「小原田圭吾『いじめ』問題」から私が学んだこと2021/07/27 11:11

「印象操作」が世界を作る怖さ

小林賢太郎の五輪開会式演出の話を書き終わろうとしていたとき、「こんな記事が出て来ました。」というメッセージが届いた。
リンクURLをクリックすると、百万年書房の北尾修一氏が書いた「いじめ紀行を再読して考えたこと 01-イントロダクション」という記事が出てきた。

「いじめ紀行 小山田圭吾の回」(雑誌『Quick Japan』vol.3:太田出版発行)について、私から一言。
という書き出しで始まるこの記事は、「2021年07月31日 夕方公開終了」とあるので、あと数日でネット上からは削除するつもりらしい。
なので、「後で読もう」ではなく、今すぐ読むなり、ページまるごと保存するなりして、ぜひ最後まで読んでほしい。
極めて重要なことが書いてあるからだ。

その2その3と、全部で3回にわたっているが、まるで謎解き小説を読むようなどんでん返し──それもかなり複雑で微妙で眠れなくなるほど考えさせられる内容になっている。

さらには、問題の発端となった雑誌『Quick Japan』vol.3の「村上清の"いじめ紀行" ゲスト 小山田圭吾の回」全文が、7月22日に公開されている。
当時の原稿そのものが削除も改変もなく公開されていて、解説は一切ない。
これもかなりの長さがあり、ブログページを使っての公開ということもあり、1から17まで分けて掲載している

私は今回の「五輪開会式音楽担当者がいじめ問題で辞任」という事件が派手に報道されるまで、小山田圭吾という人をまったく知らなかった。名前も聞いたことがなければ顔も知らない。もちろん、どんな音楽をやっているのかも知らない。
コーネリアスという芸名を使っていたらしいが、私にとってコーネリアスは、映画『猿の惑星』に出てくるチンパンジーしか思い浮かばない。
そのせいもあって、様々な記事の断片を読んでも、あまり興味が湧かなかった。
他人、特に弱者を苦しめて喜ぶ性癖を持つ人間はいる。この人も、その手のサイコパスなのだろうと思って無視していた。
しかし、違和感のようなものは感じていた。そんな記事が本当に世に出ていたのだろうか、この人はそれを本当に「自慢げに」話していたのだろうか……と。

で、教えてもらったリンクをクリックして、私はこの2つを、どちらも2回以上読んでみた。
そして、マスメディアをはじめとする多くの「小山田圭吾評」に対して、まったく違う印象を持つに到った。

なので、まずは、ぜひ面倒くさがらずに、この2つの「資料」に最後まで目を通してほしいと思う。特に、影響力の強いマスメディアの関係者や、この問題をすでに論じた人たちに。

この問題はかなり複雑で、簡単にこうだ、と断定的なことはいえない。まずは「一次資料」にあたって、自分の生い立ちや今に照らし合わせて、感じたこと、考えたことをゆっくり反芻する時間が必要だと思うのだ。
(ここまでは、7月24日に執筆)

元記事や関係者の証言から真相を探る

2日近く経過して、私自身、いろいろ考えたり、過去のことをチェックしたりしたので、忘れないうちに書き留めておきたい。(なにしろ惚けが急速に進んでいて、数日前のことさえ忘れている。恐怖だ)
まずは、小山田圭吾氏がツイッター上にのせた「謝罪文」全文を読んでみる。
ここに全文引用することはしないが、ネット上で検索すれば簡単に読めるはずだ。

特に注目したいのは、
 記事の内容につきましては、発売前の原稿確認ができなかったこともあり、事実と異なる内容も多く記載されておりますが、学生当時、私の発言や行為によってクラスメイトを傷付けたことは間違いなく、その自覚もあったため、自己責任であると感じ、誤った内容や誇張への指摘をせず、当時はそのまま静観するという判断に至っておりました。
という部分だ。
  • 発売前の原稿確認ができなかった
  • 事実と異なる内容も多く記載されている
この2点は、謝罪文の中で彼が唯一「言い訳」的なことを述べている部分だが、どちらも本当だろう。
すでに多くの人たちが指摘していることだが、
  • 小山田はリップサービス的に「いじめ」の内容を「盛って」話したのではないか
  • そうすることで自分の記憶の中に巣くう居心地悪さを緩和しようとしたのではないか
  • 編集者・ライターは、それに乗じて、さらに過激な記事に仕立てたのではないか
……ということが想像できる。
もちろん、想像でしかないが、その可能性は高いだろう。特に「ロッキング・オン・ジャパン」のインタビュー記事はそうだと思う。
インタビューの当該箇所は、ページの見出しが「全裸でグルグル巻にしてウンコ食わせてバックドロップして……ごめんなさい」となっているが、この見出しの付け方からして編集部の作為を感じないわけにはいかない↓。
小山田氏が謝罪文の中で書いている「事実と異なる内容も多く記載されて」というのがまさにこのあたりだろう。
だからこそ、当時の記事執筆編集者・編集長である山崎洋一郎氏は、今回の事件(事象?)を引き起こしたことに責任を感じ、謝罪している
その時のインタビュアーは私であり編集長も担当しておりました。そこでのインタビュアーとしての姿勢、それを掲載した編集長としての判断、その全ては、いじめという問題に対しての倫理観や真摯さに欠ける間違った行為であると思います。

……とあるが、この「そこでのインタビュアーとしての姿勢」という言葉に注目したい。
人気のあるミュージシャンから刺激的な言葉を引き出せば記事が注目され、売れるだろうという計算があったはずだ。インタビューの中でも刺激的な言質を引き出そうとする質問者の姿勢が見える。

また、すでに何人かが指摘しているように、「ウンコ食わせて」は完全に「盛った」話であり、事実とは異なる可能性が高い。
全裸にしてオナニーさせて云々は、クイックジャパンの記事を読めば、小山田氏本人ではなく、修学旅行のときに「限度知らないタイプ」の先輩がやったことで、居合わせた小山田少年は「おお、怖え~」と思いながら見ていたということが分かる。

以下、引用部分はすべてクイックジャパンの当該記事からのものだ。
この記事の文章はあまりにも不完全で真意が読み取れない部分が多い。テープに録音された会話を加工せずにそのまま文字起こししているからだろう。つまり、取材(というか、実際には、ライターが小山田氏に企画を説明にいったときに交わした雑談)時の会話そのものだと思われる。
なんかそこまで行っちゃうと僕とか引いちゃうっていうか。
だけど、そこでもまだ行けちゃってるような奴なんかもいたりして。
そうすると、僕なんか奇妙な立場になっちゃうというか。
おもしろがれる線までっていうのは、おもしろがれるんだけど。
『ここはヤバイよな』っていうラインとかっていうのが、人それぞれだと思うんだけど、その人の場合だとかなりハードコアまで行ってて
『オマエ、誰が好きなんだ』とか言って。『別に…』なんか言ってると、パーン! とかひっぱたいたりとかして。
『おお、怖え~』とか思ったりして(笑)。
(『Quick Japan』95年3号 「村上清のいじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」の原文より)

ロッキングオンのインタビューのときでも、おそらくこんなノリで話していたのだろう。
小山田氏本人も「あの頃はほんとヤバかったなあ」という思いがあって、大人になってから、敢えて口にしているのだと思う。
それをロッキングオン編集部が主語(実行者)を曖昧にしたまま、あのような形で記事にしたために、小山田少年本人が首謀者のように伝わってしまったのだと思われる。
この罪は大きい。

不思議な点がいろいろ

……と、ここまで読んで、「おまえは今まで名前も知らなかった人間をなぜそこまで庇うのか」といきりたつ人もいるかもしれない。
別に小山田氏本人を庇っているのではない。純粋に「変だな」「不思議だな」「実際はどうなんだろう」という疑問が次から次へとわいてきて、真相に近づこうとしていくうちに、さらに新たな疑問やら問題にぶちあたってしまうのだ。

まず思ったのは、小山田氏の記憶はどこまで正確なのかということだ。
クイックジャパンの記事を読むと、小山田少年といちばん関わりがあった「沢田(仮名)」くんは、小学校2年生のときに転向してきて、高校卒業まで一緒だったという。
「肉体的にいじめてたっていうのは、小学生ぐらいで、もう中高ぐらいになると、いじめはしないんだけど……どっちかって言うと仲良かったっていう感じで、いじめっていうよりも、僕は沢田のファンになっちゃってたから。」
……つまり、小山田少年が沢田少年を「肉体的にいじめていた」のは小学生のときだったということになる。
数日前のことさえ忘れてしまう今の私は、小学生のときの記憶はわずかだし、そのわずかな記憶のエピソードも、大人になってから語ったとき、どこまで正確かは自信がない。
小山田氏の記憶も、細部ではかなり実際とはズレていたかもしれない。
自責の念から、実際よりも偽悪的に変化していたという可能性もあるだろう。

次に疑問に思ったのは、当時、なぜこの記事が社会問題として取り上げられなかったのか、ということだ。
問題とされているロッキングオンは1994年1月号、クイックジャパンは1995年3号。この間、1年以上も時間があいている。
ライター志望の村上清氏は、ロッキングオンの記事を読んで「いじめ紀行」という「いじめた側といじめられた側の対談集」という連載企画を立て、その第1回目に小山田氏を登場させようとしたわけだが、ロッキングオンのあのひどい記事が1年以上社会的に問題となっていなかったからこそ、芸能スキャンダルにすらならず、そんな能天気な企画を持ち込もうというライターも現れたわけだ。
1994年の日本では、ロッキングオンの「全裸でグルグル巻にしてウンコ食わせてバックドロップして……ごめんなさい」というとんでもないインタビュー記事を許容していたということに他ならない。
そこまで時代の空気がおかしなものだったのか、と、改めて驚いてしまう。
もしかすると、あの頃のロッキングオンやクイックジャパンの読者は、いちいち説明をしなくても小山田氏の発言の裏にある「うまくいえないもの」を読み取っていたのだろうか?

いや、よく考えてみると、27年前の雑誌記事の中身やコントの中の1台詞を取り上げて、全国民が見ている前で公開処刑をする今の社会のほうがはるかにおかしく、怖ろしい空気に満たされているのではないか。怒りや攻撃の矛先がおかしい
小山田問題にしても小林賢太郎にしても、こんな騒ぎになったのは東京五輪が強行されるという流れの中でのことで、東京五輪強行問題への抗議がいびつな形で暴走したともいえる。
原発爆発後、「福島のような危険な場所に子供を残しておく親は頭がおかしい」などと騒ぎ立てた人たちの暴走に似たものを感じてしまう。

「沢田」少年と小山田少年の関係性

そもそも、小山田少年は、
  1. いつ
  2. 誰を
  3. どのような形で
「いじめて」いたのだろうか?
元記事をていねいに読み解いてみたい。

クイックジャパンでは、小山田少年は沢田少年とはクラスが別だったが、沢田少年の「デビュー」があまりにも衝撃的だったので、クラスを超えて有名人になっていたと語っている。

「沢田って奴がいて。こいつはかなりエポック・メーキングな男で、転校してきたんですよ、小学校二年生ぐらいの時に
それはもう、学校中に衝撃が走って(笑)。
だって、転校してきて自己紹介とかするじゃないですか、もういきなり(言語障害っぽい口調で)『サワダです』とか言ってさ、『うわ、すごい!』ってなるじゃないですか。
で、転校してきた初日に、ウンコしたんだ。
なんか学校でウンコするとかいうのは小学生にとっては重罪だってのはあるじゃないですか? で、いきなり初日にウンコするんだけどさ、便所に行く途中にズボンが落ちてるんですよ、何か一個(笑)。
そんでそれを辿って行くと、その先にパンツが落ちてるんですよ。
で、最終的に辿って行くと、トイレのドアが開けっ放しで、下半身素っ裸の沢田がウンコしてたんだ(笑)」

……これは確かに衝撃的だ。違うクラスでも、あっという間に有名人になるのは間違いない。
で、「衝撃デビューの沢田くん」の紹介はさらに続く。

「……で、みんなとかやっぱ、そういうの慣れてないから、かなりびっくりするじゃないですか。で、名前はもう一瞬にして知れ渡って、凄い奴が来たって(笑)、ある意味、スターですよ。
別に最初はいじめじゃないんだけども、とりあえず興味あるから、まあ色々トライして、話してみたりするんだけども、やっぱ会話とか通じなかったりとかするんですよ。
おまけにこいつは、体がでかいんですよ。それで癇癪持ちっていうか、凶暴性があって……牛乳瓶とか持ち出してさ、追っかけてきたりとかするんですよ。
で、みんな『怖いな』って。
ノロいから逃げるのは楽勝なんだけど、怒らせるとかなりのパワーを持ってるし、しかもほら、ちょっとおかしいから容赦ないから、牛乳瓶とかで殴られたりとかめちゃめちゃ痛いじゃないですか、で、普通の奴とか牛乳瓶でまさか殴れないけど、こいつとか平気でやるのね。
それでまた、それやられると、みんなボコボコにやられるんだけど」

ここまでは別に、よくある「トンデモな思い出」の類であり、お笑い芸人などがよくネタにしているレベルのことだ。

小山田少年が小学校から通っていた和光学園という学校は、制服なし、自由を尊重し、障害を持った子供も普通の学級に入れて「共生」を生で学ばせるという方針の学校だそうだ。
自分とまったく違う人、想像を超えてる人が目の前にいることで「すげ~な。なんだおまえ」とか「バカじゃね~の」とか、子供が言い合うのはあたりまえのことだ。
それをからかうというレベルを超えて、肉体的にいじめたりするのはまったく別の話だが、子供はその区別がつかないことがある。
だから、共生や自由を基本にして、障害を持った子も一緒の環境で……という教育を目指すなら、大人がものすごく細かく目配りして、自分がどう接するか、教えるか、子供に接している自分はどうなのか……と、一緒になって考えないと、なかなか難しいことになる。下手すると事故死や自殺者が出たり、一生心に傷を負ったまま立ち直れない子も出てくる。

そんなことを考えさせられたのが、次のくだり。

小山田少年と沢田くんは別のクラスだったので、沢田くんの奇行ぶり、「ヤバさ」は知っていたが、二人が直接接することはなかったようだ。
それが、5年生になって「太鼓クラブ」というクラブで一緒になったことで接点ができる。

「……するとなぜか沢田が太鼓クラブにいたんですよ(笑)。
本格的な付き合いはそれからなんですけど、太鼓クラブって、もう人数が五人ぐらいしかいないんですよ、学年で。
野球部とかサッカー部とかがやっぱ人気で、そういうのは先生がついて指導とかするんだけど、太鼓クラブって五人しかいないから、先生とか手が回らないからさ、『五人で勝手にやってくれ』っていう感じになっちゃって
それで音楽室の横にある狭い教室に追いやられて、そこで二時間、五人で過ごさなきゃならなかった
五人でいても、太鼓なんか叩きゃしなくって、ただずっと遊んでるだけなんだけど。
そういう時に五人の中に一人沢田っていうのがいると、やっぱりかなり実験の対象になっちゃうんですよね」

大人(教師)が見ていない密室に小学生が5人。その中に、言葉も上手く喋れない障害を持つ子が1人混じっている。
こうして、いつ事故が起きてもおかしくない、危ない状況ができあがってしまったわけだ。

「段ボール箱とかがあって、そん中に沢田を入れて、全部グルグルにガムテープで縛って、空気穴みたいなの開けて(笑)、『おい、沢田、大丈夫か?』とか言うと、『ダイジョブ…』とか言ってんの(笑)。
そこに黒板消しとかで、『毒ガス攻撃だ!』ってパタパタやって、しばらく放っといたりして、時間経ってくると、何にも反応しなくなったりとかして、『ヤバいね』『どうしようか』とか言って、『じゃ、ここでガムテープだけ外して、部屋の側から見ていよう』って外して見てたら、いきなりバリバリ出てきて、何て言ったのかな……? 何かすごく面白いこと言ったんですよ。……超ワケ分かんない、『おかあさ〜ん』とかなんか、そんなこと言ったんですよ(笑)それでみんな大爆笑とかしたりして。
本人は楽しんではいないと思うんだけど、でも、そんなに嫌がってなかったんだけど。ゴロゴロ転がしたりしたら、『ヤメロヨー』とか言ったけど」

小山田氏が「肉体的にいじめてたのは、小学生ぐらいで、もう中高ぐらいになると、いじめはしないんだけど」と語っていたのは、まさにこれのことだろう。
「本人は楽しんではいないと思うんだけど、でも、そんなに嫌がってなかったんだけど。ゴロゴロ転がしたりしたら、『ヤメロヨー』とか言ったけど」……という語り口からして、その場にいた他の数人も含めて「加害者側」になった少年たちに、それほど悪意のある(あるいは病的で陰湿な)いじめ意識はなかったのだと想像できる。
この手のことは、年齢が低いほど残酷なことになりやすい。
しかし、大人になって思い返せば、あれは明らかにまずかったな、残酷なことをしていたなと理解できる。だから小山田氏も謝罪文の中で、「学生当時、私の発言や行為によってクラスメイトを傷付けたことは間違いなく、その自覚もあったため、自己責任であると感じ」ていたから、ロッキングオンなどの記事に対して「誤った内容や誇張への指摘をせず、当時はそのまま静観するという判断に至っておりました。」と述べている。

この「小学校のときのエピソード」は、「いじめ問題」というよりも、「教育現場における大人の監督不行き届き問題」として考えるべきだ。
一つ間違えば取り返しのつかない事故が起きているエピソードであり、笑って済まされる問題ではない。
しかし、その責任を「太鼓クラブ」の子供たちだけに押しつけるのは間違いだ。

もう一つ、中学の修学旅行で起きた、別の生徒への暴行事件は、実行者は小山田少年の1学年上の先輩(留年して下りてきた)であって、小山田少年はその現場にいて「おお、怖え~」と、引きながら見ていた、ということだ。
これも、修学旅行に引率した教師は何をやっていたんだ、ということになる。
エスカレートしたのが「ヤバい先輩」であれば、小山田少年が身体を張って止めに入らなかったことを一方的に責めることはできないだろう。

残念すぎるライターの力量不足と心得違い

小山田少年と「衝撃デビューの沢田くん」は、なんだかんだで高校卒業までクラスメイトとして交流している。中学からは席が隣り同士だったこともあったそうだが、二人とも他に友達が少なかったから、とも述べられている。

高校まで行くと、「どっちかって言うと仲良かったっていう感じで、いじめっていうよりも、僕は沢田のファンになっちゃってたから」という言葉に対して、随所で、なるほどなと思わせるエピソードも出てくる。
そしてクイックジャパンの記事、最後の部分。
「卒業式の日に、一応沢田にはサヨナラの挨拶はしたんですけどね、個人的に(笑)。
そんな別に沢田にサヨナラの挨拶をする奴なんていないんだけどさ。僕は一応付き合いが長かったから
『おまえ、どうすんの?』とか言ったらなんか
『ボランティアをやりたい』とか言ってて(笑)。
『おまえ、ボランティアされる側だろ』とか言って(笑)。
でも『なりたい』とか言って。『へー』とかって言ってたんだけど。
高校生の時に、いい話なんですけど。
でも、やってないんですねえ」

これは、沢田くんの家(高級住宅街の立派な邸宅だったそう)に突撃取材しに行ったライター志望の青年・村上清氏から、「沢田くん」が高校卒業後に病気が悪化して、今ではほとんど家族とも話をせず、引きこもってしまっていると聞いた小山田氏の反応だ。
「でも、やってないんですねえ」は、「ボランティアにはなれなかったんだ……」という、ため息のような言葉なのだが、村上氏の文章表現がまずすぎて、おそらく読者には全然伝わっていない。
そもそも、原稿のあちこちに散りばめられている「(笑)」の記述が邪魔で、誤解や曲解を生んでしまっている。これは誰の笑いなのかも分からない。おそらく、録音に入っていた音声をそっくりそのまま文字起こしした際に、笑い声が漏れている部分全部にこれを入れているのだろう。村上氏が一人で笑っているのかもしれない。だから、この「(笑)」はすべて削除した上で読んでみる必要がある。

とにかく、いくら商業出版物への執筆デビュー作だとはいえ、ライター志望の人間としては下手すぎるし、結果としてあまりにも罪作りだ。

このときの村上氏が稚拙で能天気な執筆・編集をしたことは、随所に見て取れる。

最後に、小山田さんが対談するなら一番会いたいと言っていた、沢田さんのことを伝えた。
沢田さんは、学校当時よりさらに人としゃべらなくなっている。

重いわ。ショック

―――だから、小山田さんと対談してもらって、当時の会話がもし戻ったら、すっごい美しい対談っていうか……。

「いや~(笑)。でも俺ちょっと怖いな、そういうの聞くと。でも…そんなんなっちゃったんだ……」

なんだこの能天気な記述は。
ここ、いちばん重要なところだろうが! と、私が編集長なら、この原稿は丸ごと突っ返しているし、当然、採用もしない。

「結局、その深いとこまでは聞けなかった」の意味

このクイックジャパンの記事を何度も読み返してみて、私がいちばん重要だと思ったのは、最後に出てくる小山田氏のこんな言葉だ。
「沢田とはちゃんと話したいな、もう一回。でも結局一緒のような気もするんだけどね。
『結局のところどうよ?』ってとこまでは聞いてないから。聞いても答えは出ないだろうし。『実はさ……』なんて言われても困っちゃうしさ(笑)。
でも、いっつも僕はその答えを期待してたの。『実はさあ……』って言ってくれるのを期待してたんですよね、沢田に関してはね、特に」

これだけでは何を言っているんだか分からない、謎めいた言葉だ。
多分、小山田氏自身、よく分からないまま、考えをまとめられないまま話していたのだろう。
しかし、この言葉が出てくるまでのやりとりを何度も読み返してみると、なんとなく言いたいことが見えてくる。
―――沢田さんに何か言うとしたら……

「でも、しゃべるほうじゃなかったんですよ。聞いた事には答えるけど」

―――他の生徒より聞いてた方なんですよね? 小山田さんは。

「ファンだったから。ファンっていうか、アレなんだけど。どっちかっていうとね、やっぱ気になるっていうかさ。
なんかやっぱ、小学校中学校の頃は『コイツはおかしい』っていう認識しかなくて。で、だから色々試したりしてたけどね。
高校くらいになると『なんでコイツはこうなんだ?』って考える方に変わっちゃったからさ。
だから、ストレートな聞き方とかそんなしなかったけどさ、『オマエ、バカの世界って、どんな感じなの?』みたいなことが気になったから。なんかそういうことを色々と知りたかった感じで。
で、いろいろ聞いたんだけど、なんかちゃんとした答えが返ってこないんですよね」

―――どんな答えを?

「『病気なんだ』とかね」

―――言ってたんだ。

「ウン。……とか、あといろんな噂があって。『なんでアイツがバカか?』っていう事に関して。子供の時に、なんか日の当たらない部屋にずっといた、とか。あとなんか『お母さんの薬がなんか』とか。 そんなんじゃないと思うけど(笑)」

―――今会ったとすれば?

「だから結局、その深いとこまでは聞けなかったし。聞けなかったっていうのは、なんか悪くて聞けなかったっていうよりも、僕がそこまで聞くまでの興味がなかったのかもしれないし。そこまでの好奇心がなかったのかも。かなりの好奇心は持ってたんだけど。今とかだったら絶対そこまで突っ込むと思うんだけど。その頃の感じだと、学校での生活の一要素っていう感じだったから。
でも他のクラスの全然しゃべんないような奴なんかよりも、個人的に興味があったっていうか」


↑私は、この部分を最初に読んだときは、何を言っているんだろうという感じで、引っかかりながらも、深く考えないまま読み進めていた。
しかしこの後の、
『結局のところどうよ?』ってとこまでは聞いてないから。聞いても答えは出ないだろうし。『実はさ……』なんて言われても困っちゃうしさ(笑)。
でも、いっつも僕はその答えを期待してたの。『実はさあ……』って言ってくれるのを期待してたんですよね、沢田に関してはね、特に」
……という部分と合わせて、何度も読み返してみて、ようやく少し見えてきた気がした。

多分、ライターの村上氏も、小山田氏がここで言いたかったことをなんとなく分かっていた。それまでのやりとりや、その場の雰囲気、言葉や声のニュアンスから、小山田氏の不完全な言葉選びを頭の中で修整しながら理解できていたと思う。
しかし、それを読者に伝える力がないので、テープ起こしをそのまま原稿にしてしまった。結果、余計な「(笑)」が誤解・曲解を生んだり、小山田氏の言いたいことがまったく伝わってこない原稿になってしまっている。

小説「ウン吉とあ太郎」

例えば私が、この会話を通して得た情報をネタにして小説を書いたとする。
障害を持った「ウン吉」という子供と、彼と小中高10年以上一緒に過ごした少年「あ太郎」が主人公。
ウン吉は、小学校2年のときに転校してきて、いきなり「ウンコ事件」を起こしたことで学校中で有名になり「ウン吉」というあだ名がついた。
あ太郎は、頭がよく、才能豊かな少年だが、若干、発達障害気味のところもあり、話し始めるときに必ず「あ~、それは……」などと、「あ~」から話し始める癖があったので「あ太郎」とあだ名がついた。
あ太郎少年は「ウン吉」のとんでもなさに引き寄せられ、最初は「美術クラブ」で一緒になったウン吉を、他の部員と一緒になって段ボールに入れてからかうようなことを先導してやっていたが、ウン吉のほうは、自分をかまってくれるあ太郎を友達だと思っていて、毎年、律儀に年賀状を送っていた。
高校を卒業するとき、あ太郎はウン吉に別れの挨拶をしに行く。
「おまえ、これからどうするの?」と訊くと、ウン吉は「将来はボランティアになりたい」と答える。「逆だろ、おまえ」と笑うあ太郎……そんな間柄だった。

あ太郎少年は、高校卒業後、バンクシーのような「街中アート」で有名になり、時代の寵児として注目される。
あ太郎が20代半ばになったとき、ふとしたことで、ウン吉が自分が知っていた当時より病気が悪化して、家族ともほとんど口をきかずに家に閉じこもったままになってしまったことを知る。
ショックを受けたあ太郎青年は、その情報を持ってきた雑誌編集者に、ウン吉との思い出話をポツリポツリと語る。

その最後の部分での独白的台詞として、私なら、こんな風に書くかもしれない。

 あ~、俺はウン吉のこと、小学生くらいのときは「とんでもないやつがやってきた」「こいつヤバい」っていう興味しかなくて、あまりにヤバいから、「すげ~な、こいつ」っていうことで、ファンになったわけよ。
 それで、ファンに「サインしてください」って近づくような感じで、いろいろちょっかい出したりしてさ。相当まずいこともしちゃったんだな。
 でも、中学、高校とつき合っていき、俺の中で、ウン吉との関係性について、少しずつ認識が変わっていったんだ。
 あ~、つまり、なんていうか……俺とウン吉は、結局は『違う世界』に生きているんだよね。一種のパラレルワールドみたいな。
 俺が生きているのが、多くの人間が思っている現実世界だとすれば、ウン吉が生きているのは「バカの世界」とでもいうか……。
 俺以外の生徒は、その頃にはもう誰もウン吉のことなんか気にしなくなっていた。でも、俺はずっとあいつと一緒で、ファン……というか、気になっていたからさ。この「俺とウン吉の違い」って、どこからくるんだろう。何が根本的な原因なんだろう、みたいなことを、ずっと考えてたような気がするんだ。
 それを知りたくて、ウン吉にはいろいろ訊いたような気がする。でも、はっきりした答えは返ってこなかったな。
 あるとき「僕は……病気なんだ」って、ポツンと言ったこともあったかな。でも、そんな答えはあたりまえすぎたし、俺が知りたかったこととは違うんだよね。ちょっと違う……あ~、いや、全然違う、って思った。
 周りでは、いろんなこと勝手に言うやつもいたよ。「ウン吉は子供のとき、日の当たらない部屋にずっといて、あんな病気になったんだ」とか、「ウン吉のお母さんが妊娠中に飲んでいた薬に副作用があって……」とか、そんな感じのこと。
 ああ~、そんなのもみんな、適当な想像で、違うと思うけどね。
 結局、答えが見つからないまま卒業になって、それ以来、ウン吉とは会ってないわけよ。
 今、ウン吉と会えたなら、もっと納得できる答えを聞き出そうとするかもしれない……いや、逆かな。俺も少しは大人としての振るまいが身についているから、そこまで深堀りしてはいけないって制御するか、あの頃みたいに純粋な探究心みたいなものがなくなってて、簡単に無視するかもしれない。

 卒業式のとき、俺、ウン吉とは一応、最後の挨拶みたいなの交わしたのよ。
 で、「おまえ、これからどうすんの?」って訊いたら、「将来はボランティアをしたい」とか言うわけ。笑っちゃったよね。「おまえ、どっちかっていうと、ボランティアされる側だろ」とか言ってさ、そんな感じで別れたんだよな。

 ああ……でも、そうなんだ……ウン吉、あれからもっとひどくなって、そんな感じになっちゃってるのか……重いね……。


インタビュー記事なら、ここまで「改作」はできない。でも、小説なら、せめてこんな風にまとめるはずだ。

小山田圭吾という人間は、ものすごく言葉選びが下手なのだろう。ある意味、発達障害的なところを感じる。
だから、彼が話したことを、しっかり読者に伝えようと思うなら、このくらいまで「翻訳」してやらないと伝わらない。
難しい仕事になるが、そこまでして記事を作る価値はある。
ここで浮かび上がるテーマは、「多様性」とか「共生」という言葉で昨今しきりに語られること、そのものなのだ。
多様性を認めて、同じ社会で共に生きるということが、実はとても複雑で、難しいものなのだということを読者に考えさせる記事になりえる。

「結局、その深いとこまでは聞けなかった」と語った小山田氏の「その深いところ」こそが、多様性と共生というテーマを扱う上で、いちばん重要で、かつ、理解が困難な部分なのだ。
それを浮き彫りにできたような記事になっていたら……。
ライターとしての村上氏の力量不足や能天気な勘違いぶりが残念でならない。

そして、この記事を恣意的に「再編集」して、小山田氏個人をとんでもないサイコパスのように仕立てたブログ主の存在もまた、我々は忘れてはいけない。
沢田少年と小山田少年の不思議で微妙な「友情」の証として記事の最後のページにど~んと単独で掲載されている年賀状までも「障害者を嘲り笑う異常者」を仕立て上げる道具として利用するブログ主──このブログ主にそうさせたものはなんだったのか?
このブログ主は、もしかすると自分ではみじんも疑いのない正義感、使命感からこんなことをしたのかもしれない。しかし、その結果、沢田少年らが受けたいじめ行為以上の残酷な「検証も裁判もない集団リンチ」を引き起こした。
大新聞社やテレビメディアまでもが、簡単にその集団リンチの仕掛けにのせられてしまった。
こうした病巣が深く広く巣くってしまっているネット社会。その「邪気」にマスメディアや国家権力までもが動かされるという恐怖。
幕末から明治にかけて起きた、庄屋打ち壊しや廃仏毀釈にも似た集団ヒステリーが急速に広まっていることを感じる。

小山田事件、小林事件が我々に教えてくれるものは、驚くほど根深く、怖ろしい問題だ。
これらを生きた教科書として、東京五輪後に社会の空気やシステムの欠陥を修整していくことはできるのか?
「ああ、なんだかんだいろいろあったけど終わったね、東京五輪」と済ませてしまうようでは、いよいよこの国は危険領域を超えて、奈落の底に突き進むだろう。

……と、ここで私が長々と書いたところで、まったく無力である。
だから、せめてこんな夢想をしてみる。

小林賢太郎:脚本・演出、小山田圭吾:音楽 で、短編映画『ウン吉とあ太郎』みたいな作品を作って世に出せないだろうか、と。
映像はアートに徹して限りなく美しく。台詞や演技も思いっきりスマートに(小林賢太郎ならできるはず)。
決して、暗さがカッコいいみたいな日本映画特有の隘路にはまらず、かといって、嫌らしいスノッブさを感じさせず……。

そんな「作品」を、私は見てみたい。



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還暦を超えたら「かけ足教」に入信せよ?2020/12/14 14:14

森水学園 用務員・杜用治さんのノートより

(1974年4月26日)
村の中でもあちこちに桜が咲き始めた。
天気もいいので、校庭のベンチに座ってボ~ッとしていたら、白衣(といってもかなり汚れていてねずみ色に近い)を着た婆さまがとぼとぼと歩いてきて、黙って俺の隣りに座った。

婆さん婆さま: あんたはここのセンセイかね?

俺俺:  いや、ただの居候ですよ。村のみんなは用務員さん、って呼ぶけどね。そういう婆さまは何者なんですか。この村の者じゃないみたいだけど。
婆さん あたしゃ宗教家じゃよ。

俺 宗教家? 布教して回ってるってことですか? 仏教系? キリスト教系? 
ずいぶん疑問文が多いねぇ。あたしが説いて回る教えは、何系でもない。「かけ足教」というのを説いて回ってる。

俺  かけあし教? 聞いたことないなあ。面白そうだけど……。
聴くかね? 教理は簡単じゃよ。

俺  長くならないなら、聴いてもいいですよ。
じゃあ、簡潔に伝えようかね。
あんたは還暦を迎えたかね?

俺  いや、まだですね。
これは還暦を迎えてからの生き方を説く教えじゃ。

俺  それなら、俺にはまだ早いか……。
いやいや、還暦を迎えてから知るより、今から知っておいたほうが無駄な時間が減らせるじゃろ。せっかくだから聞きなさい。

俺 じゃあ、お願いします。
還暦というのは、干支が一回りして元に戻るってことじゃろ。本卦還りともいうな。
この世に生まれて、60年生きて、生まれた年の干支に戻るわけじゃな。
昔は人生50年というて、人が60年生きるなんてことは贅沢じゃった。
じゃから、60年生きたら、もう一度生まれて、それまでの60年の人生を踏まえて、残りの人生をじっくり生きよ、という教えじゃな。
じゃけんども、60を過ぎた人間は、脳みそも身体もガタガタぼろぼろじゃでな。それまでの60年のような時間をそれまでの時間感覚で生きることはできん。時間が過ぎる速さもどんどん短くなる。
じっくりとじゃが、駆け足で生きることを求められるわけじゃな。

俺 それで「駆け足教」っていうわけですか?
それもある。だが、かけ足教の「かける」は、もう一つの「かける」にもかけちょる。……かけ算じゃ。

俺 かけ算?
そう……歳をな、十の位の数と一の位の数で、かけ算をするんじゃ。
60歳は6と0。6かける0は0じゃろ。だから、60になったときは、もう一度別の人生を生きるつもりで0歳児として生まれ変わる気持ちになる。

俺 0歳児じゃ、何も考えられないし、言葉も使えないですよね。
そういうことではない。新しい人生におけることはゼロから始める、ということじゃ。それまで60年生きた経験は、そのまま残って、次の人生への架け橋になる。その架け橋の「かける」でもあるな。

俺 ……う~ん。……それで?
61歳になったら、6かける1で6歳じゃ。つまり、還暦を過ぎたら1年が6年の速さで過ぎていくんじゃな。かけ足で過ぎていくわけじゃな。
だから、それまでの人生の0歳から6歳までに身につけたこと、世の中のあらゆるものを、見て、聞いて、触って……という五感をもう一度研ぎ澄ませる。ものへの認識をゼロから見直してみる。言葉の意味も、音の聴き方も、基本を全部ゼロから見直してみる1年間じゃ。

俺 ……なんか面白そうですね。となると、62歳は6かける2で12歳か。小学校6年間で学んだことを見直す1年ってことですか?
おお、出来のいい生徒じゃな。その通りじゃ。小学校で学んだことを、もう一度、根本から考え直してみる。科学も歴史も……全部な。特に歴史なんてものは、時の権力者の都合でどんどん書き換えられている物語にすぎないからな。どこまでが本当にあったことか、偏見や脚色をとことん削ぎ落として、裸にしてみることじゃ。そうすれば、違う世界が見えてくる。

俺  それは分かる。俺もそれは常々思っていますよ。
じゃあ、63歳は6かける3で18歳。思春期ですね。これはどうやり直すんです?
やり直す、とは言っておらんじゃろ。振り返るのはええことじゃがな。あの頃のドキドキした時間をそのままやり直しはできんから、あれは一体なんだったんじゃろ、と思い直す時間じゃな。
十代のときにときめいた美しさとはなんだったのか。生殖本能によって歪められていた美感覚だったんじゃないか……とか。そういうことじゃな。
おまえさん、十代のときに心ときめいた女の子がおったじゃろ? 今、その子がそのときのままの姿で目の前に現れたらどう感じるかね。あの頃と同じような目では見られんじゃろ?

俺  それはそうだろうけど、ちょっと話がズレている気もしますね。同じようにはときめかなくても、何か特別な想いはこみ上げるんじゃないかなあ。それをどうしろと?
それをどうするか、どう考えて、新しい人生に生かすかは、おまえさんが63歳になったときに考えるんじゃな。

俺  じゃあ、64歳は24歳。その頃の俺は……。
何かを求めてあがいておったんじゃないかね。その求めたものは、技術だったり、人からの信頼や尊敬だったり、金だったり、性欲のはけ口だったり……。それは手に入ったかね?

俺  入ったものもあったけれど、手に入ったと思ったら、思っていたのと違っていてがっかりしたり、絶望したり、怒ったり……。
それが、最初の60年の人生で手に入れた「土台」じゃな。60からの人生は、その土台に種を蒔き、耕す人生なんじゃ。どんなにいい土台があっても、土台は土台にすぎん。放っておけば干からびるだけじゃな。

俺  なるほど。少し宗教……というより、人生訓みたいになってきましたね。
で、その調子で69歳までいくと、6かける9で54歳。まだ15歳若いけれど、だいぶ近づいてきましたね。
で、70歳になると、今度は7かける0で、また0歳に戻るんですか?
そこから先は、あんたが運よくその歳まで生きられたら、自分で答えを探すことじゃな。ただで教えられるのはここまでじゃ。

俺  え~? なんかちょっと……。まあ、いいや。ここまでの話でも十分面白かったから。
じゃあ、お布施代わりにお茶でも出しましょうか。待っててください。

俺はそう言って「用務員室」に戻り、湯を沸かし、茶を入れた。
あいにく、お茶菓子代わりになりそうなものはなかったので、茶わんと急須を乗せた盆を持って校庭のベンチに戻ると、婆さまの姿はもうなかった。
かけ足教の教祖はかけ足で消えてしまったのだろうか。

その後しばらく、村の人に会うたびに、汚れた白衣を着た婆さまのことを訊いてみたが、誰一人、そんな婆さまを見た者はいなかった。


フェイスブックのnoteアプリ機能とWEBサイトのnoteを混同していました。フェイスブックのnoteは10月で終了しましたが、note.com のほうは健在なのですね。
動画の発信なども、YouTubeから直接やツイッター経由より、noteを介したほうがよさそうな気がしてきたので、改めてnote を始めてみました。
https://note.com/tanupack です。

この「用務員・杜用治さんのノート」シリーズは、「森水学園第三分校」(https://nikko.city/morimizu/)の中の1コーナーですが、今後はnote.comのタヌパックページでも並行して掲載していくつもりです。


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Amazonでオリジナル書籍を売るまでの道のり2019/09/22 21:28

ISBNコードを振ってA5判からB6判208ページ構成に改定した『新・マリアの父親』
オンデマンド出版なら赤字を抱えずに本が作れる、という時代になった。しかし、赤字にならないのはいいが、とにかく売れない。個人が運営するWebサイトだけでPRするのは限界があるし、カード情報の入力なども抵抗があるからか……。
オンデマンドブックをAmazonで売れたらいいのだがなあ……ということは以前から考えていた。
『狛犬かがみ』は初版と改訂第2版のいずれも売り切って、現在在庫なし状態が続いている。一般書店で数千冊も売れたとは到底考えられないので、ほとんどはAmazon経由ではないかと思う。
現在の版元(トランスビュー)は取次を通さない「一人出版社」の先駈け的存在で、その販売手法はいろいろなメディアで取り上げられている。
哲学思想、宗教、教育などを中心に、日販・トーハンといった取次店を通さず、直接書店に書籍を郵送する方法で卸す独自の営業で注目されている。取次店では太洋社のみ取引があるが、このルートで流通された商品は書店からの返品を認めない。また配本部数も全て書店に一任されており、他の出版社が行う新刊委託(注文がなくても、出版社・取次店側が見計らって送品すること)は一切行わない。
池田晶子「14歳からの哲学」( ISBN 978-4-901510-14-1 )は30万部を超えるベストセラーとなった。
Wikiより

トランスビュー方式とは、「書店に直で卸す本は、送料自社持ちで返品も認めるが、返品するときは送料は書店持ちでね」という方式。
しかし、この方法でも、本はオフセットでまとまった冊数作っておかねばならないし、受注・発送などの作業も全部自分でやらなければならないから、労力も運転資金もかなり必要になる。

ISBN出版者コードを取得する

商業出版では売れないと判断される本を自分で次々に出版しようとする場合、在庫を抱える方式は到底無理なので、オンデマンド出版以外は考えられない。しかし、オンデマンド本をAmazonで売ることは可能なのか?
調べていくと、最初の条件は「ISBNコードをつける」ことだった。
Amazonでは、商品としての本には必ずこれがついていることを条件としている。

ISBNとは何か?
出版業界の人には説明不要だが、一応書いておくと、ISBNは書籍を識別するための世界共通コードで、本の戸籍のようなもの。ISBNコードをつけることで、日本だけでなく、世界中ですぐにその本が何かを特定することができるようになる。
13桁のコードで表され、日本の出版物の場合、通常は、
ISBN978 - 4 - AAAA - BBBB - C
という構成になっている。
最初の978-4は出版元が日本または言語が日本語であることを示している。ちなみに978-0および978-1は英語、978-2はフランス語、978-3はドイツ語……だ。
A部分は「出版者記号」、B部分は「書名記号」で、それぞれの桁数は決まっていないが、合計で8桁になる。
A部分が2桁なら残りは6桁だから、000000から999999までの100万冊分の書名コードが割り振れる。
最後のC部分の1桁は「チェックディジット」といって、検算機能を持っている。ISBNコードが正しいかどうかを決められた数式にあてはめて計算した結果の0 - 9の数字1桁が入る。
『医者には絶対書けない幸せな死に方』には、ISBN978-4-06-291514-4 という13桁のISBNコードがついている。
06が講談社を示し、291514は『医者には絶対書けない幸せな死に方』という本に個別に振られたコードだ。
ちなみに2桁コードを持っている出版社を番号が若い順に並べていくと、
  • 00 岩波書店
  • 01 旺文社
  • 02 朝日新聞社出版
  • 03 偕成社
  • 04 角川書店
  • 05 学研
  • 06 講談社
  • 07 主婦の友社
  • 08 集英社
  • 09 小学館
……である。
これらは計算上は100万タイトルまでは順番にISBNコードを振っていけることになる。

ISBNを取得するには、出版社や発行人となる個人や団体が日本図書コード管理センターに登録申請をして「出版者コード」を決定してもらうことが第一歩となる。

今回、「タヌパック」が取得した出版者コードは910117で、6桁コードなので、その後に使えるのは2桁(00~99)。つまり100冊(100タイトル)分のISBNコードを取得した。死ぬまでに100タイトル使いきるかどうかは分からないが、10タイトルでは不足なのは明らかだから、とりあえずは100タイトル分取得したわけだ。

Amazonで売るための3つの方法

さて、ISBNコードをつけたオンデマンド本をAmazonで売るためには、以下の方法があることが分かった。
  1. Amazon PODという、Amazon自身がやっているオンデマンド本販売システムで売る。ただし、これはAmazonが契約した取次業者を通してしか使えない。
  2. 「e託」という方法で、Amazonに本を預けて売ってもらう。Amazonの仕入れ数はAmazonが決める。売れたら、その分、Amazonから納入依頼が届くので、都度、Amazonに本を納入する。
  3. Amazonに毎月契約料を払って「大口販売業者」となり、マーケットプレイスで販売する。売れても売れなくても契約料は支払わなければならないし、本の発送も自分で行う。

このそれぞれについて、経費やリスク、運営する上での自由度や満足度を調べた結果、3の方法しかないと分かった。
1は本の形式がAmazonで細かく決められており、本を作る上での自由度が制限される。また、取次業者に本を登録(PDFファイル)した後は、訂正が効かない。もちろん、取次業者への手数料がかかる。
2は、Amazonに支払う手数料割合が大きい上、都度、本をアマゾンに納入する手間とコストがハンパない。
3は、自分で配送するから、印刷・製本所から購入者に直送できるので、送料と時間を節約できる。ただし、売れても売れなくても大口取り引き契約者としての契約料(毎月約5000円)は払い続けるし、個別の売り上げにもAmazonへの手数料(15%+80円)はかかるので、赤字は確実に出るであろう……。

ここまで調べて、計算をするのだけでもかなりのエネルギーを使った。しかし、ISBNと出版JANコード取得(これはAmazonでしか売らないなら必要ないのだが、一応、将来どうなるか分からないので取得した)も済んだので、後には戻れない。

最後の壁は、Amazonのカタログに本を新規登録することだった。新たにISBNを振る本だから、当然、どこのデータベースにも存在しない本なわけで、「こういう本を新規に出版しますので、Amazonさんのカタログに登録してください」と申請し、認めてもらわないといけない。
これが実はいちばん不安だった。その不安は的中して、最初にいろいろやりとりがあって、行き違いもあったのだが、数日で解決し、今は自由に「新刊書」をAmazonのカタログに登録できるようになった(今後、システムやポリシー変更などがないことを祈るばかり)。

現在、「タヌパック」がAmazonで売っている本は⇒こちらからどうぞ。

ISBNと出版JANコードのバーコードを規定通りに印刷した本。このバーコード、デザイナーにはとても評判が悪い。これのおかげで本の表4デザインが台なしになってしまうから……。実際、その作業をしてみると、「邪魔だよなあ」という気持ちになる

賢治に比べたら……

……というわけで、なんとかタヌパックの本がAmazonを通じて販売できるようになった。

しかし、これでめでたしめでたしとは当然ならない。
最大の誤算は、「Amazonに出しても売れない」ということだった。
すでに1週間以上経過したが、見事に1冊も売れていないのである。
10月からは消費税も上がり、印刷・製本代、送料、Amazonへの契約料など、すべての経費が上がる。
人々の生活も苦しくなり、本を読む気力も時間も金銭的余裕もなくなる一方だろう。
こうなったら、しっかり覚悟を決めるしかない。
どうせ残された時間はわずかなのだから、生死に関わらない範囲なら、金勘定のことでアッパトッパすることはない。
宮沢賢治は、生きている間は自分の作品がまともに本にさえならなかった。
生前に刊行されたのは、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』だけだが、どちらも自費出版だ。『春と修羅』は地元花巻の印刷所に持ち込んで1000部を作り、ある人物に500部委託して東京での販売を頼んだものの、「ゾッキ本」(売れない新刊本)として流され、定価2円40銭のところ、古本屋で50銭で売られたという(Wikiより)。
『注文の多い料理店』のほうは、盛岡高農の後輩たちの協力を得てなんとか出版費用を工面して1000部作ったが、まったく売れず、賢治自身が父親から借金して200部を買い取ったそうだ。

まあ、それに比べたら、今の自分ははるかに恵まれた環境にいる。この幸福を味わい尽くしてから死ぬぞ、という前向きな気持ちになれる。

改定の道程も作品?

今回、Wikiの「宮沢賢治」を改めてチェックしていて、
賢治の作品は、一旦完成した後も次から次へ書き換えられて全く別の作品になってしまうことがある。これは雑誌に発表された作品でも同様で、変化そのものが一つの作品と言える。(Wikiより

という一節を初めて読んだ。
ああ、これって、オンデマンドならいくらでもできるんだよな、と思った。ISBNコードの役割からしたら、同じ番号の書物の内容がどんどん書き換えられるのは御法度だろうが、誤字訂正とかなら当然許容範囲だし、デジタル時代の出版物というのは、改訂作業の自由度が高いことも大きなメリットといえる。
Kindleブックなどは、同じ登録書籍のカバーや内容改定をいつでもWEB上の編集ページから行えるしね。

現在、ISBNコードを振りながら、コストの問題もあって、A5の2段組で作った本をB6の1段組に編集し直したりしているのだが、2013年に作ったA5判の『新・マリアの父親』には、だいぶ直したつもりだったが、かなり誤字・脱字が残っていた。細部の表現や間違いなども直しながら、頭からていねいに編集した。
その編集作業をしながら、へえ~、こんな話だったのか、と、感心している「作者」。ラストシーンでは思わず涙ぐんでしまったよ。

1冊も売れていないのに、あれもこれも……と、やりたいことが一気に増えた。楽しい60代を送るための赤字なら、それはもう人生の必要経費でしかない。
しかし、オンデマンド本は1冊も売れなければ、「もの」として存在しなかった本になってしまうわけだから、このままではいかんわなあ……。



靖国神社の「狛犬」と脚気と「舞姫事件」2018/02/12 19:24

靖国神社の中国獅子。大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成が三学寺に奉納したもの
狛犬を見続けていると、江戸期の狛犬は結構残っているのに、明治になった途端、パタッと狛犬が建立されていないことに気がつく。再び奉納されるようになるのは明治20年代くらいからだ。明治一桁代建立の狛犬というのはほとんどない。あったとしても、江戸期の狛犬をへたくそに模したようなものが多く、銘品と呼べる力作や新種の狛犬はまず出てこない。

拙著『神の鑿』の最後には利平・寅吉・和平の年譜も載せてあるが、それを見ても、
慶應元(1865)年 沢井八幡神社の狛犬 利平61歳? 寅吉21歳 願主石工菅田庄七

明治20(1887)年 関和神社(白河市)の狛犬(銘なし)寅吉43歳
↑この間、20年以上、作品の記録が空白なのだ。
明治初期、廃仏毀釈を皮切りにして、いかに庶民文化がつぶされ、停滞したかを物語っているかのようだ。

そこで、改めて「明治維新」前後の歴史をおさらいしているところだ。

森鴎外と脚気

その作業をしていて、ひょんなことから森鴎外(森林太郎)が陸軍兵士数万人の死に関係していたと知った。

ネット上にもたくさんの関連記事があるが、中でも、⇒これなどはとてもよくまとまっているのでご一読を。
 陸軍が嘱望する若き軍医森林太郎は、日清・日露の戦争を控え、兵士の健康を維持する大役を担った。そして当時の軍隊において最大の健康問題が脚気流行である。

 全陸軍の疾病統計調査は明治8年から始まるが、明治9年には兵員千人に対し脚気新患者108人、17年には263人、つまり4人に一人がこの病気にかかっている。そして致死率は約2~6%だった。しかし、戦時には、これらの数字が跳ね上がる。
(略)

明治27~28年の日清戦役では、陸軍の戦死者がわずか977人にたいし、傷病患者約28万人、患者死亡約2万人であり、脚気患者は約4万人という奇妙な現象が起こる。前代未聞の脚気大流行であるのに、陸軍首脳はまだ懲りなかった。海軍には軽症脚気は認められたが重症例の多発はなかった。

 明治37~38年の日露戦争では、陸軍の戦死者約4万6千人、傷病者35万人であり、そのうち脚気患者25万人という驚くべき数字になる。しかも、戦病死者3万7千人中、脚気による死者が約2万8千名に登った。

 日清・日露戦役での大惨事を起こした陸軍脚気対策に、森林太郎の誤りが深く関っていた事実は、東京大学医学部衛生学教授山本俊一が、1981年初めて、学会誌「公衆衛生」において指摘した。両戦役からすでに一世紀近い月日が経っていた。
(医療法人和楽会 フクロウblog 大井玄先生のコーナー 「病と詩(11) 軍医森林太郎と脚気」 より)

日清・日露戦争において、直接の戦死者よりも脚気で死んだ兵士のほうが多かったというのは、学校で学ぶ日本史には出てこないと思う。
上記のブログやWikiの詳しい解説などをもとにまとめてみると、
  • 全陸軍の疾病統計調査(明治8(1875)年開始)によれば、明治17(1884)年には4人に1人以上が脚気にかかり、致死率は約2~6%だった
  • 海軍医務局長・高木兼寛は、イギリス留学中にヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主とする兵食に原因があるのではと推論し、周囲の猛反対、猛反論を押し切って明治18(1885)年以降、海軍の兵食をタンパク質の多い麦飯に切り替えた結果、海軍での脚気発症をほぼ根絶させた。
  • 一方、陸軍では、陸軍一等軍医森林太郎(森鴎外)が明治18(1885)年にライプチヒで執筆した論説「日本兵食論大意」を根拠に、陸軍軍医総監・石黒忠悳らは「脚気伝染病説」を信じており、白米を基本とした兵食を変えてはならないと主張した。
  • 明治21(1888)年に帰国した森は、講演「非日本食論ハ将二其根拠ヲ失ハントス」で、高木兼寛を「英吉利流の偏屈学者」と呼び、非難する。また、米食、麦食、洋食を食べさせる比較試験の結果、「カロリー値、蛋白補給能、体内活性度」のすべてで米食が最優秀という結果が得られたとして、陸軍兵食の正当性を主張した。
  • 結果、日清戦争(その後の乙未戦争も含む)における陸軍の脚気患者は4万1,431人、脚気による死亡者4,064人という惨事を引き起こした。(『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』)
  • さらに、日露戦争では、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であったにも関わらず、大本営陸軍部が「勅令」として白米食を指示したため、戦地で25万人強の脚気患者が発生。戦地入院患者25万1,185人のうち脚気が11万0,751人 (44.1%)で、入院脚気患者2万7,468人が死亡した。(陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計)

……というようなことだったらしい。
森林太郎(鴎外)が主張した「米食が最優秀」説の罪がいかに大きいかが分かる。
海軍では麦飯に切り替えて脚気が激減したという明らかな結果が得られているにもかかわらず、日清戦争の10年後の日露戦争時にさえ改善できず、何万という死者を出しているのだ。

石黒忠悳と靖国神社の「狛犬」

ところで、森の論文や主張に流される形で陸軍内に脚気を蔓延させた石黒忠悳軍医総監は、僕の中では「靖国神社の中国獅子」にまつわる裏話に登場して初めて名前を目にした人物だ。
その内容は⇒ここに詳しく書いているが、簡単にまとめると、
  • 日清戦争(1894-95年)の最中、海城の三学寺が日本軍の野戦病院にあてられていた。
  • そこの総責任者であった石黒忠悳軍医総監が、戦が終結して帰国していた明治28(1895)年、軍司令官の山縣有朋を訪ねたおり、三学寺にあった獅子像が「古奇愛すべき」ものであったと語った。
  • それを聞いた山縣が、そんなにいいものならぜひ日本に持ってきて「陛下の叡覧に供して大御心の程を慰め奉りたい」ということになった。
  • そこで石黒は、満州に留まっていた奥保鞏(やすかた)中将(後の元帥)に連絡を取り、寺より譲り受けて日本に運ぶように依頼した。
  • 奥中将は、白くて大きな獅子一対と、青みがかった一体(これは対になっていない)を選んで日本に運んだ。
  • 日本に運び込まれた3体の中国獅子を山縣が明治天皇に献上したところ、天皇は喜んだ様子で、白い石の一対は靖国神社に、青い一体は山縣に与えた。
  • というわけで、白くて大きな一対は現在も靖国神社にあり、青色の一体は栃木県矢板市にある山縣有朋記念館の敷地内に置かれている

靖国神社にある中国獅子を、ほとんどの参拝客は「変わった狛犬だねえ」と見上げるが、あれはそもそも「狛犬」ではない。大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成という人物が三学寺に奉納した獅子像なのだ。

『舞姫』の記憶

僕にとって、石黒忠悳軍医総監は「靖国神社の中国獅子」だが、森鴎外といえば『舞姫』くらいしか記憶にない。
『舞姫』は高校の国語の教科書に載っていて、じっくり、1行1行読解させられた。
当時の国語担当は臼井先生といって、相当変わったキャラクターの教師だった。
感情の起伏が激しく、機嫌のいいときはニコニコしながら好きな谷崎潤一郎論などを延々と喋り続けるが、機嫌が悪いと「チッ! こんな問題もできないのか。馬鹿ばっかりだなこのクラスは。もういい、帰る」と言い放ち、さっさと教室を出て行く。
そんなわけで、生徒からの評判はすこぶる悪かったのだが、僕は彼の授業は決して嫌いではなかった。
『舞姫』を題材にした授業では今でも印象に残っているシーンがある。

臼井先生「このページの中に、豊太郎とエリスがすでに性交渉をしたと分かる一文がある。それはどこか。分かる人」

こういうとき、誰も手を挙げないと先生の機嫌がどんどん悪くなるのを知っている生徒たちは、必死で答えを探す。
何人かが答えて、その度に「違う!」「馬鹿!」などとはねつけられた末に、クラスでいちばん元気のよかった平岡くんが恐る恐る手を挙げた。
  • 「うん、平岡!」
  • 「はい! 『鬢の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる腦髓を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何にせむ』……のところだと思います」
  • 「もっと絞って」
  • 「鬢の毛の解けてかゝりたる……」
  • 「そう! そうだね! 『鬢の毛の解けてかかりたる』というのは、もうこの二人の間に男と女の関係ができたということを暗示しているんだね! さすがは鴎外。そのへんの三文小説家なら、性描写に3ページくらい割くところを、鴎外は『鬢の毛の解けてかかりたる』という、これだけで伝えているんだな」

生徒たちは半ばポカ~ンとその解説を聞いていた。僕も、この『鬢の毛の解けてかかりたる』がどれくらいすごいのか、今でもよく分からないのだが、平岡くんが他の生徒より早熟だったことは確かだろう。

『舞姫』のエリスが Elise Marie Caroline Wiegert (エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト 1866年~1953年)という実在の女性をモデルにしていて、主人公の豊太郎は鴎外自身がモデルであろう、ということは、今では周知されている。
鴎外は4年間のドイツ留学時代に、エリーゼと恋仲になったが、別れて帰国した。その直後に、エリーゼは鴎外を追って日本まで来たが、ひと月あまり後にまたドイツに戻っている。
鴎外の東大医学部時代の同期生・小池正直は、後に陸軍軍医総監石黒忠悳に宛てた手紙(明治22(1889)年4月16日付)の中で、
兼而小生ヨリヤカマシク申遣候伯林賤女之一件ハ能ク吾言ヲ容レ今回愈手切ニ被致度候是ニテ一安心御座候。
(私がしっかり言いきかせましたので、この「ベルリン賤女」の一件は、今度こそ手切れになると思います。どうぞご安心を)
と書いている
これはエリーゼが帰国したときのことをいっているのだろう。
年譜にすると、
  • 明治17(1884)年 鴎外、ドイツに留学
  • 明治21(1888)年 9月8日、ドイツより帰国。
  •          9月12日、エリーゼが鴎外の後を追って来日。
  •          9月18日、赤松登志子と婚約。
  •          10月17日、エリーゼが帰国。
  • 明治22(1889)年 2月 赤松登志子と結婚
  • 明治23(1890)年 民友社社長の徳富蘇峰の依頼により『舞姫』を執筆。1月『国民之友』付録として発表。
  •          9月、長男於菟(おと)誕生。
  •          11月27日、登志子と離婚。
  • 明治35(1902)年 荒木志げと再婚。
  • 明治36(1903)年 長女・茉莉(まり)誕生。
  • 1909年 次女・杏奴(あんぬ)誕生。

……という経過で、この間のエリーゼ来日から登志子との離婚あたりの一連のゴタゴタが「舞姫事件」「エリス事件」などと呼ばれている。
で、改めてこれを「日本の脚気史」「靖国神社の中国獅子」と重ねて見ると、
  • 明治17(1884)年 1月、海軍軍医・高木兼寛の意見などで海軍で洋食への切り替えが図られ、脚気新患者数、発生率、および死亡数が明治16(1883)年には1,236人、23.1%、49人だったものが、1884年には、718人、12.7%、8人。1885年には41人、0.6%、0人と激減した。
      同年、森林太郎(鴎外)がドイツに留学。
  • 明治18(1885)年 鴎外、ライプチヒで「日本兵食論大意」を執筆し、日本式白米食の優越性を強調。陸軍の白米主義の根拠となる。
  • 明治21(1888)年 鴎外ドイツより帰国。エリーゼが鴎外の後を追って来日し「エリス事件」に。
  • 明治22(1889)年 赤松登志子と結婚
  • 明治23(1890)年 『舞姫』発表。長男於菟(おと)誕生。登志子と離婚。
  • 明治27(1894)年、日清戦争勃発。石黒忠悳軍医総監が野戦病院であった三学寺で中国獅子に興味を持つ。脚気患者が約4万人に。
  • 明治28(1895)年、日清戦争終結後、石黒が山縣有朋に三学寺にあった獅子像の話をしたことで、中国獅子像3体が日本に持ち込まれる。
  • 明治35(1902)年 鴎外、荒木志げと再婚。
  • 明治36(1903)年 長女・茉莉(まり)誕生。
  • 明治37(1904)年 日露戦争勃発。陸軍内の脚気患者25万人。入院していた脚気患者の死者数は約2万8千人に。
  • 明治42(1909)年 次女・杏奴(あんぬ)誕生。

……とまあ、日清日露戦争をはさみ、脚気蔓延と三学寺の中国獅子が日本に持ち込まれた件と「舞姫事件」が同時進行していたことが分かる。

脚気で数万人死んでいったときにカフスボタン紛失を嘆く鴎外

扣鈕       森鴎外

南山の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん*
ひとつおとしつ
その扣鈕(ぼたん)惜し

べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ* 電燈あをき
店にて買ひぬ
はたとせ*まへに

えぽれつと* かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女(をとめ)
はや老いにけん
死にもやしけん

はたとせ*の 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ

ますらを*の 玉と碎けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕

(森鴎外の日露戦争従軍詩歌集『うた日記』より)
*こがねのぼたん:金のカフスボタン *パサージュ:ここではアーケード商店街のこと *はたとせ:20年 *エポレット:コートなどの肩につける装飾。軍服由来 *ますらを:勇壮な男。ここでは兵士たちのこと *ももち:百千(大人数)

日露戦争で死んでいった多くの兵士たちも惜しいけれど、かつての愛人との思い出が詰まった金のカフスボタンが片方だけになってしまったのも惜しい、と歌っているわけだ。

この詩について、鴎外の長男・森於菟(おと)は、『父親としての森鴎外』の中で、こう述べている。
この「黄金髪ゆらぎし少女」が「舞姫」のエリスで父にとっては永遠の恋人ではなかったかと思う。(略)
私が幼時祖母からきいた所によるとその婦人が父の帰朝後間もなく後を慕って横浜まで来た。これはその当時貧しい一家を興すすべての望みを父にかけていた祖父母、そして折角役について昇進の階を上り初めようとする父に対しての上司の御覚えばかりを気にしていた老人等には非常な事件であった。親孝行な父を総掛かりで説き伏せて父を女に遇わせず代りに父の弟篤次郎と親戚の某博士とを横浜港外の船にやり、旅費を与えて故国に帰らせた。
(略)
『歌日記』の出たあとで父は当時中学生の私に「このぼたんは昔伯林で買ったのだが戦争の時片方なくしてしまった。とっておけ」といってそのかたわの扣鈕をくれた。歌の情も解さぬ少年の私はただ外国のものといううれししさに銀の星と金の三日月とをつないだ扣鈕を、これも父からもらった外国貨幣を入れてある小箱の中に入れた。
私はある時祖母が私にいうのを聞いた。「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶らせたが父の気に入らず離縁になった。お前を母のない子にした責任は私達にある」と。
(森於菟著『父親としての森鴎外』)


コラム「病と詩 軍医森林太郎と脚気」の最後は、こう結ばれている。
鴎外森林太郎は、「玉と砕けし」兵士「ももちたり(百、千人)」よりもはるか多くが脚気に罹り倒れたことを知っていても、自分の知的誤り・傲慢さが、どんなに大きくそれに寄与していたかに、気づいていなかったろう。

本当に生涯このことに気づいていなかったのだろうか……。
まあ、そのことに責任を感じていたら、日露戦争のときにまでこんな詩を書いているわけはないか……。

ともあれ、鴎外には文学よりも軍医としてちゃんと仕事してほしかったと思う。


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