『阿武隈裏日記』を改題しました。
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2つの白河の関2018/01/12 17:18

『白河二所の関』
お袋の出自、特に母方のほう(白河)を調べ直していて、この本『白河二所の関』を見つけたので購入してみた。
お袋が死んでしまった今となっては確認することができないのだが、お袋が生まれた細野家と境の明神にあった茶屋「南部屋」の主だった石井家とは親戚で、僕も子供の頃はお袋やお袋の長兄(僕にとっては伯父)夫妻に連れられて何度か明神にある石井家を訪ねたことがある。
そこには「ひろしおじさん」と呼ばれる博識な親戚がいて、境の明神こそが「白河の関」である、という論を張っていた。
中学生のとき、夏休みの宿題の1つとして、歴史にまつわる場所を訪ねて作文を書く、というのが出た。そのとき、お袋は張りきって「じゃあ、白河の関について書きなさい。明神のひろしおじさんのところを訪ねましょう」と、連れられていった。
そこで「ひろしおじさん」から直接講義を受けた。
  • 白河の関は2つある。
  • 今、国の指定史跡となっている旗宿の「白河関跡」は、大和朝廷時代に東北の蝦夷攻撃の拠点として作られた砦跡であって、江戸時代にはすでになかった。
  • 一遍上人絵伝などに出てくる「白河の関」は、奥州街道の関所として、関東と東北の境界にもうけられた「関所」であって、戦闘用の砦とは違うもの。
  • その意味での「白河の関」はここ境の明神であり、こここそが「白河の関」なのに、まったく無視されているのは無念である。
  • 境の明神には、福島と栃木の県境を挟んで2つの神社(下野側が住吉明神、陸奥側が玉津島明神)が並んでいる。そのため別名「二所の関」といって、相撲の二所ノ関部屋由来の地でもある。当の二所ノ関部屋関係者は誰一人そのことを分かっていないし、ここにお参りにも来ない。だから最近、あの部屋の力士たちは成績が悪いのだ。
……とまあ、そんな内容だった。

夏休みの宿題として僕が書いた「2つの白河の関」は、写真もたくさん貼り付けた大作だったが、歴史教師は中身を読まずにハンコだけ押して戻してきた。
実は、夏休み後の最初の授業のとき、「読書感想文ではなく、歴史的な名所旧跡などを訪ねて紀行文を書いた人は手を上げて」と言われたのだが、僕はなんとなく手を上げなかった。そのとき、手を上げた生徒の名前をメモしていたので、気にはなったのだが、きっとこれを読めばどれだけ頑張ったか分かるはずだと思って、敢えて名乗りを上げなかったのだ。原稿用紙数十枚に写真まで貼り付けた分量のものだから、読み落とすはずはない、と。
それがそのまま読んだ形跡もなく戻ってきたので、がっくりきたものだ。

……という話はさておき、お袋が生まれた細野家と石井家の関係を整理し直すと、
白河藩最後の藩主だった阿部正静(あべ まさきよ)は父親である幕府の老中・阿部正外(まさと)が兵庫開港要求事件で英仏蘭連合艦隊の要求を呑んだことを咎められて隠居処分となったために白河藩主を継ぐと同時に棚倉藩へ転封となった。
その正妻との間の娘が石井家に嫁ぎ、その娘が伊勢崎の蝋燭問屋に嫁いだ。それがお袋の母親・石井香……というような話だったと思うのだが、女系の系譜ゆえ、このへんのつながりは今となってははっきり確認できない。
とにかく、伊勢崎の蝋燭問屋がつぶれて、白坂に開拓農民として入った細野家の親戚筋が石井家だったことは確かだ。
で、僕が夏休みの宿題を書き上げるために講義を受けた「明神のひろしおじさん」こそが、上記の本の監修者となっている石井浩然氏らしい。
プロフィールからしてこれは間違いない。
1911年生まれというから、僕が会って話を聞いたとき(1968年くらい)は50代の終わりくらいだった。

そんな懐かしさもあって、この本を購入してみたのだが、内容的にはかなり拍子抜けしてしまった。
本の前半は著者かなやまじゅん氏の創作読み物になっているのだが、「仲良し3人の妖精たちの物語」とかなんとか……はぁ~?
後半には「監修」となっている石井浩然氏が書いた短い文章や、白河の関論争に関連した何人かの文章(司馬遼太郎や徳富蘇峰、齋藤庸一ら)の抜粋とそれに対するかなやま氏の解説が掲載されている。
後半部分が資料的に参考になったのでよかったが、最初のページを見たときは正直「買って失敗した!」と思ったのだった。

で、その後半部分を読んだことも含めて、今さらだが「白河の関論争」を僕なりにまとめてみると、以下のようなことだろうか。

  • 大和朝廷時代、坂上田村麻呂率いる東征軍が、東北蝦夷(縄文系原日本人)と向き合う戦略的拠点としての砦(関)を何か所かに作った。その1つが白河にあった(元祖?白河の関、古関)。
  • その「白河の関」は10世紀頃には存在意義が薄れ、12、13世紀にはすっかり消滅していた。
  • しかし、歌枕(和歌の題材にされた名所旧跡)として、和歌の世界では使われ続けた。
便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白河の関はこえぬと (平兼盛)

都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関 (能因法師)

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関 (源頼政)

秋風に草木の露を払はせて 君が越ゆれば関守もなし (梶原景季 ※「君」とは主君・源頼朝のこと)

平兼盛は991年没、能因法師は1050年没、頼政は1180年没、頼朝の奥州遠征は1189年。
この時代に、対蝦夷の砦として作られた白河の関は存在していたのだろうか?

文治3年(1187年)に死した奥州藤原三代秀衡が「ねんし(念珠関)、白河両関をば錦戸に防がせて、判官殿を疎(おろそか)になし奉るべからず」と遺言で語ったことが「義経記」に書かれており、このころ、白河の関はまだ健在だったようである。

また、浄土宗西山派の祖、証空上人(1177~1247)の詞書や歌から、上人が陸奥を訪れたとき(具体的な年代は不明)、白河の関は既に関の体裁を成していなかったと思われるので、廃絶の時期は、秀衡が死した1187年から上人が死した1247年の間と推定することができるだろう。
みちの国へまかりける時、関をこえて後、白河の関はいづくぞと尋ね侍りければ、過ぎぬる所こそかの関に侍れと蓮生法師申し侍りければ、光台の不見も思ひいだされて光台に見しはみしかはみざりしをききてぞ見つる白河の関 (証空上人「新千載和歌集」)
「芭蕉と白河の関」より)

……ということなので、どうやら、上の3首に読まれている「白河の関」が、存在自体はほぼ消えていたが場所としては分かっていた「元祖白河の関」(古関)のことなのか、それともすでにこの頃は奥州街道での往来が普通になっていたので、境の明神のことをさしているのか、微妙なところだ。
能因法師は関西の人で、白河の関を訪れたことはないらしい。だとすれば、完全に想像の世界でこの歌を詠んでいる。
つまり、この頃(11~12世紀)には、すでに白河の関は、実際の場所としてよりも、歌枕として有名になっていたのだ。


一遍聖絵(一遍上人絵伝)にも白河の関が出てくる。これは、1299年に描かれているので、元祖白河の関は完全に消滅した後だと思われるが、絵にはしっかりと街道が描かれている。
ということは、これは境の明神のことだろうか。
もっとも、この絵は実際の地形を写実したものではなく、想像で描いた部分が多そうだから、証明材料としては無理がある。

上は一遍聖絵に描かれた白河の関、下は現在の境の明神付近をGoogleマップの俯瞰写真で見たもの



こちらは国指定史跡である旗宿の「白河の関跡」。関は山の中にあって「越えていく」ことにはならない


8世紀に詠まれた平兼盛の歌にも、12世紀に頼朝に命じられて詠んだ梶原景季の歌にも、白河の関は「越える」と表現されている。
上の衛星写真を見れば分かるように、旗宿の「関」は道を見下ろす小山そのもので、敵を見張って襲うために作られたことがよく分かる。
蝦夷はゲリラ戦を得意としていたので、それに対抗するためにはこうした「砦」を構える必要があった。
しかし、蝦夷(原日本人)が大和朝廷(大陸からの渡来系)に完全に屈した後は、戦の仕方も変わっていった。それによって、砦ではなく、境界を越える道の要所を守るための関所、いざとなったらそこで敵の隊列を止める、あるいはスパイの出入りや武器の輸送をチェックするという役割での「関」が設けられた。
また、昔の人にとって、「境界線」は特別な存在だった。あの世とこの世の境界、魔界と日常世界の境界、領土の境界……。
ただでさえ都の人間にとって東北は「陸奥(みちのく)=道の奥」という未知の世界であり、その境界のシンボルとしての「白河の関」には、特別なイメージがあっただろう。
だからこそ、歌の世界ではずっと人気のある歌枕であり続けた。

春はただ花にもらせよ白河のせきとめずとも過ぎんものかは (道興准后=どうこうじゅごう)

この歌は室町時代の僧侶・道興(1430-1527年)が、文明18(1486)年から2年間かけて東国を回ったときに記した『廻国雑記』に出てくる。
この歌の前には、
(略)白河二所の関にいたりければ、幾本となく山桜咲き満ちて言葉も及びはべらず、しばらく花の陰に休みて、
とある。
ここにははっきりと「二所の関」と記されており、歌の中の「白河のせき」は、イメージとしての境界というよりも、境の明神のことを指していると思える。

境の明神と石井家

大和朝廷が作った対蝦夷用の砦である白河の関とは関係なく、関東と東北の境界にある二所の関明神は古くから多くの人が参拝する場所だった。旅人は道中の安全を願い、武将は戦捷祈願をし、文人は東国への思いを胸に参拝した。

八戸藩史稿によると、寛文4(1664)年徳川幕府の命令で、八戸藩を創設することになった南部直房と、その本家である盛岡藩主南部重信とが、両家相続のことではじめて幕府に呼ばれて江戸に上る途中、この白坂道を通り二所の境明神に詣り、その社前にあった石井七兵衛の家で休憩した。
そのとき、七兵衛の老妻がつくって出したあべかわ餅が大いに気に入って、その後、盛岡八戸両藩主は、江戸参観の折には必ずこの境明神前の石井氏宅に休憩し、あべかわ餅を賞味することを恒例とするようになった。
時代が移って石井氏宅では、老婆がいなくとも、若い娘が老婆のよそおいをして餅を献ずるというしきたりを続けたので、これを白河の「南部おばば」とまで呼ばれるようになった。
(略)
盛岡(南部)藩おかかえの関取・南部二所ノ関軍之丞が二所ノ関部屋の創始者であり、二所ノ関部屋名が、この白河二所の関明神と大いに関係があったことはうなずけるものがある。
(『ようこそまほろばみちのく 白河二所の関』 かなやまじゅん・著 の参考文献より、「二所の関の意味と白河の関 ──古関の関屋は白坂道か旗宿道か──」岩田孝三 『関趾と藩界』より抜粋収録)

ここに出てくる石井七兵衛は南部藩の家老だったが、陸奥国で産出した金を幕府へ供出する際に産出量をごまかしていたことが発覚し、その責任を家老だった七兵衛が一手に受けて浪人になった。
その際、藩主が石井家の離散消滅を不憫に思い、白坂明神前の土地を与えて、ここで茶屋を開けと計らったのが茶屋「南部屋」の始まりで、元和3(1617)年のことだという。

ちなみに、この話はお袋(鐸木能子)からも聞かされたことがある。お袋は「ひろしおじさん」からの受け売りで話していたわけだが……。
また、いろいろ調べていくと、境の明神にいわゆる「入鉄砲と出女」の検問をしていた「関所」があったかというと疑問だ。古くからあった南部屋を国境の関所に見立てて、石井家を「関守」と表現していたのかもしれない。
ただ、石井家には幕府との関連を示すものがいくつか残されていて、茶屋を装いながら隠密裏に情報収集や武器移送の監視をしていたのではないか、という話を聞いたことがある。今となっては確かめようがないが……。

芭蕉と白河の関

さて、江戸時代になると、歌枕としての「白河の関」は完全に一人歩きを始める。
有名な芭蕉の『奥の細道』には、こう記されている。
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
 卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良

「いかで都へと便求しも断也」というのは、平兼盛が詠んだ「便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白河の関はこえぬと」を指している。白河の関を越えたことの感慨をどのようにしたら都の人たちに伝えられるだろうか……という古人の思い。
「秋風を耳に残し、紅葉を俤にして」の秋風は能因法師の、紅葉は頼政の歌を引いているのだろう。
「風騒の人、心をとゞむ」は、古の詩人たちがみなこの関に心を寄せて歌を詠んだ、ということで、芭蕉がどれだけ気合いを入れて白河の関までたどり着いたかがうかがえる。
「古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ」については、
平安末の和歌百科全書とも言うべき藤原清輔の『袋草紙』にある、次の記事をもとにしている。

竹田大夫国行と云ふ者、陸奥に下向の時、白川の関過ぐる日は殊に裝束(さうぞ)きて、みづびんかくと云々。人問ひて云はく、「何等の故ぞや」。答へて云はく、「古曾部入道の『秋風ぞ吹く白川の関』とよまれたる所をば、いかで褻(け)なりにては過ぎん」と云々。殊勝の事なり。
国司として陸奥に下った藤原国行は、能因法師の名歌に敬意を表し、盛装して関を通過した、という。かつて蝦夷地との境界をなし、軍事上の要地であった白河の関は、平安中期にはもう関としての機能を殆ど持たなくなり、もっぱら「和歌の聖地」として名高い場所になっていたのである。能因を慕って陸奥を旅した西行もまた、この地で「秋風ぞ吹く」の歌を想起したことは言うまでもない。
「歌枕紀行 白河の關」より)

ということだ。

芭蕉にとってこれだけ思い入れの強い白河の関なのに、芭蕉自身は白河の関を詠むことなく、弟子の曽良の歌がサラッと書かれているだけ。
これはどうも、芭蕉ですら、歌枕として超有名になってしまった「白河の関」に翻弄され、実際に現地を訪れたときには、その場所がどこかも分からなくなって、拍子抜けしたということではないだろうか。
歌人たちにとっての「白河の関」は、みちのくというミステリーゾーンへの入り口、境界を表すシンボルであり、それを「越えて」向こう側の世界に入ることが一種ロマンチック、ドラマチック、アドベンチャラスな儀式だった。
ところが、実際に訪れてみると、歌枕としての白河の関がどこなのかがはっきりしない。
写実主義の芭蕉としては、想像の世界で句をでっち上げることはできない。もやもやして、とても句を詠む気になれなかったのかもしれない。

『奥の細道』で芭蕉が白河に入ったのは元禄2(1689)年だが、この時代にはもうすっかり「白河の関」は実体のないものになっていたわけだ。
(このへんのことは、「芭蕉と白河の関」に詳しく解説されている

白河楽翁と白河の関

松平定信が「こここそ白河の関だ」と、旗宿の地を認定したのは1800年のことだから、「奥の細道」からさらに100年以上後のことだ。
後に発掘調査で、どうやらそこが対蝦夷の砦としての「元祖白河の関」跡に違いないことは証明された。さすが、白河楽翁。
しかし、歌の世界でも、紀行文学などでも、白河の関は奥州への境界シンボル「越えていく」ものと認識されており、その意味では境の明神こそが「白河の関」だったので、ますます混乱することになった。

松平定信(白河楽翁)は、『退閑雑記』の中で、
白河の関は、いづ地にありや知らず、今の奥野の境、白坂宿に玉津島の明神の社あるを、古関のあとといふはひが事なり。

と書いている。
境の明神を古関の跡だというのは「僻事(間違い)」だとわざわざ断じているわけだ。
これに対してのかなやま氏の反論がとても興味深い。
私の全くの私見ですが、ひがみは松平侯にあったのではないかと推察します。参勤交代では南部の殿様も、仙台の殿様も白河城や白河宿を無視したかのように白坂の宿に隣接した明神を参拝し、仙台侯にあっては、南部屋を休み処として、参勤交代の度に五石という大量の千代餅を撒き、それ欲しさ、見たさに、三千人を超す人びとが参集したそうですから、その時の松平侯の心の内は穏やかではなかったはずです。
(『白河二所の関』)

松平定信が書いている「僻事」は単純に「間違い」という意味で、「ひがみ」という意味はないと思うが、和歌をたしなむ知識人として、歌枕の「白河の関」が境の明神であってたまるか、という思いは、確かにあったのかもしれない。

……とまあ、長くなったが、長い間続いている「白河の関論争」を僕なりにまとめてみると、以下のようなことになるだろうか。

  • 大和朝廷軍が作ったもともとの白河の関(古関)は12世紀くらいには消滅しており、江戸時代には、都や江戸の文化人にとっては、異世界ともいえる東北への入り口としてのシンボル、イメージの歌枕としてのみ存在し、一人歩きしていた。
  • この時点で、「白河の関」はもはや「高天原」や「鬼ヶ島」のような「伝承の地」になっていて、大和朝廷が作った古関とはあまり関係がなくなっていた、ともいえる。
  • 一方で、現実世界での「白河の関」としては境の明神が実際の「奥州への入り口」として機能していた。自らの足で奥州へ入っていった人たちや、奥州と江戸を行き来した東北の殿様たちにとっては、境の明神こそが「白河の関」だった。
  • しかし、古関としての白河の関は確かに旗宿の山一帯にあったし、そのことを松平定信はしっかり推定し、お墨付きも与えた。国も発掘調査をしてそれを追認した。
……そういうことだ。
だから、どちらが正しいという論争は意味がない。どちらも「白河の関」であり、どちらかが偽物だということではない。

ただし、旗宿の「白河の関跡」に街道の関所を模したような建物を作って、土塁の跡を指し「ここを殿様たちの大名行列が通ったんだ~」と説明するのは明らかな「間違い」だし、境の明神に大和朝廷が作った古関があったとするのも間違いだ。
そこはちゃんと「区別」しなければいけない。


1月13日土曜日 14.00~15.00くらいまで、CRT(栃木放送)に生出演します。ネット接続環境があればラジコで聴けます
⇒こちら

今年も木の鐸会の雛人形が展示・販売されます
日本橋髙島屋美術工芸サロン(6F):2018年1月10日(水)~1月16日(火)
横浜髙島屋美術画廊(7F):2018年1月24日(水)~2月6日(火)
売れた作品は展示から消えていきますので、全作品が揃っている初日にどうぞ!
↑写真:木の鐸会代表・鐸木郁子の作品(日本橋髙島屋出展)

人形作家・鐸木能子のネット葬2018/01/09 17:31

銅鐸をモチーフにした異色の人形

母親を「ネット葬」で送る

古いネガフィルムの中から、こんなのが出てきた。
なんともおどろおどろしいと感じるのだが、中には「これ、いい! 好きだ」という人もいて、感性というのは本当に様々だなあと思う。
↑これはお袋(鐸木能子)が人形制作を始めた頃、「銅鐸を題材にした人形を作ってみる」と言って作ってしまったもの。
写真だと分からないと思うが、表面は革(バックスキン)で、桐の木を彫ったものに木目込みして、その革の上から着色を施している。
人形とは何か、自分が作る人形はどうあるべきなのか……と、悩んでいる時期の興味深い作品。

そもそもお袋はなんで人形作家をめざしたのだろう。
「何か一つ、一生をかけて追求するものを見つけたい」と言って始めたのだが、そうなるまでにはいろんな紆余曲折があった。

もうすぐ出る本『医者には絶対書けない幸せな死に方』(講談社プラスα新書)の中で僕は、
死者を弔うという行為は、気持ちをどれだけ寄せられるかが大切であるはずです。であれば、時間を置いて「偲ぶ会」を宗教色なし、会費制で行うなどのほうが、参加者の心に残る、意味のある会になるように思います。
 それも大変なら、メモリアル動画をYouTubeにアップして、離れた人でもそれを見ながら死者との思い出や死者への敬意を持つ時間を作れる「YouTube葬」はどうでしょう。

……と書いた。
その精神で、お袋の人生を少しだけ振り返ってみたくなった。

人形作家・鐸木能子の生涯

お袋・鐸木能子は、昭和3(1928)年3月に群馬県の旧佐波郡伊勢崎町の蝋燭問屋・細野智之助の4女(7人兄弟の6番目)として生まれた。
母親は香といい、福島県白河の出身。奥の細道や一遍上人絵伝に出てくる「白河の関」の関守であった石井家とは親戚関係で、小峰城のお姫様で、子供の頃に棚倉城に移されたとかなんとか……そのへんの話はどうもはっきり分からないが、ともかく武家の娘だったことは確か。
子供の頃はよく「よしみつは時代が時代なら、侍大将として敵軍に突っ込んでいかなければならなかったのよ。なにを泣き言言ってるの!」と叱られたものだ。

父・細野智之助は伊勢崎で2番目の金持ちで、屋敷は広大で、門から母屋まで歩く間に使用人の家が両側に何軒もあって……というような話も、子供の頃はよく聞かされていた。
ところが父親が亡くなってからは、武家出身の母親が商売にまったく疎いお嬢様だったため、たちまち金を騙し取られて無一文になり、白河の白坂というところに開拓農民として移り住んだ。
父親代わりとして妹たちを育てていた長男は出征し、ボルネオ島で通信兵をしていたときに現地妻を作り、娘が生まれたが、その後、捕虜になり、妻子とは離ればなれになった。
帰国後は開拓農民として白坂の土地を開墾し、その土地(2町7反歩と聞いている)を払い下げてもらい、農業をする傍ら、教員免許を取って地元の小学校の教師として働いた。結局、ボルネオ島に残してきた妻子には二度と会うことはなかった。

お袋は5人の姉妹の4番目で、早くに死んだ父親の記憶はほとんどなく、長兄が父親代わりだった。貧乏だったので上3人の姉はみんな尋常小学校どまり。兄弟の中では初めて女学校まで行かせてもらったらしい。(ちなみに次兄は兄弟の中でいちばん頭がよかったが、病弱で、結婚後、娘を1人もうけた後に死亡)
お袋は上京して聖路加女子専門学校に学び、看護師の資格を取った。
そのときの恩師が有名な日野原重明氏(故人)で、戦時中は聖路加国際病院に担ぎ込まれる怪我人たちの手当や看護をしていた。
聖路加病院は立教大学と同じく、日本聖公会(イギリス聖公会の日本バージョン)の系統で、その影響で日本聖公会で洗礼も受けた。
その影響が強くて、若いときから西洋美術やキリスト教文化に強い憧れ(一種のコンプレックスかもしれない)を抱いていたようだ。

終戦後は立教女学院に就職。その後、看護師として白河市の病院に勤務。
そのとき、結核病棟に入院していた僕の父親(実父)と、看護師と患者として知り合い、結婚する。
実父は福島県の職員で、林業担当だった。犬と演歌と森が好きだったらしいが、そのことは大人になるまで知らなかった。
結婚後、白河の病院を辞めて、福島市に移り、福島大学附属中学に養護教諭として就職。そこで僕が生まれた。このときお袋は27歳。

20代終わり頃のお袋

その後、附属中学に今の親父(養父)鐸木經彦が理科の教師として赴任してきた。
で、親父はお袋に一目惚れしたらしく、同僚であるお袋に熱烈なラブレターもどきを書いて手渡したそうだ。
その話はお袋から聞いたが「子持ちの人妻である同僚にラブレターを渡すなんて、一体この人は何を考えているのか、って呆れたわよ」と言っていた。

お袋は附属中学の同僚である音楽教師から絶対音感の話を聞き、まだ2歳だった僕に絶対音感をつけさせようと、福島市内で適任者を探す。探し当てたのは市内の修道院にいたカナダ人シスターで、僕はそこに通って音感教育を受けた(当時の記憶はほとんどない)。

当時お袋が附属中学で影響を受けたものに「立体版画」というのもあった。
これは普通の版画のように版木に紙をあてて転写するのではなく、インクをつけたローラーを版木の上に転がし、そのローラーをそのまま紙の上に転がして、ローラーに残ったインクの濃淡を転写する、というもの。普通の版画とは違って、左右反転して彫る必要はない。
考案者は泉田さんといったかな。美術教員だったのか、課外教室の講師のような立場で附属中学に来ていたのかは知らないが、何年もの間、立体版画の年賀状が届いていた。
お袋も用具一式を購入し、年賀状は毎年その「立体版画」だった時代がある。
当時から、美術に対する興味や情熱はかなりのものだったのだろう。

B型のお袋は自由な生き方を愛し、当時の言葉で言えば「職業婦人」であることに大変な誇りを持っていた。
附属中学は国立だから、同じ公務員でも県の職員だった実父よりも給料がよかったという話も何度も聞かされたものだ。
実父は演歌が好きで、ギターの弾き語りはセミプロ並みだったらしい。でも、お袋は演歌を「下品なもの」としか見ていなくて、僕にはクラシック音楽を聴かせようとした。
そういうところも含め、お袋と実父は性格も趣味も合わず、僕が4歳くらいのときに離婚する。
当時、実父は出張先の新潟に愛人がいて、お袋はお袋で親父(養父)から言い寄られていて、離婚は時間の問題だったのだろう。
両親が離婚したときのことは少しだけ覚えている。
  1. お袋から「離婚してもいいか」と訊かれたので「いいよ」と即答した
  2. 仲のよかった飼い犬が実父と一緒に去って行くのが悲しくて、実父が出ていくトラックに向かって「クマ~ クマ~」と何度も犬の名前を呼びながら泣いた
  3. 通っていた幼稚園で、ある朝、園児全員の前で園長先生から「今日から添田くんは細野くんになります」と紹介された
この3つは特に記憶から消えないで残っている。

その後、お袋は今の親父と再婚(親父は初婚)し、2人で教師を辞めて上京した。

上京後、親父は学研の編集者として途中入社し、お袋は日本看護協会に事務職員として就職した。そこで、看護協会出身の女性代議士に見込まれ「私の後継者はあなただ」と言われたそうだ。
お袋もそれに応えて、ゆくゆくは代議士として政治の世界に入るつもりでいた。
しかし、物心ついたときからずっと鍵っ子だった僕は、毎日、長屋で1人留守番をしている生活に耐えられず、ある日、芝居を打った。
夜遅くなっても帰ってこない両親を待ち、台所の床の上で縮こまって寝たふりをしたのだ。
この姿を見れば親として少しは気持ちが揺らぐのではないか……と。
その夜、2人は一緒に帰ってきた。
「よしみつ、ここでお腹空かせたまま寝ちゃったのね」
「かわいそうに……」
……みたいな会話を、僕は寝たふりをしながら聞いていた。この頃から知能犯だったのだ。
作戦はまんまと成功した。
お袋はしばらくして日本看護協会を辞めた。
「あのときやめていなければ、今頃は政治家だった」という、半ば恨み言のような言葉を、僕は大人になってからも何度か聞かされた。

ところが、これでお袋が戻ってくると思ったら、そうはいかなかった。
お袋が妊娠したのだ。
妊娠したとき、お袋は僕に「やっぱりパパの子も生まないと、パパに悪いから」と言った。自分の連れ子だけを育てさせるのは気が引ける、ということだ。
ところが、親父のほうはそんな風には考えていなかったようで、自分の血を引いた娘が生まれても、あまり興味を示さず(赤ん坊というものにどう接していいか分からなかったようだ)、ひたすら会社人間として夜中まで働き続けていた。

妹の赤ん坊時代、我が家は地獄のようだった。
異常なまでにカンの強い赤ん坊で、一日中大声で泣き続ける。声が涸れ、ひきつけを起こしたように顔が紫色になっても泣き止まない。
ようやく寝たかと思うと、ほんのちょっとした物音で目を覚まして、途端にまた大声で泣き続ける。
おかげで、我が家ではテレビも音を出して見ることができず、イアホンアダプターというイアホンを3本分岐させてつなぐ器具を買って、イアホンでテレビを見ていた。
それでも、うっかりイアホンが引っこ抜けてテレビから音が出た途端にギャ~と泣き始める。途端にお袋が般若のような顔になって「何やっているの!」と僕に向かって怒鳴る。一家全員が極度の育児ストレスになって、暗い家庭になった。
こうした経験もあって、僕は、自分は絶対に子供は作らないと、小学生のときにすでに決めていた。(実際、そうした)

その地獄のような日々がようやく終わり、妹が泣かなくなった頃、お袋は今度は再就職ではなく、芸術の道へ進むと言い出した。
このまま専業主婦として一生を終えるなど考えられない。自分しかできないことを探して、一生それを追求する、というわけだ。
最初はリボンフラワーとかに手を出したりしていたが、すぐに先生を抜いてしまい「こんなものは一生かけてやるものじゃない」とやめて、その後に見つけたのが創作人形作家という道だった。
人間国宝の平田郷陽という人形師の作品に感銘を受け、平田氏が主宰する「陽門会」というグループの門を叩くが、平田氏がこれ以上、弟子は取らない方針だと知り、次に、陽門会のメンバーひとりひとりに弟子入り志願し、ようやく直弟子の一人・大谷鳩枝氏に弟子入りがかなった。

それからのお袋は、人形一筋だった。
大谷氏の下で10年、平田郷陽氏の秘伝である技法を一通り伝授され、マスターすると、大谷氏のもとを離れ、独立の道を探る。
最初は神奈川県展に応募したが落選。
入選作の展示を見て「あんな下手な作品が私の作品より上なはずはない」と、人形部門の審査員に直接電話をして「なぜ落ちたんでしょう」と問い質した。その勇気というか行動力はすごいなと思う。そういうところはまったく僕には遺伝しなかったのが残念だ。
お袋の気迫に押されたのか、審査員をしていた人形師は「あなたの作品は応募作の中ではいちばん優れていたけれど、私もやはりプロなので、自分の弟子たちを入選させてしまうのですよ。美術界というのはそういうものです」と、これまた正直に答えたそうだ。
それでもお袋は引き下がらない。「では、先生が所属しているグループに私も入れてください」と申し出て、しっかりその美術家グループに入会してしまった。
その会は日展系の会で、平田郷陽氏らの伝統工芸展グループとは対立、とまではいわないまでも、別系統だった。
お袋自身、人形に関しては日展よりも伝統工芸展のほうが格が上で、技術的にもすぐれた作家が集まっていると思っていたようだが、とにかくなんらかのグループに所属していなければ展覧会に入選できないのだから仕方がない、と割り切っていた。

お袋が人形作家をめざすきっかけは展覧会で平田郷陽氏の作品を見たことだが、今、ネットで「平田郷陽」を検索すると、平田氏の「生き人形」(生身の人間のようなリアルな人形)ばかりが出てくる。
平田氏は生き人形を作る人形師だった父親の後を継いだが、次第にアート志向になり、伝統的な木彫木目込み衣装人形の技法で「アートとしての創作人形」を追求するようになる。
お袋が感動したのはそうなってからの氏の作品だ。
「平田郷陽先生の若い頃の生き人形は、技術的にはすごくても、芸術とはいえない」
というようなことを、お袋はよく口にしていた。

日展に応募するようになってからのお袋は、自分が作る人形はどうあるべきかについて常に悩んでいた。
その時期の作品を撮った写真が少し残っていた↓



ほんとに悩んでいるなあ。
当時の作品を僕はいっぱい見ているけれど、一度も誉めたことはない。
「こういうのなら、彫刻やればいいじゃない」
「そもそもなぜ『人形』なの? 人形ってアートなの?」
というようなことを言って挑発していた。
そのたびにお袋は「そうねえ……」と言葉を濁していたように思う。
お袋の中でも「人形」とはなんなのか、という答えが明確には出ていなかったのだろう。

悩みながらも彼女は日展には毎年応募し続け、10年連続で入選も果たし、「日展会友」の資格も得た。
日展では伝統工芸的な人形は馴染まなかったので、「日展向けに」作っていた、ということもあるだろう。
その当時はバブル期とも重なり、お袋の人形は有名ホテルに100万円で買い上げられたりもした。
恩師である日野原重明氏を通じて、母校の聖路加看護大学にも1体「希望」という名の人形を贈っている。
聖路加看護大学の玄関ロビーでは、マントルピースとその上に「希望」と題した人形が来訪者を迎えています。(略)
マントルピースの上に飾られている人形は、昭和22年厚生科を卒業した鐸木能子(旧姓 細野)さんが本学の新校舎落成を祝い1998年(平成10)に贈呈して下さったものです。
鐸木さんは群馬県伊勢崎市の蝋燭問屋の生まれで、前学長 常葉惠子先生と同期生ですが、1965年以降人形作家になり日展会友、新工芸会員としてアーティスティックな創作人形を創る一方、伝統技法を生かした新しい気風の雛人形作家として活躍しました。
鳩を抱え、空を見上げている女性の人形像は、平和と希望を表現した作品で、伝統技法に加えた、鐸木さん独自の人形技法をみることができます。
Lukapedia: 聖路加看護大学 ともにつくる歴史事典 「由緒ある品々」より)

この頃の作品は写真を撮らずに売られていったため、今ではどんなものだったのか、僕の記憶も薄れてきている。
人形というよりは立体造形作品のようなものが多かった。そういうものに対して、僕はずっと疑問を抱いていた。
「こういうのを作るなら、木や石を彫り上げたもののほうがずっと力強いし、感動もある。粘土や布を使って作るようなものじゃないんじゃないか」と。
お袋は僕の酷評を否定はしなかった。そんなことは重々分かっている。でも、「大人の事情」があるから……ということだろう。
ただ、彼女の中での美意識や「芸術性」に対するセンス、理解力は揺るぎないものだった。
ダサい、つまらないと感じるものに対しては容赦なかった。その自信がどこからくるのかは分からない。
彼女の中では芸術的価値は100%自分の価値観で決まるものだった。
晩年、お袋を古殿町や棚倉町まで案内し、小林和平の狛犬を見せたが、手放しで興奮し、感動していた。
世に知られているかどうかは関係ない。いいものはいい。くだらないものはくだらない。自分の審美眼に適わないものは「全然ダメね」と、ズバッと切って捨てる。

そんなお袋が雛人形という活躍の場を見つけたきっかけは、所属するグループの先輩であった彫金の作家さんから言われた言葉だったそうだ。
「鐸木さんは人間国宝の平田郷陽さんの孫弟子でしょう? せっかく平田先生の秘伝技術を学んでいるんだから、それを生かさないのはもったいない。あなたは雛人形をやりなさい。雛人形はいいですよ。あれは食えるジャンルでもありますから」
そう言われたお袋は、平田郷陽氏の流れを汲んだ伝統工芸の技法で雛人形を作るという挑戦を始めた。

雛人形を作り始めた頃。髙島屋で展示できるようにもなった


それが成功し、お袋の雛人形を見て集まってきた弟子たちも抱え、「木の鐸会」というグループも作った。

雛人形は大きく分けると立ち雛と座り雛があり、立ち雛は木目込み、座り雛は衣装人形(衣装を着せた人形)が多い。
しかしお袋は自分が学んだ木彫木目込みの技法を座り雛にも取り入れようとした。
十二単の衣装を「着せる」のではなく、「木目込む」には手間と技術が必要になる。それまでは誰もそんなことはやっていなかった。
その技法は年々磨きがかかっていき、お袋もようやく「自分が築き上げた」と自信が持てる人形と向き合えるようになった。

1995年、神奈川新聞の記事(Clickで拡大)



木目込みで十二単の座り雛を作り始めた頃の作品

座り雛の十二単衣装を「着せる」のではなく「木目込む」ことに成功した



雛人形の歴史を振り返りながら、立ち雛にもいろいろなスタイルを取り入れようとした



雛人形を始めた頃は、10回入選すれば日展会友になれるから、ということで、日展への出品作だけは作っていたが、会友になった後は雛人形一筋になっていった。
晩年は、「今年のはいい出来よ。続けているとうまくなるものなのねえ」などと、嬉しそうに言っていた。

2007年5月。写真を撮ってくれと呼ばれたときのお袋
以下は↓そのときに撮ったもの。ほぼ遺作のようになってしまった








お袋は80になる直前、電話でこう言っていた。
「死ぬ前って、こんな気持ちなのね。でも、いい人生だったわ。そう思うでしょ?」

脳梗塞の兆候が現れて認知症状が顕著になり、脳卒中で倒れるのはそれからまもなくのことだった。

……とまあ、これがお袋の人生。

自己中心で、わがままで、周囲の人間を巻き込んで不幸にすることもあったけれど、死ぬまで好きなように生きたのだから、その点では幸せな人生だっただろう。
ただ、死に方は最悪だった。
こういう死に方だけはしてはいけない、させてはいけないということを身を持って教えてくれたお袋。
死んでだいぶ経つけれど、このページは僕なりの「ネット葬」かな。

今年も木の鐸会の雛人形が展示・販売されます
日本橋髙島屋美術工芸サロン(6F):2018年1月10日(水)~1月16日(火)
横浜髙島屋美術画廊(7F):2018年1月24日(水)~2月6日(火)
売れた作品は展示から消えていきますので、全作品が揃っている初日にどうぞ!
↑写真:木の鐸会代表・鐸木郁子の作品(日本橋髙島屋出展)



医者には絶対書けない幸せな死に方2017/12/19 11:04

『医者には絶対書けない幸せな死に方』

本当に「医者には書けない」のか?

『医者には絶対書けない幸せな死に方』(講談社プラスα新書)の発売まであとひと月になった(2018年1月18日発売)。
この本の企画を講談社に持ち込んでからすでに1年以上が経過している。
企画提案以降、何度も「テスト本」を印刷・製本した。最終版のpdfの奥付記録はこうなっている。
  • 2016年12月9日 テスト版原稿 Version1.0
  • 2016年12月19日 Version1.2
  • 2017年1月6日 Version2.0
  • 2017年1月8日 Version2.1
  • 2017年2月23日 Version3.0
  • 2017年3月1日 Version4.0
  • 2017年3月11日 Version4.1
  • 2017年7月15日 Version5.1  入稿前校正用
  • 2017年7月21日 Version5.2
  • 2017年7月26日 Version5.3 
  • 2017年9月10日 Version6.4
  • 2017年10月16日 Version7.0  初稿戻しバージョン
  • 2017年10月26日 Version 8.0 校正確認バージョン
  • 2017年12月15日 Version8.1 出版前最終確認バージョン

「医者には書けない」と銘打っているからには、その根拠を説明する責任があるかもしれない。
もっとも、このタイトルが最終的に決まったのはつい先日で、僕が決めたものではない。
企画を持ち込んだ段階で僕が仮につけていたタイトルは、
死に時・死に方・死んだ後
というものだった。
しかしすでにその段階で、まえがきには、
「死に方」についての本は医療関係者や宗教関係者によって書かれることが多いのですが、私はそのどちらでもありません。しかし、医療や宗教の現場とは無関係だからこそ、体裁を繕わず、本音で、踏み込んで、あるいは一線を「踏み越えて」書けることがあります。
という一文は入っていた。

企画会議は通らず、ペンディング扱いになった。上のテスト本奥付記録で3月から7月まで4か月空いているのはそのためだ。
編集のTさん(僕は彼には全幅の信頼を置いている)は編成会議には「死ぬ技術」というタイトル、コンセプトで提案したそうだ。
これには脱帽した。なるほど「死ぬための技術書」というコンセプトか……。それなら確かに「医者や宗教者には書けない」だろう。
この「技術」という大胆なキーワードを得た上で、以後、何度も書き直しを重ね、しぶとく食い下がった。それでようやくGOとなり、入稿を始めたのが夏。それから校了までも、大きな書き直しを何度も重ねた。

人の終末期においては、苦しみを加えるだけの延命治療はやめて「自然死」をうながすべきだ、という意見を表明する医師は増えている。
僕の手元にある参考書籍の著者をざっと拾ってみても、石飛幸三、長尾和宏、中村仁一、久坂部羊、西村文夫……みんな医師である。
内容はどれも納得で、僕もずいぶん参考にさせていただいたし、彼らの姿勢には心から敬意を表したい。

自然は、私たち生き物が、穏やかに最期を迎えられるようにセットしてくれています。それを人工的な延命措置を施して自然の摂理に逆らおうとすると、生き物に与えられた自然の恩寵(神の恵み)を受けられなくなります。
身体が最後に代謝を終えるのなら、飛行機が着陸するのなら、もう水分も燃料も無理に補給することはない、欲しくなくなるのですから食べなければよいだけ、そのうち眠くなって夢見心地、老衰の最終章はそんな姿です。
「平穏死」を受け入れるレッスン 自分はしてほしくないのになぜ親に延命治療をするのですか? 石飛幸三

……「医者には絶対書けない」どころか、すでに多くの医者が書いていることじゃないか、と言われそうだ。
確かに、「自分は医師として無理な延命治療には反対である。なぜなら……だからだ。この実態をあなたも知った上で、自らの死に向き合ってほしい」……という趣旨の本は多い。
彼らは、終末期患者と接した経験をもとに「こんな死なせ方はよくない」「もっと人間らしく、穏やかに、自然に死なせるべきだ」という「意見表明」をしている。しかし、では、具体的にどうすればいいのか、という「技術」についてはあまり語っていないように思う。医療の現場から発信できる情報は案外限られているし、実際の医療制度の問題などにまで踏み込むのは現役の医師として躊躇われるということもあるだろう。

「自然死がいい」と言われても、医者ではない我々にはできないことがたくさんある

こうした本を書いているあなたのような素晴らしい医師がそばにいてくれるならいいけれど、実際には在宅看取りに理解を示し、家まで来てくれる訪問医師はほとんどいない。
「あなたの街のホームドクター」を標榜している、いつもにこやかで優しいかかりつけのお医者さんも、いよいよ最後になると「ここから先はうちでは無理なので、ちゃんとした医療措置のできる急性期病院へ」と言って、長い間診てきた患者を急性期病院に送り込むことが多い。
その大病院では、患者が入って来るなり、医療点数の高い検査や投薬を徹底的にやり、それで死期が先送りされると、今度は入院基本料が下がって「まるめ」にされてしまう90日前には一転して追い出しにかかる。

介護施設にしても、自分のところで看取りまでするというポリシーを持ったところは極めて少なく、最後、食べられなくなったら病院へ送り込むことがほとんどだ。石飛さんのような自然死をテーマにしている医師が専属で常駐している施設など、日本中探しても数えるほどだろうし、見つかったとしても人気が高くて簡単には入れない。
また、石飛さんがいるのは特養だが、今は要介護3以上じゃないと特養には入れない。石飛さん自身、言っている。
特別養護老人ホーム(特養)の入所は、厚生労働省が要介護3以上に定めたので、衰えが進んで重症化している人ばかりが入ってくるようになりました。以前は、認知症で徘徊する人や「帰りたい、帰りたい」と騒いだりする人など体力的に元気な人がいましたが、いまはそんな元気な状態で特養に入ってくる人は珍しくなりました。「平穏死」を受け入れるレッスン

要介護3というのは、ざっくりいえば、排泄、食事、入浴など、日常の行動ほぼすべてに介助が必要で、認知症の程度も重い状態だ。そういう状態になって初めて特養に入る「権利」を得られるわけで、今、普通に生活できている人が考える「幸せな死に場所」とはかけ離れているだろう。

頭はしっかりしていても金がない老人が安心して過ごせる(穏やかに死ねる)場所や環境を見つけるのは極めて困難なのだ。

金さえあれば快適な施設は見つかるかもしれない。政治家や有名人などセレブ御用達病院として有名な聖路加国際病院と提携している「聖路加レジデンス」は、65歳から79歳まで入居した場合、2億200万円~5億5200万円(税抜き)という金額が提示されているが、もちろん、一般人がそんな金を持っているはずもない。
貧富の差が広がり、年金や福祉関連の制度が崩壊していく今後、「幸せに死ぬ」ことはますます難しくなっていくだろう。医者が書く「死に方論」では、そうした視点からの具体的提言も乏しい。

また、自分では、病院には絶対に行かず、家で静かに死ぬ覚悟ができていたとしても、いざとなると家族や親族がそれを許さない可能性が高いだろう。その危険を回避するにはどうすればいいのか?

その他もろもろ、「穏やかに、幸せに死ねない」要因が山のようにあって複雑に絡み合うのが普通だ。それを解決していくための個々の技術については医者たちはあまり教えてくれない。
さらには親の認知症問題や、老後破産の問題などが重なり、解決しなければいけない問題は次から次へと増えていき、「終末期の延命治療を拒否する」という話だけでは対応できない。


『医者には絶対書けない幸せな死に方』では、現時点で考えられる限りの問題点を洗い出して整理し直し、その対応策──「技術」について、極力「具体的に」提案していった。
医者や病院とつき合う技術幸せに死なせてくれそうな施設を見つける技術認知症につぶされない技術老後破産せずに楽しく生ききる技術、そして最後には「自ら死ぬ(自殺の)技術」にも言及している。

本書を何度も何度も書き直している期間は、父の認知症と老後破産に向き合い、介護生活を実際に経験していく期間でもあった。医療や介護の現場で働く人たちの生の声にも数多く触れることができた。
介護保険制度や介護施設関連の裏事情については、ルポライターなどによる「告発もの」はよく目にするが、それを知った上で、具体的にどんな解決策があるのか、どうやって「死に場所」を見つければいいのかを書いている本は少ない。もちろん、医者が書いた「死に方の本」も、その方面のことまでは言及していない。
そうしたもろもろが「医者には絶対書けない」部分なのだと思っている。

本書の内容については⇒こちら(http://takuki.com/shinikata.html)をご参照ください。





医者には絶対書けない幸せな死に方
「医者には絶対書けない幸せな死に方」(講談社プラスα新書)
2018年1月18日発売  内容紹介は⇒こちら

以下のいずれからでもご購入できます(Click)
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老人や庶民から「合法的に」金を奪う商法2017/11/18 11:52

切り替えさせられた新カードの説明書きより

プリペイドカードには気をつけろ

ときどき行くスーパーのカードが切り替わるとかで、分厚いプリペイド機能付きのものになった。その切り替えで、おばさんが客に5分くらい説明をする(その説明を聞かないと旧カードから新カードに切り替えできない)。
プリペイド機能を使うとポイントが2倍になります。チャージはお釣りが出ませんので、1万円札を入れたら1万円がチャージされます。1年間使わないとポイントが消えます。……なんだらかんだら。

まとめるとこういうことだ。

  • 買い物200円ごとに1ポイント。500ポイント単位で支払いに適用できる⇒500円値引きしてもらうまでには10万円の買い物が必要
  • ポイントの有効期限は最終利用日から1年間。⇒1年以上使わないと貯まったポイントは消える
  • プリペイドカード機能で支払うと200円ごとに2ポイント。毎月の支払い合計が2万円を超えるとポイントのつきかたが上がる。
  • クレジットカードで支払うとポイントはつかない(そもそもその店はクレジットカード非対応店)。
  • カードへのチャージは専用機で現金のみ受け付ける。使えるのは紙幣のみ。釣りは出ないので、1万円札を入れると自動的に1万円チャージになる。一旦チャージした金の返金はできない
  • チャージ金額の残額有効期限は最終支払いまたは最終チャージから4年間⇒4年間使わないと残高が失効する。
説明を聞いているのは僕を含めて年寄りばかり。
結局、プリペイドチャージさせて、使わないままにさせる魂胆じゃん。プリペイドカードって、それが狙いでしょ。
利用者が死んじゃったり、店が閉店したり、チャージしたままカードを紛失したり、カードの存在を忘れたりして死蔵カードになるのを狙っている。

認知症になったままひとり暮らしを続けていた親父の部屋を片づけたときにも、使った形跡のないプリペイドカードがいっぱい出てきた。コンビニ系、通信会社系、交通系……。そのほとんどに数千円程度の残高があった。
こうした「死蔵金」の総額はものすごい金額になるだろうが、ニュースなどで発表されたことはないと思う。
プリペイドカードのチャージ残高は一種の「預金」みたいなものだが、死蔵カードの残額は、人の預金を「合法的に」奪える商法といえる。

年会費のかかるカードにも気をつけろ

昔、某電器店チェーンのカードを作らされた。カード入会は無料です。カード会員様は今日から特典が適用され、今お買い上げの商品も特価になります……とかなんとかで、じゃあ、作らないほうが損だよね、と応じたのだった。
ところが、その直後にその店は撤退して、生活圏からは消えてしまった。そのカードはクレジット機能付きだったが、メインのカードではなかったのでそのまま。以後、年会費1080円が毎年銀行口座から引き落とされていた。
先日、ようやく電話して解約できたのだが、それも電話、なかなかつながらなくて、何度かかけ直してようやくつながった。
30年くらい、使わないまま年会費だけ取られていたから、軽く3万円以上、金を捨てていた(巻き上げられていた)わけだ。

こういうのも、年寄りはいっぱいカモにされている。

今の日本のGDPだの経済なんとか指数だのって、そういう「死んだ金」「合法的詐欺まがいの経済活動」が占める割合、相当なもんじゃないのかな。これから超高齢化社会になるから、この手の「高齢者の預金を合法的に吸い取る商法」はどんどん盛況になるだろう。

そういえば、先日、親父のケータイを解約しに行った。
これもものすごく面倒で、本人が署名捺印した委任状を作成し、本人の身分証明書(保険証など)のコピーを用意し、代理人(僕)の身分証明書も提示し、店頭でしか手続きができない。
ケータイショップは常に混んでいて待たされるのが分かっているから、なかなか動けない。でも、放置していれば基本料金が毎月親父の口座から引き落とされる。介護費用をまかなわなければならない重要な口座から、だ。
で、ようやく解約できたのだが、なんとか割の縛り期間が今年に切り替わったばかりだったので、違約金を1万数千円とられた。それでも次の契約切り替えまで最低コースで契約を続けるよりは安いということで、解約。

なんか、この国の経済はどんどん世知辛く、貧乏くさく、詐欺的になっている。
政治家は自分の財布から金を出さないことが多いから、こうした「空気」を感じることもできないまま、側近やらからブリーフィングされる数字だけで「経済が~」って演説をぶつ。
脱力だなあ。

「経済」という語は中国晋代の書『抱朴子』(外篇)にある「経世済民」を略したものだという。
「経世済民」とは「世を治め民をたすける」という意で、現在ではむしろ「政治」に関わるもろもろの事柄をさしていたそうだが、現在の経済は、やりたい放題やって金儲けする者たちのマジックワード。どうせ時が「」てば「」んだことになって誰も責任を取らない──の略かな。

















矢部宏治の憲法観2017/10/15 15:35

■矢部宏治の憲法観(オレンジ本よりまとめ) 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(オレンジ本)のP.184-186部分を要約

「日本国憲法の真実」を極限まで簡略化すると、
  1. 占領軍が密室で書いて、受け入れを強要した。
  2. その内容の多く(とくに人権条項)は、日本人にはとても書けない良いものだった。

  • 占領軍が敗戦国の憲法草案を書いて、それを日本人自身が書いたことにしたことで、憲法という国家の根幹に大きな闇が生まれてしまった。
  • もしあのとき日本人の手で憲法を作ったら、その内容が現在の日本国憲法に比べてすぐれたものになる可能性はゼロだっただろう。
  • しかし、独立時に一度、GHQ憲法草案の良い点をできるだけ生かしながら、自分たちの手で作っておけば、少なくとも現在のように、立憲主義を否定する、まるで18世紀に戻ったような改正案を掲げた与党が選挙で圧勝するという、信じられないような状況は避けられたはず。
  • 近代憲法とは、いくら内容が良くても、権力者から与えられるものではない。(政府が作成してもいけない)
  • 憲法についての日本の悲劇は、「悪く変える」つまり「人権を後退させよう」という勢力と、「指一本触れてはいけない」という勢力しかいないこと。「良く変える」という当然の勢力がいない。もちろんそれは、変えるとかならず悪くなってしまうという現実があったから。
  • 密約のせいで、戦争ができるようになった「日本軍」を、自分たちの指揮の下で使いたいというのは米軍の過去60年の欲求。それを食い止めるために「指一本触れてはいけない」という護憲神話がこれまで戦術論として有効だったことは事実。しかし、そうして問題を先送りできる時期は過ぎた。
  • 2014年7月、安倍政権は歴代自民党政権が自粛してきた「集団的自衛権の行使容認」という解釈改憲を強行した。このままでは、おそらく日本が海外で、アメリカの侵略的な戦争に加担することを止められないだろう。

結論:
問題は、私たち日本人は1946年も、そして2012年(自民党改憲案)も、国際標準のまともな憲法を自分たちで書く力がなかったということ。個人でいくら正しいことを言っている人がいても意味がない。そうした意見をくみあげ、国家レベルでまともな憲法を書く能力が、今も昔も日本にはない。その問題を、これから解決していく必要がある。(p.190の結び)


枝野幸男らが主張する「改憲に反対するわけではない。しかし、安倍政権のもとでの改憲には絶対反対」というのも、結局はこういうことなのだろう。
















矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読んだ2017/10/15 12:36

矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読んだ。
筆者の頭のよさと勇気に脱帽である。

あとがき部分が特に印象に残ったので、一部を抜粋・要約してみる。


野田首相の自爆解散によって民主党が壊滅し、安倍政権が誕生してから、日本はふたたび戦前のような全体主義国家にもどろうとしているかのように見える。
(略)

GHQが日本国憲法の草案を書く3か月前(1945年11月)、当時42歳だったマイロ・ラウエル陸軍中佐は憲法改正のための準備作業として、大日本帝国憲法(明治憲法)を分析するよう命じられる。
1か月後、彼は「日本の憲法についての準備的研究と提案」というレポートを司令部に提出した。その結果は次の通り。

「過去の日本における政治権力の運用を分析した結果、数多くの権力の濫用があったことがわかった。そうした濫用が軍国主義者たちに日本政府を支配させ、国政を私物化することを可能にしてきた。
 日本に民主主義的な傾向がしっかりと根づくためには、次のような悪弊を是正することが必要である。

  • 国民に、きちんとした人権が認められていない
  • 天皇に直結し、国民の意思を反映する責任のない憲法外の機関がある
  • 裁判所が裁判官ではなく検察官によって支配されている。両者はともに天皇の意志の代理人である
  • 政府のあらゆる部門に対して、憲法によるコントロールが欠けている
  • 政府が国民の意思を政治に反映させる責任を負っていない
  • 行政部門が立法行為をおこなっている


↑この「軍国主義者たち」あるいは「天皇」を「安倍一強」に替えれば、そのまま今の日本の状況を表しているのでは?

政治権力の濫用が安倍たちに日本政府を支配させ、国政を私物化することを可能にしてきた。
  • 安倍に直結し、国民の意思を反映する責任のない憲法外の機関がある(官邸による官僚支配)
  • 政府のあらゆる部門に対して、憲法によるコントロールが欠けている(憲法解釈変更による集団的自衛権容認)
  • 行政部門が立法行為をおこなっている(「私は立法府の長です」)

……で、矢部氏の憲法に対するスタンスは、枝野幸男氏にとても近いのではないか、とも感じた次第。
とにかく今の状況を「すこしでもまともな方向に」向かわせるよう、国民も努力しなければいけない。
衆院選2017。こんどこそ「最後のチャンス」だろう。


















投票前から事実上当選している候補者が70人2017/10/11 18:27

コラージュではないそうだ。落語か!

投票前から事実上当選している候補者が70人

昨日、衆院選が公示された。
名づけるなら、「証拠隠滅解散」からの「逃げ恥選挙」というところだろうか。
総理大臣が「完全人払い」をしてブロックアウトした農地の前で公示後第一声を上げるなど、まるで落語のようなことになっているが、こんなひどいことになっても、選挙後はしっかり自公で300議席、希望と維新を合わせた「改憲勢力」が軽く8割を超えそうだという予測もある。
愚痴っていても身体に悪いだけなので、ここは少し視点を変えて、「選挙で政治家は選べるのか?」というテーマを扱ってみたい。

現在、日本の衆議院選挙は「小選挙区比例代表並立制」と呼ばれる形態で、小選挙区289と全国を11ブロックに分けた比例区176の合計465議席を選挙によって決める。
比例区は政党名で投票され、政党が獲得した票数の割合で分配された議席数によって、政党があらかじめ提出した候補者名簿の上位から順番に当選していく仕組み。
政党はその届け出名簿に掲載する候補者に順位をつけなければならないが、小選挙区にも立候補している候補者の場合、同一順位で掲載し、小選挙区での惜敗率(当選者の得票の何割に迫ったか)の高い順に当選させるということができる。
多くの政党では候補者への公平を期すため、小選挙区との重複立候補者には同一順位をつけるが、公明党や共産党はすべての候補者に順位をつけている。
また、自民党などの他党でも、小選挙区には立候補させず、単独1位や2位で比例区のみに立候補させたり、重複立候補者にも順位をつけて特定候補を確実に当選させようとするブロックもある。
例えば、比例区九州ブロックの自民党は、

  1. 園田 博之(75 前 10 元・官房副長官)単独1位
  2. 宮路 拓馬(37 前 1 元・総務省職員)単独2位
  3. 今村 雅弘(70 前 7 元・復興相)単独3位
となっていて、前回8名を当選させている自民党の上位3位までの単独順位候補者であるこの3名は、名簿に登載された時点で事実上当選が決まっている
今村候補は、復興相として記者会見の際に記者に暴言を吐いて名をはせた人物だが、「あんなとんでもない人間を議員にさせておくわけにはいかない」と思っても、選挙で落選させるわけにはいかないわけだ。

候補者名簿が出揃ったので、今回の選挙で「すでに当選している候補者」たちのリストを作成してみた。
(  )内は左から年齢、前職・元職・新人の別、当選回数、主な経歴……である。
2017衆院選 投票前から当選が決まっている候補者一覧 ★比例区で単独1位、2位、3位で名簿掲載されている候補者のうち、2014衆院選の比例区結果からすでに「当選している状態」の候補者

■北海道(定員8)

自由民主党:

  1. 渡辺 孝一(59 前 2 党総務副部会長)単独1位
  2. 鈴木 貴子(31 前 2 元NHK職員)単独2位
 前回当選者は3名。鈴木宗男の娘はすでに事実上当選。

 

公明:

佐藤 英道(57 前 2 元農水政務官)単独1位
 前回当選者1名

 

共産:

畠山 和也(46 前 1 党中央委員)単独1位
 前回当選者1名
 
 

■東北(定員13)

自民:

江渡 聡徳(62 前 6 元防衛相)単独1位
 前回当選者5名

公明:

  1. 井上 義久(70 前 8 党幹事長)単独1位
  2. 真山 祐一(36 前 1 党青年副委員長)単独2位
 前回当選者2名

希望の党:

寺田 学(41 前 4 元首相補佐官)単独1位
この人は、2010年6月、史上最年少で内閣総理大臣補佐官に就任し、菅内閣・菅第1次改造内閣・菅第2次改造内閣・野田第1次改造内閣・野田第2次改造内閣・野田第3次改造内閣で務めた(Wikiより)。つまり旧民主党、民進党の内実や民主党政権時代の官邸内情報を知る人物。そういう人物が希望の党に重用された点に注目すべきだろう。

立憲民主:

  1. 岡本 章子(53 新 元・仙台市議)単独1位・宮城1区重複
  2. 山崎 誠(54 元 1 元・横浜市議)単独2位
  3. 阿久津 幸彦(61 元 3 元・内閣府政務官)単独3位
 前回民主党として4名当選。岡本候補は東北ブロックの立憲民主党唯一の候補なので、単独1位は不自然ではない。

共産:

高橋 千鶴子(58 前 5 党中央委員)単独1位
 前回1名当選


■北関東(定員19)

維新:

青柳 仁士(38 新 元・国連職員)単独1位・埼玉4区重複
 前回3名。青柳候補は、前回、前々回は比例復活も果たせずに落選。今回、豊田真由子候補と同じ選挙区ということで、選挙区はマスコミに注目されているが、なぜこの人だけが他の4人の重複立候補者を差し置いて単独1位になっているのか不思議。

公明:

  1. 石井 啓一(59 前 8 国土交通相)単独1位
  2. 岡本 三成(52 前 2 外務政務官)単独2位
  3. 輿水 恵一(55 前 2 党遊説局長)単独3位
 前回3名

共産:

塩川 鉄也(55 前 6 党中央委員)単独1位
 前回2名なので、梅村 早江子(53 前 1 党准中央委員)単独2位・埼玉15区重複も極めて有力。


■東京(定員17)

公明:

  1. 高木 陽介(57 前 7 党幹事長代理)単独1位
  2. 高木 美智代(65 前 5 厚生労働副大臣)単独2位
 前回2名

共産:

  1. 笠井 亮(65 前 4 党政策委員長)単独1位
  2. 宮本 徹(45 前 1 党中央委員)単独2位・東京20区重複
 前回3名

維新:

木村 剛司(46 元 1 元・墨田区議)単独1位
 前回3名(今回も3名立てているが、前回ほど維新に票が集まるとも思えないので……)


■南関東(定員22)

自民:

宮川 典子(38 前 2 文部科学政務官)単独1位
 前回8名

公明:

  1. 富田 茂之(64 前 7 党幹事長代理)単独1位
  2. 古屋 範子(61 前 5 党副代表)単独2位
  3. 角田 秀穂(56 前 1 党千葉県副代表)単独3位
 前回3名
 

共産:

  1. 志位 和夫(63 前 8 党委員長)単独1位
  2. 畑野 君枝(60 前 1 党中央委員) 単独2位・神奈川10区重複
 前回3名なので単独3位の斉藤 和子( 43 前 1 党准中央委員、千葉13区重複)も有力。


■東海(定数21)

公明:

  1. 大口 善徳(62 前 7 党国対委員長)単独1位
  2. 伊藤 渉(47 前 3 党愛知県代表)単独2位
  3. 中川 康洋(49 前 1 党三重県代表)単独3位
 前回3名

共産:

  1. 本村 伸子(45 前 1 党准中央委員)単独1位
  2. 島津 幸広(61 前 1 党准中央委員)単独2位
 前回2名

維新:

杉本 和巳(57 元 2 党県代表代行)単独1位・愛知10区重複
 前回3名なので、単独2位の喜多 義典(50 新 党事務局長代理)も有力か


■北陸信越(定数11)

自民:

山本 拓(65 前 7 元・農水副大臣)単独1位
 前回5名

公明:

太田 昌孝(56 新 党長野県代表)単独1位
 前回1名
 

共産:

藤野 保史(47 前 1 党中央委員)単独1位
 前回1名
 

立憲民主

  1. 西村 智奈美(50 前 4 元・厚労副大臣)単独1位・新潟1区重複
  2. 松平 浩一(43 新 弁護士)単独2位
 前回民主党として3名


■近畿(定数28)

公明:

  1. 竹内 譲(59 前 4 元・厚労副大臣)単独1位
  2. 浮島 智子(54 前 2 (元)環境政務官)単独2位
  3. 浜村 進(42 前 2 党青年副委員長)単独3位
  4. 鰐淵 洋子(45 新 元・参院議員)単独4位
 前回4名
 

自民:

奥野 信亮(73 前 4 総務副大臣)単独1位
 前回9名

維新:

森 夏枝(36 新 党府女性局長)単独1位・京都3区重複
 前回8名。なぜこの人だけが重複なのに単独1位になっているのか? 京都3区に超大物が出ているわけでもないのに……
 

希望:

  1. 樽床 伸二(58 元 5 元・総務相)単独1位
  2. 井上 一徳(55 新 元・防衛省職員)単独2位・京都5区重複
 ここもなぜ井上氏だけが単独2位? ちなみに京都5区は候補者5人全員が新人なのに

共産:

  1. 穀田 恵二(70 前 8 党国対委員長)単独1位・京都1区重複
  2. 宮本 岳志(57 前 3 党中央委員)単独2位
  3. 清水 忠史(49 前 1 党准中央委員)単独3位・大阪4区重複
  4. 堀内 照文(44 前 1 党准中央委員)単独4位・兵庫8区重複
 前回4名。穀田氏は原発の全電源喪失危機を国会で早くから指摘していた理系のインテリで国会には是非とも必要な人材だが、確実に比例区で当選できるのだから、京都1区に立つ必要があるのだろうか。
前回京都1区の当選者は伊吹文明(自民)で、穀田氏は2位。惜敗率は72.4%。3位の維新候補者と合わせた票数は伊吹候補を軽く上回っていた。であれば、伊吹候補を倒すためには、出ない、もしくは立憲民主から1人立てて共産は応援に回るという手もあったのではないか。そのほうが反自民票を上乗せできたかもしれない。


■中国(定数11)

公明:

  1. 斉藤 鉄夫(65 前 8 党幹事長代行)単独1位
  2. 桝屋 敬悟(66 前 7 元・厚労副大臣)単独2位
 前回2名

維新:

灰岡 香奈(34 新 元・和木町議)単独1位・広島2区重複
 前回1名。ここも不思議。

共産:

大平 喜信(39 前 1 党准中央委員)単独1位
 前回1名
 

■四国(定数6)

自民:

  1. 福井 照(63 前 6 元・文科副大臣)単独1位
  2. 福山 守(64 前 2 元・環境政務官)単独2位
 前回3名

公明:

石田 祝稔(66 前 7 党政務調査会長)単独1位
 前回1名

立憲民主

武内 則男(59 新 元・参院議員)単独1位(1人しか立っていない)
 前回民主党として1名。前回は自民党が547,185票で3名、民主党は326,803票で1名だったが、もう少しで2名までいけた。今回、比例区に1人だけでいいのか? 弱気すぎないか?


■九州(定数20)

自民:

  1. 園田 博之(75 前 10 元・官房副長官)単独1位
  2. 宮路 拓馬(37 前 1 元・総務省職員)単独2位
  3. 今村 雅弘(70 前 7 元・復興相)単独3位
 前回8名。九州の自民党は強い。記者会見室で逆ギレしたあの人も、選挙をする前から当選している。

希望:

中山 成彬(74 元 7 元・文部科学相)単独1位
 極右のシンボル的人物は希望の党という看板も得て、選挙をする前から当選。

公明:

  1. 江田 康幸(61 前 6 元・環境副大臣)単独1位
  2. 遠山 清彦(48 前 3 党国際局長)単独2位
  3. 浜地 雅一(47 前 2 党福岡県代表)単独3位
 前回4名なので、4位の吉田 宣弘(49 前 1 党国対副委員長)も有力

共産:

  1. 赤嶺 政賢(69 前 6 党幹部会委員)単独1位・沖縄1区重複
  2. 田村 貴昭(56 前 1 元・北九州市議)単独2位・福岡10区重複
 前回2名



公明党と日本共産党は組織が強固で、組織内の序列もはっきりしているので、昔から比例区ではきっちり順位をつけて「絶対に当選させる議員」というものがいた。今に始まったことではない。
注目したいのは、自民、立民、希望、維新など、基本的には重複立候補者を全員1位にして公平を期している党で、単独1位、2位になっているケースだ。
抜き出してみると、

自民:
  • 渡辺 孝一(59 前 2 党総務副部会長)
  • 鈴木 貴子(31 前 2 元NHK職員=鈴木宗男の長女)
  • 山本 拓(65 前 7 元・農水副大臣)
  • 奥野 信亮(73 前 4 総務副大臣)
  • 福井 照(63 前 6 元・文科副大臣)
  • 福山 守(64 前 2 元・環境政務官)
  • 園田 博之(75 前 10 元・官房副長官)
  • 宮路 拓馬(37 前 1 元・総務省職員)
  • 今村 雅弘(70 前 7 元・復興相=記者に「出ていけ」と逆ギレした人)

これは典型的に「優遇」されている例。

希望:
  • 中山 成彬(74 元 7 元・文部科学相)
  • 寺田 学(41 前 4 元・首相補佐官)
  • 樽床 伸二(58 元 5 元・総務相)
  • 井上 一徳(55 新 元・防衛省職員)

希望の党は「抱え込みたい人材」を優先している印象を受ける。

維新:
  • 青柳 仁士(38 新 元・国連職員)
  • 木村 剛司(46 元 1 元・墨田区議)
  • 杉本 和巳(57 元 2 党県代表代行)
  • 森 夏枝(36 新 党府女性局長)
  • 灰岡 香奈(34 新 元・和木町議)

維新がこれらの人たちを優遇する理由はよく分からない。上にとって覚えのよい人たちということだろうか。

分かりやすいのは立憲民主党で、東北ブロックの単独1位岡村候補、北陸信越ブロックの西村候補の2人は、どちらもそれぞれのブロックに入る小選挙区で唯一の立憲民主党公認候補だから、この2人を単独1位にするのは自然なことであり、不公平感はない。

いずれにしても、投票前から事実上当選している状態の候補者が70名前後いるという事実を、有権者は知っておく必要があるだろう。





日光東照宮の修復作業がひどいという話(3) 陽明門2017/09/02 20:32

陽明門って「日本」じゃないよね




さてさて、ここまできたら国宝・陽明門についても言及せざるをえない。
上の写真を見て、「素晴らしい! さすがは国宝だけある」と感心する人がどれだけいるだろうか。これだけ見たら、中華街の看板かなと思うのでは?
中国にディズニーランドもどきの遊園地ができたときのような「なんだこれ感」といったら、さすがに怒られるだろうか。でも、何度見ても、そういう印象しかない。
そもそも陽明門のテイストや題材は中国そのものであり、当時の殿様がいかに中国、あるいは(中国文化を取り入れた)宮中文化に憧れていたかが分かる。アートを理解していない金持ちの家を訪ねると、庭には石灯籠とミロのビーナス像があって、玄関入ると竜の置物やら巨大な切り株に漆を塗ったやつとかが雑然と飾られている……という光景はよくあるが、そういうのに近い感覚を覚える。
中国テイストでも、一つ一つのモチーフがよく出来ているというならまだいい。しかし、どう見てもこれは違うだろう。
上の獅子↑を見ても、明らかにデッサンがおかしい。こんな前脚ありえないでしょ。
誰が見ても「稚拙」でしかないのだが、陽明門はれっきとした国宝なのである。



修復時の彩色が下手だの色が鮮やかすぎるだのという話ではない。もともとの彫刻が下手すぎるのだ↑ この獅子などは、歯(金歯)の補修もおかしいが、もとの彫りそのものがよろしくないから、どう頑張って彩色したところで国宝にふさわしい深みや凄みは出せないだろう。




う~ん、そうかのう……



ディスられてるよ、俺たち。てへぺろ



歯並びもネイルチップも、こんなのありえな~い


では、なぜ陽明門は国宝なのだろうか?

いろいろ調べているうちに、非常に興味深い論文を見つけた。
東京工業大学付属図書館の学位論文アーカイブの中にあった「古社寺保存法時代の建造物修理手法と保存概念」(平賀あまな 2001年)という論文。
ものすごい力作論文で、分厚い本一冊くらいの分量がある。非常に興味深い内容で驚かされたのだが、引用されている資料も旧仮名遣い文語体がほとんどで、全部読むのは大変なので、ここではそのごくごく一部を、内容をあまり変えないようにコンパクトにしつつ紹介したい。

まず、日光東照宮の修復は、江戸時代は20年に1度くらいのペースで小まめにやられていたようなのだが、明治以降はそう簡単ではなくなった。
それで傷みが目立つようになり、栃木県内の実業家や政治家が政府に保存を訴えたが相手にされず、やむなく明治12(1879)年に二社一寺の保存を目的とした「保晃会」が結成され、修理・保全作業に向けて動き出した。
その結果、明治32(1899)年から大正12(1923年)年にかけて大修復作業が行われた。
最初の工事監督は星野男三郎という人だが、建築家の大江新太郎(1879-1936)が明治40(1907)年から工事監督を引き継いだ。
また、大江の先輩格である伊東忠太(1867-1954)もこの工事には大いに意見を出し、影響を与えていたという。
2人の方針は「造営当初の姿を再現する」ことで、そのためには古い漆や絵の具などを剥がして新たに塗り直すという、当時ではタブーとされていた方法に踏み込んだ。欠損した彫刻は、社殿内に残された類似の彫刻物を参考にして作らせた。
大江は、東照宮の価値は「桃山時代から江戸時代への過渡期における建築や美術の様式を伝える標本」としての価値であり、材料が本物かよりも形や色がいかに当時のものに近いかが重要だと考えた。
また、復元後はできるだけその状態を維持できることを重視し、補修するにあたって江戸時代にはありえなかったコンクリートや新素材も躊躇せずに取り入れたという。
例えば、本殿の屋根はもともとは檜葺きだったことが分かっていたが、銅板に変更し、その下には当時最先端の素材でできたルーフィングを施した。東照宮の改築時には、日光の厳しい冬に耐えられるだけの対策が不足していたとの認識もあった。

しかし、古色ゆかしき風情が消えてけばけばしく生まれ変わった修復後の東照宮を見て、当時、多くの人たちは激しく非難を浴びせた。
そうした批判にも、大江と伊東は「時代を経て変化した色や形に価値を見出すのは意味のないロマンティシズムだ」という論法で敢然と反論したという。

東照宮の補修作業はその後も何度も行われているから、神厩の猿や回廊の眠り猫に限らず、今では元々はどうだったのかを知ることはほとんどできないといえるのだろう。

そういう意味では、三猿の目がパッチリして動物園の看板風になったからといって、大騒ぎすることもないのかもしれない。

大江や伊東のように「東照宮の価値は当時の建築・美術様式のサンプルとしての価値である」と考えるのはおかしくはない。江戸初期の建造物はあまり残っていないわけだから、国宝や国の重文に指定される意義も当然ある。
しかし、美術として、アートとして、芸術としての価値が高いから国宝だと勘違いしている人が多いようにも思う。
国宝である陽明門は、歴史的遺物としての価値は高いが、芸術性という点からはまったくよろしくない。これははっきり言いきっていいと思うのだ。
例えば、上に挙げた陽明門の獅子の彫刻と、長い間しまい込まれて人の目にも触れなかった宇都宮・東下ヶ橋の天棚の獅子の彫刻を並べてみれば、彫り師の力量の差は歴然だ。

陽明門↑



東下ヶ橋の天棚 後ろ鬼板↑



東下ヶ橋の天棚は大きなものだが、彫刻群は飛び抜けてすぐれているとは思わない。もっとよくできた彫刻は他の彫刻屋台などにたくさん刻まれている。一つだけパッと思い浮かぶものをあげておけば……↓

鹿沼 銀座二丁目の彫刻屋台 内欄間↑ (Clickで拡大)
ここで並べて見せたのは、獅子の彫刻としてたまたま目に入ったからにすぎない。それでも、陽明門の獅子と比べればはるかにうまいと、誰もが分かるはずだ。
そして、何よりも忘れてはいけないのは、東照宮は権力者が力と金にものをいわせて、無理な工期で作らせたものだが、彫刻屋台は庶民がなけなしの金を出し合い、職人たちも、金以上に「心意気」で、自由に作ったものという大きな違いがあるということ。
幕府から庶民に華美禁止が言い渡されてからは、彫刻屋台は彩色をせず、白木彫刻でどこまで「粋」や凄みを追求できるかを競った。色をつけられない分、彫りは細かくなり、動物の表情なども「彫り」の技術で細やかに表現した。
工芸としてもアートとしても、どちらが価値があるか……その判断は人それぞれの価値観や美意識次第だが、僕は迷わず彫刻屋台に軍配を上げたい。

だからこそ何度でも言いたいのだ。彫刻屋台への認識を改め、もっと公的援助を出してしっかり保存し、多くの人たちの目に触れるような施策をしてほしいと。

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日光東照宮の修復作業がひどいという話(2) 眠り猫2017/09/02 20:20

眠り猫の修復では目よりも毛が嫌だ



↑修復前の眠り猫(2013年9月) ↓再修復後(2017年4月)


三猿の「修復」があまりに雑でひどいというクレームは多かったが、眠り猫についても一悶着あった。
2016年11月に修復後の姿がお披露目されたが、それを見た来訪者たちから「眠り猫なのに起きているじゃないか」というクレーム?が相次いだので、年を越して1月になってから再修復させたという。
僕が見たのは4月だったので、11月からひと月半ほどの間「薄目を開けて」いたという眠り猫は見ていないのだが、写真を見る限り、「薄目」に関しては違和感がないなあ。パッチリ開いたら大ごとだろうけれどねえ。
もともと小さな彫刻だから、生で見ても、閉じているのか薄目なのかなんて分からないんじゃないだろうか。
それよりも金色の絵の具でチャカチャカっと毛を描き込んでいるほうがはるかに気になる。
猿の毛の描き方以上に雑だし、そもそもこういう毛の描写がオリジナルにあったのだろうか? この毛を描き込んだことで、作品全体のクオリティが一気に下がったような印象を与えてしまっている。クレームをつけるなら目よりもこの毛のほうではないかな。

ちなみに、日光東照宮では、本殿、石の間及び拝殿、正面及び背面唐門、東西透塀、陽明門、東西回廊は国宝に指定されており、眠り猫は回廊の一部だから、自動的に「国宝の一部」ということになる。
回廊にはたくさんの彫刻が施されており、そのほとんどは見事なものなのだから、この際、眠り猫の彩色修復はむしろおとなしめに、地味にやっておけばよかったのではないかと思ったりもする。


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日光東照宮の修復作業がひどいという話(1) 神厩舎の猿2017/09/02 20:00

東照宮の修復作業がひどすぎるとクレーム続出




日光東照宮の大規模修復作業が進み、今年は陽明門、三猿、眠り猫といった知名度トップ3が全部修復が終わったというので参拝客(観光客?)で賑わっている。原発爆発後、日光への観光客が落ち込んでいたことを思うと大変結構なことだ。
で、最近になって、三猿や眠り猫の修復がおかしいんじゃないか、下手すぎるんじゃないかという批判が続出して、新聞記事にまでなっている。

我が家から東照宮までは車で30分くらいで行けるので、日光市民になってから2回訪れているが、正直なところ、陽明門、三猿、眠り猫などにはほとんど興味がないので、写真もあまり熱心に撮らない。
彫刻であれば廻廊の彫刻のほうが陽明門よりずっと出来がいいし、三猿、眠り猫に至っては、アートとしてはなんの価値もないとさえ思っている。
でもまあ、ここまで話題になっていると「そんなにひどいの?」と、手元にある写真を見直してみた。
陽明門や三猿、眠り猫が修復される前の2013年の写真と、今年の4月に行ったときの写真を比べてみよう。

「聞か猿」のbefore after。毎回「三猿はどうでもいいや」と、サラッと遠くから撮だけなので、同じ角度のものが揃っていないのだが、まあ、どっちもどっちだよなあ。もともとがそんなにアート性の高いものではないと思うし



修復前の言わ猿。これも睫が「マスカラかよ!」と突っ込みたくなるほどで、とても誉められたものではないが……

修復後の言わ猿。睫は薄くなった代わりに、赤いアイシャドウ?が三重に加えられた。で、黒目の大きさが左右で違うっていうのは、いくらなんでも雑すぎる



で、よく見ると修復後の目の輪郭の内側にうっすらと以前の目の輪郭が見えている。つまり、今回の修復で、目は意識的に前よりも大きくしたことが分かる




さらに、睫を強調するのは前のバージョンで顕著で……



赤いシャドウも今回からというわけではなく、前のバージョンにもあったのだね



で、目は今回急に大きくしたのかというと、前のバージョンでは目の輪郭の外側に輪郭が残っているのが見て取れるので……

前のバージョンで意識的に小さくした可能性もある。元々の目の輪郭がもはや分からなくなっているのだ



印象が変わったことは事実なのだけれど……




修復技術が下手なのではなく、何度も修復されていて、オリジナルはどうだったのかが分からなくなっているのだという擁護論も出ているが、上の写真を見て思うのは、毛の描き方なんか、明らかに「下手」だよなあ、ということ。
前のバージョンでは一応毛の流れというか、どの方向に生えているかが分かる。腕の毛ならば肩から手先方向に生えているように描かれているのが見て取れるのだが、今回のはただ線を等間隔に描き込んだだけで、毛の流れなどまったく分からない。
これを見ても下手だ、センスがないと感じない人は、それこそ「ピカソより普通にラッセンが好き~」な人と同レベルだろう。
もしもこういう絵が描かれた掛け軸がなんでも鑑定団に出てきたら、鑑定する以前に一笑に付されと思う。

今回の「修復」では、一旦下の塗料を全部落として真っ白に塗りつぶしてから新たに描いたということなので、彩色職人がゼロから描いたことになる。そういう方法を採ったとしても、だったら「よりよい出来」にだってできたはずだ。前回の修復の出来が結構ひどいのだから。

三猿は神厩舎にある8面あるレリーフの1つが有名になりすぎたわけだが、この際、「彫刻」として、アートとして、そもそもどれだけのものだったのかという、根本的な問いかけをしてみたほうがいいんじゃないだろうか。
猿は馬を守る動物であるという伝承から猿のレリーフが施されたというが、場所からいっても、それほど気合いの入った作品だったとは思えない。
はっきり言えば、動物園の看板のようなものだろう。家光の大号令の下、大急ぎで作られた中で、担当の職人がどれだけ力を入れたのか疑問だし、実際、出来からしても大したものではない。東照宮全体が歴史的建造物であり、神厩舎も重要文化財になっているため、自動的にそこに付随している猿のレリーフも重文ということになるが、これが無名の寺社にあったならばどうか。観光資源としては活用されただろうが、少なくとも「芸術作品」として評価されることはなかったのではないか。

もちろん、東照宮自体を価値がないと言っているわけではない。同じ彫刻群でも透塀や廻廊に施されたものはアート性が高いと思うし、奥の院参道にある石造り狛犬や鋳抜門などは貴重な文化財であると同時にアートとしても素晴らしいものだと思う。
じっくり鑑賞して回ればたっぷり1日かかる場所であることに間違いはない。そこは間違えてはいけない。

眠り猫や陽明門についてはまた後ほど……。大江 新太郎(1876~1935)や伊東忠太(1867~1954)らが東照宮修復の歴史にどのように関わっていたかなどについてまで、ちょっとだけ探ってみたい。

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