていうのも、事実上不可能だ。それどころか、「この作家のこの作品が好きです」「俳優の○○さん、男前ですよねえ」なんてことさえ軽々しくは言えない。そんな人生。そんな一生を、自分の意志とは関係なく規定されてしまうのだ。

ちなみに「天皇の国事に関する行為(国事行為)」とは、具体的には、
  • 内閣総理大臣の任命(日本国憲法第6条第1項)
  • 最高裁判所長官の任命(第6条第2項)
  • 憲法改正、法律、政令及び条約の公布(日本国憲法第7条第1号)
  • 国会の召集(第7条第2号)
  • 衆議院解散(第7条第3号)
  • 国会議員総選挙の施行公示(第7条第4号)
  • 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状の認証(第7条第5号)
……などなど(まだまだある)で、実に多い。
これらのすべてで天皇は「形式上の行為」を行わなければならない。そのお姿は時折テレビなどでも放映しているが、それを見る一般庶民の感覚としては「大変だなあ。形式だけなんだから、わざわざ天皇がお出ましになることもないのに」といったものではないだろうか。
しかもこれらに関して天皇ご自身は「行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」「内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」のだ。
ご自身の意志や考えとは無関係に、ただただ形の上での「行為のみを行う」と決められているわけで、これほど個人の人格を無視した法はない。

今回の即位の礼にしても、極めて宗教的事柄が含まれるのだから、国事として行い、多額の税金を使うことに天皇家の人々は反対だったという。しかし、現行憲法に「のっとれ」ば、「行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(国事だとされた段階で、ご自分の事でありながら意見を言えない)「内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」(最終的に内閣の言うことには反対できない)のだ。
しかも、こうした話は口にすることだけでも怖ろしいタブーなので、誰も助けてはくれない。そうした一種極限状況ともいえる制限の中で、どれだけ一人の人間として「自分の意志」「考え」に誠実に従い、行動できるか……想像を絶する困難と孤独を伴うことは間違いない。
そうしたことに思いを及ばすことなく、「天皇陛下万歳!」にしても「天皇制反対!」にしても、あまりに天皇家の人々の資質に甘えていないだろうか。多くの矛盾や弊害を抱えた問題を天皇と天皇ご一家に押しつけているのではないか。
今回、平成天皇が生前退位という道を開いたことも、どれだけ大変なことだったか。本来なら「主権」を有する国民の側から提案していかなければならないものだったのではないか。
平成天皇・皇后ご夫妻が生きてきた人生の誠実さ、強さ、そして誰にも言えぬ孤独を想像したとき、自由お気楽に生きてこられた一庶民としては、目眩がし、言葉を失ってしまうのである。

憲法改正論議はとかく9条問題に片寄りがちだが、それより先に、まずは天皇や皇族の基本的人権問題を解決すべきではないかと思う。
その議論から逃げて、タブーに守られたきれいごとに祭り上げているうちは、政治家も庶民も、現憲法に手をつける資格がないのではないか。

天皇が戦争に利用された歴史は否定しようがない。その結果、多くの人が理不尽な死を強いられた。現憲法はその結果生まれた。人は愚かだから、同じ過ちを繰り返す。そうさせないために、権力者が暴走するのをどうしたら抑えられるかという意図が随所に入れられた。
今また、天皇を道具として利用しようとする不埒な輩が力を伸ばしている。その勢力に、ギリギリまで制限された条件の中で、静かに、誠意を持って立ち向かっているのが現在の天皇家の人たちだという気がしてならない。

天皇家を愛するというのなら、庶民もまた天皇家と一緒に悩み、考え抜き、「国際社会の友好と平和」を本気で希求する気概を示す覚悟が必要ではないか。


「反社会的勢力」「反社」という言葉の怖ろしさ2019/07/25 21:06

吉本興業問題の報道や議論を見ていて非常に気になったのは、誰も彼もが(番組司会者、学者、弁護士、タレント……すべて)「反社会的勢力」「ハンシャ(反社)」という言葉をあたりまえのように使っていることだ。これは極めて危険なことではないのか。
「反社会的」とはなんなのか? さらには「集団」「組織」といわずに「勢力」といっているのはなぜなのか?
気がつくと、時の権力者に異を唱える者や集団を「反社条例」なるもので引っ捕らえて投獄できるような時代になりはしないのか?

「反社会」とはどういう意味なのか?

この言葉は、従来、暴力団、ヤクザと呼ばれてきた組織が巧妙に企業体の体をなしてきたために、「暴力団」といえないような組織が犯罪を犯している現状を鑑みて作られた言葉らしい。
しかし、ヤクザや暴力団の定義が変わってきたというのなら、単純に「犯罪集団」「犯罪組織」でいいではないか。
「半グレ」という言葉にも違和感を感じる。表向きがまともそうな企業業態であっても、裏で違法行為をしているなら、それは「半分」でも「グレー」でもなく、犯罪集団そのものではないか。
今回、吉本の芸人が犯罪集団の宴会に(相手が犯罪集団とは知らずに)呼ばれて、ギャラを受け取っていたということに端を発した騒動にしても、その宴会をしていたのは紛れもなく「犯罪集団」である。隠れ蓑にしていた企業体の名前で主催していたとしても、化けの皮が剥がれた時点で「犯罪集団」といえばいいだけのことである。
日本は法治国家であるはずだ。何よりもまっ先に、法を犯しているのかいないのか、が問われるべきである。

anti-social forces ?

そもそも「反社会」とはどういう意味なのか?
「社会に反する」ということであれば、「社会」とはなんなのか?

「反社会的勢力」を英訳すると Anti-Social Forces なんだそうだ。
しかしこの言葉の用例を検索すると、出てくるのは金融庁の文書などがほとんどで、一般的な英文の中で使われている用例がほぼ見つけられなかった。
では、「犯罪集団」を英語ではなんというのかと調べると、crime syndicate、 criminal syndicate という言葉が出てくる。
これなら分かる。英語でははっきりと「crime(犯罪)」という言葉を使っている。
なぜこう呼ばないのか? 「犯罪集団」「犯罪組織」なら漢字4文字で済むのに、「反社会的勢力」は6文字も使った上で、意味がよく分からない。

anti-social は「socialではない」という意味だが、そもそもsocialはどういう意味の言葉なのか。
Man is a social animal.(人間は社会的動物である。)……という使い方がいちばん分かりやすい。
social problems such as poverty and crimes(犯罪や貧困のような社会的問題)
a social movement called the anti-nuclear movement (反核運動という社会運動)
 といった使い方を見ても分かるように、social自体がよいとか悪いということではない。
「群をなす」「社交的」というニュアンスも強い言葉だ。
He has recently got anti‐social.(彼は最近つきあいが悪くなった。)

そういう言葉(social や「社会」)を使って犯罪者集団のことを指し示さなければならないのはなぜなのか?

「反日」という言葉にも似ている

「反社」という言葉は「反日」という言葉にも通じる曖昧さがある。
「反日」とはなにか?
Wikipedia にはこうある。
反日とは、日本の一部または総体に対して反対・反発感情・価値観を持って行われている教育・デモ・活動・外交、それを行っている人物・組織・国家に対して使われる言葉。

↑こんな定義をされてしまったら、「日本の一部」が何を指すのかによって、どんなものも「反日」になってしまう。実際、そうなってしまっているわけだが。
「反社」という言葉があたりまえのように使われるようになると、これと同じことになる。
「反日」の「日」が日本の現政権(日本の一部)である、ととらえると、その「日」は日本という「国」であり、日本の「社会」である、というようなことになりかねない。
この怖ろしさをしっかり自覚しなければいけないだろう。特に弁護士や法律家、ジャーナリズムに身を置く人たちには、この言葉が安易に広まることに対する警戒心をしっかり持ってほしい。

最後にこんな例文を見つけたので掲載しておきたい。
Never losing its antisocial nature, many rakugo acts were suppressed and forbidden during war.
(落語は反社会性が抜けず、戦時中に多くの演目が禁演落語として弾圧された)
Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス


「ブリーフ岡本」と「メロリンQ」2019/07/24 17:31

吉本興業のグダグダ問題──わざわざ取り上げるようなことではない、と思って書かなかったのだが、一私企業の内紛というだけでは済まされない問題もはらんでいるようなので、やっぱりちょっとだけ書いてしまう。

「闇営業」という言葉はやめるべき

オール巨人が「『会社を通さないだけの営業』は『直の営業』。『反社会的勢力相手の(分かった上での)営業』が『闇営業』で、別物」という趣旨のことを言って、業界では「今さら『闇営業』の定義を変えられたら困る」と大困惑している、という記事があった。
でも、オール巨人が言っていることこそ従来の定義なのでは? 芸人たちは所属事務所を通さない営業を「直(チョク)」と呼んでいて、自分たちで「闇営業」などと言っていたわけではない。
だから、今回の騒動は「所属事務所も黙認している直の営業に行ったら、その相手が犯罪者集団だったことがずっと後になって判明した」という話であって、それを読者や視聴者を煽るために「闇営業」という言葉を使ったメディアの「コンプライアンス」こそが糾弾されて然るべきだ。

契約書も交わしていないのだから「直」に何の問題もない

吉本芸人の場合、事務所と専属契約を交わしているわけではないらしいので、事務所を通さない仕事をすることになんら法的問題もない。
吉本興行側も、カラテカ入江を「売れていない芸人たちを世話してやってくれ」的なノリで利用していたフシがあるので、吉本と入江の関係も相互互恵関係だったと思われる。
「いっそ、プロモーターとして能力があるらしい入江が経営したほうがよほどうまくいくんじゃないの?」(隣で飲んでいる女性談)

「中田カウス問題」を放置している企業がコンプライアンス云々を語る資格なし

「反社会的勢力の問題と吉本興業の企業体質に芸人が不満を抱いている問題とは別の問題として分けて考える必要がある」などとしたり顔で語るコメンテーターがいるが、決して「別の問題」ではない。
吉本興業に限らず「興業」というより「興行」の世界がヤクザ社会と切っても切れない関係にあった歴史は打ち消しようがない。
かつては任侠団体が芸能界を仕切っていた。昭和33年に神戸芸能社と名を変えた山口組芸能部は、美空ひばり、田端義夫、山城新伍などの興業の実権を握っていた。その他、橋幸夫、坂本九、三波春夫、マヒナスターズ、舟木一夫など当時のトップスターのほとんどを手がけている。(「凄惨すぎるヤクザたちの争い3選!! ノンフィクションライターが選出」TOCANA
吉本は反社会的勢力の排除を徹底する考えを文書で示したが、在阪の芸能プロモーターは「どこまで本気か」と、こう首をかしげる。
「反社との関係が取り沙汰された、ベテラン漫才師の中田カウス(70)を厚遇している限り、解決になりませんよ」(「吉本興業 芸人の“闇営業問題” 遠因とささやかれる大物漫才師」サンデー毎日)

2007年1月には吉本創業家とその後の大崎体制を確立した現経営陣との間に「裏社会との結びつき告発合戦」ともいうべき騒動が起きた。
創業家当主だった故・林マサさんの夫で吉本の社長だった婿養子の故・林裕章さんは、生前、女性関係や金銭トラブルといったスキャンダルが絶えなかったが、五代目の名前をチラつかせてトラブル処理に奔走したのがカウスだった。
(略)
口火を切った「週刊現代」(講談社)の「吉本興業副社長”暴脅迫事件”一部始終」では、大崎氏が山口組系の男にホテルに呼び出され、元会長の子息の役員就任を要求されたと告発。これを受けて、マサさんが「週刊新潮」(新潮社)誌上で反論。手記「”吉本興業”は怪芸人『中田カウス』に潰される!」で、カウスが山口組との交流をチラつかせて経営にまで口を出し、「吉本最大のタブー」になっていると暴露した。(吉本興業がコンプライアンス徹底を誓うも、上方漫才協会初代会長・中田カウスの処遇に問題は? 本田圭

連日の吉本騒動に関する報道を見ていても、これだけ「反社会勢力」という言葉が飛び交いながら、「中田カウス問題」を口にする者は誰一人もいない。それだけ大きく根の深いタブーだということなのだろう。

企業の体をなしていない

7月20日の宮迫博之、田村亮の「手作り記者会見」は、日大アメフト部事件のときの加害選手が一人で受け答えした謝罪会見を思い出させた。
その後の吉本興行側の緊急記者会見は、さらに衝撃的だった。
最初に、雇われ弁護士で吉本社員の「マイクプルプル小林」(動揺すると手に持ったマイクが嘘発見器のごとく分かりやすく震え始めるので、私が命名)が、延々30分かけて事の経緯を話し始めた。ちなみに彼の、人形にはめ込まれたような目が誰かに似ていると思っていたのだが、国会で大ウソを突き通した功績で国税庁長官に出世した佐川宣寿氏の目と似ているのだった。

ようやく岡本社長が登場してからの30分くらいは、社長がまともな日本語を喋れないことにビックリさせられた。「なんじゃこりゃ?」と。
さらに辛抱強く見ているうちに、今度は笑うしかなくなった。コメディUKというか、モンティ・パイソンのシュールなコントを見ているような感じ。
何かわからないものが、ずっとすごい弱火ですごい焦げている(天竺鼠・川原
おそらくこれは相当な高等技術で全てを霧に包めるマヌーサみたいな魔法なんだと信じてる(元カリカ・家城

ニュース番組やその後のワイドショー番組で編集されたダイジェスト版しか見ていない人には分からないかもしれないが、日本語が通じない相手との会話をネタにした、尺無制限コントを見せられているようだった。
最初は「山根会長と組んで漫才すればいい」「いや、それだとWボケで収拾がつかないし、尺が足りなくてテレビ向きじゃないな」などといいながら見ていたのだが、最後はなんだか薄ら寒さを覚えてきた。
こんな企業が日本のテレビ局を牛耳っているのか……と。

社長は「悪人」ではない?

あの記者会見で日本中に衝撃を与えた岡本社長という人物はしかし、日大アメフト部の内田元監督や日大田中理事長などとは違う種類の人間のようだ。
「平気で嘘をつく政治家なんかに比べたら、悪人ではない。○○なだけ」という評は当たっていると思う。
ダウンタウンの元マネージャーということなので、それでググったところ、ツイッターやYouTubeなどにブリーフ一丁ででかいとら猫を抱いた不思議な動画が多数出てきた。
「ブリーフ岡本」とか「おかもっちゃん」などと呼ばれて、ダウンタウンの番組に出ていじられキャラ、キレキャラを演じていたらしい。
YouTubeで「ブリーフ岡本」を検索すると、当時の動画がいろいろ出てくる↓。

これを見て、ようやくあの記者会見の異様さの正体が分かった気がした。
ダウンタウンの芸がなぜそんなに持ち上げられるのかさっぱり分からなかったのだが、ここにある動画のようなものを見て面白がっていた人たちがいっぱいいて(笑いの感覚に地域差もあると思うが)、ダウンタウンがなぜか知らないうちに大御所みたいに持ち上げられて、それにテレビ局も乗っかって、いくつかの不祥事や事件もうやむやにされてきて……そういうのの延長線上に今の吉本王国があるんだ、と。
その象徴ともいうべきものが、2008年に行われた「キングオブコント」第1回目だった。松本人志が総指揮のような立場に持ち上げられて始まったこのイベントは、決勝戦の審査は予選リーグで敗れた決勝進出者6組の芸人たちが口頭で優勝にふさわしいチームの名を告げるというシステムだった。
このとき決勝リーグに残ったのは、バナナマン、ロバート、バッファロー吾郎、チョコレートプラネット、ザ・ギース、天竺鼠、TKO、2700(決勝戦1回目の得点順)の8組。
TKO(松竹芸能)、バナナマン(ホリプロコム)、ザ・ギース(ASH&Dコーポレーション)以外はすべて吉本の芸人だった。
Aリーグ最高点のバッファロー吾郎とBリーグ最高点のバナナマンが最終決戦を行い、残り6組が起立して口頭で「どちらが勝者にふさわしいか」を告げて、優勝者を決めるというこのひどい仕組みも松本が考案している。
誰の目にも芸が優れているのはバナナマンのほうだったが、6組のうちで「バナナマン」と口にしたのはザ・ギースだけだった。それも、苦渋に満ちた表情で言ったのが印象的だった。
いつから松本人志はこんな権力をもつようになったのか? と、驚いたものだった。

岡本社長は松本に言われれば汚れ役を素直にやる忠実な「大崎・松本ファミリーの番頭」であり、今の吉本興業は「松本閥」が仕切る胴元なのだな……と、そこまで理解したら、なんだか岡本社長が哀れに思えてきた。

マイクプルプル小林を見ていて、国会中継も思い出してしまった。
この図、今の日本の政治の世界とそっくりだ。
ありえないこと(たとえば公文書の改竄・破棄とか、逮捕状が出てまさに逮捕しようとしていた準強姦罪被疑者が、逮捕寸前で警視庁刑事部長からの命令で見逃されるとか……)が平気で「その世界のトップ」の間で行われ、それを制御する者がいない。システムがどんどん壊れていき、修整が効かなくなる。
メディアがそれを是正する役割を担っていないどころか、忖度し放題で、ますます取り返しのつかない状況にしている。
それを見ている国民(視聴者)もまた、「世の中(芸能界)ってこういうもんでしょ」という気分の中で生きていくことに満足しようと努力する。
腹を立ててもどうにもならない。あの世界のことは自分たちにはコントロールできないのだから……という諦観。

……そう気づいたら、シュールなコントとして笑っているだけでは済まないんだなあ、と、薄ら寒くなってしまったのだった。
そのとき隣からこんな声が。
「要するに、ダウンタウンと大崎会長と岡本社長が出て行って別会社を作ればいいんじゃないの?」
「!!」
そらそうだ。吉本にはお笑い文化に情熱を持って仕事をしている優秀な社員がたくさんいるという。だったら、その人的資産はそっくりそのまま残して、会社をダメにした現経営陣が独立し、松本興行でも松本組でもなんでもいいから、「ファミリー」的な会社を作って、好きなように興行の元締めをすればいい。
な~んだ。解決法は簡単だったね。

芸人の力はすごい

それにしても、宮迫博之のあの会見での渾身の演技(パフォーマンス?)といい、加藤浩次の正義感といい、田村亮の「いいやつ」ぶりといい、この世界でしぶとく生き残ってきた芸人たちの潜在能力や剛胆さはすごいなあと感心する。とても真似できない。
ただ忖度しまくる官僚や、秘書に平気で暴力をふるう官僚上がりの議員などよりよほど政治家に向いている。もちろん「勉強してくれたら」という条件付きだけれど。
……あ、それがメロリンQなのか!
メロリンQは今回の参院選でゲリラ戦法も身につけたし、まだまだ見応えのある舞台を見せてくれるだろうか。期待していいのかな? (でも、くれぐれも「刺客」には気をつけてね)


「飛翔獅子」という呼称について2019/03/01 21:30

鹿島神社の「飛翔獅子」(吽像)

川田神社の飛翔獅子。寅吉自身が奉納した記念すべき最初の飛翔獅子 明治25(1892)年11月15日「浅川町福貴作 石工小松布孝作之」の銘



鹿島神社の狛犬(裏側から) 明治36(1903)年 「福貴作 石工 小松布孝」の銘

小説版『神の鑿』上巻 小松利平、は、目下160枚ほど書いて、利平がようやく福島に初めて足を踏み入れようとするあたり(天保年間)まできた。
小説化するにあたって、毎日、執筆時間よりも調べ物をしている時間のほうが多いのだが、ネット検索していると自分が書いた文章やサイトにぶつかることもある。
今日は朝日新聞のこんな記事を見つけた。
白河市を中心とする福島県南部には、全国でもめずらしい……というよりは、この地方だけではないかといわれる“飛翔する狛犬”たちが見られる。

……と始まる「城とラーメンの町で注目を集める新名物は“飛翔する狛犬たち”/福島県白河市ほか」(文・写真 中元千恵子 2017年3月22日)という記事。
2017年3月だから、2年も前に書かれていたのね。

で、ここでも書かれている
通常は前足を伸ばして腰を下ろした姿勢だが、白河地方では“飛翔獅子(ひしょうじし)”とよばれる独特のスタイルが生まれた。雲に乗り、尾やたてがみを風になびかせた姿は躍動感があり、彫りの美しさからも、もはや芸術、と称されている。

の、「飛翔獅子」や「雲に乗り」という部分がおかしいと主張している人がいると最近知った。
実際に問い合わせもあった。
狛犬の下の部分は明らかに「雲」ではない。雲ではないのだから、「空を飛ぶ」もおかしいのではないか、という趣旨のご指摘だ。
「雲に乗り空を飛ぶ」というのは、拙著『狛犬かがみ』にこんな記述がある。
江戸獅子の豪華版として獅子山というスタイルがある。獅子山の獅子は、今にも飛びかかりそうな躍動感にあふれているものが多い。加賀地方には、山の上で逆立ちしている獅子像がある。広島には玉に乗った狛犬が多い。しかし「雲に乗り空を飛ぶ狛犬」という構図は、ほとんど見たことがない。石で造るがゆえに、あまり自由な構図が許されないからだろう。
寅吉は生涯何体もの狛犬を彫っているが、ついにはこの「飛翔獅子」というスタイルに行き着く。これが寅吉の「発明」だとすれば、大変な功績といえよう。
(『狛犬かがみ』バナナブックス)

獅子を支えている部分については、「雲」ではない、と言われればその通りかもしれない。
しかし、江戸獅子の獅子山とは発想がまったく違う。仏像の蓮華座そのものかといえば、そうともいえない。蓮の意匠をあしらった部分もあるし、牡丹の花を添えているのもあるが、「あの部分」に関しては、おそらく、「後ろ脚を蹴り上げて飛んでいるような格好の石獅子を台座の上でバランスよく成立させるためには、どのような造形にすればいいか」という命題から出発して、あのようにまとめ上げたのだと思う。獅子と一体に一つの石から彫られているのも、そのためだ。

寅吉の出発点(発想の最初)はあくまでも、龍のように「天翔る獅子」を彫りたい、だっただろう。
重い石獅子をあの形で仕上げるには、前脚だけが台座に接続しているのでは無理がある。長くもたせるためには、重量バランスを考えて、なおかつ全体のデザインが壊れないようにまとめなければならない。そこで、「台座にのせる」という発想から一旦離れて、「獅子をあの形で宙に浮かせるためにはどういう形にすればいいか」という発想に切り替えた結果なのだ。
悩んだ末に、蹴り上げた後ろ脚を支える支柱の代わりに、モコモコっとした「何か」を後肢方向に盛り上げて、その「何か」込みで全体のデザインと重量バランスをまとめる、という作業に取り組み、完成させた……と見る。
あの「何か」が岩山なのか蓮華座なのかという定義は、寅吉にとってはあまり意味のないことだったのではないか。それをどう呼ぼうが「後付けの問題」で、あくまでも「天翔る獅子」を成立させるための「デザイン」が必要だった、ということだろう。儀軌的な定義ではなく、あのスタイルを実現するための物理学的な工夫の結果だった。雨水が溜まらないように随所に空洞を作るという工夫もされている。
あの部分に蓮や牡丹の意匠を採用していても、それは「ここはこうあるべきだ」ではなく、不自然さがなく、かつ、豪華、豪快にまとめるためのパーツ(木彫扉の錺金具のようなもの)だったと思うのだ。
あれを岩山であるとか、蓮華座であるとか厳密に「規定」してしまうと、途端に主役の獅子の動きが止まってしまい、躍動感や感動が薄れてしまう気がする。
あくまでも主題(目的)が「天翔る獅子」であるならば、「それを可能にするためのデザイン」として下にあるものを「雲にたとえて」もいいのではないか。

もちろん、寅吉自身が「空を飛ぶ獅子」というイメージをまったく抱いていなかったという可能性はありえる。
蹲踞した狛犬ではつまらないから、獅子に何か驚くようなポーズをとらせたいと考えた末に、後ろ脚を高く持ち上げてみた……というだけだった。それを見た人たちが勝手に「すごい! 狛犬が空を飛んでいる!」「雲に乗っている!」と感じた(解釈した)だけだ、という可能性……。
そうであったとしても、それまで誰も挑戦したことのない造形を生み出そうとしたことは間違いない。であれば、あれを見た人がイメージした「天翔る獅子」「飛翔獅子」が表現や呼び方として定着するのは、悪いことではない。たとえ寅吉がそう意図していなかったとしても、「雲に乗って空を飛ぶ獅子」と評されることを、寅吉自身、喜ぶのではないか。

芸道や芸術の修業における段階を表す「守破離」という言葉がある。
」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。(デジタル大辞泉より)

仏教では「習絶真」という言葉がこれに近い。
寅吉にとって、飛翔獅子の考案は、守破離の「破」から「離」に相当するものであった。それは確かだ。

思うに、寅吉の師匠である利平は、寅吉よりずっと自由人だった。利平に比べたら、寅吉はむしろ儀軌を重視する保守的な一面も持った人だった。
しかし、自由を愛した利平も、獅子を飛行させることはできなかった。アイデアはあったかもしれないが(そのアイデアを寅吉に語っていた可能性は大いにある)、彫り上げることはできなかった。
寅吉は、並外れた努力と技術で、それを形にしてしまった。……そういうことだ。

残念なのは、利平が寅吉の飛翔獅子を見ることなくこの世を去ったことだ。生きていたら、飛翔獅子を完成させた寅吉にどんな言葉をかけただろうか。

謎の飛翔獅子

矢吹町中畑字根宿の八幡神社には、後肢に支えのないアクロバティックな飛翔獅子がいる。

根宿八幡神社の飛翔獅子 明治41(1908)年。石工名なし


明治41(1908)年旧8月という銘があるが、石工の名前がない。
間違いなく寅吉の工房で彫られていると思うが、寅吉の作ではない。作風がまるで違うし、このとき寅吉はすでに64歳で、八雲神社の燈籠(「福貴作小松布孝六十五年調刻」の銘)にかかりきりだったはずだからだ。
極めて端正な顔とスマートな体躯。これは一体誰が刻んだのだろうか。
私の推理としては、当時まだ20代だった和平か、和平の同僚であった(?)岡部市三郎、あるいはこの二人の合作ではないか。
和平や市三郎以外の腕の立つ職人が石福貴にいたのかもしれない。

これは、「飛翔獅子を後肢に支えをつけないで設置できるのか」というテーマ(タブー?)に挑戦した作品であろう。
そういうことをやろうと思うのは、若く、反骨精神旺盛なときだと思う。守破離でいえば、「破」であがいている時期か。
老境に入って、自分の石工人生を振り返りつつあった寅吉は、弟子がそういう生意気な挑戦をすることについて黙って見守っていたのかもしれない。
あの飛翔獅子を彫ったのが和平だとすれば、後に「やはりあれは無茶だった。師匠が完成させた形を受け入れよう」と改心して、なおかつ「自分にしか彫れない飛翔獅子」を生み出そうと試行錯誤した結果、石都都古和気神社の親子獅子以降の傑作が生まれたのではないだろうか。

……とまあ、過去の物語をいろいろ想像しながら、目下、小説版『神の鑿』上巻を執筆中。
勉強することが多すぎて、寅吉や和平が登場するまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。



HOMEへ 狛犬ネット入口目次へ

狛犬ネット売店へ
『神の鑿』『狛犬ガイドブック』『日本狛犬図鑑』など、狛犬の本は狛犬ネット売店で⇒こちらです

「絶対」音感なんてものはない2019/02/11 21:25

学校の放送室

「移動ド音感」と「固定ド音感」

学校のチャイム

テスト1


とりあえずこれ↑を聴いてほしい。(音が出ない場合は左端の三角印をクリック)
どう聞こえるだろうか?
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

1の人は、メロディを聴くとドレミファ……という階名をラベリングする習慣がある。
2の人は、メロディを階名と結びつける習慣がない。

世の中の人は、概ねこの2通りに分けられる。
ちなみに上のメロディを譜面に表せばこうなる↓

テスト2

では、次のこれ↓はどうだろうか(三角印をクリック)


  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ファラソド ファソラファ ラファソド ドソラファ ……と聞こえる
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない


1の人は移動ド音感である。
2の人は固定ド音感である。
3の人はどちらでもない。(メロディは「ああ、あれだ」と分かっても、階名には結びつかない)

最初のケースの1の人が、2つのグループに分かれたわけだ。
ちなみに上のメロディを譜面に表すとこうなる。

これを移動ド音感の人は、キー(調)に関係なく、「長調のメロディ」として聞こえてくるので、

↑こう聞こえる。ちなみにF(和音名=ヘ)の音をドレミ……のドにした長音階(ヘ長調)に相当するので、本来譜面の横には b(フラット) が1つつくが、この学校チャイムのメロディには「B」(和名音名なら「ロ」)に相当する音が含まれていないので、b がなくても演奏には影響がない。

一方、固定ド音感の人は、あくまでもA=440Hzの調律をした楽器の「Cの音をドと固定して聴いている」ので、

↑こう聞こえる。

テスト3

では、次はどうだろうか?(三角印をクリック)

  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ファラソド ファソラファ ラファソド ドソラファ ……と聞こえる……かな?
  3. ミ ソ# ファ# シ ミ ファ# ソ# ミ ソミファシ シ ファ# ソ# ミ ……と聞こえる……かな?
  4. 気持ちが悪い
  5. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

1はもう説明不要だが、移動ド音感の人である。
2.3.4.は固定ド音感の人だが、いわゆる「絶対音感」というものにどれだけ忠実な耳であるかで反応が分かれる。
実はこれ、A=422.5Hzというチューニングになっている。
現代では、A=440Hzというチューニングが標準とされ、クラシックなどでは少し高めのA=442Hzあたりのチューニングをすることもある。
しかし、A=422.5Hzまで下げると、A=440Hzのときの半音下のAb(G#)が415.3Hzなので、ヘ長調(Fメジャー)でもホ長調(Eメジャー)でもない中途半端なチューニングになる。(FメジャーよりはEメジャー寄り)

念のために、半音下げたEスケール(ホ長調)でも聴いてみよう。↓



これはA=440Hzのチューニングなので、「気持ちが悪い」という人はいなくなり、
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ミ ソ# ファ# シ ミ ファ# ソ# ミ ソミファシ シ ファ# ソ# ミ ……と聞こえる
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

の3通りに分かれると思う。

しつこいようだが、Gスケール(ト長調)でも聴いてみよう。



これだと、
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる(移動ド音感)
  2. ソシラレ ソラシソ シソラレ レラシソ ……と聞こえる(固定ド音感)
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

の3通りのグループに分かれるはずだ。

端的に言えば、固定ド音感の人にとって、Fスケールの学校チャイムとEスケールの学校チャイムは(違う高さの音で構成されている)「別々のもの」だが、移動ド音感の人にとってはこの両者は(「学校チャイムのメロディ」という意味で)「同じもの」なのである。

音楽は「相対音感」の文化である

さて、多くの人たちは、耳で聞いたメロディを即座に楽器で演奏してみせる人のことを「絶対音感」がある、などというが、それは間違いである。
まず、世の中の多くの人たちが「絶対音感」と呼んでいる音感は、ほとんどが「A=440Hz調律をしたときの固定音感」とでも呼ぶべき音感である。
このタイプの「固定音感」の持ち主は、クラシック音楽の演奏家などに多い。
「譜面に強い」のも特徴で、上のテストで固定ド音感であった人たちの多くは、この程度のメロディであれば、聴いた音をサラサラと譜面に書きおこすこともできる。
一方、移動ド音感の持ち主は「相対音感」を持っている。基準音がどんな周波数に調律されていようと、1オクターブ(周波数が倍音の関係)の間を12に分割した音の相対関係が正確であれば、音楽的には何の問題もなく、ちゃんと「メロディ」として把握できる。
優れた「相対音感」の持ち主もまた、メロディを聴けば譜面なしで歌ったり演奏したりできる。
この「相対音感」こそが、音楽(特に作曲や即興演奏)にとって重要な音感である。

固定音感(世の中の多くの人が「絶対音感」と呼んでいる音感)を持っていても音痴な人はいる。逆に、相対音感を持っていても「譜面は読めない」「譜面には弱い」という人はとても多い。
典型的な相対音感人間の例は安全漫才のみやぞんだ。

みやぞんはメロディを相対音感でとらえているので、譜面などなくてもメロディを再現できる↑
ガヤの中から「絶対音感があるやん」という声が聞こえるが、これは間違い。「相対音感」があるのだ。


上の動画を見て分かるように、原曲のキーに関係なく、みやぞんはすべてFスケール(ヘ長調)で弾いている。それが自分にとって弾きやすく、コードなどもFスケールの指癖で覚えてしまっているからだろう。
彼にA=422.5Hzでチューニングされたメロディや歌を聴かせても、長調であれば全部ヘ長調で演奏するに違いないし、A=440Hzからずれたチューニングであることも気づかないはずだ。

「半音」部分を言い表せない移動ド音感

ドレミファ……の階名には一つ大きな問題がある。
長音階(メジャースケール)、短音階(マイナースケール)から外れた音に対するラベリング(名前付け)がないことだ。
ひとつ例を挙げよう。
もうひとつ例を挙げよう。

月桂冠のテレビCM
この「好きだよね 月だよね」というジングル(広告コピーや社名、商品名などを短いメロディにのせたもの)はとてもよくできている。
こういうメロディだ。



これはBbスケール(変ロ長調)を基本にしたメロディなので、移動ド音感の人は、最初のところは

レミレドミ

……と聞こえる。
ちなみに、フリューゲルホルンやテナーサックス、ソプラノサックス、トロンボーン、ユーフォニウム、バスクラリネットなどは「Bb管」と呼ばれる管楽器で、基本のドレミファ……がBbスケール(Bbが「ド」)の音になる。だから、これらの楽器で「レミレドミ……」と吹けば、上の音になる。
これらは「移調楽器」なんて呼ばれるけれど、固定ド固定音感の人がこうした移調楽器を演奏しようとするとき、あるいは記譜しようとするときは、頭の中で一旦移調しなければならず、混乱するという。

ところで、このメロディのチャームポイント?は、二度目の「だよね」の「だ」がブルーノート(メジャースケールにもマイナースケールにも含まれない音)になっているところだ。
完全な長調のメロディだとちょっと面白くないのだが、ここにブルーノート(移動ドでいえばレとミの間の半音)が入ることでちょこっとおしゃれ感というか、ブルーステイストが出る。
しかし、ドレミファの階名だと、こういう半音部分は名前がないので、移動ド音感の人は、そこだけドレミで歌えなくなる。

レミレドミ ラソ●~レド

と聞こえるのだ。
●のところは普通に行けばミになりそうだが、ミではない。思わず頭の中では「む~」とか「ん~」となってしまう。
それに引きずられて、その後に続く最後の「レド」も、この音の後だともはや「レド」とは聞こえず、

レミレドミ ラソむ~むむ~

……みたいに聞こえてくるかもしれない。

一方、固定ド固定音感の人たちにはこうしたことはまったく関係ない。これがミbであることはすぐに分かるからだ。この音はこれでしょ、と、楽器上で勝手に指が動く。そういう訓練を受けている人たちが多い。


ちなみにみやぞんがこれを聴いて「ピアノで弾いてみて」と言われたら、迷わずFメジャー(ヘ長調)で弾き始めるだろう。
こういう感じで↓



シンプルにコードをつければこんな感じかな。





相対音感人間が激減している?

みやぞんが優れた相対音感の持ち主であることは間違いないが、彼がメロディを聴いたときにドレミ……の階名ラベリングを頭の中でしているかどうかは分からない。
また、ドレミ……でラベリングできるかどうかは、さほど重要なことでもない。
ドレミ……という階名は長調と短調のスケールの中でのラベリングであって、ジャズのようなテンションや転調がコロコロ出てくる音楽ではドレミ……ラベリングはあまり意味をなさないかもしれない。
実際、耳で聴いたときの階名ラベリングができなくても優秀な相対音感を持っている人たちもたくさんいる。ドレミは分からないし、譜面も読めないけれど、一度聴いたらすぐに歌えてしまう人などはそういうタイプだ。

ただ、みやぞんのような相対音感人間がどんどん少なくなってきていると感じるのは私だけだろうか。

「絶対音感」なんてない

固定ド固定音感の人たちが、移動ドや相対音感のことを、上から目線で「育ちが悪い」とか「音が狂っているのに分からないなんて」とか「ファソラなのにドレミって歌うなんて吐きそうだ」とか言っているシーンを目にする。音大生やプロの演奏家にも多い。
そういう人たちは、自分たちが「絶対音感」の持ち主であることにエリート意識を持っている。しかし、彼らは「絶対音感」という言葉の「絶対」という部分にマインドコントロールされているだけではないのか。
調律の仕方に「絶対」なんてない。どんな高さに調律しても、個々の音の相関関係がしっかりしていればなんの問題もない。ピアノの名門・スタインウェイ社は、一時期、A=435Hz~460Hzまで、何種類ものピアノを作っていた。
それに、平均律12音階ではない、ピタゴラス音律や純正律といった調律法、音階も存在する。純正律主義者?に言わせれば、ピアノやギターの平均律は「12音すべてが平均的に狂っている調律」だということになる。

また、ベートーベンもモーツァルトもバッハも、A=440Hzで音楽を作ったり聴いたり演奏してはいない。
Aの音(ハ長調の「ラ」の音)を440Hzにしようと決めたのは20世紀になってからのことだ。1917年にアメリカの音楽協会がA=440Hzを決めて、その後、1953年にISO(国際標準)が正式にひとつの基準として認定した。
しかし、それ以前の音楽の歴史を遡れば、A=440Hzというチューニングはむしろ異端で、時代によって、また同じ時代でも場所によって、もっと高かったり低かったりした
彼らの時代に演奏されていたオリジナルの音楽をそのまま今聴けば、「固定音感」の人たちはきっと「調律が狂っていて気持ちが悪い」と感じるだろう。
昔は録音機がなかったから、どんな音の高さで演奏されていたかは分からないではないかと言われそうだが、使用されていた調律用の音叉が残っている。
ヘンデルが使った音叉はA=422.5Hzで、ベートーベンの時代にはA=433Hzまで上がったそうだ。
A=422.5Hzというのは、A=440Hzで調律したときのAbが415Hzだから、今ならAとAbの中間あたりの音である。
そう、さっき聴いた学校チャイムの聴音「テスト3」がこれだ。
もう一度聴いてみよう。


ヘンデルはこの音程で調律した楽器を使っていたのだ。この調律で演奏される音楽が気持ち悪いと感じる人は、ヘンデルと一緒に演奏はできないことになる。
現在、バロック音楽の演奏会ではAの音を半音低い415Hz(Ab)に調律することが多いが、それはバロック時代の調律が今より低かったことが分かっているものの、現代の調律の標準であるA=440Hzとの整合性をとるために、A=422.5Hzなどという「中途半端」な調律にはせず、便宜上、Abの高さまで(半音ちょうど)低くしているわけだ。

もうお分かりだと思うが、要するに絶対音感と呼ばれる音感の「絶対性」は、基準点をどこに決めるかで変わってしまうのだ。
その意味で「絶対」音感などは存在しえない。あるとすれば、ある基準音を決めたときの「固定」音感とでも呼ぶべきものだ。

クラシックの名作曲家たちは、おそらくすぐれた相対音感の持ち主であっただろうし、チューニングの基準をどこに決めるかなんてことは、演奏する際の便宜にすぎないということを理解していた。「優れた音感」はあっても、「絶対音感」などという概念はなかったのではなかろうか。
人間音叉になってしまうような固定音感は、決められた調律で与えられた譜面通りに演奏するのには都合がいいかもしれないが、それでは「人間MIDI」ではないか?
メロディを作りだしたり、自由に楽しむためにはむしろ弊害のほうが多いと思われる。

誤解してほしくないが、私は、どんな音感が偉いとか言っているのではない。ただ、固定ド固定音感をつけさせることが音楽のエリートを養成する第一段階のようになってしまったら、それはとても怖いことだと思うのだ。
私にとっての音楽は、「音そのもの」よりも、音同士の相対性の関係(メロディ)に価値(美)を見出す文化だ。
一方で、固定ド固定音感の音楽世界は、音色の美しさや演奏技術の高さに最高価値を置いている世界観、言いかえれば「音そのものの価値観」の世界のような気がするのだが、どうだろうか。
どちらが「偉い」とか「高尚だ」という話ではない。同じ「音楽」といっている文化だが、人によって価値観が違うだけでなく、聞こえ方そのものが違う、という話である。

あなたはどうだろう?
譜面を与えれば、どんなに難しい曲も弾きこなせてしまうが、簡単なメロディの伴奏も譜面なしではできない演奏家と、演奏技術は大したことはないが、耳から入ってきたメロディを自分の好きなキーですぐに再現できるみやぞんタイプ……あなたなら、どちらになりたいだろうか?

軽自動車こそ究極のエコカーである2018/11/07 10:21

「笑点」メンバーの着物の色ってどっかで見たなあと思っていたら……これだった

製造と廃棄の段階での環境負荷

X90を手放した心痛と悔しさから逃れるため、代わりに我が家の一員となった17万円のアルトラパン4WDを目一杯愛す方向に頭を切り換えている。

世の中、ハイブリッドカーや電気自動車が「エコカー」と持ち上げられ、極端な優遇税制を受けたりしている。しかし、今さらいうまでもないことだが、化石燃料や金属資源の節約、環境負荷の軽減という意味では軽自動車こそが真のエコカーである。

自動車が環境に与える負荷は、主に
  1. 製造する段階でどれだけのエネルギー資源や金属などの地下資源(特にレアメタル類)を使ったか
  2. その自動車が走ることでどれだけのエネルギー資源を消費したか
  3. その自動車が走ることでどれだけ環境を汚染し、道路などの公共資産を傷めたか
  4. その自動車を廃棄する段階でどれだけの資源(特に金属)を失い、環境を汚染、破壊したか

ということで計算することになる。
ところが、ハイブリッド車や電気自動車については、上記の2と3しか取り上げられず、1と4の視点がほとんど抜け落ちている。
さらには、作られた自動車でどれだけの仕事ができたか(人力などを節約できたか)もあまり論じられない。

エコカーと呼ばれる車の多くは価格が高く、庶民にとっては高嶺の花だ。実際、所有している人たちはそこそこの所得がある人たちであり、用途もレジャーや買い物などが多い。
一方、公共輸送に使われるバスやトラックなどはもちろん、毎日走り回っている営業車の類、プロパンガスを交換している2トン車やエアコンやボイラーの修理のために回っている軽バン、農家にはなくてはならない軽トラがハイブリッドカーや電気自動車である、という社会にはなっていない。
なぜなら「エコカーは高くつく」からだ。

田舎では必須の軽自動車にも、ハイブリッドや電気自動車はほとんどない。(現時点では、スズキに小規模なハイブリッド車があるだけ)
ハイブリッドは、従来のガソリンエンジンの他に高性能バッテリーとモーターを積んで、走行状況に合わせ、モーターがエンジンをアシストするというものだ。しかし、自動車として究極までに軽量化・高効率化された軽自動車は、エンジン本来の性能を徹底的に効率化させることですでに従来の常識を覆すような高燃費を実現している。それを多少上回る程度の燃費改善のために、モーターやリチウムイオンバッテリーという重くて高価なパーツを軽自動車に組み込むメリットが見出しづらい。
軽自動車のユーザーはもとより経済性最重視だから、通常の(ガソリンエンジンのみの)軽自動車との価格差を燃費の差で埋めることは相当難しいであろうことを理解している。
しかし、軽自動車というのは常に「無理をして」ギリギリの設計をしてきた車だから、最小限のモーターアシスト機構をうまく組み入れられれば、さらに進化する可能性が普通車よりあるかもしれない。スズキはすでにその領域に入ってきたような気もするので、期待もしている。

石油よりもレアメタルが先に枯渇する

ハイブリッドカーや電気自動車でいちばん懸念されるのは、稀少金属を大量に使っていることだ。
初代プリウスにはニッケル水素バッテリーが使われていたが、ニッケルの可採年数(採掘可能な残り年数)は約40年という(経産省「諸外国の資源循環政策に関する基礎調査」より)
現行プリウスには、グレードによってリチウムイオンバッテリーも使われているが、リチウムはチリやアルゼンチンなど、極めて限られた地域に偏在している稀少金属だ。
仮に全世界の自動車保有台数の 50% を環境低負荷自動車(HV + PHV と EV をそれぞれ50% の割合とする)にすると、約790 万 t の金属リチウムが必要ということになる。この金属リチウム量は、次章で示す金属リチウムの推定埋蔵量に迫る量になる。
「リチウム資源の供給と自動車用需要の動向」河本 洋、玉城わかな)

いずれにしても、このまま自動車にモーター駆動用の二次電池を積むことを続けていれば、石油の枯渇よりも金属資源の枯渇のほうが早くなるだろう。石油はまだなんとかあるけれど、ニッケルもリチウムももうなくなりそうなので高性能電池はもう作れません、という時代が来る。わずかに残されたレアメタルの価格は急騰し、さらには争奪で戦争にもなりかねず、燃費向上がどうのという話どころではなくなる。
ハイブリッドや電気自動車万歳という風潮には、こうした現実的な予測がまったく欠けている。
燃料電池車などは論外で、そもそもエネルギー収支の点からやる意味がまったくない。水素エネルギー社会が到来するなどというのは補助金目当ての詐欺PRでしかない。

頻繁に新車に乗り換えることこそ環境破壊

環境負荷を減らしたいなら、自動車を製造する~使う~廃棄するという全課程での資源消費を極力少なくし、環境に有害な物質を極力出させないことだ。
少ないエネルギー、資源で、大きな代替労力を得られる車こそが「エコカー」を名乗っていい。
残念ながら、現時点ではハイブリッド車も電気自動車も「エコカー」とは言い難い。
日本で生まれた軽自動車という規格は、世界に類をみないユニークなものだった。「ガラ軽」と呼んだ人がいたが、まさにそうかもしれない。しかしこれは、極めてよい意味でのガラパゴスだ。
軽自動車は高級車に比べればいろいろな点で快適ではないし非力だが、効率よく仕事をして、環境への負荷も少ないという点では極めて優れている。
田舎暮らしではどうしても車が必要だから、「申し訳ないけれど車を使わせてもらってます。でも、環境負荷は最小限にしたいので、軽自動車、しかも中古車を徹底的に長く乗ります」という生き方がいちばん合理的で社会倫理的だろう。
今回、理由はどうであれ、そういう「軽自動車文化」に仲間入りできたと思い、X90を手放す苦しさを軽減させることにした。
X90も廃車ではなく、ちゃんと次のオーナーが決まっている。この乗り換えで、新しく製造された車が増えたわけではない。すでに製造され、十分に仕事をして元を取ったであろう車が入れ替わるだけだ。

……とまあ、例によってぐだぐだ能書きを垂れながら、15年間連れ添った珍車X90に別れを告げるのであった。

「男前豆腐」と「海老名メロンパン」2018/08/30 14:41

男前豆腐店の「やさしくとろけるケンちゃん」

「波乗りジョニー」は男前豆腐店の商品ではなかった

豆腐にタレを掛けたら「男」の文字が浮かび上がった。男前豆腐店のロゴなのだが、このタイプの豆腐(一人前のボート型の充填豆腐)、少し前までは「波乗りジョニー」という商品名だったと思った。
妻がずいぶん前から男前豆腐店の豆腐は美味しいと言って贔屓にしていたのだが、なぜか最近は全然買わない。単純に高いからかなと思っていたのだが、「波乗りジョニー」は高額な商品ではない。
で、気になったので「男前豆腐」を調べてみたら……かなりビックリするような結論が待っていた。
商品開発に携わった代表取締役社長の伊藤信吾は茨城県の三和豆友食品に在籍時、単価を低く抑えようとする豆腐業界の経営には未来はないとし、単価は高いが品質も高い、と言う方針で商品の開発を開始する。これら商品がヒットを収め、2005年、「男前豆腐店株式会社」を設立。同年9月、倒産した大手豆腐メーカーの京都工場を買い取り、京都府南丹市へ移転する。
(Wikiより)


なるほどなるほど、と思う。
しかし、話はここで終わらなかった。

「男前豆腐」という名前の商品は、男前豆腐店と三和豆水庵(旧・三和豆友食品)で製造されている。また「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」という名前の商品は、三和豆友食品で製造されていた。
これは、男前豆腐店代表取締役社長の伊藤信吾が、実父が経営していた三和豆友食品に勤務していた際に、これらの商品を開発した事による。「ジョニー」とは伊藤信吾の愛称であり、今までにない豆腐を作る思いからこの商品名となった。
その後伊藤は2005年に男前豆腐店株式会社を設立し独立した~(同上)


……という。
要するに、男前豆腐は、現男前豆腐店伊藤信吾社長が、父親が経営していた豆腐製造会社(旧・三和豆友食品)に勤めていたときに考案した名称で、「ジョニー」は伊藤氏の愛称だった。
伊藤氏の独立後もいろいろあって、現在では「波乗りジョニー」を発売している三和豆友食品と、ジョニーの愛称を持つ伊藤社長が経営する男前豆腐店とは何の関係もない
男前豆腐店は三和の「ジョニー」とはっきり区別するためか、自社製品の商品名から「ジョニー」を一掃し、今では「ケンちゃん」シリーズにしている。なんとテーマソングもある。
一方、三和豆友は、男前豆腐の産みの親である伊藤氏が独立していなくなり、伊藤氏の父親も退任している今でも「男前豆腐」という商品名の豆腐を作り、伊藤氏の愛称であった「ジョニー」の名を冠した商品も作っている。実にややこしい。
「男前豆腐」「男前豆腐店」「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」の商標は、男前豆腐店社長個人で登録済みだそうだ。男前豆腐店側は「三和豆友食品株式会社の製造する『男前豆腐』『波乗りジョニー』は、男前豆腐店製造の豆腐とは製造方法、使用原料もまったく異なる」と表明している。

しかしまあ、ここまで調べてスッキリした。
妻があるときから波乗りジョニーを買わなくなったのはなぜなのか……。確かめたところ「明らかに味がおかしい商品があったから」という。
製造過程での瑕疵がある商品だったらしい。以来「男前豆腐」に対する信頼を持てなくなったようだ。一度は評価していた会社なのに……という裏切られ感が大きかった分、ますます買わなくなったのではなかろうか。
しかし「波乗りジョニー」は「男前豆腐店」の豆腐ではなかったのだ。

↑ここに写っているのは男前豆腐店の商品「やさしくとろけるケンちゃん」である。「特濃ケンちゃん」を食べてみたいものだが、残念ながら我が家がよく利用するスーパー「さがみや」には売っていないようだ。(仕入れてくれ~)
ちなみに、「さがみや」には「やさしくとろけるケンちゃん」も「波乗りジョニー」も置いてあるのでややこしい。

「海老名メロンパン」は埼玉で作られていた



先日、圏央道外回り線の厚木PA売店で、「焼きたてメロンパンの48時間売り上げ個数世界一でギネス認定」みたいなPOSが嫌でも目に入るように設置されているコーナーに積み上げてあったメロンパンを1つ買った。
海老名SAのメロンパンのことはどこかで聞いたことがあるような気がしていたので、そのときは単純に、「ああ、これがそうか。ここは海老名ではなく、お隣の厚木PAだけれど、海老名のメロンパンが有名になったので、ここにも持ってきて売っているのか」と思った。230円はいくらなんでもぼりすぎだろと思いつつも、ちょっと迷った末に、試しに……と1個買ってみたのだった。
ビニール袋に入っているのでここで焼いたものではないことは明らかだったが、海老名からここまで運んでくるのに剥き出しでは運びづらいし、衛生上の問題もあるからだろうと思った。しっかり歩けなくなった義母のトイレ休憩で、妻はそちらにかかりきり。そんな状況だったので、裏のラベルをしっかり確かめることもしなかった。

で、このメロンパン、車内で食べることはなく、家に持ち帰って食べたのだが、袋から出した途端に違和感を感じた。
表面はベタッとして、メロンパン特有のサクサク感がまったくない。なんというか、黄色い黴がついて変色した鏡餅のような感じなのだ。
「外はサクサク、中はふわふわしっとり」というのが売りのはずが、逆で、外はベタベタ、中はボソボソ。味もお世辞にもうまいというようなものではなく、人工的な味付け感がたっぷり。
結局、全部食べる気がしなくなり、半分ほどは捨ててしまった。我が家で食べ物を捨てるなどということは滅多にない。よほどまずいか、身体に悪そうだと感じたときのみのことである。
焼き上げてから時間が経っていたから、ということは当然ある。しかし、ラベルに記載されている「消費期限」は明日である。
なぜこれが大人気なのか? もしかして「海老名のメロンパン」人気に便乗した「偽物」なのではないかと思い、一旦ごみ箱に捨てた包装ビニールを拾い上げて裏のラベルを確認すると↓

圏央道厚木PA(外回り)で売られていた「海老名メロンパン」のラベル↑

……なんと、製造しているのは埼玉の工場で、販売者の住所は東京都。しかし、名称はしっかり「海老名メロンパン」となっている。
海老名SAの厨房で焼き上げたメロンパンをここにも運んできて売っていたわけではないのだった。

しかし、海老名で作られていないメロンパンに「海老名メロンパン」と名づけて「ギネスで世界一認定」というPOSをつけて売っていていいのか? そんな商法が許されるのか? 元祖海老名メロンパンから訴えられないのか? と、疑問がどんどん出てきたので、ネット上を検索して少し調べてみたところ、驚くべきことが判明した。
まとめると、

……とまあ、こういうことだったのだ。
だから、「ぽるとがる」ブランドではない「海老名メロンパン」が堂々と「ギネス世界一」というPOSを立てて売られているし、埼玉県の工場で作られて厚木まで運ばれてきても「海老名メロンパン」と名乗れる。
要するに日本中のあちこちで「海老名メロンパン」という名称のメロンパンが大量に作られ、売られている。となると、焼き上げてからの時間や原材料の品質にバラツキが出てくるのは当然だろう。

結果、今では「海老名のメロンパンは有名な下り線のではなく、上り線のほうがうまい」という評もある
海老名SA上り線でメロンパンを売っているのは箱根ベーカリーと成城石井だが、どちらも「箱根メロンパン」「成城石井自家製」として売っており、「海老名商法」ではなく、味と品質でまともな勝負をしているようだ。

そもそも海老名SA下り線「ぽるとがる」のメロンパンが人気になったのは、観光バスのガイドや運転手の休憩所に無料で提供したことがきっかけだという。
同社(西洋フード・コンパスグループ株式会社)が着目したのが「バスガイドの口コミ力」だった。
 バスガイドやバス運転手が集う休憩スペースに海老名メロンパンを試食用に提供した結果、観光バスの車内でバスガイドが「海老名SAの名物はメロンパンです」などとアナウンスするケースが相次ぎ、観光客がメロンパンを求めて、売り場に殺到したという。
 日本の“大動脈”とされる東名高速の海老名SAには、全国から観光客やドライバーが集まっており、その人気ぶりは口コミによって、一気に全国に波及したのだった。
「海老名メロンパン」48時間で2万7503個販売、ギネス認定 産経ニュース 2018/06/19)


これは綾小路きみまろが売れたのと同じ手法。(彼は自分の漫談を入れたカセットテープを高速道路のSAで、観光バスガイドに無料で配りまくった)
しかしまあ、ここまでは一種のサクセスストーリーとして「なるほど」と納得できる。

海老名の「ぽるとがる」で売られているメロンパンも埼玉産だった!

食べ物はあくまでも味と品質が命。特に「おいしいパン屋さん」という言葉に人びとが一般的に抱くイメージは、頑固な職人さんが真面目に研究と努力を重ねてコツコツと売っている街の小さなパン屋さん、とか、田舎の夫婦が作る伝説のパンとか、そういうものだろう。数が売れればいいというものではない。
ギネス記録の名目は「48時間以内で最も多く売れた焼きたて菓子パンの数」というものだ。
そもそも48時間で2万7503個というと、1時間で573個、1分で約10個という計算だ。となると、そんなペースで売れるものが「焼きたて」であるはずもない。この2万7503個全部が海老名SAの「ぽるとがる」の焼き窯で焼かれたのだろうか? はたまた、海老名SA下り線だけの売り上げ数字なのだろうか? ちょっと信じられない。

厚木PAで売られている「海老名メロンパン」を作っている工場をGoogleマップで見てみたら、サンフレッセという巨大な工場だった。公式サイトの企業概要を見ると社員数590名。パートを入れた数なのかどうかは分からないが、とにかく「でっかい工場」だ。工場内の直売所は地元でも大人気で、オープンと同時に行列ができるらしい。きっと、この工場で作られた「焼きたて」のパンは美味しいのだろう。ちなみにここの直売店ではメロンパンは100円とか70円で売られているらしい。多分、大きさは「海老名メロンパン」よりも小振りなのだろうが、もしかしたらそっちは美味しいのかな、とも思った。
しかし、この工場から厚木PAまではおよそ100kmの道のり。おそらく都内の各企業社員食堂や売店などにも配送しているだろうから、もちろん店頭に並んだときは「焼きたて」ではない。真夏の高温多湿下でもなんとかもつようにするためには、いろいろな添加物も加えなければならなくなるだろう。

で、さらにネット検索していくと、なんと!海老名SAの「ぽるとがる」で売られている「海老名メロンパン」も、埼玉の工場で作られたものだということが分かった。
こちらの方のブログには、海老名SAで買った「海老名メロンパン」の写真、レシート、裏のラベルすべての写真がクリアに載せてあって、裏のラベルは、今回僕が厚木PAで買ったものと同じだった。

つまり、海老名SAの「ぽるとがる」で売られている「海老名メロンパン」も、埼玉のサンフレッセ工場で作られたものなのだった。これで「48時間に2万7503個」の謎も解けた。巨大工場で大量に作っておいたものを運んできて売ったのだろう。

……今回この日記を書き始めたときは、厚木PAで売られていた「海老名メロンパン」は、海老名SA下り線の「ぽるとがる」で売られているメロンパンとは違うものだと思っていた。だから、気を使ってラベルにぼかしまで入れていたのだが、このブログの写真こちらのツイッターを見て、そうした配慮も馬鹿馬鹿しくなってきた。
一体「海老名SAのメロンパン」とはなんだったのか? もはや海老名SAは関係なくなってしまって(「どこそこの○○」ではなく)、ヤマザキのランチパックはおいしい、セブンイレブンの冷凍ラーメンはおいしい、という口コミと同じ規模の話なのだと分かった。(実際、セブンイレブンの冷凍ラーメンは美味しいと思う。正しい企業努力の成果だろう)
しかし、真相を知るにつけ、せっかく有名になった「海老名のメロンパン」の商品価値を、なぜこんなことまでして下げてしまうのだろうかと、つくづく不思議に思う。
そして、口コミ、行列、「ギネス」だの「三つ星」だのの情報に弱い日本人ということを、改めて痛烈に考えさせられたのだった。
一言でまとめれば、現代日本の食文化は「貧乏くさくなった」。
自分が暮らす日光には、有名なベーカリーブランドがあって、お土産に買っていく観光客もいるが、直売所で一度買ってみたところ、全然美味しくなかった。しかも高い。
一方、たった一人のパン職人が作る小さなパン屋さんがいろいろあり、どこも美味しい。
正しい食文化を守る個人商店、職人さんたちへの感謝の気持ちが、さらに強まった一件だった。

鹿沼からおばちゃんが運転する移動販売車で日光まで売りに来るパン屋さんのパンにはよくお世話になっている。感謝

通銅鉱山神社と磐裂神社の狛犬は入れ替わっていた──その後訂正2018/05/01 22:35

通銅鉱山神社の狛犬 背中の銘

単なる「間違い」ではない?

通銅鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬が「入れ替わっている」という説をさらに突っ込んで考えた末の結論を以下まとめてみる。

通銅鉱山神社の狛犬の背中には奉納者の名前がはっきり刻まれている。足尾郷の名士・神山氏が、先祖代々守ってきた地元の総鎮守・磐裂神社(妙見さん)ではなく、わざわざ山の上の、山師たちが建てた神社に、あれだけ出来のよい狛犬を奉納するだろうか。
これこそが今までの説明のように「簀子橋山神社から遷座された狛犬」ではないという推論の最大の根拠である。私の中ではこれはほぼ確信に変わっている。

また、現在、磐裂神社にある前脚のない狛犬こそが、かつては簀子橋の神社にあって、明治23(1890)年に流されてきた狛犬であろうこと、その奉納の時期は足尾銅山最盛期の延宝年間あたりではないかということも、半分以上の確率であたっていると思っている。
であれば、どこでどう入れ替わってしまったのか?
通銅鉱山神社の狛犬が簀子橋山神社から遷座されたという説明は単純な間違いなのか、それとも恣意的な嘘なのか……。そのへんをもう少し深く考えてみたい。

通銅鉱山神社ができたのは大正9(1920)年だが、それより30年前の明治22(1889)年には、前年に足尾銅山鉱業所長に就任した木村長七が音頭を取って大々的に寄付を募り、本山坑口前の山に本山鉱山神社(杉菜畑鉱山神社)を建立している。
しかし、皮肉にもその翌年に足尾大洪水が起きて、塩野門之助の妻子をはじめ、多くの村民が亡くなってしまった。神社の御利益どころか、まるで山の神の怒りに触れたかのようだ。

当時、木村長兵衛と塩野はピルツ炉の改造をめぐって対立していたことはすでに述べた。前年の明治21(1888)年には、塩野は辞職している。このときの木村長兵衛と塩野の関係は最悪だっただろう。しかし塩野が辞職した翌月、木村長兵衛が急死。その後、塩野は説得されて復職している。
時系列で並べると、
  • 明治21(1888)年、銅山運営をめぐって所長の木村長兵衛と技師の塩野の対立が深まり
  • ⇒塩野が辞める
  • ⇒その直後に木村長兵衛が急死し、木村長七が後を継ぐ
  • ⇒塩野が復帰
  • 明治22(1889)年、木村長七の主導で本山鉱山神社建立
  • 明治23(1890)年、大洪水で塩野の妻子を含む多くの村民が死ぬ
……となる。
失意の塩野は、かつて住友を辞める原因となった住友総理の広瀬宰平ではなく、その息子・広瀬満正に、再び別子銅山へ戻りたいと直訴するが、足尾でのベッセマ転炉建設計画が中途であることを理由に慰留される。
明治26(1893)年、塩野が指揮して日本初のベッセマ転炉が足尾に完成。その直後、塩野はさっさと足尾銅山を辞職し、別子銅山に設計部長として戻っている。
3年後の明治29(1896)年には再婚もして、完全に「人生のやり直し」をはかったように見える。

この後も、足尾銅山は様々な事件やトラブルの歴史を続ける。
  • 別子銅山に戻った塩野門之助が再婚した明治29(1896)年には、足尾でまた大きな洪水が起きて、1万3000戸以上の家屋が浸水した。
  • 明治33(1900)年 政府に請願するため上京しようとした鉱毒被害農民3,000人が警官隊に阻止される「川俣事件」。
  • 明治34(1901)年11月30日 古河市兵衛の夫人・為子が神田橋下で入水自殺。
  •         12月10日、田中正造田中正造が天皇へ直訴。逮捕される。
  • 明治40(1907)年 鉱毒の被害を受けていた谷中村が強制破壊により廃村に。

この時期は、鉱山の営業停止を求める運動がどんどん盛りあがっていった、古河にとっては「負の歴史」を刻んだ時代といえる。
本山鉱山神社で行われていた祭りなども消えていった。散々毒をまき散らし、山を破壊して洪水を起こし、人びとを苦しめておいてなにが鉱山神社だ、山祭りだ、という反発があったことは容易に想像できる。

そして、大正2(1913)年9月、反対運動のシンボル的存在だった田中正造が亡くなる。同じ年、古河鉱業会社理事長に就任していた木村長七が引退。激動の時代に一区切りがついたかのようだ。
古河にとっては触れたくない傷、思い出したくない人物である田中正造が亡くなり、激動の時期に銅山を牽引してきた木村が引退して7年後、通銅鉱山神社が建立された。明治14(1881)年 当時の鉱長・木村長兵衛の指揮下、大鉱脈が発見されて足尾銅山が一気に盛り返す大転換期からは40年近く経っている。

神社を作ったのは古河だから、通銅鉱山神社に今の狛犬を置いたのも古河ということになる。
狛犬を置いた責任者は、30年前に足尾大洪水があって、古河にとっては日本初のベッセマ転炉を作り上げた技師・塩野門之助の妻子が流されて死んだことを知らなかったのだろうか? そうとは思えない。

また、なぜ自前で新しい狛犬を建立せず、古い狛犬をよそから持ってきたのだろうか? 費用をケチっただけなのか? それとも、そうしたほうがいい理由があったのだろうか?

寛保3(1743)年の狛犬奉納の背景

ここで、寛保3(1743)年の狛犬がどのような時代背景のもとに奉納されたのかを考えてみよう。
奉納者は「下松原丁神山清右門」。下松原は現在の足尾歴史館があるあたりだから、まさに妙見さんのすぐそばで暮らしていた。
神山清右門がどういう人物なのかはよく分からないが、神山というのは足尾郷を開いた最初の5姓の1つだ。
日光市のWEBサイトにある旧足尾町歴史年表には、
「正和4(1315)年 足尾の5姓(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)が足尾に移住したと伝えられる」
とある。
このうちの神山氏は新田義貞の挙兵に参加し、戦国期には佐野氏に仕えたとも伝えられている。
また、栃木県神社庁の資料によれば、磐裂神社(妙見さん)の起原について、
往古、足尾郷民の祖日光中禅寺より足尾の土地に移住し土着せるものにして中禅寺の鎮守にして己等の氏神、妙見天童を一族の内、神山文左エ門、齋藤孫兵衛の両祖、交互に霊代を背負い奉り来りて遠下の地をとして鎮座せしめて足尾の鎮守となせり。
天安二年八月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として境内坪数千九百七十三坪と定め社殿を造営して名実共に鎮守となせり。
……とあるので、神山氏が妙見さんと密接な関係にあったことは間違いない。
この神山氏が寛保3(1743)年に狛犬を奉納したわけだ。もちろん、奉納先は妙見さん(現・磐裂神社)だっただろう。
足尾銅山はこの頃、全盛期を過ぎて、産出量が激減していた。日光市WEBサイトにある旧足尾町歴史年表によれば、
  • 延宝4(1676)年 この年から12年間、毎年1300トン~1500トンを出し、溶解炉32座、銅山師44人で足尾は極めて繁栄し、足尾千軒といわれた。また以後17年間足尾産銅を長崎に送り、そこからオランダに輸出した。輸出銅の20%を占めたので5か1銅と呼ばれた。
  • 貞享元(1684)年 足尾の産銅額が年産1500トンになる。
  • 元禄13(1700)年 産銅が急減し年産150トンになる。

だそうで、わずか十数年で1500トンが一気に150トンと10分の1にまで落ち込んでいた。
そこで、
  • 寛保元(1741)年 山師から山元の困窮を救うための鋳銭の許可願いが出される。
  • 寛保2(1742)年 5年間にわたり鋳銭座を設けて寛永通宝(足字銭)を2000万枚鋳造した。

……となった。
狛犬は1文銭鋳造を始めた翌年に奉納されているので、郷民の代表として神山清右門が総鎮守である妙見さんに、足字銭鋳造を機に足尾にまた活気が戻りますように、という願いを込めて奉納したのだろう。
神山清右門が鉱山師だったのかどうかは分からないが、神山家は足尾銅山が開坑する前からの郷士なのだから、狛犬をわざわざ離れた簀子橋山神社に奉納するはずがない。
また、そのときすでに簀子橋には狛犬一対がいた。というのも、産出量が激減したこの時期に、山師たちに狛犬を奉納するような余裕があったとは思えず、狛犬は銅がじゃんじゃん掘れていた延宝、天和、貞享年間あたりに「勢いで」奉納されたと思われる。
産出量が一気に増えたのが延宝4(1676)年で、翌年の延宝5(1677)年には妙見さんに燈籠が奉納されているから、狛犬が奉納されたのもこの頃だろうか。

磐裂神社の移転と通洞鉱山神社の建立

次に、通洞鉱山神社が建立される大正9(1920)年の少し前に、磐裂神社が移転したことに触れたい。
古河が切幹沈殿場を拡張するために神社を移転させることになった。
明治44(1911)年に神社庁より移転許可が下り、3年後の大正3(1914)年に社殿を解体して移築させたらしい。
通洞鉱山神社建立がその6年後だから、当然、通洞鉱山神社建立の責任者らは磐裂神社の解体・移築にも関与していたはずだ。
そのとき、磐裂神社に二対の狛犬がいることを確認したのではないか。
一対はボロボロで脚がなく、明治23(1890)年の足尾大洪水の際に簀子橋山神社から流れてきたものだという。古河にとっては忌まわしい過去だ。いくら古くて、足尾銅山黄金期に奉納された狛犬とはいえ、心機一転これから頑張ろうという時期に建てた新しい神社に持っていく気にはなれない。
一方、もう一対はとてもきれいで、背中には足字銭鋳造開始時期に奉納されたことが分かる銘がはっきり刻まれている。鉱山の歴史を物語る狛犬としてうってつけだ。これを持っていけば、新しく作って奉納するよりも箔がつくと思ったのかもしれない。
そこで神社関係者たちに「この狛犬をもらえないか」と持ちかけた。当時の古河と村民の力関係からして、妙見さんの氏子たちも嫌とは言えなかっただろう。

で、新しい神社に177年前の古い狛犬を持ち込むわけだから、それなりの説明が必要だが、古河としては鉱山の歴史よりずっと古い村社から持ってきたとは言いづらい。鉱山開拓初期の舞台であった簀子橋から持ってきたことにしたのだろう。
しかし、簀子橋の神社から大洪水のときに流れてきた狛犬のことを、地元の長老たちはまだ覚えている。だから「あれは流された狛犬だ」という話が次の世代にも伝わっていった。
「狛犬が流された」という話は地元の人たちには知られていても、表向きの説明には一切出てこない。古河にとっては掘り返したくない過去なので触れないし、旧足尾町も古河に忖度して、狛犬の起源については無難に「簀子橋山神社から遷座された」としか説明しなかった。その説明が今では完全に固定してしまった。
あっさりと「遷座された」というが、通銅鉱山神社が建てられた大正9(1920)年には簀子橋一帯に山神社は1社も残っていなかったのではないか。 塩野門之助の妻子が流された明治23(1890)年の大洪水の後にも、明治29(1896)年にも大洪水、明治35(1902)年には大暴風雨「足尾台風」……と、何度も大水害に見舞われている。保水力が低下していた山にあった神社もことごとく消えている。狛犬もとっくに流されていた。

……そういうことではないか。


━━━━━━━━━以下、2018/07/16 追記・改稿━━━━━━━━━

……と書いてきたのだが、その後、そもそも「通銅鉱山神社の狛犬は簀子橋山神社にあったのが洪水で流されてきた」「狛犬が流されたときに、別子銅山から来ていた塩野門之助の妻子も洪水にのまれて亡くなっている」という2つの大前提が間違っているらしいことが分かった。
明治22(1889)年に創刊された「風俗画報」という雑誌がある。Wikiでは「日本初のグラフィック雑誌」と紹介されている。大正5(1916)年に終刊するまで27年にわたり特別号を含む全518冊を刊行したそうだ。
その第234号(明治34(1901)年7月発行)の号が「足尾銅山図会」という特集号で、そこに狛犬のことが絵付きで紹介されている。

風俗画報 臨時増刊234号


簀橋不動…宿より渋川に向かえば…左に石段を登れば鉱山神社なり、背に『寛保癸亥天六月吉日願主下松原町神山清右衛門』と刻み、鉱石を以て造れる有名なる一対の獅子は此祠前にあるなり

風俗画報 臨時増刊234号 より

通洞鉱山神社が建立される大正9(1920)年より19年前の雑誌にこう書かれているし、このイラストはどう見ても現在の通銅鉱山神社の狛犬だから、この狛犬が簀子橋の神社にあったことは間違いないだろう。
当然、塩野門之助の妻子が流されたという明治23(1890)年の洪水のときにも、流されることなどなく、ここにあったわけだ。

伝聞情報だけで推理していくととんでもない間違いが生まれる、というよい例になってしまった。
「通銅鉱山神社の狛犬は簀子橋山神社にあったのが洪水で流されてきた」「狛犬が流されたときに、別子銅山から来ていた塩野門之助の妻子も洪水にのまれて亡くなっている」という話は町の長老が話したことが広まっていって現町民の多くも共有しているようなのだが、老人の記憶は時とともに怪しくなり、特に時系列が滅茶苦茶になりやすい。一つのトピックを元に関係ない話を勝手に作り上げてしまうのもよくある症状。やはり、物証で補完していかないといけないのだなあ……と。
自戒の念を込めて、間違った推論部分はそのままにしておく↑
しかしまあ、2対の狛犬がそこにいる、というだけでこれだけの歴史──しかも、表の歴史だけでなく、その時代を生きた人たちの生々しいドラマが浮かび上がってくるのだから、やっぱり狛犬は面白い。


足尾 磐裂神社の狛犬の謎(2)2018/05/01 22:27

江戸期には間違いないが……

狛犬の寄進年が推定できそうな他の寄進物がないかと境内を歩き回っていると、壊れた燈籠が目に留まった。
柱にうっすらと「延宝五」の文字が読み取れる。延宝5(1677)年か……そのくらいの年代の狛犬だといわれたら、それはそれで不思議はない。

バラバラになったまま放置されている燈籠



泥を落としてみると、延宝5(1677)年と読めた




ここは修験道信仰の庚申山への一丁目にあたり、庚申山碑や一丁目標もある。庚申山の上には猿田彦神社があり、明治23年(1890)に小滝坑の山神社として坑夫により建立されている

文久3(1863)年に寄進されている



寄進者は神田須田町の丹後屋安右衛門




参考:猿田彦神社↑ 2012年の足尾行きの際に訪れた

神田須田町の丹後屋安右衛門とは何者かと調べたところ、江戸の柿問屋らしい。
神田須田町や淡路町一帯は江戸時代には武家屋敷町を形成していた。
淡路町交差点あたりは、江戸時代、堀丹後守屋敷で、丹後殿前と呼ばれた。湯女を置いて客を招く湯女風呂街で、この界隈を徘徊する男達の着ていた衣装を丹前風といった。今湯上りに着る丹前の由来だそうだ。
「千代田区神田淡路町・須田町の町並み」より)

で、そこに柿をはじめ水菓子(果物)販売を商いとする丹後屋があった。
信州・飯田市三穂地区の立石(たていし)集落というところで「立石柿」という干し柿が作られており、それが江戸まで運ばれて売られていた。
美穂の立石寺(りっしゃくじ)に文化11(1814)年、江戸の柿問屋たちが奉納した絵馬が残されていて、伊勢屋惣右衛門(堀江町二丁目)、遠州屋又兵衛(堀江町二丁目)、丹後屋安右衛門(神田須田町)、伊場屋勘左衛門(堀江町二丁目)という名前がある。
中でも丹後屋安右衛門は慶応元(1865)年の「御用水菓子納人申合帳」では、世話人として名を連ねているという。(飯田市WEBサイト内 「立石柿」 出典は『みる よむ まなぶ 飯田・下伊那の歴史』編集:飯田市歴史研究所 発行:飯田市)

その果物問屋の丹後屋が、なぜに庚申山への一丁目標を寄進しているのか? 丹後屋は熱心な庚申講信者だったのか?
もしかすると丹後屋のルーツは修験者で、全国の山を歩いているうちに立石柿など各地の特産物を見つけ、それを江戸に運んで売るという商いを始めたのかもしれない。

さて、この立石寺と同じ名前の立石寺が山形にある。「山寺」と呼ばれて有名な山形の立石寺は、ここ足尾の妙見山が氏神と定めた天童の妙見神社がある田麦野から山一つ超えた隣に位置している。

ここで再び、来福@参道さんの力を借りる。
 この田麦野から山を越えた所に、芭蕉の句で有名な山寺立石寺があります。立石寺は慈覚大師の開基になる天台宗の古刹です。また、ヒヒ退治で有名な早太郎伝説の残る信濃の光前寺は、慈覚大師の直弟子である本聖上人が開いたもので、立石寺と光前寺は深い関係があったことが分かります。
 もしかしたら、べんべこ太郎を連れて来た僧とは山一つ越えた立石寺の僧であり、信濃のべんべこ太郎とは、早太郎と同様に光前寺に飼われていた狼犬だったのかもしれません。(狼神話 山口・妙見神社)

べんべこ太郎の話は⇒こちらのサイトなどで取り上げられている。
坊さまは、その話聞いで、真夜中に神社さ行ってみだんだど、ほして静がに待ってだったらば、ふとあったげ風吹いできて、生臭い匂いしたがど思ったら、怪物らが集まってきて酒盛り始めだんだど。 しばらぐして酔っぱらった怪物らが歌うだいだして、「ボンボゴボン、おらんだが一番おっかねなは、信濃の国のべんべご太郎だ。ボンボゴボン」って歌うんだっけど。(秩父・仙台まほろばの道「べんべご太郎」

修験道、狼犬、柿問屋……一見関係のなさそうなものを介して、信州~足尾~山形が結ばれたかのような気持ちになった。

寺の話が出てきたが、足尾の妙見さんには、かつて別当寺(明治より前、神仏習合だった時代に、神社を管理するために置かれた寺)として妙見山龍福寺という寺もあったが、足尾銅山の衰退で廃寺となっているという。足尾銅山の衰退というよりも、単純に明治の神仏分離令によって消えたのかもしれない。
「明暦元(1655)年、日光寺社奉行・荒井孫兵衛尉秀元、崇敬の念篤く、釣鐘一箇を寄進して栄代不朽の重器となせり」(栃木県神社庁 磐裂神社)と記載されている釣鐘は、この龍福寺に奉納されたものかもしれない。

このあたりの年譜をもう一度まとめると、
  • 1655年(明暦元年)日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元が釣鐘を寄進
  • 1677年(延宝5年)燈籠寄進あり
  • 1712年(正徳2年)天神、大神、山神、稲荷、熊野の5神を境内に合祭
  • 1809年(文化6年)改築
  • 1863年(文久3年)江戸の果物問屋・丹後屋が庚申山一丁目標を寄進
  • 1871年(明治4年)神仏分離令により磐裂神社と改称

……となる。狛犬もこのあたりのどこか(200年以上幅があるが)で奉納されたものだろう。

流された狛犬はこれではないのか?


……と、ここまでは、この狛犬の奉納年を推定することに集中していたのだが、家に戻ってきてから、通洞鉱山神社の狛犬が明治23(1890)年8月の足尾大洪水の際に流されてきたという話をまとめた後、なにかモヤモヤするものが残っていた。
通銅鉱山神社の狛犬は日光地域に残っているはじめ狛犬の中でも飛び抜けてきれいだ。洪水で1kmも流され、川から引き上げられた狛犬には、どうしても見えないのだ。
「あまりにもきれいすぎるよねえ」と言っていたら、助手さんが呟いた。
「流されたのは磐裂神社の狛犬のほうだったんじゃないの?」
……?!……
なるほど、それならすんなり分かる。あの摩耗の仕方、阿吽ともに脚がなくなり、角が丸くなっているのが、上流から流されてきたからだとすればしっくりくる。
ゴロゴロと転がり落ちる間に足がもげ、水圧で角が削られて丸くなっていったと解釈できる。
もしかして、通洞鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬はどこかで「入れ替わって」しまったのではないか?

そもそも通洞鉱山神社の造営は大正9(1920)年。狛犬の奉納は寛保3(1743)年だから、狛犬のほうが200年近く古い
寛保元(1741)年に、足尾で銅を採掘していた山師たちが寛永通宝(一文銭)を足尾で鋳造させてほしいと請願し、翌・寛保2(1742)年に許可が下りる。以後、5年間で2000万枚あまりの一文銭を鋳造した。裏に足尾の「足」の字が刻まれていることから「足字銭」と呼ばれ、お金のことを「お足」というようになったもとだという説明は、鉱山観光の中でもされている。
寛保狛犬は一文銭の鋳造許可願いが叶ったのと銅の産出が増えるようにと願って「簀子橋の山神社に奉納した」ものといわれているわけだが、奉納先は本当に簀子橋の神社だったのだろうか? ふもとの古刹である妙見さんに奉納した可能性はないだろうか?

日光市教育委員会が設置した簀子橋(すのこばし)山(さん)神社大鳥居の説明看板には、
  • 慶長16(1611年)年に江戸幕府の直山となり、簀子橋を中心に開発された。
  • 文化3(1806)年に描かれた絵図には、簀子橋一帯に金山社、山神社(4社)、不動堂(2堂)が記されていて、いずれも有力な山師たちが建てたもの。
  • 寛保3(1743)年に金山社に奉納された狛犬一対が、ご神体とともに大正9(1920)年に通洞山神社新殿に遷座された。
……と書かれている。
この説明だと、狛犬があったのは山神社ではなく金山社で、流されて下流で見つかったという話も出てこない。いろいろなところに出ている説明が微妙に少しずつ違っているのは、伝承ばかりで、確たる証拠が残っていないからだろう。

足尾銅山の全盛期は延宝4(1676)から20年ほどで、以後は銅の産出が激減していったという。妙見さんの崩れたままの燈籠が延宝5(1677)年の奉納であることを合わせて考えると、当時から簀子橋一帯に山師たちが建てた神社やお堂だけでなく、麓の妙見さんにいろいろ奉納していたことが分かる。銅山が発見されてから山師たちが建てた神社と違って、大同年間創建とされ、秩父の妙見、相馬の妙見と並んで「関東三大妙見」と称された足尾総鎮守である妙見さんは格がまったく違う。奉納するなら妙見さんへ、と考えるのは当然のことだろう。

寛保3(1743)年の狛犬の背中には、寄進者として「下松原丁神山清右門」の名前が刻まれている。下松原は現在の足尾歴史館があるあたりで、妙見さんのすぐそば。そんな場所に住んでいる「神山」氏が、地元の総鎮守・妙見さんではなく、わざわざ簀子橋の山神社に狛犬を奉納するのは不自然


一方で、簀子橋に山師たちが建てた5社(?)の神社のいずれかに狛犬が奉納されていて、明治23(1890)年8月の大洪水の際に流され、後に下流で発見され引き上げられたという話も本当だろう。しかし、その「流された狛犬」が、今、通銅鉱山神社にいる、きれいでできのよい狛犬だとは、どうしても信じられないのだ。

狛犬が明治23(1890)年に流されたとすると、通洞鉱山神社ができる大正9(1920)年までの30年間は別の場所にあったことになる。
川で発見され引き上げられたのが正確にいつなのか分からないのだが、発見された場所は渋川から渡良瀬川に流れる手前だという。
30年も川底にあったというなら、あんなきれいなわけはないだろう。通銅鉱山神社が作られる前に引き上げられていたとすれば、引き上げられた後に、とりあえず磐裂神社に置かれていたと考えるのが自然だ。

そこでこんな仮説を立ててみた。
  • 足尾銅山全盛期の1600年代後半、延宝年間あたり、当時の採掘中心地であった簀子橋地区に山師たちが建てた神社の一つに狛犬が奉納された。(あれだけ大きな狛犬を山の上に奉納するには相当な金が必要で、銅山が衰退期に入ってからでは難しい)
  • 寛保3(1743)年、徳川から一文銭鋳造許可が出たことを祝し、今後の銅山発展を祈念しつつ、足尾郷民の祖でもある神山氏の本家が村の総鎮守である妙見さんに狛犬一対を奉納した。(足尾郷民の祖であり、妙見さんの総代のような神山氏が狛犬を奉納したのだから、奉納先は山師たちが建てた山神社ではなく、地元である足尾総鎮守の妙見さんのほうが自然)
  • この狛犬は社殿の軒下あるいは内陣前あたりに直に置かれ、風雪による摩耗などが少ないままきれいに保管されていた。
  • 明治23(1890)年8月、山林伐採により被害が拡大した洪水によって、簀子橋の神社にあった(延宝年間奉納の)狛犬が流された。その洪水で、別子銅山を辞めて足尾銅山に来ていた日本有数の鉱山技師・塩野門之助の妻子も亡くなった。
  • 簀子橋から流れてきた狛犬は渋川から渡良瀬川に流れる手前で発見され、引き上げられた。その後、妙見さんの境内に置かれた
  • 大正9(1920)年、足尾銅山通洞口に新たな山神社が作られたのを機に、古河が妙見さん(そのときはすでに「磐裂神社」)に奉納されていた寛保3(1743)年の狛犬を遷座させた。磐裂神社には簀子橋の神社から流されてきた狛犬だけが残った。
  • いろいろな伝承が入り交じり、いつしか通銅鉱山神社の狛犬は簀子橋山神社の狛犬だと誤認識されるようになった。

……以上はもちろん推論にすぎないが、二対の狛犬を比べてみて、足尾銅山の歴史を振り返ってみた今は、これが正解に近いのではないかと思っている。さらにいえば、どちらの狛犬も、越前禿型狛犬のテイストを取り入れながらも、狼信仰、つまり山犬をイメージして彫られたものかもしれないとさえ思い始めている。
古河の社史や磐裂神社の奉納帳、あるいは流された狛犬が発見された当時の記録などに狛犬の記述が残っていれば、もう少し裏付けがとれそうな気もするが、難しいだろうなあ。


「ほほう……よくそこまで考えたな」と言っているだろうか……



(⇒この項さらに続く)

足尾 磐裂神社の狛犬の謎(1)2018/05/01 22:07

磐裂神社の狛犬

磐裂神社はわたらせ渓谷鉄道の単線を渡った先にある




足尾の狛犬といえば通銅鉱山神社の狛犬が有名だが、そこからあまり離れていない磐裂神社という古社に「謎の狛犬」がいる。
この狛犬、以前から写真は見ていたのだが、実際には見逃していた。というのも、磐裂神社は歴史のある神社なのに、なぜか市販の地図などにはのっていないことがほとんどなのだ。
案内板にもある通り、創建は大同3(808)年というのだが、本当だとしたら平安時代!だ。
ただ、鉱山には開坑を大同2年、また大同年間とする伝承が数多いそうなので、鉱山で開けた足尾の総鎮守だけに、後になって大同年間創建とした可能性もありそうだ。

さて、日光中禅寺より足尾に移住してきた足尾郷民の祖といわれている人たちの中で神山文左衛門と齋藤孫兵衛の両氏が氏神を妙見天童としてここ遠下(とおじも)の地に鎮守を祭ることとしたという(『栃木県神社誌』 栃木県神社庁・編 1964)。
天安2(858)年8月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として社殿を造営、以後、神山氏、斎藤氏が交互に守ってきたという。
(しかし、日光市のWEBサイトでは、神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内の「足尾の5姓」が移住してきたのは正和4(1315)年と伝えられているとあり、足尾郷に人が住み始めた時期、妙見宮が創建された時期については伝承がかなりばらけている感じだ)
さて、正確な時期はともかくとして、この話でまず興味を引かれるのは、足尾郷の祖といわれる神山氏と斎藤氏が「妙見天童」を氏神としたことだ。
妙見天童とは、山形県天童市下山口妙見橋のたもとにある妙見神社のことと思われる。
妙見神社には狼信仰の伝説があるそうだ。
 その昔、この地では三年に一度魔物に人身御供を捧げる風習がありました。魔物達が恐れているのが「信濃のべんべこ太郎」であることを知ったある僧侶が、べんべこ太郎を探しに信濃へ赴きましたが、べんべこ太郎とは大きな犬でした。苦労の末、僧がべんべこ太郎を借り受け魔物を退治したと伝えられています。
 言い伝えによれば、べんべこ太郎と魔物たちの戦いは麓の山口から谷の奥の田麦野まで激しく繰り広げられたそうです。その後には魔物の正体であるタヌキが骸をさらしていたといいます。べんべこ太郎も力つき、山口まで辿り着いた時に息絶えたと言われています。村びとがこの地に、べんべこ太郎を葬りお堂を立てたのが、この妙見神社のはじまりだそうです。田麦野とはタヌキ野の意味であり、大昔からタヌキが田畑を荒らす害が深刻だったと言われています。このため魔物退治の伝説が生まれたのでしょう。
「来福@参道」狼信仰─妙見神社 より)


人身御供を要求する化け物を退治する犬の伝説は信濃の早太郎そのものだし、須佐之男の八岐大蛇退治の話にも通じる。そういう話が日本全国に散見されるのはとても興味深い。
それにしても、中禅寺から足尾に移住してきた郷民の祖がなぜ山形県天童の妙見さんを氏神としたのか? 天童の妙見さんに伝わるという狼信仰伝説も足尾までくっついてきているのだろうか? いきなり謎だらけだ。

さて、その後、徳川が日光東照宮を建てた後は、足尾郷は日光領となって徳川の支配下に入る。足尾銅山を徳川が直営していたのもそのためだ。
神社庁の資料によれば、明暦元(1655)年に、日光寺社奉行・荒井「孫兵衛尉」秀元が「崇敬の念篤く釣鐘一箇を寄進」している。この荒井秀元と火縄銃田布施流秘伝者・新井孫兵衛秀重や足尾の星野氏との関係を書いているブログもあったが、ここではこれ以上は踏み込まない。
ただ、鉱山をまたにかけた山師たちと修験者たちの関係、山に生きる者たちが妙見信仰を篤く信奉していたことは伝わってきた。
そもそも妙見信仰とは北極星と北斗七星を神格化して信仰したもの。真っ暗闇に包まれる山の中で野宿することも多かった山師たちが、夜空を見上げたとき常にそこにある不動の星・北極星や、その回りを正確な時を刻みながら回る北斗七星を神格化したことごく自然なことかもしれない。
また、鉱脈探索に犬が使われていた歴史はあるし、そこから狼信仰が出てきた可能性もありそうだ。

前置きが長くなってしまったが、ではさっそく謎の狛犬の元へGO。

第一印象は「けっこうでかいな」であった。はじめ狛犬であれば小さいだろうと想像していたのだが、通洞鉱山神社の狛犬より一回り大きいか。

手前にある岡崎現代型はスルーして、目的の謎の狛犬のもとへ



おお! ようやく会えたね



阿像。前脚は完全に喪失。丸く削れている



吽像も同様に前脚は欠損。後肢も、おそらく蹲踞した形だったものが失われている



阿像は舌を出している



三越のライオン像を思わせるような鬣。越前禿型の影響を感じる



阿像の尾↑と吽像の尾↓ きちんと形を変えている



腹の下がきれいにくり抜かれていることから、はじめ狛犬とは言い難い。腹部に銘はなかった



目が細い。この目の表情に特徴があるが、残念ながらかなり摩耗してしまっている




背中に文字が刻まれていたかどうか……あったのが摩耗して読めなくなったような、最初からなかったような……



吽像のほうがまだ表情が残っている。歯がこのようにいっぱい並んでいるのは古い狛犬によく見られる造形



よく見ると、胸のあたりに瓔珞(ようらく)的なものも見られる。
さて、この狛犬はいつ頃建立されたのだろうか? 通銅鉱山神社の狛犬、寛保3(1743)年よりも古いのか? 新しいのか?
この大きさからして、何か特別なイベントがあったときに奉納された可能性が高いように思える。
改めてこの神社の歴史を振り返ると、

  • 1655年(明暦元年)日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元が釣鐘1筒寄進
  • 1712年(正徳2年)天神、大神、山神、稲荷、熊野の5神を境内に合祭
  • 1809年(文化6年)改築
  • 1871年(明治4年)神仏分離令により磐裂神社と改称
  • 1881年(明治14年)神饌幣帛料供進神社となる
  • 1914年(大正3年)古河鉱業の資金で、解体後現地へ移転復元
……分かっているのはこれくらい。古ければ1600年代、新しければ大正3年の移転時だが、形や摩耗の進み方からして大正はないだろう。
となると、古くて1600年代半ば、新しくて文化文政時代くらいだろうか?
(⇒この項続く)


医者には絶対書けない幸せな死に方
「医者には絶対書けない幸せな死に方」(講談社プラスα新書)
2018年1月18日発売  内容紹介は⇒こちら

以下のいずれからでもご購入できます(Click)
Amazonで買う   hontoで買う    7ネットで買う  bookfanで買う  LOHACOで買う  Yahoo!ショッピングで買う  楽天ブックスで買う


タヌパック書店
たくき よしみつのオリジナル出版物販売 「タヌパック書店」は⇒こちらから



『So Far Away たくき よしみつSONGBOOK1』

原発が爆発する前の2010年、阿武隈山中のスタジオにこもって制作した自選ベスト曲アルバム
「メロディの価値」を信じての選曲。20代のときの幻のデビュー曲から阿武隈時代に書いた曲まで、全13曲
iPhone、iPadのかたはiTunesストアから、アマゾンmoraでも試聴可能


iTunesで!    アマゾンで!   
   

『3.11後を生きるきみたちへ 福島からのメッセージ』
『3.11後を生きるきみたちへ 福島からのメッセージ』 (2012/04/20発売 岩波ジュニア新書)…… 3.11後1年を経て、経験したこと、新たに分かったこと、そして至った結論
今すぐご注文できます 
アマゾンコムで注文で買う

立ち読み版は⇒こちら
裸のフクシマ 『裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす』(たくき よしみつ・著) (2011/10/15発売 講談社 単行本)…… ニュースでは語られないフクシマの真実を、原発25kmの自宅からの目で収集・発信。
今すぐご注文できます 
アマゾンコムで注文で買う

立ち読み版は⇒こちら

Amazon Prime会員なら無料で読めます↓