内田 樹 講演「資本主義末期の国民国家のかたち」 まとめ2014/11/29 17:00

立憲デモクラシーの会 が2014年11月7日、早稲田大学8号館106教室で行った公開講演会の第一部・内田樹氏による基調講演の内容が⇒ここに掲載されています。
非常にすぐれた内容ですが、400字詰め原稿用紙に換算すると約80枚以上という長文になるため、読み切るのが苦痛だという人もいるでしょう。
お節介かと思いましたが、一人でも多くのかたに読んでいただきたいので、勝手に26枚程度の長さにまとめてみました。
原文に極力忠実にまとめることを心がけましたが、一部、言い換えたり表現を工夫した部分もあります。
疑問に思う部分などありましたら、原文で確認してみてください。


日本の戦後史は「のれん分け戦略」から始まった
なぜ安倍政権のようなデタラメな政治がまかり通っているのか?
彼らには彼らの「主観的一貫性」がある。それは「対米従属を通じての対米自立」──端的に表現すれば「のれん分け戦略」とも呼ぶべきものだ。
日本人にとっては、「徹底的に忠義を尽くし、徹底的に従属することによって、ある日、天賦のごとく自立の道が開ける」という構図には少しも違和感がない。

敗戦直後の占領期日本では、「この国にはもはやアメリカに対して抵抗するような勢力は存在しない」ということを強く訴えた。占領体制から脱しても、決してアメリカに反発したり、アメリカに対抗する敵対勢力と同盟したりすることはないですよ」と誓約しないと、主権が回復できなかった。それ以外に選択肢がなかった。

1970年ぐらいまでの戦後四半世紀の政治家たち(吉田茂、岸信介、佐藤栄作あたりまで)は、対米従属を通じてアメリカの信頼を獲得し、なんとかアメリカの属国状態から抜け出して自立できるように、アメリカに対して「のれん分け」戦略を貫いた。そしてそれは実際に、1951年のサンフランシスコ講和条約(戦後たったの6年で形の上では主権回復)、1972年の沖縄返還で、「対米従属していればご褒美がもらえる」という強烈な体験となった。

沖縄返還は、当時の佐藤栄作政権がアメリカのベトナム戦争に対して全面的な後方支援体制をとったことへのご褒美。アメリカの帝国主義的な世界戦略に無批判に従属する日本の態度は国際社会からも非難されたが、長期的な国益という点ではそれなりの合理性があった。
また、政治家だけでなく、官僚も学者も知識人も、日米関係というのは非常に複雑なゲームだと理解していて、できるだけ少ない従属で、できるだけ多くの主権回復を得るという外交ゲームとしての複雑な取引を懸命にやっていた。

「のれん分け戦略」の限界と劣化
しかし、「国家戦略」としての対米従属戦略が有効だったのはこのへんまでで、1972年の沖縄返還以降、現在までの42年間は具体的な成功例が何もない。
成功例がないのに、政治家が世代交代して、「対米従属していさえすればよい」という怠惰で単純な外交に堕してしまった。

特に1980年代からは外交の緊張感が一気に失われた。面従腹背のポーズのうち「面従」だけが残って、「腹背」が消えてしまった。
対米従属という10円硬貨を入れればご褒美のガムが出てくる自動販売機のような、ほとんど幻想のようなものになってしまった。

政界、財界、メディア、学会、どこにも、対米従属・日米同盟機軸以外の選択肢を考える力を持つ人がいなくなった。
フィリピンはアメリカの軍事的属国だったが、憲法を改正して外国軍の駐留を認めないことにした。その結果、米軍はクラーク、スーヴィックという最大の海外基地からの撤収を余儀なくされた。
韓国でも、激しい反基地運動を展開した結果、在韓米軍基地は大幅に縮小され、ソウル市内にあった龍山基地も移転させられた。
しかし、日本のメディアは、韓国やフィリピンにおける反基地運動をほとんど報道しなかった。

以前、海外特派員協会に呼ばれて講演したときに、司会のイギリス人ジャーナリストから「韓国の反基地運動についてはどう思うか」と質問され、「意見もなにも、そのこと自体を知らない」と答えたら、驚かれた。「安全保障や外交のことを話している人間が、隣国の基地問題を知らないのか?」と。しかし、実際、日本のメディアからそんな話を聴いたことがなかった。

韓国の場合、激しい反対運動の結果米軍基地は縮小させたが、「戦時作戦統制権」はまだアメリカに持たせている。つまり、米軍基地は邪魔だから出て行ってもらいたいが、北朝鮮と一戦構えるときには米軍に出動してほしい、という複雑でトリッキーな米韓関係を展開している。
フィリピンもそうだ。一旦は米軍基地を邪魔だから出て行けと追い出しておきながら、南シナ海で中国との領土問題が起きると、やはり戻ってこいと言って、米軍駐留体制を再構築しようとしている。
どちらも支離滅裂なように見えるが、「自国の国益を最優先」ということでは極めてシンプルな論理だし首尾一貫している。

日本は主権国家としての外交をしていない
自国の国益を追求し、他国の国益との間ですり合わせをしながら落としどころを探す、という「主権国家としての外交」を日本だけが放棄してしまった。
日本だけが、アメリカ相手にそういう外交ゲームをしていない。アジア諸国がアメリカと五分でシビアな折衝をしている中で、日本だけがアメリカに何も要求せず、唯々諾々とアメリカの指示に従っている。近隣の国がアメリカ相手に堂々とパワーゲームを展開しているというニュース自体が、日本ではほとんど報道されない。

その典型的な例が、鳩山首相が「普天間基地を国外、それが無理ならせめて県外に移転したい」と言ったときの日本国内の反応だろう。
日本国土のわずか0.6%の面積である沖縄に、国内の75%の米軍基地が集中している異常さを解消したいというのは主権国家として当然のことだろうが、これに対して外務省と防衛省はたちまち「とんでもない暴言」という反応をして、首相の足を引っ張り、退陣の流れを作った。

このとき、アメリカが「鳩山をつぶせ」と指示したとは思えない。日本国内から自発的に「鳩山が首相でいるとアメリカの国益が損なわれるリスクがあるから引きずり下ろそう」という動きが出たとしか見えない。政治家、官僚、メディアが総力を上げて「アメリカの信頼を失った鳩山は辞めるべきだ」という流れを作った。
これなどは、「アメリカの国益を最大化すること=日本の国益」という単純化された信仰心に近いものを日本の指導者層が持ってしまった、知的頽廃の典型例ではないか。

映画監督のオリバー・ストーンが2013年に来日し、広島で講演したときの発言。
「日本にはすばらしい文化がある。映画、音楽、美術、食文化……どれもすばらしい。しかし、日本の政治には見るべきものが何もない。日本の歴代総理の中で、世界がどうあるべきかについて何ごとかを語った人は一人もいない。いかなる大義も掲げたことがない。日本は政治的には単なるアメリカの属国(client state)、衛星国(satellite state)だ」
これはアメリカ人のみならず、国際社会から見たときの日本に対するある種の典型的な印象ではないか。

主権国家の政権が配慮するのは、国土の保全、国民の安寧、通貨の安定、外交や国防についての最適政策の選択……といったことだろう。鳩山首相の手法が稚拙だったとしても、望んだ内容はまともなことだった。しかし、主権の第一条件である「国土の回復」を要求した従属国(日本)の首相が、国土を占領している宗主国(アメリカ)にではなく、占領されている側の自国の官僚や政治家やジャーナリストによって攻撃を受けるというのは倒錯的という他ない。

劣化・倒錯には理由がある
このような病的傾向が生じたのは、対米従属を通じての対米自立という敗戦直後に採用された経験則の有効性について、そのつど吟味することなく、機械的に適用し続けてきたからだ。
沖縄返還後42年間、アメリカから奪い返したものは何もないのに、このままさらにもう50年、100年と、この「のれん分け戦略」を継続すべきだという判断の根拠は何なのか。

それは、対米従属路線を疑うことなくひた走ってきた結果「今日の地位」を得た人たちが国のトップにいるからにほかならない。彼らにとっての国益とは自己利益(私欲、利権)になってしまっている。かつてのプレイヤーたち(政治家、官僚、学者、ジャーナリスト……)は、対米従属を取引として日本の国益を引き出そうとしてゲームを組み立てていたが、今のプレイヤーたちは違う。アメリカの国益を増大させると「わが身によいことが起こる」と考える人たちが政策決定の要路に立っている。

この度合が行き過ぎているため、アメリカを始めとする諸外国は日本の政治家を「国益を増大しようとしているプレイヤー」ではなく、単なる売国奴(内田氏は清朝末期に使われた「買弁(ばいべん)」という言葉を使用)と見ている。二国間の相反する国益をすり合わせるゲームのプレイヤーとしてではなく、最初から国益を捨てて八百長負けを持ちかけているわけで、まともなゲームの相手として見られない。


秘密保護法、集団的自衛権の意味
例えば、特定秘密保護法。これは民主国家である日本が、国民に与えられている基本的な人権である言論の自由を制約する法律であって、国民にとっては何の利益もない。そのような反民主的な法律の制定を強行採決をしてまで急ぐ理由は「こうした法律がなければアメリカの軍機密が漏れて、日米の共同的な軍事作戦の支障になる」ということらしい。アメリカの国益を守るためなら日本国民の言論の自由などは抑圧しても構いませんよ、と安倍政権は自ら申し出たわけだ。

倒錯もここまでくるとアメリカも気味が悪いだろう。なぜ日本政府は国民の基本的人権の制約という致命的な犠牲を自ら進んでアメリカのために捧げるのか、と。

真剣に諜報問題、防諜の問題を考えるなら、国家の中枢に入り込んでしまった自国民スパイからの情報漏洩を防ぐことが緊急課題だが、特定秘密保護法は、政府や自国の官僚にはモグラはいない、身内から外に機密が漏れることはないという前提で制定されている。
実際には日本の国家権力の中枢からは日常的に国家機密がアメリカに漏洩しているだろう。政治家や官僚たちが個人の利益を増やし、保身を固めるためにアメリカに機密を漏らすシステムの存在を隠し、よりいっそう堅牢なものとするための法律が特定秘密保護法である。
アメリカ国務省は、日本人は頭がおかしくなったと思ったのではないか。

集団的自衛権もそうだ。
集団的自衛権とは「他人の喧嘩を買う権利」のこと。
世界史における発動例を見る限り、ハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱、ベトナム戦争、アフガニスタン侵攻など、ソ連とアメリカという二大超大国が、自分の「シマ内」にある傀儡政権が反対勢力によって倒されそうになったときに、「てこ入れ」するために自軍を投入するときの法的根拠として使った事例しかない。
しかし、日本にはてこ入れすべき「衛星国」や「従属国」はない。

現実的にはアメリカが自分の「衛星国」や「従属国」にてこ入れするときに、日本もくっついていって、アメリカの下請で軍事行動をとるという形しかありえない。
アメリカでは、自国の若者を中東や西アジアやアフリカに派兵して死なせたり精神を病ませることにもう耐えられなくなっている。そこで無人飛行機を飛ばしたり、離れた場所からミサイルを打ち込んだりしている。

どうしても地上戦が必要な事態には、民間の警備会社(傭兵会社)に戦闘のアウトソーシング(死者の外部化)を依頼する。これには莫大な金がかかる。
ところが、日本が集団的自衛権の行使容認を閣議決定してくれた。これからは日本の自衛隊が死者の外部化を無料でやってくれるというのだ。
これからは自衛隊が海外に出ていって自衛隊員がそこで死傷する。アメリカに代わって日本がテロリストの標的になる。テロを防ぐための莫大な費用も日本が率先して分担してくれる。正気か? と、アメリカはびっくりしたことだろう


(ここから3ブロックは原文をそのまま掲載)
 僕はいつも、自分が国務省の小役人だったらという想定でものを考えるんですけれども、上司から「内田君、日本は特定秘密保護法といい、集団的自衛権行使容認といい、アメリカのためにいろいろしてくれているんだけれど、どちらも日本の国益に資する選択とは思われない。いったい日本政府は何でこんな不条理な決断を下したのか、君に説明できるかね」と問われたら、どう答えるか。

「たしかに、国益の増大のためではないですね。沖縄返還までの対米従属路線であれば、日本が犠牲を払うことによってアメリカから譲歩を引き出すというやりとりはあったわけですけれども、この間の対米従属をみていると、何をめざしてそんなことをしているのか、それがよく見えない。たぶん、彼らは国益の増大を求めているのではないんじゃないか」と。そう答申すると思います。

今、日本で政策決定している人たちというのは、国益の増大のためにやっているのではなくて、ドメスチックなヒエラルキーの中で出世と自己利益の拡大のためにそうしているように見えます。つまり、「国民資源をアメリカに売って、その一部を自己利益に付け替えている」というふうに見立てるのが適切ではないかと思います、と。

(要約に戻る)
国民資源と本当の「国益」
「国民資源」とは、国がこれから100年、200年続くためのストックのことだ。具体的には、民主制という治世システム、国土、国民の健康、文化……。これに安易に手をつけてつぶしてはいけない。

ところが、今の日本政府は、保持すべき国民資源を次々と商品化して市場に安売りしている。それを世界中のグローバル企業が食いたい放題に食い荒らすことができるような仕組みを政官財が率先して作ろうとしている。
彼らのそういう気違いじみた行動を動機づけているものは何か?
国益の増大に結びつく回路が存在しない以上、私利私欲の追求でしかない。

これは典型的な「買弁」的行動様式であり、ふつう、主権国家では起こらない。植民地でしか起こりえない。
買弁とは、自分の国なんかどうだって構わない、自分さえよければそれでいいという考え方をする人たちのこと。日本で「グローバル人材」と呼ばれているのは、そういう人たちのこと。「グローバル」という言葉はすべて「買弁」という言葉に置き換えても意味が通るのではないか。文科相の「グローバル人材育成」戦略などは「買弁人材育成」と書き換えた方がよほどすっきりする。

安倍晋三という人物は、内心、対米自立を果さなければならないと思ってはいるのだろうが、それを「国益の増大」というかたちで考える能力がない。そういう複雑なゲームができるだけの知力がない。だから、アメリカに対して一つ従属的な政策を実施した後には、一つアメリカが嫌がることをする、という子供のようなゲームを仕掛けている。
集団的自衛権成立の後に、北朝鮮への経済制裁を一部解除。沖縄の仲井真知事を説得して辺野古の埋め立て申請の承認を取り付けた後はすぐに靖国参拝。自分が個人的にしたいことでアメリカが嫌がりそうなことをわざとやってみせる。それでアメリカと五分五分の交渉をしていると自己満足しているのだろうが、ここまでくるとお笑いにさえならないレベル。



「世界」も「国」も二次元の地図ではない
さて、ではこの国をどうすれば立て直せるのか。
世界を二次元的に「地図」としてとらえ、その中での自分たちの取り分(パイ)はどれぐらいかという点で国威や国力を格付けしていてはいけない。それはビジネスマンの発想。
国とはそういうものではなくて、「時間の中で生きている」もの。
我々がこの国を共有している、日本なら日本という国の構成メンバーであるというのは、同時代に生きている人間だけではなく、この国で死んだ人、これから生まれてくる子供たちも含まれてのこと。
過去に生きた人たち、未来を生きる人たちまで含めて、一つの多細胞生物のような共生体を私たちは形づくっている。そこに「国」というものの本当の強みがある。

今の日本にはグローバリズムとナショナリズムが混交している。
グローバリストはしばしば同時に暴力的な排外主義者でもある。なぜなら彼らは世界を二次元的にしか捉えていないから。「グローバルな陣地取りゲーム」をして、自分たちの取り分を増やそうとする。その点でグローバル資本主義者と排外的ナショナリストは同質だ。

排外主義ナショナリストたちはよく死者を自説の傍証として呼び出し、都合のよい文脈で使っているが、本当の意味で死者への敬意がない。自説に役立つ死者は利用するけれど、自説を覆す死者や、自説に適合しない死者たちは存在しなかったことにする。
だから伝統文化に関しても関心がない。これから生まれてくる人たちの人生にも興味がないし、責任も持たない。

国をたて直すための2つの「資源」
「くに」を立て直そうとするときに僕らが求める資源は、つまるところ二つしかない。
一つは「山河」。
国破れて山河あり。政体が滅びても、経済システムが瓦解しても、山河は残る。そこに足場を求めるしかない。
山河というのは山紫水明の景観というだけでなく、言語であり、宗教であり、生活習慣であり、食文化であり、儀礼祭祀である。我々自身を養い、我々自身を生み、今も支えている。人工的なものと自然資源が絡み合ってつくられた非常に複雑な培養器のようなもの。

もう一つは死者。
死者たちから遺贈されたもの。歴史。それを僕たちの代で断絶させてはならない。未来の世代に伝えなければならないという責務の感覚。

次に取り得る方法論。
僕らは、今存在するもの、具体的に物としてあるものを積み上げていって一つの組織や集団をつくっているのではなくて、むしろ「そこにないもの」を手がかりにして、組織や身体、共同体というものを整えている。
これは理屈ではなく僕は合気道などを通して実感としてそう思っている。
今、日本人に求められているものは、日本人がその心身を整えるときのよりどころとなるような「存在しないもの」なのではないか。
実際には存在しないかもしれないけれど、ありありと思い浮かべることができるもの。それを手にしたと感じたときに、強い力が発動するもの。自分の体が全部整っていて、いるべきときに、いるべきところにいるという実感を与えてくれるもの。

例えば、太刀というものを、「手を延長した刃物」ではなくて、それを握ることによって体が整い、これをよりしろとして巨大な自然の力が体に流れ込んでくるような装置と考えてみる。
今、日本が主権国家として再生するために、僕らが必要としているものも、そんなものかもしれない。
存在しないもの、存在しないにもかかわらず、日本という国を整えて、それが必要なときには必要な場所に立たせ、何をなすべきかを教えてくれるようなもの。そのような指南力のある「存在しないもの」を手がかりにして国を作って行く。
日本国憲法はそのようなものだと思う。

日本国憲法は理想主義的な憲法であって、この憲法が求めている「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する」ことは、たぶん未来永劫実現しない。この地上では実現するはずがない。
でも、そのような理想を掲げることは、国のかたちを整える上で非常に有効なことだ。
何のためにこの国があるのか、自分の国家は何を実現するために存在するのか、ということを知るためには、我々が向かっている、たどりつくことのない無限消失点をしっかりとつかまなければいけない。それなしではどのような組織も立ちゆかない。

私が考える効果的戦略・方法論
現在の安倍政権は、アメリカとも、中国とも、韓国とも、北朝鮮とも、ロシアとも、近隣の国どこともまともな外交会談ができない。ほとんど「来なくていい」と言われている。
いくらなんでももうちょっと合理的な思考をする政治家に日本を統治してほしいという要望が、国内より国外で起きている。そうでないと外交がゲームにならないから。
まともな国だったら、個人的な政治的延命のために国政を左右するような人間とは気味悪がって交渉したくないと思うだろう。ここまでひどい政権だと、長くは保たないのではないか。

安倍政権である限り、これから先、対米、対中、対韓、対ロシアのどの外交関係もはかばかしい進展はないだろう。どの国も「次の首相」としてもう少しもののわかった人間が出てくることを待っていて、それまでは未来を縛るような約束は交わさないつもりではないか。

ただ、安倍晋三が退場しても、次に出てくる政治家もやはり別種の「買弁政治家」であることに変わりはない。看板は変わっても、本質は変わらない。

では、このような政治体制を批判する有効な方法はどんなものだろうか。
彼らが際立って邪悪であるとか、愚鈍であるとか言う必要はない。そうした方法は有効ではない。
僕は、為政者に向かって、あなた方はこういうロジックに従ってこのような政策判断をして、こういう動機でこの政策を採用し、こういう利益を確保しようとしている……ということをはっきり告げることで、政治家本人にも、それを結果的に支えてきた国民にも「メカニズム」を開示していきたい。
彼らの中に走っている主観的な首尾一貫性、「合理性」をあらわにしてゆく。その「学術的」作業こそが、最も強い批評性を持っているだろうと僕は思う。

知識人のネットワークを政治的な運動として展開するということに対しては、その有効性に対して僕はいささか懐疑的である。
人の暴走を止めようと思ったら、その人が次にやりそうなことをずばずば言い当てて、そのときにどういう大義名分を立てるか、どういう言い訳をするか、全部先回りして言い当ててしまえばいい。それをされると、言われた方は不愉快だから、じゃあ違うことをやろうということになったりもする。そういうかたちであれば、口舌の徒でも政治過程に関与することができるのではないか。

(最後の部分はそのまま転載)
今、現実に日本で国政の舵をとっている人たちが何を考えているのか、どういう欲望を持っているのか、どういう無意識的な衝動に駆動されているのか、それを白日のもとにさらしていくという作業が、実際にはデモをしたり署名を集めたりするよりも、時によっては何百倍何千倍も効果的な政治的な力になるだろうと僕は信じております。
 私も、これからこういう厭みな話をあちこちで語り続ける所存でございます。何とかこの言葉が安倍さんに届いて、彼がすごく不愉快な気分になってくれることを、そして俺はこんなことを考えているのかと知って、ちょっと愕然とするという日が来ることを期待して、言論活動を続けてまいりたいと思っております。


(2014年11月7日 立憲デモクラシーの会 公開講演会 基調講演
「資本主義末期の国民国家のかたち」  内田樹)

☆原文(http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/activities2)を要約

原文は講演を丸ごと書きおこした文章で、400字詰め原稿用紙で約80枚ありますが、それを一部アレンジしながら約26枚分に縮めてみました。(まとめ文責:たくき よしみつ)