スポーツの発展のためにもオリンピックは1回やめたほうがいい ― 2021/04/11 16:30
前回の最後の部分で、
「世界のスポーツ界や国家・宗教を超えた平和運動のためにできることは何かという困難な課題に真摯に向き合う覚悟」
ということを書いた。
抽象的なきれいごとを言いっ放しで終わっていると思う人も多いだろう。
できるできないは別にして、現時点で私が考える理想的な(=非現実的かもしれないが)方法を簡単に書き留めておきたい。
基本的な考え方は、
……と、こんな感じのことである。
もちろん、今のグダグダ日本にここまで高邁な活動を呼びかけて実行していけるとはとても思えないが、まずは理想型と具体的な図面がないと始まらないと思うので、絵に描いた餅を承知で書いてみた。
オリンピック開催の失敗を味わった国として、真摯に取り組めば、それなりの説得力があるかもしれない。
「世界のスポーツ界や国家・宗教を超えた平和運動のためにできることは何かという困難な課題に真摯に向き合う覚悟」
ということを書いた。
抽象的なきれいごとを言いっ放しで終わっていると思う人も多いだろう。
できるできないは別にして、現時点で私が考える理想的な(=非現実的かもしれないが)方法を簡単に書き留めておきたい。
基本的な考え方は、
- IOCは「オリンピック」という「商標」使用権だけを盾にした商売の胴元なのだから、「オリンピック」という商標を使うことを一旦やめさえすればIOCとの関係を精算できるはずである。
- IOCは利益を各競技の世界連盟に分配することでスポーツ界を支配している現状があるので、その「資金援助」の部分を担える、透明性の高い、公平公正なシステムを各競技団体の連携・連帯を通して新たに構築していくよう呼びかける。
- 東京五輪は中止する。後始末や賠償金的な支払の内容を明らかにし、その費用の出本と支払先を世界に公表する
- なぜ東京2020が悲惨な結末に至ったか、オリンピックをここまで汚してしまった要因は何なのかという反省をして、その内容を包み隠さず世界に向けて公表する。
- IOCとの決別を表明する。「オリンピック」という「商標」を使わず、新たにまったく違う名称のブランドを使うことを呼びかける。
- 新名称はなんでもいいが、極力、既存の言語などをイメージさせないようなものがいい。仮に「ニジポン」(説明しやすくするためにつけたテキトーな名称である)とするなら「ニジポン世界陸上」「ニジポンワールドカップサッカー」「ニジポン世界ノルディックスキー」「ニジポン世界エキデン」……といった具合に、世界平和をスポーツの力で希求する新ブランド「ニジポン」の冠をつけることで各競技大会の連帯を表明し、利益の一部をスポーツ振興や貧困・病苦の救済などにあてる。
- 現在の競技別世界選手権(世界陸上など)の運営組織、競技連盟に、「世界大会の価値を広げる」ことを提言し、援助する姿勢を示す。
- 「世界大会の価値を広げる」というのは、世界最高レベルの競技者を決めるだけでなく、スポーツを通じて世界平和の希求や多様性を認め合う精神を培うといったもの=本来オリンピックが求めたはずの価値。
- 新しい理念を追加した世界大会では、スポーツの環境が整っていない国や地域への援助や、そうした地域からも選手が何らかの形で参加できる(必ずしも選手でなくてもよい。例えば演出家として参加するとか、関連イベントにアーティストやメッセンジャーとして参加するといった)ような仕組みを考案していく
- 同時に、大会開催地の人々と選手たちの交流も図る。
- 現在のコロナ禍が収まったとしても、同じような危機は今後いつ襲ってくるか分からない。大会開催のリスクを下げるためには、無理に数多くの競技を一度に一か所に集めて大会を大型化する方法をやめる。
- 2024パリ、2028ロサンゼルスはどうなるか分からない。IOCに関係なく同等の、あるいはそれ以上の利益が開催地や競技団体、競技者たちにもたらされるなら、新たな方法を選ぶに決まっている。ロスはすでにそうした解決策を模索しているはず。そうした動きとうまく協力し合って、IOCと手を切ったシステムを構築していく。
- そうした一連の活動、運動を、今回最大の「オリンピック被害」を作りだし、オリンピックの矛盾点をさらけ出してしまった日本が呼びかける。
……と、こんな感じのことである。
もちろん、今のグダグダ日本にここまで高邁な活動を呼びかけて実行していけるとはとても思えないが、まずは理想型と具体的な図面がないと始まらないと思うので、絵に描いた餅を承知で書いてみた。
オリンピック開催の失敗を味わった国として、真摯に取り組めば、それなりの説得力があるかもしれない。


バート・バカラックと添田啞蝉坊 ― 2021/04/01 11:38
NHKの「ららら♪クラシック」でバカラックの特集をしていた。
バカラックのメロディを聴くと、それだけで涙が出る。こんなメロディを自分は作れるだろうかと悩んだ若い頃を思い出すからだろうか。
平気でオクターブ飛ぶようなメロディ。それなのに不自然さはなく、快感が生まれる。コードを鳴らしながらメロディを書くという作曲法では決して生まれそうもないメロディ。それでいて、コードはメチャメチャ凝っている。
バカラックの音楽にしびれているというわけではない。ディオンヌ・ワーウィックの歌い方は好きじゃないし、アレンジもなんだか紅白歌合戦用の大袈裟な味みたいでしっくりこない。
歌詞もひどい。ハル・デビッドとなぜ組んでいたのか理解できないくらい能天気な歌詞。
でも、バカラックが書いたメロディにはとことんしびれる。
バカラックのような、あるいはバカラックを超えるようなメロディを書きたい。そう思い続けてきたが、60代後半になった今、自分のメロディ創成能力が著しく落ちてしまったことは認めざるをえない。
若いときのように、何かの拍子でパッと出てきたメロディがいいメロディだった……ということがなくなってしまった。
だから、今はすごく時間をかけて作曲している。一つ一つの音を何度も何度も確認しながら、譜面に書いてみて、数日してそれを聴き返して、こんなんじゃつまらない、この音はこっちのほうがいい、この音符は減らして伸ばしたほうがいい……とか、そういう作業を延々繰り返しながら仕上げている。
それでも、緻密に作ったからいいメロディになるわけではなく、むしろ、勢いのない、ありがちなメロディだなあ……と思いながら、最後は、捨てるよりは形にしておこう、と思い直して、録音する……。
バカラックは92歳になったそうだ。
1928年5月12日生まれだから、27歳年上。生きていれば親と同じ歳だ。もうすぐ彼は93歳になり、私は66歳になる。
現在のバカラックへのインタビュー映像を見たが、さすがに生気がない。それでもしっかりと言葉を選びながら、今でも作曲していると言いきる。
すごく時間をかけて一曲を仕上げるという話が印象的だった。それは歳を取った今だからそうなのか、若いときの傑作群もそうして生まれたのか、そこが知りたい。
『サンホゼへの道』のようなメロディが瞬間的に生まれたのではなく、何日も格闘した結果生まれたのだとしたら、私の今までの認識が違っていたことになる。ああいうメロディは、時間をかけてリファインしてできるものではないと思っていた。
時間をかけてあんなメロディにたどり着くことがありえるだろうか? ありえるのなら、私が知らない世界がまだある、ということなのかもしれない。
ふざけた話で埋め尽くされる毎日。そこに何かを発信することがとても虚しい。
しかし、黙っていられない性分に生まれついているため、なんだかんだと(今もこうして)文章を書いてしまう。
バカラックのメロディの素晴らしさに涙するのは、ああいう価値を共有できる世の中にまた戻るのだろうか、という思いからかもしれない。
残された時間が限られている以上、くだらないものを相手にせず、ひたすら自分にとって価値の高いと感じられるものに挑戦しながら死にたいと思う一方、今の世の中で何かを発信する方法をあれやこれやと考えてしまう。この中途半端さで、人生を棒に振っているんだと分かっているのに。
私は、生まれたときの名前は「添田能光」だった。
4歳の頃、両親が離婚し、実母は旧姓の「細野」に戻したため、母親に引き取られた私は「細野能光」になった。
幼稚園で、ある日、園児たちの前で「そえだくんは今日からほそのくんになりました」と言われたのを、今でも覚えている。
その後、母親は再婚し、私は再婚相手の養子になったため「鐸木能光」になった。
母親は父方の細野家が群馬県の伊勢崎町(現・伊勢崎市)で2番目に裕福な蝋燭問屋だったことや、母方の祖母が「白河城最後のお姫様」(幕府老中・阿部正外の娘)だったこと、再婚相手である夫の祖父が鐸木三郎兵衛であることなどを幼い私に何度か教え込もうとしたが、私の父方である添田家のことはまったく口にしなかった。
私の実父の写真などもすべて処分されていて、私は実父が死んで一周忌の席に呼ばれるまで、実父の顔を知らないまま大人になった。
自分の父方のルーツに興味を抱いたのは30代後半くらいだろうか。父方の叔母(実父の妹)がわざわざ戸籍謄本を取って送ってくれた。
実父の実家は多分、今は建築業で、実父の母方には医療関係の遠い親戚がいるようだ。
もちろん交流はない。
閑話休題。
で、その「添田」という姓は福島県南地域ではかなり多い姓なのだが、添田姓で有名になった人物を捜すと「添田唖蝉坊」という演歌師(明治5=1872-昭和19=1944年)が出てくる。
相当面白い人物だったようだが、遠い祖先ということはないだろう。
でも、唖蝉坊が現代に生きていたらどんな「演歌」を歌っただろうという想像を、だいぶ前(20年くらい前?)からしていた。
やってみようかと何度か思ったが、その度に「いやいや、それは俺の役割ではないし、合ってない」と思い、やめた。
しかし、「どうせもう長くないのだから」という心の中の囁きに、一度だけ耳を傾けてみた。
唖然とするほどくだらない世の中に、ひねくれまくった形で主張する「某」人物。添田唖然某。

タヌパックバーチャルバンドのメンバーにも声をかけて、こんなのをやってみた↓
腐ったガスは抜かないとね。国中に充満して、みんなおかしくなってしまう。元から絶たないとダメ! 消えろ~!
ベースのテンキチは素直だから、何にでも真面目につき合ってくれる。いいやつだ。
ニャンニーニョは太鼓を叩ければどんな曲でもご機嫌。つき合いやすいやつだ。
唖然某はその後も、ときどき酔っ払って小さな毒を吐くが、ただのため息として消えていく。
明治大正の頃と違って、今はこうした「演歌」を作る唖蝉坊や川上音二郞(文久4=1864-明治44=1911年)のような人物は現れない。
つまらないねえ。
バカラックのメロディを聴くと、それだけで涙が出る。こんなメロディを自分は作れるだろうかと悩んだ若い頃を思い出すからだろうか。
平気でオクターブ飛ぶようなメロディ。それなのに不自然さはなく、快感が生まれる。コードを鳴らしながらメロディを書くという作曲法では決して生まれそうもないメロディ。それでいて、コードはメチャメチャ凝っている。
バカラックの音楽にしびれているというわけではない。ディオンヌ・ワーウィックの歌い方は好きじゃないし、アレンジもなんだか紅白歌合戦用の大袈裟な味みたいでしっくりこない。
歌詞もひどい。ハル・デビッドとなぜ組んでいたのか理解できないくらい能天気な歌詞。
でも、バカラックが書いたメロディにはとことんしびれる。
バカラックのような、あるいはバカラックを超えるようなメロディを書きたい。そう思い続けてきたが、60代後半になった今、自分のメロディ創成能力が著しく落ちてしまったことは認めざるをえない。
若いときのように、何かの拍子でパッと出てきたメロディがいいメロディだった……ということがなくなってしまった。
だから、今はすごく時間をかけて作曲している。一つ一つの音を何度も何度も確認しながら、譜面に書いてみて、数日してそれを聴き返して、こんなんじゃつまらない、この音はこっちのほうがいい、この音符は減らして伸ばしたほうがいい……とか、そういう作業を延々繰り返しながら仕上げている。
それでも、緻密に作ったからいいメロディになるわけではなく、むしろ、勢いのない、ありがちなメロディだなあ……と思いながら、最後は、捨てるよりは形にしておこう、と思い直して、録音する……。
バカラックは92歳になったそうだ。
1928年5月12日生まれだから、27歳年上。生きていれば親と同じ歳だ。もうすぐ彼は93歳になり、私は66歳になる。
現在のバカラックへのインタビュー映像を見たが、さすがに生気がない。それでもしっかりと言葉を選びながら、今でも作曲していると言いきる。
すごく時間をかけて一曲を仕上げるという話が印象的だった。それは歳を取った今だからそうなのか、若いときの傑作群もそうして生まれたのか、そこが知りたい。
『サンホゼへの道』のようなメロディが瞬間的に生まれたのではなく、何日も格闘した結果生まれたのだとしたら、私の今までの認識が違っていたことになる。ああいうメロディは、時間をかけてリファインしてできるものではないと思っていた。
時間をかけてあんなメロディにたどり着くことがありえるだろうか? ありえるのなら、私が知らない世界がまだある、ということなのかもしれない。
添田唖蝉坊
歳を取って脳が劣化してきたというだけでなく、今の社会があまりにもひどいので、正気を保つだけで精一杯になっている、というのも大きな問題だ。ふざけた話で埋め尽くされる毎日。そこに何かを発信することがとても虚しい。
しかし、黙っていられない性分に生まれついているため、なんだかんだと(今もこうして)文章を書いてしまう。
バカラックのメロディの素晴らしさに涙するのは、ああいう価値を共有できる世の中にまた戻るのだろうか、という思いからかもしれない。
残された時間が限られている以上、くだらないものを相手にせず、ひたすら自分にとって価値の高いと感じられるものに挑戦しながら死にたいと思う一方、今の世の中で何かを発信する方法をあれやこれやと考えてしまう。この中途半端さで、人生を棒に振っているんだと分かっているのに。
私は、生まれたときの名前は「添田能光」だった。
4歳の頃、両親が離婚し、実母は旧姓の「細野」に戻したため、母親に引き取られた私は「細野能光」になった。
幼稚園で、ある日、園児たちの前で「そえだくんは今日からほそのくんになりました」と言われたのを、今でも覚えている。
その後、母親は再婚し、私は再婚相手の養子になったため「鐸木能光」になった。
母親は父方の細野家が群馬県の伊勢崎町(現・伊勢崎市)で2番目に裕福な蝋燭問屋だったことや、母方の祖母が「白河城最後のお姫様」(幕府老中・阿部正外の娘)だったこと、再婚相手である夫の祖父が鐸木三郎兵衛であることなどを幼い私に何度か教え込もうとしたが、私の父方である添田家のことはまったく口にしなかった。
私の実父の写真などもすべて処分されていて、私は実父が死んで一周忌の席に呼ばれるまで、実父の顔を知らないまま大人になった。
自分の父方のルーツに興味を抱いたのは30代後半くらいだろうか。父方の叔母(実父の妹)がわざわざ戸籍謄本を取って送ってくれた。
実父の実家は多分、今は建築業で、実父の母方には医療関係の遠い親戚がいるようだ。
もちろん交流はない。
閑話休題。
で、その「添田」という姓は福島県南地域ではかなり多い姓なのだが、添田姓で有名になった人物を捜すと「添田唖蝉坊」という演歌師(明治5=1872-昭和19=1944年)が出てくる。
相当面白い人物だったようだが、遠い祖先ということはないだろう。
でも、唖蝉坊が現代に生きていたらどんな「演歌」を歌っただろうという想像を、だいぶ前(20年くらい前?)からしていた。
やってみようかと何度か思ったが、その度に「いやいや、それは俺の役割ではないし、合ってない」と思い、やめた。
しかし、「どうせもう長くないのだから」という心の中の囁きに、一度だけ耳を傾けてみた。
唖然とするほどくだらない世の中に、ひねくれまくった形で主張する「某」人物。添田唖然某。

タヌパックバーチャルバンドのメンバーにも声をかけて、こんなのをやってみた↓
腐ったガスは抜かないとね。国中に充満して、みんなおかしくなってしまう。元から絶たないとダメ! 消えろ~!
ベースのテンキチは素直だから、何にでも真面目につき合ってくれる。いいやつだ。
ニャンニーニョは太鼓を叩ければどんな曲でもご機嫌。つき合いやすいやつだ。
唖然某はその後も、ときどき酔っ払って小さな毒を吐くが、ただのため息として消えていく。
オモテナシ節
何を見せられているんだ? 何を見せられているんだ?
人が消えた町の中に 立派な駅前だけ作り
作り笑顔で著名人とやら ゆっくりたらたら走ってる
何を見せられているんだ? 何を見せられているんだ?
どこかで見たような気がしたら ああ、あの「桜を見る会」か
作り笑いの著名人とやら 誰かを囲んで はい、ポーズ
何を見せられているんだ? 何を見せられているんだ?
世界の国からコンニチハ それもかなわず開き直って
わけの分からんショータイム これが日本の「お・も・て・な……」
いわせね~よ! とツッコむやつは カメラの前には出られません
アベノマスクして自粛忖度 裏ばっかりで表なし
お化けみたいな オモテナシ節
悪夢が続くオモテナシ節
イヤイヤ節
ソーシャルディスタンスとりましょう なんですかその横文字は
「社会的距離」ってなんですか? 「打ち解けた距離」ってなんですか?
間隔とらなきゃイヤイヤ~ こっち見て喋っちゃイヤイヤ~
ああ、そういうことですか それがソーシャルディスタンス?
毎日起きるとこの世界が 狂った社会のまんまです
こんな世界で合っているのか? いつまで続く悪い夢
間隔とらなきゃイヤイヤ~ それ以上近づいちゃイヤイヤ~
マスクの向こうに隠された あなたの顔も忘れそう
侃々諤々議論はしても 何も生まれぬ無力感
唖然呆然仰天愕然 人間なんてラララララ
そろそろ気づいていい頃だ こんな社会はおかしいと
時を戻そう そろそろ気づこう 基本が狂っていたのだと
コロナコロナと騒ぐより 社会の土台を見直して
コツコツ変えていかなくちゃ ウイルスにさえ笑われる
こんな社会はイヤイヤ~ こんな人生イヤイヤ~
霧の中で 目を凝らすのだ このまま死ぬのはイヤイヤ~
明治大正の頃と違って、今はこうした「演歌」を作る唖蝉坊や川上音二郞(文久4=1864-明治44=1911年)のような人物は現れない。
つまらないねえ。


江戸時代の元号を語呂合わせで覚える ― 2021/03/21 15:42
狛犬を見ていると、江戸の元号の順番や、西暦だとどのあたり?というのが分からず、モヤモヤすることが多い。
我々の感覚だと慶長も慶應も十把一絡げに「江戸時代」という感じになりがちだが、江戸時代は長い。慶長と慶應では250年くらい違う。
天変地異や時の為政者の政策で、10年違えば世相や食糧事情がガラッと変わっていることもあるはずだ。
江戸時代の元号をしっかり覚えておきたいものだなあ。でも、生まれつき記憶力が弱いのに、今は老化で脳みそがボロボロだから、無理だよなあ。
なんとか今からでも元号の切り替わりの西暦を語呂合わせで覚えられないものか……。
「鳴くよウグイス平安京」みたいな暗記法で。
……ということで、挑戦してみる。
まずは1600年代。関ヶ原の戦いの1600年は「一路雄々しく関ヶ原」って、小学校のとき覚えたなぁ。
その後、家康という「おっさん」(1603)が江戸に徳川政権を樹立した……と。ここからが江戸時代だね。
……1600年代だけで13個もあるのかよ。改元しすぎだろ。
小学生のときなら覚えられたかもしれないけど、今からだと無理だなあ、きっと。
ヒロシやヒロコは、やらかしたりご立派だったり……一体どういうやつなんだ? という難しさもある。
あと、天和が相当ヤバいな。
めげずに1700年代、いってみよ~!!(いかりや長介)
円鏡って、あたしらの世代だと、後の橘家圓蔵だけど、若い人は知らんだろうな。で、「かんちゃん、えんちゃん」は関西の人気漫才コンビってことでいいかな?
アイドルのアンちゃんは貧乳で夏は水着に苦労する? いや、17歳で巨乳は不自然だから、むしろそれでいい(ペコパ)。
1700年代も12個もある。もう一息だ。1800年代に突入!
……いやぁ、最後は息切れですね~。
幕末は安政が「安静にして腰を治す」で1854年と覚えたら、そこからはめまぐるしく変わるから、「あんまんぶん、げんけい」(餡饅を賄賂に差し出したら、その分、減刑された)と覚えておけばいいかな。この順番でわずか10年ちょっとの間に元号が5つも並んでいる。
そんなこんなで、1800年代も11個あるのか。
というわけで、なんとか語呂合わせ暗記を考えたわけだが、改めて全部を見てみると、「寛」がつく元号が5つもあるのがややこしい。
寛永元(1624)年、寛文元(1661)年、寛保元(1741)年、寛延元(1748)年、寛政元(1789)年。
寛永と寛政では160年以上離れている。でも、「寛」がつけば1700年代以前だと分かるので、台座に「寛」の文字があればテンションが上がるかな。
それにしても、である。
関ヶ原の戦い(1600年)で家康が勝利してから戊辰戦争(1868年)で徳川政権がつぶされるまで、実に268年ある。
戊辰戦争から現在(2021年)までは153年。
寛永と寛政を読み間違えると、それより長い時間を間違えることになる。
太平洋戦争で日本が敗戦(1945年)からはまだたったの76年。
我々が「戦後」と呼んでいる時代は江戸時代の3分の1以下しかないわけだ。
江戸時代って、気が遠くなるほど長かったのだなあ、と、改めて思う。
我々の感覚だと慶長も慶應も十把一絡げに「江戸時代」という感じになりがちだが、江戸時代は長い。慶長と慶應では250年くらい違う。
天変地異や時の為政者の政策で、10年違えば世相や食糧事情がガラッと変わっていることもあるはずだ。
江戸時代の元号をしっかり覚えておきたいものだなあ。でも、生まれつき記憶力が弱いのに、今は老化で脳みそがボロボロだから、無理だよなあ。
なんとか今からでも元号の切り替わりの西暦を語呂合わせで覚えられないものか……。
「鳴くよウグイス平安京」みたいな暗記法で。
……ということで、挑戦してみる。
まずは1600年代。関ヶ原の戦いの1600年は「一路雄々しく関ヶ原」って、小学校のとき覚えたなぁ。
その後、家康という「おっさん」(1603)が江戸に徳川政権を樹立した……と。ここからが江戸時代だね。
- 慶長元(1596)年 「けいちょうふはく(軽佻浮薄)な殿様、いご、くろう(以後、苦労)する」
- 元和元(1615)年 「きげんなおして、ひろいこころ(広い心)で」
「げんなりするぜ。16でひこう(非行)」(小さいときは可愛かったのに、やっぱりグレたか)- 寛永元(1624)年 「かんえいじ(寛永寺)なら いちろにし(一路西)へ」
- 正保元(1644)年 「しょうほう(商法)を学べ、ヒロシよ」
- 慶安元(1648)年 「慶安の変で由井正雪、いちむしゃ(一武者)として死す」
「けいあんずるな(刑案ずるな)、ヒロシやらかしたけど」
- 貞応元(1652)年 「じょうおう(女王)さまと言え、ヒロコには」(ドSなの)
- 明暦元(1655)年 「頭脳めいれき(明晰)、ヒロコご立派 」(SMの女王は頭もいい)
「めいれいきかないヒロコご立派」(Sだもの。命令はする側だぜ)- 万治元(1658)年 「まんじ休す(万事休す)。ヒロコやらかした。」(そんなヒロコ女王も失敗はする)
- 寛文元(1661)年 「かんぶん読むならヒロムがいちばん」(勉強家の弘くん)
- 延宝元(1673)年 「えんぽう(遠方)よりいちろ(一路)なみ(波)越え船きたる」
- 天和元(1681)年 「じゅうろくはい(16杯)も蕎麦くってんな」
「テン・ナイン・エイト……カウントダウンイベントでひろばはいっぱい」- 貞享元(1684)年 「じょうきょう(状況)次第で ひろうはし(拾う箸)」(汚いとか言ってらんない)
- 元禄元(1688)年 「げんろくおきらく 色ババア」(遊郭のお局様?)
……1600年代だけで13個もあるのかよ。改元しすぎだろ。
小学生のときなら覚えられたかもしれないけど、今からだと無理だなあ、きっと。
ヒロシやヒロコは、やらかしたりご立派だったり……一体どういうやつなんだ? という難しさもある。
あと、天和が相当ヤバいな。
めげずに1700年代、いってみよ~!!(いかりや長介)
- 宝永元(1704)年 「ほう、えいご(英語)得意なのね、い~な~おぬし」
- 正徳元(1711)年 「しょうとく太子はいないひと?」(架空の人物説も)
- 享保元(1716)年 「きょうほの選手、いないね、無だね」(苦しい競技だからねえ)
- 元文元(1736)年 「げんぶん一致だ、い~な、さぶろう(三郎)」
- 寛保元(1741)年 「かんぽの勧誘、ひとでなしいちばん」(ひどかったねえ、あの保険のやり口は)
- 延享元(1744)年 「えんきょう(月の家 圓鏡)人気でひまなしよ」
- 寛延元(1748)年 「かんちゃんえんちゃん、ひまなしや」
- 宝暦元(1751)年 「宝の暦にイナゴいっぴき」(どういうカレンダーやねん)
- 明和元(1764)年 「めいわく千万、ひなんむし(避難無視)」(Jアラート? あれは迷惑だったわ)
- 安永元(1772)年 「アンはエイカップ、じゅうしちのなつ(夏)」
- 天明元(1781)年 「テンもめいわく(迷惑)、ひなんばい」(火の不始末で森林火災。避難ばい~博多弁のテン?)
- 寛政元(1789)年 「かんせいど(完成度)高いなっぱくれ」(最上級の菜っ葉しかいらん)
円鏡って、あたしらの世代だと、後の橘家圓蔵だけど、若い人は知らんだろうな。で、「かんちゃん、えんちゃん」は関西の人気漫才コンビってことでいいかな?
アイドルのアンちゃんは貧乳で夏は水着に苦労する? いや、17歳で巨乳は不自然だから、むしろそれでいい(ペコパ)。
1700年代も12個もある。もう一息だ。1800年代に突入!
- 享和元(1801)年 「きょうはいい天気、はれいちばん」
- 文化元(1804)年 「ぶんか勲章逃して、いや~、おしい!」
- 文政元(1818)年 「みぶんせいどなんて、いやいや~」
- 天保元(1830)年 「天保の飢饉ではさん(破産)。貯金ゼロだわ」
- 弘化元(1844)年 「こうかい(後悔)したくない。いやよ、し(死)ぬのは」
- 嘉永元(1848)年 「かえい(カレー?)作らせたら、いっぱしやね」(ココイチでバイトしてたからね)
- 安政元(1854)年 「あんせいにして、こしを治す」
- 万延元(1860)年 「いちまんえんで、ハムを買う」
- 文久元(1861)年 「なにぶんきゅう(なにぶん、急)で、ハローワークへいった」(いきなりリストラされた?)
- 元治元(1864)年 「げんじてんでは、無視してよろしい」
- 慶応元(1865)年 「慶應卒のむこ(婿)がきた」
……いやぁ、最後は息切れですね~。
幕末は安政が「安静にして腰を治す」で1854年と覚えたら、そこからはめまぐるしく変わるから、「あんまんぶん、げんけい」(餡饅を賄賂に差し出したら、その分、減刑された)と覚えておけばいいかな。この順番でわずか10年ちょっとの間に元号が5つも並んでいる。
そんなこんなで、1800年代も11個あるのか。
というわけで、なんとか語呂合わせ暗記を考えたわけだが、改めて全部を見てみると、「寛」がつく元号が5つもあるのがややこしい。
寛永元(1624)年、寛文元(1661)年、寛保元(1741)年、寛延元(1748)年、寛政元(1789)年。
寛永と寛政では160年以上離れている。でも、「寛」がつけば1700年代以前だと分かるので、台座に「寛」の文字があればテンションが上がるかな。
それにしても、である。
関ヶ原の戦い(1600年)で家康が勝利してから戊辰戦争(1868年)で徳川政権がつぶされるまで、実に268年ある。
戊辰戦争から現在(2021年)までは153年。
寛永と寛政を読み間違えると、それより長い時間を間違えることになる。
太平洋戦争で日本が敗戦(1945年)からはまだたったの76年。
我々が「戦後」と呼んでいる時代は江戸時代の3分の1以下しかないわけだ。
江戸時代って、気が遠くなるほど長かったのだなあ、と、改めて思う。
これも一助になるかな?


大衆扇動ツールとしてのオリンピック ― 2021/02/22 11:01

今朝、起きる前に蒲団の中で頭の中を巡っていたもの:
クーベルタンがゴリゴリの男女差別主義者だったということは、今はあちこちで読むことができるが、そういうことを学校では決して教えてくれなかった。
聖火リレーを巡っても、島根県知事が5月に地元で予定されている聖火リレー中止の検討を表明したことが話題になっているが、その背景までしっかり伝えているメディアは少ない。
メディアはちゃんとこうした背景まで伝えないといけない。
聖火リレーは1936年のベルリン五輪から始まっている。この大会はヒトラーが国威発揚、アーリア人種の優越性をアピールするために最大限利用した大会として知られる。
今回、東京五輪の聖火リレーが福島から始まることも、「原発爆発はもう過去のことだ」としたい政府の政治利用といえるのではないか。聖火リレーの始まりと重ね合わせると、よりリアルに意味合いが浮かび上がる。
この視点で舌鋒鋭く問題を指摘している鵜飼 哲(一橋大学名誉教授)はこう述べている。

招致した東京都は、2017年3月に「東京2020大会開催に伴う経済波及効果を試算しました 全国で約32兆円」と、とんでもない「試算」を誇らしげに発表した。今もWEB上に残っているのでぜひ見ておこう。
「レガシー効果」として12兆2397億円。そのうち「新規恒久施設・選手村の後利用、大会関連交通インフラ整備、バリアフリー対策、水素社会の実現等」で2兆2572億円。観光需要の拡大、国際ビジネス拠点の形成、中小企業の振興、ITS・ロボット産業の拡大等で9兆1666億円、スポーツ実施者・観戦者の増加、障害者スポーツの振興、ボランティア活動者の増加、文化イベント観客の増加、外国人留学生の増加等で8159億円……だそうだ。
兆という単位をバナナの叩き売りみたいにポンポン口にして、頭大丈夫か? と本気で心配してしまう。
「水素社会の実現」だとさ。
水素をエネルギーにするというシステムは、とてつもない迂回路、貴重な資源の浪費であって、地下資源があるうちはいくらでも使いまくりましょうという大規模詐欺なのだが、これを書いた人たちはそれを理解した上で、こうも厚顔無恥なことを書き散らし、今もWEB上に公開し続けているのだろうか?
金をたくさん使う社会が「豊かで幸せな社会」であると勘違いした人たちに社会システムの構築・運営を任せておくと、現代社会の破滅時期はどんどん早まる。
メディアは、もはや東京五輪が日本にとって大変な「お荷物」であることを率直に認め、これ以上の損害・損失を極力出さずに後始末するかという問題にどう取り組むか、という視点をしっかり提示する必要がある。
五輪組織委に残された仕事は、そういう「後始末」である。
森に代わって組織委員会の会長になった橋本聖子はそういう仕事に適している人材なのか?
そもそも、橋本は「五輪担当大臣」だったわけで、それを辞めて組織委会長にならなければならないというのは、五輪担当大臣というのはどういう役割だったのか?
組織委会長は組織委理事の中から選出されることになっている。今回、橋本と入れ替わって五輪担当大臣になった丸川珠代は組織委の理事だった。理事なのだから、丸川が会長になるというならまだ分かる。しかし、丸川は理事ではなく五輪担当大臣になり、理事ではない橋本が五輪担当大臣を辞めて組織委会長になるというのは、理事会には会長を務められる器の人物はいない。しかし、五輪担当大臣なら務まる。つまり、五輪担当大臣はただのお飾りだ、と言っているようなものではないか。
日本の社会に根強くはびこる森喜朗的な空気と価値観。それがいかに大きな国難であるかを見つめずにここまで来てしまった我々は、高い授業料を払って学び取り、やり直すことができるのか? それが問われている。
コロナは本当にいろんなことを考えさせる教師だ。
日本は東京五輪招致という間違いやその後のドロドロした流れをどのように反省し、後始末をしていけるのか。
後の歴史に「あのとき、日本が毅然とした態度で間違いを正す方向に舵を切ったことで、再びオリンピックは理想像を取り戻すことができた」と記されることがいちばんいいのだが、そうはなりそうもない。
せめてこれ以上「被害」を膨らませないようにはしてほしい。
- ●コロナは教師である。近代史や哲学の分野で、巨視的に物事を見直すことを示唆している。
- ●日本の場合、明治以前と以後で何がどう変わったかを、構造的に見直してみると、今の東京五輪論議がいかに矮小化された議論かが見えてくる。
- ●昔は支配の道具は武器に片寄っていた。大衆を動かす力も武器(武力)による脅しだった。今は武器よりも効果が大きなツールがいろいろ出現している。
- ●イギリスを中心とした西欧列強+アメリカは、中国という大国を支配する際にアヘンというツールが絶大な威力を発揮したことで「ツールの多様化」「大衆を動かす方法の効率化」を学んだ。
- ●そんな時代の流れの中で近代オリンピックは生まれ、変化していった。つまり……
聖火リレーの始まり
森喜朗のおかげで、「そもそもオリンピックってなんだったんだろう」という根本的な歴史問題を学び直すことができた。クーベルタンは、生涯を通じて、女性の汗によってオリンピックを「汚す」べきではないと信じ、女子選手をあからさまに排除した。
(男性至上イデオロギーが支配したオリンピックの「黒歴史」 東京五輪で「男女平等」は実現するか? 森田 浩之 2017/07/18 gendai.ismedia)
クーベルタンがゴリゴリの男女差別主義者だったということは、今はあちこちで読むことができるが、そういうことを学校では決して教えてくれなかった。
聖火リレーを巡っても、島根県知事が5月に地元で予定されている聖火リレー中止の検討を表明したことが話題になっているが、その背景までしっかり伝えているメディアは少ない。
島根県は、東京都などが新型コロナ感染者の濃厚接触者や感染経路を調べる「積極的疫学調査」を縮小していることを問題視し、以前から厚労省に対して全国調査の結果や情報提供などを求めてきた。ところが厚労省は「ゼロ回答」のまま。10日の会見でも、丸山知事は「状況について何も情報が得られていない。ゼロ回答です。何もしていないということではないでしょうか。この話をどうでもいいと思っている政府は危機的」などと怒りをあらわにしていた。
「丸山知事は政府や東京都の小池知事に対しても臆することなく、正々堂々と正論を主張する。非常にマトモな知事といった印象です。政府や都は『唐突に何を言うのか』みたいな受け止めですが、島根県が厚労省に疫学調査に関する情報提供を要請していたことすら知らない。つまり、放置していたわけです。これでは政府や都に不信感を抱くのも当然です。」(横田一)(丸山島根知事「五輪開催するべきではない」はマトモな正論 日刊ゲンダイDigital 2019/02/19)
メディアはちゃんとこうした背景まで伝えないといけない。
聖火リレーは1936年のベルリン五輪から始まっている。この大会はヒトラーが国威発揚、アーリア人種の優越性をアピールするために最大限利用した大会として知られる。
この大会の運営をヒトラーから任されたのは、ドイツオリンピック組織委員会のなかで力を持っていたアーリア人のカール・ディーム。
彼は「オリンピック発祥の地であるギリシャのオリンピアで採火した聖火を、リレー形式で7カ国を縦断して、開会式当日にベルリンのメーンスタジアムまで運ぶ」という2つの異なる宗教儀式を巧妙に組み合わせて演出した。(オリンピックの聖火リレーはヒトラーが始めた!)
今回、東京五輪の聖火リレーが福島から始まることも、「原発爆発はもう過去のことだ」としたい政府の政治利用といえるのではないか。聖火リレーの始まりと重ね合わせると、よりリアルに意味合いが浮かび上がる。
この視点で舌鋒鋭く問題を指摘している鵜飼 哲(一橋大学名誉教授)はこう述べている。
これほどの無理を重ねてこの大会が招致されたのはなぜでしょうか? 福島原発事故を過去の出来事として内外に印象づけることが、その目的のひとつであることは疑う余地がありません。政治・経済・メディアを支配する巨大な力に抗して組織的な欺瞞を見抜くこと。原発事故の直後、多くの人がその必要を痛感したはずです。その認識が民衆のあいだに根づくことを阻むために、オリンピックというもうひとつの組織的欺瞞が計画されたのではないでしょうか。私たちは原発事故の衝撃という原点に幾度でも立ち返り、「もう騙されない」という誓いを新たにしなければなりません。さもなければ「復興五輪」が実は「改憲五輪」にほかならなかったことを、まもなく思い知らされることになるでしょう。(無理を承知で強行される東京五輪の目的とは? 『世界』2020年2月号 執筆者からのメッセージ)
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東京都が発表した経済波及効果32兆円という赤っ恥
東京五輪2020の持つもう一つの意味は「金儲け」だ。招致した東京都は、2017年3月に「東京2020大会開催に伴う経済波及効果を試算しました 全国で約32兆円」と、とんでもない「試算」を誇らしげに発表した。今もWEB上に残っているのでぜひ見ておこう。
「レガシー効果」として12兆2397億円。そのうち「新規恒久施設・選手村の後利用、大会関連交通インフラ整備、バリアフリー対策、水素社会の実現等」で2兆2572億円。観光需要の拡大、国際ビジネス拠点の形成、中小企業の振興、ITS・ロボット産業の拡大等で9兆1666億円、スポーツ実施者・観戦者の増加、障害者スポーツの振興、ボランティア活動者の増加、文化イベント観客の増加、外国人留学生の増加等で8159億円……だそうだ。
兆という単位をバナナの叩き売りみたいにポンポン口にして、頭大丈夫か? と本気で心配してしまう。
「水素社会の実現」だとさ。
水素をエネルギーにするというシステムは、とてつもない迂回路、貴重な資源の浪費であって、地下資源があるうちはいくらでも使いまくりましょうという大規模詐欺なのだが、これを書いた人たちはそれを理解した上で、こうも厚顔無恥なことを書き散らし、今もWEB上に公開し続けているのだろうか?
金をたくさん使う社会が「豊かで幸せな社会」であると勘違いした人たちに社会システムの構築・運営を任せておくと、現代社会の破滅時期はどんどん早まる。
メディアは、もはや東京五輪が日本にとって大変な「お荷物」であることを率直に認め、これ以上の損害・損失を極力出さずに後始末するかという問題にどう取り組むか、という視点をしっかり提示する必要がある。
五輪組織委に残された仕事は、そういう「後始末」である。
森に代わって組織委員会の会長になった橋本聖子はそういう仕事に適している人材なのか?
そもそも、橋本は「五輪担当大臣」だったわけで、それを辞めて組織委会長にならなければならないというのは、五輪担当大臣というのはどういう役割だったのか?
組織委会長は組織委理事の中から選出されることになっている。今回、橋本と入れ替わって五輪担当大臣になった丸川珠代は組織委の理事だった。理事なのだから、丸川が会長になるというならまだ分かる。しかし、丸川は理事ではなく五輪担当大臣になり、理事ではない橋本が五輪担当大臣を辞めて組織委会長になるというのは、理事会には会長を務められる器の人物はいない。しかし、五輪担当大臣なら務まる。つまり、五輪担当大臣はただのお飾りだ、と言っているようなものではないか。
では、今から何ができるのか?
森喜朗は女性蔑視発言がきっかけで東京五輪組織委員会会長を辞任したが、これを性差別問題だけに矮小化して終わらせてしまうのは「もったいない」。日本の社会に根強くはびこる森喜朗的な空気と価値観。それがいかに大きな国難であるかを見つめずにここまで来てしまった我々は、高い授業料を払って学び取り、やり直すことができるのか? それが問われている。
コロナは本当にいろんなことを考えさせる教師だ。
日本は東京五輪招致という間違いやその後のドロドロした流れをどのように反省し、後始末をしていけるのか。
後の歴史に「あのとき、日本が毅然とした態度で間違いを正す方向に舵を切ったことで、再びオリンピックは理想像を取り戻すことができた」と記されることがいちばんいいのだが、そうはなりそうもない。
せめてこれ以上「被害」を膨らませないようにはしてほしい。

