『あまちゃん』震災編に見る「新たなタブー」のこと2013/10/01 11:57

久々の「国民ドラマ」と呼べるかもしれない『あまちゃん』(NHK連続テレビ小説)が終わった。
うまい脚本で当初からぐいぐい引っ張られてきて、この調子では最終回では号泣するんだろうなあと思っていたが、「震災編」に入ったあたりから徐々に様子がおかしくなっていった。
話の進み方が不自然。ありえない描写。先が読めずにワクワクした最初の頃の脚本が崩れて、緻密な伏線もなくなり、なんだこれ? 的な展開になってくる。
まさかこんなことやりたいためにこのドラマを書いてきたわけじゃないだろうに、やっぱりなんだ、あれか、そうか、う~~ん……と、白けることが多くなった。
Googleで「あまちゃん つま……」まで入れると「あまちゃん つまらなくなってきた」が予測で表示され、それを検索すると45万件くらいヒットする。
ああ、やっぱり同じように感じている人はたくさんいたのだな……と、いくつか読んでみた。
いちばん当たっているのは⇒これ。
コラムニスト阪本啓一氏がブログに書いている「違う景色、同じ景色」と題した一文

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「クドカンの綿密な脚本に感動し、1日に3回は繰り返し見ていたぼくが、9月に入ってからは1回見るのが苦痛である。雑だし、なんだか「クドカンらしくない」のである」
「クドカンは、「震災を描くドラマじゃない」と言い切っている。しかし、NHKとしては震災を描いて、感動物語にしたい。ご都合主義が多少入っても致し方ないと考える。言い換えれば、クドカンは「違う景色を描きたい」。NHKは「同じ景色を見たい」
「こういうところが、いまの日本の文化を面白くなくしているんだよ!」
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 まったく同じことを僕も感じていた。
 阪本啓一氏がこの文章をブログにUPしたのは9月9日だが、その日の『あまちゃん』ではこんなシーンがあった。

「(ウニを)やっと獲ってもよお、震災の影響で、東北で獲れる海産物はあぶねえんでねえかって。ふ…」
「風評被害だ!」
「んだ!」
「ふざけんな! 何度も何度も水質調査して、安全だって証明されたからおらたちは潜ってるってのによお」


このやりとり、おかしいと気づいた視聴者は多かっただろう。
そう、「震災の影響」じゃない、「放射能」「原発」の影響だ。
こんな間抜けな台詞を宮藤官九郎が書くわけがない。要するに放射能や原発は「使ってはいけない単語」にされているために台詞が書き換えられたのだ。
震災編に入ってからも、ドラマの中でこれらの言葉は一切出てこなかった。

脚本家自身がブログの中で苦悩を綴っている

「~最終話。たった今書き終わりました。日付変わって6月18日午前2時34分です。まあ、これから直しを入れるわけですが。自分らしい終わり方と、朝ドラらしい終わり方の、どちらを取るか、実はこの4、5日揺れに揺れていました。結果、俺らしくもなく、たぶん朝ドラらしくもない終わり方になったんじゃないかと思う。仕方ない。俺は朝ドラの最終回を見た記憶がない。しかも、俺らしい終わり方なんて自分じゃわからない。というわけで「こうなるよね」というラストだと今は思う。わからない。変わるかも知れない。とりあえずお疲れ俺」(6月17日の日記)

「~夜、NHKで本打ち。「面白いけど物理的にちょっと難しいシーンが…」と言われた。分かっていたので素直に従いつつ「面白いけど」に寄りかかって我がままも言わせてもらった。帰って25週直して一杯ひっかけて帰る」(6月20日の日記)

「最終週の本直しに向けての打ち合わせ。我がまま通じなかった。でも仕方ない。直す」(6月23日の日記)


脚本家がやりたかったシーンとは? 通じなかった「わがまま」とは? 気になるけれど、僕たち視聴者は永遠に知ることはできない。まことに残念。

ちなみに、3月11日の日記にはこうある。

「~ もちろん3月11日のことを教訓として忘れてはいけない。当たり前だ。未だ復興したとは言えない状況だし、そんな東北の皆さんに少しでも元気になって欲しいという思いは人並みにあるつもり。でも、そればっかりを考えて156話のドラマを書いているわけではない。逆にそればっかりを考えていたら重苦しいドラマを書いてしまいそうだ。少なくとも朝ドラの書き手として、俺はそれを望まれてはいないと思う。
そもそも東北の人々がみな「震災のドラマ」を見たがっているのでしょうか。
ドラマはフィクションなんだし、忘れたり思い出したり笑い飛ばしたりしんみりしたり元気出したりで良いんじゃないですか? とか言うと不謹慎なのかな。
みんな同じ思いで同じ方角を向いて頑張るのはもちろん大切だと思う。でも、その温度を時と場所を関係なく他人にも要求するようなムードには、どうしても違和感を覚えてしまうのです。『あまちゃん』は震災を描くドラマではありません。(略)」


この一種の「決意表明」にはものすごく共感した。
特に「みんな同じ思いで同じ方角を向いて頑張るのはもちろん大切だと思う。でも、その温度を時と場所を関係なく他人にも要求するようなムードには、どうしても違和感を覚えてしまう」という部分は重要だ。
そう考えて書いていった彼が、最後は「でも仕方ない。直す」でドラマを書き上げなければならなかった心中は察してあげたい。

このことを、ある商業誌のコラムで書いた。原稿を送ったものの、これは掲載が難しいんじゃないかと思っていたら、案の定、ものすごく久しぶりに担当者から直接電話がかかってきた。
上からOKが出なかったと。
理由としては「日本中が盛りあがっているときに少しでも水をさすような内容は……」とのこと。
「想定内」のことで、最初から差し替え原稿を書くつもりで、「試しに出してみた」ことだったから、笑ってすぐに差し替えネタの原稿を書いて送った。
それにしても皮肉だなあ、と思う。
「みんな同じ思いで同じ方角を向いて頑張るのはもちろん大切だと思う。でも、その温度を時と場所を関係なく他人にも要求するようなムードには、どうしても違和感を覚えてしまう」と言っていた脚本家自身が、知らないうちに批評も許さないようなムードを形成し、自分では制御できない「何か別のもの」を作り出してしまっていたのだから。
あれだけ緻密でスリリングな出だしだったドラマを好きなように終わらせられなかった脚本家がいちばんの「被災者」かもしれない。

しかしまあ、同じ「書きたいが書かせてもらえない」「言いたいが仕事なくなってしまうから黙っておこう」と悩むなら、このくらいの規模の土俵で悩んでみたいというルサンチマンもある。……いや、その規模の地獄(圧倒的多数を相手にする面倒くささ)を知らないから言えるのかな。
オリンピックもそうだけど、「国民的○○」っていうのは、やっぱり創作の精神、命を縮めるのかなあ……ということで……。

「そもそも東北の人々がみな「震災のドラマ」を見たがっているのでしょうか」

実は、この宮藤官九郎が発した問いに対して、彼自身、『あまちゃん』の中で答えている。
夏ばっぱが何度も口にする一言で。
「おがまいねぐ」