タヌパックブックスの現状2023/06/03 20:43

出版事業者としてISBNコードを取得したのはいつだったろうと日記を検索したら、2019年のことだった
あれから4年。タヌパックブックスでISBNコードを振っている本は37冊になる。コードは100冊分取得しているので、あと63冊余裕があるわけだが、もちろん、生きているうちにあと63冊作ることは不可能だろう。

当初から黒字経営は諦めていた。オンデマンド本は1冊単位で発注し、印刷・製本するので、単価が高い。それに取次業者の手数料と送料、さらにはAmazonへの手数料が高い。1冊売上ごとの手数料の他、売れても売れなくても毎月定額の契約料を取られている。ストレスになるだけなので細かい計算はしないことにしているが、黒字になっていないことは間違いない。
サメだかマグロだかは泳ぎ続けていないと死んでしまうとか。それと同じで、爺は創作し続けていないと生きていく気力が失せてしまう。ただ食べて、寝て、楽しいことだけしていればいいという毎日はありえない。もっとも、食べて、寝て、楽しいことをする時間がある生活というだけで、今の日本では相当贅沢なことなので、「それだけじゃ嫌だ」なんて、大っぴらには言えないんだけどね。

タヌパックブックスの出版物37冊の中で断トツのヒットは『新・狛犬学』で、今も週に1冊は売れ続けている。

↑「新・狛犬学」を検索すると……
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これ以外はほとんど売れないのだが、最近ようやく狛犬関連以外の本もポチポチ注文が入るようになった。

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正直なところ、狛犬関連以外の本の注文があると嬉しい。本業に近い(ヽヽ)のはそっちなんだよ、という気持ちがあるから。

生の会話がない生活


今朝、起きたときにふと思った。
ここ何年かは、助手さんとネコ以外とは生の会話をしていないな、と。

お店のレジで「お願いします」「ありがとうございます」と声をかけるだけでは会話とは言えない。宅配便のお兄さんに「ありがとうございます」と言うのも同じ。
それ以外は、散歩の途中でたまに近所の人に会って立ち話をするくらい。
それも世間話みたいなのが多いし、ここ3年は特に「内容のある話」を意識的に避けるようにしているところがある。
先日、散歩の途中で会った近所の老人(80代)が「酸化グラフェン」という言葉を発したので、そこからナノパーティクルだのシェディングだのスパイクタンパクだのという単語が出てくる会話が始まったのだが、今思うと、生の会話の中で相手から「酸化グラフェン」という単語が出てきたのは後にも先にもそのときだけだ。
文字としては一時期毎日のように見ていた単語だし、日記などにも何度か書いているが、助手さんを除けば、生の会話の中で使った(実際に声に出した)ことは一度もなかったと思う。
話す相手がいないからだ。
これって、ものすごく異常なことだよね。

本来なら学校や職場での会話の中に何度でも出てくるべき単語だろう。
今の自分の生活にそうした集団の中にいる時間がまったくないので、世の中全般ではどうなっているのか分からないが、おそらく知識や情報を吸収すべき中高生の間でも、そうした会話はほぼないのではなかろうか。

集団の中にいる時間がゼロである爺の今の生活は、世間一般から見ればかなり特殊なものだろう。
でも、毎日職場に通っているような人でも、仕事の伝達事項や客とのやりとりといった「定型」の会話以外の会話(例えば「酸化グラフェン」とか「アゾフ」とか「WHO」などの単語が出てくる会話)を、家族や友人と生で交わしている時間はほとんどないのではなかろうか。

超過死亡と自殺の推移

この3年間を振り返ると、遺伝子製剤注射が始まるまでの2020年には超過死亡は前年より減っていたが、注射が始まってからはどんどん増えている。
超過死亡が減った2020年でも、自殺者は増えている。ストレスを溜め込んだまま吐き出せない人が増えたからだろう。

超過死亡は注射のタイミングと連動しているが、自殺者は緊急事態宣言なる準ロックダウン政策のタイミングで急増している。

爺は歳のせいもあるが、今はもう人と生で接したい、会話したいという気持ちがなくなっている。むしろ、接することによる面倒やリスクを避けたいと感じている。
しかし、若いときにこんな世界が訪れていたらどうなっていたかと思うと、心底ゾッとする。

こういう世の中になってしまって、その原因が分かってきていても、未だに「瞞されていた!」「間違っていた」と認める人はほとんどいない。

そこで思うのは、戦前戦中の日本はどんな社会だったのだろうということだ。
欧米を相手に戦争をするなど馬鹿げている、他にやるべきことがあると考える人はそこそこいたのではないか?
そうした人たちはどのように日々を過ごしていたのだろうか。
想像してみようとしても、材料がない。社会の空気や大衆の心理状態を正確に伝える資料がほとんどない。
嘘を並べて人々を煽りまくった新聞記事や、一部の反戦を訴えた人たちの書いたもの、弾圧の記録などはあるが、そうした社会で人々が実際にはどんな気持ちで毎日を過ごしていたのか、なかなか見えてこない。
でも、「見えてこない」というのは今も同じだ。友人、隣人がどんな気持ちで生活しているのか、見えてこないし、見えてしまうことへの恐怖心もある。

そんな世界に向けて創作物を発表するという行為に張り合いがもてないのは当然だ。それでも創作をやめることは自分の命を縮めることだから、最後は自分という観客、自分という読者に向けて何が創り出せるかを考える。

「子供の世界」が消されていく

何度も言うようだけれど、この見えにくい戦争における最大の被害者は若年層だ。
特に自分の意思や努力では身を守れない子供たちは悲劇だ。
子供の世界が大きく変わってしまったことに、大人たちは気づいているのか?
おそらく分かってはいても、自分ができることは何もないと諦め、直視しないようにしている大人が大多数なのだろう。
厚生労働省と警察庁は2023年3月14日、2022年中における自殺の状況(確定値)を公表した。小中高生の自殺者数は514人で、1980年に統計を開始してから初めて500人を超え、過去最多となった。



心の病という面では、これも異常だ。



知力・体力・免疫力の低下もひどい。身体(脳ももちろん含めて)をしっかり作っていかなければならない時期に、それを疎外するものを半ば強制的に与えられてしまった。
今日も、インフルエンザで学級閉鎖だの、運動会の予行練習中に熱中症で生徒32人が体調不良を訴え、23人が病院に搬送されたなどというニュースがあった。


じわじわ進んでいるなあ。このじわじわぶりが実に巧妙で、現在進行中の戦争に対しての無力感だけが残る。

3回接種後の医療従事者の死亡率がSARS-COV-2出現前のそれと比較して有意に増加したかどうか、統計学的に検討を試みた。方法として標準化死亡比(Standardized Mortality Rate SMR)とその信頼区間を求めた(詳細な標準化死亡比に関する記載はSupplementary materialに別記とした)。

標準化死亡比(SMR)は、3回目先行接種をした医療従事者の実死亡数(1年間当たり)4,860人/予想死亡数2,882人から1.69となった。すなわち、3回目先行接種後に死亡した医療従事者の人数はSARS-COV-2出現前の一般人口よりも1.69倍多いと考えられた。

この「1.69倍」が有意に高いと言えるのか、信頼区間(95%、99%)を求めた。結果、標準化死亡比の95%信頼区間は1.64-1.73、99%信頼区間は1.62-1.75で、99%の確率をもって3回目ワクチンを先行接種した医療従事者の死亡率はSARS-COV-2出現前の一般人口より高いと考えられた。
新型コロナワクチン3回接種後の医療従事者の年間死亡率は?  大里 忍 Agora


何かを伝える、残すという望みもほぼ絶たれて……

若い人たちには、爺の経験や技術の伝達をしたいという思いは強いのだが、こちらから接近しても老害だのなんだのと思われるのがオチだという気持ちがある。
もちろん求められればできる限りのことをしたいし、するつもりだが、求められることもない。価値観が違う世界の間では有益・有効な交流は生まれない。

お袋が死ぬ数か月前くらいに電話の向こうで言っていた言葉が何度も甦る。
「死ぬ前ってこういう感じなのね」

そのときはまともに相手にしなかったし、「こういう感じ」がどういう感じなのか想像できなかったけれど、今の自分はまさに「そういう感じ」なのだわ。
なんというか、違う世界に隔離されたような感じ。
この隔離された世界がどんどん狭まっていき、最後は自分しかいない世界になったときが死ぬときなのかもしれない。

多分、最後まで手を動かし続けるのは文章を書くことだろう。
今考えている本は2冊ある。
一つは『情報宗教』『情報宗教が世界を滅ぼす』といったタイトルのもので、現在の社会を分析し、人間の本性を見つめ直すようなもの。
これはだいぶ前にストップしたまま。

もう一つは、社会を分析しても虚しいだけだという思いから、自分の死への準備として『神は成長する』というタイトルのもの。
これは完全に自分に向けて書いている。

↑『情報宗教』 の一部
↓『神は成長する』 の一部



肉体は消滅し、現世での記憶も消えるが、その肉体(脳)とリンクしていた「神」が存在している。それは普遍・不変・絶対という神ではなく、肉体と共に変化(成長)しうる「何か」である

……と、そんな想像を文章化しようとしている。

自分の中の「神」を少しでも成長させ、あるいは変化させてから、量子の世界に戻っていきたい。

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映画『大河への道』から見えてきた様々な人物像2023/04/27 14:31

WOWOWで『大河への道』という映画を見た。
立川志の輔の落語が原作ということで興味を持って録画しておいたのだが、見終わった感想は「志の輔はすごいな、やっぱ」である。
大河ドラマへの皮肉もちょこちょこ混ぜながらも、最後は日頃世話になっているNHKへのフォローも忘れない。
文枝と志の輔はビジネスと芸道の両方を極めた天才だな。
周囲の人たちもしっかりサポートしてくれるような人間性も持ち合わせているんだろう。
羨ましい気もするけど、所詮自分には無理な人生だとも思う。

で、この映画の企画を立てたのが主演の中井貴一だと知って、中井への評価も上がってしまった。
中井は志の輔の落語を観て、ぜひ映画化したいと、まずは志の輔に直談判したそうだ。
志の輔は断る理由もないだろうけれど、そこから本当に映画にするまでの道のりは大変だったはずだ。

志の輔も中井も、NHKには相当好かれて重用されている。特に中井は大河ドラマに複数回起用されて、「武田信玄」では主役も務めた。
そんな二人が、あちこちにNHK大河ドラマへの皮肉ともとれる描写や台詞を散りばめた映画を生みだしたところが面白い。
例えば、県知事の意向で脚本を書かせたいと指名された老脚本家(橋爪功)は、かつての人気ドラマ『お手紙先生』の最終回を自分が考えていたような終わらせ方ではなく、お偉いさんに言われてハッピーエンドの予定調和の結末にしたことに嫌気がさして筆を折ったという設定。現在のエンタメ業界、特にテレビへの批判になっているが、露骨ではなく、老脚本家が極端な偏屈爺だという色づけをしてオブラートに包んでいる。

こういう細かい技があちこちに見られる……すごいことだよ、これ。

伊能忠敬の生涯

で、ついでに伊能忠敬のことをWikiなどで調べてみたところ、本1冊分くらいの内容がズラ~~~っと出てきてビックらこいた。で、(当然のことながら)知らないことがいっぱいあった。

伊能忠敬
  • 延享2年1月11日(1745年2月11日)に上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家に生まれる。2男1女の末っ子。父親は酒造家の次男で、小関家には婿入り。
  • 6歳のとき母が亡くなり、家は叔父が継ぐことになったため、婿養子だった父・貞恒は兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の下に残った。(why?)
  • 10歳のとき、三治郎は父の下に引き取られたが、神保家は父の兄が継いでいたため、居候のような存在だった父はやがて分家として独立。再婚もする。(父親は生家~婿入り~出戻り~分家~再婚と、二転三転の人生)
  • 三治郎は継母と反りが合わず、「佐忠太」と名乗り十代で家を出て流浪の身となる。
  • 17歳のとき、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)にある酒造家の伊能三郎右衛門家に婿入り。相手の妻・ミチは4歳上の21歳で、夫と死別したための再婚。14歳で結婚した前夫との間に3歳になる息子が一人。三治郎は一旦、この婚姻を斡旋した親戚である平山家の養子になり、平山家から伊能家に婿入りする形をとらされた。(17歳で4歳年上の子連れ女性の商家に婿入り。父親の人生に似て、めんどくさそう)
  • 結婚に際して、朱子学者の林鳳谷から「忠敬」の名をもらうが、気に入らなかったのか、当初は「源六」と名乗った。後に三郎右衛門と改め、「伊能三郎右衛門忠敬」とした。(いろいろ確執がありそう)
  • 伊能家に婿入りした翌年の1763年、長女誕生。同年、妻・ミチの連れ子は死亡。3年後の明和3(1766)年に長男・景敬誕生。
  • その後、名主~村方後見(名主の監視役)と、村の名士として諸問題を解決するなど活躍。天明の飢饉のときには関西方面から買い集めてあった米を貧しい者たちに放出するなどした。一方で家人や使用人には徹底した倹約を指示するドケチの一面も。
  • 天明3(1783年)暮れに妻・ミチが死去。その後間もなく、忠敬は2人目の妻(内縁)を迎え、2男、1女をもうけるが、内縁の妻は寛政2(1790年)に26歳で死去。最初の妻・ミチとの間に生まれた次女も、天明8年に19歳で死去。寛政2年、忠敬は仙台藩医である桑原隆朝の娘・ノブを新たな妻として迎え入れる。(天明の大飢饉の間に妻2人、子供1人を亡くし、一方で2番目の妻との間に3人の子を作り、その妻の死後すぐに3番目の妻を迎えている。絶倫?)
  • この頃から暦学に興味を持っていた忠敬は、寛政2年、地頭所に隠居を願い出たが認められず、寛政6年(1794年)、ようやく隠居が認められた。家は最初の妻・ミチとの間に生まれた長男・忠敬が継いだ。
  • 念願の隠居が認められ、江戸で暦学の勉強をするための準備に取り掛かった最中の寛政7(1795)年、妻・ノブが難産が原因で死去(通算何人目の子を作ろうとしていた?)
  • 寛政7年(1795年)、50歳で江戸へ行き、深川黒江町に家を構えた。暦学を学ぶため、19歳年下の高橋至時に無理矢理弟子入り。寝食を忘れるほど天体観測や測量の勉強に打ち込む。(いわゆる「第二の人生」)
  • その頃、伊能家の江戸支店を任せていた長女・イネの夫に離縁を言い渡すが、イネがそれに従わず夫についていったため、イネを勘当した。後に息子の一人・秀蔵も勘当。
  • 一方で、自分はエイ(栄)といいう女性(後に女流漢詩人の大崎栄であることが判明)を妻に迎える。2番目の内縁の妻(子供3人生ませた)を入れて、4番目の妻になる。忠敬はエイのことを大変な才女だと褒めちぎり、天体観測などの作業の手伝いもさせていたらしい。
  • 師匠の高橋至時が、当時の北方でのロシアとの緊張関係を背景に、幕府に蝦夷測量を願い出て、寛政12年にようやく許可された。忠敬はその作業に抜擢された忠敬共々、蝦夷地測量の名目で、かねてから興味を持っていた子午線の長さを推定するという計画を実行するチャンスが訪れる。それがきっかけで日本全国の海岸線を地図に描く作業が始まる。
  • 文化元年(1804年)正月5日、師匠の高橋至時が死去。幕府は至時の跡継ぎとして、息子の高橋景保を天文方に登用。(この人が「大河への道」の主人公)
  • 文化7年(1810年)、勘当した娘・イネが夫の死後剃髪し、親族一同に詫びを入れて実家に戻る。以後、伊能家を支え、測量遠征中の忠敬とも多数の手紙のやりとりをしている。
  • 測量遠征は文化13(1816)年の第10次まで行われたが、最後のほうは忠敬は高齢のため、実際の作業のほとんどは弟子たちが行っていた。近畿・中国地方への第5次測量遠征では、素行が悪かったとして隊員2名を破門、3名を謹慎処分にしている。(厳しい人なのだ)
  • 文政元年(1818年)、地図の完成目前で忠敬は74歳で死去。地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた。(映画ではここから話が始まる)
  • 文政4年(1821年)、『大日本沿海輿地全図』と名づけられた地図がようやく完成。7月10日、景保と、忠敬の孫・忠誨らが登城し、地図を広げて上程(映画はここが感動のエンディングとなっている)。9月4日、忠敬の死が発表される。

……とまあ、映画になる前の部分も相当面白い。
4人の妻と多数の子供。妻が死ぬとすぐに次の妻を迎えてバンバン子供を作る。絶倫というか、むしろ女性に対しては情が薄く、ある意味「淡泊」な印象も受ける。
身内にも他人にも厳しく、人情に流されない合理主義・能力主義の人。一方では19歳年下の師匠を生涯尊敬し、師匠の死後は毎日墓の方角を向いて拝礼していたという。なんとも不思議な人だ。

高橋景保と徳川家斉

映画では老脚本家(橋爪功)が、「……というわけで、俺が書くのは『高橋景保物語』だ」と言い張り、『伊能忠敬物語』を大河ドラマにすることはできなかった、というオチになっている。

では、この橋爪功演じる老脚本家が実際に『高橋景保物語』を書いたらどうなるのだろうか?
……と、今度は高橋景保を調べたら、さらに意外なことが分かった。

高橋景保
  • 天明5(1785)年、天文学者である高橋至時の長男として大坂に生まれる。渋川景佑は弟。
  • 文化元年(1804年)、死去した父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事。
  • 文化7年(1810年)、「新訂万国全図」を制作(銅版画制作は亜欧堂田善)。一方で伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助。忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させた。
  • 同年、ロシア使節ニコライ・レザノフが来日時に持参した満洲文による国書を1808年に翻訳するよう命じられ、1810年に「魯西亜国呈書満文訓訳強解」を作成。その後、満洲語の研究を進め、複数の著書を残す。
  • 文化8年(1811年)、蛮書和解御用の主管となり、「厚生新編」を訳出。
  • 文化11年(1814年)、書物奉行兼天文方筆頭に就任。
  • 文政11年(1828年)、シーボルト事件に関与して10月10日(11月16日)に伝馬町牢屋敷に投獄され、翌文政12年2月16日(1829年3月20日)に獄死。享年45。獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌文政13年3月26日(1830年4月18日)に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上斬首刑に処せられた。このため、公式記録では死因は斬罪という形になっている。

映画の感動的なエンディングシーンで、高橋景保の労をねぎらう将軍(草刈正雄)は第11代の徳川家斉。
しかし、景保を、獄死した後もわざわざ死体を塩漬けにしてまで斬首させた文化7(1810)年のときも、将軍は同じ徳川家斉である。

「大河への道」で、老脚本家は過去の自分のヒット作が予定調和の終わり方をしたことに後悔の念を表明している。
本当は「お手紙先生」が教え子への手紙を出すのを忘れ、そのせいで教え子が自殺してしまうというとんでもなく暗い終わりかたにしたかったのだそうだ。
ほんのちょっとした思いやりの欠如が取り返しのつかない悲劇を生むことがあるということを言いたかった、とのことだが、その台詞を思い出した。
地図の完成に感動し、景保をねぎらった将軍・家斉は、そのわずか6年後、景保に「思いやり」を持つことはなかったのだろうか。 シーボルトは景保に最新の世界地図を渡しており、景保はその返礼として、自分が監督して完成させた日本地図の写しを渡している。今なら学術界の麗しい友情物語である。しかし、ご禁制の地図を外国人に渡したことで極刑に処せられた。
ちなみにこの時期の家斉は、寛政の改革を進めた老中らを一掃して「大御所時代」を迎え、「宿老たちがいなくなったのをいいことに奢侈な生活を送るようになり、さらに異国船打払令を発するなどたび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。(Wikiより)」という。
「特定されるだけで16人の妻妾を持ち、53人の子女(男子26人・女子27人)を儲けたが、成年まで存命したのは約半分の28人(Wikiより)」だそうで、伊能忠敬も顔負けの絶倫ぶりだったようだ。

シーボルトとシュレーゲル

シーボルト事件は謎が多く、シーボルトがオランダのスパイだったという説もあるが、出島に植物園を作って約1400種の植物を栽培したり、長崎の町に鳴滝塾を作り西洋医学(蘭学)を教えたり、日本人の妻を迎えて娘も生まれているなど、親日家、純粋な研究者、教育者という人物像が強く浮かび上がる。
ちなみに、シーボルトはオランダ人だと思われているが、ドイツで生まれたドイツ人。祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師であり、シーボルト家は医学界の名門だった。


シーボルト事件は、シーボルトが高橋景保に最新の世界地図を送り、そのお返しとして最新の日本地図を受け取ったことが発覚したことで起きる。
その際、シーボルトは、捕まった日本の友人たちを救おうと自らが人質になることも提案した。その結果、何人かの仲間は死罪を免れたという。

シーボルトは文政12(1829)年に国外追放と再渡航禁止処分を受け、翌年、オランダに帰国する。
その際、日本で収集した文学的資料や様々な動物・植物の標本を持ち帰っている。
その中には、日本固有種のカエルであるシュレーゲルアオガエルの標本もあり、それが帰国後に友人となったシュレーゲルの手に渡って同定されたことから、今でも「シュレーゲルアオガエル」が和名になっている。
シュレーゲルはシーボルト同様、ドイツ人だが、オランダのライデン自然史博物館に就職し、脊椎動物部門の管理者となっていた。

タゴガエルに抱きつかれているシュレーゲルアオガエル。2010年3月、川内村の自宅(当時)敷地内で



ヘルマン・シュレーゲル
当時、シーボルトが持ち帰った標本は、ドイツ人の博物学者ハインリッヒ・ボイエ(Heinrich Boie (1794 - 1827)らも協力し、分類・同定が行なわれた。
特にボイエは、昆虫・鳥類・爬虫類の研究で有名で、アカハライモリ、アオダイショウ、ヤマカガシ、ニホンマムシなど、多くの日本人にとってなじみ深い両生・爬虫類を1820年代に新種として記載した。
その点で、シュレーゲルよりも日本で知られていいとも思うのだが、「ボイエ○○」という和名の生物がいないからか、ほとんどの日本人は知らない。

ハインリッヒ・ボイエ

シュレーゲルの名前が残る動物には、
ハナウミシダ(ウミシダの一種)Comanthina schlegelii (Carpenter, 1881)
サカタザメ(エイ目・サカタザメ科の海水魚)Rhinobatos schlegelii Müller & Henle, 1841
ヨウジウオ(トゲウオ目・ヨウジウオ科の海水魚)Syngnathus schlegeli Kaup, 1856
スミツキアカタチ(スズキ目・アカタチ科の海水魚)Cepola schlegelii (Bleeker, 1854)
クロダイ(スズキ目・タイ科の沿岸魚) Acanthopagrus schlegelii (Bleeker, 1854)
シュレーゲルアオガエル(アオガエル科のカエルの一種)Rhacophorus schlegelii (Günther, 1858)
ロイヤルペンギン(ペンギンの一種)Eudyptes schlegeli Fincsch, 1876(鳥綱コウノトリ目ペンギン科)
などがあるそうだ(Wikiによる)。

シーボルトがいなければ、シュレーゲルアオガエルはサトアオガエルのような和名になっていたのだろうか。
ボイエやシュレーゲルが同定した動植物は数多いのに、シュレーゲルアオガエルだけにシュレーゲルの名前が「和名」として残っているのも不思議ではある。どういう経緯だったのだろう。
今、朝ドラでは植物学者牧野富太郎をモデルにした「らんまん」が放送されているが、その路線で、シーボルトや高橋景保を主人公にした大河ドラマなどを作ってみたらいかがかな。
もう、人殺し武将たちの大袈裟な台詞回しの演目は飽き飽きだよ。


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そして私も石になった(22)宗教は複層的な世界観を持てるか?2022/02/14 20:02

宗教は「複層的世界観」を持てるか


「今あんたが言った『説明できない何かを感じる能力』とか、それを求める精神というのは、『祈り』という行為につながっているんじゃないのか?」
 俺はNにそう問いかけた。

<祈り……か……>
 Nはその後の言葉を言いよどんだ。珍しく、考え込んでいるようだった。
 しばらくして、Nは再び語り始めた。

<「祈り」という言葉は、人間の歴史の中では宗教というものと深く結びつけられてきた。今でもそれは変わらないだろう?
 では、少し話が本題から逸れるかもしれないけれど、ここで、宗教というものについて、改めて考えてみようか。

 いろいろな宗教があるが、概ね共通しているのは「神」という言葉に代表されるような「崇拝の対象」があるということだ。
 でも、宗教は「神」が作ったものではない。人間が作ったものだ。
 例えばキリスト教はイエスが作ったものではない。イエスはいろいろなことを語ったかもしれないが、それは「宗教」ではない。「キリスト教という宗教」はあくまでもイエスの死後に、イエスの回りにいた人間や、イエスの言動を伝聞で知った人間たちが作っていったものだ。
 複数の人間が、時代を経て「編集」「改定」を重ねていくから、宗教はどんどん変質し、分化する。
 歴史を学べば分かるように、主にヨーロッパにおいて、キリスト教は民衆を統治する道具としてどんどん作り替えられ、体系化されていった。布教する側は組織化され、多くの組織がそうであるように、中で階級や上下関係が生まれた。
 キリスト教が成立してから長い間、キリスト教社会ではひとつの共通した世界観が形成された。
 この世界は「神」が造った。あらゆる生き物も神の創造物である。神が最初から今の姿に造り上げていて、その中でも人間は神に選ばれた特別な存在である。
 ……そんな世界観だね。今ではこのタイプの世界観は「創造論的世界観」と説明されている。

 しかし、科学が発展してくると、その考え方に異を唱える者が出てくる。
 ダーウィンの「進化論」は、その例としてよく使われるね。
 ダーウィンは、生物は時代の経過や環境の変化に合わせて「変化する」と考えた。
 ここで間違えてはいけないのは「進化する」とは言っていないということだ。進化という言葉には、よりよきものになる、上等なものになる、というニュアンスが含まれるけれど、そういうことではない。
 生物は環境に合わせて変化する。うまく変化できなかったものは環境の変化についていけずに種が絶えてしまうこともある、という説を主張しただけだ。
 しかしこれは当時のキリスト教の組織にとっては認めがたい世界観だった。あらゆる生物は絶対的な存在である「神」が創造したものであって、最初から今の姿であることが決まっていた、という教えだったから。
 魚は人間の食物となるために最初から魚の姿で造られている。ニワトリも同様に、人間がニワトリの肉や卵を食べられるように、あの姿で造られている。環境に合わせて変化するなどということはない、と。
 絶対的な創造主がいて、人間はその絶対的な創造主の意志に従って生きていくのだ、というシンプルな世界観や教理を浸透させれば、民衆をまとめやすい、管理しやすい。
 ところが、19世紀に産業革命が起きると、機械文明の発展でめまぐるしい社会変革が起きた。当然、人々の世界観も変わっていく。
 ダーウィンが『種の起源』を出版したのは19世紀後半のことだ。彼の「生物は環境に合わせて変化する」という説は、いつの間にか「進化」という言葉に置き換えられ、人間も進化する、世界を変えていけるのだという考え方が、それまでよりもずっと受け入れられやすくなっていき、従来のキリスト教的な管理体系が通用しづらくなっていった。

 人間が作った宗教にはいろいろな働きがある。
 大きく3つあげるとすれば、まずは今言ったように、民衆を管理し、動かすための道具としての働きだ。
 今のように情報伝達技術が発達していなかった昔は、大人数の人間をまとめ上げ、動かすための道具は同調圧力と宗教が中心だった。
 人間は不完全な生き物だから、悩んでも仕方がない。絶対的な存在の教えに従うことが絶対的な法則だと思い込ませることで、大人数を動かすことができた。

 2つ目は薬物のような役割だ。
 これは麻酔薬的な役割と覚醒剤的な役割に分かれる。
 死という避けられない運命を持って生まれた人間が、死を恐れないようにするためのモルヒネ。
 信仰という絶対的価値のためには、不合理、不条理と思えるようなことに目をつぶってでも突き進め!……そういう爆発的な、ときに暴力的な力を発揮させるための覚醒剤。
 どちらも戦争や虐殺に利用できることに注意しなければいけない。

 3つ目は組織力としての効果・効率。
 一人ではできないことが、教会や教団という組織の力を使えばできるようになる。
 例えば戦争孤児たちを見てなんとかしたいと思っても、一人の人間ができることは限られている。しかし、教会や教団といった組織の一員として動けば、孤児院をいくつも作ったり、その活動を国に援助させたり、広く寄付金を集めたりといった大がかりなこともできる。
 組織に所属する宗教者の中には、その宗教の教理のすべてを必ずしも受け入れていなくても、バランスのとれた組織人として振る舞うことで組織の内外から人望を集め、自分の信念や理想に近い活動を実現している者たちもいる。組織と頭は使いようなんだね>

「うん、そのへんまでは異論はないよ。宗教は使い方を間違えるとろくなことにならない、ってことだな」

<ろくなことかどうかは価値基準の起き方次第だろうけれど、とにかく「絶対的なもの」ではない。人間が発明し、作りあげたものであり、人間社会の中で使われる「手段」のひとつだ。多くの人間が抱いている「神」のイメージとは本来関係がない。「神」が存在するとしても、いわゆる「宗教」の中にはいない。
 おっと、なんでこんな話になったかというと、きみが「祈り」という言葉を出してきたからだったね。
 祈りというものが既存の宗教の中で使われる祈りのことなら、その祈りは神とつながってはいない。宗教が「手段」である以上、祈りは手段の中の手段だ。
 祈りという「手段」そのものにいい悪いはない。どう使うかが問題になる。しかし、多くの宗教者や信者が、そのことを認識していない>

「ちょっと待ってくれ。今あんたは『神』という言葉を再び使い始めた。Gではなく『神』だ。
 あんたらも神というような超越的な存在を信じて……いや、感じているってことか?」

<おお、鋭いね。
 その通りだよ。我々は神ではないし、世界のすべてを把握しているわけではない。ただ、世界は、物質世界という単相の世界だけではなく、それを包み込むような多重の世界、複層的世界だろうということを感じている。
 「神」が存在するとすれば、その複層的な世界全体を見通している、あるいは構成している(ヽヽヽヽヽヽ)何かなのではないかと感じている。
 だから、我々にとっての「神」は、きみたち人間が作った宗教の中にはない。
 でも、宗教というもののすべてを否定もできない。なぜなら、宗教は手段であっても、宗教的な要素の中には、複層的な世界観に通じるものもあると思うからだ。
 例えばブッダが瞑想していた世界は、それに近いものだったのかもしれない。
 ニーチェが「神は死んだ」と言ったときに見つめようとしていたものこそ「神」だったのかもしれない。であれば、「神は死んだ」という言葉こそ彼にとっての「祈り」だったのかもしれない。
 そういう意味での「祈り」ならば、「神」に通じるのかもしれない。
 そう考えたとき、一言で「祈りは手段にすぎない」とは言えなかったんだよ。

 宗教を「手段」にすぎないと断言することは、まさしくGの思考だ。
 我々はGとは違う世界観を持っている。そして、人間にも同じような親近感を抱いている。
 だから、人間が作りだした宗教というものの中にも、そうした要素が入っていてほしいと願っている。それもまた、我々にとっての「祈り」なのかもしれないね>


           


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そして私も石になった(20)AIが地球の未来を決める?2022/02/14 19:58

AIが地球の未来を決める?


<ところで、地球型生物が本来持っている本能的な感覚と対極にあるものはなんだと思う?>
 Nはそう振ってきた。

「本能と対極にあるもの? データや方式に基づいた計算……かな」
 俺はほとんど即答した。

<その通りだ。理詰めの計算。間違えることのない計算。それを可能にするものがコンピュータだね。
 Gはもちろんコンピュータを使っているわけだけど、機械はいつかは劣化して使えなくなる。しかし、Gは新たに高性能なコンピュータを製造するための設備や資源を持っていなかった。
 アダム型生物や人間を使って地球の地下資源を取り出し、機械文明を発達させ、高性能なコンピュータを作り出すまでのレベルにまで育てることは、Gにとって絶対に必要なことだったんだが、当然それには時間がかかる。
 それがここにきて急速に実現に近づいた。
 人間が最初に手にしたコンピュータはただの計算機だった。性能をどんどん上げていったとしても、計算させるのはコンピュータを使う人間だし、計算の目的を定めるのも人間だ。
 人間の脳はまだまだ幼い。コンピュータの性能が上がっても、間違った使い方をすれば、間違った答えが出る。
 だから、計算の目的を、人間ではなくコンピュータ自身に設定させる必要があった。そうすれば、Gの計画が早く、確実に達成できるからね。
 コンピュータ自身が学習し、そこから思考し、人間が思いつかないような目的や方法を提示する。いわゆる人工知能、AIというやつだね。これができるのをGは心待ちにしていた。
 人間はAIの概念をすでに50年くらい前から持っていた。しかし、当初はコンピュータ自身に学習をさせるとか提案をさせるという作業に、命令を入力する人間が介在していたから、まだまだ人工知能というまではいかなかった。
 湾岸戦争では戦闘計画に原初的なAIが使われ、戦費のコストパフォーマンスが大幅に上がったけれど、それはまだ人間が「いかに効率的な戦争を行うか」という命題をAIに与え、答えを出させているという点で「高性能なコンピュータ」の粋を出ていない。
 チェスや将棋の名人をAIが負かすなんていう段階も、まだまだだ。
 AIが本当の意味での「知能」になっていくには、コンピュータがコンピュータに指令を出すような仕組みができなければならない。これがなかなか大変なんだが、ここ10年で急速な進化を遂げた。
 その結果、コンピュータが出す答えが人間が当初想定していたものを超えてきて、人間がコンピュータに教えられるという場面がどんどん出てきた。
 例えば、Aという目的を達成するための最も効率のよい手段Bは何か、とAIに問うたら、「何もしないこと」という答えが出てきたりする。
 さらには「そもそもなぜAという目的を設定するのか? その発想がそもそも効率的ではない」などと指摘されたりするようになる>

「具体的にはどんな?」

<例えば、「この面倒な汚れ作業をするロボットを開発したいが、どんなロボットが作れるか?」とAIに訊くと、「その作業なら、ロボットにやらせるよりも、ロボット化した人間にやらせたほうが効率的だ」なんて答えを出してくる。
 「多くの人が感動する素晴らしい娯楽作品を作るにはどうすればいいか?」と訊くと、「娯楽作品の素晴らしさ、質の高さは定義できるものではないし、そういうものを作ったとしても多くの人が感動するわけではない。それよりも、ある種の傾向の娯楽作品を喜ぶ人間が増えるような環境を作って、人間の趣味趣向を管理したほうが効率的だ」といった答えを出してくる>

「効率的……か。それもGにとっての効率なんだろうな」

<まあ、そうかな。
 とにかく、これからもAIの性能は加速度的に上がる。当然、人口削減計画もAIが設計し、人間に実行させるようになる。
 そうなると、ますます人間が計画の全貌を見抜くことは難しくなる。なにしろAIは、人間の行動特性をすべて学習しているからね。
 インターネットの発達によって世界中の人々が自由に体験や研究成果をネット上に公開できる時代になると、人間がいちいち入力しなくても、コンピュータはネット上の情報をすべて自分で収集、分析できるようになる。
 歴史上実際に起きた出来事、それを引き起こした原因、その出来事を仕掛けた人物とその性格、そのとき民衆はどう動いたか、そこから導き出される「集団が陥りやすい心理的傾向」といったものも、すべて「データ」として保存し、人間社会を効率的に操作して大きく変化させるにはどうすればいいのかという計算ができる。
 当然、その計算に使われるデータの全貌を人間の脳では把握しきれないし、分析もできない。
 AIには、可哀想だとか、残酷だとか、楽しい、悲しい、虚しいといった感情はないから、計算も答えもすべて「効率」や「確率」の高さが優先される。
 戦争という方法を検討するときも、戦争は残酷だからやめよう、ではなく、効率が悪いからやめよう、となる。
 そういう社会がすぐそこまで来ている>

「人間社会の未来はAIが決めるというのか?」

<そうだね。もうそうなってきているし、この流れは止められない。
 AIを相手に、人間が能力的に勝てるはずはない。どんなに高い知性や強い信念、行動力を持った人物が現れても、AIを出し抜くことはできない。
 AIを相手にするということは、人間社会全体の動きや「時代の空気感」を相手にするということだ。その社会の中に組み込まれて生きている人間が、社会全体に勝つことはできないだろう?>


           


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そして私も石になった(19)「複層的世界観」を呼び覚ませ2022/02/14 19:56

「複層的世界観」を呼び覚ませ


 量子論のことを思い出したことで少し冷静さを取り戻した俺は、Nにこうリクエストした。
「複層的な世界観とか、単相の物質世界とか……あんたの言いたいことはなんとなくは分かる。いや、分かる気がするが、もう少し分かりやすく説明してくれないか」

 俺が拒絶の壁を取り外したと感じたのか、Nも心持ちゆったりした調子で話を続けた。

今の人間社会は唯物論的世界観に支配されている
 きみたち人間は、この世界は物質のみで構成されていると考え、科学の価値を最上位に持ってきた。思索や感情さえも、心理学やら精神医学といった「科学」で説明しようとする。……違うかな?>

「確かにそういう傾向は強くなってきただろうな」

<物質のみで構成される「物質世界」、科学ですべてが説明できる「物理世界」──そういう世界がすべてなら、自分という存在が肉体の消滅と同時にこの世界から消えることは仕方がない。それ以上でも以下でもない。
 自分の存在だけではない。誰にとってもそうなのだから、個人の集合体である「人間社会」が消えることも仕方がない。社会も所詮は「物質」なのだから。
 実際、短い人類史においても、絶滅に追い込まれた民族や国家はたくさんあった。
 南北アメリカ大陸やオーストラリアの先住民社会は、ヨーロッパからやってきた白人たちによって完全に破壊された。日本でも北東北から北海道にかけて暮らしていた先住民は大量殺戮され、社会が消滅した。人種としてわずかに生き残った者はいるが、それまでに形成されていた社会は消えて……いや、消されてしまった。
 社会も形と質量のある「物」にすぎないとすれば、物理社会の必然として、いつかは消滅する。
 それ以前に、本来その社会が持っていたであろう寿命よりもずっと短く、人間の意志によって簡単に消されることもある。
 世界人口の削減というのは、それと同じことが、複数の民族、複数の国家を含めた「人間社会」という世界規模で起きるということであって、なんら不自然なことではない。
 唯物論的世界観では、そういう結論に行き着くはずだ。
 ましてや、人間一人一人の寿命はたかだか数十年だ。きみたちができることは、その数十年の中に限られている>

「ひとりの人間が生きている間に成し遂げたことが、その人の死後も、後に続く世代の社会形成に影響を与えたり、価値のあるものを残したりすることはあると思うけどね」

<自分が死んだ後の世代に何かを残したい、なんて考えても、それは自己欺瞞というものだ。
 テレビを発明した人間のおかげで、その後の人間社会ではテレビが使えるようになった。でも、テレビを発明した人間はその社会を知ることはできない。テレビをあたりまえのように楽しんでいる人間たちにとっても、テレビを発明した人間の人生なんて関係がない。
 唯物論的世界観では、そうなるんじゃないのか?>

「それはちょっと論理の飛躍があるような気もするけれど……」

<じゃあ、もっとズバリと言おうか。
 唯物論的世界観や物質主義というのは、Gの世界観であり、思考特性なんだ。
 人間はGが遺伝子操作をしてつくりだした生物種だが、もともとは地球型生物だ。今でも地球型生物としての感覚というか本能を完全には失ってはいない。
 地球型生物の本能には、唯物論からはみ出した感覚が含まれている。犬も熊も鯨も、草木でさえもね>

「え? 急にスピリチュアリズムみたいなことを言い出すんだな。原始宗教か?」

<宗教というものについては、今はまだ触れないでおこう。視点が混乱するからね。
 ここではもっと生物学的な……いや、「感覚的な」話として聞いてほしい。
 第六感とか虫の知らせとか、そんな類の話かな、くらいにとらえてもらってもいい。
 Gにはそうした感性はない。しかし人間にはそういう感性がもともと備わっている。
 Gが人間をつくった際、人間にある種の芸術的感性が芽生えたことは計算外だったという話はすでにしたよね。
 Gにとって「物を正確に描写したり、設計図通りに造形する技術」は科学技術を発展させる上で極めて重要な能力だけれど、アブストラクトアートみたいなものを楽しむ能力は必要なかった。だから、もともとは持っていたのかもしれないけれど、次第に失っていったんだろう、というような話。
 ついでにいえば、Gには「笑う」という行為もほとんどない。理にかなっていないことを見て苦笑する、馬鹿にするといった感情はあるが、意味もなく大笑いしたりすることはない。
 いわゆる「箸が転んでも笑う」なんてことは理解できない。人間はそれを自然なこととして受け入れるが、Gは理由を探ろうとする。成長期の子供がホルモンバランスが崩れて感情表現の神経が狂う一種の病理現象、とか、そんな風にね。
 私がここで言いたいのは、今こそきみたち人間には、この「本来の地球型生物としての本能」を呼び覚ましてほしい、ということなんだ。
 そうすれば、唯物論を超えた「複層的な世界観」も次第にはぐくめるようになるかもしれないから>


           


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