「除染」は幻想を捨てることから始まる2011/09/26 21:57

■完全な「除染」なんてできない と結論されたリポート

山内知也 神戸大学大学院海事科学研究科教授が、「放射能汚染レベル調査結果報告書 渡利地域における除染の限界」というリポートを発表した。

「渡利小学校通学路除染モデル事業が8月24日に実施されたが、報告された測定結果によれば、各地点空間線量は平均して「除染」前の 68%にしか下がっていない」
「除染作業の実態は側溝に溜まった泥を除去したということであって、コンクリートやアスファルトの汚染はそのままである。道路に面した住宅のコンクリートブロック塀や土壌の汚染もそのままである。一般に、除染は広い範囲で実施しなければその効果は見込めない。今回の計測において通学路の直ぐ側の地表で 20 μSv/h に及ぶ土壌の汚染があった」


などとして、

「文字通りの『除染』は全く出来ていない。Cs-134 の半減期は2年、Cs-137 のそれは30年である。したがって、この汚染は容易には消えず、人の人生の長さに相当する。そのような土地に無防備な住民を住まわせてよいとはとうてい考えられない」

と結論づけている。

渡利地区に人を「住まわせてよいかどうか」という判断は簡単にはできないが、「除染」について多くの人が抱いている幻想を打ち砕く内容であることに間違いはない。

報道では「早く住民が戻れるように国が全力を挙げて除染に取り組むべし」といった論調が目立つ。そう言っておけばいちばんの安全牌だということだろうが、具体的な内容に踏み込まないで、単純化された正義として「除染事業」が暴走することを恐れる。
この問題を論じるためには、大前提として、「放射性物質を消滅させる技術は存在しない」という認識を全国民が持つことから始めなければならない。しつこいようだが、除染というのは、放射性物質を「移動」か「拡散」させることであって、消せるわけではない。
屋根に付着したセシウムを洗い流せば、屋根から流れ落ちたセシウムが付近の地表や排水に流れ込むから、排水枡や雨樋の出口などでは除染後にむしろ線量が高くなるのはあたりまえのこと。前出の「放射能汚染レベル調査結果報告書~」でもそうした結果を報告している。
では、除染──特に都市部の除染が簡単にはできないということを認めた上で、何を優先的にするべきなのか。
このリポートを書いた山内教授のように「そのような土地に無防備な住民を住まわせてよいとはとうてい考えられない」と結論づけるなら、そこから先、具体的にどうすればいいのか。
まず、そのような場所に、

1)住んではいけないので強制的に退去させる
2)住むか住まないかは住人の判断に委ねる

という選択肢がある。

1)の場合は、低線量被曝をしてもいいから今の場所に住み続けるという「権利」を奪うことになる。その結果、ストレスや経済苦で死期を早める人のほうが、放射線が原因で死ぬ人よりはるかに多いことははっきりしている。特に高齢者はそうだ。
それでも住民を強制的に退去させることは正しいことなのか。正しいとするなら、何を基準に線引きをするのか。(空間線量の数値だけでよいのか)

1)の場合も2)の場合も、住民がそこを出て新しい場所で生活をするための支援・賠償をしなければならない。その場合の支援はどうするのか。
例えば、豪邸に住んでいた金持ちと安アパート暮らしの貧乏人に対する支援(賠償)額に差をつけるのか、それともその人が所有していた不動産の価値には関係なく、一律で金を支払うのか、という問題が出てくる。
さらには、子供のいる世帯と大人だけの世帯では差をつけたほうがいいという考え方も当然出てくる。

事業所を失う場合や、移転した場合、事業そのものができなくなる場合の補償はどうするのか。
例えば、何十年もかけてその地区で信用を得て生徒数を増やしてきた学習塾などは、他の場所に移転しても同じ事業をすぐに始めることは不可能だ。温泉宿とかプロパンガス配給、新聞配達店など、その場所でしか営めない事業はたくさんある。
そうした個別の対応は到底不可能だと分かっているからこそ、国は「除染をして戻りましょう」と言っているのではないか。
出ていく決断をした人たちが、「効果が薄い除染などに税金を注ぎ込むくらいなら、移転費用として補償金を出せ」と考えるのは当然のことだ。

あまりにも問題は深刻かつ複雑。本気で検討し始めたらとんでもない金額の話になってしまうし、福島県が消滅しかねない。
その結果と言うべきか、現時点では、都市部の住民に対する補償はほとんどされていない。話題にすることも避けられている印象がある。
このまま「除染」だけが公共事業として進められると、本来、賠償を受けるべき住民たちの財産は踏み倒されたまま、税金が新たなビジネスに注ぎ込まれて、そこで儲ける者が出現するだけということになりかねない。

空間線量というのは、現時点では地表や建造物、植物などに付着したセシウムから出ているガンマ線(正確にはセシウムはベータ線を出して放射性バリウムになり、その放射性バリウムがガンマ線を出して安定バリウムに変わる。その過程で放射されるガンマ線)の数値がほとんどだ。排水溝などで飛び抜けて高い数値が出るという場合は、たいていはベータ線も一緒に計っている。ベータ線は空気中ではせいぜい1メートル程度しか飛ばないので、地表から1メートルの高さで測っている場合はベータ線の影響はほとんど数値に出ない。
これらを外部被曝した場合のことを指して、一部の「専門家」は、安全だ、まったく問題ない、と主張している。
外部被曝だけであれば実際そうかもしれない(そうではないかもしれないが)。
だからこそ、空間線量だけの議論に持ち込まれてはいけないのだ。
問題は放射線を出している物質を体内に取り込んでしまい、体内で被曝し続ける内部被曝。中でもいちばん恐ろしいのはプルトニウムを吸い込んで肺に付着させることだが、プルトニウムが本当に拡散していないのかどうか、信用できそうなデータがなかなか出てこない。このことのほうが問題だ。プルトニウムの検出には高価な機器と手間(長い検査時間)を要するからだが、まずはこれに金を注ぎ込んで徹底した調査をしなければ、どれだけの危険が存在しているのか分からない。
食品の検査態勢がまったく手薄であることも明白で、検査態勢強化のために金を惜しんではならない。
優先順位をつけるとしたら、そっちではないか。
もし、微量であってもプルトニウムやストロンチウムが広範囲に飛び散っているということが分かったら、それらを体内に取り込んで内部被曝するかどうかは、くじ引きのようなものになる。ほとんど防ぎようがない。空間線量が高い場所では放射性物質が多いわけだから取り込んでしまう確率も高くなるが、低いから安全だということにはならない。量の問題以前に、取り込むか取り込まないか、○か×かという問題になってくるからだ。
土やアスファルト、コンクリートの表面を剥いで移動させたりする作業をすれば、何かに付着して動きを止めていたプルトニウムをまた空中に舞い上がらせ、それを吸い込む危険性も増すだろう。
プルトニウムはアルファ線を、ストロンチウムはベータ線を出すが、これらは例の「ホールボディカウンター」でも検出できない。つまり、セシウムよりずっと危険な核種を体内に取り込んでしまっているかどうか、知る術がない。
となれば、それが原因で死んだとしても証明ができない。
何から何まで分からないのであれば、内部被曝の確率を下げるためには、もうもうと粉塵を巻き上げながら道路の表面を大規模に剥がし始めた福島になど暮らしたくない。ひたすら福島から遠くで生活するしかない、という結論に達する。
子供を福島から遠ざけたいと思うのは、親としては当然のことだろう。
この危険回避には金がかかる。つまり、できる人とできない人がいる。
命を守れるかどうかは金次第という世界。

原子力エネルギーを使うのはやむをえないという考え方は、こういう不平等社会を「仕方がない」と思う人たちの考え方だ。そういう考えの人たちが「除染」を熱心に口にするときは、注意したほうがいい。
 
裸のフクシマ

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第2章 国も住民も認めたくない放射能汚染の現実
第3章 「フクシマ丸裸作戦」が始まった
第4章 「奇跡の村」川内村の人間模様
第5章 裸のフクシマ
かなり長いあとがき 『マリアの父親』と鐸木三郎兵衛

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