地震で出てきた週刊プレイボーイと原発爆発後の10年2021/02/14 21:30

2012年3月19日号の週刊プレイボーイ
昨夜遅く(23時過ぎ)、大きな地震があった。
久しぶりに長く、かなり揺れたので、3.11のときの感覚が甦った。
幸い、棚からものが落ちたりギターケースが倒れたりしただけで、大した被害もなく収まったと思っていたが、一夜明けたら、仕事部屋の本棚が大きく歪んで、崩壊寸前になっているのが分かった。
壁に打ち込んでいたビスがすっぽ抜けて、大きな隙間ができている(↑)。

その隙間から週刊プレイボーイが出てきた。

なんでこんなものが? と引っぱり出してみた。何か楽しい写真でものっているのかとパラパラとめくっていくと、自分の写真と目が合ってビックリした。

すっかり記憶から消えている。改めて発売日を確認すると2012年3月のものだ。ということは、日光に引っ越してきてすぐの頃だなあ。

扉の写真は記者に撮られているが、いつどこでインタビューされたのか記憶にない。
改めて記事を読んでみた。3ページしかないので、ものすごく小さな字で組んであり、読みづらい。
 作家のたくき よしみつが7年近く住んだ福島県川内村を離れたのは昨年の3月12日、福島第一原発1号機の爆発映像がテレビに映し出された直後のことだった。
 自宅は原発から25km地点。心臓がバクバクした。放射能被曝の危険が迫っていた。
「逃げるぞ!」
 妻にそう告げると、身の回り品をザックに詰め、車で神奈川県川崎市の仕事場にたどり着いた。
……記事はそんな風に始まっている。

その後の展開について短くまとめると……、
  • 3月26日に線量計を手にして荷物を取りに一度村に戻ったが、実際、村の中の線量は村民が避難した郡山市内より低かった。
  • 地震による被害はほとんどなく、プロパンガスも井戸水も電気も使える。友人たちも村に戻り始めていたので、一緒に村を立て直すことに協力できないかという思いで、4月末に村に戻った。
  • 「失望はしていませんでした。いや、むしろ川内を魅力ある村へと再生させるチャンスかもしれないとさえ思っていたんです」
  • それまでの村は、多くの人が隣町にある福島第一原発、第二原発に関係する仕事をしていて、原発依存度が高かった。そのため、村本来の魅力である豊かな自然を生かして新しい産業やビジネスを興そうという動きが起きなかった。
  • 一方で、大規模風力発電施設、ゴルフリゾート、産業廃棄物処理場などの誘致話には熱心で、その都度、村では賛成派・反対派に分断されていがみ合い、自然環境がじわじわと壊されてきた。
  • そうした空気から脱却して、今度こそ本当の自立した村を作り上げるチャンスではないかと、主に移住者たちと話し合った。
  • しかし、そんな意気込みはすぐに消えた。東電からの補償金・賠償金バブルのようなことが起きて、多くの村民が、「村に戻ったら金がもらえなくなる。それなら今のまま、金をもらい続けて郡山と村を行き来する二重生活を続けたほうが楽だ」と考えるようになってしまったからだ。
  • 補償金の後は、除染ビジネスバブルのようなことも起きた。そっとしておけばまだしも、わざわざ内部被曝の危険を冒すような除染はすべきではない。
  • このままではどうにもならないと判断して、あちこち移転先を捜した末に、日光へ引っ越した。

……といった内容。


この記事や、講談社から出した『裸のフクシマ』という本のおかげで、多くの人たちから非難され、攻撃されたのを思い出す。

現在、川内村は、双葉郡の中ではいち早く立て直しに成功した村として知られる。よくここまで持ち直したな、と思う。隣接する町村に比べて汚染度合が低かったこともあるが、村長の手腕によるところが大きい。
清濁合わせて飲み込んで、難しいバランスをとりながら、着地点を探る。それが政治家の腕であり、求められる資質、精神性なんだと思う。
今、国のトップにいる政治家たちは、あまりにも欲ボケ、権力ボケ、金ボケしすぎている。

記事の最後にはこうある。
原発マネーでシャブ漬けのままでは、いくら帰村宣言をしても川内村の復興はおぼつかない。「原発ぶら下がり症」を克服するには、まず、この原因を作った東電や保安院、原子力委員会、原子力安全委員会、原子力機構などの原発村を解体して人間をすべて入れ替えることが必要です。

これを読んで、今の東京五輪組織委員会の騒動にも同じような構図があると改めて感じた。
「五輪マネー」にトンチンカンな期待をする人たちが、税金を好き放題使って社会を壊していく。その結果、オリンピックは本来の意義、素晴らしさを失い、統制不能の巨大怪物になってしまった。
東京五輪2020は、中止にするにしても、無理矢理無観客開催を強行するにしても、運営する組織のトップは大変な非難に晒され、あらゆる種類の困難に直面する。それを受け止めた上で、なんとか後始末を進め、その後の社会にさらなる悪影響を及ぼさないよう必死に努力しなければならない。それができるような、賢く、タフで、豪腕なリーダーがいるだろうか?
原発爆発後の10年を振り返れば、今からいい方向に軌道修正していける可能性は限りなく低いだろうと、絶望的な気持ちにならざるを得ない。

原発が爆発して、世界中に放射性物質をばらまいた直後の日本で、五輪開催に手をあげ、「復興五輪」だのというお題目をぶち上げた人たち。その傲慢さと無恥を、天はこれ以上許してくれるのだろうか。

今回の地震は、3.11や原発爆発を経験しながら、そこから何も学ばないどころか、開き直って今まで以上の傲慢・強欲な社会を作ってしまったこの国への、天からの最後の警告なのではないかと感じた。
昨日の地震のおかげでこのプレイボーイ誌が出てきたのも、そういうことだったのかもしれない。

『阿武隈梁山泊外伝』

『裸のフクシマ』(講談社刊)の続編ともいうべき実録。阿武隈は3.11前から破壊が進んでいた。
夢や生き甲斐を求めて阿武隈の地へ棲みついた人たちがどのように原発爆発までを過ごし、その後、どのように生きることを決断していったか。
なかなか書けなかった赤裸々な実話、エピソードを時系列で綴った記録。
Amazonで購入で購入は⇒こちら

Kindle版もあります⇒こちら

3.11後を生きるきみたちへ

↑東京女学館はじめ、複数の私立学校で入試の国語長文読解に採用されました。これは私の「遺言」です。Amazonで購入で購入は⇒こちら



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自然災害と「国防」2019/10/20 15:38

箱根町が近づけないほどの大雨で危機に瀕しているときにこれ……
2019年10月、日本列島を襲った台風19号は、接近するずっと前から気象庁が異例の警戒を呼びかけていた。
「今まで経験したことのないような被害に見舞われる可能性がある。命を守る行動を!」というその警告にもかかわらず、民放テレビは土曜日定番のグルメ番組などを流し続けていた。
箱根町が観測史上最大の降雨量を記録し、大雨特別警報が出されている12日午後になっても、よりによってTBSなどは「箱根のお持ち帰りグルメ50品を全部食べきるのにどれだけかかるか」などとやっていた。

被災地以外の国民が被害の大きさ、深刻さを知るようになるのは台風が去ってしばらくしてからだった。テレビに悲惨な映像が次々に映し出される。
被害が出てから「大変です」「ひどいことになってます」と騒ぎ立てても遅い。
民放テレビ局の発想(というか本音)は「視聴者=災害現場ギャラリー」なのだろう。

問題は国を筆頭とした行政である。
颱風も地震も大雨も必ず襲ってくる。それを人間の手で防ぐことはできない。地球温暖化が原因だのなんだのと言ったところで解決しない。人間ができることは、「被害をいかに小さくするか」を考えることである。

警戒地区の中に放射性廃物ゴミを溜め込む


栃木県内でまっ先に「非常に危険」とされた荒川


今回の台風は風の被害より雨による河川氾濫が怖いことは事前に分かっていた。なので、NHKの防災アプリで河川の警戒レベル情報をずっとチェックしていたのだが、栃木県内でまっ先に赤く表示された(危険レベルに達した)のは塩谷町の中を流れる荒川だった↑。
塩谷町は環境省が「放射性物質を含む指定廃棄物の最終処分場の候補地」として指定して、今も地元の反対を押し切って計画を進めようとしている場所。しかもその候補地は水源地である。
その塩谷町の処分場候補地を見に行ったときの日記が⇒こちら(数ページある)
候補地は山の頂上に近い斜面で、進入路は狭く、このときは台風で壊れ、通行止めだった。
山に入っていく道も細くて折れ曲がっており、工事が始まるだけでも大型車が行き交い、大変危険なことになるだろう。

すでにこの時点で、塩谷町は赤く染められた危険区域のまっただ中↑


環境を破壊し、人々の命を危険にさらし、幸福を奪う環境省。進次郎よ、きみの仕事はそんなことではないだろう? この問題をセクシーに解決してくれるのか?

その後、またたくまにほとんどの河川が氾濫危険になってしまった↑

「再生可能エネルギー」で人が殺される


台風19号による河川氾濫被害は広範囲に及び、被害状況全貌は数日経っても摑みきれなかった。
栃木県では鹿沼市の粟野地区で、北から流れてくる思川(おもいがわ)と粟野川の合流地点を中心に、多くの家屋が水没した
この上流にあたる横根高原の斜面に、ミズナラを大規模伐採してメガソーラーを作るという馬鹿げた計画も、事業者はまだ引っ込めてはいない。
鹿沼市と日光市にまたがる100ヘクタールを超える大規模な計画だったが、鹿沼市が難色を示したために、範囲を変えて、今は日光市の部分を59ヘクタールに増やして建てると言っているらしい。

横根高原メガソーラー建設予定地(左上の青い○の場所)と、今回、浸水被害でひどいことになった鹿沼市粟野地区(右下の青い○の場所)との位置関係(⇒拡大
この高原を水源とした川は北側の足尾町にも流れ込んでいる。足尾は過去何度も洪水被害に見舞われている。
ただでさえこうなのに、上流側の木を伐ってメガソーラー? 正気とは思えない。保水作用は奪われ、表土は簡単に流れ、崩れて……もう、殺人行為ではないか。

さらには、那須御用邸のそばにも約37ヘクタールのメガソーラー建設計画があり、地元住民らが反対している
こういう問題が出るたびに、反対する側は揃って「自然エネルギーには賛成だが、場所を考えてほしい」的な主張をするが、「自然エネルギー」「再生可能エネルギー」と呼ばれている風力発電、太陽光発電の正体をしっかり勉強し直してほしい。「自然」だの「再生可能」だのといううたい文句で補助金、税金をかっさらい、建て逃げを図る企業によって、地下資源はむしろ枯渇を早める。もちろん、温暖化が防げるわけでもない。無駄が増えて、その分、一部の企業に金が集まるという構造は原発ビジネスと同じなのだ。
そういう基本的な認識ができず、資源物理学の基礎が分かっていない民主党政権時のトップが、自然エネルギー万歳の能天気な発想でFIT法を制定した罪は極めて重い。結果、現安倍政権と経産省の悪政を強力に後押しし、軌道修正をしにくくさせてしまった。

外国企業が狙う「建て逃げビジネス」

横根高原も那須御用邸脇も、事業者は外資系である。外国企業が日本の山を食い物にして儲けるという図式。
発電効率なんて考えていない。
関西電力と高浜町の原発マネー贈収賄事件が発覚したが、国から巨額の金が出る事業では必ずこうした図式ができあがる。
関西電力の傘下にあるシーテックの本社課長は、ウィンドパーク笠取(2000kw×40基)を建設する際、「風力発電は、発電では採算が合わないのではないか」と質問され、「その通りです。しかし、補助金をいただけますので、建設するのです」と堂々と答えている
儲かるか儲からないかが判断の基本にある企業と、税金の使い方に無神経かつ不正義な政治が結びつくと、必ずこうなる。
発電プラントを製造する企業、建設する企業は、施設を建てた段階で儲けが確定するので、その後の発電事業には極力関わろうとせず「建て逃げ」する。
昨今話題になっている水道事業の民営化問題も、最終的にはそうした図式になっていくことははっきりしている。
何が「再生可能エネルギー」だ。環境破壊、殺人事業以外のなにものでもないではないか。こういうのをこの国では「経済効果」というのか?

国民が危険な目に遭わないようにする、幸福な生活を破壊されないようにする、将来にわたって持続できる社会を維持できるようにするのが「国防」であり、国の使命のはずだ。
その際に最重視すべきは合理性と持続性である。
しかるに、環境省も経産省も、まったく逆のことをしている。


「東電強制起訴無罪判決」の歴史的意味2019/09/25 11:48

「東電強制起訴無罪判決」で、次の一節を思い浮かべた。
本来、国家とは国民の生命と財産を守るのが使命である。ところが国の指導者たちは生命と財産を次々とつぎ込んで、博打のような戦争を起こした。その結果、多くの無辜の命が失われた。しかし、そうした戦争の責任はいまに至っても曖昧なまま放置されている。
(保阪正康・著 『田中角栄と安倍晋三 昭和史で分かる「劣化ニッポン」の正体」序章より)

↑この「戦争」という部分を「原子力ムラ利権構造ビジネス」と置き換えてみれば、今回の構図と同じだと分かる。


首相が国会で「議会については、私は立法府の長であります」とのたまい、官庁は平気で公文書を破棄・偽造する。司法は常識を超えた判決を下す。
三権分立が機能しなくなった国家は、悲惨な崩壊寸前だと知ろう。
「東電強制起訴無罪判決」は、歴史的にはそういう意味を持っている。

もしも日本が先に原爆を完成させていたら2019/09/08 21:23

石川町でウラン鉱採掘に動員された石川中学(現・学法石川)の生徒たち(Wikiより)
福島県の石川町は、石工・小林和平が生まれ育ち、数々の名作を生み出した土地である。
その石川町が、日本における原爆開発研究ともつながりを持っていると知ったのは20年ほど前のことで、狛犬つながりからだった。

アメリカが原爆開発(マンハッタン計画)に本格着手したのは1942年10月だが、それに遅れること数か月、日本でも陸軍の要請により理化学研究所仁科芳雄博士をリーダーとする「ニ号研究」、海軍の要請で京都帝国大学の荒勝文策教授をリーダーとする「F号研究」と呼ばれる原爆開発研究がほぼ同時にスタートした。
その原料となるウラン235を入手する場所として選ばれたのが石川町で、1945年4月から終戦までの5か月間、旧制私立石川中学校(現在の学法石川)の生徒が勤労動員として採掘作業にあたった。炎天下、わら草履に素手で作業させるなど、ひどい状況だった。しかし、採掘できた鉱石はごくわずかで、ウラン含有率も少なく、使いものにならなかった。

軍部の思惑とは裏腹に、研究者たちは日本で原爆が製造できるとは思ってはいなかったらしい。しかし、仁科や荒勝らには、若い研究者たちが戦場に送りこまれるのを防ぐと同時に、軍からの潤沢な予算を得ることで、原子核の基礎研究を進めたいという思いがあったと、「日本の原爆 その開発と挫折の道程」の著者・保阪正康氏は分析している。
ニ号研究のほうは、昭和20(1945)年5月下旬に、仁科自身が陸軍に「ウラン鉱石すら入手できないようなこの状況ではもう無理である」と告げて、研究者たちも次々に疎開し、そのまま立ち消えてしまった。
海軍では海軍技術研究所科学研究部長の黒田麗(あきら)少将を部長に、(略)F号研究を受け持った。昭和20(1945)年7月21日、琵琶湖のホテルで話し合いの場が持たれている。(略)
黒田は「できれば原子爆弾を作ってほしい」との発言を行った。(略)
「理論的にはまったく可能だが、現状の日本の国力などから考えても無理だといってかまわないと思う」と、荒勝グループの研究者たちは声を揃えた。正式に中止の決定をしましょう、というのが荒勝らの一致した提案だったのである。
「日本の原爆 その開発と挫折の道程」 保阪正康・著 新潮社2012年刊 P170より)

そして、その2週間後には、広島に原爆が投下された。
アメリカのハリー・トルーマン大統領が、広島に投下されたのは原子爆弾であると発表したのは、ワシントン時間で8月6日午前11時(日本時間7日午前1時)であった。(略)長文のこの声明は、アメリカがこの原子爆弾の開発製造のために、いかに国力の総てをつぎ込んできたかを詳細に述べた。(略)
連合国各国がこの“偉業”を賞えていると、アメリカのラジオ放送は伝えた。(略)トルーマン大統領の声明が各国から賞えられるなかで、人類にとって原子爆弾の投下は汚点である、との意見はローマ法王庁ほか、わずかの機関からしか発表されなかった。(略)
当時の日本国民はラジオでアメリカの短波放送を聞いたりすればすぐに逮捕されてしまう時代だから、こういう連合国や国際社会の動きなどはまったく知るよしもなかった。
むしろ内閣情報局での会議、つまりこのニュースをいかに国民に伝えるかの会議では、陸海軍からの出向組は、「トルーマン声明は策略かもしれないではないか」とか、「原子爆弾だと伝えると、国民に衝撃を与え、戦争指導上問題がある」といった強硬意見が出された。
同「日本の原爆」より)


「もしも日本がアメリカより先に原爆を完成させていたら?」という「IF」は、ときどき語られる。
戦時下の昭和19(1944)年には、朝日新聞が「ウラニウム爆弾」について記事で紹介し、「新青年」という読み物雑誌には『桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ』と題した小説も掲載された。ウラン235を入手した日本では原子力の実用化に成功し、原子力飛行機で軽々と太平洋を横断し、敵国アメリカのサンフランシスコ上空8000メートルから原爆を投下する、という内容の小説だという。
こうした記事や小説がきっかけで、「マッチ箱1つの大きさで大都市が吹っ飛ぶ爆弾」が発明され、日本は戦争に勝つという噂が日本国中に広まった。
しかし、当時の状況からして、日本がアメリカより先に原爆を完成させていた可能性はない。
「ニ号研究」では、
容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった。(略)
しかし、同様の経緯である1999年9月の東海村JCO臨界事故により、殺傷力のある放射線が放出されることは明らかとなっている。 (Wikiより)

……つまり、完成させられないまでも、そのまま研究が進み、原材料が調達できていたら、実験段階で日本国内で悲惨な事故が起きていた可能性が高い。そして、当然、それは隠されただろう。
なにしろ、1944年(昭和19年)12月7日に起きた東南海地震(M7.9。死者・行方不明者1223名)も報道規制され、隠されたくらいだから。

「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」と並べてはいけない

こうした歴史に学ばず、2011年3月の原発爆発では、福島県は国に先がけて深刻な放射能漏れを知ったにもかかわらず、それを隠した

歴史は繰り返すというが、こんな歴史を繰り返していいはずがない。

保阪正康氏は著書『日本の原爆』の最後で、非常に重要な指摘・主張をいくつもしている。
原子力や核開発に対しての考え方の違いを超えて、多くの人たちが見落としがちな視点・視座だと思うので、いくつかをほぼそのままの内容で紹介しておきたい。

  • 原子爆弾の製造⇒戦争の終結⇒東西冷戦下の核開発⇒核の均衡による平和⇒核技術の「平和利用」 ……この構図の中には政治と軍事が科学者たちを下僕化したという現実と、政治が「平和利用」の名のもとに科学者を巧みに利用した現実が凝縮している。
  • 原子力の二つの顔(原子爆弾と原子力発電)は、単純に「悪魔と天使」とに二分できるものではない
  • ヒロシマ・ナガサキ・フクシマを並べて論じてはならない。ヒロシマ・ナガサキは基本的にはアメリカが爆弾を投下したという問題だが、フクシマは我々の国のシステムや技術、原発に対する考え方の歪みが起こしたものであり、「我々の国の責任問題」である。
  • 原爆製造計画では、軍事指導者が「聖戦完遂」の名のもとに軍事研究を要求し続けた。原子力発電は、軍事指導者に代わって、政治家や官僚が「平和利用」と「生活の向上」の名のもとに「電力というエネルギーの供給を」と訴え続けた。どちらの大義もその時代が要求する価値観でしかなく、歴史的普遍性に欠けている
  • 日本での原爆製造計画が未遂に終わったために、我々は人類史の上で加害者にはならなかった。しかし、原発事故では、我々のこの時代そのものが、次世代への加害者になる可能性を抱えてしまった。我々が放射線をあびたとしても、それはそうしたシステムを許容した我々自身の責任である。しかし、次世代の人たちに放射能障害の危険性を残していいわけはない。


原発爆発後の日本を見ていると、責任者が責任をとらないどころか、開き直って嘘の上塗りをし、それを国政が後押しする。システムの反省や改善どころか、さらなる欠陥や非合理、不正義を押し進める……。
  • 放射性廃物を永久処理する方法は未だに発見されていないし、地震の巣である日本では、放射性廃物を安全に保管できる施設は作れない。それがはっきり分かっている今も、後始末(廃炉と放射性廃物管理)ではなく、再稼働や、原発の輸出(!)などを押し進める。
  • 原発爆発でばらまいた放射性物質を含んだ土や瓦礫くずを健全な水源地にまで運んで埋めてしまおうなどという馬鹿げた計画を「環境省」がごり押しする。
  • 原発ビジネスとまったく同じ「国が税金を投入して業者を儲けさせる」システムで、「再生可能エネルギー」という新たな名のもとに、大規模環境破壊と国民への不要な経済負担を「国策」として進める。

原爆を投下された直後の日本よりも、今の日本のほうが、人々の理性・判断力・倫理観が劣化しているように思えてならない。


ホッケー⇒今市高校⇒バドミントン⇒大堀⇒桃田⇒富岡高校2018/09/17 11:31

2018年現在の立ち入り規制区域図

ホッケーはラクロスよりマイナー?

退職後、毎日、うちの前の畑でせっせと野菜作りをしているSさんの孫のゆいちゃんは、最近よくピンポ~ンとやってきて「み~ちゃんは?」とねだる。ゆいちゃんのお相手をするのが、み~の新しいお務めになっている。
み~ちゃんのお務め
昼寝をしていたのにゆいちゃんのお相手に起こされて若干機嫌が悪いみ~

そのゆいちゃんの両親はホッケーの選手だったそうで、Sさんはその関係からか、よく車で日本全国にホッケーの試合を応援しに行く。高速道路を使わず、車中泊しながらなので、一度出かけると数日戻って来ない。
栃木県は自転車のロードレースとアイスホッケーが盛んだということは、ここ日光に引っ越して来てから知ったのだが、フィールドホッケーも盛んだそうで、今年は地元の今市高校が全国大会で優勝したという。
先日のアジア大会でも日本は男女アベック優勝で、もっと話題になってもいいのに……とSさん。
リオデジャネイロまで4大会連続五輪出場を果たしている女子に対し、男子は1968年メキシコ五輪を最後に出場がなく、影が薄かった。昨年6月に復帰したオランダ出身のアイクマン監督の下、海外遠征を重ねて強化。東京五輪にはすでに開催国枠での出場の権利があるが、弾みがつく初のアジア王者となり、主将の山下は「前半に4点を入れられ、負けてしまうと思った。それでも、最後まで走りきることだけを一生懸命やった」と興奮気味に語った。
ホッケー男子が初の王者 3点差追いつく驚異の粘り 成長の証し 「ホッケーにとって大きな勝利」 産経新聞 2018/09/02

祝!ホッケー日本代表
3年次生の松本和将君がホッケーの日本代表としてサムライジャパンに選出されました。 高校生では唯一の代表入りとなります。
今市高校WEBサイトより)


フィールドホッケーという競技は世界的にはそこそこ競技人口も多いスポーツらしいし、日本でも、もっと競技人口が増えていけばいいのにねえ。
というわけで、フィールドホッケー部のある高校というのはどのくらいあるのか調べてみた。
首都圏のみのデータだが、どんな部があるかというリストが⇒ここにあった。
で、これはあるだろうなと思えるテニス部の有無を調べると、829校。8割を超えている。逆に、テニス部のない高校があることに驚く。
サッカー部は812校でテニス部のある学校とほぼ同じレベルだが、男子校と共学校だけなら95%なので、テニスより人気が高いといえそう。

じゃあ、少ない部はどんなものかな。
ゴルフなんて贅沢な大人のスポーツかなと思ったら、90校もある。
最近パワハラや暴力が問題になったアメフト、ボクシング、体操、重量挙げはどうかな?

アメフト部   54校
ボクシング部   28校
体操部   133校
重量挙げ部   15校

……体操部がかなり多いのは意外だった。学校外にクラブも多いだろうから、子どもの競技人口はかなりなものだろう。
あと、「重量挙げ部」ってあるんだねえ。高校に……。

その他、これは少ないだろ、と思えるのをチェックしていったのだが、かなり意外な結果になった。

釣り部   27校
自動車部   26校
射撃部   26校
ラクロス部   26校
水球部   20校
馬術部   16校

……馬がいなければ成立しなさそうな馬術部のある高校が関東だけで16校もある。北海道とかならまだ分かるけど……。
射撃部が26校というのも驚いた。高校生が銃を持てるのか?と疑問に思って少し調べてみたら、最初はビームライフルというのを使うらしい。その後、場合によっては「年少射撃資格者」という資格を取って、教員が所持しているエアライフルを借りて本格的にライフル射撃を練習することもあるのだとか。
自動車部というのもビックリ。工業高校なんかで自動車の修理を学んでいるとかかと思ったら、慶應義塾高校には本格的なモータースポーツの自動車部があった
他は、本田宗一郎杯Hondaエコマイレッジチャレンジという1リットルでどれだけの距離走れるか、というレースに参加するための部活動、というのも多いらしい。

ラクロス……どんな競技だっけ? セパタクローとかカバディとか、そういうレベルのマイナースポーツを一瞬思い浮かべたのだが、世界的にはかなり競技人口があるらしい。

で、こういうのより少ないのが、

ホッケー部   15校

え? 重量挙げ部と同じ? 馬術部や射撃部より少ないの? ラクロス部より全然少ないの?
これはビックリだ。

ということは、オリンピック代表になるのも競争率低い。サッカー部の1.8%。部員数にしたら1%を切っているんじゃないだろうか。つまり、単純に考えても、サッカーで日本代表になるより100倍可能性が高い。
それでも、アジア大会で男女ともに優勝するんだから、すごいじゃないか。
考えてみると、サッカーやラグビーに比べたら、身体のぶつかり合いは少ないだろうし、背が低くてもマイナス要因にはならない。日本人向きの競技なのだろう。もっと競技人口増やせばいいのに。

今市高校と富岡高校を結ぶバドミントン

ちなみに、今市高校のスポーツ系部活動部員数を見ると、バドミントン部もかなり多い。

今市高校のスポーツ系部活動部員数 (JS日本の学校 より)

かつてはインターハイ団体優勝などしていたそうで、そのときの選手の一人が女子バドミントンで活躍する大堀彩選手の父親・大堀均氏。
大堀氏は今市高校卒業後、日本体育大学~トナミ運輸と進んでバドミントン選手として活躍。全日本ジュニア単優勝、全日本総合複2位などの成績を残している。
三協アルミでバドミントンダブルス選手として活躍していた麻紀さんと結婚した。
2006年に福島県の富岡高校に赴任してバドミントン部監督就任。桃田賢斗や娘の優・彩姉妹をバドミントン選手として育てたが、2011年、福島第一原発の爆発で富岡高校は校舎を失い、生徒はバラバラに。
それでも翌2012年にはインターハイ女子団体優勝、世界ジュニア選手権では桃田賢斗を日本勢初の優勝に導いた。
ちなみに、大堀彩の姉・優もバドミントン選手で、夫の斎藤太一もバドミントン選手。斎藤太一選手も富岡中学~富岡高校で、大堀均氏の指導を受けている。
栃木県のバドミントン関係者の多くは、大堀ファミリーが「栃木県」と関係がないように報じられることに複雑な思いを抱いているらしい。

そんな話を知って、富岡高校や富岡町は今どうなっているのか、ちょっと調べてみた。
川内村にはスーパーもDIY店もないから、村民の多くは富岡が生活拠点だった。富岡に職場を持っている人たちも多かった。
僕らも富岡にはよく買い物に行ったので想い出はたくさんある。
Googleマップで見ると、富岡高校は⇒こんな感じになっている。
富岡高校だけでなく、原発爆発で立ち入りが規制された区域にあった双葉郡の各高校の生徒は、福島県内各地8校に分散させられ、(サテライト校、などと口当たりのいい言葉を使っているが)もともとの校舎には通えない「名前だけの高校」になった。
桃田選手や大堀彩選手の活躍で、メディアではサラッと「2013年 富岡高校卒業」「2015年 富岡高校卒業」などと書いているが、富岡高校は「物理的」には2011年3月以降は存在していないのだ。

2018年現在の規制範囲(Clickで拡大)


上の図を見れば分かるように、富岡町は避難指示解除されたエリアが多いが、普通の町に戻るのは、僕らが生きている間は無理だろう。
富岡高校は、今は「物理的」にだけでなく、「名義上」も、もうない。「休校」となっているが、事実上は消滅したといえる。2015年には広野町に福島県立ふたば未来学園高等学校が開校したので、今後も「富岡高校」として復活することはないだろう。廃校ではなく「休校」としているのは、富岡町民らの心情を配慮してのことと思う。
そもそも、原発爆発の前から双葉郡の高校は過疎問題に直面していた。富岡高校は普通科を廃し、Jビレッジなどとの連携を図って、スポーツに特化した学校をめざしていた。川内村には富岡高校川内分校があったが、それも原発爆発の前に廃校になっている。
今後はふたば未来学園高等学校の関連などで、いろんなところからの金がどこにどう流れて、育成費やら設備投資やらに使われ……みたいなことが内輪の話題として進行していくのだろうと想像する。

僕らは川内村から日光に移り住んで、いちばん近い高校が富岡高校から今市高校になった。この2つの高校を結ぶキーワードがバドミントンだったというのが面白い。
それにしても、スポーツの世界で上に行くのは大変なことなんだと改めて思う。裏には、メディアが取り上げないいろんなドラマが隠れている。
芸能界もそうだし、人生、社会的な成功や名声を得る裏のドラマに耐えられない「弱い」人たちのほうが幸せな人たちなのかもしれない。
……なんてことをふと思ったのだった。