『花子とアン』をきっかけにして知る「時代」の真相・深層 ― 2014/09/27 12:26
あの時代が今にそのまま重なる
NHKの連続テレビ小説『花子とアン』。なんだかんだで毎日見ているのだが、戦争に突入するあたりからのグダグダになっていく程度がひどかった。ネット上でも多くの人が違和感を表明しているが、例えば、あの時代、庶民が簡単に家から電話をかけて用事を伝えるなんてことがあったはずがない。
同じ連続テレビ小説でいえば、
『おしん』 おしん 明治34年(1901)生まれ
『ごちそうさん』 め以子 明治38年(1905)生まれ
『カーネーション』 糸子 大正2年(1913)年生まれ
よりさらに昔、明治26年(1893)に村岡花子は生まれている。
……という指摘を読んで、改めて「そうだよなあ~」と思った。
昭和30年(1955年)生まれの僕でさえ、子供時代は家に電話など引けなかった。ものすごい贅沢品だったから。
若い脚本家とは、そのへんからしてもう時代感覚がそうとうずれてしまっているのだなあ。
登場人物たちのメイクなどにしても、放送第1回では、3時間かけた特殊メイクによって、あごの下にはたるみ、手の甲に皺まで入れたリアルな52歳に変身した主演の吉高由里子をして「さすがNHKさんとも思いました」と言わせた気合いの入り方だったが、その52歳の花子が出てくる同じ空襲で逃げ惑うシーン(9月13日放送の第144回)では、顔はファンデーションを塗ってつやつやピカピカ。ネット上でも、ずいぶん突っ込みが入った。
戦争の描き方も淡泊で、大阪制作の『ごちそうさん』などがそれなりに頑張って伝えようとしていたのに比べると、完全に「逃げた」印象だけが残った。
それにもまして気持ちが悪いのは、実在の人物をモデルにして、しかも主人公は実際の筆名(村岡花子)で登場しているのに、登場人物たちの描き方が、史実とかけ離れていることだ。
そのへんの指摘は、北海道大学大学院法学研究科准教授 中島岳志氏のツイッターが話題になった。簡潔かつとてもまとまっているので、一部、紹介してみたい。
●村岡花子は、時代の流れに逆らえず大政翼賛会に参加し、子供を戦場に駆り立てるような言動をしたのではなく、児童文学作家として「主体的に関与」し、自分の信念に従っていた
1938年1月1日の『婦女新聞』誌上に掲載された座談会「事変下に於ける子供の導き方」で、村岡花子は「戦争は国家の意思」であり、「個人的心理的な観方」を滅却せよと訴えています。同時代のナチスに対しても好意的。
『婦女新聞』1941年9月21日号に寄せた文章では、「大日本婦人会」の活動に対して強く「協同一致」を求め、「自我を滅した御奉公であるやう」求めています。
「児童読物の浄化」(『婦女新聞』1938年1月20日号)では、「今度政府が幼少年の読物の浄化運動に乗り出したことは大変結構なことだと思います」と思想的検閲による発禁処分を肯定し、「今までどうして放つておいたのだと叱りたいところです」と述べています。
『婦女新聞』1938年1月1日号には「時変下に於ける子供の導き方」という座談会が掲載され花子も参加していますが、議論の中心テーマは「児童の本能的な発動力の善導」です。そこで花子は「戦争は国家の意志ですからね」と言い、国民が一つになることを訴えています。
花子は「今度の事変は思想戦といはれるやうに、赤い思想に対しても考へられることです」とも言い、全体主義的団結を説いています。また子供については「戦傷に対しては、感謝するようにすべきですね」と言い、「感謝の気持ちで恐怖を抑へ」よと述べています。
花子は戦争で負傷した兵士について「有難いと思へと、何時も子供等に話して居りますわ」とも言っています。
●白蓮の姑・槌子(龍介の母、滔天の妻)の描き方はあまりにも嫁姑問題の一般受け狙いで、史実と違う
槌子は白蓮を宮崎家に温かく迎え、黒龍会による攻撃から守った人物です。宮崎家では家事と育児は槌子が一手に引き受け、白蓮は病に臥す龍介に代って小説を書き、家計を支えました。
姑の槌子は中国革命に献身した夫・滔天を支え、時に危険を顧みず革命家を匿った女性です。家事・育児も白蓮に代ってほとんど引き受けた人……
●宮崎龍介の描き方があまりにもいい加減で、視聴者は話が見えない
宮崎龍介が逮捕されたのは、日中戦争勃発時に近衛文麿の密使として中国に渡ろうとした際、それを阻止したい陸軍の介入によるものでした。場所は神戸港。家族の目前で逮捕されたわけではありません。また、陸軍の意図には反していましたが、内閣総理大臣の意図に従って動いた結果でした。
宮崎龍介が1940年に書いた『世界新秩序の創造と我が新体制』(大有社)という本がありますが、ここではヒトラーのもと「ドイツ民族の芸術的に見事に出来上つた民族国家の姿」を絶賛しています。政治は「国家民族を理想的に造り上げる芸術である」というのが龍介の持論でした。
日中戦争期の龍介の中心的議論は「国家のために国民がある」という国家有機体論であり、ヨーロッパ・アメリカ・アジアという3つのブロックに世界が分割されるという「天下三分論」です。龍介は日本を盟主とするアジアブロックが、他の二つを抑えることを構想しました。
龍介は言います。「若し日本民族が八紘一宇を為さんとするならば、三つのブロックの中で最も速くそのブロックを完成し、而も之を最も強力に最も高度に作り上げなければならないのであります」
「花子とアン」では龍介一家と花子一家が思想的に対立し、絶縁状態になるように描かれていますが、龍介と花子の立場は、極めて近接していました。
さらに興味深いのは、中島岳志氏は、村岡花子が全体主義的思想に傾倒していくきっかけは、息子の死を経験し、キリスト教の信仰をより強めたことと結びついている、と洞察していること。
こういう考察は、単なる史実を超えて、人間の本質というか、性(さが)というか、弱さというか……そういう哲学的な探求の入り口ともなるので、小説家的には、こうしたレベルの話のほうに反応してしまう。
村岡花子のエッセイに「どうして」(『若き母に語る』池田書店、1960年)という名文があります。息子を亡くした時のことを書いたものですが、「血を吐く思い」の中でキリスト教の信仰を確かにした様子が描かれています。「自分の祈りがきかれなかったところに、神の意志のはたらきがある」。
しかし、この時「服従の平安」を得たことが、のちに軍国主義を追随し、時代の空気に飲み込まれていくことにつながるのだと、私は考えています。息子の死は、彼女の後半生に大きな影響を与えることになりました。
……他にも、今年の7月に登場した新メディア「リテラ」にあった、あの時代の女性たち、母親でもあった文化人たちがなぜ国家全体主義に傾倒したのか……そこには婦人参政権運動との連動があったからだ、という文章も読んだ。
ここでも、花子がしぶしぶ、あるいは受け身的に国家全体主義に流されていったのではなく、積極的に発言していることが紹介されている。
これも抜粋してみる。
さらに、『女たちの戦争責任』(岡野幸江、長谷川啓、渡辺澄子、北田幸恵・共編/東京堂出版)には、花子が、
「私は戦争の文化性を偉大なものとして見る。平時には忘れがちになつてゐる最高の道徳が戦争に依つて想起され、日常の行動の中に実現される」
「母は国を作りつつある。大東亜戦争も突きつめて考へれば母の戦である。家庭こそは私どもの職場、この職場をとほしての翼賛こそ光栄ある使命である」
などと随筆集に書き綴っていたことが明かされている。加えて、内閣情報局と大政翼賛会の指導のもとに結成された文学者組織である日本文学報国会のイベント・大東亜文学者大会で、花子は「子供たちの裡にこそ大東亜精神を築き上げるべき」と述べているのだ。
しかし、戦争に積極的だったのは、もちろん花子だけではない。ドラマのなかでも売れっこ作家の宇田川満代(山田真歩)が従軍記者となって気炎を揚げるようすが描かれているが、実際、少女たちに絶大な支持を得ていた人気作家・吉屋信子や、『放浪記』で有名な林芙美子も従軍記者として戦地に赴いている。その上、日露戦争時には「君、死にたまふことなかれ」と歌った与謝野晶子や、日本のフェミニストの先駆者である平塚らいてう、市川房枝といった人物たちでさえ、先の戦争に協力的だったのだ。(リテラ 田岡 尼)
こうした複雑な時代背景を知るきっかけを与えてくれたことが、『花子とアン』の功績と言えるのかもしれない。
まあ、今の日本では、テレビドラマにリアリティや人間性への洞察を求めるのは無理だから、事典の目次みたいなものだと思えばいいのだろう。テーマの入り口を見つけたら、あとは自分で探索していかないとね。そうしないと、懸命に生き抜いた人たちに対しても失礼なことになるだろうから。
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