バート・バカラックと添田啞蝉坊2021/04/01 11:38

92歳になったバカラック
NHKの「ららら♪クラシック」でバカラックの特集をしていた。
バカラックのメロディを聴くと、それだけで涙が出る。こんなメロディを自分は作れるだろうかと悩んだ若い頃を思い出すからだろうか。
平気でオクターブ飛ぶようなメロディ。それなのに不自然さはなく、快感が生まれる。コードを鳴らしながらメロディを書くという作曲法では決して生まれそうもないメロディ。それでいて、コードはメチャメチャ凝っている。

バカラックの音楽にしびれているというわけではない。ディオンヌ・ワーウィックの歌い方は好きじゃないし、アレンジもなんだか紅白歌合戦用の大袈裟な味みたいでしっくりこない。
歌詞もひどい。ハル・デビッドとなぜ組んでいたのか理解できないくらい能天気な歌詞。
でも、バカラックが書いたメロディにはとことんしびれる。

バカラックのような、あるいはバカラックを超えるようなメロディを書きたい。そう思い続けてきたが、60代後半になった今、自分のメロディ創成能力が著しく落ちてしまったことは認めざるをえない。
若いときのように、何かの拍子でパッと出てきたメロディがいいメロディだった……ということがなくなってしまった。
だから、今はすごく時間をかけて作曲している。一つ一つの音を何度も何度も確認しながら、譜面に書いてみて、数日してそれを聴き返して、こんなんじゃつまらない、この音はこっちのほうがいい、この音符は減らして伸ばしたほうがいい……とか、そういう作業を延々繰り返しながら仕上げている。
それでも、緻密に作ったからいいメロディになるわけではなく、むしろ、勢いのない、ありがちなメロディだなあ……と思いながら、最後は、捨てるよりは形にしておこう、と思い直して、録音する……。

バカラックは92歳になったそうだ。
1928年5月12日生まれだから、27歳年上。生きていれば親と同じ歳だ。もうすぐ彼は93歳になり、私は66歳になる。
現在のバカラックへのインタビュー映像を見たが、さすがに生気がない。それでもしっかりと言葉を選びながら、今でも作曲していると言いきる。
すごく時間をかけて一曲を仕上げるという話が印象的だった。それは歳を取った今だからそうなのか、若いときの傑作群もそうして生まれたのか、そこが知りたい。
『サンホゼへの道』のようなメロディが瞬間的に生まれたのではなく、何日も格闘した結果生まれたのだとしたら、私の今までの認識が違っていたことになる。ああいうメロディは、時間をかけてリファインしてできるものではないと思っていた。

時間をかけてあんなメロディにたどり着くことがありえるだろうか? ありえるのなら、私が知らない世界がまだある、ということなのかもしれない。

添田唖蝉坊

歳を取って脳が劣化してきたというだけでなく、今の社会があまりにもひどいので、正気を保つだけで精一杯になっている、というのも大きな問題だ。
ふざけた話で埋め尽くされる毎日。そこに何かを発信することがとても虚しい。
しかし、黙っていられない性分に生まれついているため、なんだかんだと(今もこうして)文章を書いてしまう。
バカラックのメロディの素晴らしさに涙するのは、ああいう価値を共有できる世の中にまた戻るのだろうか、という思いからかもしれない。
残された時間が限られている以上、くだらないものを相手にせず、ひたすら自分にとって価値の高いと感じられるものに挑戦しながら死にたいと思う一方、今の世の中で何かを発信する方法をあれやこれやと考えてしまう。この中途半端さで、人生を棒に振っているんだと分かっているのに。

私は、生まれたときの名前は「添田能光」だった。
4歳の頃、両親が離婚し、実母は旧姓の「細野」に戻したため、母親に引き取られた私は「細野能光」になった。
幼稚園で、ある日、園児たちの前で「そえだくんは今日からほそのくんになりました」と言われたのを、今でも覚えている。
その後、母親は再婚し、私は再婚相手の養子になったため「鐸木能光」になった。

母親は父方の細野家が群馬県の伊勢崎町(現・伊勢崎市)で2番目に裕福な蝋燭問屋だったことや、母方の祖母が「白河城最後のお姫様」(幕府老中・阿部正外の娘)だったこと、再婚相手である夫の祖父が鐸木三郎兵衛であることなどを幼い私に何度か教え込もうとしたが、私の父方である添田家のことはまったく口にしなかった。
私の実父の写真などもすべて処分されていて、私は実父が死んで一周忌の席に呼ばれるまで、実父の顔を知らないまま大人になった。

自分の父方のルーツに興味を抱いたのは30代後半くらいだろうか。父方の叔母(実父の妹)がわざわざ戸籍謄本を取って送ってくれた。

実父の実家は多分、今は建築業で、実父の母方には医療関係の遠い親戚がいるようだ。
もちろん交流はない。

閑話休題。
で、その「添田」という姓は福島県南地域ではかなり多い姓なのだが、添田姓で有名になった人物を捜すと「添田唖蝉坊」という演歌師(明治5=1872-昭和19=1944年)が出てくる。
相当面白い人物だったようだが、遠い祖先ということはないだろう。
でも、唖蝉坊が現代に生きていたらどんな「演歌」を歌っただろうという想像を、だいぶ前(20年くらい前?)からしていた。
やってみようかと何度か思ったが、その度に「いやいや、それは俺の役割ではないし、合ってない」と思い、やめた。
しかし、「どうせもう長くないのだから」という心の中の囁きに、一度だけ耳を傾けてみた。
唖然とするほどくだらない世の中に、ひねくれまくった形で主張する「某」人物。添田唖然某。


タヌパックバーチャルバンドのメンバーにも声をかけて、こんなのをやってみた↓

腐ったガスは抜かないとね。国中に充満して、みんなおかしくなってしまう。元から絶たないとダメ! 消えろ~!

ベースのテンキチは素直だから、何にでも真面目につき合ってくれる。いいやつだ。
ニャンニーニョは太鼓を叩ければどんな曲でもご機嫌。つき合いやすいやつだ。

唖然某はその後も、ときどき酔っ払って小さな毒を吐くが、ただのため息として消えていく。
オモテナシ節

何を見せられているんだ? 何を見せられているんだ?
人が消えた町の中に 立派な駅前だけ作り
作り笑顔で著名人とやら ゆっくりたらたら走ってる
何を見せられているんだ? 何を見せられているんだ?
どこかで見たような気がしたら ああ、あの「桜を見る会」か
作り笑いの著名人とやら 誰かを囲んで はい、ポーズ
何を見せられているんだ? 何を見せられているんだ?
世界の国からコンニチハ それもかなわず開き直って
わけの分からんショータイム これが日本の「お・も・て・な……」
いわせね~よ! とツッコむやつは カメラの前には出られません
アベノマスクして自粛忖度 裏ばっかりで表なし
お化けみたいな オモテナシ節
悪夢が続くオモテナシ節

イヤイヤ節

ソーシャルディスタンスとりましょう なんですかその横文字は
「社会的距離」ってなんですか? 「打ち解けた距離」ってなんですか?
間隔とらなきゃイヤイヤ~ こっち見て喋っちゃイヤイヤ~
ああ、そういうことですか それがソーシャルディスタンス?
毎日起きるとこの世界が 狂った社会のまんまです
こんな世界で合っているのか? いつまで続く悪い夢
間隔とらなきゃイヤイヤ~ それ以上近づいちゃイヤイヤ~
マスクの向こうに隠された あなたの顔も忘れそう
侃々諤々議論はしても 何も生まれぬ無力感
唖然呆然仰天愕然 人間なんてラララララ
そろそろ気づいていい頃だ こんな社会はおかしいと
時を戻そう そろそろ気づこう 基本が狂っていたのだと
コロナコロナと騒ぐより 社会の土台を見直して
コツコツ変えていかなくちゃ ウイルスにさえ笑われる
こんな社会はイヤイヤ~ こんな人生イヤイヤ~
霧の中で 目を凝らすのだ このまま死ぬのはイヤイヤ~

明治大正の頃と違って、今はこうした「演歌」を作る唖蝉坊や川上音二郞(文久4=1864-明治44=1911年)のような人物は現れない。
つまらないねえ。



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