舛添要一氏は認知症なのか──という考察2016/06/16 22:15

「舛添おろし」というよりは、一種の憂さ晴らしショーは、辞任であっさり終了らしい。
このお祭り騒ぎを、我が家では「あの人は軽度の認知症になってしまったのではないか」という見立てで眺めていた。
  • 一つのことに執着する(権力の座にしがみつく)
  • 善悪の判断がつかない(極端な公私混同)
  • 異常行動(視察の大半が美術館めぐり)
  • 脇が甘い(少額の出費をバレバレの名目で落とそうとする)
……認知症っぽいよなあ……だって、あれだけ頭のいい人間がやることにしてはあまりにもアホすぎるし……。

果たしてそうなのか? もう一度分析してみることにする。

最初に、2014年2月に、ある人から受けた質問に対して、かなりイライラしながら書いた返信のことを思い出して読み返してみた。
こんな内容だった。

舛添氏は本物の悪党、というよりも、悪党組織に魂を売り渡している小物ですね。
そのことを僕は四半世紀以上前の『朝まで生テレビ』で感じました。
原発の是非を巡って討論しているとき、彼は推進「寄り」に位置していました。自分はすべて理解している知恵者なんだという素振りで。
そのとき彼がさらっと口にした言葉がきっかけでした。
舛添氏は、反原発の論客として呼ばれていた槌田敦氏に対して、
「槌田さんのエントロピー論は本来ならノーベル賞級の、日本が世界に誇れる物理学者の仕事だと私は認めていますが……」と言ったのです。
この時点では、僕はまだ槌田敦のエントロピー論というのを知りませんでした。ですが、この舛添氏の「槌田さんはノーベル賞級の~」という一言が引っかかって、彼は何を知っているのだろうと思い、『資源物理学入門』(NHKブックス)を買って読んでみたのです。
槌田敦氏と一緒に出ていた室田武教授の『エネルギーとエントロピーの経済学』(東洋経済新報社)も併せて読みました。

とてつもない衝撃を受けました。
そうだったのか! と。
それまでもやもやしていたものがすべて、さ~~っと霧が晴れるように理解できました。

そして改めて知ったのです。舛添要一という男は、これを読んで、内容を理解した上で、ああいう行動(権力側に常につくという行動原理)をとっている人間なのだと。

彼は、「他の馬鹿な連中とは違って、俺は原発の闇を知っている。でも、現実社会ではほとんどの人間がそのことを理解できない。結果、巨大な力に利用され、呑み込まれていく。それが社会というものなんだよ。あんたがどんなに正しい論を構築して訴えても、社会はそれを理解できないんだ。正論を言えば言うほど社会の中では排除され、出世できなくなる。俺はそういう生き方はしない」と、暗に言いたかったのでしょう。
悪党に徹すればいいものを「本当は分かっているんだぜ。俺は他の連中と違って馬鹿じゃないからな」とアピールしたいというスノッブ根性が、「私は槌田敦さんはノーベル賞級の~」という余計な一言になって現れたのです。(おかげで僕は重要なことを学ぶきっかけをもらったわけですが)

つまり、彼は「分かった上で」やっている。
正義や合理性を訴えても、所詮、現実の世の中では力を持っている悪党集団に勝てるわけがない。民主主義なんてのはお題目で、民衆は馬鹿の集団なのだから、頭のいい人間は、最初から力のある悪党集団の側にたてついて一生を棒に振るようなことはしない──という行動理念で生きている。
物事の道理を理解できない政治家が悪行を働いているのとは違って、分かっているのに正しいことをしない、そういう人間なのです。

だから、今度の都知事選でも、彼は、本音としては「馬鹿ども相手で疲れるなあ」と思いつつも、都知事という権力者の椅子は悪くない、と思って出てきたのでしょう。そんな人物を都知事の椅子に座らせたらどういうことになるか……。
それでも、多くの都民は「舛添が安全牌かな」という程度の意識で舛添氏に投票する。その「安全牌」という臭いは、自分たちのせこい保守意識から出てくるわけですが、長い間瞞され、利用されてきた「自分にはなにもできない。世の中なるようにしかならない」という「おこぼれちょうだい主義」の性癖がどんどん劣化して、今や自分たちのささやかな日常さえ吹っ飛ばされる危機に面していることが察知できなくなっている。
……これが現実です。

政治の世界に最低限度まともな品格や理性を持った人間を送り込まないと、一気に最悪の道を突っ走る。「今はもう戦前ではなく戦時中だ」という警告はその通りです。
構造を変えない限り、よい方向には進まないのです。
構造を変える方向に進ませるには、現時点でどうすることがいちばん「マシ」なのか。
何が最悪なのか。
その最悪を避けるためには何をしてはいけないのか。

それをしっかり考えられないと、社会運動、市民運動も、うまく取り込まれ、権力者の延命に利用されてしまいます。

勉強しない人が熱心な運動をしているのをよく見ます。
そういう人は、読むべき本を読まず、情報を自ら分析しようとせず、自分の感性に合った(要するに「好きな」)人の言葉を直接聞こうとします。
ネット上でも「これは(自分が尊敬する)○○さんに訊いてみよう」というような書き込みをよく目にしますが、ばっかじゃないのかと言いたい。
甘い! 
それではカルト宗教信者と変わらないではないですか。

敵は物理学だけじゃなくて、人心掌握方法や扇動技術、権力への取り入り方、世の中の泳ぎ方と、あらゆることを勉強しているのですよ。すべて知り尽くした上で悪行を行っている、そういうモンスターたちなのですよ。
勉強しないウブな人間が瞞され、うまく利用されてしまうのはあたりまえではないですか。


これが2年半くらい前までの僕の舛添氏に対する評価だ。
舛添要一氏が普通のレベルからすれば相当に勉強ができるし、頭のいい人だということはほぼ万人が認めるところだろう。
ここまでうまく成り上がったのだから、世渡り術もすごい、と。
そんな人物があそこまで杜撰なことをして墓穴を掘るのだろうか? 認知症になったとしか考えられないよね……というのが我が家での会話だったのだが、考えてみると、彼がやっているような政治資金の公私混同、異常な浪費行動というのは、石原慎太郎氏や麻生太郎氏、あるいは現首相と比べてみみっちいレベルであり、そんなことで権力の座を追われるなど想像できなかったのだろう。
また、彼にとっては、自民党を離党した段階で首相への道はなくなったので、都知事というのは権力者ゲームの「上がり」であり、これ以上は頑張る必要がない。あとはこの権力の座をおいしく味わい、楽しく生きればいい。友達はいないから、趣味と家族との時間を楽しもう……そう考えての、彼にとっては正しい老後生活だったのかもしれない。となると、認知症ではなく、ただの慢心だったのかな。
法律論なんか出したって大衆は反発するだけだということくらい分かっていると思ったけれど、あれだけ滅茶苦茶な言い訳を重ねるとは、よほどの慢心、老化現象か。
「ああいえば上祐」ってのがあったけれど、「よういうよ要一」か。

認知症という病名はともかく、「病気」としか思えない政治家が多すぎる。もちろん、病人たちに政治を任せている人たちも無責任すぎる。

ここで忘れてはいけないのは、清原にしても舛添にしても、悪の本丸から目をそらせるためのツールになってしまったこと。
東京五輪誘致の贈賄事件は? 甘利氏の贈収賄事件は? パナマ文書は? ……

いちばん重い病気にかかっているのは、やはりマスメディアだなあ。


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