『阿武隈裏日記』を改題しました。
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選挙の「按分票」は廃止すべき2018/04/10 21:31

告示と同時にズラッと張り出された候補者ポスター

地方選挙の難しさ

一昨日の日曜日(2018/04/08)は日光市長選、市議会選の告示日で、近所の人や知人・友人たちの中にも、ポスター貼りの手伝いに動員された人たちがけっこういた。

市長選は4候補者の乱戦と伝えられているが、おそらく当選可能性があるのは2候補で、他の2候補はそれぞれ有力2候補の足を引っ張るという図式だろう。
2候補のうち、足の引っ張られ度合?が少なかった候補が勝つ……ということか。

市長選については、4人の立候補者が揃った公開討論会の動画を教えてもらったので見てみた。
長いので飛ばしながら、いちばん頭よさそうな人は誰か、うわべだけで話している人は誰か、性格悪そうなのは誰か、本気で政策を訴えている人は誰か……といった視点で見ていた。
有力候補の一人が「子育て支援政策」についてこんなことを言っていたのが印象的だった。

子育て支援は大切だが、子供はいずれこの地を離れていく。その後、また戻ってきたいと思える魅力のある町であるかどうかが重要。まずは大人が生き甲斐を持って生きていける町じゃないと、出ていった子供は戻って来ないから、人口減少は止まらない。
親が自ら楽しく生きる、生き生きと暮らす姿を子供に見せられなければ、子供はこの地に魅力を見いだせない。


……そんなような内容だった。
まったくその通り。
で、公開討論会でこういう視点での持論を主張できる人かどうか、というのも重要な判断材料だろう。
お題目みたいなことを並べているだけの人は、自分の頭でとことん考えていない。周囲の人との関係や、上(県や国)とのパイプ作りのテクニックだけで市政をやろうとしている。だから、選挙でも、自分がいかに国や県から利益誘導できる人間かをアピールする。
しかし、そういう手法では、これから先、通用しない。だって、国がこのザマなんだから。国全体がじり貧になっていくのは分かっている。その中で地方都市が生き残る戦略を立てなければいけないんだから、ある意味、国政担当者よりもずっと頭がよく、実行力のある人物でなければ地方行政は託せない。

一方、何をやるにも金は必要だ。
地域内の税収だけではやっていけないから、地方交付税や各種補助金はどうしても必要。しかし、それがほしいと尻尾を振るだけではダメで、うまくもらった上で、合理的に、有効に使いこなす「技術」が必要なのだ。
なるべく喧嘩せず、対立構図を作らず、したたかに相手(国や県や大企業)を取り込み、結果として今よりいい方向に向かう知恵と対人関係形成能力が政治家には不可欠。清濁併せ呑み、ゲームに勝つずるがしこさも必要なのだ。
いくら正論を述べていても、自己主張で終わるような人、いざ仕事をさせてみたら現実に対応できないような人(つまり僕のような人?)は政治家には向いてない。政治に直接参加しようとせず、何かやるにしても外野からのサポートや自分の持ち場をしっかり固めることに徹したほうがいい。

……とまあ、そういう視点で投票する市長候補者は決まった。

「按分票」は廃止せよ

さて、市議会選はさらに難しい。
今回は定数24に対して27人が立候補。つまり落ちるのは3人だけ。
前回は定数が28に対して30人が立候補した。落ちたのは2人だけ。

最後の1議席を2人、3人が争うという選挙。であれば、落ちそうな候補者の中で、この人よりはこの人のほうを残したい、という視点で選ぶのがいいだろう。ということで、前回の開票結果を改めて見たところ、驚くべきことに気づいた。
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↑一瞬、総得票数4455万4953票? って読んじゃいそうだけど、4万4554.(テン)953票で、最後の953は小数点以下なのだ。
得票総数…… 44,554.993
按分の際切り捨てた票数…… 0.007
無効投票数…… 1,169.000
投票総数…… 45,724.000


なんと、候補者30人のうち、12人もが小数点以下まである「按分票」をもらっている。
按分というのは、同じ姓の人が複数いるなどしたとき、姓しか書いていない票は誰に投票したか分からないので、可能性のある人に振り分けましょう、ということだ。
公職選挙法ではこう規定されている。
(同一氏名の候補者等に対する投票の効力) 第六十八条の二 同一の氏名、氏又は名の公職の候補者が二人以上ある場合において、その氏名、氏又は名のみを記載した投票は、前条第一項第八号の規定にかかわらず、有効とする
4 第一項又は第二項の有効投票は、開票区ごとに、当該候補者又は当該衆議院名簿届出政党等のその他の有効投票数に応じてあん分し、それぞれこれに加えるものとする。

この最初に出てくる「前条第一項第八号の規定にかかわらず、有効とする」の「前条第一項第八号」というのは、「公職の候補者の何人を記載したかを確認し難いもの」は無効とする、という条項。
これだけでいいではないかと思う。
候補者の姓名を正しく書けないような投票のために、繁雑な按分票作業をするのは集計の効率を極端に悪化させるだけでなく、選挙の質を下げる。

前回の日光市議会議員選挙では、
ふくだ(2)、さいとう(5)、かとう(2)、やまこし(2) という姓の候補者が複数いた。このすべてで按分票が生じている。
さらには、1人しかいない「手塚」候補の票に小数点以下がついているのはなぜかと思って調べたら、齊藤正三候補は「しょうぞう」ではなく「まさみ」と読むことが分かった。手塚候補の氏名は手塚雅己で、届出名は「手塚まさみ」、一方、齊藤正三候補の届出名は「さいとう正三」。姓を平仮名表記にして届出たのは、齊藤正三氏だけが「齊」藤で、他は「齋」藤か「斎」藤だからか? (ちなみに「斉」は一斉、斉唱などの斉で、旧字体が齊。「斎」は書斎、斎場などの斎で、旧字体が齋。意味の違うまったく別の字

手塚候補にも按分票が入っているということは、姓を書かず、しかも名前を漢字ではなく平仮名かなんかで「まさみ」とか「まさみさん」と書いた投票用紙があったということだろう。
さいとう正三候補の得票数は1,451.478票。手塚まさみ候補の得票数は1,299.422票。1451:1299で1票を割ると0.528票と0.427票だから、手塚候補の小数点以下0.422とも微妙に違う。ということは「まさみ」だけの票は1票だけではなく2票以上あったのだろうか。いや、さいとう正三候補は「さいとう」と書かれた按分票がかなり入っているから、さらに計算はややこしくなる。そこで生じた小数点以下3桁目の微妙な違いなのだろうか……。
平仮名で「まさみ」とか「まさみさん」と書いた票は、ほぼ「手塚まさみ」候補の票であろう。「さいとう正三」という届出名の候補者に「まさみ」と書いて投票するとは思えない。
しかし、そういうこと以前の問題で、こんなしょーもない、ルールを守れない投票のために、当該候補者の得票数に応じて1票を小数点以下3桁まで計算しなければいけないというのは馬鹿げている。
再度いう。「按分票」の規定は廃止するべきだ。

こんな選挙は嫌だ!

さらに前回の日光市議選の最終得票結果を見ると、按分票にもならなかった無効票が1,169票もある。投票者総数が4万5724人だから、100人のうち3人近くの人が無効票。姓だけとかで判別できない「按分票」も含めたら相当数が「まともに記入されていない票」ということだ。

「按分票」がどのくらいあったのかは選挙結果発表では知ることができない。ぜひ知りたいものだ。無効票が1169票もあるくらいだから、按分票はもっとあるのかもしれない。だとしたら、どうしようもない民度の選挙だ。
選挙権は平等に──これはあたりまえのこと。しかし、最低限度のルールも理解できていないような票を「按分」までして有効にする必要はない。むしろ民主主義の劣化につながる。

それでも真剣に一票を投じた

市議会議員については、前回の結果を参考にして、落選しそうなラインにいる候補者に目をつけた。
その中で、この人よりはこの人を残したい……という選び方をしたいのだが、どういうわけか共産党と公明党以外は全員が「無所属」で、政党で選ぶこともできない。
そこで「会派」別議員名簿にアクセスした。
どうしようもない議員と同じグループは「同じ穴の……」で除外していけばいいかなという選別方法。しかし、そもそも個々の市議会議員のことをよく知らないから、会派の色もよく分からない。(だからこそ、ほとんどの人は「地元の人だから」とか「知り合いの知り合いだから」といった理由で投票してしまうのだろう。)

WEBサイトやフェイスブックアカウントを持っている議員には極力アクセスして人物像や政策を探ろうとしたが、呆れたことにまったくWEBにタッチしていない議員がいっぱいいる。
日光市のサイト内に議員名簿のページがあるのだが、メールアドレスや個人WEBサイトという項目があるにもかかわらず、アドレスやURLを明記している議員はたったの2名なのだ。どうしようもない。

……と、散々苦労した挙げ句に、市長は実質2候補の争いだろうから、この人にはなってほしくないという候補者ではないほうに。
市議会議員は落ちそうな候補者の中から、残ってほしいと思える人(その人が全候補者の中でベストだということではない)に。
決まったところで、期日前投票を済ませてきた。

今回は買い物のついでに行った。この出張所は初めて訪れた


家に戻り、車のタイヤ交換をしていたら、ケータイが鳴った。
「○○候補をよろしく、という電話です。友達なんです」
……あ~、さっき投票してきちゃったよ。その人にするか、もう一人にするかで悩んだけれど、こうこうこういう理由でもう一人のほうにしたよ、と説明した。

さてさて、結果はどうなることか。
前回選挙では、市長も市議も死に票になってしまったのだが……。


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「デブリを取り出して廃炉」という幻想2018/03/12 12:11

2018/03/10『報道ステーション』(テレビ朝日)より

言えない立場の増田尚宏氏と言える立場の田中俊一氏



↑2018年3月10日放送の『報道ステーション』(テレビ朝日)の特集コーナーより(以下同)

今日、3月12日は1F1号機が水素爆発を起こした「原発爆発記念日」である。
その映像をテレビで見てすぐに、僕たちは川内村の家から逃げ出し、川崎市の仕事場に避難した。あの日からちょうど7年が経った。
今ではメディアも特集などを組むことは少なくなり、今年は森友文書書き換え問題などに食われている(あれもまた国家の根幹を揺るがすとんでもない事件だが)。

一昨日の『報道ステーション』で、1Fの廃炉がいかに困難かという問題を特集していた。
久しぶりに見る増田尚宏氏の苦渋に満ちた顔。この人がこの日記に登場するのは何回目だろうか。まずは2015年の⇒この日記を読んでいただきたい。
2015年3月、NHKの海外向け放送にてインタビューに答える増田尚宏氏
2015年、このインタビューで増田氏はこう語っている。
溶融燃料についてはわからない。形状や強度は不明。
30メータ上方から遠隔操作で取り除く必要があるが、そういった種類の技術は持っておらず、存在しない

(政府は廃炉作業を2020年に始める意向だとしているが)それはとてつもないチャレンジと言える。正直に言って、私はそれが可能だとは言えない。でも不可能だとも言いたくない。

どのくらいの被ばく線量なら許容されるのか? 周辺住民ににはどんな情報が必要なのか? どうすればよいか教えてくれる教科書はない。
私は、ステップごとに決定を下さなければならないわけだが、正直に申し上げて、私が正しい決定をするということは約束できない

国内で放送されないと知っていたからか、かなり正直に胸の内を吐露している。
それが、3年経った現在では、こう答えている。


使用済み燃料を取り除くことは責任を持ってやらなくてはならないやればできるものだと思っている

この言葉の間にはいくつかの言い訳や説明が挟まれていたが、要するに「できる」「やらなければならない」と言いきっている。
3年前には「溶融燃料(デブリ)についてはわからない。形状や強度は不明」と言っていたが、今ではデブリの状態が想像以上にひどい状況だということが分かってきている。
優秀な専門家である彼には、デブリの取り出しなどとうていできないと分かっている。しかし、組織人として「取り出さなければならない」「やればできると信じている」などと答えなければならない立場に置かれていることの苦しさが、最後には悲鳴にも聞こえるような大きな声での叫びとなって絞り出されたように見えた。

増田氏は東電にとって、いや、日本の原子力業界にとってかけがえのない人材だ。彼のスーパーマン的な活躍がなければ、1F同様、2Fも爆発していただろう。7年前、彼が2Fの所長だったことは本当に幸運だった。
が、その彼も、この数年で顔つきがだいぶ変わったように感じる。どれだけ辛い人生を歩んでいることか、察するに余りある。

デブリは取りだしてはいけない

一方で、その直後に登場した田中俊一・原子力規制委員会前(初代)委員長は、相変わらずのシニカルな表情でこう言ってのけた。









廃炉現場の最高責任者に任命され、今も現場を指揮している増田氏と、規制委員長を辞めた田中氏の立場の違いがはっきり見て取れる。
人間としては増田氏のほうを信頼したいが、この点に関しては、田中氏の言うことが正しい。
「そういうことを言うこと自体が国民に変な希望を与える」という発言のときは、「幻想」と言いかけたのを、少し考えてから「変な希望」と言い換えていた。

圧力容器を突き破って底まで全量溶け落ちたデブリを遠隔操作で取り出すなどという技術は存在しない
そもそも、取り出せたとしても、置き場所がないのだ。きちんと形のある使用済み核燃料でさえ保管場所がないのに、不定形になったデブリをどこでどうやって保管するというのか。これ以上、デブリの取り出しにこだわるのは、莫大な金をかけてリスクを拡大するだけの愚行だ。
つまり、デブリは取り出せないし、今は取り出そうとしてはいけない
では、どうすれば今よりひどい状態にならないで長期間、ある程度の安全を得られるかを、合理的に考えなければいけない。そんなことは、誰が考えたって自明の理だ。

できないことを「そのうちできるだろう」「なんとかなるんじゃないか」といって無理矢理金を投入して始めてしまい、取り返しのつかないことに追い込まれるのは原子力発電事業そのものの構図だ。出てくる核廃物の処理や保管技術がないままに原子力発電所を作り、今なお、この根本的な解決方法は存在しない。日本国内だけでも、行き場のない使用済み核燃料が発電所内にごっそり置かれたままだ。
技術が存在しないどころか、エントロピー増大則に従うしかない物理世界(我々が生きているこの地球上)では、核廃物の根本的な処分方法は今後も見つからないだろう。
できないことをしてはいけない──このあたりまえのことを無視するとどんな結果になるか、すでに手痛く体験したことなのに、なぜこの期に及んでまで、謙虚になれない、合理的に判断できないのだろう。

3年前の増田氏の言葉と今の増田氏の言葉を比較すると、絶望的な状況はますますはっきりしてきたのに、逆に正直に答えることはできなくなったという悲しい現実が見える。
増田氏の「組織人」としての苦悩は痛いほど分かるが、とにもかくにも、彼の上で命令を下す人たちがきちんとした判断を下さず逃げてばかりいる限り、増田氏の高い能力も、今後変な方向に向かいかねない。
それこそ、3年前の彼が漏らした「私は、ステップごとに決定を下さなければならないわけだが、正直に申し上げて、私が正しい決定をするということは約束できない」という言葉の重みが、ますます深刻なものになっているのだ。
その闇の深さ、問題の大きさを、現場の人たちだけに押しつけず、我々一般人も、少しは共有すべきではないか。
次の選挙のときには、このことをぜひ思い出してほしい。
どうしようもない破局が訪れる前に、どうせ自分は死んでしまうだろう、という「食い逃げ」の人生でいいのか、と自問自答してみようではないか。


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大化の「改新」と明治「維新」のトリック2018/02/16 01:49

最近読んだ3冊

「聖徳太子はいなかった」説

聖徳太子という人物はいなかった、という学説が複数出てきて、もうすぐ日本史の教科書からこの名称が消えるだろうといわれている

まず、聖徳太子というのは後世でつけられた名で、当時の名前は「厩戸王(うまやとおう)」、より正確には「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」といい、574~622年に実在した人物とされている。用明天皇(518~587年)の皇子で、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。19歳で推古天皇(554~628年)の摂政となって政治にあたった……と、このことについては極端な異論はないようだ。
しかし、彼が「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など、従来の歴史教科書に書かれていたことをすべてやったということに対しては、証拠となる資料がなく、大いに疑問視されるようになった。
聖徳太子というのは、いろんな偉業を成し遂げたから「聖徳太子」(聖なる徳を持つ偉大な皇子)なのであり、その実体(実在の人物)とされる厩戸王がそれらを成し遂げたのではない、とすれば、「聖徳太子」なるスーパーヒーローは存在しなかったといえる……という論法が出てきたのだ。

厩戸王の死後23年経った645年、中大兄皇子、中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を暗殺して、当時権勢を誇っていた蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした。
僕らが小学生、中学生のときは、たしかこれを「大化の改新」として習った。
これを習ったときも、よくある政治クーデターなのに、なぜこれだけ「改新」と呼ぶのだろう、と疑問を抱いたのを覚えている。
倒される蘇我氏の側の人名が、稲目、馬子、蝦夷、入鹿……と、なんか悪者イメージになっていて、倒した側は中大兄皇子……って、なんか名前からして後世で書き換えられているんじゃないかとも思った。
今はこのクーデターのことは「乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)」と呼び、その翌年646年に出された「改新の詔」を皮切りに、それまでの豪族支配から天皇中心の律令国家成立の流れを「大化の改新」と呼んでいるらしい。(ただし、改新の詔の内容は日本書紀編纂のときに書き換えられ粉飾されている)

で、この「大化の改新」後、すんなり天皇中心の律令政治が始まったかというとそうはいかず、672年には天皇家内部で後継者争いによる内乱(壬申の乱)が起きる。
その後、720年に日本書紀が編纂され、そこで初めて聖徳太子なる人物像が登場する。
血で血を洗うようなドロドロした抗争が続いた後、ようやく安定しかけた政権にとって、天皇家による統治を正当なものであるという印象を与える必要があった。そのために、聖徳太子というスーパーマンを「創作」する必要があったのではないか……というのが、いくつかある「聖徳太子創作説」の中でも主流となっているようだ。

政権を握りたい勢力が対抗勢力や邪魔者、ときには先住民を殺して権力を握る──これは古今東西、常に繰り返されてきたことで、少しも珍しいことではない。武力やテロ、暗殺、密殺などの手段で権力の座についた者たちが、その行為を正当化するために歴史を都合よく書き、「正史」「国史」として定着させるのも同様だ。
日本史ではよく「○○の乱」「○○の変」という名称の戦争やテロが登場するが、これが○○「征伐」とか「平定」なんて名称になっているときは要注意だ。
悪いやつを鎮圧したのだ(征伐)、乱れていたのを沈静化させて平和にしたのだ(平定)、という印象操作だからだ。

大化の「改新」の時代は1400年近く前のことで、当時の権力者闘争の実相や庶民の暮らしぶりなどは正確には「分からない」というのが学術的には正直な態度だろう。
少なくとも「聖徳太子」という人物が数々の改革を行ったというような記述を日本史から外すことは正しい。

明治「維新」と大化の「改新」

大化の「改新」同様、明治「維新」という言葉にも、子供の頃からずっと違和感を抱いていた。
武力クーデターなのに、なぜ「乱」とか「戦争」といわずに「維新」というのだろう、と。
当然、その後の政権、権力者たちにとって、あれを「正しいものだった」「旧悪を一新するものだった」というイメージ戦略が必要だったのだろうな、ということは感じていたが、恥ずかしながら、この歳になるまで真剣に調べたり学んだりしてこなかった。
あまりにも生々しくて、知ることが楽しくないという理由もある。もっと楽しく、苦しまずに生きていたほうが楽だもの……。

遅ればせながら、ここにきて近現代史を少しずつ勉強し始めたのは、小説版『神の鑿』を書くための準備という意味合いが強い。
利平・寅吉・和平の年表を作成しているのだが、明治初期の作品記録がまったく空白なのだ。
明治に入る前、最後に分かっている作品は、慶應元(1865)年、沢井八幡神社に奉納された狛犬で、このとき利平61歳、寅吉は21歳だった。
利平が亡くなるのは明治21(1888)年8月1日で83歳。明治に入っても20年以上生きていて、その時期、弟子の寅吉は20代~40代だから、石工として存分に腕をふるえる時期だった。
寅吉の作と思われるものが登場するのは明治20(1887)年 関和神社(白河市)の狛犬(銘なし)で、このとき寅吉はすでに43歳になっている。
この間、利平と寅吉の師弟がほとんど作品を作っていないというのはどういうことなのか?
その答えの一つが廃仏毀釈だろう。
明治になってから世の中の空気がガラッと変わってしまった。江戸末期までは盛りあがっていた庶民の文化創造力が一気に押しつぶされていた……そう考えるしかない。
そこで、当時の空気を知るために、幕末から明治にかけての日本史を勉強し直しているという次第だ。

冒頭に写っている3冊はいずれも「明治維新」についての通説に疑問を呈し、今の日本近代史は「薩長史観」で歪曲されていると主張している本だ。
しかし、著者たちの立ち位置は少しずつ違う。
また、主観的な表現や断定論調が多くて、そのまま鵜呑みにするとまずいな、と感じる箇所がまま見うけられるのも共通している。
ただ、3人とも「テロ行為を美化してはいけない」ということを明言している。
維新の精神的支柱とまでいわれる吉田松陰が、事あるごとにどれほど暗殺を主張したか、それゆえに当の長州藩がいかにこの男に手を焼いたか、はたまたどういう対外侵略思想をもっていたか、もうそろそろ実像を知っておくべきであろう。(略)私はテロリズムは断固容認しない。テロを容認しないことが、当時も今も正義の一つであると信じている。
(『三流の維新 一流の江戸』 原田伊織、ダイヤモンド社、2016)

江戸時代を無批判に称揚するのは危険だろう。しかし、あの265年間が、高く評価すべき実績を残したということは、いかにしても否定できない。そのなかで最も重要なものは、平和であり、治安のよさであり、それらを支えた道徳である。
もし慶喜がロッシュの意見に動かされ、抗戦を開始していたら、(略)旧幕府軍の主力となったフランスと、新政府軍の主力となったイギリスが、日本を二つに分割していた可能性が高い。
(『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』 森田健司、洋泉社歴史新書y、2016)

卑劣な暗殺をも正当化するような「物語」がまかり通ってしまえば、日本をふたたび亡国に導かざるを得ないと、著者は真剣に危惧する。実際、「物語」の枠組みに従って、薩摩や長州のテロ行為をも正当化し続けてきたことが、昭和になって軍部や右翼によるテロリズムの横行を生んだのではなかったか。戦後においてもなお、(略)立憲主義もないがしろにするという、現在の政府与党の姿勢を許すことにつながっているのではないのか。
(『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義の夢』 関良基、作品社、2016)


奇しくも3冊とも2016年に刊行されている。この3冊だけでなく、ここ数年、「明治維新」という「薩長史観」を見直すべきだ、と主張する本がいろいろ出版されている。
今の日本が極めて危うい状況にあることを知っている人たちが、声を上げている。

明治「維新」の時代は、わずか150年前である。大化の「改新」の飛鳥時代とは違い、一次資料も豊富に残っている。
それなのに、明治政府による歴史改変粉飾イメージ戦略が今なお日本人の心を支配している。これは国としても極めて恥ずかしいことだ。

関氏は『赤松小三郎と~』の中で、こう述べている。
 日本には、太平洋戦争以前にも、世界を相手に戦争をして敗北したという経験を持つ人びとがいた。他でもない、維新政府の長州の元勲たちだ。長州は下関戦争で、英仏蘭米の四か国と戦い、散々に敗北した。外では覇権国に従属しつつ、内では専制的にふるまうというレジームは、1945年の太平洋戦争の敗戦によって生じたものではなく、1864年の下関戦争の敗戦によって発生したのである。それは「長州レジーム」と呼ぶべき、明治維新以来の特質なのだ。
(略)
 安倍首相は、「戦後レジーム」によって日本が汚されたと悲観する必要はないのである。GHQが行った「改革」など、明治維新がつくりあげた官尊民卑の官僚支配、覇権国の要求に従いながら、国内的には、万機公論に決しない上意下達の専制支配を行う長州レジームに、小手先の修正を加えたにすぎなかったからだ。それほどまでに、長州の元勲たちがつくりあげた官僚支配の長州レジームは強固だった。GHQですら、それを崩せなかったという事実について、安倍首相は誇るべきであろう。全く卑下する必要はないのである。
(『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義の夢』 関良基、作品社、2016)


ちなみに、太平洋戦争後もこの国は「国家的敗北」を経験している。それは原発爆発だ。国を挙げて押し進めてきた「安全神話」が完全に吹き飛ばされた。
しかし、その「敗戦処理」においても、政府は見事に「官尊民卑の官僚支配、万機公論に決しない上意下達の専制支配」を成功させている。
国民もまた、この大きな過ちを単なる「東北で起きた悲劇」として矮小化し、見て見ぬふりをしている。
このツケは間違いなく近い将来、取り返しのつかない負債として国民全体に襲いかかるだろう。


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森鴎外と原発2018/02/15 14:44

最近読んだ3冊

関良基『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義の夢』を読了した。
本書とほぼ同時に、森田健司氏の『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』(洋泉社)と原田伊織氏の『三流の維新 一流の江戸 「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」』(ダイヤモンド社)も読んだのだが、この3冊の中でも関氏の『赤松小三郎と~』は力作で読み応えがあった。
その中で、つい先日書いた「森鴎外と脚気」にまつわる記述もあったので、以下、前々回の日記の続編?として紹介してみたい。
本書の中で深く同意したのは以下の部分だ。
 日露戦争後、陸軍における脚気惨害の真相を追及する声が国会であがり、陸軍省も脚気の原因を究明するため「臨時脚気病調査会」を組織せざるを得なくなる。しかし、あろうことか、第三者の立場で脚気被害の原因を究明しなければならないはずの委員会の委員長に就任したのは、問題を引き起こした当事者である森鴎外(当時、陸軍省医務局長)であった。(略)問題を起こした当事者であるところの森鴎外は、真相究明委員会の委員長になって問題をもみ消した。
 これは「利益相反」であり、今日も引き続く構造である。福島第一原発事故後に諸外国から直ちに問題視されたのは、原子力の安全性をチェックするべき原子力安全保安院が、原子力を推進する主体である経済産業省の中にあったという事実であった。推進機構の下部組織に規制機関が存在するのでは、安全審査がなおざりにされるのは当然であった。
 明治維新以来の日本の政治システムにおいては、巨大な人災が発生しても、真相の究明はなされないまま、誰も責任を取らず、同じことが繰り返されていく。(略)このシステムは、やがて無責任態勢をさらに肥大化させて、太平洋戦争にまで突き進み、滅亡に至った。
 (略)その巨大無責任態勢によって、福島第一原発事故に行き着いたと言えるだろう。

『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義の夢』 関良基 作品社)


イチエフ爆発の後、2012年(平成24年)9月、野田佳彦内閣の下で、従来の「原子力安全・保安院」に代わるものとして「原子力規制委員会」が環境省の外局として誕生した。
初代委員長に就任した田中俊一氏は、日本原子力研究所副理事長、独立行政法人日本原子力研究開発機構特別顧問、社団法人日本原子力学会会長(第28代)、内閣府原子力委員会委員長代理、財団法人高度情報科学技術研究機構会長、内閣官房参与……という経歴を持ち、国の原子力推進政策の中枢を渡り歩いてきた人物だ。
発足時の同委員会の職員は455名で、うち351名が経産省出身者。原子力安全・保安院から横滑りした者も多かった。

2年後、政権は第二次安倍晋三内閣になっていた2014年9月、島崎邦彦・委員長代理と大島賢三委員が退任となり、代わりに田中知(さとる)氏と石渡明氏が委員に任命され、田中知氏は委員長代理に就任した。
田中知氏は、2004年度から2011年度までの8年間に、原子力事業者や関連の団体から760万円超の寄付や報酬を受け取っていたことが就任前から報じられていた
原子力規制委員会発足時、野田政権は「直近3年間に同一の原子力事業者等から、個人として一定額以上の報酬等を受領していた者」は委員に就任できないというガイドラインを定めていて、田中知氏はまさにこれに該当したが、当時の石原伸晃環境相は衆議院環境委員会で、民主党政権時代のガイドラインについては「考慮していない」と答弁。菅義偉官房長官も記者会見で「田中氏は原産協理事としての報酬を受けていなかったので、委員就任の欠格要件には該当しない」と強弁した。

森鴎外「臨時脚気病調査会」委員長就任と同じ構図だ。
その結果がどうなっているかは説明不要だろう。

鴎外の不勉強と開き直り、つまらぬプライドのおかげで陸軍内で数万人の脚気死者が出た時代、この国はその悪しきシステムや慣習を是正できないどころか、ますます増長させ、太平洋戦争へと突入していった。
原発爆発後の日本は、同じ歴史を繰り返そうとしているのではないか。


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廃仏毀釈と狛犬史の断絶2018/02/14 10:36

三國神社の狛犬 (1990年撮影)
上の写真は1990年に福井県の三國神社を訪れたときのものだ。まだデジカメもなく、暗い境内で小さなフィルムカメラで撮っていた。
この神社にはたくさんの狛犬がいるのだが、中でも異様だったのはこの真っ二つに切られた(?)ような狛犬だ。
事故で首が落ちたとか、身体の一部が欠けたとかには見えない。人為的に「真っ二つ」に切断されているように見えて気味が悪かったのを覚えている。
もともと石に層理(違った成分などの境界面。堆積岩では泥や砂などの堆積物が堆積していった面)があって、風化が引き金でその面できれいに割れたのではないか、と教えてくださったかたがいるが、なるほどそうかもしれない。
その後も、各地で「不自然に壊れた」狛犬を見ることが何度かあった。台座から落ちて首が折れたとか、そういう例はたくさんあるが、どう見てももっと不自然に、何かで叩き壊されたのではないかとか、切断されたのではないかと思えるような壊れ方だ。
そういう狛犬を見るたびに、なぜこういう壊れ方をするのだろうと、もやもやしていたのだが、後に、明治新政府が発令した神仏分離をきっかけに起きた廃仏毀釈の嵐の中で、仏像などと一緒に狛犬も被害にあう例があちこちであったらしいことを知った。

神仏分離令はそれまでの慣わしであった「神仏習合」の緩さを改め、天皇の神格化を神道を利用して進めようとしたものだった。明治政府は寺社打ち壊しや仏像などの破壊まで意図していなかったとされているが、これを受けて、各地で庶民による寺院、仏像、仏堂、仏塔、経典などの破壊、処分がヒステリックに行われていった。
庶民による破壊活動がここまで激化したのは、それまで幕府が寺請制度によって民衆を管理してきたため、特権階級のようになった仏教関係者が腐敗したことへの民衆の反発があったともいわれている。文字通り「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の図だ。

狛犬は今では「神社にあるもの」と認識されているから、廃仏毀釈には関係なさそうに思えるが、ルーツが中国獅子であり、仏像などと同列に見られたために「神聖なる神社にこのような獣の像があるとはけしからん」と、破壊、廃棄の対象になった例もあったのだろう。
長州とともに明治新政府の中心となった薩摩(鹿児島県)では、1066あった寺院すべてが廃寺とされ、僧侶2964人が還俗させられたという。
その鹿児島にあるいちき串木野市冠嶽では、道の両脇に仁王像と狛犬が置かれているが、市の教育委員会が設置した案内看板によれば、
この仁王像は、現在地と神社との中間に仁王門があり、そこにあったといわれている。明治初年の廃仏毀釈時に、この仁王像も壊され、やぶの中に捨てられていた。それを昭和34年に、土地の有志たちが復元し、現在の位置に建てたものである。
(略)この狛犬も廃仏毀釈時に、一部壊されているが、像形は、まだしっかりしている。

と説明されている
同じような例は他でも見られる

僕が1990年に三國神社を訪れたときに見た「真っ二つの狛犬」も、同じような被害にあったのだろうか。
三國神社は越前だが、越前においても、明治4(1871)年、福井藩が84もの寺を「無禄無檀」の寺院として政府に廃合処分を伺い出た。白山修験道の拠点だった平泉寺も、仏堂、仏像、仏具などを破壊され、白山神社に改変された(『福井県史』通史編5 近現代)という
「真っ二つの狛犬」が、その渦中であのような姿にされてしまったのかどうかは分からないが、全国で「不自然に壊れた」狛犬を見るたびに抱く違和感のスタートになったので、今も強烈な印象が残っている。

森田健司氏(大阪学院大学経済学部准教授、専門は社会思想史。特に江戸時代の庶民思想の研究)は、著書『明治維新という幻想』のあとがきにこう書いている。
私が江戸時代に惹かれる理由は、実にシンプルだ。そこに眩い庶民文化があったから、である。
(略)
江戸の人びとが真摯に生きて、麗しく咲かせた「文化」という名の花は、明治の世が進んでいくにしたがって、目に見えて萎んでいった。
新たな価値観や文化を創出できたなら、それはそれで結構な話だろう。しかし実状は、まったく、そうではなかった。明治政府は、江戸のすべてを否定したが、異なる新しい文化の花を咲かせられなかった。それでも、社会の紐帯を維持できていたのは、「江戸時代の遺産」があったからに違いない。
(『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』洋泉社歴史新書y 2016年)



これはまったく同感で、明治になった途端に庶民文化が途絶え、停滞し、退化した様子はあまりに極端で、驚かされる。
狛犬に関していえば、明治一桁や10年代にはほとんど建立がないし、あっても、江戸時代の残り火のようなものばかりだ。庶民パワーや自由な発想を感じさせる狛犬が再び登場するのは明治20年代くらいからで、そこから一気にアートを追求したような作も出てきて、大正期あたりで爛熟する。

それが昭和に入ると、国威発揚を意識したような岡崎古代型や爬虫類っぽい顔のいかつい狛犬が増え、皇紀2600年(昭和15年)の奉納ブーム前後では、画一化された狛犬ばかりが目立つようになる。

日光に来てから知った彫刻屋台も「庶民の文化」としての溌剌としたパワーが魅力だが、それを生んだ江戸時代の空気を、現代日本に生きる我々は感じ取ることができるだろうか。
それにしても、である。魅力的な文化を生み出す庶民が、その文化を破壊する暴徒にもなるという事実に戦慄する。
獅子狛犬の詳しい知識がない(正統派狛犬?を見たこともない)まま「おらが村の鎮守様にも、そのこまいぬつうもんを奉納すんべえ」的なノリで全国各地で作られた「はじめ狛犬」。あの素敵な文化を生み出したのと同じ「庶民」が、神仏分離令をきっかけとして廃仏毀釈という暴挙をも行った──その歴史的事実をどうとらえればいいのだろうか。

閉塞感におしつぶされそうになる現代、庶民は知らないうちに、あの廃仏毀釈のような暴発に向かっていないだろうか……。
もしそうであれば、暴発する閾値を超える前に気づき、歴史を正しく見つめ直し、時代の空気やシステムを修正していくことが必須だろう。

小説版『神の鑿』を書くとしたら、テーマは「庶民文化」「自由な芸術」に生涯を捧げた者たちの魂、というようなものだろうと思っている。
それを描くための材料集めや歴史の掘り起こし作業を思うと、生きているうちに完成させる自信がどんどんなくなる。
しかし、とっかかりの時点で、「隠された歴史」がいろいろ見えてくるだけでも面白い。
まだまだ人生、楽しめるかな。


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靖国神社の「狛犬」と脚気と「舞姫事件」2018/02/12 19:24

靖国神社の中国獅子。大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成が三学寺に奉納したもの
狛犬を見続けていると、江戸期の狛犬は結構残っているのに、明治になった途端、パタッと狛犬が建立されていないことに気がつく。再び奉納されるようになるのは明治20年代くらいからだ。明治一桁代建立の狛犬というのはほとんどない。あったとしても、江戸期の狛犬をへたくそに模したようなものが多く、銘品と呼べる力作や新種の狛犬はまず出てこない。

拙著『神の鑿』の最後には利平・寅吉・和平の年譜も載せてあるが、それを見ても、
慶應元(1865)年 沢井八幡神社の狛犬 利平61歳? 寅吉21歳 願主石工菅田庄七

明治20(1887)年 関和神社(白河市)の狛犬(銘なし)寅吉43歳
↑この間、20年以上、作品の記録が空白なのだ。
明治初期、廃仏毀釈を皮切りにして、いかに庶民文化がつぶされ、停滞したかを物語っているかのようだ。

そこで、改めて「明治維新」前後の歴史をおさらいしているところだ。

森鴎外と脚気

その作業をしていて、ひょんなことから森鴎外(森林太郎)が陸軍兵士数万人の死に関係していたと知った。

ネット上にもたくさんの関連記事があるが、中でも、⇒これなどはとてもよくまとまっているのでご一読を。
 陸軍が嘱望する若き軍医森林太郎は、日清・日露の戦争を控え、兵士の健康を維持する大役を担った。そして当時の軍隊において最大の健康問題が脚気流行である。

 全陸軍の疾病統計調査は明治8年から始まるが、明治9年には兵員千人に対し脚気新患者108人、17年には263人、つまり4人に一人がこの病気にかかっている。そして致死率は約2~6%だった。しかし、戦時には、これらの数字が跳ね上がる。
(略)

明治27~28年の日清戦役では、陸軍の戦死者がわずか977人にたいし、傷病患者約28万人、患者死亡約2万人であり、脚気患者は約4万人という奇妙な現象が起こる。前代未聞の脚気大流行であるのに、陸軍首脳はまだ懲りなかった。海軍には軽症脚気は認められたが重症例の多発はなかった。

 明治37~38年の日露戦争では、陸軍の戦死者約4万6千人、傷病者35万人であり、そのうち脚気患者25万人という驚くべき数字になる。しかも、戦病死者3万7千人中、脚気による死者が約2万8千名に登った。

 日清・日露戦役での大惨事を起こした陸軍脚気対策に、森林太郎の誤りが深く関っていた事実は、東京大学医学部衛生学教授山本俊一が、1981年初めて、学会誌「公衆衛生」において指摘した。両戦役からすでに一世紀近い月日が経っていた。
(医療法人和楽会 フクロウblog 大井玄先生のコーナー 「病と詩(11) 軍医森林太郎と脚気」 より)

日清・日露戦争において、直接の戦死者よりも脚気で死んだ兵士のほうが多かったというのは、学校で学ぶ日本史には出てこないと思う。
上記のブログやWikiの詳しい解説などをもとにまとめてみると、
  • 全陸軍の疾病統計調査(明治8(1875)年開始)によれば、明治17(1884)年には4人に1人以上が脚気にかかり、致死率は約2~6%だった
  • 海軍医務局長・高木兼寛は、イギリス留学中にヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主とする兵食に原因があるのではと推論し、周囲の猛反対、猛反論を押し切って明治18(1885)年以降、海軍の兵食をタンパク質の多い麦飯に切り替えた結果、海軍での脚気発症をほぼ根絶させた。
  • 一方、陸軍では、陸軍一等軍医森林太郎(森鴎外)が明治18(1885)年にライプチヒで執筆した論説「日本兵食論大意」を根拠に、陸軍軍医総監・石黒忠悳らは「脚気伝染病説」を信じており、白米を基本とした兵食を変えてはならないと主張した。
  • 明治21(1888)年に帰国した森は、講演「非日本食論ハ将二其根拠ヲ失ハントス」で、高木兼寛を「英吉利流の偏屈学者」と呼び、非難する。また、米食、麦食、洋食を食べさせる比較試験の結果、「カロリー値、蛋白補給能、体内活性度」のすべてで米食が最優秀という結果が得られたとして、陸軍兵食の正当性を主張した。
  • 結果、日清戦争(その後の乙未戦争も含む)における陸軍の脚気患者は4万1,431人、脚気による死亡者4,064人という惨事を引き起こした。(『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』)
  • さらに、日露戦争では、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であったにも関わらず、大本営陸軍部が「勅令」として白米食を指示したため、戦地で25万人強の脚気患者が発生。戦地入院患者25万1,185人のうち脚気が11万0,751人 (44.1%)で、入院脚気患者2万7,468人が死亡した。(陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計)

……というようなことだったらしい。
森林太郎(鴎外)が主張した「米食が最優秀」説の罪がいかに大きいかが分かる。
海軍では麦飯に切り替えて脚気が激減したという明らかな結果が得られているにもかかわらず、日清戦争の10年後の日露戦争時にさえ改善できず、何万という死者を出しているのだ。

石黒忠悳と靖国神社の「狛犬」

ところで、森の論文や主張に流される形で陸軍内に脚気を蔓延させた石黒忠悳軍医総監は、僕の中では「靖国神社の中国獅子」にまつわる裏話に登場して初めて名前を目にした人物だ。
その内容は⇒ここに詳しく書いているが、簡単にまとめると、
  • 日清戦争(1894-95年)の最中、海城の三学寺が日本軍の野戦病院にあてられていた。
  • そこの総責任者であった石黒忠悳軍医総監が、戦が終結して帰国していた明治28(1895)年、軍司令官の山縣有朋を訪ねたおり、三学寺にあった獅子像が「古奇愛すべき」ものであったと語った。
  • それを聞いた山縣が、そんなにいいものならぜひ日本に持ってきて「陛下の叡覧に供して大御心の程を慰め奉りたい」ということになった。
  • そこで石黒は、満州に留まっていた奥保鞏(やすかた)中将(後の元帥)に連絡を取り、寺より譲り受けて日本に運ぶように依頼した。
  • 奥中将は、白くて大きな獅子一対と、青みがかった一体(これは対になっていない)を選んで日本に運んだ。
  • 日本に運び込まれた3体の中国獅子を山縣が明治天皇に献上したところ、天皇は喜んだ様子で、白い石の一対は靖国神社に、青い一体は山縣に与えた。
  • というわけで、白くて大きな一対は現在も靖国神社にあり、青色の一体は栃木県矢板市にある山縣有朋記念館の敷地内に置かれている

靖国神社にある中国獅子を、ほとんどの参拝客は「変わった狛犬だねえ」と見上げるが、あれはそもそも「狛犬」ではない。大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成という人物が三学寺に奉納した獅子像なのだ。

『舞姫』の記憶

僕にとって、石黒忠悳軍医総監は「靖国神社の中国獅子」だが、森鴎外といえば『舞姫』くらいしか記憶にない。
『舞姫』は高校の国語の教科書に載っていて、じっくり、1行1行読解させられた。
当時の国語担当は臼井先生といって、相当変わったキャラクターの教師だった。
感情の起伏が激しく、機嫌のいいときはニコニコしながら好きな谷崎潤一郎論などを延々と喋り続けるが、機嫌が悪いと「チッ! こんな問題もできないのか。馬鹿ばっかりだなこのクラスは。もういい、帰る」と言い放ち、さっさと教室を出て行く。
そんなわけで、生徒からの評判はすこぶる悪かったのだが、僕は彼の授業は決して嫌いではなかった。
『舞姫』を題材にした授業では今でも印象に残っているシーンがある。

臼井先生「このページの中に、豊太郎とエリスがすでに性交渉をしたと分かる一文がある。それはどこか。分かる人」

こういうとき、誰も手を挙げないと先生の機嫌がどんどん悪くなるのを知っている生徒たちは、必死で答えを探す。
何人かが答えて、その度に「違う!」「馬鹿!」などとはねつけられた末に、クラスでいちばん元気のよかった平岡くんが恐る恐る手を挙げた。
  • 「うん、平岡!」
  • 「はい! 『鬢の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる腦髓を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何にせむ』……のところだと思います」
  • 「もっと絞って」
  • 「鬢の毛の解けてかゝりたる……」
  • 「そう! そうだね! 『鬢の毛の解けてかかりたる』というのは、もうこの二人の間に男と女の関係ができたということを暗示しているんだね! さすがは鴎外。そのへんの三文小説家なら、性描写に3ページくらい割くところを、鴎外は『鬢の毛の解けてかかりたる』という、これだけで伝えているんだな」

生徒たちは半ばポカ~ンとその解説を聞いていた。僕も、この『鬢の毛の解けてかかりたる』がどれくらいすごいのか、今でもよく分からないのだが、平岡くんが他の生徒より早熟だったことは確かだろう。

『舞姫』のエリスが Elise Marie Caroline Wiegert (エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト 1866年~1953年)という実在の女性をモデルにしていて、主人公の豊太郎は鴎外自身がモデルであろう、ということは、今では周知されている。
鴎外は4年間のドイツ留学時代に、エリーゼと恋仲になったが、別れて帰国した。その直後に、エリーゼは鴎外を追って日本まで来たが、ひと月あまり後にまたドイツに戻っている。
鴎外の東大医学部時代の同期生・小池正直は、後に陸軍軍医総監石黒忠悳に宛てた手紙(明治22(1889)年4月16日付)の中で、
兼而小生ヨリヤカマシク申遣候伯林賤女之一件ハ能ク吾言ヲ容レ今回愈手切ニ被致度候是ニテ一安心御座候。
(私がしっかり言いきかせましたので、この「ベルリン賤女」の一件は、今度こそ手切れになると思います。どうぞご安心を)
と書いている
これはエリーゼが帰国したときのことをいっているのだろう。
年譜にすると、
  • 明治17(1884)年 鴎外、ドイツに留学
  • 明治21(1888)年 9月8日、ドイツより帰国。
  •          9月12日、エリーゼが鴎外の後を追って来日。
  •          9月18日、赤松登志子と婚約。
  •          10月17日、エリーゼが帰国。
  • 明治22(1889)年 2月 赤松登志子と結婚
  • 明治23(1890)年 民友社社長の徳富蘇峰の依頼により『舞姫』を執筆。1月『国民之友』付録として発表。
  •          9月、長男於菟(れお)誕生。
  •          11月27日、登志子と離婚。
  • 明治35(1902)年 荒木志げと再婚。
  • 明治36(1903)年 長女・茉莉(まり)誕生。
  • 1909年 次女・杏奴(あんぬ)誕生。

……という経過で、この間のエリーゼ来日から登志子との離婚あたりの一連のゴタゴタが「舞姫事件」「エリス事件」などと呼ばれている。
で、改めてこれを「日本の脚気史」「靖国神社の中国獅子」と重ねて見ると、
  • 明治17(1884)年 1月、海軍軍医・高木兼寛の意見などで海軍で洋食への切り替えが図られ、脚気新患者数、発生率、および死亡数が明治16(1883)年には1,236人、23.1%、49人だったものが、1884年には、718人、12.7%、8人。1885年には41人、0.6%、0人と激減した。
      同年、森林太郎(鴎外)がドイツに留学。
  • 明治18(1885)年 鴎外、ライプチヒで「日本兵食論大意」を執筆し、日本式白米食の優越性を強調。陸軍の白米主義の根拠となる。
  • 明治21(1888)年 鴎外ドイツより帰国。エリーゼが鴎外の後を追って来日し「エリス事件」に。
  • 明治22(1889)年 赤松登志子と結婚
  • 明治23(1890)年 『舞姫』発表。長男於菟(れお)誕生。登志子と離婚。
  • 明治27(1894)年、日清戦争勃発。石黒忠悳軍医総監が野戦病院であった三学寺で中国獅子に興味を持つ。脚気患者が約4万人に。
  • 明治28(1895)年、日清戦争終結後、石黒が山縣有朋に三学寺にあった獅子像の話をしたことで、中国獅子像3体が日本に持ち込まれる。
  • 明治35(1902)年 鴎外、荒木志げと再婚。
  • 明治36(1903)年 長女・茉莉(まり)誕生。
  • 明治37(1904)年 日露戦争勃発。陸軍内の脚気患者25万人。入院していた脚気患者の死者数は約2万8千人に。
  • 明治42(1909)年 次女・杏奴(あんぬ)誕生。

……とまあ、日清日露戦争をはさみ、脚気蔓延と三学寺の中国獅子が日本に持ち込まれた件と「舞姫事件」が同時進行していたことが分かる。

脚気で数万人死んでいったときにカフスボタン紛失を嘆く鴎外

扣鈕       森鴎外

南山の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん*
ひとつおとしつ
その扣鈕(ぼたん)惜し

べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ* 電燈あをき
店にて買ひぬ
はたとせ*まへに

えぽれつと* かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女(をとめ)
はや老いにけん
死にもやしけん

はたとせ*の 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ

ますらを*の 玉と碎けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕

(森鴎外の日露戦争従軍詩歌集『うた日記』より)
*こがねのぼたん:金のカフスボタン *パサージュ:ここではアーケード商店街のこと *はたとせ:20年 *エポレット:コートなどの肩につける装飾。軍服由来 *ますらを:勇壮な男。ここでは兵士たちのこと *ももち:百千(大人数)

日露戦争で死んでいった多くの兵士たちも惜しいけれど、かつての愛人との思い出が詰まった金のカフスボタンが片方だけになってしまったのも惜しい、と歌っているわけだ。

この詩について、鴎外の長男・森於菟は、『父親としての森鴎外』の中で、こう述べている。
この「黄金髪ゆらぎし少女」が「舞姫」のエリスで父にとっては永遠の恋人ではなかったかと思う。(略)
私が幼時祖母からきいた所によるとその婦人が父の帰朝後間もなく後を慕って横浜まで来た。これはその当時貧しい一家を興すすべての望みを父にかけていた祖父母、そして折角役について昇進の階を上り初めようとする父に対しての上司の御覚えばかりを気にしていた老人等には非常な事件であった。親孝行な父を総掛かりで説き伏せて父を女に遇わせず代りに父の弟篤次郎と親戚の某博士とを横浜港外の船にやり、旅費を与えて故国に帰らせた。
(略)
『歌日記』の出たあとで父は当時中学生の私に「このぼたんは昔伯林で買ったのだが戦争の時片方なくしてしまった。とっておけ」といってそのかたわの扣鈕をくれた。歌の情も解さぬ少年の私はただ外国のものといううれししさに銀の星と金の三日月とをつないだ扣鈕を、これも父からもらった外国貨幣を入れてある小箱の中に入れた。
私はある時祖母が私にいうのを聞いた。「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶らせたが父の気に入らず離縁になった。お前を母のない子にした責任は私達にある」と。
(森於菟著『父親としての森鴎外』)


コラム「病と詩 軍医森林太郎と脚気」の最後は、こう結ばれている。
鴎外森林太郎は、「玉と砕けし」兵士「ももちたり(百、千人)」よりもはるか多くが脚気に罹り倒れたことを知っていても、自分の知的誤り・傲慢さが、どんなに大きくそれに寄与していたかに、気づいていなかったろう。

本当に生涯このことに気づいていなかったのだろうか……。
まあ、そのことに責任を感じていたら、日露戦争のときにまでこんな詩を書いているわけはないか……。

ともあれ、鴎外には文学よりも軍医としてちゃんと仕事してほしかったと思う。


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ホリエモン、籠池夫妻、貴乃花の共通点と相違点2018/02/06 14:30

12年前の戌年の今頃、メディアはホリエモン逮捕のニュースで埋め尽くされていた。ワイドショーは連日そのことを大きく取り上げて、人びとは嫌でも彼の顔を見せられた。
そのときAIC(朝日新聞デジタル版のコラム)に書いたものが⇒ここに残っていたので読んでみた。
一部抜粋してみる。
今回の逮捕につながった直接の違法行為は、主に「粉飾決算」と「風説の流布」ということらしい。
粉飾決算というのは、まずいことになっている実態をごまかして、大丈夫ですよ、心配いりませんよと思い込ませるために嘘をつくことである。
例えば、国民年金を破綻させた社会保険庁がさんざんやってきたこともこの類のことであろう。
風説の流布というのは、自分の都合のいいように嘘の情報を流して世の中の流れをミスリードすること。アメリカ政府がやった「イラクには大量破壊兵器が……」という嘘情報などはまさにそれだろう。
「気持ち悪さの正体」 2006年1月31日にAICに掲載)
どう考えてもおかしいよな、と分かっていても、相手が大きすぎると、自分の日々の生活には関係のない話のように感じて、いちいちムキになって反応しない……これは仕方のないことかもしれない。
で、このコラムではこう続く。
昔から「ひとり殺せば殺人犯だが、千人殺せば英雄」という言葉がある。
ホリエモン逮捕のニュースと、それを報道する姿勢に対して我々が抱く気持ちの悪さの正体は、そこにあるような気がする。
つまり、「小物がスケープゴートにされた」ことをみんな内心では感じているのだが、日頃の鬱憤を晴らすために、ついつい「そらみたことか」「真面目に生きなきゃダメだよ」と反応してしまう。今のホリエモンは、ガス抜きの「安全弁」なのだ。

もっともっと巨大数のインチキ、大規模で悪質な嘘を操る力には所詮逆らえない
嘘のうまい大統領や総理大臣は、そのことで罪を問われることはない。
国民から強制的に集めた金を滅茶苦茶に運用し、とんでもない損失を出した役人のトップもまた、そのことで罪に問われることはなく、死ぬまで使い切れないような巨額の退職金をもらって老後を暮らしている。
この国には、そこにズバッと切り込むメディアも存在しない。これから先も、期待できない。
だから、せいぜいホリエモン逮捕で憂さを晴らしておく。そんな自分の矮小さを、みんな心のどこかでは分かっている。
「やっぱりね」「遅すぎたよね」「こんなことが許されていいはずがないよね」などと言いながらも、いまひとつカタルシスを得られない理由はそこにある。

二宮清純氏がこう言っていた。
「ホリエモンは、すべての人の心の中に存在している負の姿。彼を見ていると、見たくない自分自身の嫌な部分を見せつけられているようで、気持ちが悪くなる」
まさにその通りだろう。
ざまあ見ろ、と言えば言うほど、じゃあ自分はどうなの、という心の声が聞こえてくる。

あれから時が一回り。12年後の今はどうだろう。
テレビをつければ相撲協会の不祥事と貴乃花の理事選落選なんて話に異常な時間を使って垂れ流している。ホリエモンと貴乃花ではまったく性格は違うが、人びとに一種のガス抜きショーを与えるスケープゴートにされている点では似ている。
その意味では籠池夫妻も同じ役割をしていた。
常人とは違う特異なキャラクターの持ち主が、倫理観をなくした権威集団、利権集団に刃向かった末につぶされる図を見て面白がる。
でも、そのドラマは鞍馬天狗や水戸黄門や仮面ライダーみたいなシンプルな構造ではない。
下世話な興味で見てしまうが、どう展開したところでカタルシスは得られない。

「これだけテレビが食らいついてアンチキャンペーンを張るということは、相撲協会には強力な安倍友がいないということだ」という卓見を聞いた。
なるほど。
ホリエモンにも政権内に友達はいなかった。籠池夫妻は途中から切り捨てられ、今は危険な邪魔者として留置所に異常な長期間拘留されている。ちなみに貴乃花親方が
「国家安泰を目指す角界でなくてはならず“角道の精華”陛下のお言葉をこの胸に国体を担う団体として組織の役割を明確にして参ります」(AERA dot.「貴乃花親方が池口恵観氏にあてたメール全文」より)
などと書いた手紙を送った相手である池口恵観氏は、安倍晋三はじめ多くの政治家と親交があることから「永田町の怪僧」と呼ばれているそうだ。
貴乃花と安倍官邸は直接のつながりはないかもしれないが、共通のお友達(師匠?)はいるということなのだろうか。
さらには、貴乃花親方が理事選で二票しかとれずに落選した直後、笑顔で節分の豆まきをする姿がテレビに映し出されていたが、あの豆まきをしていた場所は宇治市の龍神総宮社という宗教法人だ。
「龍神総宮社は、天のご使命を持って御誕生された辻本源冶郎祭主先生により、作られた宗教法人です。平成6年3月に祭主先生が天上界に御帰魂された後も、その御尊志は御長子である辻本公俊 祭主先生に継承され、祭事が執り行われております。」(同社WEBサイトでの紹介文)

その少し前は、弟子の貴公俊が十両昇進を決め、一足早く十両になっている貴源治とともに「史上初の双子関取」が誕生したことも報じられたが、この二人の四股名は、先の龍神総宮社の紹介文にも書かれているように、同社の創始者と現祭主の名前からとっている。
貴乃花は昔から霊能者だの占い師だの教祖だのといった人たちへの傾倒が激しく、右傾化、カルト化しやすいことでいろいろ話題を提供してきたが、その危うさは今も変わらない。
その点で、単純なお金信奉者のホリエモンの時よりも全体の関係図が少し複雑になって、モヤモヤ感が増してはいる。
ともあれ、「安倍友パワー」がないらしい相撲協会でさえ、結局は守旧派温存、誰も責任を取らないで済んでしまうということが分かって、ドラマを見させられていた国民はますます白けてしまった。

思えば、ロッキード事件とかハチの一刺しの頃は、政界ドラマも派手だった。
今は、籠池夫妻のような格好のテレビ向きトリックスターが出てきても、存分に活躍?させることなく、ちょろちょろと水をかけて消火してしまう。
どれだけまずい証拠が出てきても政権は安泰。逮捕状が出ている容疑者を逮捕寸前に上からの命令でもみ消す。
誰の目にも「悪」「不正」「不条理」であると映ることが、大した知恵も実行力もない権力機構に取り込まれ、かき混ぜられ、薄められ、なんとなくうやむやのままになっていく。そんな国であることを、国民が選んでいる。
その貧乏くささや張りのなさが、今の弱った日本の姿そのものなのだなあと思うと、どうしても気が滅入るのだよなあ。



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死ぬ夢は見ても殺される夢は見ない2018/02/02 22:14

雪明かり
先日、夜中に久しぶりに「死ぬ夢」を見た。
どういう状況で死ぬのか、思い出せないのだが、何か黒くて四角い巨大なアイコンというかスイッチのようなものが目の前にあって(垂直ではなく、地面の上に置いてあるような感じ……そのへんはっきりしない)、そこに乗るだか触れるだかした瞬間、あ! これで死ぬんだ! とはっきり分かり、思わず軽い悲鳴を上げて目がさめた。
毎晩、寝るときには「このまま目がさめなければいいかもしれない。そんな死に方ができたら最高だ」と思いながら、す~っと眠りに落ちるのだが、寝ている最中はまだまだ死への恐怖、生への執着があるのだと実感した一瞬だった。

心身ともに疲れて、ああ、睡い、身体が重い、このまます~っと死ぬならそれでいい……と思うような死に方ならいいのだが、気持ちが伴わないままで、突然死を突きつけられるのはやはり怖いのだな。

しかし、考えてみると、「死ぬ夢」は見ても、「殺される夢」というのは見た記憶がない。見ているのかもしれないが、覚えてない。銃で撃たれたり、ナイフで刺されたり、刀で斬られたり……そういう夢は見たことがない(と思う)。それだけ平和な時代に生きているということだろうか。
これが戦国時代や戦時中なら、絶対に「殺される夢」を見るのではないだろうか。

たまに見る死ぬ夢のうち、いちばん多いのは高いところから落ちるというもの。あ、ここから落ちたら絶対に助からない。あと1秒か2秒で死ぬのだ……と思って、恐怖のうちに目がさめる、というパターン。
死ぬ準備ができていないままの死は怖い。

目がさめてから思った。
まだ生きる気満々じゃん、俺って。やることはいっぱいある。それを人から評価されるかどうかはどうでもいい。自分の価値観に従って生きられるだけでも、奇跡のような幸運、幸福ではないか……と。



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めいどの土産の赤い月2018/02/02 21:53

2018/01/31 日光より

廃仏毀釈のことを調べているうちに、明治維新っていうのは跳ね上がりの若造たちによるとんでもないテロだったんじゃないか、というような話を読み始めることになり、ふむふむ……と読んでいるところに、母親の介護で実家に行っている助手さんからメールが入った。

皆既月食始まってるよ。逗子は快晴

ん? 天気予報ではくもりで見えなそうということだったけど、見えてるのか?
窓から見たが見えない。バルコニーに出ると、少し欠けた月が煌々と輝いていた。

21時05分。外に出て空を見たら、すでに欠け始めていた

じゃあ、写真撮っておくか……とFZ1000を持ち出したら電池切れ。あれやこれややっているうちに身体が冷え切って耐えられない。
何度も部屋の中と往復しながら撮ってみた。
せめてAPS-Cサイズのα6000で撮ればいいのだろうが、望遠レンズがないから、とっかえひっかえやるだけの気力がない。なにしろ寒い。

でも、凍えながら撮ったので、ここにまとめておきますね。(大きな画面で見ている人は、各写真をClickすると拡大します)

21時15分。ゆっくりと欠けていく。こんなに時間かかるんだっけ?



35mm相当で撮る。まだ月が明るすぎて、回りの星はほとんど写らない



21時23分。800mm相当。F4、1/1600秒、ISO 125。なんか普通の月の写真になってしまうな



21時28分。回りの星を写し込もうとすると、月の欠けが分からなくなってしまう。まだまだ普通の月



21時42分。だいぶ感じが変わってきた。欠けた部分がぼんやり見えているが、明暗差がありすぎて、欠けてない部分のクレーターは写し込めない



21時47分。欠けた部分がはっきり見えてくる。なるほど赤い



21時48分。月の明るさが落ちてきたので、周囲の星も見えてきた



21時49分。もうすぐ完全に隠れる。これは見たことのない月だわ



21時49分。なんとか地上の風景も写し込めないかと踏ん張る。コンパクト機のXZ-10で撮ってみた。F1.8、1/2秒、5mm(26mm相当)



21時54分



21時56分。周囲の星が一緒に見えているという、この夜空の感じがすごかった



21時57分。絵みたいだねえ



22時42分。寒くて部屋に入っていたけれど、風呂に入る前にもう一度……と思って外に出たら、まだ赤いままだった



生きているうちに、こんなのをもう一度見られるだろうか? これはもう、冥土の土産レベルの風景だったかもしれないねえ。



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2つの白河の関2018/01/12 17:18

『白河二所の関』
お袋の出自、特に母方のほう(白河)を調べ直していて、この本『白河二所の関』を見つけたので購入してみた。
お袋が死んでしまった今となっては確認することができないのだが、お袋が生まれた細野家と境の明神にあった茶屋「南部屋」の主だった石井家とは親戚で、僕も子供の頃はお袋やお袋の長兄(僕にとっては伯父)夫妻に連れられて何度か明神にある石井家を訪ねたことがある。
そこには「ひろしおじさん」と呼ばれる博識な親戚がいて、境の明神こそが「白河の関」である、という論を張っていた。
中学生のとき、夏休みの宿題の1つとして、歴史にまつわる場所を訪ねて作文を書く、というのが出た。そのとき、お袋は張りきって「じゃあ、白河の関について書きなさい。明神のひろしおじさんのところを訪ねましょう」と、連れられていった。
そこで「ひろしおじさん」から直接講義を受けた。
  • 白河の関は2つある。
  • 今、国の指定史跡となっている旗宿の「白河関跡」は、大和朝廷時代に東北の蝦夷攻撃の拠点として作られた砦跡であって、江戸時代にはすでになかった。
  • 一遍上人絵伝などに出てくる「白河の関」は、奥州街道の関所として、関東と東北の境界にもうけられた「関所」であって、戦闘用の砦とは違うもの。
  • その意味での「白河の関」はここ境の明神であり、こここそが「白河の関」なのに、まったく無視されているのは無念である。
  • 境の明神には、福島と栃木の県境を挟んで2つの神社(下野側が住吉明神、陸奥側が玉津島明神)が並んでいる。そのため別名「二所の関」といって、相撲の二所ノ関部屋由来の地でもある。当の二所ノ関部屋関係者は誰一人そのことを分かっていないし、ここにお参りにも来ない。だから最近、あの部屋の力士たちは成績が悪いのだ。
……とまあ、そんな内容だった。

夏休みの宿題として僕が書いた「2つの白河の関」は、写真もたくさん貼り付けた大作だったが、歴史教師は中身を読まずにハンコだけ押して戻してきた。
実は、夏休み後の最初の授業のとき、「読書感想文ではなく、歴史的な名所旧跡などを訪ねて紀行文を書いた人は手を上げて」と言われたのだが、僕はなんとなく手を上げなかった。そのとき、手を上げた生徒の名前をメモしていたので、気にはなったのだが、きっとこれを読めばどれだけ頑張ったか分かるはずだと思って、敢えて名乗りを上げなかったのだ。原稿用紙数十枚に写真まで貼り付けた分量のものだから、読み落とすはずはない、と。
それがそのまま読んだ形跡もなく戻ってきたので、がっくりきたものだ。

……という話はさておき、お袋が生まれた細野家と石井家の関係を整理し直すと、
白河藩最後の藩主だった阿部正静(あべ まさきよ)は父親である幕府の老中・阿部正外(まさと)が兵庫開港要求事件で英仏蘭連合艦隊の要求を呑んだことを咎められて隠居処分となったために白河藩主を継ぐと同時に棚倉藩へ転封となった。
その正妻との間の娘が石井家に嫁ぎ、その娘が伊勢崎の蝋燭問屋に嫁いだ。それがお袋の母親・石井香……というような話だったと思うのだが、女系の系譜ゆえ、このへんのつながりは今となってははっきり確認できない。
とにかく、伊勢崎の蝋燭問屋がつぶれて、白坂に開拓農民として入った細野家の親戚筋が石井家だったことは確かだ。
で、僕が夏休みの宿題を書き上げるために講義を受けた「明神のひろしおじさん」こそが、上記の本の監修者となっている石井浩然氏らしい。
プロフィールからしてこれは間違いない。
1911年生まれというから、僕が会って話を聞いたとき(1968年くらい)は50代の終わりくらいだった。

そんな懐かしさもあって、この本を購入してみたのだが、内容的にはかなり拍子抜けしてしまった。
本の前半は著者かなやまじゅん氏の創作読み物になっているのだが、「仲良し3人の妖精たちの物語」とかなんとか……はぁ~?
後半には「監修」となっている石井浩然氏が書いた短い文章や、白河の関論争に関連した何人かの文章(司馬遼太郎や徳富蘇峰、齋藤庸一ら)の抜粋とそれに対するかなやま氏の解説が掲載されている。
後半部分が資料的に参考になったのでよかったが、最初のページを見たときは正直「買って失敗した!」と思ったのだった。

で、その後半部分を読んだことも含めて、今さらだが「白河の関論争」を僕なりにまとめてみると、以下のようなことだろうか。

  • 大和朝廷時代、坂上田村麻呂率いる東征軍が、東北蝦夷(縄文系原日本人)と向き合う戦略的拠点としての砦(関)を何か所かに作った。その1つが白河にあった(元祖?白河の関、古関)。
  • その「白河の関」は10世紀頃には存在意義が薄れ、12、13世紀にはすっかり消滅していた。
  • しかし、歌枕(和歌の題材にされた名所旧跡)として、和歌の世界では使われ続けた。
便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白河の関はこえぬと (平兼盛)

都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関 (能因法師)

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関 (源頼政)

秋風に草木の露を払はせて 君が越ゆれば関守もなし (梶原景季 ※「君」とは主君・源頼朝のこと)

平兼盛は991年没、能因法師は1050年没、頼政は1180年没、頼朝の奥州遠征は1189年。
この時代に、対蝦夷の砦として作られた白河の関は存在していたのだろうか?

文治3年(1187年)に死した奥州藤原三代秀衡が「ねんし(念珠関)、白河両関をば錦戸に防がせて、判官殿を疎(おろそか)になし奉るべからず」と遺言で語ったことが「義経記」に書かれており、このころ、白河の関はまだ健在だったようである。

また、浄土宗西山派の祖、証空上人(1177~1247)の詞書や歌から、上人が陸奥を訪れたとき(具体的な年代は不明)、白河の関は既に関の体裁を成していなかったと思われるので、廃絶の時期は、秀衡が死した1187年から上人が死した1247年の間と推定することができるだろう。
みちの国へまかりける時、関をこえて後、白河の関はいづくぞと尋ね侍りければ、過ぎぬる所こそかの関に侍れと蓮生法師申し侍りければ、光台の不見も思ひいだされて光台に見しはみしかはみざりしをききてぞ見つる白河の関 (証空上人「新千載和歌集」)
「芭蕉と白河の関」より)

……ということなので、どうやら、上の3首に読まれている「白河の関」が、存在自体はほぼ消えていたが場所としては分かっていた「元祖白河の関」(古関)のことなのか、それともすでにこの頃は奥州街道での往来が普通になっていたので、境の明神のことをさしているのか、微妙なところだ。
能因法師は関西の人で、白河の関を訪れたことはないらしい。だとすれば、完全に想像の世界でこの歌を詠んでいる。
つまり、この頃(11~12世紀)には、すでに白河の関は、実際の場所としてよりも、歌枕として有名になっていたのだ。


一遍聖絵(一遍上人絵伝)にも白河の関が出てくる。これは、1299年に描かれているので、元祖白河の関は完全に消滅した後だと思われるが、絵にはしっかりと街道が描かれている。
ということは、これは境の明神のことだろうか。
もっとも、この絵は実際の地形を写実したものではなく、想像で描いた部分が多そうだから、証明材料としては無理がある。

上は一遍聖絵に描かれた白河の関、下は現在の境の明神付近をGoogleマップの俯瞰写真で見たもの



こちらは国指定史跡である旗宿の「白河の関跡」。関は山の中にあって「越えていく」ことにはならない


8世紀に詠まれた平兼盛の歌にも、12世紀に頼朝に命じられて詠んだ梶原景季の歌にも、白河の関は「越える」と表現されている。
上の衛星写真を見れば分かるように、旗宿の「関」は道を見下ろす小山そのもので、敵を見張って襲うために作られたことがよく分かる。
蝦夷はゲリラ戦を得意としていたので、それに対抗するためにはこうした「砦」を構える必要があった。
しかし、蝦夷(原日本人)が大和朝廷(大陸からの渡来系)に完全に屈した後は、戦の仕方も変わっていった。それによって、砦ではなく、境界を越える道の要所を守るための関所、いざとなったらそこで敵の隊列を止める、あるいはスパイの出入りや武器の輸送をチェックするという役割での「関」が設けられた。
また、昔の人にとって、「境界線」は特別な存在だった。あの世とこの世の境界、魔界と日常世界の境界、領土の境界……。
ただでさえ都の人間にとって東北は「陸奥(みちのく)=道の奥」という未知の世界であり、その境界のシンボルとしての「白河の関」には、特別なイメージがあっただろう。
だからこそ、歌の世界ではずっと人気のある歌枕であり続けた。

春はただ花にもらせよ白河のせきとめずとも過ぎんものかは (道興准后=どうこうじゅごう)

この歌は室町時代の僧侶・道興(1430-1527年)が、文明18(1486)年から2年間かけて東国を回ったときに記した『廻国雑記』に出てくる。
この歌の前には、
(略)白河二所の関にいたりければ、幾本となく山桜咲き満ちて言葉も及びはべらず、しばらく花の陰に休みて、
とある。
ここにははっきりと「二所の関」と記されており、歌の中の「白河のせき」は、イメージとしての境界というよりも、境の明神のことを指していると思える。

境の明神と石井家

大和朝廷が作った対蝦夷用の砦である白河の関とは関係なく、関東と東北の境界にある二所の関明神は古くから多くの人が参拝する場所だった。旅人は道中の安全を願い、武将は戦捷祈願をし、文人は東国への思いを胸に参拝した。

八戸藩史稿によると、寛文4(1664)年徳川幕府の命令で、八戸藩を創設することになった南部直房と、その本家である盛岡藩主南部重信とが、両家相続のことではじめて幕府に呼ばれて江戸に上る途中、この白坂道を通り二所の境明神に詣り、その社前にあった石井七兵衛の家で休憩した。
そのとき、七兵衛の老妻がつくって出したあべかわ餅が大いに気に入って、その後、盛岡八戸両藩主は、江戸参観の折には必ずこの境明神前の石井氏宅に休憩し、あべかわ餅を賞味することを恒例とするようになった。
時代が移って石井氏宅では、老婆がいなくとも、若い娘が老婆のよそおいをして餅を献ずるというしきたりを続けたので、これを白河の「南部おばば」とまで呼ばれるようになった。
(略)
盛岡(南部)藩おかかえの関取・南部二所ノ関軍之丞が二所ノ関部屋の創始者であり、二所ノ関部屋名が、この白河二所の関明神と大いに関係があったことはうなずけるものがある。
(『ようこそまほろばみちのく 白河二所の関』 かなやまじゅん・著 の参考文献より、「二所の関の意味と白河の関 ──古関の関屋は白坂道か旗宿道か──」岩田孝三 『関趾と藩界』より抜粋収録)

ここに出てくる石井七兵衛は南部藩の家老だったが、陸奥国で産出した金を幕府へ供出する際に産出量をごまかしていたことが発覚し、その責任を家老だった七兵衛が一手に受けて浪人になった。
その際、藩主が石井家の離散消滅を不憫に思い、白坂明神前の土地を与えて、ここで茶屋を開けと計らったのが茶屋「南部屋」の始まりで、元和3(1617)年のことだという。

ちなみに、この話はお袋(鐸木能子)からも聞かされたことがある。お袋は「ひろしおじさん」からの受け売りで話していたわけだが……。
また、いろいろ調べていくと、境の明神にいわゆる「入鉄砲と出女」の検問をしていた「関所」があったかというと疑問だ。古くからあった南部屋を国境の関所に見立てて、石井家を「関守」と表現していたのかもしれない。
ただ、石井家には幕府との関連を示すものがいくつか残されていて、茶屋を装いながら隠密裏に情報収集や武器移送の監視をしていたのではないか、という話を聞いたことがある。今となっては確かめようがないが……。

芭蕉と白河の関

さて、江戸時代になると、歌枕としての「白河の関」は完全に一人歩きを始める。
有名な芭蕉の『奥の細道』には、こう記されている。
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
 卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良

「いかで都へと便求しも断也」というのは、平兼盛が詠んだ「便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白河の関はこえぬと」を指している。白河の関を越えたことの感慨をどのようにしたら都の人たちに伝えられるだろうか……という古人の思い。
「秋風を耳に残し、紅葉を俤にして」の秋風は能因法師の、紅葉は頼政の歌を引いているのだろう。
「風騒の人、心をとゞむ」は、古の詩人たちがみなこの関に心を寄せて歌を詠んだ、ということで、芭蕉がどれだけ気合いを入れて白河の関までたどり着いたかがうかがえる。
「古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ」については、
平安末の和歌百科全書とも言うべき藤原清輔の『袋草紙』にある、次の記事をもとにしている。

竹田大夫国行と云ふ者、陸奥に下向の時、白川の関過ぐる日は殊に裝束(さうぞ)きて、みづびんかくと云々。人問ひて云はく、「何等の故ぞや」。答へて云はく、「古曾部入道の『秋風ぞ吹く白川の関』とよまれたる所をば、いかで褻(け)なりにては過ぎん」と云々。殊勝の事なり。
国司として陸奥に下った藤原国行は、能因法師の名歌に敬意を表し、盛装して関を通過した、という。かつて蝦夷地との境界をなし、軍事上の要地であった白河の関は、平安中期にはもう関としての機能を殆ど持たなくなり、もっぱら「和歌の聖地」として名高い場所になっていたのである。能因を慕って陸奥を旅した西行もまた、この地で「秋風ぞ吹く」の歌を想起したことは言うまでもない。
「歌枕紀行 白河の關」より)

ということだ。

芭蕉にとってこれだけ思い入れの強い白河の関なのに、芭蕉自身は白河の関を詠むことなく、弟子の曽良の歌がサラッと書かれているだけ。
これはどうも、芭蕉ですら、歌枕として超有名になってしまった「白河の関」に翻弄され、実際に現地を訪れたときには、その場所がどこかも分からなくなって、拍子抜けしたということではないだろうか。
歌人たちにとっての「白河の関」は、みちのくというミステリーゾーンへの入り口、境界を表すシンボルであり、それを「越えて」向こう側の世界に入ることが一種ロマンチック、ドラマチック、アドベンチャラスな儀式だった。
ところが、実際に訪れてみると、歌枕としての白河の関がどこなのかがはっきりしない。
写実主義の芭蕉としては、想像の世界で句をでっち上げることはできない。もやもやして、とても句を詠む気になれなかったのかもしれない。

『奥の細道』で芭蕉が白河に入ったのは元禄2(1689)年だが、この時代にはもうすっかり「白河の関」は実体のないものになっていたわけだ。
(このへんのことは、「芭蕉と白河の関」に詳しく解説されている

白河楽翁と白河の関

松平定信が「こここそ白河の関だ」と、旗宿の地を認定したのは1800年のことだから、「奥の細道」からさらに100年以上後のことだ。
後に発掘調査で、どうやらそこが対蝦夷の砦としての「元祖白河の関」跡に違いないことは証明された。さすが、白河楽翁。
しかし、歌の世界でも、紀行文学などでも、白河の関は奥州への境界シンボル「越えていく」ものと認識されており、その意味では境の明神こそが「白河の関」だったので、ますます混乱することになった。

松平定信(白河楽翁)は、『退閑雑記』の中で、
白河の関は、いづ地にありや知らず、今の奥野の境、白坂宿に玉津島の明神の社あるを、古関のあとといふはひが事なり。

と書いている。
境の明神を古関の跡だというのは「僻事(間違い)」だとわざわざ断じているわけだ。
これに対してのかなやま氏の反論がとても興味深い。
私の全くの私見ですが、ひがみは松平侯にあったのではないかと推察します。参勤交代では南部の殿様も、仙台の殿様も白河城や白河宿を無視したかのように白坂の宿に隣接した明神を参拝し、仙台侯にあっては、南部屋を休み処として、参勤交代の度に五石という大量の千代餅を撒き、それ欲しさ、見たさに、三千人を超す人びとが参集したそうですから、その時の松平侯の心の内は穏やかではなかったはずです。
(『白河二所の関』)

松平定信が書いている「僻事」は単純に「間違い」という意味で、「ひがみ」という意味はないと思うが、和歌をたしなむ知識人として、歌枕の「白河の関」が境の明神であってたまるか、という思いは、確かにあったのかもしれない。

……とまあ、長くなったが、長い間続いている「白河の関論争」を僕なりにまとめてみると、以下のようなことになるだろうか。

  • 大和朝廷軍が作ったもともとの白河の関(古関)は12世紀くらいには消滅しており、江戸時代には、都や江戸の文化人にとっては、異世界ともいえる東北への入り口としてのシンボル、イメージの歌枕としてのみ存在し、一人歩きしていた。
  • この時点で、「白河の関」はもはや「高天原」や「鬼ヶ島」のような「伝承の地」になっていて、大和朝廷が作った古関とはあまり関係がなくなっていた、ともいえる。
  • 一方で、現実世界での「白河の関」としては境の明神が実際の「奥州への入り口」として機能していた。自らの足で奥州へ入っていった人たちや、奥州と江戸を行き来した東北の殿様たちにとっては、境の明神こそが「白河の関」だった。
  • しかし、古関としての白河の関は確かに旗宿の山一帯にあったし、そのことを松平定信はしっかり推定し、お墨付きも与えた。国も発掘調査をしてそれを追認した。
……そういうことだ。
だから、どちらが正しいという論争は意味がない。どちらも「白河の関」であり、どちらかが偽物だということではない。

ただし、旗宿の「白河の関跡」に街道の関所を模したような建物を作って、土塁の跡を指し「ここを殿様たちの大名行列が通ったんだ~」と説明するのは明らかな「間違い」だし、境の明神に大和朝廷が作った古関があったとするのも間違いだ。
そこはちゃんと「区別」しなければいけない。


1月13日土曜日 14.00~15.00くらいまで、CRT(栃木放送)に生出演します。ネット接続環境があればラジコで聴けます
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今年も木の鐸会の雛人形が展示・販売されます
日本橋髙島屋美術工芸サロン(6F):2018年1月10日(水)~1月16日(火)
横浜髙島屋美術画廊(7F):2018年1月24日(水)~2月6日(火)
売れた作品は展示から消えていきますので、全作品が揃っている初日にどうぞ!
↑写真:木の鐸会代表・鐸木郁子の作品(日本橋髙島屋出展)
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裸のフクシマ

『裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす』(たくき よしみつ・著)

(2011/10/15発売 講談社 単行本)…… ニュースでは語られないフクシマの真実を、原発25kmの自宅からの目で収集・発信。
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