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通銅鉱山神社と磐裂神社の狛犬は入れ替わっていた2018/05/01 22:35

通銅鉱山神社の狛犬 背中の銘

単なる「間違い」ではない?

通銅鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬が「入れ替わっている」という説をさらに突っ込んで考えた末の結論を以下まとめてみる。

通銅鉱山神社の狛犬の背中には奉納者の名前がはっきり刻まれている。足尾郷の名士・神山氏が、先祖代々守ってきた地元の総鎮守・磐裂神社(妙見さん)ではなく、わざわざ山の上の、山師たちが建てた神社に、あれだけ出来のよい狛犬を奉納するだろうか。
これこそが今までの説明のように「簀子橋山神社から遷座された狛犬」ではないという推論の最大の根拠である。私の中ではこれはほぼ確信に変わっている。

また、現在、磐裂神社にある前脚のない狛犬こそが、かつては簀子橋の神社にあって、明治23(1890)年に流されてきた狛犬であろうこと、その奉納の時期は足尾銅山最盛期の延宝年間あたりではないかということも、半分以上の確率であたっていると思っている。
であれば、どこでどう入れ替わってしまったのか?
通銅鉱山神社の狛犬が簀子橋山神社から遷座されたという説明は単純な間違いなのか、それとも恣意的な嘘なのか……。そのへんをもう少し深く考えてみたい。

通銅鉱山神社ができたのは大正9(1920)年だが、それより30年前の明治22(1889)年には、前年に足尾銅山鉱業所長に就任した木村長七が音頭を取って大々的に寄付を募り、本山坑口前の山に本山鉱山神社(杉菜畑鉱山神社)を建立している。
しかし、皮肉にもその翌年に足尾大洪水が起きて、塩野門之助の妻子をはじめ、多くの村民が亡くなってしまった。神社の御利益どころか、まるで山の神の怒りに触れたかのようだ。

当時、木村長兵衛と塩野はピルツ炉の改造をめぐって対立していたことはすでに述べた。前年の明治21(1888)年には、塩野は辞職している。このときの木村長兵衛と塩野の関係は最悪だっただろう。しかし塩野が辞職した翌月、木村長兵衛が急死。その後、塩野は説得されて復職している。
時系列で並べると、
  • 明治21(1888)年、銅山運営をめぐって所長の木村長兵衛と技師の塩野の対立が深まり
  • ⇒塩野が辞める
  • ⇒その直後に木村長兵衛が急死し、木村長七が後を継ぐ
  • ⇒塩野が復帰
  • 明治22(1889)年、木村長七の主導で本山鉱山神社建立
  • 明治23(1890)年、大洪水で塩野の妻子を含む多くの村民が死ぬ
……となる。
失意の塩野は、かつて住友を辞める原因となった住友総理の広瀬宰平ではなく、その息子・広瀬満正に、再び別子銅山へ戻りたいと直訴するが、足尾でのベッセマ転炉建設計画が中途であることを理由に慰留される。
明治26(1893)年、塩野が指揮して日本初のベッセマ転炉が足尾に完成。その直後、塩野はさっさと足尾銅山を辞職し、別子銅山に設計部長として戻っている。
3年後の明治29(1896)年には再婚もして、完全に「人生のやり直し」をはかったように見える。

この後も、足尾銅山は様々な事件やトラブルの歴史を続ける。
  • 別子銅山に戻った塩野門之助が再婚した明治29(1896)年には、足尾でまた大きな洪水が起きて、1万3000戸以上の家屋が浸水した。
  • 明治33(1900)年 政府に請願するため上京しようとした鉱毒被害農民3,000人が警官隊に阻止される「川俣事件」。
  • 明治34(1901)年11月30日 古河市兵衛の夫人・為子が神田橋下で入水自殺。
  •         12月10日、田中正造田中正造が天皇へ直訴。逮捕される。
  • 明治40(1907)年 鉱毒の被害を受けていた谷中村が強制破壊により廃村に。

この時期は、鉱山の営業停止を求める運動がどんどん盛りあがっていった、古河にとっては「負の歴史」を刻んだ時代といえる。
本山鉱山神社で行われていた祭りなども消えていった。散々毒をまき散らし、山を破壊して洪水を起こし、人びとを苦しめておいてなにが鉱山神社だ、山祭りだ、という反発があったことは容易に想像できる。

そして、大正2(1913)年9月、反対運動のシンボル的存在だった田中正造が亡くなる。同じ年、古河鉱業会社理事長に就任していた木村長七が引退。激動の時代に一区切りがついたかのようだ。
古河にとっては触れたくない傷、思い出したくない人物である田中正造が亡くなり、激動の時期に銅山を牽引してきた木村が引退して7年後、通銅鉱山神社が建立された。明治14(1881)年 当時の鉱長・木村長兵衛の指揮下、大鉱脈が発見されて足尾銅山が一気に盛り返す大転換期からは40年近く経っている。

神社を作ったのは古河だから、通銅鉱山神社に今の狛犬を置いたのも古河ということになる。
狛犬を置いた責任者は、30年前に足尾大洪水があって、古河にとっては日本初のベッセマ転炉を作り上げた技師・塩野門之助の妻子が流されて死んだことを知らなかったのだろうか? そうとは思えない。

また、なぜ自前で新しい狛犬を建立せず、古い狛犬をよそから持ってきたのだろうか? 費用をケチっただけなのか? それとも、そうしたほうがいい理由があったのだろうか?

寛保3(1743)年の狛犬奉納の背景

ここで、寛保3(1743)年の狛犬がどのような時代背景のもとに奉納されたのかを考えてみよう。
奉納者は「下松原丁神山清右門」。下松原は現在の足尾歴史館があるあたりだから、まさに妙見さんのすぐそばで暮らしていた。
神山清右門がどういう人物なのかはよく分からないが、神山というのは足尾郷を開いた最初の5姓の1つだ。
日光市のWEBサイトにある旧足尾町歴史年表には、
「正和4(1315)年 足尾の5姓(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)が足尾に移住したと伝えられる」
とある。
このうちの神山氏は新田義貞の挙兵に参加し、戦国期には佐野氏に仕えたとも伝えられている。
また、栃木県神社庁の資料によれば、磐裂神社(妙見さん)の起原について、
往古、足尾郷民の祖日光中禅寺より足尾の土地に移住し土着せるものにして中禅寺の鎮守にして己等の氏神、妙見天童を一族の内、神山文左エ門、齋藤孫兵衛の両祖、交互に霊代を背負い奉り来りて遠下の地をとして鎮座せしめて足尾の鎮守となせり。
天安二年八月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として境内坪数千九百七十三坪と定め社殿を造営して名実共に鎮守となせり。
……とあるので、神山氏が妙見さんと密接な関係にあったことは間違いない。
この神山氏が寛保3(1743)年に狛犬を奉納したわけだ。もちろん、奉納先は妙見さん(現・磐裂神社)だっただろう。
足尾銅山はこの頃、全盛期を過ぎて、産出量が激減していた。日光市WEBサイトにある旧足尾町歴史年表によれば、
  • 延宝4(1676)年 この年から12年間、毎年1300トン~1500トンを出し、溶解炉32座、銅山師44人で足尾は極めて繁栄し、足尾千軒といわれた。また以後17年間足尾産銅を長崎に送り、そこからオランダに輸出した。輸出銅の20%を占めたので5か1銅と呼ばれた。
  • 貞享元(1684)年 足尾の産銅額が年産1500トンになる。
  • 元禄13(1700)年 産銅が急減し年産150トンになる。

だそうで、わずか十数年で1500トンが一気に150トンと10分の1にまで落ち込んでいた。
そこで、
  • 寛保元(1741)年 山師から山元の困窮を救うための鋳銭の許可願いが出される。
  • 寛保2(1742)年 5年間にわたり鋳銭座を設けて寛永通宝(足字銭)を2000万枚鋳造した。

……となった。
狛犬は1文銭鋳造を始めた翌年に奉納されているので、郷民の代表として神山清右門が総鎮守である妙見さんに、足字銭鋳造を機に足尾にまた活気が戻りますように、という願いを込めて奉納したのだろう。
神山清右門が鉱山師だったのかどうかは分からないが、神山家は足尾銅山が開坑する前からの郷士なのだから、狛犬をわざわざ離れた簀子橋山神社に奉納するはずがない。
また、そのときすでに簀子橋には狛犬一対がいた。というのも、産出量が激減したこの時期に、山師たちに狛犬を奉納するような余裕があったとは思えず、狛犬は銅がじゃんじゃん掘れていた延宝、天和、貞享年間あたりに「勢いで」奉納されたと思われる。
産出量が一気に増えたのが延宝4(1676)年で、翌年の延宝5(1677)年には妙見さんに燈籠が奉納されているから、狛犬が奉納されたのもこの頃だろうか。

磐裂神社の移転と通洞鉱山神社の建立

次に、通洞鉱山神社が建立される大正9(1920)年の少し前に、磐裂神社が移転したことに触れたい。
古河が切幹沈殿場を拡張するために神社を移転させることになった。
明治44(1911)年に神社庁より移転許可が下り、3年後の大正3(1914)年に社殿を解体して移築させたらしい。
通洞鉱山神社建立がその6年後だから、当然、通洞鉱山神社建立の責任者らは磐裂神社の解体・移築にも関与していたはずだ。
そのとき、磐裂神社に二対の狛犬がいることを確認したのではないか。
一対はボロボロで脚がなく、明治23(1890)年の足尾大洪水の際に簀子橋山神社から流れてきたものだという。古河にとっては忌まわしい過去だ。いくら古くて、足尾銅山黄金期に奉納された狛犬とはいえ、心機一転これから頑張ろうという時期に建てた新しい神社に持っていく気にはなれない。
一方、もう一対はとてもきれいで、背中には足字銭鋳造開始時期に奉納されたことが分かる銘がはっきり刻まれている。鉱山の歴史を物語る狛犬としてうってつけだ。これを持っていけば、新しく作って奉納するよりも箔がつくと思ったのかもしれない。
そこで神社関係者たちに「この狛犬をもらえないか」と持ちかけた。当時の古河と村民の力関係からして、妙見さんの氏子たちも嫌とは言えなかっただろう。

で、新しい神社に177年前の古い狛犬を持ち込むわけだから、それなりの説明が必要だが、古河としては鉱山の歴史よりずっと古い村社から持ってきたとは言いづらい。鉱山開拓初期の舞台であった簀子橋から持ってきたことにしたのだろう。
しかし、簀子橋の神社から大洪水のときに流れてきた狛犬のことを、地元の長老たちはまだ覚えている。だから「あれは流された狛犬だ」という話が次の世代にも伝わっていった。
「狛犬が流された」という話は地元の人たちには知られていても、表向きの説明には一切出てこない。古河にとっては掘り返したくない過去なので触れないし、旧足尾町も古河に忖度して、狛犬の起源については無難に「簀子橋山神社から遷座された」としか説明しなかった。その説明が今では完全に固定してしまった。
あっさりと「遷座された」というが、通銅鉱山神社が建てられた大正9(1920)年には簀子橋一帯に山神社は1社も残っていなかったのではないか。 塩野門之助の妻子が流された明治23(1890)年の大洪水の後にも、明治29(1896)年にも大洪水、明治35(1902)年には大暴風雨「足尾台風」……と、何度も大水害に見舞われている。保水力が低下していた山にあった神社もことごとく消えている。狛犬もとっくに流されていた。

……そういうことではないか。

ここまで考えてきて、改めて通銅鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬を見ると、今までとは違った感慨がこみ上げてくる。
地元の名士が総鎮守に奉納した狛犬が「山神社」にあったことにされて、今は古河が建てた神社にある。
銅山の第一次全盛期に山師たちが奉納したボリューミーで味のある狛犬が、足をもがれ、目を傷つけられてもなお、村民を守る古刹で静かに生き延びている。
どちらの狛犬も、数奇な運命を背負い、歴史の裏を見てきたのだなあ……と。


足尾 磐裂神社の狛犬の謎(2)2018/05/01 22:27

江戸期には間違いないが……

狛犬の寄進年が推定できそうな他の寄進物がないかと境内を歩き回っていると、壊れた燈籠が目に留まった。
柱にうっすらと「延宝五」の文字が読み取れる。延宝5(1677)年か……そのくらいの年代の狛犬だといわれたら、それはそれで不思議はない。

バラバラになったまま放置されている燈籠



泥を落としてみると、延宝5(1677)年と読めた




ここは修験道信仰の庚申山への一丁目にあたり、庚申山碑や一丁目標もある。庚申山の上には猿田彦神社があり、明治23年(1890)に小滝坑の山神社として坑夫により建立されている

文久3(1863)年に寄進されている



寄進者は神田須田町の丹後屋安右衛門




参考:猿田彦神社↑ 2012年の足尾行きの際に訪れた

神田須田町の丹後屋安右衛門とは何者かと調べたところ、江戸の柿問屋らしい。
神田須田町や淡路町一帯は江戸時代には武家屋敷町を形成していた。
淡路町交差点あたりは、江戸時代、堀丹後守屋敷で、丹後殿前と呼ばれた。湯女を置いて客を招く湯女風呂街で、この界隈を徘徊する男達の着ていた衣装を丹前風といった。今湯上りに着る丹前の由来だそうだ。
「千代田区神田淡路町・須田町の町並み」より)

で、そこに柿をはじめ水菓子(果物)販売を商いとする丹後屋があった。
信州・飯田市三穂地区の立石(たていし)集落というところで「立石柿」という干し柿が作られており、それが江戸まで運ばれて売られていた。
美穂の立石寺(りっしゃくじ)に文化11(1814)年、江戸の柿問屋たちが奉納した絵馬が残されていて、伊勢屋惣右衛門(堀江町二丁目)、遠州屋又兵衛(堀江町二丁目)、丹後屋安右衛門(神田須田町)、伊場屋勘左衛門(堀江町二丁目)という名前がある。
中でも丹後屋安右衛門は慶応元(1865)年の「御用水菓子納人申合帳」では、世話人として名を連ねているという。(飯田市WEBサイト内 「立石柿」 出典は『みる よむ まなぶ 飯田・下伊那の歴史』編集:飯田市歴史研究所 発行:飯田市)

その果物問屋の丹後屋が、なぜに庚申山への一丁目標を寄進しているのか? 丹後屋は熱心な庚申講信者だったのか?
もしかすると丹後屋のルーツは修験者で、全国の山を歩いているうちに立石柿など各地の特産物を見つけ、それを江戸に運んで売るという商いを始めたのかもしれない。

さて、この立石寺と同じ名前の立石寺が山形にある。「山寺」と呼ばれて有名な山形の立石寺は、ここ足尾の妙見山が氏神と定めた天童の妙見神社がある田麦野から山一つ超えた隣に位置している。

ここで再び、来福@参道さんの力を借りる。
 この田麦野から山を越えた所に、芭蕉の句で有名な山寺立石寺があります。立石寺は慈覚大師の開基になる天台宗の古刹です。また、ヒヒ退治で有名な早太郎伝説の残る信濃の光前寺は、慈覚大師の直弟子である本聖上人が開いたもので、立石寺と光前寺は深い関係があったことが分かります。
 もしかしたら、べんべこ太郎を連れて来た僧とは山一つ越えた立石寺の僧であり、信濃のべんべこ太郎とは、早太郎と同様に光前寺に飼われていた狼犬だったのかもしれません。(狼神話 山口・妙見神社)

べんべこ太郎の話は⇒こちらのサイトなどで取り上げられている。
坊さまは、その話聞いで、真夜中に神社さ行ってみだんだど、ほして静がに待ってだったらば、ふとあったげ風吹いできて、生臭い匂いしたがど思ったら、怪物らが集まってきて酒盛り始めだんだど。 しばらぐして酔っぱらった怪物らが歌うだいだして、「ボンボゴボン、おらんだが一番おっかねなは、信濃の国のべんべご太郎だ。ボンボゴボン」って歌うんだっけど。(秩父・仙台まほろばの道「べんべご太郎」

修験道、狼犬、柿問屋……一見関係のなさそうなものを介して、信州~足尾~山形が結ばれたかのような気持ちになった。

寺の話が出てきたが、足尾の妙見さんには、かつて別当寺(明治より前、神仏習合だった時代に、神社を管理するために置かれた寺)として妙見山龍福寺という寺もあったが、足尾銅山の衰退で廃寺となっているという。足尾銅山の衰退というよりも、単純に明治の神仏分離令によって消えたのかもしれない。
「明暦元(1655)年、日光寺社奉行・荒井孫兵衛尉秀元、崇敬の念篤く、釣鐘一箇を寄進して栄代不朽の重器となせり」(栃木県神社庁 磐裂神社)と記載されている釣鐘は、この龍福寺に奉納されたものかもしれない。

このあたりの年譜をもう一度まとめると、
  • 1655年(明暦元年)日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元が釣鐘を寄進
  • 1677年(延宝5年)燈籠寄進あり
  • 1712年(正徳2年)天神、大神、山神、稲荷、熊野の5神を境内に合祭
  • 1809年(文化6年)改築
  • 1863年(文久3年)江戸の果物問屋・丹後屋が庚申山一丁目標を寄進
  • 1871年(明治4年)神仏分離令により磐裂神社と改称

……となる。狛犬もこのあたりのどこか(200年以上幅があるが)で奉納されたものだろう。

流された狛犬はこれではないのか?


……と、ここまでは、この狛犬の奉納年を推定することに集中していたのだが、家に戻ってきてから、通洞鉱山神社の狛犬が明治23(1890)年8月の足尾大洪水の際に流されてきたという話をまとめた後、なにかモヤモヤするものが残っていた。
通銅鉱山神社の狛犬は日光地域に残っているはじめ狛犬の中でも飛び抜けてきれいだ。洪水で1kmも流され、川から引き上げられた狛犬には、どうしても見えないのだ。
「あまりにもきれいすぎるよねえ」と言っていたら、助手さんが呟いた。
「流されたのは磐裂神社の狛犬のほうだったんじゃないの?」
……?!……
なるほど、それならすんなり分かる。あの摩耗の仕方、阿吽ともに脚がなくなり、角が丸くなっているのが、上流から流されてきたからだとすればしっくりくる。
ゴロゴロと転がり落ちる間に足がもげ、水圧で角が削られて丸くなっていったと解釈できる。
もしかして、通洞鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬はどこかで「入れ替わって」しまったのではないか?

そもそも通洞鉱山神社の造営は大正9(1920)年。狛犬の奉納は寛保3(1743)年だから、狛犬のほうが200年近く古い
寛保元(1741)年に、足尾で銅を採掘していた山師たちが寛永通宝(一文銭)を足尾で鋳造させてほしいと請願し、翌・寛保2(1742)年に許可が下りる。以後、5年間で2000万枚あまりの一文銭を鋳造した。裏に足尾の「足」の字が刻まれていることから「足字銭」と呼ばれ、お金のことを「お足」というようになったもとだという説明は、鉱山観光の中でもされている。
寛保狛犬は一文銭の鋳造許可願いが叶ったのと銅の産出が増えるようにと願って「簀子橋の山神社に奉納した」ものといわれているわけだが、奉納先は本当に簀子橋の神社だったのだろうか? ふもとの古刹である妙見さんに奉納した可能性はないだろうか?

日光市教育委員会が設置した簀子橋(すのこばし)山(さん)神社大鳥居の説明看板には、
  • 慶長16(1611年)年に江戸幕府の直山となり、簀子橋を中心に開発された。
  • 文化3(1806)年に描かれた絵図には、簀子橋一帯に金山社、山神社(4社)、不動堂(2堂)が記されていて、いずれも有力な山師たちが建てたもの。
  • 寛保3(1743)年に金山社に奉納された狛犬一対が、ご神体とともに大正9(1920)年に通洞山神社新殿に遷座された。
……と書かれている。
この説明だと、狛犬があったのは山神社ではなく金山社で、流されて下流で見つかったという話も出てこない。いろいろなところに出ている説明が微妙に少しずつ違っているのは、伝承ばかりで、確たる証拠が残っていないからだろう。

足尾銅山の全盛期は延宝4(1676)から20年ほどで、以後は銅の産出が激減していったという。妙見さんの崩れたままの燈籠が延宝5(1677)年の奉納であることを合わせて考えると、当時から簀子橋一帯に山師たちが建てた神社やお堂だけでなく、麓の妙見さんにいろいろ奉納していたことが分かる。銅山が発見されてから山師たちが建てた神社と違って、大同年間創建とされ、秩父の妙見、相馬の妙見と並んで「関東三大妙見」と称された足尾総鎮守である妙見さんは格がまったく違う。奉納するなら妙見さんへ、と考えるのは当然のことだろう。

寛保3(1743)年の狛犬の背中には、寄進者として「下松原丁神山清右門」の名前が刻まれている。下松原は現在の足尾歴史館があるあたりで、妙見さんのすぐそば。そんな場所に住んでいる「神山」氏が、地元の総鎮守・妙見さんではなく、わざわざ簀子橋の山神社に狛犬を奉納するのは不自然


一方で、簀子橋に山師たちが建てた5社(?)の神社のいずれかに狛犬が奉納されていて、明治23(1890)年8月の大洪水の際に流され、後に下流で発見され引き上げられたという話も本当だろう。しかし、その「流された狛犬」が、今、通銅鉱山神社にいる、きれいでできのよい狛犬だとは、どうしても信じられないのだ。

狛犬が明治23(1890)年に流されたとすると、通洞鉱山神社ができる大正9(1920)年までの30年間は別の場所にあったことになる。
川で発見され引き上げられたのが正確にいつなのか分からないのだが、発見された場所は渋川から渡良瀬川に流れる手前だという。
30年も川底にあったというなら、あんなきれいなわけはないだろう。通銅鉱山神社が作られる前に引き上げられていたとすれば、引き上げられた後に、とりあえず磐裂神社に置かれていたと考えるのが自然だ。

そこでこんな仮説を立ててみた。
  • 足尾銅山全盛期の1600年代後半、延宝年間あたり、当時の採掘中心地であった簀子橋地区に山師たちが建てた神社の一つに狛犬が奉納された。(あれだけ大きな狛犬を山の上に奉納するには相当な金が必要で、銅山が衰退期に入ってからでは難しい)
  • 寛保3(1743)年、徳川から一文銭鋳造許可が出たことを祝し、今後の銅山発展を祈念しつつ、足尾郷民の祖でもある神山氏の本家が村の総鎮守である妙見さんに狛犬一対を奉納した。(足尾郷民の祖であり、妙見さんの総代のような神山氏が狛犬を奉納したのだから、奉納先は山師たちが建てた山神社ではなく、地元である足尾総鎮守の妙見さんのほうが自然)
  • この狛犬は社殿の軒下あるいは内陣前あたりに直に置かれ、風雪による摩耗などが少ないままきれいに保管されていた。
  • 明治23(1890)年8月、山林伐採により被害が拡大した洪水によって、簀子橋の神社にあった(延宝年間奉納の)狛犬が流された。その洪水で、別子銅山を辞めて足尾銅山に来ていた日本有数の鉱山技師・塩野門之助の妻子も亡くなった。
  • 簀子橋から流れてきた狛犬は渋川から渡良瀬川に流れる手前で発見され、引き上げられた。その後、妙見さんの境内に置かれた
  • 大正9(1920)年、足尾銅山通洞口に新たな山神社が作られたのを機に、古河が妙見さん(そのときはすでに「磐裂神社」)に奉納されていた寛保3(1743)年の狛犬を遷座させた。磐裂神社には簀子橋の神社から流されてきた狛犬だけが残った。
  • いろいろな伝承が入り交じり、いつしか通銅鉱山神社の狛犬は簀子橋山神社の狛犬だと誤認識されるようになった。

……以上はもちろん推論にすぎないが、二対の狛犬を比べてみて、足尾銅山の歴史を振り返ってみた今は、これが正解に近いのではないかと思っている。さらにいえば、どちらの狛犬も、越前禿型狛犬のテイストを取り入れながらも、狼信仰、つまり山犬をイメージして彫られたものかもしれないとさえ思い始めている。
古河の社史や磐裂神社の奉納帳、あるいは流された狛犬が発見された当時の記録などに狛犬の記述が残っていれば、もう少し裏付けがとれそうな気もするが、難しいだろうなあ。


「ほほう……よくそこまで考えたな」と言っているだろうか……



(⇒この項さらに続く)

足尾 磐裂神社の狛犬の謎(1)2018/05/01 22:07

磐裂神社の狛犬

磐裂神社はわたらせ渓谷鉄道の単線を渡った先にある




足尾の狛犬といえば通銅鉱山神社の狛犬が有名だが、そこからあまり離れていない磐裂神社という古社に「謎の狛犬」がいる。
この狛犬、以前から写真は見ていたのだが、実際には見逃していた。というのも、磐裂神社は歴史のある神社なのに、なぜか市販の地図などにはのっていないことがほとんどなのだ。
案内板にもある通り、創建は大同3(808)年というのだが、本当だとしたら平安時代!だ。
ただ、鉱山には開坑を大同2年、また大同年間とする伝承が数多いそうなので、鉱山で開けた足尾の総鎮守だけに、後になって大同年間創建とした可能性もありそうだ。

さて、日光中禅寺より足尾に移住してきた足尾郷民の祖といわれている人たちの中で神山文左衛門と齋藤孫兵衛の両氏が氏神を妙見天童としてここ遠下(とおじも)の地に鎮守を祭ることとしたという(『栃木県神社誌』 栃木県神社庁・編 1964)。
天安2(858)年8月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として社殿を造営、以後、神山氏、斎藤氏が交互に守ってきたという。
(しかし、日光市のWEBサイトでは、神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内の「足尾の5姓」が移住してきたのは正和4(1315)年と伝えられているとあり、足尾郷に人が住み始めた時期、妙見宮が創建された時期については伝承がかなりばらけている感じだ)
さて、正確な時期はともかくとして、この話でまず興味を引かれるのは、足尾郷の祖といわれる神山氏と斎藤氏が「妙見天童」を氏神としたことだ。
妙見天童とは、山形県天童市下山口妙見橋のたもとにある妙見神社のことと思われる。
妙見神社には狼信仰の伝説があるそうだ。
 その昔、この地では三年に一度魔物に人身御供を捧げる風習がありました。魔物達が恐れているのが「信濃のべんべこ太郎」であることを知ったある僧侶が、べんべこ太郎を探しに信濃へ赴きましたが、べんべこ太郎とは大きな犬でした。苦労の末、僧がべんべこ太郎を借り受け魔物を退治したと伝えられています。
 言い伝えによれば、べんべこ太郎と魔物たちの戦いは麓の山口から谷の奥の田麦野まで激しく繰り広げられたそうです。その後には魔物の正体であるタヌキが骸をさらしていたといいます。べんべこ太郎も力つき、山口まで辿り着いた時に息絶えたと言われています。村びとがこの地に、べんべこ太郎を葬りお堂を立てたのが、この妙見神社のはじまりだそうです。田麦野とはタヌキ野の意味であり、大昔からタヌキが田畑を荒らす害が深刻だったと言われています。このため魔物退治の伝説が生まれたのでしょう。
「来福@参道」狼信仰─妙見神社 より)


人身御供を要求する化け物を退治する犬の伝説は信濃の早太郎そのものだし、須佐之男の八岐大蛇退治の話にも通じる。そういう話が日本全国に散見されるのはとても興味深い。
それにしても、中禅寺から足尾に移住してきた郷民の祖がなぜ山形県天童の妙見さんを氏神としたのか? 天童の妙見さんに伝わるという狼信仰伝説も足尾までくっついてきているのだろうか? いきなり謎だらけだ。

さて、その後、徳川が日光東照宮を建てた後は、足尾郷は日光領となって徳川の支配下に入る。足尾銅山を徳川が直営していたのもそのためだ。
神社庁の資料によれば、明暦元(1655)年に、日光寺社奉行・荒井「孫兵衛尉」秀元が「崇敬の念篤く釣鐘一箇を寄進」している。この荒井秀元と火縄銃田布施流秘伝者・新井孫兵衛秀重や足尾の星野氏との関係を書いているブログもあったが、ここではこれ以上は踏み込まない。
ただ、鉱山をまたにかけた山師たちと修験者たちの関係、山に生きる者たちが妙見信仰を篤く信奉していたことは伝わってきた。
そもそも妙見信仰とは北極星と北斗七星を神格化して信仰したもの。真っ暗闇に包まれる山の中で野宿することも多かった山師たちが、夜空を見上げたとき常にそこにある不動の星・北極星や、その回りを正確な時を刻みながら回る北斗七星を神格化したことごく自然なことかもしれない。
また、鉱脈探索に犬が使われていた歴史はあるし、そこから狼信仰が出てきた可能性もありそうだ。

前置きが長くなってしまったが、ではさっそく謎の狛犬の元へGO。

第一印象は「けっこうでかいな」であった。はじめ狛犬であれば小さいだろうと想像していたのだが、通洞鉱山神社の狛犬より一回り大きいか。

手前にある岡崎現代型はスルーして、目的の謎の狛犬のもとへ



おお! ようやく会えたね



阿像。前脚は完全に喪失。丸く削れている



吽像も同様に前脚は欠損。後肢も、おそらく蹲踞した形だったものが失われている



阿像は舌を出している



三越のライオン像を思わせるような鬣。越前禿型の影響を感じる



阿像の尾↑と吽像の尾↓ きちんと形を変えている



腹の下がきれいにくり抜かれていることから、はじめ狛犬とは言い難い。腹部に銘はなかった



目が細い。この目の表情に特徴があるが、残念ながらかなり摩耗してしまっている




背中に文字が刻まれていたかどうか……あったのが摩耗して読めなくなったような、最初からなかったような……



吽像のほうがまだ表情が残っている。歯がこのようにいっぱい並んでいるのは古い狛犬によく見られる造形



よく見ると、胸のあたりに瓔珞(ようらく)的なものも見られる。
さて、この狛犬はいつ頃建立されたのだろうか? 通銅鉱山神社の狛犬、寛保3(1743)年よりも古いのか? 新しいのか?
この大きさからして、何か特別なイベントがあったときに奉納された可能性が高いように思える。
改めてこの神社の歴史を振り返ると、

  • 1655年(明暦元年)日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元が釣鐘1筒寄進
  • 1712年(正徳2年)天神、大神、山神、稲荷、熊野の5神を境内に合祭
  • 1809年(文化6年)改築
  • 1871年(明治4年)神仏分離令により磐裂神社と改称
  • 1881年(明治14年)神饌幣帛料供進神社となる
  • 1914年(大正3年)古河鉱業の資金で、解体後現地へ移転復元
……分かっているのはこれくらい。古ければ1600年代、新しければ大正3年の移転時だが、形や摩耗の進み方からして大正はないだろう。
となると、古くて1600年代半ば、新しくて文化文政時代くらいだろうか?
(⇒この項続く)


廃仏毀釈と狛犬史の断絶2018/02/14 10:36

三國神社の狛犬 (1990年撮影)
上の写真は1990年に福井県の三國神社を訪れたときのものだ。まだデジカメもなく、暗い境内で小さなフィルムカメラで撮っていた。
この神社にはたくさんの狛犬がいるのだが、中でも異様だったのはこの真っ二つに切られた(?)ような狛犬だ。
事故で首が落ちたとか、身体の一部が欠けたとかには見えない。人為的に「真っ二つ」に切断されているように見えて気味が悪かったのを覚えている。
もともと石に層理(違った成分などの境界面。堆積岩では泥や砂などの堆積物が堆積していった面)があって、風化が引き金でその面できれいに割れたのではないか、と教えてくださったかたがいるが、なるほどそうかもしれない。
その後も、各地で「不自然に壊れた」狛犬を見ることが何度かあった。台座から落ちて首が折れたとか、そういう例はたくさんあるが、どう見てももっと不自然に、何かで叩き壊されたのではないかとか、切断されたのではないかと思えるような壊れ方だ。
そういう狛犬を見るたびに、なぜこういう壊れ方をするのだろうと、もやもやしていたのだが、後に、明治新政府が発令した神仏分離をきっかけに起きた廃仏毀釈の嵐の中で、仏像などと一緒に狛犬も被害にあう例があちこちであったらしいことを知った。

神仏分離令はそれまでの慣わしであった「神仏習合」の緩さを改め、天皇の神格化を神道を利用して進めようとしたものだった。明治政府は寺社打ち壊しや仏像などの破壊まで意図していなかったとされているが、これを受けて、各地で庶民による寺院、仏像、仏堂、仏塔、経典などの破壊、処分がヒステリックに行われていった。
庶民による破壊活動がここまで激化したのは、それまで幕府が寺請制度によって民衆を管理してきたため、特権階級のようになった仏教関係者が腐敗したことへの民衆の反発があったともいわれている。文字通り「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の図だ。

狛犬は今では「神社にあるもの」と認識されているから、廃仏毀釈には関係なさそうに思えるが、ルーツが中国獅子であり、仏像などと同列に見られたために「神聖なる神社にこのような獣の像があるとはけしからん」と、破壊、廃棄の対象になった例もあったのだろう。
長州とともに明治新政府の中心となった薩摩(鹿児島県)では、1066あった寺院すべてが廃寺とされ、僧侶2964人が還俗させられたという。
その鹿児島にあるいちき串木野市冠嶽では、道の両脇に仁王像と狛犬が置かれているが、市の教育委員会が設置した案内看板によれば、
この仁王像は、現在地と神社との中間に仁王門があり、そこにあったといわれている。明治初年の廃仏毀釈時に、この仁王像も壊され、やぶの中に捨てられていた。それを昭和34年に、土地の有志たちが復元し、現在の位置に建てたものである。
(略)この狛犬も廃仏毀釈時に、一部壊されているが、像形は、まだしっかりしている。

と説明されている
同じような例は他でも見られる

僕が1990年に三國神社を訪れたときに見た「真っ二つの狛犬」も、同じような被害にあったのだろうか。
三國神社は越前だが、越前においても、明治4(1871)年、福井藩が84もの寺を「無禄無檀」の寺院として政府に廃合処分を伺い出た。白山修験道の拠点だった平泉寺も、仏堂、仏像、仏具などを破壊され、白山神社に改変された(『福井県史』通史編5 近現代)という
「真っ二つの狛犬」が、その渦中であのような姿にされてしまったのかどうかは分からないが、全国で「不自然に壊れた」狛犬を見るたびに抱く違和感のスタートになったので、今も強烈な印象が残っている。

森田健司氏(大阪学院大学経済学部准教授、専門は社会思想史。特に江戸時代の庶民思想の研究)は、著書『明治維新という幻想』のあとがきにこう書いている。
私が江戸時代に惹かれる理由は、実にシンプルだ。そこに眩い庶民文化があったから、である。
(略)
江戸の人びとが真摯に生きて、麗しく咲かせた「文化」という名の花は、明治の世が進んでいくにしたがって、目に見えて萎んでいった。
新たな価値観や文化を創出できたなら、それはそれで結構な話だろう。しかし実状は、まったく、そうではなかった。明治政府は、江戸のすべてを否定したが、異なる新しい文化の花を咲かせられなかった。それでも、社会の紐帯を維持できていたのは、「江戸時代の遺産」があったからに違いない。
(『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』洋泉社歴史新書y 2016年)



これはまったく同感で、明治になった途端に庶民文化が途絶え、停滞し、退化した様子はあまりに極端で、驚かされる。
狛犬に関していえば、明治一桁や10年代にはほとんど建立がないし、あっても、江戸時代の残り火のようなものばかりだ。庶民パワーや自由な発想を感じさせる狛犬が再び登場するのは明治20年代くらいからで、そこから一気にアートを追求したような作も出てきて、大正期あたりで爛熟する。

それが昭和に入ると、国威発揚を意識したような岡崎古代型や爬虫類っぽい顔のいかつい狛犬が増え、皇紀2600年(昭和15年)の奉納ブーム前後では、画一化された狛犬ばかりが目立つようになる。

日光に来てから知った彫刻屋台も「庶民の文化」としての溌剌としたパワーが魅力だが、それを生んだ江戸時代の空気を、現代日本に生きる我々は感じ取ることができるだろうか。
それにしても、である。魅力的な文化を生み出す庶民が、その文化を破壊する暴徒にもなるという事実に戦慄する。
獅子狛犬の詳しい知識がない(正統派狛犬?を見たこともない)まま「おらが村の鎮守様にも、そのこまいぬつうもんを奉納すんべえ」的なノリで全国各地で作られた「はじめ狛犬」。あの素敵な文化を生み出したのと同じ「庶民」が、神仏分離令をきっかけとして廃仏毀釈という暴挙をも行った──その歴史的事実をどうとらえればいいのだろうか。

閉塞感におしつぶされそうになる現代、庶民は知らないうちに、あの廃仏毀釈のような暴発に向かっていないだろうか……。
もしそうであれば、暴発する閾値を超える前に気づき、歴史を正しく見つめ直し、時代の空気やシステムを修正していくことが必須だろう。

小説版『神の鑿』を書くとしたら、テーマは「庶民文化」「自由な芸術」に生涯を捧げた者たちの魂、というようなものだろうと思っている。
それを描くための材料集めや歴史の掘り起こし作業を思うと、生きているうちに完成させる自信がどんどんなくなる。
しかし、とっかかりの時点で、「隠された歴史」がいろいろ見えてくるだけでも面白い。
まだまだ人生、楽しめるかな。


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