即位の礼2019/10/27 11:37

木目込みの雛人形(鐸木能子・作)
2019年10月22日。朝から雨が降る中、即位の礼。あのテレ東も含めてすべての地上波テレビ局が中継した。
テレ東の中継を見ていたら、解説役で呼ばれたゲストが「雛人形のモデルは天皇・皇后ですから」ということをポロッと口にした。
それを聞いた妻が「室町雛や有職(ゆうそく)雛は違う」と主張するので、調べてみた。
そもそも雛人形、ひな祭りとは、
  • 平安時代(あるいはそれ以前、土偶などの時代から?)、疫病や穢れを祓うために人形(ひとかた)、形氏(かたしろ)といった、人の代わりに悪いものを引き受ける身代わりとなるものを主に紙で作り、川などに流して災厄を遠ざけるという「禊祓(みそぎはらえ)」の風習があった。それが貴族の間の行事「上巳の節句(じょうしのせっく)」として定着する。
  • 天児(あまがつ)這子(ほうこ)などはそのためのもので、紙から次第に布製のものになり、これが雛人形の起源といえる。一方、子供たちの間では、そうした小さな人の形をしたものでママゴトのようなことをする「ひいな遊び」が流行る。これも「ひな人形」「ひな祭り」へと結びついていく。
  • 室町時代には立ち雛のようなものが登場する。最初は紙などで作られたため平べったく、自立できないようなものだったが、次第に豪華になり、木目込(きめこみ)人形の立雛へと進化していった。
  • 江戸時代になると、人形は川などに流すのではなくそのまま「飾り雛」として飾られるようになり、庶民の間でも平安時代の宮廷を模した雛壇の雛人形となって大流行する。これが今の雛人形、ひな祭りへと続いていく。

……といったことらしい。諸説あるが、大体こういうことなのだろう。

今のような雛人形が庶民の間で流行するのは江戸時代になってからだ。
次第に衣装が派手になっていく傾向に対して、「いやいや、本来の貴族の装束はそんなに下品なものではないぞよ」と、正式なルールに則った装束の雛人形が特注で作られるようになり、主に公家社会や大名家などの上層階級に好まれたという。衣装・装束のルールを担当していた公家の高倉家、山科家が1700年代中頃に作ったといわれている。これが「有職雛」。有職雛の「有職」というのは、宮中の衣装や調度品などの決まり事を、各部門の有識者たちが集まってまとめた「有職故実」のこと。下々が勝手に作った雛人形とは格が違う、これが正式だ、というわけだ。
即位の礼をすべてのテレビ局が生中継し、日本中で見守る──庶民の宮中文化への憧れは、江戸時代も今も変わらないのだなあと、改めて認識させられた。
木目込みで作られた十二単の座り雛(鐸木能子・作)

平成と令和で即位の礼は変わったか

閑話休題。
今回の即位の礼は、平成のときとほぼ同じ形を踏襲したという。
平成のときは、時の総理大臣海部俊樹氏が、宮内庁から「束帯姿で」と要求されたのを拒否して燕尾服で参列し、万歳三唱のときも、「ご即位を祝して」と述べてからのものになった。これは、国民主権をうたう憲法の下での儀式であることを踏まえて、ということだそうだ。
国民の代表として選挙で選ばれた自分が、皇室の宗教色の強い儀式に合わせて束帯姿で出席し、一段低い庭に下りて「天皇陛下万歳」を叫ぶことはおかしい、という、最低限のわきまえを表明するものだったのだろう。
平成の即位の礼では、儀式の場所そのものを京都御所から皇居に移した。
そうした数々の「改革」が、今回はさらに一歩進むのかと思いきや、やはりそうはならなかった。
万歳三唱や21発の礼砲は前回通り行われた。

そもそも現在の即位の礼の儀式内容は明治新政府がアレンジしたものが元になっている。それまでは中国の儀式や意匠を真似て唐風だったものを、岩倉具視が神祇官副知事亀井茲監(これみ)らに「唐の模倣ではない庶政一新の時にふさわしい皇位継承の典儀を策定せよ」と命じたものだという。
当然、それまでは「天皇陛下万歳」や礼砲もなかった。
「日本の伝統的な~」という言葉が検証もなく安易に使われるが、こういう場合は「明治政府が決めた~」「明治になってからこうなった~」と、はっきり言うべきだ。

今回の式典では、新天皇の「お言葉」に注目が集まった。平成のときの文面と比較して、「世界の平和」という言葉が2回、「国際社会の友好と平和」という言葉も加わって、日本国内だけでなく、広く「世界」の平和と共存を願っているのだという思いを強調したと評されている。
一方で、平成のときの「日本国憲法を遵守し」が今回は「憲法にのっとり」にかわったことに懸念を示す学者もいる。
「『のっとり』だと、どんな憲法でも『従えばいい』という感じを与えます。集団的自衛権の行使容認のように、たとえ政権側が憲法解釈をねじ曲げても、その憲法に従わざるを得ないという印象です」
「『憲法遵守』が後退したのは、改憲を目指す政権側の意向がにじんだ結果とみるのが妥当でしょう。憲法4条の『天皇は国政に関する機能を有しない』との規定をいいことに、政治に口を出せない天皇のお言葉を利用して護憲ムードを抑え込む。そんな政治利用も辞さない政権に、この先も天皇が押し切られないか心配です」(立正大名誉教授・金子勝氏=憲法) 「即位の礼」天皇のお言葉を徹底検証 憲法言及は「遵守」から「のっとり」へ 日刊ゲンダイDigital 2019年10月25日

庶民が儀式の衣装や雰囲気に感激している裏には、官邸と皇室の見えない対決があるのかもしれない。

憲法の中の天皇

こうした皇室関連、天皇制関連の話題は、問題の本質に深く入り込むことはタブーで、識者の多くも本音や正論を口に出すことができないでいる。
天皇制そのものに対しては多くの国民が賛成の意を示しているというが、そこで人生を過ごす皇族方、特に天皇・皇后という役割を負う人たちの「基本的人権」について発言する人はほとんどいない。
現行の日本国憲法にはこうある。
第一章 天皇
第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条  皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。
第三条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条  天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

これはいくらなんでも基本的人権を無視していないだろうか。
職業選択の自由がない。少しでも「政治的」と思われる発言は一切できないだけでなく、選挙権も被選挙権もない。
離婚はできるのだろうか? プライベートな旅行なんていうのも、事実上不可能だ。それどころか、「この作家のこの作品が好きです」「俳優の○○さん、男前ですよねえ」なんてことさえ軽々しくは言えない。そんな人生。そんな一生を、自分の意志とは関係なく規定されてしまうのだ。

ちなみに「天皇の国事に関する行為(国事行為)」とは、具体的には、
  • 内閣総理大臣の任命(日本国憲法第6条第1項)
  • 最高裁判所長官の任命(第6条第2項)
  • 憲法改正、法律、政令及び条約の公布(日本国憲法第7条第1号)
  • 国会の召集(第7条第2号)
  • 衆議院解散(第7条第3号)
  • 国会議員総選挙の施行公示(第7条第4号)
  • 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状の認証(第7条第5号)
……などなど(まだまだある)で、実に多い。
これらのすべてで天皇は「形式上の行為」を行わなければならない。そのお姿は時折テレビなどでも放映しているが、それを見る一般庶民の感覚としては「大変だなあ。形式だけなんだから、わざわざ天皇がお出ましになることもないのに」といったものではないだろうか。
しかもこれらに関して天皇ご自身は「行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」「内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」のだ。
ご自身の意志や考えとは無関係に、ただただ形の上での「行為のみを行う」と決められているわけで、これほど個人の人格を無視した法はない。

今回の即位の礼にしても、極めて宗教的事柄が含まれるのだから、国事として行い、多額の税金を使うことに天皇家の人々は反対だったという。しかし、現行憲法に「のっとれ」ば、「行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(国事だとされた段階で、ご自分の事でありながら意見を言えない)「内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」(最終的に内閣の言うことには反対できない)のだ。
しかも、こうした話は口にすることだけでも怖ろしいタブーなので、誰も助けてはくれない。そうした一種極限状況ともいえる制限の中で、どれだけ一人の人間として「自分の意志」「考え」に誠実に従い、行動できるか……想像を絶する困難と孤独を伴うことは間違いない。
そうしたことに思いを及ばすことなく、「天皇陛下万歳!」にしても「天皇制反対!」にしても、あまりに天皇家の人々の資質に甘えていないだろうか。多くの矛盾や弊害を抱えた問題を天皇と天皇ご一家に押しつけているのではないか。
今回、平成天皇が生前退位という道を開いたことも、どれだけ大変なことだったか。本来なら「主権」を有する国民の側から提案していかなければならないものだったのではないか。
平成天皇・皇后ご夫妻が生きてきた人生の誠実さ、強さ、そして誰にも言えぬ孤独を想像したとき、自由お気楽に生きてこられた一庶民としては、目眩がし、言葉を失ってしまうのである。

憲法改正論議はとかく9条問題に片寄りがちだが、それより先に、まずは天皇や皇族の基本的人権問題を解決すべきではないかと思う。
その議論から逃げて、タブーに守られたきれいごとに祭り上げているうちは、政治家も庶民も、現憲法に手をつける資格がないのではないか。

天皇が戦争に利用された歴史は否定しようがない。その結果、多くの人が理不尽な死を強いられた。現憲法はその結果生まれた。人は愚かだから、同じ過ちを繰り返す。そうさせないために、権力者が暴走するのをどうしたら抑えられるかという意図が随所に入れられた。
今また、天皇を道具として利用しようとする不埒な輩が力を伸ばしている。その勢力に、ギリギリまで制限された条件の中で、静かに、誠意を持って立ち向かっているのが現在の天皇家の人たちだという気がしてならない。

天皇家を愛するというのなら、庶民もまた天皇家と一緒に悩み、考え抜き、「国際社会の友好と平和」を本気で希求する気概を示す覚悟が必要ではないか。