「フクシマ」を3.11に埋没させないために2016/03/11 19:37

中継をやめさせようとする関電職員と素直に応じる代表取材局のNHK

最大の危険要因は「人間」

関西電力広報担当職員 「いったんこれで今日終わりにします。今日ね、もう、並列(送電開始)なし。は~い。(横の誰かに向かって)タービンうまく並列できへんかった? (記者に向き直って)ちゃんとまた説明しますんで」
代表取材の記者(NHK?) 「はい。分かりました~ぁ」
広報担当 「いったんちょっと終わって、帰りましょうか」
取材記者 「はい」

2016年2月29日。
関西電力は、高浜原子力発電所4号機が送電を開始する瞬間をテレビでPRするために、中央制御室にテレビ代表取材のカメラを入れていた。
そのカメラの前で、職員が送電開始のスイッチを入れた途端にけたたましく警報音が鳴り響き、原子炉が緊急自動停止した。
↑上のやりとりは、同日夜の「報道ステーション」(テレビ朝日)で流れた映像の一部をそっくりそのまま文字起こししたものだ。
元北海道新聞社編集委員の上出義樹氏が関電に電話で確認したところ、代表取材で入っていたテレビ局はNHKだという。ということは、この間延びしたような返事をしているのはNHKの記者なのだろう。

このときの様子は近くの会場に集まっていた報道関係者たちに中継されていたが、そこにいた中日新聞の記者は以下のような記事を書いている
 「投入」。29日午後2時1分26秒、高浜原発4号機近くの関西電力原子力研修センター(福井県高浜町)で、報道関係者向けに中央制御室を映した中継映像から声が聞こえた。発送電を行うため、スイッチをひねって電気を流した合図。その直後から「ファー」という音が断続的に鳴り続けた。
 センターで報道陣に作業内容の説明をしていた関電社員は当初、「異常がなくても鳴る警報もあります」と説明。画面の向こうの作業員らも慌てている様子はなかった。
 しかし警報音は鳴りやまない。異変を感じたのは数分後。映像を前に、関電社員二人が耳打ちしながら指をさし始めた。その先には、上部の警報盤に赤く点滅するボタンがあった。
 「トリップ(緊急停止)したようです」「制御棒が落ちて、原子炉が停止しました」と社員は動揺した様子で話した。トラブルの発生に、センター内の空気が一気に張り詰めた。間もなく関電は中継映像を遮断。詳しい説明を求める報道陣に対し、社員は「確認する」と、慌ただしくその場を離れた。
 (2016年3月1日 中日新聞 米田怜央


関西電力社員が「異常がなくても鳴る」と咄嗟にでまかせ説明をしたという部分で、すぐに思い浮かべたのは、2011年3月12日、福島第一原発1号機が爆発したときに、日本テレビのスタジオにいた東京工業大学原子炉工学研究所・有冨正憲教授とアナウンサーとのやりとりだ。
そのときの録画映像を見ながら、一字一句正確に文字起こししてみた↓
有冨教授 「緊急を要したんだろうと思いますが、爆破弁というものを使って、あたかも先ほどの絵じゃありませんが、全体にこう、なんといいますか、あの~、ちょっと、出るような形で……蒸気が、充満するような形で、出てきました」
アナウンサー 「あれは蒸気ですか?」
有冨 「蒸気だと思います。ちょうど爆破されたような形で、あの~、蒸気が……蒸気だと思いますが、出てきましたねえ」
アナ 「これ、あの、我々が見ると本当に心配するんですが、その爆破弁というものを使って蒸気を『出した』……という……」
有冨 「はい」
アナ 「意図的なものだと考えて……」
有冨 「はい。意図的なものだと思います」

このブラックコメディのようなシーンを覚えているだろうか?
よく分かってもいないことに対して平然と無茶苦茶な説明をする「専門家」たち。
そして、それを検証できず、ツッコミもせずにそのまま流してしまう、あるいは隠してしまうマスメディア。
同じことを5年経った今もやっている。何の反省もなく、当時よりも倫理観や責任感がゆるゆるに欠如した状態で。
「原発爆発の日」である3.12が5年目を迎えたのを機に、私たちはこれをしっかり思い起こし、反省しなければいけない。

巨大地震だの津波がまたやってくる可能性がどうのとかいっている前に、最大の危険要因は人間の愚かさだということを認識するべきだ。
チェルノブイリは天災が引き金ではなく、作業員のアホなミスやそれを起こさせた緩すぎる運営体制が原因だった。
今の日本を見ていると、チェルノブイリを起こした作業員たちより現場やトップが優れているだなんて、到底信じられない。
巨大地震や津波が襲ってこなくても、テロ攻撃されなくても、原発を動かしている、動かせている、それを許している、待ち望んでいる人たちがアホなのだから、「アホ」が原因の過酷事故は必ずまた起きる。
いや、アホが原因の事故というよりは、現代社会における原子力そのものが、アホと狂気のハイブリッドシステムというべきだ。

フェイスブックでこんなことを書いている人がいた。
普通のマンションでも40年で建て替えするのに、こんな50年前の時代遅れシステムを世界一安全という感覚自体が狂っている。政府や電力会社だけでなく、再稼働容認した自治体、住民は、万一の事故時には、被害補償放棄のみならず、他地区住民への賠償責任を負う、と法制化すべきだろう。

そう、まさにこの認識こそが重要なのだ。

「フクシマ」はいわば「裏切られた」「騙された」経験だから、原発立地の住民にも賠償するのは当然だと思うが、「フクシマ」を経験した今はもう違う。
「絶対安全」は嘘だった、ひどい運営状態だったことが分かっている。
今なお、「送電開始!」──警報音ファオンファオン……というお粗末を続けているこの国で、それでも原発政策を進めてほしいという人たちは、将来は自らが賠償責任を負う覚悟でそういいなさいね。

……と、これを書いている今は2016年3月11日。
テレビは「あれから5年」的な番組で一日中埋まるのかと思ったら、全然そうでもなくて、相変わらずご当地グルメだの野球賭博だのといった話題に時間を割いていたりする。まさに「5年間の劣化」だ。

せめて、「フクシマ」を地震や津波の被害と一緒くたに語るのはもうやめよう。
1F(いちえふ)が壊れたのは津波のせい「だけ」ではない。地震の揺れでパイプがあちこち寸断され、水が漏れたし、なによりも必要最低限の対策すら怠っていたための電源喪失だった。地震や津波は天災だが、「フクシマ」は完全な人災。 3.11というくくりで地震・津波被災と「フクシマ」問題を一緒くたに扱うことで、「フクシマ」問題の本質がどんどんごまかされてしまう。
よって、「フクシマ」がなぜ起きたのかを反省する日は3.12「原発爆発デー」とでもして、別問題として思いを新たにしたらどうだろう。

で、狂気の政策を続ける政治を容認している国民ひとりひとりも、程度の差こそあれ、このシステムを作り上げてしまった共犯者なのだという自覚を持つ。
まあ、実際には、我々はすでに「フクシマ」の後始末で、少なくとも十数兆円の「賠償」をしている。税金と電気料金という形で。
この「賠償」はこれからもずっと続けなければならない。
そのこともしっかり認識する日が、3.12。
……3.11とは違った恐怖と悲しみに包まれる……。

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小野田寛郎さんはサイコパスだった2016/03/18 21:36

左から、帰国直後最初の手記本(講談社、1974年)、最初の手記のゴーストライター・津田信氏の暴露本(図書出版社、1977年)、最初の手記本を再刊(日本図書センター、1999年)

フェイスブックの今日は何の日的な書き込みで、「57年前の今日(1959/03/15)、フィリピン、ルバング島の小野田寛郎少尉と小塚金七一等兵が日比合同捜査隊に発砲する」というのを目にした。
横井庄一さん、小野田寛郎さんの帰還はテレビで大々的に中継されていたから鮮明に覚えている。でも、小野田さんと一緒に潜伏していた日本兵が複数いて、仲間は戦後だいぶ経ってから銃撃戦の中で死んで、小野田さんだけが戻って来たことは、記憶としては残っているけれど、詳細については知らないことが多いと気づいた。
そこで、実際はどういう経緯だったのか、調べてみることにした。

時系列でまとめると、
  • 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。装備もまともになかった日本軍はあっという間に壊滅状態で、一部兵士が山の中に逃げ込んで潜伏。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と一緒に4人のグループで山奥に潜伏。
  • 1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。
  • 1945年12月 二度目の勧告ビラを確認。山下奉文将軍名による降伏命令と参謀長指示。小野田らはこれも敵の謀略と断定して無視。
  • 1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけに、潜伏していた他の兵士二人が投降。この二人の協力で同年3月下旬まで計41名の日本兵が森を出た。
  • 1949年9月 最後まで残っていた小野田グループの4人のうち、赤津一等兵が耐えきれず、小野田グループからの脱出を3回くりかえすも島田伍長にとらえられて連れ戻され、4度目にしてようやく脱出に成功。森を出てフィリピン軍に保護される。赤津の証言により、小野田、島田、小塚の3人がまだ生存して潜伏していることが分かり、フィリピン軍はさっそく投降勧告ビラを島内にばらまいた。赤津もそのビラに「投降した私をフィリピン軍は友達のように迎えてくれました」と記したが、小野田ら3人はやはり無視。その後もフィリピン軍は飛行機からビラを撒き、スピーカーで呼びかけたが3人は潜伏し続ける。一般の日本人はそのときまだフィリピンに入国を禁止されていた。
  • 1952年1月 日比賠償交渉が始まり、日本政府団に随行した新聞記者団が初めてフィリピンに入国を許可される。同年2月、元陸軍中佐がフィリピン空軍の飛行機に乗って島上空を旋回し、拡声器で呼びかけ。小野田、島田、小塚の家族から託された手紙や家族の写真をのせたビラを撒いたが、やはり無視される。
  • 小野田らの島民襲撃、略奪が続くため、内政不安定で手が回らなかったフィリピン政府も「残留兵討伐隊」を送ることを表明するが、最初の救出隊帰国後も現地に残って3人の救出に尽力していた辻豊朝日新聞記者が大統領に討伐隊派遣の延期を直訴し「私がルバング島に渡って投降勧告にあたりたい」と申し入れた。辻記者はフィリピン軍の協力で島に入って懸命に呼びかけた。知っている限りの日本の歌を歌い、上半身裸になって「この白い肌を見てくれ。日本から来た日本人だ」と叫んだが、小野田はそのすぐそばにいて見ていたが無視。
  • 1954年5月7日 共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊を自分たちの討伐隊と勘違いした小野田グループ3人が部隊に発砲。応戦したレンジャー部隊の弾にあたり、島田伍長が即死。小野田、小塚の二人はなんとか逃げた。
  • 島田伍長の遺体確認のために厚生省(当時)の係官と小野田少尉の長兄・敏郎(としお)、小塚一等兵の弟・福治が島に入り、呼びかけ、ビラ撒きを行ったが、小野田・小塚の二人は出てこなかった。
  • 1959年 小野田・小塚による島民殺傷や略奪行為が続くため、フィリピン政府が大規模な討伐隊を派遣することを決定。それを受けて、日本では家族や友人らが救出活動を呼びかけ、国会でも全議員一致で救出を決議。同年5月に小野田敏郎(寛郎の長兄・医師)、小塚福治(実弟)らを含む救出隊が島内で徹底的な捜索を開始。しかし、小野田・小塚の二人はついに現れず、11月には日本政府、フィリピン政府が共同で「小野田元少尉、小塚元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」と表明。
  • 1972年1月24日 グアム島で元日本兵・横井庄一が発見されて日本中をゆるがす。
  • 1972年10月19日 ルバング島で小塚金七がフィリピン国家警察軍によって撃たれ死亡。原因は小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたこと。小塚の遺体には蛮刀で切りつけた傷跡が多数残っていたため、直接の死因が銃弾によるものか、その後、住民によって斬りつけられたことによるものかはっきりしない。マニラ警察の検視書には「下顎、咽頭、臼歯、腕骨の破砕。顔面、胸部、右腕の弾着傷による衝撃と出血」と記されている。
  • この事件で小野田の生存が確認され、厚生省はただちに小野田の兄弟、同期生ら大勢を引き連れた捜索隊を派遣。捜索は翌1973年4月まで三回にわたって行われたが、小野田は最後まで姿を現さなかった。このとき、捜索隊の携帯品をのせた飛行機が転覆炎上し、装備品すべてを消失するという事故も起きた。このときの捜索総費用は1億円(当時)にのぼった。
  • 1974年2月 鈴木紀夫という青年冒険家?が単身ルバング島に渡り、小野田と対面。写真も撮り、「上司である谷口少佐の命令があれば山を出る」と約束させる。その写真は2月28日に日本のテレビで放映された。
  • 1974年3月9日 約束の場所に小野田が姿を現し、谷口少佐からの命令を受け、投降。
  • 1974年3月12日 日本航空特別機で帰国。

……となる。

小野田さん帰国後、各出版社、新聞社は彼の手記出版権をなんとかとろうと争奪戦を繰り広げ、講談社が獲得に成功した。
そのときのゴーストライターが作家の津田信氏で、津田氏はその後、あまりにもひどかった出版までの経緯や内容の歪曲を黙っていることができず、1977年に『幻想の英雄 小野田少尉との3ヶ月』という本を出版したが、それほど話題にはならなかった。
「ゴーストライターの仁義を忘れた恥ずべき行為」「私怨や主観が入りすぎている」などの批判も受けた。

その本『幻想の英雄 小野田少尉との3ヶ月』は絶版後、彼の子息によってネット上に長年無料全文公開されていたが、僕はまったく気づかなかった。
今回、気になって、Kindle版 を購入して読んでみた。

上記の時系列まとめも、主にこの本の内容をもとに、ネット上で検証しながら書いたものだ。

左はKindleペーパーホワイト、右はiPad mini


アマゾンの読者評を読んでいたので、正直どうなのかな……と思って読み始めたのだが、想像以上にスリリングで、一気に読んでしまった。
本を一気読みしたのは何年ぶりだろうか……というくらい面白かった。

本書は津田氏がゴーストライターを引き受け、そのことを後悔しながらも週刊誌連載を続けて、それが単行本化されるときにも様々なトラブルがあって……という体験談として書かれている。だから、一般的な読者には、津田氏の心情を細々と書き綴った部分などはうるさいと感じるかもしれない。
しかし、僕は津田氏と同業で、若いときにはタレント本のゴーストライターも経験している(どういうわけかそのタレントたちは今ではネオコンや保守政治家になっている)。
だから、津田氏の心情はよく分かるし、彼が書いていることに私情や「恨み節」がたくさん混ざっていても「嘘」はなさそうだということが理解できる。
また、彼はただ感情的に「小野田寛郎は……」と批判しているのではなく、きちんとその理由や背景を、事実に即して説明している。

最初に断っておくと、僕はこの本を根拠に小野田さん個人の人格批判や犯罪行為の断罪をするつもりはない。小野田寛郎という人物の生き方を通じて、当時の社会情勢や時代の空気をより正確に知りたいのだ。さらには、自分があの時代に生きていたらどうなっていたかを想像し、人生を見つめ直してみたいのだ。

また、なぜ小野田さんブームが起きたのか、彼が英雄的に取り上げられ、今でもほとんどの日本人の小野田寛郎像は「偉人」的なものとして根づいてしまっているのかについての分析も、自然とすることになった。
メディアによる意識的、無意識的なコントロールは、今も昔もあった。ただ、あの頃は今ほどは意識することがなかった。若かった僕には、他にやることがいっぱいあったし、小野田さん帰還のニュースは週刊誌ネタ的なものだった。
でも、還暦を過ぎて死を意識する毎日である今は違う。
知らないでいることが幸せなこともあるが、知らないまま死ぬのはつまらないとも思う。
この本は、まさにそうした部分でインパクトがある本だった。

以下、『幻想の英雄 小野田少尉との3ヶ月』を読んで、特にインパクトのあった部分、興味深かった部分を並べてみる。

小野田さんは現地の住民たちを「人」と思っていなかった

ネット上の「小野田寛郎の人物まとめ」的な書き込みを見ると、基本的な部分での誤解がたくさん見うけられる。
代表的なのは、小野田さんらは戦後も任務を完遂するために島に潜伏して「アメリカ軍と戦った」という誤解。
その際の「銃撃戦」で、仲間が次々に殺され、最後に残った小野田さんはひとりでも「戦いを続けた」というようなもの。

まるで、大勢の武装した兵士を相手に、三八銃だけで応戦したゲリラ戦士のようなとらえ方をしている人が多いのだが、調べていくとまったく違っていた。
小野田さんらが殺した相手の多くは武器を持たない現地の住民であり、武装兵士ではなかった。
4人のグループのうち、赤津一等兵は最初にグループを抜け出して保護された。残った3人のうち最初に撃たれて死んだのは島田伍長で、1954年5月7日のことだが、このときの相手は、共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊だ。
このレンジャー部隊は残留日本兵掃討のために島に来たわけではなく、戦闘演習をするためだった。
演習していたところ、突然何者かに銃撃されて驚いたレンジャー部隊が応戦し、そこで島田伍長が撃ち殺された。

二人目の小塚一等兵はフィリピン警察軍に撃たれたが、その原因は、小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたことだった。
二人は「敵」の食糧強奪、急襲、放火は「遊撃戦」の基本戦法だと教え込まれていたため、現地住民をたびたび襲って恐怖に陥れていたが、現地住民にしてみたら食糧や日用品を奪われるだけでなく、突然銃で殺され、収穫した米に火をつけられるのだからたまったものではない。
小塚さんの遺体には蛮刀で切りつけた傷跡が多数残っていたという。これは銃で撃たれて倒れた後に、現地住民が寄ってきて、今までの恨みを晴らすために斬りつけたのだろうといわれている。
家族を理不尽に殺され、なけなしの蓄えに火をつけられて燃やされたりしていた人たちの恨みはそれだけ深かった。

小野田さんらが現地住民の食糧を奪う程度でやめておけば、展開はずいぶん違っていただろう。

以下は『幻想の英雄~』からの抜き書きだ。

 彼は島民たちを「ドンコー」と呼んだ。
 落語に出てくる熊公、ハチ公と同じように、それが土民を指すときの日本兵の習慣だったらしい。だが、小野田寛郎がドンコーとくちにするとき、そこには熊公やハチ公にこめられた親しみはみじんもなく、敵意と憎しみしか感じられなかった。彼があまりにもしばしばそれを口にするので、
「寛郎、ドンコーはよくないな」
 格郎*も注意したが、
「ドンコーはドンコーです」
 寛郎はゆずらず、あんなやつらを日本人と同格に扱うわけにはいかない、という意味のことを口汚くまくしたてた。その口ぶりから察すると、彼は島民を動物並みにしか見ていないようであった。
(略)
「ドンコーのやつら、われわれの邪魔ばっかりしやがって」
 彼がなおも言い募ったとき、さすがにたまりかねたのか、
「おい、寛郎。おまえはそのドンコーに銃を突きつけて食料を奪ったんだろ。いわば彼らはおまえの命の恩人なんだぞ」
 と、格郎がたしなめた。しかし、寛郎はそれでもひるまず、すぐ言い返した。
「敵の食糧、弾薬を利用するのが遊撃戦のイロハです」
格郎:小野田格郎(ただお)は小野田寛郎の次兄。ブラジル在住。若いときの寛郎が最も影響を受けた兄


格郎「(ルバング島に)あきれるくらいいるのは犬だね。たいていの家が犬を飼っている。それもろくろく餌をやらんから痩せてひょろひょろした犬を」
寛郎「その犬をドンコーのやつら、われわれにけしかけやがるんです。あんまり癪にさわったんで仕返ししてやったことがある」
津田「どんな仕返しをしたんです?」
寛郎「ある村の副村長が何度もけしかけやがったから、そいつを三日間つけねらって、一人になったところをぶっ殺してやった。
 まず膝を狙って一発撃ち、歩けないようにしておいてボロ(蛮刀)でたた斬ってやった。その野郎、腕で顔をかばいながらいざって逃げようとしたが、こっちは日頃の恨みで容赦しねえ……」


 夕食後、敏郎(長兄)*は厚生省から頼まれた仕事を果たすため、寛郎を促して応接室へ去った。一足遅れて私が行くと、敏郎はテーブルの上にノートをひろげ、鉛筆を片手に、斜め前に腰掛けた寛郎に説明していた。
「島民が訴え出た事件で、どうにも腑に落ちない殺傷事件がいくつかあるんだ。多分、おまえがやったのではなく、別の犯人が起こした事件だと思うけど、念のため確かめてくれと言われてきたんだよ。これから読み上げるから、違うなら違うと答えてくれ」
 敏郎はまず日時、場所をあげ、次に事件の概略を読み上げてから、囁くように訊いた。
「どうだい、覚えがあるかね?」
 途端に寛郎が横を向いて呟いた。
「俺だよ」
「えっ、おまえか……」
 敏郎は絶句し、やがて仕方なさそうにノートに何か書き入れた。
 この晩、敏郎が読み上げた事件は十件ほどだったが、そのたびに兄弟の間で「俺だよ」「えっ、これもか」が繰り返された。
 敏郎は何度もため息をついた。眼鏡の奥で軽く両目を閉じ、頭を小さく左右に振った。
 寛郎はソファの上で立てた両膝を抱え、終始横を向いて眉一つ動かさなかった。
「最後にもう一つ訊くけど、昭和34年の捜索のとき、南海岸でひと泳ぎしていたマニラ大使館員にいきなり銃を撃ってきた者がいたんだ。まさかこれはおまえじゃないだろうな」
 寛郎は相変わらず顔を背けて、返事をしなかった。
 敏郎は弟の横顔をややしばらく見つめていたが、静かにノートを閉じると、肩で大きく息をついた。
敏郎:小野田敏郎は寛郎の長兄。軍医から戦後は病院院長になった。エリートの敏郎は格郎・寛郎からは疎まれている様子が本書の中では何度も出てくる


南京殺戮の検証番組や、戦争体験者の証言記録などのドキュメンタリー番組を見ていると、ときどき、現地人を殺したことを笑顔で得意げに話す老人がいる。
「今思えば、可愛そうなことをしたもんだ」などと口にするのだが、表情は険しくなく、薄ら笑いを浮かべていたりする。話しぶりにも、「どうだ、驚いたか」というような、自慢げなニュアンスさえうかがえ、そういう場面を見るたびに、人の心の深層に潜む恐ろしい闇を感じるのだが、小野田さんの発言の背景にも同じものがありそうだ。

筆者の津田氏は、より正確でリアルな文章を書くために、執筆中に現地ルバング島を訪れているのだが、そこではこんな場面がある。
 C君が煙草を一箱差し出すと、デレモスはそれを汚れたシャツのポケットに大切そうにしまってから、ラモスに何か言った。かたわらでデンもしきりに頷いた。
「何を言っているの?」
 私が訊くと、ラモスはちょっと口ごもってから、
「この村には変な殺され方をした者がいるんです」
 私とC君の顔色をうかがうように見た。
「変な殺され方?」
「村の区長をやっていた人なんですがね、ボロ(蛮刀)でなぶり殺しにされた死体が発見されたことがあるんです」
 私は息をのみ、思わずラモスから目をそらした。
「小野田さんに殺された島民はほとんど銃で撃たれていますが、その区長はめった斬りにされていたんです。だから、これは日本兵の仕業じゃない、犯人は別の者だということになっているんですが、帰ったら一応、小野田さんに確かめてくれ、と言ってます。……あなたがた、何か聞いてませんか?」
「さあ、知らないなあ」
 まさか聞いているとは言えなかった。
「私もその事件は前から耳にしていたんですが、小野田さんは立派な日本の軍人だから、そんな殺し方をするはずがないと島民たちにも言ってきたんです」
 ラモスは私たちに説明してから、デンとデレモスに向かってタガログ語で何か言った。


島民を惨殺したことを罪の意識なく、むしろ得意げに話す小野田さんと、小野田さんに島民を何人も殺され、理不尽な被害を受けた一方的な被害者であるにも関わらず「小野田さんは立派な軍人のはずだ」と信じようとするフィリピン軍人や現地ガイド。
なんとも対照的だ。

津田氏は短いルバング島滞在中でも、現地のガイドや軍人たちの優しさや親切な対応に何度も感動しているが、同じことをかつての救出隊に参加した日本人記者なども書いている。
ルバング島は小野田さんグループさえいなければ、貧しいながらも平和で静かな島だったはずなのだ。

小野田さんらが殺害した現地住民らは30人以上、負傷者を含めると百数十人、略奪・放火被害などは1000人以上にのぼるという。
小野田さん自身も自ら概ねそのように証言している。

グループから抜けて投降した赤津一等兵への異常なまでの怒り

時系列での出来事まとめの最初のほうを再掲する。

  • 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。装備もまともになかった日本軍はあっという間に壊滅状態で、一部兵士が山の中に逃げ込んで潜伏。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と一緒に4人のグループで山奥に潜伏。
  • 1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。
  • 1945年12月 二度目の勧告ビラを確認。山下奉文将軍名による降伏命令と参謀長指示。小野田らはこれも敵の謀略と断定して無視。
  • 1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけに、潜伏していた他の兵士二人が投降。この二人の協力で同年3月下旬まで計41名の日本兵が森を出た。
  • 1949年9月 最後まで残っていた小野田グループの4人のうち、赤津一等兵が耐えきれず、小野田グループからの脱出を3回くりかえすも島田伍長にとらえられて連れ戻され、4度目にしてようやく脱出に成功。森を出てフィリピン軍に保護される。赤津の証言により、小野田、島田、小塚の3人がまだ生存して潜伏していることが分かり、フィリピン軍はさっそく投降勧告ビラを島内にばらまいた。赤津もそのビラに「投降した私をフィリピン軍は友達のように迎えてくれました」と記したが、小野田ら3人はやはり無視。その後もフィリピン軍は飛行機からビラを撒き、スピーカーで呼びかけたが3人は潜伏し続ける。

赤津一等兵は小野田グループから3回逃亡を試みたが、森を抜け出す前に島田伍長に見つかって連れ戻されていた。4回目でようやく脱出に成功し、フィリピン軍に保護された。
この赤津一等兵への小野田さんの怒りと憎悪は異常なほどで、帰国後も「ぶっ殺してやる」と何度も言っていたそうだ。
津田氏はそれをそのまま手記に載せるとまずいと思い、殺意を抱いていることまでは伏せて書いた。しかし、小野田さんはゲラが上がってきてから、津田氏には相談せず、担当編集者に猛烈な申し入れをして、赤津さんへの敵意、殺意を書き加えるように主張した。

赤津さんがフィリピン軍に保護され、あと3人潜伏していることが分かってからの初期の捜索隊はフィリピン軍によって行われたが、そのときの様子を津田氏は小野田さんから聞いた内容に沿って以下のように書いていた。
 私たちは約150メートル離れたところから、討伐隊の様子をうかがった。(略)銃を持ち、ラウドスピーカーを肩にした五六人のフィリピン軍の兵士が歩いていた。
 その兵士たちの前を、白いハイキング帽をかぶった男がちょこちょこと落ち着きのない調子で歩いている。
「あれ、赤津じゃありませんか」
 と、小塚が囁いた。
 目を凝らしたが、顔がはっきり見えなかった。諦めて討伐隊が去った後、私たちは語り合った。
「赤津のやつ、とうとう敵の手先になりやがったな」

 この部分に、ゲラが出た後、小野田さんは津田氏には黙って、こう書き加えていた。

「あれ、赤津じゃありませんか」
 と、小塚が囁いた。
 まるでやどかりがいざって歩いている赤津そっくりな姿だった。私は銃の照準をピタリとその物体につけたまま追い続けた。顔がはっきり見えない。引き金を引くのを断念した。

 これを知った津田氏は強く懸念を表明し、どうしても削らないと主張して譲らない小野田さんに手を焼き、実兄の敏郎氏にまで「なんとかならないだろうか」と相談している。
 小野田さんがブラジルに行く前、最後に会った料亭での送別会の席上でも、こんなやりとりがあったという。
『幻想の英雄~』のその部分を抜き出してみる。

津田 「赤津さんについて、あんなことを書くのはまずいな。ルバング島であなたと赤津さんの間に何があったか知らないが、とにかく赤津さんは今、平和に暮らしている。25年も昔のことを持ちだして脱走呼ばわりしたり、銃で狙ったなんて書くのは……」
小野田 「まだ書き足りないくらいだ。赤津が嘘をつくから、俺は本当のことを書いたんだ」
「あなたが狙ったのは赤津さんじゃなかったんですよ。あのとき、赤津さんは捜索隊に加わっていなかったはずです」
「そんなことは知らねえ。あのとき、俺はあいつをぶっ殺してやるつもりだった」
「手記はあなたの手記だ。あなたがそう思ったんだから、その通りに書くのが当然だと僕も思っています。しかし、(略)『やどかりがいざった』だの、『物体を追い続けた」などという文章は、どう考えてもおかしい。あなたの赤津さんに対する怒りは、あんなことを書き加えなくても読者によく分かるはずです。言わぬは言うに勝るというじゃありませんか」
「だめだ!」

あまりにも強硬な小野田さんの姿勢に辟易し、それから先はもう出版社側にすべて任せたという。
実際に出版された手記(単行本)ではどうなっているのか確認してみた。
入手できたのは初版のすぐ後に出た2刷本だ。

入手できた古書。アマゾンで200円だった



初版の8日後に出た2刷りなので、おそらく初版からの内容変更はなかったのではないか



やどかりがいざって云々はなくなっているが「引き金を引く」という表現は残っている



4度目の「脱走」でついに連れ戻せなかった後に、小野田さんが残った二人の前で「自分の手で赤津を処刑する」と宣言する場面はそのまま掲載されている


小野田さんは赤津さん以外にも、作家の野坂昭如氏が週刊誌に書いた文章に怒って「轢き殺してやる」(自動車教習所に通い始めていたときだった)と、出版社スタッフの前で息巻いていた。

「野坂なんとかという野郎を轢き殺してやる」
(略)
「あんないい加減なことをいう男が、今の日本じゃ作家面していられるんですか。(略)呼び出して、轢き殺してやる。こうやって、車で何度もギシギシ轢いてやります。
 どうせ一度捨てた命です。轢き殺したら警視庁へ自首して、網走刑務所に送られたら、熊細工でもしてのんびり暮らしゃいいんだ。黒眼鏡なんかかけて、批判するなら、ちゃんと眼鏡をとってまともに相手の顔を見て言うのが礼儀だ」


大東亜共栄圏思想にとらわれていた?

小野田さんは終戦を知っていたし、それどころか、捜索隊が置いていった大量の新聞を隅々まで読み、ラジオで日本語放送を聞いて競馬中継まで楽しんでいた。それなのになぜ出ていかず、現地で山賊生活を続けていたのか?
『幻想の英雄~』の中から、筆者の津田氏が小野田さんに「本当に戦争が終わったことを知らなかったのか?」と確認する場面の一部を、以下、抜き書きしてみる。
──(日本が)いつ頃、民主国家に変わったと思いました?
「時期は知りません。ただ、新聞に民主主義社会という言葉がさかんに使われているので、自分らの知らないうちに衣替えしたんだろうと思ったんです」

──じゃあ、小野田さんは、帝国陸海軍も消滅していることがわかっていたんですね?
「いや、軍隊は残っていると思いました。昔の軍隊はなくなったかもしれませんが、それに代わる組織ができて、まだアメリカ相手に闘っていると考えたのです」

──それに代わる組織? ああ、自衛隊のことですか。
「いや、自衛隊は国内を取り締まる武装警察で、戦争をやっているのは別の組織-戦争専門の、戦争請負業みたいなものです」

──戦争請負業?
「日本は民主主義国家になったが、依然として大東亜共栄圏の確立をめざしている。だからそのために戦争請負業に金をやって、アメリカと戦ってもらっている……そう考えたのです」

──なんです、その戦争請負業というのは?
「旧日本軍を引き継いだ戦争専門の組織です。その組織が日本ばかりでなく、アジア全域の防衛を担当して、アメリカとやりあっていると判断したのです」

──アジア全域とおっしゃいましたね。すると中国も含まれるわけですか。
「もちろんです」

──中国が共産主義国になっているのはご存じなかったんですね?
「いや、知っています。新聞にそう書いてありましたから」

──すると、日本は共産主義の国とも手を結んでいると考えたわけですね。
「日本が尻押しして毛沢東を中国の指導者にしたのだと思いました。中国財閥の金を融通してもらうために。なにしろ中国の金持ちは桁違いですからね。その代わり戦争請負業が中国の国内からアメリカやイギリスの勢力を追い払ったのです」

──小野田さんがルバング島で頑張っていたのはだれのためなんです? その請負組織のためですか?
「われわれがルバンにいれば、アメリカ軍はいやでもルバンに戦力を割かねばならない。そうなれば他の戦域が手薄になって、味方はその分だけ有利になるわけです」

──するとあなたがたは戦争請負業の下請けというか、下部組織ということになりますね。けっして大日本帝国のために戦っていたわけではない……そう解釈してもいいわけですね。
「今度の戦争は大東亜共栄圏を確立するための戦いで、それには百年ぐらいかかると自分は教えられました。だから、軍隊の組織は変わっても目的は同じです。われわれが戦いを続ければ、いつかは必ず大東和共栄圏が達成できる。それはとりもなおさず日本のため……自分はあくまでも日本のために頑張ったんです」

(横にいた次兄の格郎-タダオ-)「要するに寛郎は若い頃に教え込まれた大東亜共栄圏思想の虜になっていたんです。こいつは漢口にいた当時、中国人が一方で日本軍と戦い、片方で日本の商社と取引していたのを見ています。だから新聞で対米輸出の記事を読んでも驚かなかったんだと思います」
(寛郎)「民間は民間同士で経済戦、軍部は軍部で武力戦に専念する。そうしなければ百年戦争は続けられませんからね

一見滅茶苦茶な話をしているように思えるが、よく考えると、今の日本でも、似たような発想で行動している人、しかも上層階級の人間は多いのではないかとも思い直した。
特に最後の言葉だ。
金儲けは金儲けで割り切ってやる。そこにイデオロギーや正義、倫理は関係ない。それで儲けた金を軍事力に注ぎ込んで戦争を続けることこそがより大きな目的だ……という発想、思考回路。
その戦争の目的がなんなのかはあまり関係がない。小野田さんが信じていたのは「大東亜共栄圏」で、仮想敵国はアメリカだったのかもしれないが、それを「国際社会」とか「中国、朝鮮」と置き換えれば、今の日本の世相と重なる部分があるのではないか?
「戦争請負業」という言葉も、今の世界情勢を見ると、まさに言い得ている。そう考えると、小野田さんの戦争と経済の関係論は、あながち狂気とも言えない。
「戦争請負業に金をやって、アメリカと戦ってもらっている」「アメリカに金をやって、戦争請負業をやってもらっている」と言い換えれば、まさに現代の日本のことではないのか?
そして、その戦争請負業は大金が動くから、そこに参加して分け前をもらいたがっている日本……。

小野田さんの天皇観

小野田さんはいわゆる「右翼」というのとは違う。
津田氏は、小野田さんの天皇観を2回聴いていると『幻想の英雄~』の中で書いている。

「自分の生まれた紀州は昔から地元だけでうまくやってきたんです。それも殿様ひとりの命令に従うんじゃなくて、有能な家来たちが知恵を持ち寄って、うまく指導した。上下の身分もうるさく言わなかった。そういう気風がずっと昔から、徳川時代よりもっと昔から伝統的にあった土地です。
 だから、神武天皇の軍隊が九州から来て上陸したとき、土地の豪族が追っ払い、失敗した神武天皇の軍は別の海岸から上陸し直して、やっと大和朝廷を作ることができたんです。
 大体、あの人たちの先祖を遡れば、九州どころじゃない、もっと遠くの別の国から来たんでしょう。よそ者ですよ。
 自分が手記の中で天皇に触れなかったのは、今の自分が、自分の考えを喋ったら、あちこちで問題になると思ったからです。野坂(昭如)が言うように、誰かに禁じられていたためじゃない。一億の中で、たったひとり約束を守った自分が、命令を出した者の責任を追及したらどうなるか。三百万もの人間が死んだのに、命令を出した者は知らん顔をしている。戦えと我々に命じた者は、将軍でも何でもその責任をとって腹を切るのが本当だ。それなのに、未だにのうのうとしていやがる。こんな日本に帰ってくるんじゃなかった。死んだ島田や小塚がかわいそうです」

小野田さんはこれを本の中に書き込まれることを拒否したという。ここでも言っているように「今の自分が、自分の考えを喋ったら、あちこちで問題になると思ったから」だ。それは本当だろう。
また、この天皇観が、次兄の格郎氏の影響によるものだということも津田氏は指摘している。

島を出て行くまでのミステリー

『幻想の英雄~』では、小野田さんが一人になった後、鈴木青年の前に姿を現し、帰国するまでの経緯について、様々な不自然さや疑問を投げかけている。
鈴木紀夫青年は自衛隊特殊部隊所属の工作員だったと証言する人物の話まで出てくる。
また、正確には直属の上司ではなかった谷口少佐の名前を小野田さんが「逆指名」した意図や、恨みを募らせた現地の人たちから(小塚一等兵のように)殺されずに日本までたどり着くための「サバイバル戦略」を緻密に組み立てていたのではないか、といった記述もある。
例えば、本の表紙にも使われている、軍服を着て敬礼している有名な写真は、谷口少佐からの命令を受けたときの写真を鈴木青年が撮影失敗したことが分かって、翌日にマスコミ発表用に「撮り直し」したものだそうだ。そういう「演出」もなんのてらいもなく受け入れてきっちりこなしたのは、小野田さんがすでに「日本への凱旋」を成功させるための戦略を綿密に練り上げていたからではないか、と津田氏は推察している。
そのへんも小説を読んでいるかのような面白さがあるのだが、ここでは深く掘り下げない。
津田氏の推察が合っているかどうか判断するだけの材料が乏しいし、細部はどうでもいいかな、と思うからだ。
しかし、全体的に、小野田さんの偏屈さや矮小さと、驚異的な粘り強さ、強靱さが結びついた結果がああなったのだろうということは理解できる。

小野田さんはサイコパスだった

小野田さんの思考回路には、一般人には理解しがたい頑固さ、偏狭さと、超人的な粘り強さ、意志の強さ、無慈悲でドライで迅速・正確な行動力が同居している。

こうした特質はいわゆる「サイコパス」気質というものだと主張する学者がいる。
NHKで放送された『心と脳の白熱教室』という番組に登場するケヴィン・ダットン博士(オックスフォード大学)はサイコパスを研究している。
彼によれば、人は誰でも多かれ少なかれ「サイコパス的気質」を持っていて、その程度がどのくらいか、それを実生活でどのように活用できるかによって、猟奇犯罪者にもなれば経済的な成功者にもなるのだという。
大企業のCEOや弁護士などは、一般人よりもサイコパス度合が高いというのだ。

サイコパス研究をしているケビン・ダットン博士



サイコパス気質に暴力性と知性をかけ合わせると、こんな分類になるという



ダットン博士自身、サイコパステストをするとかなりの高い得点が出るそうで、彼は自分を含めて、サイコパス的な人間は、その性格・才能をどのように利用するか、活用するかが重要だと主張する。
007ジェームズ・ボンドやゴルゴ13は完全なサイコパスだが、お話の中ではヒーロー的にも描ける。
しかし、ボンドやデューク東郷みたいな人物がルバング島の森の中に潜伏して、その強靱な意志で「決して出ていかない」と決意し、島民を相手に殺戮・強奪を繰り返したら、これはもう地獄絵になること間違いない。
まさに小野田グループが潜伏したルバング島はそうなっていたのではないか。

小野田さんが(ダットン教授がいうところの)サイコパスであったことは間違いないと思われる。
問題は、小野田さんがそのサイコパス性をあのような方向に発揮した背景だ。
彼が軍隊に入らないで、例えば企業人として終戦を迎え、戦後日本を生きていたらどんな人生を歩んでいたのだろうか。
ブラック企業の経営者として大金を稼いでいた? それとも慈善家として尊敬されるような人物になっていた?

まあ、それはどうでもいい。
小野田さん個人の人生をどうこう想像するよりも、幸運にも、彼のような人生を歩まないで済んだ私たちは、彼をひとつの「題材」として、自分の人生、人間の本性、歴史の残酷さといったことを、より深く考察することこそ重要なのではないだろうか。

読後、助手さんに内容をざっと話したところ、こう返してきた。
「戦争を知らない世代なら、普通に一生を送っていた人、いい人、ちょっと変な人、ちょっと嫌な人程度の『普通の人』が、あの時代に生まれたということだけで、一生自分でも知らなくてよかった人間の暗い本性をさらけだしてしまった、と考えると、気の毒だし、怖い」
そうだな~。
もし、自分があの時代に生まれ、軍隊の士官として中国大陸や南方戦線に行っていたらどうなっていただろうか?
とてつもなく怖い。
戦後に生まれたというだけで、自分の人生がいかに幸運だったかが分かる。

平和な時代の非暴力的サイコパスには成功者が多いというが、自分にはサイコパス要素がどのくらいあるのか……。
ネット上に出ている診断テストの類をいくつかやってみたが、すべて平凡な結果しか出なかった。
どうやらサイコパス的な才能はないらしい。
しかし、別の要素で人生を狂わせていた可能性は大いにある。
こうして戦争のない時代に生まれていても、若いときに大成功してちやほやされて大金を得ていたら、とんでもなく嫌な人間として一生を過ごしたかもしれない。それに気づくことなく死んでいったかもしれないし、何か大失敗して(女とか薬とか……)、悲惨な後半生になっていたかもしれない。

酸っぱい葡萄ではないが、自分が凡人であったこと、社会的な成功を得られなかった人生だったことも、幸せなことだったと思うことにしよう……。




みんなが気づいていない女子マラソン代表選考疑惑裏の裏2016/03/19 22:09

3月17日はリオ五輪マラソン代表発表の日で、いつもならトップニュースになっていたが、この日は事件・事故が重なり、あまり大きく取り上げられることがなかった。
発表前から結果が分かっていて、意外性がなかったこともある。
でも、翌日の昼間のワイドショーでは、かなり長い時間を割いてやっていた局もあって、それを見ていたら「有森さん、突っ込むところがちょっと違うんだよな~」と思ったので、すでに日記には載せたのだが、こちらにも再掲しておく。

陸連を困らせた「永山問題」とは

女子マラソンは大阪国際でぶっちぎり優勝した福士加代子選手が所属するワコールの永山忠幸監督が、「内定が出ないなら万が一選ばれなくなることもありえるから名古屋にも出る」と言いだして、それを陸連が「やめてくれ」と頼んで……という騒動が起きた。
世界陸上の「日本人トップで8位以内」は即内定だが、それ以外の選考レースはすべて終わってから判断する、という選考基準が発表されているのだから、永山監督の「なぜ内定を出せないのか」というのは言いがかりにすぎず、黙って名古屋が終わるまで待つべきだ……というのが、多くの人たちの「常識的な意見」だった。
選考基準の内容は永山監督も十分分かっているはずなのに、なぜ「内定が出ないなら駄目押しで名古屋にも出す」などといいだしたのか?
ひとつには、昨年の世界陸上女子マラソン代表選考をめぐる理不尽さがある。
世界陸上選考レースに指定されたレースの中で唯一の優勝者である田中智美選手が落とされ、最後の競り合いに負け、トップに4分30秒の大差をつけられて3位になった重友梨佐選手が選ばれた。重友選手の30km以降の5kmラップは、17分58秒、18分19秒、ラスト2.195kmは8分8秒かかっている。
それなのに、「20kmすぎまでハイペースのトップ集団についていたのは積極的なレース運びだった」などと無茶苦茶な理由で評価され、一方で、ペース配分を間違えずに、最後はアフリカ選手とのデッドヒートを力でねじ伏せて優勝した田中選手を落とした。これは誰が見てもおかしな選考だった。

世陸マラソン「メダル」から「8位以内」に基準引き下げは「後出しジャンケン」だ

さらに決定的に問題なのは、従来、五輪前年の世界陸上が代表選考の一つになる場合、「日本人最上位でメダル」が条件だったが、急に「8位入賞」にまで一気にハードルを下げたことだ。しかも、それは世陸の代表選手が決定した後に発表された。

世陸のマラソンで8位入賞で日本人最上位なら即五輪代表に内定という基準を陸連が発表したのは2015年7月2日。その世界陸上の代表が決まったのが2015年3月11日なので、世界陸上の代表が決まった後に従来の「メダル」から「8位以内」に基準を下げたわけだ。すでに世陸代表に選ばれた3人ずつの選手に異常な優遇をしたことになる。これでは「後出しジャンケン」である。許されることではないだろう。
その3人ずつとは、
前田彩里(ノーリツ)、伊藤舞(大塚製薬)、重友梨佐(天満屋)
今井正人(トヨタ自動車九州)、藤原正和(ホンダ)、前田和浩(九電工)
だ。
新星・前田彩里(彼女の選考には文句のつけようがなかった)のノーリツはともかくとして、他はみな駅伝の常連企業。特に男子は駅伝色が強い。
陸連内部でなんらかの人脈談合、政治力が働いて、甘すぎる「8位以内なら即内定」という基準に変えたのではないかと勘ぐってしまう。
そうではないというなら、男子については、もう長いこと世界のトップクラスとは大きく差がつけられているので「メダル」なんて可能性がないからせめて8位以内を……ということになって、それに引っ張られる形で女子も「メダル」から「8位以内」に引き下げたのかもしれない。
しかし、そうだとしたら、その時点で陸連は世界へ敗北宣言したも同然だ。

その結果、世界陸上女子マラソンはどうなったか?
去年の世陸女子マラソンはスローペースで始まった。これはスピードとスタミナに勝るアフリカ勢の「最後で一気にペースを上げて勝負」という作戦に他の選手がまんまとはまった形。案の定、30kmを過ぎてからアフリカ勢が一気にスパートしてからは、日本選手は誰もついていけなかった。この展開は今まで何度もあったのに、また同じことを繰り返したのだ。
優勝のディババ(エチオピア)と7位の伊藤舞とのタイム差は2分13秒もあった。この2分13秒差は、ディババが33kmあたりでペースを上げてから10km足らずでついたもので、終盤、日本選手はまったく勝負ができなかった。
ちなみに、2011年の世界陸上テグ大会では、赤羽有紀子選手が日本人最高の5位入賞で、このときの優勝者とのタイム差は1分15秒だった。しかも、最後は粘って追い上げての1分15秒差。しかし、このときは「内定」の基準が「メダル」だったため、赤羽選手はその後の選考レースにも出場して日本人1位になれず、代表から漏れた。
それなのに、今回はズルズル引き離されて2分13秒の差をつけられた7位で即内定なのだ。
伊藤選手は他の日本選手が脱落するのを確認して、前を追ってつぶれるよりは五輪代表内定の「8位以内」を確実に狙った走りをしたともとれる。
そういう「優勝争いには挑まず、日本人トップと全体8位以内だけを狙う走り」をさせたのも、陸連が「8位位内なら五輪代表内定」というユルユルの規定を作ったからだ。伊藤選手は戦略的にそれをしっかり守っただけで、彼女には何の非もない。

直前の世陸でもメダルをとっていた日本女子マラソン

ここで、世界陸上女子長距離での輝かしい歴史を振り返ってみたい。
以下は、世界陸上の女子マラソンにおける日本人選手の成績と1万メートルでの成績一覧だ。オリンピック前年の世陸は五輪代表選考をかねていたから、翌年のオリンピック女子マラソンでの日本人選手の成績(●の行)も併記した。

1991年・東京    山下佐知子(銀メダル)★⇒翌1992年バルセロナ五輪で4位、有森裕子(4位・1分15秒差)★⇒翌バルセロナ五輪で銀メダル
 ●1992年バルセロナ五輪 代表:山下佐知子(4位)、小鴨由水(29位)、有森裕子(銀)
1993年・シュツットガルド   浅利純子(金メダル)、安部友恵(銅メダル)
1995年・イエテボリ なし//鈴木博美が1万メートルで8位(鈴木は翌年1月の選考会レース大阪国際女子で優勝のドーレと23秒差の2位、2時間26分27秒だったが代表漏れ)
 ●1996年アトランタ五輪 代表:浅利純子(17位)、真木和(12位)、有森裕子(銅)
1997年・アテネ  鈴木博美(金メダル)//千葉真子は1万メートルで銅メダル
1999年・セビリア  市橋有里(銀メダル)★⇒翌2000年シドニー五輪で15位(日本代表選手中では最下位)、小幡佳代子(8位)//弘山晴美、高橋千恵美が1万メートルで4位、5位
 ●2000年シドニー五輪 代表:市橋有里(15位)、山口衛里(7位)、高橋尚子(金)
2001年・エドモントン 土佐礼子(銀メダル)渋井陽子(4位)
2003年・パリ  野口みずき(銀メダル)★⇒翌2004年アテネ五輪で金メダル、千葉真子(銅メダル)、坂本直子(4位)
 ●2004年アテネ五輪 代表:野口みずき(金)、土佐礼子(5位)、坂本直子(7位)
2005年・ヘルシンキ  原裕美子(6位・3分23秒差)、弘山晴美(8位)
2007年・大坂 土佐礼子(銅メダル)★⇒翌2008年北京五輪では25kmで棄権、嶋原清子(6位)
 ●2008年北京五輪 代表:中村友梨香(13位)、土佐礼子(途中棄権)、野口みずき(故障で出場辞退)
2009年・ベルリン  尾崎好美(銀メダル)、加納由理(7位)//中村友梨香が1万メートルで7位
2011年・テグ  赤羽有紀子(5位・1分15秒差)☆⇒五輪代表にはなれず
 ●2012年ロンドン五輪 代表:尾崎好美(19位)、重友梨佐(79位)、木崎良子(16位)
2013年・モスクワ  福士加代子(銅メダル)、木崎良子(4位)//新谷仁美が1万メートルで5位
2015年・北京  伊藤舞(7位・2分13秒差)★⇒?

……と、世界陸上女子マラソンのメダリストは10人(11回)もいるのだ。直近の2013年の大会でも福士選手がメダルをとっている。そうした実績がありながら、なぜ「メダル獲得」から「8位以内なら即五輪代表」などというとぼけた基準にしたのか? 恣意的な「何か」があるとしか思えないではないか。
ちなみに、世界陸上マラソンでメダルをとり、翌年の五輪代表に選ばれて入賞した選手は、山下佐知子(世陸で銀⇒翌年五輪で4位)と野口みずき(世陸で金⇒翌年の五輪でも金)の二人しかいない。

名古屋でのペースメーカー疑惑

今回の五輪代表選考は、名古屋の前に「永山問題」が起きたが、結果的には福士選手は名古屋には出ず、名古屋の結果も揉めるような要素がなく、田中智美選手が最後1秒差で競り勝ち、日本人1位の2位で当確となった。
最終選考レースとなった名古屋ウィメンズマラソンは史上稀に見るデッドヒートとなり日本中を興奮させた。そこで最後に1秒差で競り勝った田中智美選手が代表の座を確実にしたことで、今回、最終的にはすんなり決まった。陸連も世間もほっとしたことだろう。

しかし、今まで以上に揉めることになったかもしれない要因はたくさんある。
次のようなケースを想像してみるといい。

①名古屋のペースメーカーが大阪国際と同じペースを刻んでいれば
 ⇒田中と小原が福士のタイムを上回って、選考大混乱?

②名古屋で田中と小原が同着になっていたら
 ⇒写真でも判定できないくらいのゴールだったら、選考大混乱?
 
③昨年、陸連理事会が天満屋の重友をごり押しせず、順当に田中を代表に選んでいたら
 ⇒田中が日本人トップで入賞し、先に五輪代表内定。残り2枠をワコールの福士、天満屋の小原、大塚製薬の伊藤らで競り合い、選考レースが複数あることでまたまた大混乱。

①に関しては、「ペースメーカー疑惑」が持ち上がっている。
大阪国際のペースメーカーは5kmを16分40秒と指示されていた。これはそのまま走り続ければ2時間20分台だ。陸連が設定した2時間22分30秒を上回るには序盤からそのくらいのペースで行かなければ無理だろうから、順当な設定と言える。
ところが、名古屋のペースメーカーには、陸連が「5kmを16分55秒から17分」というペースを指示していた。大阪のときに比べて5kmあたりで15秒から20秒も遅い。これでは陸連が自ら設定した選考基準タイム2時間22分30秒を切れない

そもそも、同じ選考レースなのに違うペース設定をするのはフェアではない。レースの条件を恣意的に変えたのはなぜなのか?
まるで、福士の記録を上回る選手が二人出ると困るから、そうならないように遅く指示したかのようだ
実際、福士選手側が直前になって参加を取りやめたのも、この陸連の設定ペースが大阪のときよりずっと遅いということを知ったからだとも言われている。
しかも、実際のレースでは、20kmで下りる予定のペースメーカーが序盤に乱高下するペースを刻み、不必要に選手たちを疲労させた。

そうした「人為的悪条件」にも関わらず、名古屋で田中選手に1秒差で負けた小原怜選手の走りっぷりがとてもよかっただけに、「なんで2時間29分48秒の伊藤だけ先にさっさと内定を出したんだ」という批判が当然のように出てくる。
名古屋での小原選手のタイムは2時間23分20秒で、優勝のキルワ選手とは40秒差。30km以降のペース落ち込みも少なかった。40km以降ゴールまでの2.195kmのタイムは3位の小原選手のほうが優勝したキルワ選手より速いのだ。こういう戦いができる選手を選びたくなるのは当然だろう。

陸連は女性蔑視の男社会か

ここで、普通なら選ばれてもよかったのに選ばれなかった選手たちの所属企業チームを思い出してみよう。2000年以降でリストアップしてみると、

弘山晴美……資生堂。言わずとしれた「女性」中心の企業。
高橋尚子……アテネ五輪代表漏れのときは積水化学を辞めてスカイネットアジア航空の所属。練習は実質、佐倉アスリート倶楽部(小出監督)
田中智美……第一生命。女子陸上部しかなく、監督は女性の山下佐知子。

……と、いずれも「男上位社会」「陸連内部人脈」から軽視されやすい企業に所属していたように見える。
昨年、田中智美が唯一の優勝選手でありながら世陸代表から外れたときに抗議したのも、増田明美、高橋尚子ら女性で、男性の陸連理事で異議を唱えた者はいなかったそうだ。

これでは、陸連は「男社会」であり、「女性蔑視」の風潮が根強く残っていると批判されても仕方がない。また、いつまで経っても内部からは改革できない不透明な談合集団であると見られても仕方がない。
福士選手と監督が無茶を承知で「確定でないなら名古屋にも出る」と表明したのも、彼女の所属企業がワコールで、これまた資生堂同様に「男社会」「有名駅伝企業」ではなかったから、陸連への不信感からだろう。陸連内部で政治力が弱い(多分)ワコールとしては、どんな処遇をされるか分からないと恐れたのではないか?

とにかく、これ以上、理不尽な選考で選手を傷つけたり貶めたりするのはやめてほしい。
世陸でトップグループと勝負しなかった伊藤選手が、名古屋マラソンの小原選手の勇気ある戦いぶりと比較されて責められたりしているようだが、それはお門違いというものだ。伊藤選手は五輪代表になるために「戦略的に8位以内を取りに行った」だけなのだから。
また、不自然な選考で世陸代表になった重友選手は日本人最下位に沈んで「ほれみろ、やっぱりダメじゃないか」と責められた。彼女はもともと精神面が弱かったが、その弱さをせっかく克服しつつあったのに、無理矢理代表に押し出されて負けたことで、これからの選手生命を縮めかねないダメージを受けたかもしれない。彼女もまた被害者と言える。

これ以上「被害者」(理不尽な扱いを受けて本来の力を発揮できなくなる選手)を増やさないためにも、陸連は早急にして徹底的な体質改善、組織改革が必要だろう。
選考基準に「活躍が期待できる選手」などという主観にすぎないような馬鹿げた項目をうたうこと自体、スポーツへの冒?だ。期待されようがされまいが関係ない。ちゃんとしたルールの上で正々堂々と勝負する世界なのだから、「メダルが取れそう」などと第三者が「評価」することがおかしい。それが分からずに「我々はプロです」なんて言っている陸連幹部たちは、最もスポーツマンシップから遠い、「男らしくない男社会」をチマチマと形成している人たちだと感じる。

救いは名古屋ですごいレースを見せてくれた田中、小原両選手の精神力。
あれには日本中が感動した。熱くなれた。
本当に「感動をありがとう」と言いたい。

歴代「悲劇のマラソン選手」一覧

ここからは「オマケ」として趣味的に付け足してみる。

マラソンの五輪や世陸代表選出をめぐり、僕の記憶に残っている「悲劇の選手」一覧を作ってみた。
まずは女子。
  • 松野明美 ……1992年1月、バルセロナオリンピックの代表選考レースの1つ大阪国際女子マラソンで当時の日本最高記録を上回る2時間27分02秒の好記録で2位(初マラソン世界最高)に入るも代表漏れ。「実績」を買われて有森裕子が選ばれる。
  • 吉田直美 ……1995年11月、アトランタ五輪の代表選考レースである東京国際女子マラソンで38km付近、先頭集団にいたが、背後を走っていた浅利純子に踵を踏まれて、浅利、後藤郁代とともに転倒。吉田はシューズも脱げたために大きく遅れ、優勝の浅利に10秒遅れの3位。しかし、転倒した場所からゴールまでのタイムは最も速かった。浅利に靴を踏まれていなければ間違いなく優勝し、五輪代表になっていた。
  • 鈴木博美 ……1996年1月の大阪国際女子マラソンで、優勝したカトリン・ドーレについで2時間26分27秒の2位。この記録は他のアトランタ五輪代表選考レースと合わせても日本人最高タイムだったが、「実績」の有森裕子が選ばれて選外に。
  • 弘山晴美 ……2000年1月の大阪国際女子マラソンで優勝のリディア・シモンに2秒差の2位。しかし記録は2時間22分56秒で、当時の世界歴代9位、日本歴代3位の好記録。しかし、すでにその前の世界陸上で銀メダルを取っていた市橋有里が「内定」していたため、シドニー五輪代表残りは2席のみ。そこに山口衛里、高橋尚子が入り、代表漏れ。
  • 高橋尚子 ……2000年シドニー五輪マラソンで優勝して「実績」は断トツだったが、アテネ五輪代表に選出されなかった。
  • 田中智美 ……2005年北京世界陸上マラソン代表選考レースの1つである横浜国際女子マラソンにケニアやエチオピア選手を破って2時間26分57秒で優勝(選考会レースで唯一の日本人選手優勝)したが、別の選考レースである大阪国際女子マラソンで3位の重友の2時間26分39秒よりタイムが悪いという理由で代表選出されず大問題となった。

この中で、1995年の東京国際女子マラソンでの吉田直美選手のことを覚えている人はほとんどいないのではないだろうか。
あのレースをうちでは録画しながら見ていて、レース終了後に転倒シーンの前後を何度もスロー再生して確認した。吉田選手のすぐ後ろを走っていた浅利選手が吉田選手の踵を踏み、それが原因で吉田選手、浅利選手、後藤選手の3人がもつれるようにして転倒。踵を踏まれた吉田選手は靴が脱げ、それを拾って履き直さなければならなかったために大きく遅れた。
浅利、後藤の2選手はそのまますぐに起き上がり、転倒に巻き込まれなかった原選手を猛追。最後に、浅利選手が原選手をかわして優勝。浅利選手は「転倒しながらも逆転優勝した」「すごい根性だ」「最後まで諦めずに走った姿に感動した」などなど絶賛され、そのままオリンピック代表になった。
しかし、転倒の原因を作ったのは浅利選手で、いちばんの被害者になった吉田選手は靴を履き直してからゴールするまでのタイムが誰よりも速かった。つまり、浅利選手に踵を踏まれなければ、吉田選手が競り勝って優勝していた可能性が極めて高い。転倒したとしても、靴さえ脱げなかったら優勝していただろう。
それなのに誰からも注目されず、その後、ひっそりと表舞台から姿を消していった。

踵を踏まれて靴が脱げて優勝できなかったといえば、バルセロナオリンピックでの谷口浩美選手が有名だ。
優勝候補に挙げられていた谷口は20km過ぎの給水地点で後を走っていた選手に踵を踏まれて転倒。靴も脱げて履き直し、そこで30秒あまりの遅れを取った。
その後猛追し、8位でゴール。タイムは2時間14分42秒。優勝した黄永祚選手のタイムが2時間13分23秒だから、転倒して30秒の遅れを引いても1分近く遅いので「転倒しなければ優勝していた」とは言いきれないが、レース展開が大きく変わっていたことは間違いない。
このときのレース後の第一声「こけちゃいました」は、その笑顔と共に見ていた人たちの記憶に深く刻み込まれた。
谷口はその後、一度もマラソンで優勝できなかったが、「実績」を評価されて次の1996年アトランタオリンピックでも代表になった。アトランタの男子マラソンで日本人選手は惨敗で、谷口の19位が最高順位だった。
その谷口はバルセロナの前のソウル五輪の代表選考でも有力候補だったが、このときは福岡国際で事実上の一発選考をするという陸連の意向が、最有力候補の瀬古利彦選手の怪我によって不可能になり、このときの中山竹通選手の「這ってでも出てこい」発言(実際には「自分なら這ってでも出ますけどね」だった)などなど、日本中が注目する「事件」になった。
その福岡国際は冷たい雨がゴール地点ではみぞれに変わるという悪天候の中、「怒りの中山」が5kmを14分35秒、10kmを29分5秒、15kmを43分40秒、中間点を1時間1分55秒(2倍すれば2時間3分台!)という、驚異的なスピードで前半からぶっちぎって優勝。有力候補だった谷口はそのペースに惑わされたこととあまりの寒さで実力を発揮できず、最後は6位に沈んで代表候補から脱落した。
このときも、「暑さに強い谷口が順当に代表になっていればソウルでは優勝間違いなかった」などと言われたものだ。

このように、オリンピックのマラソン代表選考、そして本番の結果には、常にスリリングなドラマがついてまわる。
それも含めて、選手ではない我々は楽しんでいるのだが、やはり、スポーツのドラマは、感動的なドラマだけにしてほしい。アクシデントはドラマのうちとしても、談合やら密室やら女性蔑視やらのドロドロしたドラマはいらない。

奇跡の「フクシマ」──「今」がある幸運はこうして生まれた

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「フクシマ」と福島2016/03/20 22:04

2011年5月10日。立ち入り禁止地区への制限付き「一時帰宅」に同行する記者団

「フクシマ」をカタカナでしか知らない人たちへのメッセージ

映画『Threshold: Whispers of Fukushima』の上映会がアメリカ・ミネソタ州の大学で開催されるにあたり、映画の中にも登場する僕に、何かメッセージを書いてほしいという依頼があった。
少し前に日本語で書いたものを渡した。英訳されて使われるはずだが、そのときの元原稿をここにも残しておこうと思う。


 2011年3月に福島県にある4基の原子力発電プラントが壊れて大量の放射性物質をばらまくという事件から5年が経ちました。
 「フクシマ」はヒロシマ、ナガサキと並んで、世界的に有名な地名になりました。今、みなさんは「フクシマ」という地名に対してどんなイメージを持っているでしょうか。
 悲劇の原発事故が起きた場所、放射性物質で汚染され、人が住めなくなった土地……おそらくそうした類のものだと思います。
 それは基本的には間違っていませんが、現実のごくごく一部にすぎません。
 せっかくの機会ですから、もう少しだけ想像を広げてみてください。そのためのヒントをいくつかあげてみます。


1)福島は広い
 チェルノブイリのときもそうでしたが、壊れた原子炉から流れ出した放射性物質によって汚染された地域というのは、現場からの距離よりも、そのときの天候(風向き、雨や雪が降ったかどうか)によって決定づけられました。チェルノブイリのときに、遠く離れた北欧やドイツ南部などがかなり汚染されたように、「フクシマ」でも、汚染された場所は広範囲に点在しています。
 福島県は日本の本州で2番目に広い県です。福島県内でも会津と呼ばれる西側のエリアはほとんど汚染されませんでしたし、一方では福島県以外のエリアでも深刻な汚染を受けた場所がいろいろあります。それらの地域の人たちは「福島県外」であるということで、十分な補償を受けることもできないという理不尽な状況も生まれました。
 福島県内、とくに都市部では、多額の賠償金をもらった一部の避難者と、十分な賠償を受けていない県民との間で深刻な軋轢が生まれています。
 汚染状況や賠償の格差などはとても複雑な問題であり、簡単に「フクシマ」という一言でくくれないということをまず理解してください。
 

2)とにかくこれからも生きていかなければならない
 福島にはもう住めない、それなのに子供と一緒に住んでいる親は無責任だとか、危険なのに安全だと言って無理矢理住民を帰そうとしているといった批判が渦巻いています。これも、一部は正しいのですが、福島県内で今も暮らしている多くの人たちは、迷惑この上ないと感じています。
 放射性物質がばらまかれたのですから、それ以前よりも危険が増したことは間違いありません。しかし、人が生きていく上で、危険や困難はたくさんあります。うっすら汚染された場所で生活を続けていく危険より、家族がバラバラになったり、収入が途絶えたり、生き甲斐をなくしたりすることによる危険、あるいは不幸になる度合や加速度のほうがはるかに大きいと判断することは間違いではありません。人はそれぞれの状況において、複雑な要素を比較した上で、取り得る最良の選択をしていくしかないのです。事情も条件もさまざまですから、一概に「それは間違っている」「正気じゃない」などと非難することはできません。
 そう非難する人たちの中には、あのとき風向き次第では東京が壊滅していたかもしれないということを想像できず、無意識のうちに、自分たちは安全地帯にいるインテリ層だと勘違いをしている人も少なくありません。
 自分たちがそうなっていたときにどんな選択肢が残されているか、まずはそこから考えてみるべきでしょう。

 私は原発が爆発するシーンを見てすぐに逃げましたが、1か月後には自宅周辺の汚染状況を把握できたので、敢えて全村避難している村に戻って生活を再開しました。その後、やはり村を出て移住したのは、放射能汚染が理由ではなく、村の人々の心や生活環境がそれまでとは変わって(変えられて)しまい、私がこれ以上村に残っていても、地域のためにも自分のためにも、もう意味のあることができないだろうと判断したからです。その決断をするに至った背景はあまりにも複雑で、とても簡単には説明できません。
 

3)「フクシマ」は人間社会の構造的、精神的問題
 壊れた原発内で放射線測定をする仕事を続けている20代の青年と話をする機会がありました。彼は使命感でその仕事をしているわけではなく、嫌だけれど他に仕事がないから辞められないだけだと言っていました。
 いちばんの望みは、被曝線量が限度になると他の原発でも働けなくなるので、そうなる前に他の原発に異動できることだそうです。
 いちばんショックだったのは「この村に生まれた以上、原発で働くしかない。そうした運命は変えようがない。仕方がない」という言葉でした。
 まだ20代の若さでありながら、転職する気力もなければ、ましてや起業して自立するなどというのは「無理に決まっている」というのです。
 おそらく、子供の頃は彼にも将来の夢があったでしょう。それがなぜそうなってしまったのか。大人になるにつれ「仕方がない」「これが運命だ」と諦めて、自分からは何もしなくなってしまう。人をそうさせてしまう風土や社会の空気、仕組み(システム)こそが、「フクシマ」が抱える最大の問題です。

 「フクシマ」後初めての福島県知事選挙では、県民の半数以上が投票に行きませんでした。圧倒的多数で当選した県知事は、原発を誘致・推進してきた前知事の政策を継承すると言った元官僚で、与党ばかりか野党もみんな相乗りして支持していました。
 地方が過疎化して、老人ばかりになる。残った人や自治体が苦し紛れに豊かな自然環境を金に換えてしまうために、森が消え、水や空気が汚染される。不合理なことに税金が使われ、その金に人びとが群がり、さらに問題が悪化する。……そうしたことは日本中、世界中で起きていることです。福島でも同じです。原発が壊れる前からありました。その背景にある問題は「フクシマ」を引き起こした問題と同じです。
 そのことを深く考えないまま、核問題やエネルギー問題、経済問題を論じようとしても、正しい答えは得られないと思います。

 「フクシマ」は決して「特別な問題」「特別な場所」ではありません。「不幸な事故」という認識も間違いです。政治や経済といった社会システムの欠陥、人の心の弱点が生み出したひとつの結果です。
 この地球に生まれ、死んでいく私たちすべてが内にも外にも抱えている共通問題なのだ、ということを、私は「フクシマ」の現場にいたひとりとして、はっきりと証言いたします。

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新電力業者の選び方&再エネ賦課金制度の悪夢2016/03/24 11:22

いい機会だから、「電気ご使用量のお知らせ」をよく見てみよう
いよいよ4月から電力自由化で、10電力会社以外の業者からも電気を買うことができる。
3月末までに契約すると割引きやキャッシュバックがある業者も多いので、そろそろ決め時なのだが、なんだかスッキリしない。
テレビCMをしている業者も、雰囲気でワイワイやっているだけ。中にはWEBサイトを見ても、肝心の料金設定表が3月半ばになってもまだのせていなかったりするひどいところもあった。
実は、この料金比較がとても複雑で、多くの人はしっかり計算できずに、なんとなく選んでしまうのではないかと思う。

新電力業者の料金比較例(40A契約の場合)

業者基本料金(円)~120kWh~300kWh301kWh~300kWh500kWh600kWh
東電1123.219.4325.9129.9381181410417097
エネオス1123.220.7623.2625.7578011295015526
ミツウロコ129620.2422.826.3178281309015721
東燃たっぷり1123.219.5226.024.6281451306915531
東燃まとめて4001123.2(400kWhまで定額8874円。400kWh~ 28.82円)99971287915761
エネワン108019.5226.0026.4281021338616028

単位は円。~120kWhなどは1kwhあたりの料金。300kwhなどは合計額。再エネ賦課金や燃料費調整額はどの業者も同額なので除外している

上の表は東京電力管内で40A契約をしている場合の比較例。
これを見るとまず分かることは、電気使用量が(極端に)少ない家庭(単身赴任でほとんど夜寝に戻るだけで月に100kWhくらいしか使わないようなケース)では、従来の東電との契約を続けたほうが安いということだ。
つまり、新電力業者に乗り換えたほうがいいのは、ある程度(普通に?)電気を使っている場合に限る。
それも、月に300kWhくらい使う場合、500kWhくらいの場合、800kWhとか1000kWhとかガンガン使っている場合で違ってくる。
東電の一般的な契約(従量電灯B)では、120kWhまで、300kWhまで、それ以上、の3段階で1kWhあたりの料金が違う。普通に考えればいっぱい使ったほうが割り引かれるような気がするが、電気料金は逆に使えば使うほど単価が高くなるという料金制度になっている。
東電の従量電灯Bの場合、120kWhまでの料金は19.43円/kWhだが、300kWhを超えると29.93円と、ぐ~んと割高になる。
必要最低限の電気しか使っていない家庭には安く設定するということなのだろう。税金と同じ発想で、それはそれでいい。

で、新電力業者もそれに倣って3段階に分けていることが多いのだが、中にはさらに600kWh以上という区分を作って4段階にしたり、400kWhや500kWhまでは定額で、それを超えた分に加算するという契約を設定しているところもある(東燃ゼネラルの「まとめて400」「まとめて500」)。

それだけでもややこしいのだが、夏場と冬場では使用量が大きく違うという家庭もあるだろうし、平均値を出して計算してもなかなか「ここがいちばんいい」というのを見つけるのが難しい。
上の例でいえば、毎月400kWh前後で月によってばらつきがないという家庭なら、東燃の「まとめて400」がいちばん安い。
その契約で500kWh使ってしまった月があったとしても、やはりいちばん安い。しかし、300kwhしか使わなかったり、600kWh使ってしまった月があると、今度はエネオスでんきのほうが安い。
料金シミュレーションができるサイトがあるが、あるひと月の金額や1年の平均値だけでシミュレーションしても、確実にいちばん安くなる業者が分かるわけではない。毎月のバラツキがあるかないか、最低の月と最高の月の差がどれくらいあるかなども考慮に入れたほうがいい。

そんなことよりこれに腹を立てよう! 再エネ賦課金


いつのまにかこんなに膨れあがっている再エネ賦課金

新電力業者に切り替えて料金を下げられるのは、一般的な家庭ならせいぜい月に数百円がいいところだろう。その数百円も、年にすれば1万円を超えることだってあるから、庶民は真剣に業者選びをするわけだが、そんなことよりもっと注目してほしいのは、知らないうちに再エネ賦課金がとんでもない金額に膨れあがって我々の電気料金にのせられていることだ(上図)。
上のケースは相当安い(ほとんど電気を使っていない)請求書だと思うが、総額3584円のうち6%に相当する221円が加算されているのだ。
633kWh使ったら1000円を超える。
633kwhを超えると再エネ賦課金は1000円を超える!
↑40A契約で633kwhを超えるようなケースでは、再エネ賦課金も1000円を超えてしまう

これは太陽光、風力、地熱、水力、バイオマスの発電で作った電気を高い固定価格で買い取るためのものだ。国が定めている。
これらの発電方法は自由競争にしたら火力発電などに負けてしまうため、国がてこ入れして高く買い取ることを保証しますよ、その分は電気料金に上乗せしていいですよ、という法律だ。
「再生可能エネルギー」というが、どんな発電方式も石油がなければ不可能になる。
例えば、太陽光発電に使うパネルはシリコンが一般的な材料だが、薄く散らばるケイ素を集めて精製し、最終的に発電パネルを作るまでに大変なエネルギーを使っている。原材料を集めるのもそれを精製するのも、石油がなかったらできない。
エネルギー事業はエネルギーと資源を使ってエネルギーを作りだす事業だ。100のエネルギーを作りだすために120のエネルギーを使うようなことになったら馬鹿げているし採算が合わないからやらないわけだが、そこに高額の税金を投入して優遇措置をとれば、本来成立しない事業が逆に儲かってしまうこともある。
そういう狂った事態にならないよう、政府は汚染や危険性、環境への負荷や悪影響をしっかり監視した上で(これが非常に重要)基本的に自由競争にさせればよい。極端な優遇措置がなく、全部事業者負担で発電しなければならないとすれば、事業者は最も合理的で安全、安定した発電方法を選ぶ
しかし、そこに税金を投入したり、電気料金にどんどん余計なコストを上乗せしてよいという法律を作るから、原発のようなものがまかり通り、巨大な利権構造を作り上げてしまう。一度作られた利権構造は、それを失うまいとする勢力が必死で維持しようとするから、どんどんひどい方向に進み、元に戻れなくなる。核燃サイクルなどはその最たるものだ。

「高い電気」というのは、他の発電方法よりも余計にエネルギーを使うから、効率が悪くて無駄が多いから、高価な資源(レアメタルなど)を使うから高くなる。自由競争にしたら負けてしまうからと、無理矢理高く買い取って優遇すれば、エネルギーを無駄に使うことになる。
おかげで狭い日本のあちこちに巨大風車やメガソーラーができて、山は切り拓かれ、農地は減り、土壌が弱る。巨大風車の低周波で身体を壊して苦しむ人が増え、日光が届かない土地が増えて生物層も弱体化し、数十年後には処理困難な粗大ゴミがあふれることになる。
「原発に反対だから、高くてもクリーンな発電方法をしている業者から電気を買う」などと言っている能天気な人たちがいっぱいいるが、それは原発を無理矢理押し進めてきた間違った国策と同じことを応援しているのだと気づくべきだ。
ちなみに再エネ賦課金は現在1kwあたり1.58円である。これは段階制ではなく一律なので、電気を節約している家庭にほど比率は高くのしかかっている。

再エネ賦課金制度、特に風力と太陽光の優遇はとんでもない利権であり、国土・自然環境の破壊を意味する。原発でさんざん利権をむさぼってきた企業や、それを支えてきた官僚・政治家たちが、新たな利権の巣として再エネに群がっている図を見抜いてほしい。
再エネ賦課金制度や総括原価方式を廃止すれば、原発はなくなり、電力業者は真剣に日本にいちばん向いている合理的な発電方法を追求する
再エネと呼ばれている発電方法で日本に向いているのは地熱と小水力(流水型)だろうが、それも基本的には自由競争のもとでやっていくべきだ。
実際問題、流水型小水力などは買い取り価格が低く抑えられているので、なんの優遇にもなっていない。
技術開発や研究に援助することは必要だが、現段階で高くついている電気を優遇して高く買い取るのは、原発政策と同じで大きな間違いだ。

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A5判・40ページ オンデマンド 中綴じ版 580円(税別) 平綴じ版 690円(税別)
(内容は同じで製本のみの違いです) 
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