「集団的自衛権」の正体2015/10/09 18:30

国境なき医師団のメッセージ

アフガニスタンの国境なき医師団運営病院を米軍が空爆

2015年10月3日、アフガニスタン北部のクンドゥズで「国境なき医師団(MSF)」が運営する病院が米軍によって空爆され、患者やスタッフ22人が死亡、数十人が負傷した
大変なニュースだが、なぜか日本のマスメディアでは大きく報道されていない。
オバマ大統領は7日、同医師団のジョアンヌ・リュー会長に電話し、謝罪したという。
米軍がタリバン掃討のためにアフガン政府を支援して空爆を続けていた中で起きた「誤爆」だというが、本当にそうなのか?

MSFの外傷センターには、10月3日の午前2時8分から3時15分まで、15分間隔で爆撃が繰り返された。外傷センターの主要病棟、集中治療室、救急救命室、理学療法室の各施設が極めて正確に爆撃され、その周囲の施設はほぼ被弾しなかった。

MSFは、GPSを用いた外傷センターの位置情報を連合国軍、アフガニスタン政府軍、地域の行政当局に機会があるたびに知らせていた。これは、アフガニスタンに限らず、紛争地で活動する場合には必ず行っていることだ。しかも、外傷センターについては、直近では9月29日に情報を伝達したばかりだった。それにもかかわらず、爆撃されたのだ。
MSF外傷センターへの爆撃、「連合国軍は完全なる情報公開を!」MSF

アメリカは「誤爆」と言うが、病院施設を15分間隔で正確に爆撃する誤爆などありえるのか?
「ま、いっか」という感覚でやったのではないのか。その判断や生命軽視が「誤」だったと謝っているということなのか?

冷静に考えてみてほしい。アメリカは病院を爆撃したのは「ミス」でしたと言っているが、他国(アフガン)の政府に勝手に肩入れして、反政府勢力を一掃するために、他国の土地に爆弾をドカドカ落とすこと自体は間違っていない、「正当な行為」「正義の戦い」だという感覚を持っているのだ。そう考えるだけでなく、実行しているのだ。そもそもこれは正常なことなのか?

どのならず者集団に加わるか

MSFの医療施設に米軍が空爆をした2日後の10月5日、脳科学者の茂木健一郎氏が、「SEALDs奥田愛基氏へに送られた『誹謗中傷ツイート』にある見逃せない『論点』」と題する文章を発表した。

SEALDsの中心メンバー奥田愛基さんと父親の奥田知志さんに対して殺害予告が来て、それを警察に届けた。
これを揶揄するかのように、ネット上で「個別的自衛権で十分なんじゃね?」といった類の書き込みがあった。そのことに対して、茂木氏は「そうではない」と、極めて論理的かつ明解に指摘している。
非常に重要なことなので、例によって一部抜き出してみる。

そもそも、国家はどうして必要なのか? ホッブズ「リヴァイアサン」の社会契約論によれば、自然状態では「万人の万人に対する闘争」(bellum omnium contra omnes)になってしまうため、個人の権利を一部制約しても、国家というシステムを作るのである。
(略)
(しかし)現実の国際社会は、地球という「超国家」の下に各国家が「個人」として存在するような状態にはなく、むしろホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」に近い状態にある。
核兵器を含むさまざまな兵器を持った国家同士が対峙する地球は、個人が権利を譲り渡して国家をつくった「リヴァイアサン」の状態よりは、むしろ、ならず者たちが実力で向き合う無法状態の方に近い。そんな中での「集団的自衛権」は、結局、どのならず者の集団に加わるか、ということに近い。

アメリカは、かつて「世界の警察官」を自認し、今でもその残滓があるが、アメリカが「紛争解決」のためにやってきたことを冷静に見れば、そこにはほとんど無制限の国家という「リヴァイアサン」の暴力があるだけだ。ベトナムでも、イラクでも、アメリカは平和の名のもとに破壊を繰り返してきた

戦争は、結局、国家という「リヴァイアサン」の好き勝手な行為、に近く、大量の兵器が消費され、それを製造して販売する人たち=「死の商人」が儲かる。タリバンやアルカイダ、ISISを生み出す遠因にもなる。結局、国家による「警察行為」は、平和を生み出すどころか暴力の連鎖をもたらすだけだ。


まさに僕が常々感じていたことをズバリと言ってくれている。
安倍政権が言う「集団的自衛権」とは、警察が市民の安全を守るというような話ではなく、武力抗争を繰り返している暴力団の中で、いちばん強そうな組の下っ端につこう、という話だ。
日本は「いちばん強そうな組」としてアメリカを絶対的親分として見ている。
日本の歴代政府は、アメリカという組の親分に対して恭順を示しつつも、自分の組(日本という国)の自主・自立をいかに守るかという駆け引きを続けてきた。ところが、今の安倍政権は、そうした駆け引きをする能力がなく、ヤクザに憧れる不良番長のように、ただただ「組に入れてください」「入れてくれたらなんでもします」「チャカやドスも持たせてください」「鉄砲玉用意しますんで、好きなように使ってください」と言っているに近い。

戦勝国は、残念ながら、国家のリヴァイアサン性を反省する必然性に乏しい。原爆を投下しながら、未だに国家としては反省の言葉を述べていないアメリカはその象徴だ。集団的自衛権は、結局、警察よりは、反省のない怪物の中に加わることに等しい。
(略)
結局、「集団的自衛権」の美名の下に行われる活動の実態は、国家の中の警察行為とは、かけ離れた、むき出しの暴力であることが現実に多かったし、これからもおそらくそうだろう。私は、日本がそのような、ならず者連合に加わることが、国家としての利益に資するとは考えない。だから反対する。

さらには、
このような時代に、日本が「普通の国家」、すなわち、国家主権の発動としての戦争行為を無反省にやる戦勝国連合に加わることは、人類全体の損失である。

……と、「損得」を超えて一歩踏み込んだ思想を表明している。

僕自身は、人類全体が合理的な考えの下で最大値の幸福を実現していけるまでに成長・成熟することは極めて困難だと思っていて、その点についてはほぼ絶望している。
しかし、今の日本の政権は、人間性悪説の上に立って見ても、あまりにレベルが低すぎる。
悪代官が悪知恵を駆使して下々の者からなけなしの稼ぎを巻き上げるような世の中は今までもあったし、これからも続くだろうが、悪代官たちが悪ガキの暴走をコントロールできない世の中にまでレベルが下がると、壊滅的な危機へと一気に落ちていく。

日本が絶対忠誠を示す「最強のならず者集団」は、最先端兵器で病院を正確に爆撃して、「誤爆、誤爆、ごめんね」と言ってのける集団だ。
その集団にくっついて暴力をふるいたいと思う人物に国の運営を任せることが、国民の平和、安全に寄与することになるのか。
「集団的自衛権」とか「積極的平和主義」「国際社会の一員としての貢献」といった言葉の先にあるのは何なのか。
アメリカがそうした言葉の下で行ってきたことは、歴史にはっきりと刻まれている。ベトナムであり、イラクであり、アフガンだ。
日本国民の大多数がそんなことさえも分からなくなってしまっているとしたら、本当にもう末期的状況と言うしかない。
親分は言わばラスボスで、簡単には表に出てこない。鉄砲玉として消費されるのは子分のほうだ。アメリカがラスボスだとすれば、日本はスライム。安く消費されるんだよ。
今だって、日本はアメリカの国債を馬鹿みたいにいっぱい買わされ、いいカモにされている。この状態に集団的自衛権が加われば、日本はこれから先、金をむしり取られるだけでなく、人命も消費させられる。

もうひとつ忘れてはいけないことは、ならず者集団のボスは常に「どっちが儲かるか」「どっちが得か」で動くということ。日本の武士道のように、義理だのけじめだの道理だのでは動かない。
日本が他国から攻められるような事態になったとき、武器商人はビジネスとして、自国の軍隊を派遣するよりも、日本に武器を売ろうとする。
「自分の国は自分で守らなきゃダメでしょ。そのためにはいい武器が必要でしょ。いい武器ありまっせぇ」って言ってね。
そのほうがリスクを少なく、儲けることができるのだから、当然だ。
彼らは「商売」としての戦争をやっている。日本より中国のほうが大切だと判断すれば中国を選ぶし、日本を助けるより見捨てたほうが損失が少ないと思えば迷うことなく見捨てる。
見捨てられないようにしたいなら、「チャカ持ってついていきやすぜ」という忠誠心ではなく、自力で技術や文化、経済を磨いて競争力をつけ、世界から一目置かれる、本当の意味での「強い国」になることだ。戦後、日本はその努力をしてきたのではないのか。武力紛争に加わらない国、武器を売らない国が高い技術を持っている。あそことは仲よくしておこう……そう見られてきたのではないのか。
それこそが最も強力で有効な「国防」策ではないのか。

さらに憲法のことを言うなら、日本国憲法がアメリカの手を借りて作られたものであるということこそが最高の「安全保障」だと、なぜ分からないのか。
今ではならず者国家の先頭を走るアメリカが、あのときは厭戦気分が最高潮に達していて、たまたま「理想」的な憲法の創案に手を貸して日本に与えた。今のアメリカにはあのときの理想主義はもうない。なりふり構わず、やりたい放題のならず者国家になっている。
そのアメリカに対して「親分にいただいた尊い憲法があるので、うちらは親分の鉄砲玉として人殺しの現場には行けません」って言えるのだから、これこそ最高の「安全保障」ではないか。
こんなに幸運なキラーアイテムを自ら捨てるなんて、ゲーマーとしてもヘタレすぎだ。