一晩寝て、
昨日の続き。
ルーブル美術館とフランス学士院を結ぶポンデザール橋でパフォーマンスしたのはアヤ・ナカムラというフランスの歌手。マリ出身で、本名はアヤ・ダニオコ。アヤはマリでは普通の名前で、ナカムラは芸名。アメリカのテレビドラマ「HEROES」で、日本人俳優マシ・オカが演じた超能力者「ヒロ・ナカムラ」からとったそうで、日本人ルーツは一切ないとのこと。
そういうこともNHKのアナウンサーはまったく説明しない。単に「マリ出身のアヤ・ナカムラさん」と紹介するので、視聴者は「父親と母親、どっちが日本人なんだ?」などという疑問が渦巻いてしまう。
マリ共和国は西アフリカにある。西アフリカ地域では、19世紀にはイスラム国家が林立していたが、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割政策でバラバラにされ、すべてフランスによって滅ぼされた。1880年にフランス植民地となり、当時の名称は「オー・セネガル植民地」。
その後、フランス領スーダン(1890~1902年)、フランス領セネガンビア・ニジェール植民地(1902~1904年)、フランス領オー・セネガル・ニジェール植民地(1904~1920年)、フランス領スーダン(1920年~1960年)と改称されていったが、要するにずっとフランスの植民地だった。
↑フランス領スーダン時代の国旗
かつての「フランスの植民地」出身の女性歌手が今やフランスを代表するスターになり、パリ五輪開会式でディオールの衣装に身を包み、60人の共和国親衛隊音楽隊と36人のフランス陸軍合唱団を従えてパフォーマンスする図、というところに意味があるのだろう。
ちなみに雨のため、歌はライブではなく口パクに変更されたらしい。
その後、「死神」は聖火を持ったままルーブル美術館に入っていく
外ではスタインウェイのグランドピアノをびしょびしょに濡らしながらの演奏。この日だけで、何台のグランドピアノをずぶ濡れにしたのか
ルーブル美術館ではミニオンズがモナリザを盗み出していた、というしょーもない設定
潜水艦の中でミニオンズが五輪競技ごっこをしていて、馬鹿騒ぎの末、槍投げの槍が船体に穴を開けて水中に全員放り出される↓
ミニオンズがやっているのは「オリンピック」(の真似事)で、それが原因で全員が命の危険にさらされる……というのも、穿った見方をすればオリンピックへのマイナスプロパガンダともとれる?
そもそも、ミニオンズってアメリカの映画だよなあ。版権問題大変だったんじゃないかと思って調べてみた。
ミニオンズの制作はイルミネーション・エンターテインメント社とイルミネーション・スタジオ・パリ社で、後者は2011年にユニバーサル・スタジオがVFX会社「マック・ガフ」のアニメ制作部門を買収したものだそうだ。
本社はパリにあり、「フランスはアニメ文化でも世界一流なんだぞ」というアピールなんだろう。
ミニオンズが盗んだモナリザはセーヌ川に浮かんでいる。これを無事回収するというシーンは最後まで出てこなかった。解釈のしようによっては、価値を過大評価されるクラシック・アートへの反逆ともとれる?
これは女性解放のために人生を捧げた10人の女性を銅像で紹介するというコーナーだが、10人のうちシモーヌ・ド・ボーヴォワールの像が台座からせり上がって出てこず↓、30秒以上の空白が生じた。カメラはその間、ごまかすために遠景に切り替えられていた。NHKの解説も、このトラブルに気づかず、一人ズレて紹介していた
この台座の中からボーヴォワールの像がせり上がるはずが、出てこなかった
ドラァグクイーンという文化?
「死神」は橋の上に作られたレッドカーペットのランウェイに移動。見守るのは「ドラァグクイーン」と呼ばれる過剰な女性表現をする者たち。ゲイ文化の一つとして生まれたとされるが、今は男性女性に関係なく、こうした衣装や化粧で自己主張する文化全体をさすらしい
↑髭に胸毛の人物。中身が男性なのか女性なのかは分からない
↑その橋の下を通るのはEU連合の船だと説明されていたような……
↑その船の上では、様々な格好をした人々が「そんなのかんけ~ね~!」(笑)と踊り狂っている
↑橋の下で踊り狂う者たちはバタバタと倒れていき(例の注射による心筋炎で突然死する若者たちを表現していると指摘した人もいた)、
↓橋の上の饗宴はますます異様な空気に包まれていく
あれは「最後の晩餐」のパロディだったのか?
蓋はメインディッシュを表しているのだろうから、中身のこの男性は「ごちそう」ということか
頭につけている花冠はキリストが処刑されたときの茨の冠のパロディではないかという声も上がった。裸の男の前には皿にのせたパンのようなものも見え、これまた正餐式のパンを思い起こさせる?
安心してください。履いてますよ……いや、表現としては完全に全裸だわね。やはり「料理」なのだろう
こういうのがobscurité(闇)ということ?
アメリカの通信会社C Spireは、この開会式の演出を「最後の晩餐を嘲笑するもの」と捉え、オリンピックからすべての広告を撤回すると発表した
これらの演出を担当したのはパリオリンピック組織委員会の芸術監督トーマス・ジョリー氏だそうだ。
ジョリー氏は様々な批判、特にキリスト教への侮蔑であるという抗議に対して「多様性を称え、フランスの美食に敬意を表するもので、挑発や嘲笑、ショッキングな演出を意図したものではなかった」と述べているという。
IOCも多くの批判を受けて「開会式の演出はパリ固有の精神と多様性への取り組みを反映したもの」という見解を表明し、開会式演出への非難はしていないらしい。立場上そうなるのだろう。
橋の上のレッドカーペットでのパフォーマンスに「最後の晩餐」の構図が重ねられていたかどうかはちょっと微妙な気もする。次から次へと人が動き回っていたので、「最後の晩餐」のように見える構図で映し出されたのはごく短い時間だった。
しかし、そのようにも見える計算は確かにあったのかもしれない。そうした「かもしれない」演出はこの後もどんどん出てくる。
『IMAGINE』の押しつけへの皮肉?
五輪開会式で『イマジン』が歌われた最初は2018年の平昌(ピョンチャン)冬季大会の開会式だったらしい。このときは韓国の歌手が歌ったが、2021年の東京大会では映像を通じて五大陸のアーティストが歌い継ぐ演出に。2022年北京冬季大会開会式でも歌われている。NHKのアナウンサーは「開会式でのイマジンはルールになった」みたいな解説をしていたと思うが、そうなのだろうか。
今回はソフィアーヌ・パマールが演奏するグランドピアノがイントロ演奏直後に炎に包まれた。これは「イマジンみたいな平和なんて所詮無理なんだよ」という皮肉なのか、それともイマジンを開会式の「マスト アイテム」にさせられたことへの抗議なのか? いずれにしても穏やかではない演出だった。
ジャンヌか死神か? 鋼鉄の馬と顔を隠した騎士
ここで、鎧を着た人物が金属製の馬に乗ってセーヌ川を、選手団がパレードしたルートに沿ってメイン会場へと走って行くというシーンが始まる
騎士と馬が橋を通り抜けるたびに、橋にしつらえた翼の電飾が灯る。この翼は五輪開会式のマスト アイテムとしてIOCから義務づけられているハトの飛翔の代わりだと説明されているが、次々に登場してラッパを吹き、人類の終末を告げる7人の天使の翼のようにも思える
この騎士はジャンヌ・ダルクだとする解釈が有力だ。
なにより、パリ五輪のX公式アカウントでも「馬に乗った女性」と言っている↓。
↑パリ五輪のX公式アカウントでは「horsewoman」としている
となると、最初に登場した「死神」も墓から甦ったジャンヌ・ダルクで、ジャンヌが鎧を身につけて馬に乗ったということなのかもしれない。(鎧のベルトをギュッと締めるシーンも短く映し出された)
ジャンヌ・ダルクは15世紀初め(1412年?)にフランス東部の農村で生まれた。13歳の頃、外を歩いているとき、突然、大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタが現れ、イングランド軍を打ち破って王太子シャルルをランスへと連れていって、フランス王にさせよと言われた。
その後、英仏百年戦争でいくつもの戦功を上げ、神のお告げの通り、シャルル王太子をフランス王シャルル7世として王位に就かせた。
その後、シャルル7世によりパリの解放を命じられたが失敗。1430年5月、1430年5月にブルゴーニュ公国(現在のフランス東部からドイツ西部にかけて一大勢力を誇った国)軍との戦闘で捕虜になり、異端審問で有罪を宣告され、1431年5月30日に火刑に処された。
「公式見解」風に解釈すれば、パリ解放の使命を果たせず、火あぶりにされた後の遺灰をセーヌ川に流されたジャンヌ・ダルクが蘇り、五輪旗をマントのようにまとってセーヌ川を鉄の馬にまたがって疾走する……という、ドラマチックな演出ということになる。
川から上がった馬とジャンヌは各国の旗を持つ大会ボランティアスタッフを後ろに引き連れて行進する。
正面からの映像は、エッフェル塔にしつらえた翼の電飾と重なり、ペガサスのよう
ジャンヌの乗った馬の後に、各国の国旗の列が続く
ジャンヌは馬から下り、大会関係者から五輪旗を手渡される
ジャンヌ・ダルクは自分は神からの啓示を受けた選ばれた人間だと生涯信じ続け、英仏百年戦争の中の重要な局面で戦闘を率い、勝利に導いた。
この戦争は神からの啓示を受けたジャンヌにとっては「聖戦」なのだが、元をただせば、まだ国家という認識が薄かった時代、フランスの広大な土地を舞台に領主たちが2派に分かれて戦った内戦である。
ジャンヌのおかげで王位に就けたシャルル7世は、ジャンヌの身柄引き渡しになんの動きも見せず、見殺しにした。
これは
3年前の東京五輪の開会式で、「必死に仕事をした若者を平気で見殺しにした国家権力者」……という図式と同じだ。
ジャンヌが死刑にされた際の罪状はカトリックに対する「異端」(正統信仰に反する男装などの罪)というもの。神の啓示を受けたと信じる者を教会側が裁いて火あぶりにしたわけで、なんともおどろおどろしい歴史が掘り返されたものだ。
……と、馬に乗った鎧の人物がジャンヌ・ダルクである、というのはほぼ「公式見解」だし、ほとんどのフランス人はそう見ていたわけだが、あくまでもこの騎士が何者だったのかは、聖火を運んだ「死神」同様、明かされていない。
ヨハネの黙示録とは?
ネット上では、まったく別の見解を披露する者も大勢いた。
代表的なのは、あの馬はヨハネの黙示録に出てくる第四の青白い馬なのではないか、つまり「死」を象徴しているのではないか、というもの。
小羊が第四の封印を解いた時、第四の生き物が「来たれ」と言う声を、わたしは聞いた。
そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」といい、それに黄泉が従っていた。彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、飢饉と、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた。(ヨハネ黙示録第6章より)
そうであれば、馬に乗っているのはまさに死神であり、人々に死後の世界(黄泉)を運んでいるということになる。
ヨハネの黙示録第6章は以下のような内容である。
小羊がその七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来たれ」と呼ぶのを聞いた。
見よ、白い馬が出てきた。白馬に乗っている者は、手に弓を持っており、冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけていった。(戦争による飽くなき奪取の欲望)
小羊が第二の封印を解かれると、赤い馬が出てきた。赤い馬に乗っている者は、人々が互いに殺し合うようにするため、地上から平和を奪い取ることを許され、大きなつるぎを与えられた。(分断と憎悪の連鎖)
第三の封印が解かれると、黒い馬が出てきた。乗っている者は手にはかりを持っていた。「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」(経済による戦略と格差)
小羊が第四の封印を解くと、青白い馬が出てきた。それに乗っている者の名は「死」といい、それに黄泉が従っていた。彼らには、地の四分の一を支配する権威、及び、つるぎと、飢饉と、死と、地の獣らによって人を殺す権威が与えられた。(専制特権階級の承認)
小羊が第五の封印を解いたとき、祭壇の下に、神の言葉に従い、証を立てたために殺された人々の霊魂がいるのを私は見た。
彼らは大声で叫んで言った。「聖なる真実の主よ。なぜあなたはいつまでも地に住む者に対して裁きを下し、私たちの血の報復をなさらないのですか」
すると、彼らの一人一人に白い衣が与えられ、神はこう告げられた。「あなたがたと同じように殺されようとするしもべたち、兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」
そして小羊が第六の封印を解いたときこそこの世の終わりとなる。大地震が起きて、太陽は真っ黒になり、付きは血のように赤く染まり、天の星は無花果の実が風にゆすられて振り落とされるように落ちてくる……。
いわゆるハルマゲドンだ。
7人の御使が順番にラッパを吹くと、それを合図にしたように次々に大災害が起き、人間も他の生物も死んでいく……という様子が7章以降に書かれている。
これがいわゆるキリスト教における終末世界観で、ヨハネの黙示録はその特異性ゆえにキリスト教会内でも常に論議の的となってきた。
↑そうした書き込みはネット上のあちこちに上がっている
ヨハネの黙示録第6章に出てくる馬は白、赤、黒、青と4頭いるので、4頭目の青白い馬だけを取り上げて、セーヌ川を疾走したメタルホースを「死」の象徴とするのは無理がある気がする。
しかし、あの
騎士がジャンヌ・ダルクの象徴だけだとすると、あそこまで不気味な姿に仕立てる必要があったのだろうかという疑問も残る。
ジャンヌが死神として甦るという解釈を可能にする演出なのだとすれば、それまた凄いことだが。
最初にこのシーンを見たときに感じたのは、「とにかく馬の目が哀しい」ということだった。
樋口康雄師匠のデビューアルバム『ABC PICOファースト』には、『悲しみは青い馬に乗って』(作詞は山川啓介)というアップテンポの曲があったなあ。
五木寛之の『蒼ざめた馬を見よ』というのもあったなあ。旧ソ連が西側プロパガンダを攻撃するために仕掛けた巧妙な罠という内容の小説。もちろんここでは無関係だろうけれど。
とにかく、あの映像を最初に見たときは、
哀しい目をした青白い馬が死神をのせて世界中の国を静かに先導している……そんなイメージを抱いてしまったのだった。
この馬の哀しそうな目が、まっ先に脳裏に焼き付いた
五輪旗の逆さま掲揚は故意なのか?
ジャンヌ・ダルクなのか死神なのかは分からないが、顔を隠した鎧姿の人物は、あたりまえのように受け取った五輪旗を持って堂々とステージへと向かい、制服を着た4人の男女に五輪旗を渡す。その中のいちばん背の高い男性が五輪旗を掲揚ポールのロープに結びつけ、スルスルと掲揚するのだが、なんと旗は上下逆に取り付けられていた。
あまりにも淡々と上下逆の五輪旗が揚がっていくので、本当にこれは単純ミスだったのかと疑いたくなってしまった。
旗をロープに結びつけ、ロープを引いて上に運んだ男性の帽子はてっぺんが赤く染められていた。何か意味があるのか、まったく関係ないのか? もともとこういう帽子なのか?
この「赤」がオリンピックからはじき出されたロシアの暗喩だったら面白いのだけれど……。
↑このてっぺんが赤く染められた帽子の男性の単純ミスなのか?
いうまでもなく↑これが正しい五輪旗
出エジプト記の金の仔牛?
逆向きの五輪旗が掲揚され、会場にいたコーラス隊がオリンピック賛歌を合唱する。その後ろに配置された巨大な牛の首と仔牛?(向かって左側)と馬の首と狼(右側)の像はどんな意味が込められているのだろうか?
ステージの後ろにある牛の首と仔牛の像
「金の仔牛」?
向かって右側には馬の首と狼
これもネット上では、旧約聖書の「出エジプト記」に出てくる「金の仔牛」だという解釈が多数寄せられた。
出エジプト記の32章に出てくる「金の仔牛」の話は、ざっと以下のようなものだ。
ヘブライ人をエジプトから脱出させたモーセは、シナイ山に籠もり、神から十戒の石版を授与されるが、その間、麓で待ちくたびれた民衆は、モーセの兄・アロンに「モーセは戻って来ないから、何かあったに違いない。代わりに我々を導いてくれる神を作ってくれ」と頼む。
アロンは民衆が耳につけている金のイアリングを外して集めさせ、溶かして仔牛の像を造った。民衆はそれを見て「イスラエル万歳! これこそ我々をエジプトから救い出してくれた神だ」と喝采した。
アロンは金の仔牛の像の前に祭壇を作り、次の日の早朝、生け贄を捧げ、みんなで飲み食いする大騒ぎをした。
主(神)はそれを見て怒り、モーセに告げる。「イスラエル人がどんなに強情で恩知らずかよく分かった。こうなったらもう容赦しない、連中を全滅させる。邪魔はするな」
モーセは驚いて、なんとか神をなだめて思いとどまらせ、十戒を記した2枚の石板を持って山を下りた。
麓では民衆が仔牛の像の前で踊り狂っていた。それを見たモーセは怒りを抑えきれず、石板を地面に叩きつけて砕いてしまった。そして仔牛の像を火にくべて溶かし、粉々にして水の上にまき散らし、無理矢理民衆に飲ませた。
モーセは兄・アロンを叱りつけるが、アロンは反省の色を見せず、「連中は所詮あの程度の頭しか持っていないんだよ」などと、しゃあしゃあと言い訳する。
モーセが民衆に向かって「主に従い、私と行動を共にする者は集まれ」と言うと、レビ族が集まってきた。
そこでモーセはレビ族に「剣を持って野営地中を回り、兄弟だろうが、友人だろうが、知り合いだろうが、子牛を礼拝した者を殺せ」と命じる。レビ族はモーセの命令に従ったので、その日のうちに約3000人が殺された。
モーセはレビ族に言った。「今日、きみたちは立派に主に仕えた。息子や兄弟を殺してでも、主に従った。必ずや素晴らしい祝福を受けるだろう」
翌日、モーセは少し冷静を取り戻し、山に戻って主に懇願する。「あの者たちは(偶像崇拝という)大きな罪を犯しましたが、どうか罪をお許しください」
主は、「私に背いて罪を犯した者は全員私の書から名前を消す(救済名簿から外す)。しかし、今はとにかく彼らを私が約束した地に導け。その後、私の使いがおまえの前に現れるようにする。しかし、今度のことは見逃すわけにはいかないので、彼らの罪は必ず罰する」
その言葉通り、主は、アロンの仔牛を礼拝した人々には大きな災いが下された。
なんとも怖ろしい神だが、ステージの後ろに置かれた像は、この「金の仔牛」なのか?
隣には大きな牛の首があるから、その隣りにある小さな動物の像が「仔牛」であることは間違いない。
しかも金色をしている。
これが出エジプト記に出てくる金の仔牛なのであれば、それが飾られたステージの前で繰り広げられる祭典は神が罰を下す対象となるものということなのか?
向かって右側の馬の首と狼は、黙示録に出てくる馬で、それが飛びかかる狼のように死をもたらすということなのか?
……と、かなり無理矢理な解釈に思えるかもしれないが、あそこにあのような像が据えられていることの意味を私は知らないので、分かるかたはぜひ教えてほしい。
選手宣誓。宣誓の間、宣誓者はオリンピック憲章に従う意志を表すために五輪旗の端をずっと持っていることが通例だが、男性はすぐに手を離し、ずっと紙片を見て読むだけ。普通は暗記してくるけれどねえ……
唐突に床下から「死神(ジャンヌ?)」が聖火を持ってせり上がってくる
聖火はオープニングで登場したジダンに渡され……
ジダンからナダルへ
ナダルは聖火を持って船に乗り込みセーヌ川を進む。船にはカール・ルイス、ナディア・コマネチ、セレナ・ウィリアムズが同乗
NHKの放送では、この女性がコマネチであることを最後まで認識できず、無言が続いた。カール・ルイスに関しても、女性アナウンサーが「カール・ルイスさんでしょうか……」と自信なさげに呟いたのを受けて、男性アナは「……そうなんですか?」と間の抜けた声で言っただけ。
船を岸で迎えたアメリ・モレスモが持つトーチに火が移される
レズであることを中傷されたこともあるモレスモが起用されたのはよく分かる。ところが、NHKではここでも、まったく別の選手の名前をあげて紹介するという恥ずかしいミスをした
この後、聖火は何人もの手に渡って、最後は気球を模した聖火台に点灯する。火が上ではなく下に燃えていて、聖火台全体が空に浮かび上がるという仕掛けに賞賛が集まったが、この炎は本物の「火」ではなく、電気で投影した光を水蒸気に反射させて炎のように見せているらしい。
そうなるとギリシャで採火されて、その火をリレーしてくる……という意味合いはどうなるんだろう。最後はフランスが誇る原子力発電所が作った電気の光ですけど何か? と開き直られている感じではあるね。まあ、「シンボル」なんだから電気でもなんでもそれらしく見えればいいじゃないかという考え方は嫌いじゃないけれどね。
それにしても、ジダンが聖火を最初に手渡した3人の子供たちはどうなったのか? 消えた(消された、連れ去られた)のか?
(そういえば、疑惑だらけの
マウイ島大火災の際に消えた大勢の子供たちのその後の報道ってあった? あれはどうなったんだろう)
ジダンは「死神」を見ていないはずなのに、当然のように聖火を受け取っている。正体を知っていて、全部仕組んだことだと理解しているからか?
しかも、この顔のない人物の正体は最後まで明かされないままだ。最初に登場したときは、マスクを取ると実は有名なあの人でした……みたいなことになるのかと思っていたのだが、そうはならなかった。
実は墓場から甦ったジャンヌ・ダルクだったのだよ、凄い種明かしでしょ、ということなのか?
こうした演出への賛否はさておき、3年前の東京五輪開会式を思い出してみよう。
総責任者(佐々木宏氏)がクビになり、さらに開会式直前で、音楽制作担当・小山田圭吾氏と、交代して
急遽総指揮を押しつけられた演出監督・小林堅太郎氏がとんでもない言いがかりをつけられてクビになった。思い起こすのも苦々しく、恥ずかしいドタバタ劇(
⇒当時の日記はこちら)だった。
それに比べれば、今回のパリ五輪の
- み:ミスが多い
- な:長い
- く:クセがすごい
- る:ルーズ
- う:ウザイ うるさい 鬱陶しい
「自由すぎる」開会式を羨ましいとも思う。
墓場から甦った坂本龍馬がグローバリストの手先となって日本を滅亡に導く……なんていう暗喩ともとれる演出の東京五輪開会式なんか、絶対に無理だものね。
……というわけで、2日にわたって長々と書いてきて、疲れてしまったよ。
いろんな説や解釈が噴出する異様な開会式だったけれど、単純に「自由と愛と平等を強調しまくっただけの、ある意味能天気な演出」というのが実際のところなのかもしれない。
でもまあ、これだけ議論を呼ぶ開会式は後にも先にももうないかもしれないし、世界史を学び直すきっかけにもなった。
これにて「パリ五輪開会式の穿った解釈祭り」は一旦閉幕としよう。
----------------------------------------------------
(まえがき より)
----------------------------------------------------
Amazonが使えないかたは、こちらからも買えます(ただし、送料がかかり、納期も遅れます)
製本直送にてご購入