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「道徳教育」が日本を滅ぼす2018/06/04 12:47

「育鵬社」の次に「よ」と入力しただけで、Google検索ではこんな予測検索ワードが表示された

教育現場破壊の問題では地方自治体の首長がいちばん怖い

imidasの「時事オピニオン」コーナーに、前文科省事務次官・前川喜平氏のロングインタビューが掲載されている。主に2020年から導入される予定の新しい学習指導要領についてのQ&Aだが、その内容がとても興味深く、かつ怖ろしいので少し紹介してみたい。

まず、学習指導要領の改定、見直しにあたっては、その前に「政治的な議論」や「圧力」があるという。
小中と同じように「高校でも道徳教育が必要だ」という議論。中には「徴兵制を導入して高校生も鍛え直すべきだ」なんてことを真顔で言う人もいるぐらいで、高校生のための道徳教育、あるいは日本人としての自覚を持たせる教育、愛国心教育みたいな内容を高校教育に織り込ませたいという声が、常に自民党の中にあるわけです。
新しい高校学習指導要領で導入される「公共」という教科などは、まさにそういう議論の中から出てきたものです。

質問者が、「前川さんご自身が愛知県の公立中学で講演をされた際に、自民党の国会議員が文科省に圧力をかけ、名古屋市教育委員会に講演内容などに関して質問し報告を要請したという事件がありましたよね」と話を向けると、こう答えている。
政治が教育に手を突っ込むというのは、大抵、こういうやり方なんですね、要するに「騒ぎ立てる」。今回のように国会議員が騒ぎ立てる場合も多いのですが、怖いのは地方議会ですよ。あと、もっと怖いのが地方自治体の首長です。教育委員会に圧力をかけて「右の教科書」を採用しようとしたりしますからね。
防府市の松浦正人市長が会長を務める「教育再生首長会議」という団体があるのですが、彼らは教育、特に教科書の採択は教育委員会でも、現場の教員でもなく、選挙で選ばれた自分たちが決めるべきだと主張しています。「新しい歴史教科書をつくる会」から分派した団体で、安倍首相直属の諮問機関「教育再生実行会議」の有識者委員でもある八木秀次・麗澤大学教授が理事長を務める「日本教育再生機構」とともに、育鵬社の教科書採択を広める活動を積極的に展開しています。

……と述べている。
公立学校というのはほとんどが県立や市立なのだから、自治体の長が国粋主義者だったりすれば、その地域全体の公教育がガラリと変わることもありえるわけだ。
名古屋市の教育委員会のように毅然とした態度をとれればいいが、そうではない自治体がたくさんあるだろう。

「育鵬社」の次に「よ」と入力しただけで、Google検索ではこんな予測検索ワードが表示された。中田前市長の「功績」だそうだ


ここでも出てきた「育鵬社の教科書」だが、ネットでこのキーワードを検索すると、ヒットするページの多くは、「育鵬社の教科書を採用しないのはけしからん」「日本の未来を引っ張っていく大人に育てるのは育鵬社の教科書しかない」といった主張を展開している。
どうも、この問題に関しては、冷静で具体的な議論がされず、右が~、左が~、というののしり合いになってしまっている印象を受ける。
そんな中で、ああ、これは冷静な議論だなあと感じたのは⇒この東洋経済ONLINEの記事だ。
2001年、いち早く育鵬社の教科書を採択して注目された東京都大田区教育委員会で委員長を務めた経験を持つ櫻井光政弁護士へのインタビュー。
櫻井氏はまず、

歴史教科書を選ぶ際に私が大事だと思うことがいくつかあります。まず、何が歴史を動かしたのかを客観的に観察していること。特に、誤りがなぜ起きたのかきちんと分析することが大事です。

という大前提を述べた上で、育鵬社の歴史教科書にはその視点が欠けていると、いくつかの例を挙げて説明している。

沖縄の問題に関しては、書いてある内容が正反対という印象を受けました。帝国書院は、日本軍によって食料を奪われたり、安全な場所から追い出されたりして犠牲になった住民の様子が書かれています。「最後の一兵まで戦え」という命令を残して自害した日本軍司令官の話もあり、犠牲者が増え続けた理由や責任の所在が分かります。
一方、育鵬社は、沖縄県民の献身的な働きや戦争の悲惨さを描いてはいます。しかし、命令が残っていたために被害が拡大したことには触れられていません。
私は、その戦争の中で立派に行動した人がいた、ということに触れるだけではいけないと思います。負けることが分かった時にどういう指揮を取るか、というのがとても大事で「最後まで戦え」という命令を残して自決するのはリーダーとしては失格ではないでしょうか。自分の美学に殉じるのはよいですが、残った者の命をどう考えるのか。特に非戦闘員の命をどう守るのか考えられない人は、指導者としては批判の対象になるものだからです。そういうことを学ぶのが「歴史」だと私は思います。
[採択相次ぐ!「育鵬社教科書」本当の問題点  「右・左」だけでなく、グローバル視点で課題] 東洋経済ONLINE 2015年6月3日


「自分で考える力」をつけさせるのが教育

話を前川氏のインタビュー記事に戻す。
前川氏も櫻井氏同様に、誤りがなぜ起きたのかきちんと分析することの重要性を強調している。
例えば「ワイマール憲法」という当時では世界で最も民主的な憲法の中から、なぜヒトラーのような独裁者が生まれたのか? こういう愚かなことを日本人だって繰り返さないとは限らないよという、そのことを学ぶってものすごく大事だと思うんです。(略) つまり害虫の巣を残しちゃった国(今の日本)と、完全に駆除した、あるいは、それを常に駆除し続けなきゃいけないと思っている人たち(今のドイツ)との違い。 それだけの痛恨の歴史を持っている国。ワイマール憲法がヒトラーを生み、ヒトラーがホロコーストをしでかして、とんでもない戦争で何千万人もの人を殺したと。そういうとんでもないことを、しかしそれに迎合し支持した国民がいたという……。それだけシビアな歴史観、民主主義観というのが常に彼らの中にはあって、その運用をいかに間違えないかということに対する意識が、常に一定のブレーキというか、必ず考えなければいけないプロセスとして残っているということなんですね。
imidas 前川喜平さんロングインタビュー

しかし、今の日本の教育は、子供に「なぜそうなったのかを考えさせない」「間違いを繰り返さないためにはどうするべきなのかを自分の頭で考える力をつけさせない」方向にどんどん進んでいると危惧している人は多いはずだ。
日大アメフト部事件はまさにそのことをはっきりした形で突きつけた。

こんなツイートを見つけた。

↑まさにこれ!

前川氏のインタビューでも、こう続く。
一方で、政治の側にはそういう「目覚めた主権者」は困ると言う人もいるわけです。(略) 最近の「公文書問題」などを見ても象徴的ですが、現実には「民はよらしむべし。知らしむべからず」みたいな社会に戻ろうとしていますよね。とにかく、真実を国民に伝えないようにしようと。その一方で、他国の脅威とか、ヘイトのような国民のネガティブな感情に訴えて、支持を勝ち取ろうという、ポピュリズム的な政治手法です。 基本的に、国民はバカだと思っているんですよ。だませると、最後までだまし通せると思っている。


日大事件でも、前監督や現理事長の言動を見ていると、まさに「国民はバカだ。最後までだまし通せると思っている」としか思えない。
今は騒いでいても、どうせそのうち忘れる、と。
実際、そうなっている。森友事件では、まだ渦中にありながら、佐川・財務相前理財局長らはさっさと全員不起訴になった。
こんなことが続けば、この国は間違いなく壊れ、また悲惨な状態に陥る。
そうならないように、人を育てるのが教育なのに、教育現場がどんどん壊されていくのは本当に怖ろしいことだ。

前川氏のインタビュー記事はこう結ばれている。
公教育は「国」のためではなく、一人ひとりの「個人」のためにあるはずです。ひたすら強いものに付き従うのではなく「自分で考える力」を身に着けた「目覚めた主権者」の存在なしに、本当の民主主義などありえないのですから。




↑これは私の「遺言」です

日大アメフト部事件が教える「破滅寸前の日本」2018/05/31 22:44

Googleで「日大理事長」を検索しようとすると……

日大アメフト部事件は、「監督がひどい」という問題にとどまらず、日本大学という「企業」が抱える驚くべき構造欠陥を浮き彫りにさせた。
テレビや新聞を見ているだけでは分からなかったことが、ネットでは次々に出てきている。
例えば、Googleの検索ボックスに「日大理事長」と入れただけで、たちまちこんな予測検索が出てくる。
パチンコ、ヤクザ、裏社会……。何も入力する前からこう出るのだ。

内田正人氏は、日大アメフト部監督というよりは、日本大学グループという企業体の経営陣ナンバー2だという。
ではナンバー1は誰かというと、理事長の田中英寿氏。
この理事長、相当なギャンブル依存症らしい。あろうことか内田監督、井上コーチのトンデモ会見があった翌日にもパチンコに興じていたという。
パチンコを終えて出てきた理事長に直撃取材を試みた記者に対して「俺知らないもん、全然。フットボールなんてルールも知らないし。それでも何か?」と答える映像には、見た誰もが驚愕した。
テレビのワイドショー「グッディ」に出ていた土田晃之は、「これ、日大の理事長だって知らされた上で見ていなければ、ナニリョク団のかた? って思いますけどね」と漏らしていたが、それこそ「普通の人」の感覚だろう。
間違いではない。この人物が日本一のマンモス大学のトップなのだ。

しかし「日大理事長ヤクザ」の検索予測ワードの意味は、「ヤクザっぽい風貌」「ヤクザのような言動」ということではなく、実際にヤクザとの深い関係を示すものだった。
2014年秋、田中理事長と山口組6代目組長がどこかの倶楽部で並んで一緒に笑っている写真が流出した。この写真は今ではネット上に数多く露出しているので、誰でも簡単に見ることができる。
2014年10月10日の「東京アウトローズWEB速報版」では、こう報じている。
司忍6代目山口組組長と田中英寿・日大理事長の2人を撮った写真が、複数の出版社に郵送されているのはほぼ間違いないことが本誌取材で分かった。しかし、ある週刊誌に送られてきた写真は何故か背景が黒く塗りつぶされており、日時・場所などの特定が難しく掲載は見合わされたという。この他、写真週刊誌にも郵送されており、実際に取材に動いたようだが、今のところ掲載されるかは不明だ。


実際にはほとんどのメディアは沈黙した。
2014年11月、米国VICE誌のWEB版が、Jake Adelstein記者名で「This May Be the Most Dangerous ? and Most Costly ? Photo in Japan(これは日本で最もヤバくて高くつく写真かもしれない)」というおどろおどろしいタイトルでトップ記事を発表(2015年1月に更新?)した。
この記事の内容はほぼ⇒このサイトにまとめられている
要点だけ抜き出すと、
  • この写真(山口組組長と日大田中理事長との2ショット)は、警察によれば2005年に撮られているが、匿名で各メディアに送られてきた
  • 一部には「私は日大職員だが、田中理事長は反田中派の職員を威圧するためにこの写真を利用してきた」という内容のメモも添えられていた
  • 写真を送りつけられたメディアの1つである右翼系の「敬天新聞」記者が、日本大学と田中氏に真相を確かめようとしたところ、同記者は正体不明の2人組に金属バットで襲撃され、その翌日には各メディアに、写真を公表すれば同じ目に合うぞという脅しの電話がかかってきた

……というもの。
さらに興味深かったのは、
同誌によれば、日本の警察当局の考えでは、山口組と敵対する住吉会がこの写真を流出させ、襲撃事件をセットアップすることで、これを山口組の仕業であると当局に思わせ、(少なくとも5千億円にのぼると言われる)2020年東京オリンピックに関連する建設ビジネスから山口組勢力下にある建設業者を追い出すことが目的だとしているという。(ロサンゼルス発 ジャパラマガジン)

という部分だ。
本当にそんなことが書かれていたのかとVICEの当該記事を確認してみたが、その通りのことが書いてあった。
Questions remain about who exactly attacked the journalists and threatened harm to other magazines if the pictures were published. The police are currently operating on the theory that the Sumiyoshi-kai may have released the photos and staged the attacks to make people believe the Yamaguchi-gumi was responsible. This could initiate a crackdown on all Yamaguchi-gumi front companies in the construction industry, forcing them out of the lucrative Olympic racket. The remaining pie could then be divided among other yakuza.
This May Be the Most Dangerous ? and Most Costly ? Photo in Japan VICE NEWS


このことを日本では、日刊ゲンダイなど一部のメディアが、海外で2020東京五輪が「ヤクザオリンピック」になるのではないかと危惧しているといった内容を報じたりはしていたが、メジャーメディアは黙殺した。
(海外メディアの記事は)JOC副会長の田中英寿氏(日大理事長)と指定暴力団住吉会の福田晴瞭会長の関係。〈田中英寿氏は福田会長と過去においてよい友人であった。また彼が山口組のボスの少なくとも1人、さらにはほかの暴力団の構成員とも友人関係を維持していることを示す書類もあった〉と紹介している。
また、組織委員会会長に就任した森喜朗元首相についても、〈以前にヤクザとつながりがあったと日本の報道機関(毎日新聞、週刊文春など)が報じている〉〈森氏は犯罪組織のボスの息子の結婚式に出席したし、ヤクザが支援する右翼団体のリーダーと親しかった〉と指摘。〈警察筋によると、この両名が過去にどの程度ヤクザと関わりを持っていたか、そして犯罪組織と現在つながりがあるかについて、調査中であるとのことだ〉と書いた。
さらに、2020年のオリンピックの建設費用が38億ドルと推定されているとした上で、〈田中氏、あるいは森氏さえもが犯罪組織を五輪へつなげる口利きの役割を果たしているかも知れない、と警察は心配している〉と続けている~。
米メディアが衝撃報道 「東京五輪はヤクザ・オリンピック」 日刊ゲンダイDIGITAL 2014年2月14日)

この報道の影響か、田中氏はその後JOC副会長職をひっそり辞任している。
2015年末にはトヨタ自動車社長・豊田章男氏がJOC組織委副会長を突然辞任しているが、これも、JOCの裏側を知って嫌気がさしたのだろうかと勘ぐってしまう。

国全体を支配する「いじめ体質」


内田前監督が問題の試合後、記者たちの囲み取材に答えている録音でいちばん印象に残っているのは、
「宮川はよくやったと思いますよ。もっといじめますけどね」
という部分だ。
宮川選手は、自らの謝罪会見の立派さを見ても分かるように、非常に優秀な人間である。その人間性に対して、内田氏は嫉妬し、いじめを開始した。
内田氏自身気づいていないのかもしれないが、これは病的な「マウンティング」なのだ。
俺のいうことを気に入らないと思っているらしい選手がいる。あいつをとことん屈服させてやる、というマウンティング。
そのいじめの結果、自分の理不尽な命令に素直に従った宮川選手を「よくやった」としながらも、これからも「もっといじめる」と口にしているのだ。
戦時中、軍隊で行われていた陰湿、凄惨ないじめと同じだ。頭の悪い人間が、自分より優秀な人間を権力で屈服させることに快感を覚え、常軌を逸したことが行われる。
特攻を命じた上官たちの一部が、終戦後は口をつぐみ、自分たちはのうのうと長生きしたという図式にも通じる。

テレビに出てくるアメフト業界関連のコメンテイターたちがみんな及び腰な中で、ひとりスポーツライターの小林信也(のぶや)氏は日大問題の核心を臭わせる発言をしている。(それでも相当慎重な口調でだが)
その中に「私はむしろ、宮川選手は内田監督から見込まれて、(手下候補として)試されたんじゃないかと思う」というような内容があった。
忠実な自分の手下として育てるためにいじめ抜き、それに従わせて、ゆくゆくは井上コーチのように、なんでもいうことを聞く便利な手下にしようとしていた、というわけだが、これはあたらずも遠からずだろう。
ただ、宮川選手は井上コーチとは比較にならないほど優秀で、立派な人間性を持っていた。内田氏もそのことはうすうす気づいていただろう。だから、手下にすることは無理だとしても、徹底的にいじめ抜いて、宮川選手の人間性が崩壊していくのを見るのを楽しもうとしていたのだと思う。
完全なサイコパス、しかもいざとなれば逃げ回り、平気で嘘をつく最低のサイコパスだが、こういう人物が巨大大学のナンバー2の地位にまでのし上がっていたという現実に改めて戦慄を覚える。

そして、この構図とまったく同じ、怖ろしいほど同じなのが今の日本の政体だ。

2018年5月29日に行われた関東学生連盟の会見で、内田監督、井上コーチの除名(永久追放)などが発表された。その理由を述べた部分を一部抜き出してみる。
学校法人日本大学の常務理事、人事担当でもある内田氏の言うことは絶対であり、誰も何も言えない状況でありました。(略)コーチですら何も言えないのであるから、選手が内田監督に物申すとか、指示、指導に従わないというのはあり得ないことでありました。どんな理不尽であっても、はい、と返事して実行するのが、内田フェニックスの当然のおきてでありました。
内田監督および井上コーチの供述は、内田監督を守ろうとしての、事実をねじ曲げていることが明らかであり、まったく信頼性に乏しい
内田監督は規律委員会のヒアリングでも記者会見でも一貫して私からの指示は一切ないと供述し、(略)発言については(略)不自然極まりない供述をしています。
本件に関する内田氏の発言は、自身の関与に関連するものについては、おおよそすべてに信用性がないと規律委員会は判断します。


↑この説明での「内田監督」を「官邸の司令塔」と置き換え、「コーチ」を「官僚や与党議員」と置き換え、「選手」を「現場の実働部隊職員」と置き換えて読んでみるといい。そっくりそのままあてはまると感じる人は少なくないだろう。
首相官邸の司令塔から発せられる命令は絶対であり、誰も何も言えない状況でありました。閣僚や政務次官ですら何も言えないのであるから、現場の実働部隊官僚らが官邸に物申すとか、指示、指導に従わないというのはあり得ないことでありました。どんな理不尽であっても、はい、と返事して実行するのが、安倍政権の当然のおきてでありました。
閣僚、官僚らの供述は、安倍首相を守ろうとしての、事実をねじ曲げていることが明らかであり、まったく信頼性に乏しい
↑このような説明を、いつか国民は耳にすることができるのだろうか?

日大問題においてようやくメディアも矛先を向け始めた田中理事長は、現政権の構造欠陥問題においては安倍総理に相当するだろう。
組織が崩壊寸前になっているのに最高責任者が「俺は知らないもん」と開き直る、理解を超えた異次元レベルの言動も重なる。
しかし、内田監督に相当する「官邸司令塔」の名前も顔も、メディアの人間ならみんな知っているが、モリカケ疑惑に対して未だにほとんど報じられることはない。

結局は「個人の資質」の問題

Aera Dotに掲載されている「政治学者・白井聡が語る〈安倍政権の支持率が下がらない理由とその背景〉」というインタビュー記事がとても考えさせられる内容なので一読をお勧めしたい。
前後編になっているが、最後のほうのこの部分、
結局は個人の質にかかっている」ということです。森友・加計問題では、特定のメディアが追及を続けています。これは、組織で動いているというよりも、一人一人の記者が頑張っている。官僚からのリークもあると推察しますが、そうした行動は、「これではダメだ」という個人の信念に基づくものでしょう。伊藤詩織さんのように、レイプ事件を安倍政権によってもみ消されたという疑惑を、あらゆる嫌がらせに遭いながら訴え続けている人もいる。
 魔法の薬はないのです。今日の社会の歪みを修正できるかどうかは、こうした筋を通すことのできる個人がどれくらいいるかにかかっているでしょう。
政治学者・白井聡が語る〈日本を再び破滅に導く「戦後国体」の正体〉

宮川選手の記者会見を見終わったとき、このインタビュー記事のこの部分を思い浮かべた。
彼は自分の間違いと罪を悔やみ、しっかり筋を通そうと勇気を持って全国生放送のカメラの前に立った。
記者たちが、何度も何度もしつこく監督やコーチへの恨み言を引き出そうと「誘導尋問」したにも関わらず、毅然とした口調で「やらないという決断ができなかった自分が悪い」と言いきった。
これこそ「個人の質」だ。物事の正邪を判断し、間違いに気づいたときはそれを認めるという資質を兼ね備えているだけではなく、実行する勇気。
少なくとも彼は、嘘を平気でつき、責任を下のものに押しつけ、逃げ回るような大人にならずにすむだろう。

それにしても、20歳の青年がたった一人で立ち向かった巨悪の正体を想像すると身がすくむ。
彼の勇気ある単独会見がきっかけで、いろんなものが引っぱり出された。
田中英壽、山口組、住吉会、森喜朗、亀井静香、阿佐ヶ谷のちゃんこ屋女将、ちゃんこ屋での日大「最高会議」といったキーワード的なものはもちろん、果ては、ハードゲイポルノ、村上幸史、DV、舞の海、グルコサミン、琴光喜、野球賭博、バウムクーヘンなんてことまで検索するはめになった。
いやはや、一人の青年の力はすごいなあと、改めて感心してしまった。

日大事件から日本の国全体が壊れかけているという怖い構図に気づく人は少ないのかもしれない。実際、安倍政権の支持率は全然下がらないどころが微増しているという。
しかし、宮川選手の正直さと勇気に心打たれた人はたくさんいるはずだ。そこだけは唯一の救いだと思うことにしよう。
フェイスブックやツイッターには賞賛の声が多数書き込まれたが、1つだけ紹介してみる。
20歳頃の自分を思い浮かべると、到底あんな立派な態度を取れなかったし、一歩間違えば犯罪者になっていたかもしれないな、と思う。
60代の今でも、全国生放送のカメラの前であんな風に語れる自信はまったくない。
せいぜい、こんな駄文を日記に残しておく程度のことしかできないのだが、何も書かないよりはいいと思って、気が重い中で書いてみた次第だ。

ヒキガエルを殺せ、と指示する北海道の狂気2018/05/21 01:22


アズマヒキガエルを「毒ガエル」と名指しし、騒ぎ立てるニュース番組
テレビのニュース番組(特に夕方の時間帯)ではよく、サルが出た、熊が出た、イノシシが出た、スズメバチが出た……と大騒ぎする。またか! いい加減にしろよと思いながらチャンネルを替えるのだが、今日見たこれはあまりにもあまりで、唖然を通り越して空恐ろしくなった。
北海道で「毒を持つ」アズマヒキガエルが大繁殖して住民が悲鳴を上げているというのだ。ほんとかよ。
アズマヒキガエルはごく狭い範囲で増えることはあっても、広範囲に大繁殖するなんてことは聞いたことがない。「異常繁殖」などといっているが、カエルの知識がない者が、繁殖期に一か所に集まってきてカエル相撲をしているのを見て「異常だ!」と騒いでいるだけなんじゃないか?
むしろ、ヒキガエルはほんのちょっとしたことで地域絶滅してしまう、カエルの中でも環境変化に極めて弱い種だ。
実際、我が家(日光市)の周辺は都市部に比べれば自然が残されている地域だが、アズマヒキガエルは見たことがない。意識して水たまりや田んぼを覗き込んで6年間過ごしてきたが、成体はおろか、卵も見たことがない。地元の老人たちに訊くと、かつてはあたりまえにいたというから、圃場整備がきっかけで地域絶滅してしまったのだろう。
ヒキガエルは変態直後は他の小さなカエルよりもずっと小さく、弱々しい。吸盤もなく、ジャンプ力も弱いから、U字溝に落ちると這い上がれず簡単に死んでしまうのだ。
毒を持つというのは確かだが、わざわざ捕まえてペロペロ舐めたりしない限り、腹をこわすこともないし、ましてやヒキガエルの毒が原因で人が死んだなんて聞いたこともない。動きがのろいヒキガエルにとって、体表から毒を分泌するのは自衛の仕組みである。ヒキガエルを補食するヤマカガシはヒキガエルの毒にやられず、逆にその毒を溜め込み濃縮することで「毒蛇」になることが知られている。しかし、そのヤマカガシとて、自分から人間を襲うことはまずないし、マムシのように牙から毒液を出すわけではないので、たとえ噛みつかれたとしても死なない。喉の奥から直接出る毒液が目に入ったり口に入ったりすれば危ないが、そんな状況は普通にはありえない。

なんでこんなトンデモなニュースをやっているのだろうとネットで少し調べたら、こんなページがヒットした。

効果的な駆除方法と時期  浅い池の場合、繁殖時期(5月上旬から下旬)に、ふ化する前の卵の塊(ひも状)を池などから上に引き上げたり、黒色の小型で群れをなすオタマジャクシを網ですくい出して乾燥死させる方法が効果的です。
繁殖期以外は、雑木林や民家の庭などに住みついており庭仕事などの時に見かけますが、夜行性のため成体になってからの駆除には多大な労力が必要です。 土着のカエルと見分けられないときや、異常な大発生を見つけたときは、環境課へご連絡ください。
(「アズマヒキガエルの駆除について」 北海道深川市)

なんと、自治体がヒキガエルを「殺しましょう」と指導しているのだ。
これを鵜呑みにして子供たちが率先してヒキガエル殺戮に興じるかもしれない。それも「大人の指導」で。

北海道でヒキガエルが「異常に」増えているという信頼すべきデータがどこかにあるのか?

なぜヒキガエルを殺さなければならないのか?
どうやら、理由はこういうことらしい。
国内外来種(もともと北海道にいなかった生き物)であるアズマヒキガエル(略)は日常生活に大きな影響を及ぼすものではありませんが、長期的にみて従来の生態系へ及ぼす影響が懸念されるため、北海道の指定外来種に指定されました。(平成27年12月18日指定、平成28年6月19日施行)

北海道生物の多様性保全に関する条例の改正により北海道の指定外来種に指定されましたので、飼養する場合は知事が定める特定飼養等施設に収容し、逃げ出さないようにしなければなりません。また、生息地以外に放つことも禁止され、道の指導や命令に従わない場合は罰則の対象となります


何を言っているんだ? と思う。
もともと日本のヒキガエルは、西日本にいるのがニホンヒキガエル、東日本にいるのがアズマヒキガエル、北海道にいるのはエゾヒキガエル、という3つの亜種(地域による分類だが、交雑生殖は可能)とされていた。しかし、最近「エゾヒキガエル」と呼ばれていたものは、遺伝子を調べるとアズマヒキガエルと同じであり、寒い北海道に適応して身体が小さくなっただけだということになった。
北海道で初めてヒキガエルが発見されたのは1912年、函館でだという。100年以上前のことだ。
エゾヒキガエルと命名されて、最初に発見された函館では「絶滅が危惧される希少種」として大切にされてきた
それが、「遺伝子的には本州のアズマヒキガエルと同じ」という研究結果が出た途端に、「北海道生物の多様性保全」のために、見つけたら殺せ、という号令がかけられたのだ。
生物の多様性保全?? そもそも北海道のだだっぴろ~い風景は、明治以降、人間が森を壊しながら大規模な開拓に開拓を重ねてきた結果ではないか。
100年以上前から棲んでいるカエルを人為的に殺して、何が「生物多様性の保全」か。

石狩の観光資源「イソスミレの絶滅が危惧される」などというが、海岸近くに生息するイソスミレを守りたいなら、まずは石狩の大規模風力発電所計画を撤回させることだ。イソスミレだけでなく、多くの生物が消える危険性を取り除くことになる。ああいうものを認めて、何の罪もないカエルを殺せという行政。デタラメにもほどがある。



違う血が混じることで生き延びる

さらに調べていくと、東京大学のWEBサイトに興味深い記事を見つけた。
5年前の2013年に長谷和子(東京大学 大学院総合文化研究科広域科学専攻 博士課程3年)、二河成男(放送大学 教養学部教養学科自然と環境コース 教授)、嶋田正和(東京大学 大学院総合文化研究科広域科学専攻/情報学環 教授)によって発表された「Population admixture and high larval viability among urban toads」という論文で、
東京都内に自然分布する日本産ヒキガエルの東日本亜種(アズマヒキガエル)の多くの個体が、西日本亜種(ニホンヒキガエル)により遺伝子浸透を受けている点、またその交雑により、都内のヒキガエルの適応度(本研究では幼生(オタマジャクシ)の生存率)が上がった点の、2つを実証した。
記者発表一覧 東京のヒキガエル、西日本型に侵略される 東京大学
……という。
記事の一覧タイトルには「侵略される」などという刺激的な言葉が使われているが、これはWEBページ編集者が勝手に付けたものだろう。
論文の要旨としては、
  • 都内のヒキガエルはすでに東日本亜種とされてきたアズマヒキガエルから西日本亜種のニホンヒキガエルへと「遺伝子浸透」が進んでいる(交雑が進んで、ニホンヒキガエルに近づいている)
  • 東京のヒキガエルの幼生(オタマジャクシ)は、埼玉県新座市や栃木県日光市のアズマヒキガエルの幼生よりも高い生存率を示している(ニホンヒキガエルと交雑した都内型のヒキガエルは、交雑が進んでいない北関東のヒキガエルよりも生命力が強い)
  • つまり、現在の東京のヒキガエル集団は、移入された西日本亜種系統に助けられ、個体数が維持されている可能性が大きい(混血した結果、生き延びている)

……この論文内容要旨からして、記事一覧のタイトルは「西日本型に助けられて生き延びた東京のヒキガエル」とでもするべきだろう。
一見自然豊かに見える我が家の周囲ではすでに地域絶滅しているのに、都内の住宅地には今もヒキガエルが出没している。その理由の一つが「移入種との交雑」だったということか。

血が混じることで環境変化に対応し、種を維持していくことができるというのはとても理解しやすい。愛玩動物として人為的に遺伝子操作されて生み出され、それをどこかの団体が「○○種」として「認定」し、以後「純血種」として繁殖される犬は病気に対する抵抗力が弱く、雑種の犬のほうが生命力が強いとか、一代雑種に名犬がよく生まれるということはよく知られている。

話をカエルに戻せば、関東以北にはトノサマガエルはおらず、トノサマガエルと間違われるのはトウキョウダルマガエルだとされている。しかし、トノサマガエルとトウキョウダルマガエルは交雑が可能で、すでにあちこちで交雑種が生まれているという説もある。
我が家の周辺はカエルといえばトウキョウダルマガエル。アマガエルよりずっと多い。都内ではすでにほぼ絶滅したのではないかといわれているトウキョウダルマガエルが、ここではアカガエルやアマガエルよりも多いのだ。
東大チームの論文を知って、もしかすると我が家の周辺にいっぱいいるトウキョウダルマガエルも、都内のヒキガエルのように、すでにトノサマガエルとの交雑種なのかもしれないと思った。(もちろん、それを確かめてみようとは全然思わないが)

上記の論文紹介記事では、こんなまとめが記されている。
社会的意義と今後の展望
生物多様性の中でも遺伝的多様性は、種の存続性を量る指標として重要である。生息地が失われた野生動物の多くが遺伝的多様性を低下させている。一方で、国内移入亜種との交雑問題など、人為的撹乱がもたらす遺伝的多様性への影響については、未だ知見は少ない。生物多様性の維持は人間社会の存続性にも関わることであり、本研究のような都市部の野生種についての遺伝的多様性研究の必要性は、今後ますます高まると考えられる。

だいぶぼかした言い方をしているが、「国内移入亜種との交雑」を単純に「避けるべきこと」として断じるのは危険であり、問題はもっと複雑で深い、といいたいのだろう。

100年以上前からすでに北海道に生きていたヒキガエルを、「北海道にはもともといなかった移入種」だから、「長期的にみて従来の生態系へ及ぼす影響が懸念される」ため「指定外来種」に指定して、保護どころか、「ふ化する前の卵の塊(ひも状)を池などから上に引き上げたり、黒色の小型で群れをなすオタマジャクシを網ですくい出して乾燥死させる方法が効果的です」と、行政が殺戮を推奨している……。
こんな怖ろしいことがあっていいのだろうか。

あなたは、今まで一緒に暮らしていた仲間を、ある日を境に「おまえは我々とは違う血の人間だそうだな。このまま生かしておくとどんどん血が混じっていくから排除するとお上が決めた。悪いが死んでもらう」といって殺すことができるか?
極論したり、難癖をつけているわけではない。人間社会の中でも実際にそういう歴史があった(ホロコーストや関東大震災でのデマなど……)ということを我々は学んできているし、今、この国ではそうした風潮(ネトウヨ、ヘイトスピーチ、嫌韓嫌中本……)が急速に広がっている。

生物多様性を脅かしている最大の生物は人間である。その反省もなく、机上の論理、しかも間違った論理で生物の生殺与奪を簡単に決めてしまう学者や行政。トンデモな決定に対して「ちょっと待て」と声を上げる者もいない現代日本。
……本当に背筋が寒くなる思いだ。

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通銅鉱山神社と磐裂神社の狛犬は入れ替わっていた2018/05/01 22:35

通銅鉱山神社の狛犬 背中の銘

単なる「間違い」ではない?

通銅鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬が「入れ替わっている」という説をさらに突っ込んで考えた末の結論を以下まとめてみる。

通銅鉱山神社の狛犬の背中には奉納者の名前がはっきり刻まれている。足尾郷の名士・神山氏が、先祖代々守ってきた地元の総鎮守・磐裂神社(妙見さん)ではなく、わざわざ山の上の、山師たちが建てた神社に、あれだけ出来のよい狛犬を奉納するだろうか。
これこそが今までの説明のように「簀子橋山神社から遷座された狛犬」ではないという推論の最大の根拠である。私の中ではこれはほぼ確信に変わっている。

また、現在、磐裂神社にある前脚のない狛犬こそが、かつては簀子橋の神社にあって、明治23(1890)年に流されてきた狛犬であろうこと、その奉納の時期は足尾銅山最盛期の延宝年間あたりではないかということも、半分以上の確率であたっていると思っている。
であれば、どこでどう入れ替わってしまったのか?
通銅鉱山神社の狛犬が簀子橋山神社から遷座されたという説明は単純な間違いなのか、それとも恣意的な嘘なのか……。そのへんをもう少し深く考えてみたい。

通銅鉱山神社ができたのは大正9(1920)年だが、それより30年前の明治22(1889)年には、前年に足尾銅山鉱業所長に就任した木村長七が音頭を取って大々的に寄付を募り、本山坑口前の山に本山鉱山神社(杉菜畑鉱山神社)を建立している。
しかし、皮肉にもその翌年に足尾大洪水が起きて、塩野門之助の妻子をはじめ、多くの村民が亡くなってしまった。神社の御利益どころか、まるで山の神の怒りに触れたかのようだ。

当時、木村長兵衛と塩野はピルツ炉の改造をめぐって対立していたことはすでに述べた。前年の明治21(1888)年には、塩野は辞職している。このときの木村長兵衛と塩野の関係は最悪だっただろう。しかし塩野が辞職した翌月、木村長兵衛が急死。その後、塩野は説得されて復職している。
時系列で並べると、
  • 明治21(1888)年、銅山運営をめぐって所長の木村長兵衛と技師の塩野の対立が深まり
  • ⇒塩野が辞める
  • ⇒その直後に木村長兵衛が急死し、木村長七が後を継ぐ
  • ⇒塩野が復帰
  • 明治22(1889)年、木村長七の主導で本山鉱山神社建立
  • 明治23(1890)年、大洪水で塩野の妻子を含む多くの村民が死ぬ
……となる。
失意の塩野は、かつて住友を辞める原因となった住友総理の広瀬宰平ではなく、その息子・広瀬満正に、再び別子銅山へ戻りたいと直訴するが、足尾でのベッセマ転炉建設計画が中途であることを理由に慰留される。
明治26(1893)年、塩野が指揮して日本初のベッセマ転炉が足尾に完成。その直後、塩野はさっさと足尾銅山を辞職し、別子銅山に設計部長として戻っている。
3年後の明治29(1896)年には再婚もして、完全に「人生のやり直し」をはかったように見える。

この後も、足尾銅山は様々な事件やトラブルの歴史を続ける。
  • 別子銅山に戻った塩野門之助が再婚した明治29(1896)年には、足尾でまた大きな洪水が起きて、1万3000戸以上の家屋が浸水した。
  • 明治33(1900)年 政府に請願するため上京しようとした鉱毒被害農民3,000人が警官隊に阻止される「川俣事件」。
  • 明治34(1901)年11月30日 古河市兵衛の夫人・為子が神田橋下で入水自殺。
  •         12月10日、田中正造田中正造が天皇へ直訴。逮捕される。
  • 明治40(1907)年 鉱毒の被害を受けていた谷中村が強制破壊により廃村に。

この時期は、鉱山の営業停止を求める運動がどんどん盛りあがっていった、古河にとっては「負の歴史」を刻んだ時代といえる。
本山鉱山神社で行われていた祭りなども消えていった。散々毒をまき散らし、山を破壊して洪水を起こし、人びとを苦しめておいてなにが鉱山神社だ、山祭りだ、という反発があったことは容易に想像できる。

そして、大正2(1913)年9月、反対運動のシンボル的存在だった田中正造が亡くなる。同じ年、古河鉱業会社理事長に就任していた木村長七が引退。激動の時代に一区切りがついたかのようだ。
古河にとっては触れたくない傷、思い出したくない人物である田中正造が亡くなり、激動の時期に銅山を牽引してきた木村が引退して7年後、通銅鉱山神社が建立された。明治14(1881)年 当時の鉱長・木村長兵衛の指揮下、大鉱脈が発見されて足尾銅山が一気に盛り返す大転換期からは40年近く経っている。

神社を作ったのは古河だから、通銅鉱山神社に今の狛犬を置いたのも古河ということになる。
狛犬を置いた責任者は、30年前に足尾大洪水があって、古河にとっては日本初のベッセマ転炉を作り上げた技師・塩野門之助の妻子が流されて死んだことを知らなかったのだろうか? そうとは思えない。

また、なぜ自前で新しい狛犬を建立せず、古い狛犬をよそから持ってきたのだろうか? 費用をケチっただけなのか? それとも、そうしたほうがいい理由があったのだろうか?

寛保3(1743)年の狛犬奉納の背景

ここで、寛保3(1743)年の狛犬がどのような時代背景のもとに奉納されたのかを考えてみよう。
奉納者は「下松原丁神山清右門」。下松原は現在の足尾歴史館があるあたりだから、まさに妙見さんのすぐそばで暮らしていた。
神山清右門がどういう人物なのかはよく分からないが、神山というのは足尾郷を開いた最初の5姓の1つだ。
日光市のWEBサイトにある旧足尾町歴史年表には、
「正和4(1315)年 足尾の5姓(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)が足尾に移住したと伝えられる」
とある。
このうちの神山氏は新田義貞の挙兵に参加し、戦国期には佐野氏に仕えたとも伝えられている。
また、栃木県神社庁の資料によれば、磐裂神社(妙見さん)の起原について、
往古、足尾郷民の祖日光中禅寺より足尾の土地に移住し土着せるものにして中禅寺の鎮守にして己等の氏神、妙見天童を一族の内、神山文左エ門、齋藤孫兵衛の両祖、交互に霊代を背負い奉り来りて遠下の地をとして鎮座せしめて足尾の鎮守となせり。
天安二年八月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として境内坪数千九百七十三坪と定め社殿を造営して名実共に鎮守となせり。
……とあるので、神山氏が妙見さんと密接な関係にあったことは間違いない。
この神山氏が寛保3(1743)年に狛犬を奉納したわけだ。もちろん、奉納先は妙見さん(現・磐裂神社)だっただろう。
足尾銅山はこの頃、全盛期を過ぎて、産出量が激減していた。日光市WEBサイトにある旧足尾町歴史年表によれば、
  • 延宝4(1676)年 この年から12年間、毎年1300トン~1500トンを出し、溶解炉32座、銅山師44人で足尾は極めて繁栄し、足尾千軒といわれた。また以後17年間足尾産銅を長崎に送り、そこからオランダに輸出した。輸出銅の20%を占めたので5か1銅と呼ばれた。
  • 貞享元(1684)年 足尾の産銅額が年産1500トンになる。
  • 元禄13(1700)年 産銅が急減し年産150トンになる。

だそうで、わずか十数年で1500トンが一気に150トンと10分の1にまで落ち込んでいた。
そこで、
  • 寛保元(1741)年 山師から山元の困窮を救うための鋳銭の許可願いが出される。
  • 寛保2(1742)年 5年間にわたり鋳銭座を設けて寛永通宝(足字銭)を2000万枚鋳造した。

……となった。
狛犬は1文銭鋳造を始めた翌年に奉納されているので、郷民の代表として神山清右門が総鎮守である妙見さんに、足字銭鋳造を機に足尾にまた活気が戻りますように、という願いを込めて奉納したのだろう。
神山清右門が鉱山師だったのかどうかは分からないが、神山家は足尾銅山が開坑する前からの郷士なのだから、狛犬をわざわざ離れた簀子橋山神社に奉納するはずがない。
また、そのときすでに簀子橋には狛犬一対がいた。というのも、産出量が激減したこの時期に、山師たちに狛犬を奉納するような余裕があったとは思えず、狛犬は銅がじゃんじゃん掘れていた延宝、天和、貞享年間あたりに「勢いで」奉納されたと思われる。
産出量が一気に増えたのが延宝4(1676)年で、翌年の延宝5(1677)年には妙見さんに燈籠が奉納されているから、狛犬が奉納されたのもこの頃だろうか。

磐裂神社の移転と通洞鉱山神社の建立

次に、通洞鉱山神社が建立される大正9(1920)年の少し前に、磐裂神社が移転したことに触れたい。
古河が切幹沈殿場を拡張するために神社を移転させることになった。
明治44(1911)年に神社庁より移転許可が下り、3年後の大正3(1914)年に社殿を解体して移築させたらしい。
通洞鉱山神社建立がその6年後だから、当然、通洞鉱山神社建立の責任者らは磐裂神社の解体・移築にも関与していたはずだ。
そのとき、磐裂神社に二対の狛犬がいることを確認したのではないか。
一対はボロボロで脚がなく、明治23(1890)年の足尾大洪水の際に簀子橋山神社から流れてきたものだという。古河にとっては忌まわしい過去だ。いくら古くて、足尾銅山黄金期に奉納された狛犬とはいえ、心機一転これから頑張ろうという時期に建てた新しい神社に持っていく気にはなれない。
一方、もう一対はとてもきれいで、背中には足字銭鋳造開始時期に奉納されたことが分かる銘がはっきり刻まれている。鉱山の歴史を物語る狛犬としてうってつけだ。これを持っていけば、新しく作って奉納するよりも箔がつくと思ったのかもしれない。
そこで神社関係者たちに「この狛犬をもらえないか」と持ちかけた。当時の古河と村民の力関係からして、妙見さんの氏子たちも嫌とは言えなかっただろう。

で、新しい神社に177年前の古い狛犬を持ち込むわけだから、それなりの説明が必要だが、古河としては鉱山の歴史よりずっと古い村社から持ってきたとは言いづらい。鉱山開拓初期の舞台であった簀子橋から持ってきたことにしたのだろう。
しかし、簀子橋の神社から大洪水のときに流れてきた狛犬のことを、地元の長老たちはまだ覚えている。だから「あれは流された狛犬だ」という話が次の世代にも伝わっていった。
「狛犬が流された」という話は地元の人たちには知られていても、表向きの説明には一切出てこない。古河にとっては掘り返したくない過去なので触れないし、旧足尾町も古河に忖度して、狛犬の起源については無難に「簀子橋山神社から遷座された」としか説明しなかった。その説明が今では完全に固定してしまった。
あっさりと「遷座された」というが、通銅鉱山神社が建てられた大正9(1920)年には簀子橋一帯に山神社は1社も残っていなかったのではないか。 塩野門之助の妻子が流された明治23(1890)年の大洪水の後にも、明治29(1896)年にも大洪水、明治35(1902)年には大暴風雨「足尾台風」……と、何度も大水害に見舞われている。保水力が低下していた山にあった神社もことごとく消えている。狛犬もとっくに流されていた。

……そういうことではないか。

ここまで考えてきて、改めて通銅鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬を見ると、今までとは違った感慨がこみ上げてくる。
地元の名士が総鎮守に奉納した狛犬が「山神社」にあったことにされて、今は古河が建てた神社にある。
銅山の第一次全盛期に山師たちが奉納したボリューミーで味のある狛犬が、足をもがれ、目を傷つけられてもなお、村民を守る古刹で静かに生き延びている。
どちらの狛犬も、数奇な運命を背負い、歴史の裏を見てきたのだなあ……と。


足尾 磐裂神社の狛犬の謎(2)2018/05/01 22:27

江戸期には間違いないが……

狛犬の寄進年が推定できそうな他の寄進物がないかと境内を歩き回っていると、壊れた燈籠が目に留まった。
柱にうっすらと「延宝五」の文字が読み取れる。延宝5(1677)年か……そのくらいの年代の狛犬だといわれたら、それはそれで不思議はない。

バラバラになったまま放置されている燈籠



泥を落としてみると、延宝5(1677)年と読めた




ここは修験道信仰の庚申山への一丁目にあたり、庚申山碑や一丁目標もある。庚申山の上には猿田彦神社があり、明治23年(1890)に小滝坑の山神社として坑夫により建立されている

文久3(1863)年に寄進されている



寄進者は神田須田町の丹後屋安右衛門




参考:猿田彦神社↑ 2012年の足尾行きの際に訪れた

神田須田町の丹後屋安右衛門とは何者かと調べたところ、江戸の柿問屋らしい。
神田須田町や淡路町一帯は江戸時代には武家屋敷町を形成していた。
淡路町交差点あたりは、江戸時代、堀丹後守屋敷で、丹後殿前と呼ばれた。湯女を置いて客を招く湯女風呂街で、この界隈を徘徊する男達の着ていた衣装を丹前風といった。今湯上りに着る丹前の由来だそうだ。
「千代田区神田淡路町・須田町の町並み」より)

で、そこに柿をはじめ水菓子(果物)販売を商いとする丹後屋があった。
信州・飯田市三穂地区の立石(たていし)集落というところで「立石柿」という干し柿が作られており、それが江戸まで運ばれて売られていた。
美穂の立石寺(りっしゃくじ)に文化11(1814)年、江戸の柿問屋たちが奉納した絵馬が残されていて、伊勢屋惣右衛門(堀江町二丁目)、遠州屋又兵衛(堀江町二丁目)、丹後屋安右衛門(神田須田町)、伊場屋勘左衛門(堀江町二丁目)という名前がある。
中でも丹後屋安右衛門は慶応元(1865)年の「御用水菓子納人申合帳」では、世話人として名を連ねているという。(飯田市WEBサイト内 「立石柿」 出典は『みる よむ まなぶ 飯田・下伊那の歴史』編集:飯田市歴史研究所 発行:飯田市)

その果物問屋の丹後屋が、なぜに庚申山への一丁目標を寄進しているのか? 丹後屋は熱心な庚申講信者だったのか?
もしかすると丹後屋のルーツは修験者で、全国の山を歩いているうちに立石柿など各地の特産物を見つけ、それを江戸に運んで売るという商いを始めたのかもしれない。

さて、この立石寺と同じ名前の立石寺が山形にある。「山寺」と呼ばれて有名な山形の立石寺は、ここ足尾の妙見山が氏神と定めた天童の妙見神社がある田麦野から山一つ超えた隣に位置している。

ここで再び、来福@参道さんの力を借りる。
 この田麦野から山を越えた所に、芭蕉の句で有名な山寺立石寺があります。立石寺は慈覚大師の開基になる天台宗の古刹です。また、ヒヒ退治で有名な早太郎伝説の残る信濃の光前寺は、慈覚大師の直弟子である本聖上人が開いたもので、立石寺と光前寺は深い関係があったことが分かります。
 もしかしたら、べんべこ太郎を連れて来た僧とは山一つ越えた立石寺の僧であり、信濃のべんべこ太郎とは、早太郎と同様に光前寺に飼われていた狼犬だったのかもしれません。(狼神話 山口・妙見神社)

べんべこ太郎の話は⇒こちらのサイトなどで取り上げられている。
坊さまは、その話聞いで、真夜中に神社さ行ってみだんだど、ほして静がに待ってだったらば、ふとあったげ風吹いできて、生臭い匂いしたがど思ったら、怪物らが集まってきて酒盛り始めだんだど。 しばらぐして酔っぱらった怪物らが歌うだいだして、「ボンボゴボン、おらんだが一番おっかねなは、信濃の国のべんべご太郎だ。ボンボゴボン」って歌うんだっけど。(秩父・仙台まほろばの道「べんべご太郎」

修験道、狼犬、柿問屋……一見関係のなさそうなものを介して、信州~足尾~山形が結ばれたかのような気持ちになった。

寺の話が出てきたが、足尾の妙見さんには、かつて別当寺(明治より前、神仏習合だった時代に、神社を管理するために置かれた寺)として妙見山龍福寺という寺もあったが、足尾銅山の衰退で廃寺となっているという。足尾銅山の衰退というよりも、単純に明治の神仏分離令によって消えたのかもしれない。
「明暦元(1655)年、日光寺社奉行・荒井孫兵衛尉秀元、崇敬の念篤く、釣鐘一箇を寄進して栄代不朽の重器となせり」(栃木県神社庁 磐裂神社)と記載されている釣鐘は、この龍福寺に奉納されたものかもしれない。

このあたりの年譜をもう一度まとめると、
  • 1655年(明暦元年)日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元が釣鐘を寄進
  • 1677年(延宝5年)燈籠寄進あり
  • 1712年(正徳2年)天神、大神、山神、稲荷、熊野の5神を境内に合祭
  • 1809年(文化6年)改築
  • 1863年(文久3年)江戸の果物問屋・丹後屋が庚申山一丁目標を寄進
  • 1871年(明治4年)神仏分離令により磐裂神社と改称

……となる。狛犬もこのあたりのどこか(200年以上幅があるが)で奉納されたものだろう。

流された狛犬はこれではないのか?


……と、ここまでは、この狛犬の奉納年を推定することに集中していたのだが、家に戻ってきてから、通洞鉱山神社の狛犬が明治23(1890)年8月の足尾大洪水の際に流されてきたという話をまとめた後、なにかモヤモヤするものが残っていた。
通銅鉱山神社の狛犬は日光地域に残っているはじめ狛犬の中でも飛び抜けてきれいだ。洪水で1kmも流され、川から引き上げられた狛犬には、どうしても見えないのだ。
「あまりにもきれいすぎるよねえ」と言っていたら、助手さんが呟いた。
「流されたのは磐裂神社の狛犬のほうだったんじゃないの?」
……?!……
なるほど、それならすんなり分かる。あの摩耗の仕方、阿吽ともに脚がなくなり、角が丸くなっているのが、上流から流されてきたからだとすればしっくりくる。
ゴロゴロと転がり落ちる間に足がもげ、水圧で角が削られて丸くなっていったと解釈できる。
もしかして、通洞鉱山神社の狛犬と磐裂神社の狛犬はどこかで「入れ替わって」しまったのではないか?

そもそも通洞鉱山神社の造営は大正9(1920)年。狛犬の奉納は寛保3(1743)年だから、狛犬のほうが200年近く古い
寛保元(1741)年に、足尾で銅を採掘していた山師たちが寛永通宝(一文銭)を足尾で鋳造させてほしいと請願し、翌・寛保2(1742)年に許可が下りる。以後、5年間で2000万枚あまりの一文銭を鋳造した。裏に足尾の「足」の字が刻まれていることから「足字銭」と呼ばれ、お金のことを「お足」というようになったもとだという説明は、鉱山観光の中でもされている。
寛保狛犬は一文銭の鋳造許可願いが叶ったのと銅の産出が増えるようにと願って「簀子橋の山神社に奉納した」ものといわれているわけだが、奉納先は本当に簀子橋の神社だったのだろうか? ふもとの古刹である妙見さんに奉納した可能性はないだろうか?

日光市教育委員会が設置した簀子橋(すのこばし)山(さん)神社大鳥居の説明看板には、
  • 慶長16(1611年)年に江戸幕府の直山となり、簀子橋を中心に開発された。
  • 文化3(1806)年に描かれた絵図には、簀子橋一帯に金山社、山神社(4社)、不動堂(2堂)が記されていて、いずれも有力な山師たちが建てたもの。
  • 寛保3(1743)年に金山社に奉納された狛犬一対が、ご神体とともに大正9(1920)年に通洞山神社新殿に遷座された。
……と書かれている。
この説明だと、狛犬があったのは山神社ではなく金山社で、流されて下流で見つかったという話も出てこない。いろいろなところに出ている説明が微妙に少しずつ違っているのは、伝承ばかりで、確たる証拠が残っていないからだろう。

足尾銅山の全盛期は延宝4(1676)から20年ほどで、以後は銅の産出が激減していったという。妙見さんの崩れたままの燈籠が延宝5(1677)年の奉納であることを合わせて考えると、当時から簀子橋一帯に山師たちが建てた神社やお堂だけでなく、麓の妙見さんにいろいろ奉納していたことが分かる。銅山が発見されてから山師たちが建てた神社と違って、大同年間創建とされ、秩父の妙見、相馬の妙見と並んで「関東三大妙見」と称された足尾総鎮守である妙見さんは格がまったく違う。奉納するなら妙見さんへ、と考えるのは当然のことだろう。

寛保3(1743)年の狛犬の背中には、寄進者として「下松原丁神山清右門」の名前が刻まれている。下松原は現在の足尾歴史館があるあたりで、妙見さんのすぐそば。そんな場所に住んでいる「神山」氏が、地元の総鎮守・妙見さんではなく、わざわざ簀子橋の山神社に狛犬を奉納するのは不自然


一方で、簀子橋に山師たちが建てた5社(?)の神社のいずれかに狛犬が奉納されていて、明治23(1890)年8月の大洪水の際に流され、後に下流で発見され引き上げられたという話も本当だろう。しかし、その「流された狛犬」が、今、通銅鉱山神社にいる、きれいでできのよい狛犬だとは、どうしても信じられないのだ。

狛犬が明治23(1890)年に流されたとすると、通洞鉱山神社ができる大正9(1920)年までの30年間は別の場所にあったことになる。
川で発見され引き上げられたのが正確にいつなのか分からないのだが、発見された場所は渋川から渡良瀬川に流れる手前だという。
30年も川底にあったというなら、あんなきれいなわけはないだろう。通銅鉱山神社が作られる前に引き上げられていたとすれば、引き上げられた後に、とりあえず磐裂神社に置かれていたと考えるのが自然だ。

そこでこんな仮説を立ててみた。
  • 足尾銅山全盛期の1600年代後半、延宝年間あたり、当時の採掘中心地であった簀子橋地区に山師たちが建てた神社の一つに狛犬が奉納された。(あれだけ大きな狛犬を山の上に奉納するには相当な金が必要で、銅山が衰退期に入ってからでは難しい)
  • 寛保3(1743)年、徳川から一文銭鋳造許可が出たことを祝し、今後の銅山発展を祈念しつつ、足尾郷民の祖でもある神山氏の本家が村の総鎮守である妙見さんに狛犬一対を奉納した。(足尾郷民の祖であり、妙見さんの総代のような神山氏が狛犬を奉納したのだから、奉納先は山師たちが建てた山神社ではなく、地元である足尾総鎮守の妙見さんのほうが自然)
  • この狛犬は社殿の軒下あるいは内陣前あたりに直に置かれ、風雪による摩耗などが少ないままきれいに保管されていた。
  • 明治23(1890)年8月、山林伐採により被害が拡大した洪水によって、簀子橋の神社にあった(延宝年間奉納の)狛犬が流された。その洪水で、別子銅山を辞めて足尾銅山に来ていた日本有数の鉱山技師・塩野門之助の妻子も亡くなった。
  • 簀子橋から流れてきた狛犬は渋川から渡良瀬川に流れる手前で発見され、引き上げられた。その後、妙見さんの境内に置かれた
  • 大正9(1920)年、足尾銅山通洞口に新たな山神社が作られたのを機に、古河が妙見さん(そのときはすでに「磐裂神社」)に奉納されていた寛保3(1743)年の狛犬を遷座させた。磐裂神社には簀子橋の神社から流されてきた狛犬だけが残った。
  • いろいろな伝承が入り交じり、いつしか通銅鉱山神社の狛犬は簀子橋山神社の狛犬だと誤認識されるようになった。

……以上はもちろん推論にすぎないが、二対の狛犬を比べてみて、足尾銅山の歴史を振り返ってみた今は、これが正解に近いのではないかと思っている。さらにいえば、どちらの狛犬も、越前禿型狛犬のテイストを取り入れながらも、狼信仰、つまり山犬をイメージして彫られたものかもしれないとさえ思い始めている。
古河の社史や磐裂神社の奉納帳、あるいは流された狛犬が発見された当時の記録などに狛犬の記述が残っていれば、もう少し裏付けがとれそうな気もするが、難しいだろうなあ。


「ほほう……よくそこまで考えたな」と言っているだろうか……



(⇒この項さらに続く)

足尾 磐裂神社の狛犬の謎(1)2018/05/01 22:07

磐裂神社の狛犬

磐裂神社はわたらせ渓谷鉄道の単線を渡った先にある




足尾の狛犬といえば通銅鉱山神社の狛犬が有名だが、そこからあまり離れていない磐裂神社という古社に「謎の狛犬」がいる。
この狛犬、以前から写真は見ていたのだが、実際には見逃していた。というのも、磐裂神社は歴史のある神社なのに、なぜか市販の地図などにはのっていないことがほとんどなのだ。
案内板にもある通り、創建は大同3(808)年というのだが、本当だとしたら平安時代!だ。
ただ、鉱山には開坑を大同2年、また大同年間とする伝承が数多いそうなので、鉱山で開けた足尾の総鎮守だけに、後になって大同年間創建とした可能性もありそうだ。

さて、日光中禅寺より足尾に移住してきた足尾郷民の祖といわれている人たちの中で神山文左衛門と齋藤孫兵衛の両氏が氏神を妙見天童としてここ遠下(とおじも)の地に鎮守を祭ることとしたという(『栃木県神社誌』 栃木県神社庁・編 1964)。
天安2(858)年8月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として社殿を造営、以後、神山氏、斎藤氏が交互に守ってきたという。
(しかし、日光市のWEBサイトでは、神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内の「足尾の5姓」が移住してきたのは正和4(1315)年と伝えられているとあり、足尾郷に人が住み始めた時期、妙見宮が創建された時期については伝承がかなりばらけている感じだ)
さて、正確な時期はともかくとして、この話でまず興味を引かれるのは、足尾郷の祖といわれる神山氏と斎藤氏が「妙見天童」を氏神としたことだ。
妙見天童とは、山形県天童市下山口妙見橋のたもとにある妙見神社のことと思われる。
妙見神社には狼信仰の伝説があるそうだ。
 その昔、この地では三年に一度魔物に人身御供を捧げる風習がありました。魔物達が恐れているのが「信濃のべんべこ太郎」であることを知ったある僧侶が、べんべこ太郎を探しに信濃へ赴きましたが、べんべこ太郎とは大きな犬でした。苦労の末、僧がべんべこ太郎を借り受け魔物を退治したと伝えられています。
 言い伝えによれば、べんべこ太郎と魔物たちの戦いは麓の山口から谷の奥の田麦野まで激しく繰り広げられたそうです。その後には魔物の正体であるタヌキが骸をさらしていたといいます。べんべこ太郎も力つき、山口まで辿り着いた時に息絶えたと言われています。村びとがこの地に、べんべこ太郎を葬りお堂を立てたのが、この妙見神社のはじまりだそうです。田麦野とはタヌキ野の意味であり、大昔からタヌキが田畑を荒らす害が深刻だったと言われています。このため魔物退治の伝説が生まれたのでしょう。
「来福@参道」狼信仰─妙見神社 より)


人身御供を要求する化け物を退治する犬の伝説は信濃の早太郎そのものだし、須佐之男の八岐大蛇退治の話にも通じる。そういう話が日本全国に散見されるのはとても興味深い。
それにしても、中禅寺から足尾に移住してきた郷民の祖がなぜ山形県天童の妙見さんを氏神としたのか? 天童の妙見さんに伝わるという狼信仰伝説も足尾までくっついてきているのだろうか? いきなり謎だらけだ。

さて、その後、徳川が日光東照宮を建てた後は、足尾郷は日光領となって徳川の支配下に入る。足尾銅山を徳川が直営していたのもそのためだ。
神社庁の資料によれば、明暦元(1655)年に、日光寺社奉行・荒井「孫兵衛尉」秀元が「崇敬の念篤く釣鐘一箇を寄進」している。この荒井秀元と火縄銃田布施流秘伝者・新井孫兵衛秀重や足尾の星野氏との関係を書いているブログもあったが、ここではこれ以上は踏み込まない。
ただ、鉱山をまたにかけた山師たちと修験者たちの関係、山に生きる者たちが妙見信仰を篤く信奉していたことは伝わってきた。
そもそも妙見信仰とは北極星と北斗七星を神格化して信仰したもの。真っ暗闇に包まれる山の中で野宿することも多かった山師たちが、夜空を見上げたとき常にそこにある不動の星・北極星や、その回りを正確な時を刻みながら回る北斗七星を神格化したことごく自然なことかもしれない。
また、鉱脈探索に犬が使われていた歴史はあるし、そこから狼信仰が出てきた可能性もありそうだ。

前置きが長くなってしまったが、ではさっそく謎の狛犬の元へGO。

第一印象は「けっこうでかいな」であった。はじめ狛犬であれば小さいだろうと想像していたのだが、通洞鉱山神社の狛犬より一回り大きいか。

手前にある岡崎現代型はスルーして、目的の謎の狛犬のもとへ



おお! ようやく会えたね



阿像。前脚は完全に喪失。丸く削れている



吽像も同様に前脚は欠損。後肢も、おそらく蹲踞した形だったものが失われている



阿像は舌を出している



三越のライオン像を思わせるような鬣。越前禿型の影響を感じる



阿像の尾↑と吽像の尾↓ きちんと形を変えている



腹の下がきれいにくり抜かれていることから、はじめ狛犬とは言い難い。腹部に銘はなかった



目が細い。この目の表情に特徴があるが、残念ながらかなり摩耗してしまっている




背中に文字が刻まれていたかどうか……あったのが摩耗して読めなくなったような、最初からなかったような……



吽像のほうがまだ表情が残っている。歯がこのようにいっぱい並んでいるのは古い狛犬によく見られる造形



よく見ると、胸のあたりに瓔珞(ようらく)的なものも見られる。
さて、この狛犬はいつ頃建立されたのだろうか? 通銅鉱山神社の狛犬、寛保3(1743)年よりも古いのか? 新しいのか?
この大きさからして、何か特別なイベントがあったときに奉納された可能性が高いように思える。
改めてこの神社の歴史を振り返ると、

  • 1655年(明暦元年)日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元が釣鐘1筒寄進
  • 1712年(正徳2年)天神、大神、山神、稲荷、熊野の5神を境内に合祭
  • 1809年(文化6年)改築
  • 1871年(明治4年)神仏分離令により磐裂神社と改称
  • 1881年(明治14年)神饌幣帛料供進神社となる
  • 1914年(大正3年)古河鉱業の資金で、解体後現地へ移転復元
……分かっているのはこれくらい。古ければ1600年代、新しければ大正3年の移転時だが、形や摩耗の進み方からして大正はないだろう。
となると、古くて1600年代半ば、新しくて文化文政時代くらいだろうか?
(⇒この項続く)


狛犬から知った、住友と古河の鉱山史2018/04/28 21:29

足尾 通銅鉱山神社の狛犬 寛保3(1743)年奉納
日光市足尾に通洞鉱山神社という小さな神社があり、そこに超個性的な狛犬がいる。



この狛犬は日光の「はじめ狛犬」(狛犬をあまり見たことのない村石工などが彫ったプリミティブな造形の狛犬)を代表する傑作で、狛犬ファンの間ではかなり有名になってはいるが、実は隠れたドラマがあるということを知った。

足尾といえば銅山。足尾銅山といえば有名なのは大規模な鉱毒被害とそれを告発して反対運動を死ぬまで続けた田中正造。
そこまではなんとなく知っていたのだが、今回、足尾在住のNさんに「この狛犬はもともと簀子橋(通洞鉱山神社の真北約1.5km)の山神社にあったのが、洪水で下まで流され、川から引き上げられてここに置かれた」という話を聞き、それは一体いつの話かと調べてみた。

狛犬が流されたとき、住友が経営する別子銅山から古河が経営する足尾銅山に移ってきた技師・塩野門之助の妻子が、洪水にのまれて亡くなっているという。そこでまず塩野門之助という人物を調べてみた。すると、古河鉱業だけでなく、足尾と並ぶ銅山だった愛媛の別子銅山を経営していた住友の歴史も知ることになり、塩野門之助と広瀬宰平、広瀬満正、伊庭貞剛といった人物との関わりも分かり、様々なドラマがあったことが分かった。
以下、足尾銅山、別子銅山略史と塩野門之助の人生を並べて記してみる。

足尾銅山、別子銅山と塩野門之助


  • 慶長15(1610年)年 足尾に銅山が発見される。以後、1700年代初めまでに年1300~1500トンの銅を産出。産出した銅の5分の1ほどは長崎に運ばれ、外国へ輸出もされていた。
  • 寛永7(1630)年 京都の銅吹き屋・蘇我理右衛門の子で住友家に婿養子として入った住友友以(とももち)が大坂に本拠を移し、銅精錬・銅貿易の泉屋を開業。住友家2代として住友財閥の基礎を築く。
  • 寛文2(1662)年 住友家2代・友以没(56歳)、長男・友信が16歳で3代として家業を継ぐ。
  • 貞享元(1684)年 住友友信の弟・友貞は独立して大坂で金融業を成功させていたが、この年 幕府関連の取引で失敗し、取りつぶし処分となる。兄・友信も連座責任を負わされ39歳の若さで引退させられる(住友家の危機)。後を継いだ4代目・友芳(16歳)は、父・友信とともに新たな鉱脈探査に乗り出す。その際、足尾銅山の調査もしたが、すでに低迷期に入っており、採算がとれないと判断した。
  • 元禄3(1690)年 愛媛県東部に別子銅山が発見され、翌元禄4(1691)年 住友が別子銅山を開坑。住友家は江戸時代最大の鉱業家となる。
  • 文化14(1817)年 足尾銅山は産出量が著しく落ち込み、一旦休山となる。この頃、別子銅山も産出量が激減していく。
  • 嘉永6(1853)年 島根藩士・塩野鉄之丞の長男として塩野門之助誕生。
  • 慶応元(1865)年 住友財閥の前身・泉屋の大番頭・広瀬宰平広瀬宰平が別子銅山支配人に抜擢され、廃坑寸前状態からの建て直しを進める。
  • 明治3(1870)年 門之助、藩校修道館で仏語修行を命ぜられる。
  • 明治4(1871)年 足尾銅山が民営化決定。
  • 明治7(1874)年 住友がフランス人鉱山技師ラロックの通訳として門之助を外務省よりヘッドハンティング。
  • 明治8(1875)年 泉屋は住友本社に改組され,別子銅山は住友本社の直営となる。
  • 明治9(1876)年 門之助、ラロックの「別子鉱山目論見書」を翻訳。この年 住友の私費留学生として渡仏。翌年 サンテチェンヌ鉱山学校予備校に入学。
  • 明治 10(1877)年 古河市兵衛古河市兵衛が渋沢栄一らの協力を得て足尾銅山の経営に乗り出す。このときの産出量はわずか52トン/年。
  • 明治13(1880)年 足尾銅山から出た鉱毒が川に流れ込んで、魚が浮いて死んでいるのが発見される。栃木県令が魚類捕獲禁止令を出す。
  • この年 門之助、サンテチェンヌ鉱山学校を卒業し、鉱山の実地修行。
  • 明治14(1881)年 足尾銅山の鉱長・木村長兵衛(古河市兵衛の甥)の指揮下、大鉱脈が発見される。
  •          門之助、フランスから帰国。
  • 明治15(1882)年 門之助、別子鉱山技師長就任。
  • 明治19(1886)年 門之助、溶鉱炉研究のため自費で欧米出張。
  • 明治20(1887)年 門之助帰国。住友の別子銅山では煙害が発生し、農民が決起する騒動に。門之助は惣開の中央製錬所構想を上申するが、採用されず、住友総理の広瀬宰平と衝突して退職。友人の福岡健良(古河・本所熔銅所長)の推挙で足尾銅山に就職。足尾銅山は年産6000トン以上を産出し続け、「殖産興業」の代表格になっていた。(当時、銅は生糸・絹製品に次いで日本第二の輸出品だった。1890年代には足尾、別子、日立などの銅山から出た銅の輸出は世界の総産出量の5%以上を占めていた)
  •          足尾の総責任者であった木村長兵衛は、赴任してきた門之助に現行の「ピルツ炉」の改造を命じるが、そのことで門之助は木村と対立していく。
  • 明治21(1888)年 門之助、第二代住友総理事で「別子銅山中興の祖」と呼ばれる伊庭貞剛伊庭貞剛にベッセマ転炉の採用を進言し、同時に別子へ戻りたい旨を懇願。
  •         4月、ピルツ炉の改造をめぐって坑長・木村長兵衛との対立が深まり、辞職。*1
              5月、木村長兵衛が急死。後任として木村長七が坑長に就任。その後、門之助が復職。
  • 明治22(1889)年 電気製練法が採用され生産性が一気に上がるが、亜硫酸ガスも増大。田中正造が足尾銅山鉱毒被害について帝国議会で質問。            この年、坑長・木村長七が中心となって本山抗口の前の山に本山鉱山神社(杉菜畑鉱山神社)を建立。
  • 明治23(1890)年 8月、山林の伐採により、足尾で大洪水が発生門之助の妻子も洪水にのまれて死亡このとき、簀子橋山神社にあった狛犬も流出し、1km弱下流にまで流される。沿岸には鉱毒が氾濫し、各町村で鉱毒反対の動きが活発に。門之助は住友の広瀬満正へ別子銅山へ戻りたいので取りはからってくれと懇願する。
  • 明治24(1891)年 群馬県議会、鉱毒防止の建議書可決。
  •          1月、門之助、足尾銅山小滝分局長,木部末次郎の名で「製煉法之儀ニ付伺」と題する上申書を提出。かねてより注目・研究していたベセマ錬銅法の採用を提言。
  • 明治25(1892)年2月、この提言を受け、古河市兵衛は翌2月に塩野をアメリカに派遣し,当時世界でただ一か所ベッセマ錬銅法を実用化していたモンタナ州ビュート銅山のパロット製錬所を視察させる。帰国後、門之助は製錬課長となり、ベッセマ転炉の建設に着手。
  •          3月、伊庭貞剛宛に再び別子銅山帰山を懇願。6月には広瀬満正宛にも懇願するが、ベッセマ転炉が完成するまでは許されず。
  • 明治26(1893)年 日本初のベッセマ転炉完成。製錬工程でカギとなる先進技術。塩野門之助塩野門之助の功績
  • 住友家総理人・広瀬宰平が辞職。伊庭貞剛が本店支配人のまま新居浜に赴任。門之助、ようやく足尾銅山を辞職。
  • 明治28(1895)年 門之助、別子鉱山に再就職。設計部長となる。このとき門之助は43歳。
  • 明治29(1896)年 門之助、再婚。
  •          足尾で大旱魃の後に大洪水。浸水家屋13,802戸。鉱業停止運動が活発になる。
  • 明治33(1900)年 鉱毒被害農民3,000人が政府に請願するため上京。その途中、館林市川俣において警官隊に阻止、鎮圧される(川俣事件)。
  • 明治34(1901)年11月30日 毎日新聞の鉱毒被害追及記事をうけ、古河市兵衛の夫人為子が神田橋下で入水自殺。世論が大きく動く*2。12月10日、田中正造田中正造が天皇へ直訴。逮捕される。直訴状が天皇に渡ることはなかったが、これがきっかけで世論がさらに盛りあがり、鉱毒事件が全国に知られることになる。
  • 明治40(1907)年 鉱毒の被害を受けていた谷中村が強制破壊により廃村となる。
  • 大正2(1913)年9月 田中正造没(71歳)。
  • 大正9(1920)年 古河が足尾通銅鉱山神社を建立。
  • 昭和8(1933)年7月 塩野門之助没(80歳)。
  • 昭和10年代、足尾銅山が浮遊選鉱法を採用。これにより鉱さいはが細かくなり、鉱毒被害が一層ひどくなる。
  • ~~~
  • 昭和22(1947)年 カスリン台風襲来。足尾の洪水被害甚大。沿岸市町村は鉱毒対策委員会を結成。県は実態調査を実施。
  • ~~~
  • 昭和48(1973)年 足尾銅山閉山。同年 住友の別子鉱山も閉山
    *1
    「独逸の如き拳大の塊鉱製煉にはピルツ炉は或は可なるも,足尾の如き選鉱して大部分は粉粒鉱を処理する処では,ピルツ炉は高きに過ぎて不向であるのを米国で見て来て居るので,この改造は容易でない。殊に末松君の失敗した炉だから困るとて大いに談じ込んだのですが,長兵衛さんは中々承知せられぬのです。『それならうまく行くかどうか疑問だがやって見ませう』とて取掛り,四五ヶ月で五尺の高炉を三尺の高さに縮め甚だ不十分ながら幾分米国式に改造したのですが,送風機其他も不完全であり,且鉱石も不純分が多く熔解困難な含有物が多いのと,熟練した職工もなく仕事に馴れないので成績良く参りませんでした」(茂野吉之助『木村長兵衛伝』追憶篇)

    *2
    ただ望む。市兵衛たる者、爾(なんじ)がかかる運命に接したるは、是、心機一転の時期なるべきを悟り、亡き妻によって残されたる一大訓戒の意味をば正しく了解して、人道の為の尽くすの人ならん事を。(新聞「万朝報(よろずちょうほう)」明治34(1901)年12月1日

    ……こう見ていくと、日本の近代史、特に鉱工業や経済史の中で、住友や古河がどのように成功していったかが分かる。
    住友は足尾銅山が衰退していたときに調査もしていたという。
    足尾のわたらせ渓谷鉄道通洞駅近くには「泉屋旅館」があり、古河の幹部や古河が招いた客人の定宿となっていた。同旅館は閉山後も細々と営業していたが、地元の人たちは「泉屋旅館」の場所一帯を「泉屋」と呼んでいたそうで、住友が足尾銅山の採算性や将来性を調査していた時期にそこに滞在していたのではないかとのこと。そうであれば、住友の旧屋号をつけた旅館でライバルの古河が芸者を上げて酒盛りをしていたわけで、なんとも皮肉な話に思える。
    もしも、住友が足尾を見限らず、手をつけていたら、別子だけでなく足尾も手に入れてダブルで大儲けしていたかもしれない。そうなると古河市兵衛の成功もなかったわけで、歴史はどこでどう変わるか分からないものだ。
    ちなみに古河市兵衛は生涯3度結婚しているが、3人の妻・鶴子、為子、清子のうち、為子は足尾銅山鉱毒事件の渦中に神田川に入水自殺している。

    「東の足尾、西の別子」と呼ばれた日本の二大銅山を行き来した塩野門之助の人生は特に興味深い。
    当時の世界最先端技術を日本に導入するという活躍をした一方で、山林伐採による洪水被害や鉱毒垂れ流しによる甚大な環境汚染を引き起こした時代、妻子を失い、住友と古河の間で上司とは常に対立したり懇願したりといったストレスフルな人生を送ったことがうかがわれる。


    門之助の妻子を呑み込んだ洪水は簀子橋の山神社の狛犬も押し流したが、狛犬は下流でその後発見されて引き上げられ、新たな居場所を得た。ガイドブックなどには「簀子橋山神社にあったものが移された」と説明されているが、移されたというより、「流れ着いた」のだ。
    その狛犬が今は「廃墟観光」の代名詞のようになっている足尾銅山跡地で、観光客を見送っている(通洞鉱山神社は足尾銅山観光ルートの出口からしばらく行ったところに位置しているので、多くの観光客は帰り際に横目で見るような形になる)。
    すごいドラマを背負った狛犬だったのだ。
    1kmも流されたのに、欠損や摩耗がなく、背中の銘までくっきり読めるというのも、ちょっと信じられない。まさに「奇跡の狛犬」か(これに関しては「そうではない」という推論へと続く)。

    このときの洪水だけでなく、足尾では何度も洪水被害が起きているが、鉱山開発による大規模山林伐採で山が保水力を失い、流出した土砂の堆積で麓の川底が上昇して「天井川」を形成してしまったことが大きな原因となっており、鉱山開発が引き起こした被害といえる。
    その洪水で門之助の妻子はなくなった。古河市兵衛の二番目の妻が、鉱毒事件の最中に自殺していることとも合わせて考えると、男たちが仕事での成功と地位を追いかける陰で、家族が犠牲になっていた当時の時代空気というものも感じてしまう。


    人は死に、建物も焼けたり流されたりして消える。
    しかし、石の狛犬はいろいろな災害を見つめつつ、長い時間、生き続ける。
    「石」というものの凄さを改めて感じると同時に、石に命を吹き込む石工たちや、祈りを込めた庶民の心に思いをはせずにはいられない。
    参考文献一覧


    足尾の銅山遺構をめぐった写真紀行が⇒ここ(「足尾銅山遺産と歴史を探る」 旧愚だくさんブログ)にある。見応えがあるので、興味があるかたはぜひ。



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  • 3万円の手作りクッキー2018/04/22 18:42

    「ナイナイのお見合い大作戦!」という番組を見た。最後に女性たちが手に手に小さな包みや箱を持ち、「私が焼いたクッキーです。受け取ってください」みたいな感じで男性に差し出すシーンで、微妙な違和感を覚えた。男性が女性に、のときは全員が花束だったなあ。女性が男性に、の場合はクッキーとかなのか……。

    手作りクッキーは特別なものである。愛情を込めて、大切な人のために焼く。
    手作りクッキーを「食べてください」と渡される人は幸せだが、世の中には手作りクッキーをもらえない人もいっぱいいる。
    そういう人はお金を出して市販のクッキーを買ったりする。地位のある人は、自分が買わずとも、人が高価なクッキーを買ってくれることもある。
    でも、市販のクッキーは大量生産のコピーで、手作りクッキーとは違う。味がどうのという問題ではなく、「違う」。
    だからみんな、手作りクッキーが好きだし、手作りクッキーを欲しがる。

    ケースF:
    「お忙しそうですね……」
    「いろいろ大変だったけど、これからがウンコだから。手作りクッキーちょうだい」
    「ダメですよ。ここはお仕事の場ですから」
    「そんなに仕事したいんだ~。じゃあ、おうち行っていい?」
    「そういうの、ほんとやめてください」
    「きみんち行って、手作りクッキー食べて、ウンコして、クローズアップ現代見て、寝るか~?」

    ケースY:
    「手作りクッキー、お好きなんですか?」
    「そうだね。でも、焼いてくれる人いなくてね」
    「お寂しいですね」
    「きみが焼いてくれる?」
    「材料費と手間代で3万円いただければ」
    「いいよ。じゃあ、それでお願いするよ」

    さて、この2つのケースを、同じ「手作りクッキー」の話として同列に語っている人がいるが、全然違う話だと思うよ。



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    選挙の「按分票」は廃止すべき2018/04/10 21:31

    告示と同時にズラッと張り出された候補者ポスター

    地方選挙の難しさ

    一昨日の日曜日(2018/04/08)は日光市長選、市議会選の告示日で、近所の人や知人・友人たちの中にも、ポスター貼りの手伝いに動員された人たちがけっこういた。

    市長選は4候補者の乱戦と伝えられているが、おそらく当選可能性があるのは2候補で、他の2候補はそれぞれ有力2候補の足を引っ張るという図式だろう。
    2候補のうち、足の引っ張られ度合?が少なかった候補が勝つ……ということか。

    市長選については、4人の立候補者が揃った公開討論会の動画を教えてもらったので見てみた。
    長いので飛ばしながら、いちばん頭よさそうな人は誰か、うわべだけで話している人は誰か、性格悪そうなのは誰か、本気で政策を訴えている人は誰か……といった視点で見ていた。
    有力候補の一人が「子育て支援政策」についてこんなことを言っていたのが印象的だった。

    子育て支援は大切だが、子供はいずれこの地を離れていく。その後、また戻ってきたいと思える魅力のある町であるかどうかが重要。まずは大人が生き甲斐を持って生きていける町じゃないと、出ていった子供は戻って来ないから、人口減少は止まらない。
    親が自ら楽しく生きる、生き生きと暮らす姿を子供に見せられなければ、子供はこの地に魅力を見いだせない。


    ……そんなような内容だった。
    まったくその通り。
    で、公開討論会でこういう視点での持論を主張できる人かどうか、というのも重要な判断材料だろう。
    お題目みたいなことを並べているだけの人は、自分の頭でとことん考えていない。周囲の人との関係や、上(県や国)とのパイプ作りのテクニックだけで市政をやろうとしている。だから、選挙でも、自分がいかに国や県から利益誘導できる人間かをアピールする。
    しかし、そういう手法では、これから先、通用しない。だって、国がこのザマなんだから。国全体がじり貧になっていくのは分かっている。その中で地方都市が生き残る戦略を立てなければいけないんだから、ある意味、国政担当者よりもずっと頭がよく、実行力のある人物でなければ地方行政は託せない。

    一方、何をやるにも金は必要だ。
    地域内の税収だけではやっていけないから、地方交付税や各種補助金はどうしても必要。しかし、それがほしいと尻尾を振るだけではダメで、うまくもらった上で、合理的に、有効に使いこなす「技術」が必要なのだ。
    なるべく喧嘩せず、対立構図を作らず、したたかに相手(国や県や大企業)を取り込み、結果として今よりいい方向に向かう知恵と対人関係形成能力が政治家には不可欠。清濁併せ呑み、ゲームに勝つずるがしこさも必要なのだ。
    いくら正論を述べていても、自己主張で終わるような人、いざ仕事をさせてみたら現実に対応できないような人(つまり僕のような人?)は政治家には向いてない。政治に直接参加しようとせず、何かやるにしても外野からのサポートや自分の持ち場をしっかり固めることに徹したほうがいい。

    ……とまあ、そういう視点で投票する市長候補者は決まった。

    「按分票」は廃止せよ

    さて、市議会選はさらに難しい。
    今回は定数24に対して27人が立候補。つまり落ちるのは3人だけ。
    前回は定数が28に対して30人が立候補した。落ちたのは2人だけ。

    最後の1議席を2人、3人が争うという選挙。であれば、落ちそうな候補者の中で、この人よりはこの人のほうを残したい、という視点で選ぶのがいいだろう。ということで、前回の開票結果を改めて見たところ、驚くべきことに気づいた。
    ~~~~~

    ~~~~~


    ↑一瞬、総得票数4455万4953票? って読んじゃいそうだけど、4万4554.(テン)953票で、最後の953は小数点以下なのだ。
    得票総数…… 44,554.993
    按分の際切り捨てた票数…… 0.007
    無効投票数…… 1,169.000
    投票総数…… 45,724.000


    なんと、候補者30人のうち、12人もが小数点以下まである「按分票」をもらっている。
    按分というのは、同じ姓の人が複数いるなどしたとき、姓しか書いていない票は誰に投票したか分からないので、可能性のある人に振り分けましょう、ということだ。
    公職選挙法ではこう規定されている。
    (同一氏名の候補者等に対する投票の効力) 第六十八条の二 同一の氏名、氏又は名の公職の候補者が二人以上ある場合において、その氏名、氏又は名のみを記載した投票は、前条第一項第八号の規定にかかわらず、有効とする
    4 第一項又は第二項の有効投票は、開票区ごとに、当該候補者又は当該衆議院名簿届出政党等のその他の有効投票数に応じてあん分し、それぞれこれに加えるものとする。

    この最初に出てくる「前条第一項第八号の規定にかかわらず、有効とする」の「前条第一項第八号」というのは、「公職の候補者の何人を記載したかを確認し難いもの」は無効とする、という条項。
    これだけでいいではないかと思う。
    候補者の姓名を正しく書けないような投票のために、繁雑な按分票作業をするのは集計の効率を極端に悪化させるだけでなく、選挙の質を下げる。

    前回の日光市議会議員選挙では、
    ふくだ(2)、さいとう(5)、かとう(2)、やまこし(2) という姓の候補者が複数いた。このすべてで按分票が生じている。
    さらには、1人しかいない「手塚」候補の票に小数点以下がついているのはなぜかと思って調べたら、齊藤正三候補は「しょうぞう」ではなく「まさみ」と読むことが分かった。手塚候補の氏名は手塚雅己で、届出名は「手塚まさみ」、一方、齊藤正三候補の届出名は「さいとう正三」。姓を平仮名表記にして届出たのは、齊藤正三氏だけが「齊」藤で、他は「齋」藤か「斎」藤だからか? (ちなみに「斉」は一斉、斉唱などの斉で、旧字体が齊。「斎」は書斎、斎場などの斎で、旧字体が齋。意味の違うまったく別の字

    手塚候補にも按分票が入っているということは、姓を書かず、しかも名前を漢字ではなく平仮名かなんかで「まさみ」とか「まさみさん」と書いた投票用紙があったということだろう。
    さいとう正三候補の得票数は1,451.478票。手塚まさみ候補の得票数は1,299.422票。1451:1299で1票を割ると0.528票と0.427票だから、手塚候補の小数点以下0.422とも微妙に違う。ということは「まさみ」だけの票は1票だけではなく2票以上あったのだろうか。いや、さいとう正三候補は「さいとう」と書かれた按分票がかなり入っているから、さらに計算はややこしくなる。そこで生じた小数点以下3桁目の微妙な違いなのだろうか……。
    平仮名で「まさみ」とか「まさみさん」と書いた票は、ほぼ「手塚まさみ」候補の票であろう。「さいとう正三」という届出名の候補者に「まさみ」と書いて投票するとは思えない。
    しかし、そういうこと以前の問題で、こんなしょーもない、ルールを守れない投票のために、当該候補者の得票数に応じて1票を小数点以下3桁まで計算しなければいけないというのは馬鹿げている。
    再度いう。「按分票」の規定は廃止するべきだ。

    こんな選挙は嫌だ!

    さらに前回の日光市議選の最終得票結果を見ると、按分票にもならなかった無効票が1,169票もある。投票者総数が4万5724人だから、100人のうち3人近くの人が無効票。姓だけとかで判別できない「按分票」も含めたら相当数が「まともに記入されていない票」ということだ。

    「按分票」がどのくらいあったのかは選挙結果発表では知ることができない。ぜひ知りたいものだ。無効票が1169票もあるくらいだから、按分票はもっとあるのかもしれない。だとしたら、どうしようもない民度の選挙だ。
    選挙権は平等に──これはあたりまえのこと。しかし、最低限度のルールも理解できていないような票を「按分」までして有効にする必要はない。むしろ民主主義の劣化につながる。

    それでも真剣に一票を投じた

    市議会議員については、前回の結果を参考にして、落選しそうなラインにいる候補者に目をつけた。
    その中で、この人よりはこの人を残したい……という選び方をしたいのだが、どういうわけか共産党と公明党以外は全員が「無所属」で、政党で選ぶこともできない。
    そこで「会派」別議員名簿にアクセスした。
    どうしようもない議員と同じグループは「同じ穴の……」で除外していけばいいかなという選別方法。しかし、そもそも個々の市議会議員のことをよく知らないから、会派の色もよく分からない。(だからこそ、ほとんどの人は「地元の人だから」とか「知り合いの知り合いだから」といった理由で投票してしまうのだろう。)

    WEBサイトやフェイスブックアカウントを持っている議員には極力アクセスして人物像や政策を探ろうとしたが、呆れたことにまったくWEBにタッチしていない議員がいっぱいいる。
    日光市のサイト内に議員名簿のページがあるのだが、メールアドレスや個人WEBサイトという項目があるにもかかわらず、アドレスやURLを明記している議員はたったの2名なのだ。どうしようもない。

    ……と、散々苦労した挙げ句に、市長は実質2候補の争いだろうから、この人にはなってほしくないという候補者ではないほうに。
    市議会議員は落ちそうな候補者の中から、残ってほしいと思える人(その人が全候補者の中でベストだということではない)に。
    決まったところで、期日前投票を済ませてきた。

    今回は買い物のついでに行った。この出張所は初めて訪れた


    家に戻り、車のタイヤ交換をしていたら、ケータイが鳴った。
    「○○候補をよろしく、という電話です。友達なんです」
    ……あ~、さっき投票してきちゃったよ。その人にするか、もう一人にするかで悩んだけれど、こうこうこういう理由でもう一人のほうにしたよ、と説明した。

    さてさて、結果はどうなることか。
    前回選挙では、市長も市議も死に票になってしまったのだが……。


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    「デブリを取り出して廃炉」という幻想2018/03/12 12:11

    2018/03/10『報道ステーション』(テレビ朝日)より

    言えない立場の増田尚宏氏と言える立場の田中俊一氏



    ↑2018年3月10日放送の『報道ステーション』(テレビ朝日)の特集コーナーより(以下同)

    今日、3月12日は1F1号機が水素爆発を起こした「原発爆発記念日」である。
    その映像をテレビで見てすぐに、僕たちは川内村の家から逃げ出し、川崎市の仕事場に避難した。あの日からちょうど7年が経った。
    今ではメディアも特集などを組むことは少なくなり、今年は森友文書書き換え問題などに食われている(あれもまた国家の根幹を揺るがすとんでもない事件だが)。

    一昨日の『報道ステーション』で、1Fの廃炉がいかに困難かという問題を特集していた。
    久しぶりに見る増田尚宏氏の苦渋に満ちた顔。この人がこの日記に登場するのは何回目だろうか。まずは2015年の⇒この日記を読んでいただきたい。
    2015年3月、NHKの海外向け放送にてインタビューに答える増田尚宏氏
    2015年、このインタビューで増田氏はこう語っている。
    溶融燃料についてはわからない。形状や強度は不明。
    30メータ上方から遠隔操作で取り除く必要があるが、そういった種類の技術は持っておらず、存在しない

    (政府は廃炉作業を2020年に始める意向だとしているが)それはとてつもないチャレンジと言える。正直に言って、私はそれが可能だとは言えない。でも不可能だとも言いたくない。

    どのくらいの被ばく線量なら許容されるのか? 周辺住民ににはどんな情報が必要なのか? どうすればよいか教えてくれる教科書はない。
    私は、ステップごとに決定を下さなければならないわけだが、正直に申し上げて、私が正しい決定をするということは約束できない

    国内で放送されないと知っていたからか、かなり正直に胸の内を吐露している。
    それが、3年経った現在では、こう答えている。


    使用済み燃料を取り除くことは責任を持ってやらなくてはならないやればできるものだと思っている

    この言葉の間にはいくつかの言い訳や説明が挟まれていたが、要するに「できる」「やらなければならない」と言いきっている。
    3年前には「溶融燃料(デブリ)についてはわからない。形状や強度は不明」と言っていたが、今ではデブリの状態が想像以上にひどい状況だということが分かってきている。
    優秀な専門家である彼には、デブリの取り出しなどとうていできないと分かっている。しかし、組織人として「取り出さなければならない」「やればできると信じている」などと答えなければならない立場に置かれていることの苦しさが、最後には悲鳴にも聞こえるような大きな声での叫びとなって絞り出されたように見えた。

    増田氏は東電にとって、いや、日本の原子力業界にとってかけがえのない人材だ。彼のスーパーマン的な活躍がなければ、1F同様、2Fも爆発していただろう。7年前、彼が2Fの所長だったことは本当に幸運だった。
    が、その彼も、この数年で顔つきがだいぶ変わったように感じる。どれだけ辛い人生を歩んでいることか、察するに余りある。

    デブリは取りだしてはいけない

    一方で、その直後に登場した田中俊一・原子力規制委員会前(初代)委員長は、相変わらずのシニカルな表情でこう言ってのけた。









    廃炉現場の最高責任者に任命され、今も現場を指揮している増田氏と、規制委員長を辞めた田中氏の立場の違いがはっきり見て取れる。
    人間としては増田氏のほうを信頼したいが、この点に関しては、田中氏の言うことが正しい。
    「そういうことを言うこと自体が国民に変な希望を与える」という発言のときは、「幻想」と言いかけたのを、少し考えてから「変な希望」と言い換えていた。

    圧力容器を突き破って底まで全量溶け落ちたデブリを遠隔操作で取り出すなどという技術は存在しない
    そもそも、取り出せたとしても、置き場所がないのだ。きちんと形のある使用済み核燃料でさえ保管場所がないのに、不定形になったデブリをどこでどうやって保管するというのか。これ以上、デブリの取り出しにこだわるのは、莫大な金をかけてリスクを拡大するだけの愚行だ。
    つまり、デブリは取り出せないし、今は取り出そうとしてはいけない
    では、どうすれば今よりひどい状態にならないで長期間、ある程度の安全を得られるかを、合理的に考えなければいけない。そんなことは、誰が考えたって自明の理だ。

    できないことを「そのうちできるだろう」「なんとかなるんじゃないか」といって無理矢理金を投入して始めてしまい、取り返しのつかないことに追い込まれるのは原子力発電事業そのものの構図だ。出てくる核廃物の処理や保管技術がないままに原子力発電所を作り、今なお、この根本的な解決方法は存在しない。日本国内だけでも、行き場のない使用済み核燃料が発電所内にごっそり置かれたままだ。
    技術が存在しないどころか、エントロピー増大則に従うしかない物理世界(我々が生きているこの地球上)では、核廃物の根本的な処分方法は今後も見つからないだろう。
    できないことをしてはいけない──このあたりまえのことを無視するとどんな結果になるか、すでに手痛く体験したことなのに、なぜこの期に及んでまで、謙虚になれない、合理的に判断できないのだろう。

    3年前の増田氏の言葉と今の増田氏の言葉を比較すると、絶望的な状況はますますはっきりしてきたのに、逆に正直に答えることはできなくなったという悲しい現実が見える。
    増田氏の「組織人」としての苦悩は痛いほど分かるが、とにもかくにも、彼の上で命令を下す人たちがきちんとした判断を下さず逃げてばかりいる限り、増田氏の高い能力も、今後変な方向に向かいかねない。
    それこそ、3年前の彼が漏らした「私は、ステップごとに決定を下さなければならないわけだが、正直に申し上げて、私が正しい決定をするということは約束できない」という言葉の重みが、ますます深刻なものになっているのだ。
    その闇の深さ、問題の大きさを、現場の人たちだけに押しつけず、我々一般人も、少しは共有すべきではないか。
    次の選挙のときには、このことをぜひ思い出してほしい。
    どうしようもない破局が訪れる前に、どうせ自分は死んでしまうだろう、という「食い逃げ」の人生でいいのか、と自問自答してみようではないか。


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