少子化社会は格差社会か?2014/11/03 16:05

週刊現代2014年8月16・23日号記事より
最近は週刊誌など滅多に買わないのだが、だいぶ前に余っていた図書券で気まぐれに買った週刊現代(2014年8月16・13日合併号)に興味深い記事があったのを見つけた。
「資産10億円を約束されて生まれてくる子供たち ──人口減少社会とは不平等社会のことである」というタイトル。
現代のように、子供を持たない家庭が増えてくると、金持ち層は親戚(両親の兄弟など)の遺産まで転がり込んでくることがある。一方で、貧困層では、両親が生活力のなくなった親や兄弟の分まで面倒を見なければならず、自分の子供に教育費をかけられない。子供に渡るべき親の稼ぎが外に流出していき、子世代はさらに貧困にあえぐ。その結果、少子化が進めば進むほど富裕層と貧困層の格差は拡大する……という話。(上の図 Clickで拡大)
なるほど。
以前にちょこっと紹介した「オレオレ詐欺は金持ち層のマネーロンダリングではないか説」も興味深かったが、この視点も、それはそうだなあと思った。

まあ、実際にはそんなに単純ではないだろう。
金持ちは余裕があるから子供を作れる。子だくさんの金持ちというのはあまりいないが、自分の資産を受け継がせる「相続人」として確実に一人二人は子供を作ろうとする。
一方、貧困層には後先考えずにできちゃった婚とかも多いから、やっぱり子供を作る。しかも早い人は十代など若い時期に子供を作るから、その子がまた若いときに親世代同様できちゃった婚で子供を作って……という連鎖で子供が増える。
周囲を見渡してみると、お金がなくて、先のことを考えるインテリ中間層あたりがいちばん子供を作らないような気がする。
結果、世間知らずのまま権力を握ってしまう危険な金持ちと、それをなんとなく容認したり、あげくは崇拝したりする底辺層が増える。


↑(Clickで拡大)
これは総務省統計局が発表している日本の人口ピラミッド図。見ると、改めて戦後ベビーブーム、第二次ベビーブームというのが大きな塊を形成していることが分かる。
昭和22年~昭和24年(1947~1949年)生まれの人たちを「団塊の世代」などと呼ぶ。この3年間だけで出生数合計は約806万人もいる。
平成22年~平成24年(2010~2012年)生まれは合計で約306万人。これだけ違う。

少子化そのものは言わば自然の摂理、いや、正確には社会に適合しようとする本能とも言える。
戦争で日本人が数百万人死んだ(国の愚策に殺された)。人口が数百万人減った戦後、物資が少ない中でも子供を作って人口を埋め戻そうとしたのも人間の本能だろうし、今のような閉塞感に押しつぶされそうな社会で子供を作る余裕なんてとてもない、というのも自然な気持ちだ。
少子化対策しなければ、と騒いでいるのは金持ちである。自分たちにサービスを提供する底辺層の若者人口が減っては困ると、これまた「本能的に」動いているのだろう。


↑(Clickで拡大)
これは同じ資料からで、今の女性は何歳くらいで子供(第一子)を生むのか、という図。
30~34歳の世代がいちばん多い。
かつては出産適齢期は二十代前半と言われていたが、二十代前半より三十代後半で第一子を産む女性のほうがずっと多いことも分かる。



↑(Clickで拡大)
次にこれを見ると、「子供を作る人」は減っているのに、「子供を3人以上作る人」は逆に増えていることが分かる。
都道府県別出生率は1位が沖縄県、それに宮崎県、島根県、熊本県、長崎県、鹿児島県、鳥取県、福井県……と続き、逆に低いのは東京都、京都府、北海道、神奈川県、奈良県、大阪府、埼玉県、千葉県……の順になっている。
都市部と北海道や北東北で低く、南で高い。

首都圏の出生率は低いのに人口は都市部集中が進むわけで、これは地方で生まれた人たちが労働力として都市部に流れていくことを意味している。

ここでもう一度最初の「少子化が格差社会を加速化させる」話を考えてみよう。

  • 都市部で生まれる子供には金持ち層が含まれ、その子たちは生まれながらにして親や一族の資産を受け継いでいる。
  • 都市部での出生率は低いが人口は集中している。これは地方で職にありつけない人が流れ込んできているから。
  • 都市部に流れた地方出身の若者たちは、子供を作る余裕などない。彼らは都市部では子供を作れないから、子供のいる家庭を持ちたいと思えば地方に戻るしかない。
  • 地方に残っている若い世代はできちゃった婚をして子供を作り、場合によっては多人数の子供を作る。
  • その子供たちが都市部へ流れていく。
……これのループが今の日本の社会構造なのだろう。

次に、都市部で生まれながらにしてかなりの資産を受け継いで育った子供たちがどのような大人になっていくのかを考えてみる。
このことについても週刊現代の同記事は触れている。
鬼頭宏 上智大学経済学部教授(日本経済史・歴史人口学)が、フランスの経済学者・トマ・ピケティの『21世紀の資本論』で論証した「過去2000年間、資産収益率は常に経済成長率より高く、今後はその差が拡大していく」という論を紹介した部分。
資産収益率とは、地代、金利、株の配当など、資産が生み出す価値の指標。
経済成長率は、労働者が労働によってどれだけの所得を獲得できるかの指標、だという。
平たく言えば、「働いて得る金より不労所得のほうが常に高額であり、効率がよい」ということだ。
同記事では、経済アナリスト・森永卓郎氏のこんな指摘も紹介している。
大金持ちは「働いたら負け」という価値観を持っている。
時給1万円の仕事と言われれば、労働者にとっては夢のような金額かもしれないが、その時給で1日8時間、年間300日労働をしたとしても年収は2400万円。1日14時間、年間365日休みなしで働いたとしても約5000時間にしかならないから5000万円。
つまり、年収5億円、10億円という人たちは、資産を使って稼ぐのであって、働いて稼げる額はたかだか知れている

金持ちは働いて金を得るという発想がない。金が金を生むということを学びながら大人になっている。
労働者は「費用」という数字でしかないから、できるだけ安く働かせて大きな利益を生むことを考える。
労働者一人一人が送る人生などどうでもいい。労働者の家庭などどうでもいい。そんなものは収益につながらないから。
しかし、少子化が進んで、労働者、特に安く使い捨てできる若者が減りすぎるのは困る。そこで「少子化対策担当相」などという大臣まで作って、労働人口を担う底辺層にアピールする。

たまらないのは、こうした「働かない金持ち層」がやりたい放題やれるシステムを支えているのが、富裕層に利用されている地方の労働層だということだ。金持ちが金持ちのための政権維持に汲汲とするのではなく、貧乏人たちが金持ちの腐敗政権をいじましく支えている。選挙のたびに「日頃お世話になっている○○さんに言われたから、一票入れてきたよ」と投票所に足を運ぶ。

出生率が高いのに人口は減っていく地方都市を地盤にしている政治家たちの顔ぶれを見よ。
彼らに投票している人たちと、都市部に子供たちを安価な労働力として送り出している家庭はほぼ一致している。
いい加減、利用されるだけ、瞞されるだけの人生を見直そうではないか。

ちなみに左の表はしんぶん赤旗に掲載された「政治資金で飲み食い 麻生副総理資金管理団体 クラブ・料亭・すし店…3年で6000万円」と題された記事より転載。3.11直後、麻生副総理資金管理団体が2011年4月1日付けで支払った飲み食い代金の一覧だそうだ。

日刊ゲンダイにも同様の記事が載っている。
安倍首相の資金管理団体「晋和会」の2010~2012年分の収支報告書をみると、「行事費」という名目で多額の飲食代を計上。その規模は3年間で3000万円近い。
「2009~2011年の3年間にキャバクラやクラブなど女性の接客を売りにする店に計59件、総額127万円を政治資金から支出していたのです。下戸の首相本人は一度も参加せず秘書らが通っていたようですが、安倍サイドはメディアの指摘を受け、慌てて報告書から支出を削除。秘書らに全額返納させました」(地元政界関係者)


麻生副総裁についても、
「オフィス雀部」という六本木の有限会社への支出を3年間で計22回、総額1805万5000円も計上
「六本木の会員制サロンを経営する会社で、麻生大臣はその店の“太い客”。経営者の女性は麻生大臣と過去に愛人関係にあったことを認めた、と6年前に週刊誌で書かれたこともある。ちなみに安倍首相も店の常連です」(自民党関係者)
なんだそうである。

戦争を引き起こすもの2014/11/04 20:33

■戦争を引き起こすもの

サイゼリヤで実感する格差社会時代

 最近、「戦争を引き起こす要因」としていちばん大きく、やっかいなものは「格差社会」の形成ではないかということに改めて思い至っている。
 まずは少し緩いところから話を始めてみたい。
 
「サイゼリヤに最近行きましたか? なんだかすごいですよ」という話をネットで読んだ。
導入部をまとめると、
  • 子どものつながりなどで地元のお父さん仲間と飲みにいくとき、まず最初にサイゼリヤに行く
  • いきなり飲み屋(居酒屋)になんて怖くて誘えない。なぜなら、お父さん仲間がそれぞれどのくらいの所得かがわからないから
  • お父さん仲間と仲良くなって、だいたいの生活感がわかった上で、「飲み屋行きませんか?」とか「焼肉行きませんか?」とか、お誘いの単価を少しずつ上げていく

そこで、嫁と久々にサイゼリヤに行ったのですが、「なるほど、ここにみんないましたか」という感じだったんです。

 まず年齢層が幅広い。10代から60代、70代まで幅広い客層が来店しています。そして、来店しているグループも2人や4人という複数人のグループではなく、1人で来ている方もいます。ファミレスだから当然ちゃ当然ですよね。しかも、1人で来ているお客さん(若い女性)がさらっと白ワインのデカンタを飲んでいたりするんですね。これは、居酒屋じゃ当然の風景ではないですよね。もちろん、複数人で来店して、「飲み屋がわり」に利用しているグループもおりました。なるほど、みなさんここにいらっしゃいましたか、と。

 考えてみれば、「お通し」もないし、ワインは1杯100円だし(しかも並々と注いである)、ワインをボトルでいれても飲み残しを持って帰っても大丈夫だし、サイゼリヤの「お酒を飲む」お店としてのサービスレベルは高いと思うんですね。今までは駅周辺の居酒屋を散策していたのですが、なんだか「サイゼリヤで全然いいじゃん」と言う気分になっちゃいました。(しかも、どんなに頑張って食べて飲んでも1人2,000円くらいにしかならない)

……これを読んで、今の日本の格差拡大社会を改めて実感すると同時に、身につまされてしまった。

何年か前、高校の同級生と飲んだとき、「本物のビールなんて久しぶりだなあ」と呟いたら、相手はすごく不思議そうな顔をして「じゃあ、いつも何を飲んでるの?」と訊いてきたことがあった。
僕は正直に、ビールは高くて買えないから、お客さんが来たときだけで、いつもは1缶88円の第3のビールを飲んでいる、と答えたのだが、相手はさらに困惑した顔をしていた。

その第3のビールも税率を上げる動きがあるという。代わりに「本物の」ビールの税率を少し下げると言うのだが、それは結局、今でも本物のビールを飲むことがあたりまえになっている富裕層に、本物のビールが飲めない貧困層がさらに貢ぐということを意味している。

こうした、金のない貧困層からさらに金を搾り取って富裕層に渡すという政策は今に始まったことではない。
軽自動車税を上げて、高級車にはエコカー減税。登録から13年超の古い車の自動車税は増税。稼ぎに関係なくみんなが負担する消費税は増税するが法人税は減税。輸出大企業は減税どころか還付金まである。

こうしたあからさまな貧困層圧迫・富裕層のズル援護政治をしている現政権を、なぜか貧困層が支えている。
安倍晋三という人物は、戦後の首相の中でも突出した危険思想に凝り固まった人物だと思うが、その危険な政権を貧困若年層が支持しているのはなぜなのか?

その答えに結びつきそうなものに今日出逢った。
8年前、朝日新聞社の「論座」(2007年1月号)に掲載された「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。……という文章だ。
一部を抜き出してみる。
格差問題の是正を主張する人たちは、高齢者が家族を養えるだけの豊かな生活水準を要求する一方で、我々若者向けには、せいぜい行政による職業訓練ぐらいしか要求しない。弱者であるはずなのに、彼らが目標とする救済レベルには大きな格差が存在するように思える。
 どうしてこのような不平等が許容されるのか。それはワーキングプアの論理が「平和な社会の実現」に根ざす考え方だからだと、私は考える。平和な安定した社会を達成するためには、その人の生活レベルを維持することが最大目的となる。だから同じ弱者であっても、これまでにより多く消費してきた高齢者には、豊かな生活を保障し、少ない消費しかしてこなかった若者は貧困でも構わないという考え方に至ってしまうのではないか。

確かに、右傾化する若者たちの行動と、彼らが得る利益は反しているように見える。たとえば一時期のホリエモンブームなどは、貧困層に属する若者たちが富裕層を支持するという、極めて矛盾に満ちたものだった。小泉政権は改革と称して格差拡大政策を推し進めたし、安倍政権もその路線を継ぐのは間違いない。それでも若者たちは、小泉・安倍政権に好意的だ。韓国、中国、北朝鮮といったアジア諸国を見下し、日本の軍国化を支持することによって、結果的にこのネオコン・ネオリベ政権を下支えしている。
 そこで当然、「それは本当に、当の若者たちを幸せにするのだろうか? 安直な右傾化は、若者たち自身の首を絞めているだけなのではないのか?」という疑問が提示されることとなる。だが私は、若者たちの右傾化はけっして不可解なことではないと思う。極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する。多くの若者は、それを望んでいるように思う。

識者たちは若者の右傾化を、「大いなるものと結びつきたい欲求」であり、現実逃避の表れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう。
 そのために、戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。

戦争は悲惨だ。
 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。
 もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。
 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。

私たちだって右肩上がりの時代ならば「今はフリーターでも、いつか正社員になって妻や子どもを養う」という夢ぐらいは持てたのかもしれない。だが、給料が増えず、平和なままの流動性なき今の日本では、我々はいつまでたっても貧困から抜け出すことはできない。
 我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である。

これを書いたのは赤木智弘氏。当時31歳。
8年前、この文章には多くの人が反応したらしいのだが、幸か不幸か僕は知らなかった。もっと社会状況がひどくなっている今になって初めてこれを読んだのはよかった。
というのも、8年前であれば、僕もまずは反論するか、反論するのも馬鹿らしいとうっちゃっていたかもしれないと思うからだ。その後の8年で絶望要素が一気に増えた今の時期にこの文章を初めて読んだことで、反射的な拒絶ではなく、冷静な読み方ができた気がする。
まず、これだけ挑戦的な書き方をしなければ振り向いてもらえないまでに追い込まれていたひとつの才能に触れ、読んでいて単に「興味深い」を超えて、慄然とした。若い世代が抱えている危機感や閉塞感がここまできていることを常に意識した上で自分もものを言わなければいけないな、と思った。
1955年生まれの僕は赤木氏より20年早くこの世に生まれた。この20年の世代差が内包する意識や感覚の違いを、この文章は教えてくれた気がする。

僕は今まで、塾の講師や学生時代のアルバイトで時給をもらったことはあるが、会社や組織の一員として給料(固定給)をもらったことがない。もちろんボーナスも退職金ももらったことがない。
それでもなんとか生きてこられたのは、子供を作らないと決めたことで自由に動けたから、失業中の景気が今ほどひどくはなかったから、あるいはぎりぎりのところで救いの手を差し伸べてくれる人たちがいたからだ。
もし、20年遅く生まれていたらどうやって生き延びていたのだろう、と想像してみる。
ネットやデジタルツールを駆使する技術習得は今よりずっと有利だっただろうから、そっち方面で創造的な仕事を成功させられたかもしれないが、運に恵まれないまま負けが続けば、世の中の仕組みに絶望し、疲れ果て、のたれ死んでいたかもしれない。そうならなかったのは運がよかったとしか言いようがない。

秋葉原無差別殺傷事件が起きたのはこの文章が掲載された翌年、2008年。「黒子のバスケ脅迫事件」が起きたのは2012年。いずれも犯人は逮捕後に社会への深い絶望感を文章にしている。
それらの文章を読むにつけ「これだけしっかりした文章を書ける人間なら、無差別犯罪に走る前に別の方法で人生を切り開けたのではないか」と思うわけだが、赤木氏の文章は、世の中への深い絶望感、不信感が根底に流れているという点では共通しているが、ぎりぎりのところで戦い方を模索している、突破口を探しているエネルギーを感じられた。
もし彼が職人道とか芸術とか学術研究とか、理屈抜きに自分の魂をふるわせるものを見つけていて、どんな状況であろうがその道を究めたいというような人生のテーマを持っていたら、エネルギーの使い方が違っていたのかもしれない。
もちろん、こうした文章を書いていく、書き続けることもひとつの「芸道」だし、彼はそれに向いているのだろうから、文章を突破口にしようと思ったことは正解だったのだろう。

……というのは余計なお世話だね。失礼失礼。

話を戻そう。

戦争が起きたとして、そこでまた何百万人もの人間が死に、生き残った者たちは「流動性のある時代」でチャンスを得るとしよう。
しかし、その後はどうなるのか?
その流動性が徐々に失われて世の中が停滞していき、戦争を扇動した挙げ句に自分たちだけは安全地帯でうまく生き残った富裕層の子孫たちが、再び今と同じような格差社会を構築するだけではないのか。
であれば、幸せな一生を過ごせるかどうかは、そのループの中のどの時点で生まれ、育ったかという運でしかないのか。

いや、おそらくもう、そうした「ループ」にすらならないのではないか。
戦後の経済成長を可能にさせた資源や環境がもはや残っていないのではないか。
であれば、必ず不幸を生み出すループを作るよりも、やはり、社会の構成員全体が違う価値観へのシフトをしない限り、社会の持続は不可能だろう。

きれいごとでまとめるつもりはないので書いてしまうが、僕はそこまで人間社会は賢くないと思っている。

牛丼福祉論騒動

実は、赤木氏のことを知ったきっかけは、雑誌「ひとりから」55号の中の「牛丼福祉論の発生とその現実 ──若者を見殺しにする国に生きて(連載12)」(赤木智弘)という文章だった。
僕はこの文章を一昨日(11月2日)に読み、その後、この筆者はどんな人物だろうとググった結果、8年前の「論座」に掲載された前出の文章を知った次第だ。

「牛丼福祉論」自体は、しょーもない話なのでいちいち論評するのもどうかと思うのだが、行きがかり上、紹介してみる。

昨年末のことになるが、PRESIDENT ONLINE の「ネット新時代は銀行不要」の現実味 -対談:津田大介×古市憲寿×田原総一朗 という特集での古市氏の発言が物議をかもした。
「なるほど、すき家はいいですよね。牛丼やファストフードのチェーンは、じつは日本型の福祉の1つだと思います。北欧は高い税金を払って学費無料や低料金の医療を実現しています。ただ、労働規制が強く最低賃金が高いから、中華のランチを2人で食べて1万円くらいかかっちゃう。一方、日本は北欧型の福祉社会ではないけれど、すごく安いランチや洋服があって、あまりお金をかけずに暮らしていけます。つまり日本では企業がサービスという形で福祉を実現しているともいえる」
この鼎談は前後2つに分けられていて、後半部分だけ読むとさしたる内容もなかったせいもあるだろうが、古市氏(1985年生まれ)のこの発言だけが切り取られて「とんでもない!」という反発、反論があちこちから出てきた。ここ とか ここ とか。

ちなみに、この発言の前後を見てみると、
【田原】ところで、会社員の多くはつまらないと思って仕事をしているのに、なんでみんな辞めないんだろう。
 ……という問いかけに対して、
【津田】最近、ある企業の勤務体系に感心しました。その企業は業績が落ちて人件費を抑制しなくちゃいけなくなったのですが、リストラはしたくない。そこで週5勤務を週4にして給料を20%カットするかわりに、副業禁止規定をなくした。つまり週休3日あるから、好きなように副業やバイトをしてもいいというわけです。これはワークシェアリングの一種。企業社会でなかなかチャレンジができずストレスを溜めている人にとって、この制度はいい回答になるんじゃないかと。

【田原】追い出し部屋より、ずっといい。

【津田】そうです。休みの3日間はバイトしてもいいし、NPOで社会貢献したり、次に進むために資格の勉強をしたっていい。さっき古市さんがいったような自称写真家も、これならやっていけるかもしれない。その中で手ごたえがつかめれば、独立や転職という選択肢も現実的になります。
 ……といったやりとりがあり、その後で、
【古市】それは、一生勉強して成長することを求められるわけですよね。それはそれで耐えられない人も出てきそう。

【津田】いや、休みの日はボーッとしたいなら、それでもいいんです。稼ぎが落ちても、困ったらすき家があるし。
 ……という流れを受けての発言だった。
で、この後は、
【津田】家賃も東京ではなく埼玉や千葉で、駅から徒歩15分だと、かなり安い家賃で住めます。そこにネットがあれば、健康で文化的な生活は十分に送れます。

【古市】今やネットも福祉の1つです。LINEやフェイスブックのおかげで、友達とすごく安くやりとりできるようになった。これも健康で文化的な生活に貢献していると思います。
 ……と続いている。
ここでも古市氏は「ネットも福祉の一つです」と、言葉の選び方として相当おかしなセンスを披露している。
だから、基本的にはuncorrelated氏がまとめているように、
  1. 社会通念と乖離した用語(福祉)の使い方をしてしまったこと
  2. 北欧の雇用規制と外食費というサービス財の価格を安易に結びつけたこと
が問題になってしまっているのだろう。
この鼎談の前半部分でも古市氏は、
日本の会社は、能力のない人でもそこにいれば仕事を与えられて定年まで勤められるという社会福祉的な要素を持っていました。でもみんな猪子さんの会社(※注:プロジェクトごとにチームが自在に編成されて、そこで個々の社員が能力を発揮し、プロジェクトが終わればチームも解散して一社員に戻るような柔軟なシステムの会社)のようになれば、あぶれる人が出てくる。
……と、ここでも「福祉」という言葉を使っている。

津田氏(1973年生まれ)は赤木氏(1975年生まれ)と同じ世代だ。
若い世代の代表として「日本にはまだまだ工夫次第でビジネスチャンスがあるんだよ」と言いたくて、その流れの中で「困ったらすき家がある」と口走ったのだろうが、それをうけて古市氏が「福祉」なんていう言葉を使ったから、読んでいる人たちの怒りを買った。(もしかしたら、まとめた編集者が下手なのかもしれないが……)
かつて底辺アルバイターとして「希望は、戦争」という挑発的タイトルで文章を書いた赤木氏が看過できなかったのは当然だろう。

雑誌「ひとりから」55号の中の「牛丼福祉論の発生とその現実 ──若者を見殺しにする国に生きて(連載12)」(赤木智弘)の内容を一部抜き出してみる。

低所得者が低所得者の福祉を担うというのは、すなわち昨今問題になっている「老老介護」と同じ構図である。本来であれば介護される側の人間が、より動けない人間の介護を担う。これがいびつな構図であることは明らかだ。
余裕を持った人間が余裕を持たない人間を助けることが本来の福祉の構図である。しかし、現状としてはお金を持った、すなわち余裕を持った人間は一方的に金で福祉を買うことができる。その一方で、お金の少ない人たちは、安い福祉、もしくは家庭内福祉に頼らざるをえない。そして安い福祉では同時に福祉に就く労働者の賃金も安くなるのだから、老人が得られる福祉と引き替えに、若い労働者の未来が切り捨てられることになる。

牛丼屋のような安価な商品を提供するシステムは、牛丼のような安価な食品を必要とする低賃金労働者のために必要とされ、同時にその労働は安価な賃金で働かされる低賃金労働者によって賄われる。
……こう分析した上で、「牛丼福祉論はブラック企業の肯定に他ならず、日本が今後超克するべき現状である」と明言している。

先にこの文章を読んでいたので、前出の「希望は、戦争」という文章をじっくり冷静に読めたのかもしれない。

赤木氏はこの8年間で、悲鳴に近い訴えを挑戦的に書くフリーターから「牛丼福祉論」に冷静に反論するフリーライターになった。
 本来、政府というのは市場の失敗を是正するために様々な権力をもって市場に介入する存在であるはずだが、日本の政府は一貫して労働市場については、雇用に助成金を出すなど企業側に金を放り投げることでしか介入してこなかった。企業とすれば市場が不自由であればあるほど、助成金が支払われるのだから、市場が健全化するはずもない。そうして官民一体となって日本の労働市場は不健全化されてきた。
 (前出『牛丼福祉論の発生とその現実」から)  

……これは僕もまったく同感だ。

言い換えれば、システムを変えない限りは問題は永遠に解決しない。

戦争でガラガラポンして社会が流動化すれば、底辺労働者にもチャンスが回ってくる、という文章での挑発は、議論を始めるためにぶっかける最初の冷水としてはある程度効果があるかもしれないが、彼自身、少なくとも今は本気でそんなことを考えているとは思えない。
ただ、彼が8年前に書いた文章は、今の日本の状況、若い世代が抱えているどうしようもない絶望感と、戦争でもいいから「ガラガラポン」が起きないだろうかという、意識下に隠された願望をリアルに伝えている。
これこそが「戦争を引き起こす要因」としていちばん大きく、やっかいなものではないだろうか。

であれば、まずはそうした潜在的な願望が自虐的に表出して右傾化社会を形成している状況を変えることは急務だ。
日本の現政権は、絶望世代にとっては一種魅惑的なジョーカーにさえ見える「戦争」を囁きながら、同時にその絶望世代からまともな生活をする環境を奪ってさらに追い詰めていく。

これが今の日本だ。

今十分な年金をもらって悠々自適の暮らしを送る「逃げ切った」世代も、僕のような、ぎりぎり逃げ切れる(修羅場を見る前に死ぬことができる)かどうか危うい世代も、若い世代からは憎悪の対象として見られているのかもしれない。しかし、それを認識した上でなお、彼らに「悪魔の正体をしっかり見抜け」「怒りの矛先を向ける相手を間違えるな」と言い続けることくらいはできるはずだ。

……というわけで、今日も、依頼原稿の締切を前に、一銭にもならないこんな文章を書いている。

『グリーンスリーブズ』大研究2014/11/17 18:10

Green Sleeves の譜面

『グリーンスリーブズ』のメロディは1つじゃなかった


Green Sleeves
↑Clickで拡大

『グリーンスリーブズ』(Green Sleeves)という有名な曲がある。
上の譜面は分かりやすいようにAm(移調記号なし)で記述したものなのだが、この曲は演奏者や歌手によって何種類ものメロディがある。
その「違い」を生み出しているのは主に上の譜面で赤く印をした音を#させるかどうかによる。
とりあえず、上の譜面の通りに歌っている例が↓これ。
■A■

=#  =N  =N  =#
=#  =N  =#  =#

Nは#なし(Natural)、#は半音上げているという意味だ。

ところが、↓これは、
■B■

=N  =N  =#  =#
=N  =N  =#  =#

……と弾いている。


さらにいろいろ聴いてみると、これ↓などは、
■C■

=N  =#  =#  =#
=#  =#  =#  =#

……だし、

■D■

=#  =#  =#  =#
=#  =#  =#  =#
☆全部#させている

■E■

=N  =#  =#  =#
=#  =#  =#  =#
☆最初だけがNaturalで後は全部#
後半部分の最初のコードが、僕としてはちょっと気持ち悪い……この曲全体の霞がかかったような雰囲気がぶちこわしじゃないのか、と感じる……

■F■

=N  =N  =#  =#
=#  =N?  =#  =#
☆ちなみにあたりの音程がかなり怪しい。ハーモニーのアレンジが不完全なのを微妙にごまかしている感じ。

■G■

=N  =#  =#  =#
=#  =#  =#  =#
(ただし、後半の2回目のはNっぽく歌っていて音程があやしい)

■H■

=N  =#  =#  =#
=N(2=#)  =#  =#  =#

……と、最初のところ、後半の1回目はナチュラルで、2回目は#で弾いている。(いい加減だし、下手)
基本、すべてに#をつけて演奏しているけど、気分でたまにNで、という人もいる↓
■I■

=#(2=N)  =#  =#  =#
=#  =#  =#  =#

意識してやったのかどうか分からないが、1回目のは#で、2回目のみナチュラルで弾いている。(ストロークでのテンポアップ後はまた#をつけている)

ひどいのはこれ↓で、

■J■
=N  =#  =#  =#
=#(N)  =#  =#  =#

……なんと、を笛は#していて、フィドル?は#させていないから、半音ずれてユニゾンしている。どっちかに合わせてくれないと気持ち悪いわ~。


……というわけで、ここまで例に挙げた10個の演奏、一番多いのは、

=N  =#  =#  =#
=#  =#  =#  =#

 ……と、最初だけナチュラルというパターン。
それにしてもこれほどまでにバラバラだったのかと、改めて呆れるというか驚いてしまった。
なんとなくごまかしていたり、アレンジやユニゾンのミスをそのままにしている例もある。

ナチュラルマイナー メロディックマイナー ハーモニックマイナー

メロディには、そのメロディを(構成するというよりは)醸し出す元になっている「スケール」(モード)というのがある。
誰もが知っているのは教会旋法と呼ばれるもので、メジャー(長調)なら、
ド・レ・ミファ・ソ・ラ・シド
……と、7音が、全音・全音・半音・全音・全音・全音・半音……の間隔で並んでいるスケール。

ナチュラルマイナースケール

この普通のメジャースケールを「ラ」から始めて、
ラ・シド・レ・ミファ・ソ・ラ
……と並べたスケールが普通の(ナチュラル)マイナースケール(短調)↓だ。


ところが『グリーンスリーブズ』のメロディは、メジャーでもマイナーでもない。
もの悲しいメロディだからマイナーかな……と思って、「ラ」で始まるとすると、上の譜面の赤く囲んだ部分で「あれ?」ってことになる。
もう一度譜面を見ると……、

この部分を全部#なしで演奏すれば、最後の解決前(の前)までは、普通のマイナースケールにきれいに収まる。
でも、これだとこの曲独特の神秘性、奥深さが伝わらない。の部分を#にすることで独特の響きを生んでいる。

メロディックマイナースケール

このマイナースケールの「ファ」に相当する部分と「ソ」に相当する部分を半音上げて、
ラ シ ド レ ミ ファ# ソ# ラ ……と並べたスケールがメロディックマイナースケールと呼ばれるもの↓

Melodic Minor Scale


メロディックマイナースケールは、通常は上がるときは6度と7度を#させるが、下がるときは普通にナチュラルマイナースケールで降りてくる↑。
当然、この「下降するときは#させない」を無視して、上昇も下降も同じ#付きのスケールというのもありえる。

ハーモニックマイナースケール

似たようなのに「ハーモニックマイナースケール」というのもある。
これは、「ファ」(6度)は#させずに、「ソ」(7度)だけをシャープさせる。
ラ シ ド レ ミ ファ ソ# ラ


ということで、マイナースケールに準じる?スケールには
  1. ナチュラルマイナースケール
  2. メロディックマイナースケール(下降時にはナチュラルマイナースケール)
  3. メロディックマイナースケール(下降時も上昇時と同じ)
  4. ハーモニックマイナースケール
の4通りあると思ってもいいかもしれない。

『グリーン・スリーブズ』の場合、を上昇スケールの一部だと考えれば、
ラドーレミーファ#ラ までひとかたまりで感じて、
レーシソー と降りてくる、と感じれば、は#にしないと気持ちが悪い。
でも、ラドーレミー をひとかたまりに感じて、ファミレーシソー と降りてくると感じる人は、ファをナチュラルのファでとらえても違和感がない。
だから、を#で歌ったり演奏したりする人は、は上昇していく中の頂点と感じていて、をナチュラルで歌う、演奏する人は、を下降が始まる最初だと感じているのだろう。

面白いなと思うのは、をナチュラルで歌い(演奏し)ながら、は#させる人。
上の動画で言えば、■C■がその典型。歌い出しで上がっていくところはナチュラルなのに、落ち着こうとするでは#にしている。
要するに何でもあり。
ただし、面白いことに、すべてのパターンにおいて、は#させている。ここを#させないで歌う(演奏する)人はひとりもいないようだ。
この2つの#は絶対に必要だと「すべての人が」認識しているわけだ。
試しにこの2つを#なしで歌ってみると分かる。曲として成立しないくらい台なしなのだ。

もちろん、メロディというものはスケールの上から外れてはいけないとか、そういうことではないので、これがいいな、と感じるように歌え(演奏すれ)ばいいのだが、こんな風に、順列組み合わせのすべてがあるようなとっちらかりぶりは驚いた。

ドレミファ音感の悲劇

ちなみに、僕は2歳10か月から約1年間、カナダ人のシスターについて音感教育を受けたそうだが、その記憶はほとんど残っていない。
ただ、1年経ったとき、ものすごく苦痛を覚えて、通うのを拒否した記憶がある。何を苦痛に感じたのかはよく分からないのだが、もしかすると「ドレミファ」で歌えないメロディが出てきたことによる「壁」だったのかもしれない。
メジャースケールもマイナースケールも同じもので、ドレミファソラシドで歌える。
でも、メロディックマイナーのようなスケールはドレミファでは歌えない。ファ#やソ#に相当する階名がないからだ。
もしこれをファ#は「ス」で、ソ#は「カ」と歌う、なんていう風に決まっていたら、メロディックマイナーは、
ラシドレミスカラ ラソファミレドシラ ……と歌えるのかもしれない。
しかしそれをやってしまうと、あらゆるメロディはなんらかのスケールの上に乗っていて、どうしても外れるときだけ一音、二音程度許容される、といったつまらない縛りが生じそうだし、ジョビンのボサノバの名曲、『Wave』や『Girl From Ipanema』のような転調が頻繁に出てくるメロディはどうするのか、という問題がある。
……そう考えていくと、ドレミファ音感(移動ド音感)の限界と悲劇が見えてくる。
ちなみに僕は『グリーンスリーブズ』の場合、を#したメロディは、最初は、
 ラドーレミー ……とマイナーで聞こえて、5番目の音(ファ#)から降りてくる部分は、Gスケールの
 シラソーミド ……に聞こえたりする。
とてもやっかいだ。
だから、こんなゆったりした曲なのに、指がパッと動かなかったりする。

教会音楽の中の『グリーンスリーブズ』

なぜこの曲についてここまでしつこく書こうとしたかというと、この曲は賛美歌にも採用されていて、最近一緒に練習している教会の伝道師(女性)が日本語でこれを歌ったからだ。
賛美歌に代表される教会音楽は、主に西欧音楽の名曲からメロディをもらってきている。概ねドレミファで歌えるシンプルなスケールのものがほとんど。
しかし、『グリーン・スリーブズ』はメジャーやマイナーのスケールではない。つまり、ドレミファでは歌えない。
僕は、『グリーン・スリーブズ』はの部分を#しないと気持ちが悪いのだが、ここを普通にナチュラルで歌う人は、教会音楽に慣れ親しんだ人が多いのかな、と推察したわけだ。
聖歌隊とか……。
ちなみに彼女は、

=#  =N  =なし  =#
=#  =N  =#  =#

だった。を#しているから、教会音楽に慣れている人は最初をナチュラルマイナーで歌う、ということでもなさそうだ。
ちなみにの「なし」というのは、日本語の歌詞が字足らずでその音を歌っていないという意味。

僕は全部#させているメロディ(上の動画では ■D■)がオリジナル?だと、ずっと思い続けていたのだけれど、今回いろいろ聴いてみて、自分はとっても少数派だったのだと知って、ちょっとショックを受けている(苦笑)。
……ま、ほんとになんでもアリになっているのね。50年前、100年前はどうだったのだろう。

最後に、この『グリーン・スリーブズ』という曲、起源はいろいろな説があるようだが、Wikiによれば、
歌のなかのレイディ・グリーン・スリーヴスは、非常に高い確率で、性的に乱れた若い女性であり、恐らく娼婦であったろうことが広く認められている。彼女の袖(スリーヴ)の色が緑であることは、恋人との情事が草のなかで行われ、草の色が染みついたことを示唆している。
またイングランドでは、緑という色は、売春と関連付けられていた。「緑の袖」は取り外しができ、その職業を示す印として、娼婦が付けることを求められたともされている。

……ということなので、魅惑的な娼婦に振られた男が歌ったのだとすれば、賛美歌にそのメロディだけが取り入れられて教会で歌われているのも、なんとも面白いな、と思う。

では、最後に駄目押し?でもう1つ。

■K■


前奏のピアノソロ部分では、
①=#  ②=#  ③=#  ④=#
⑤=N  ⑥=#  ⑦=#  ④=#

……で、サビの最初だけをナチュラルで演奏。
歌になると、
①=N  ②=#  ③=#  ④=#
⑤=N  ⑥=#  ⑦=#  ④=#

続く間奏部分も歌と同じで、Aメロは
①=N  ②=#  ③=#  ④=#

その後はどんどんアドリブ。
音楽はこれでいい。
☆自分の「音感」は「何型」なのだろう……と興味を覚えた方は、
⇒こちらのページ で簡単なテストができますよ。


あなたの音感は何型か?
あなたの音感は何型か?
-絶対音感の誤解-

 日本語しか分からない人とドイツ語しか分からない人が意思疎通するのが大変なように、持っている「音感」が違えば、同じ音楽を聴いても違う感動の仕方をする。
 これが固有の「音感型」であり、音感型についてきちんと理解している人はほぼ皆無である。
 また「絶対音感」というものを多くの人は誤解している。人間音叉のような聴覚を絶対音感と呼ぶとすれば、それは音楽の感性とはあまり関係がない。重要なのは「相対音感」である。
……音楽の感じ方、感動の仕方について、従来になかった分析を試みた書。執筆(1998年)から十数年を経て、電子ブックで登場。
Amazon Kindle Book 『あなたの音感は何型か? -絶対音感の誤解-』

内田 樹 講演「資本主義末期の国民国家のかたち」 まとめ2014/11/29 17:00

立憲デモクラシーの会 が2014年11月7日、早稲田大学8号館106教室で行った公開講演会の第一部・内田樹氏による基調講演の内容が⇒ここに掲載されています。
非常にすぐれた内容ですが、400字詰め原稿用紙に換算すると約80枚以上という長文になるため、読み切るのが苦痛だという人もいるでしょう。
お節介かと思いましたが、一人でも多くのかたに読んでいただきたいので、勝手に26枚程度の長さにまとめてみました。
原文に極力忠実にまとめることを心がけましたが、一部、言い換えたり表現を工夫した部分もあります。
疑問に思う部分などありましたら、原文で確認してみてください。


日本の戦後史は「のれん分け戦略」から始まった
なぜ安倍政権のようなデタラメな政治がまかり通っているのか?
彼らには彼らの「主観的一貫性」がある。それは「対米従属を通じての対米自立」──端的に表現すれば「のれん分け戦略」とも呼ぶべきものだ。
日本人にとっては、「徹底的に忠義を尽くし、徹底的に従属することによって、ある日、天賦のごとく自立の道が開ける」という構図には少しも違和感がない。

敗戦直後の占領期日本では、「この国にはもはやアメリカに対して抵抗するような勢力は存在しない」ということを強く訴えた。占領体制から脱しても、決してアメリカに反発したり、アメリカに対抗する敵対勢力と同盟したりすることはないですよ」と誓約しないと、主権が回復できなかった。それ以外に選択肢がなかった。

1970年ぐらいまでの戦後四半世紀の政治家たち(吉田茂、岸信介、佐藤栄作あたりまで)は、対米従属を通じてアメリカの信頼を獲得し、なんとかアメリカの属国状態から抜け出して自立できるように、アメリカに対して「のれん分け」戦略を貫いた。そしてそれは実際に、1951年のサンフランシスコ講和条約(戦後たったの6年で形の上では主権回復)、1972年の沖縄返還で、「対米従属していればご褒美がもらえる」という強烈な体験となった。

沖縄返還は、当時の佐藤栄作政権がアメリカのベトナム戦争に対して全面的な後方支援体制をとったことへのご褒美。アメリカの帝国主義的な世界戦略に無批判に従属する日本の態度は国際社会からも非難されたが、長期的な国益という点ではそれなりの合理性があった。
また、政治家だけでなく、官僚も学者も知識人も、日米関係というのは非常に複雑なゲームだと理解していて、できるだけ少ない従属で、できるだけ多くの主権回復を得るという外交ゲームとしての複雑な取引を懸命にやっていた。

「のれん分け戦略」の限界と劣化
しかし、「国家戦略」としての対米従属戦略が有効だったのはこのへんまでで、1972年の沖縄返還以降、現在までの42年間は具体的な成功例が何もない。
成功例がないのに、政治家が世代交代して、「対米従属していさえすればよい」という怠惰で単純な外交に堕してしまった。

特に1980年代からは外交の緊張感が一気に失われた。面従腹背のポーズのうち「面従」だけが残って、「腹背」が消えてしまった。
対米従属という10円硬貨を入れればご褒美のガムが出てくる自動販売機のような、ほとんど幻想のようなものになってしまった。

政界、財界、メディア、学会、どこにも、対米従属・日米同盟機軸以外の選択肢を考える力を持つ人がいなくなった。
フィリピンはアメリカの軍事的属国だったが、憲法を改正して外国軍の駐留を認めないことにした。その結果、米軍はクラーク、スーヴィックという最大の海外基地からの撤収を余儀なくされた。
韓国でも、激しい反基地運動を展開した結果、在韓米軍基地は大幅に縮小され、ソウル市内にあった龍山基地も移転させられた。
しかし、日本のメディアは、韓国やフィリピンにおける反基地運動をほとんど報道しなかった。

以前、海外特派員協会に呼ばれて講演したときに、司会のイギリス人ジャーナリストから「韓国の反基地運動についてはどう思うか」と質問され、「意見もなにも、そのこと自体を知らない」と答えたら、驚かれた。「安全保障や外交のことを話している人間が、隣国の基地問題を知らないのか?」と。しかし、実際、日本のメディアからそんな話を聴いたことがなかった。

韓国の場合、激しい反対運動の結果米軍基地は縮小させたが、「戦時作戦統制権」はまだアメリカに持たせている。つまり、米軍基地は邪魔だから出て行ってもらいたいが、北朝鮮と一戦構えるときには米軍に出動してほしい、という複雑でトリッキーな米韓関係を展開している。
フィリピンもそうだ。一旦は米軍基地を邪魔だから出て行けと追い出しておきながら、南シナ海で中国との領土問題が起きると、やはり戻ってこいと言って、米軍駐留体制を再構築しようとしている。
どちらも支離滅裂なように見えるが、「自国の国益を最優先」ということでは極めてシンプルな論理だし首尾一貫している。

日本は主権国家としての外交をしていない
自国の国益を追求し、他国の国益との間ですり合わせをしながら落としどころを探す、という「主権国家としての外交」を日本だけが放棄してしまった。
日本だけが、アメリカ相手にそういう外交ゲームをしていない。アジア諸国がアメリカと五分でシビアな折衝をしている中で、日本だけがアメリカに何も要求せず、唯々諾々とアメリカの指示に従っている。近隣の国がアメリカ相手に堂々とパワーゲームを展開しているというニュース自体が、日本ではほとんど報道されない。

その典型的な例が、鳩山首相が「普天間基地を国外、それが無理ならせめて県外に移転したい」と言ったときの日本国内の反応だろう。
日本国土のわずか0.6%の面積である沖縄に、国内の75%の米軍基地が集中している異常さを解消したいというのは主権国家として当然のことだろうが、これに対して外務省と防衛省はたちまち「とんでもない暴言」という反応をして、首相の足を引っ張り、退陣の流れを作った。

このとき、アメリカが「鳩山をつぶせ」と指示したとは思えない。日本国内から自発的に「鳩山が首相でいるとアメリカの国益が損なわれるリスクがあるから引きずり下ろそう」という動きが出たとしか見えない。政治家、官僚、メディアが総力を上げて「アメリカの信頼を失った鳩山は辞めるべきだ」という流れを作った。
これなどは、「アメリカの国益を最大化すること=日本の国益」という単純化された信仰心に近いものを日本の指導者層が持ってしまった、知的頽廃の典型例ではないか。

映画監督のオリバー・ストーンが2013年に来日し、広島で講演したときの発言。
「日本にはすばらしい文化がある。映画、音楽、美術、食文化……どれもすばらしい。しかし、日本の政治には見るべきものが何もない。日本の歴代総理の中で、世界がどうあるべきかについて何ごとかを語った人は一人もいない。いかなる大義も掲げたことがない。日本は政治的には単なるアメリカの属国(client state)、衛星国(satellite state)だ」
これはアメリカ人のみならず、国際社会から見たときの日本に対するある種の典型的な印象ではないか。

主権国家の政権が配慮するのは、国土の保全、国民の安寧、通貨の安定、外交や国防についての最適政策の選択……といったことだろう。鳩山首相の手法が稚拙だったとしても、望んだ内容はまともなことだった。しかし、主権の第一条件である「国土の回復」を要求した従属国(日本)の首相が、国土を占領している宗主国(アメリカ)にではなく、占領されている側の自国の官僚や政治家やジャーナリストによって攻撃を受けるというのは倒錯的という他ない。

劣化・倒錯には理由がある
このような病的傾向が生じたのは、対米従属を通じての対米自立という敗戦直後に採用された経験則の有効性について、そのつど吟味することなく、機械的に適用し続けてきたからだ。
沖縄返還後42年間、アメリカから奪い返したものは何もないのに、このままさらにもう50年、100年と、この「のれん分け戦略」を継続すべきだという判断の根拠は何なのか。

それは、対米従属路線を疑うことなくひた走ってきた結果「今日の地位」を得た人たちが国のトップにいるからにほかならない。彼らにとっての国益とは自己利益(私欲、利権)になってしまっている。かつてのプレイヤーたち(政治家、官僚、学者、ジャーナリスト……)は、対米従属を取引として日本の国益を引き出そうとしてゲームを組み立てていたが、今のプレイヤーたちは違う。アメリカの国益を増大させると「わが身によいことが起こる」と考える人たちが政策決定の要路に立っている。

この度合が行き過ぎているため、アメリカを始めとする諸外国は日本の政治家を「国益を増大しようとしているプレイヤー」ではなく、単なる売国奴(内田氏は清朝末期に使われた「買弁(ばいべん)」という言葉を使用)と見ている。二国間の相反する国益をすり合わせるゲームのプレイヤーとしてではなく、最初から国益を捨てて八百長負けを持ちかけているわけで、まともなゲームの相手として見られない。


秘密保護法、集団的自衛権の意味
例えば、特定秘密保護法。これは民主国家である日本が、国民に与えられている基本的な人権である言論の自由を制約する法律であって、国民にとっては何の利益もない。そのような反民主的な法律の制定を強行採決をしてまで急ぐ理由は「こうした法律がなければアメリカの軍機密が漏れて、日米の共同的な軍事作戦の支障になる」ということらしい。アメリカの国益を守るためなら日本国民の言論の自由などは抑圧しても構いませんよ、と安倍政権は自ら申し出たわけだ。

倒錯もここまでくるとアメリカも気味が悪いだろう。なぜ日本政府は国民の基本的人権の制約という致命的な犠牲を自ら進んでアメリカのために捧げるのか、と。

真剣に諜報問題、防諜の問題を考えるなら、国家の中枢に入り込んでしまった自国民スパイからの情報漏洩を防ぐことが緊急課題だが、特定秘密保護法は、政府や自国の官僚にはモグラはいない、身内から外に機密が漏れることはないという前提で制定されている。
実際には日本の国家権力の中枢からは日常的に国家機密がアメリカに漏洩しているだろう。政治家や官僚たちが個人の利益を増やし、保身を固めるためにアメリカに機密を漏らすシステムの存在を隠し、よりいっそう堅牢なものとするための法律が特定秘密保護法である。
アメリカ国務省は、日本人は頭がおかしくなったと思ったのではないか。

集団的自衛権もそうだ。
集団的自衛権とは「他人の喧嘩を買う権利」のこと。
世界史における発動例を見る限り、ハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱、ベトナム戦争、アフガニスタン侵攻など、ソ連とアメリカという二大超大国が、自分の「シマ内」にある傀儡政権が反対勢力によって倒されそうになったときに、「てこ入れ」するために自軍を投入するときの法的根拠として使った事例しかない。
しかし、日本にはてこ入れすべき「衛星国」や「従属国」はない。

現実的にはアメリカが自分の「衛星国」や「従属国」にてこ入れするときに、日本もくっついていって、アメリカの下請で軍事行動をとるという形しかありえない。
アメリカでは、自国の若者を中東や西アジアやアフリカに派兵して死なせたり精神を病ませることにもう耐えられなくなっている。そこで無人飛行機を飛ばしたり、離れた場所からミサイルを打ち込んだりしている。

どうしても地上戦が必要な事態には、民間の警備会社(傭兵会社)に戦闘のアウトソーシング(死者の外部化)を依頼する。これには莫大な金がかかる。
ところが、日本が集団的自衛権の行使容認を閣議決定してくれた。これからは日本の自衛隊が死者の外部化を無料でやってくれるというのだ。
これからは自衛隊が海外に出ていって自衛隊員がそこで死傷する。アメリカに代わって日本がテロリストの標的になる。テロを防ぐための莫大な費用も日本が率先して分担してくれる。正気か? と、アメリカはびっくりしたことだろう


(ここから3ブロックは原文をそのまま掲載)
 僕はいつも、自分が国務省の小役人だったらという想定でものを考えるんですけれども、上司から「内田君、日本は特定秘密保護法といい、集団的自衛権行使容認といい、アメリカのためにいろいろしてくれているんだけれど、どちらも日本の国益に資する選択とは思われない。いったい日本政府は何でこんな不条理な決断を下したのか、君に説明できるかね」と問われたら、どう答えるか。

「たしかに、国益の増大のためではないですね。沖縄返還までの対米従属路線であれば、日本が犠牲を払うことによってアメリカから譲歩を引き出すというやりとりはあったわけですけれども、この間の対米従属をみていると、何をめざしてそんなことをしているのか、それがよく見えない。たぶん、彼らは国益の増大を求めているのではないんじゃないか」と。そう答申すると思います。

今、日本で政策決定している人たちというのは、国益の増大のためにやっているのではなくて、ドメスチックなヒエラルキーの中で出世と自己利益の拡大のためにそうしているように見えます。つまり、「国民資源をアメリカに売って、その一部を自己利益に付け替えている」というふうに見立てるのが適切ではないかと思います、と。

(要約に戻る)
国民資源と本当の「国益」
「国民資源」とは、国がこれから100年、200年続くためのストックのことだ。具体的には、民主制という治世システム、国土、国民の健康、文化……。これに安易に手をつけてつぶしてはいけない。

ところが、今の日本政府は、保持すべき国民資源を次々と商品化して市場に安売りしている。それを世界中のグローバル企業が食いたい放題に食い荒らすことができるような仕組みを政官財が率先して作ろうとしている。
彼らのそういう気違いじみた行動を動機づけているものは何か?
国益の増大に結びつく回路が存在しない以上、私利私欲の追求でしかない。

これは典型的な「買弁」的行動様式であり、ふつう、主権国家では起こらない。植民地でしか起こりえない。
買弁とは、自分の国なんかどうだって構わない、自分さえよければそれでいいという考え方をする人たちのこと。日本で「グローバル人材」と呼ばれているのは、そういう人たちのこと。「グローバル」という言葉はすべて「買弁」という言葉に置き換えても意味が通るのではないか。文科相の「グローバル人材育成」戦略などは「買弁人材育成」と書き換えた方がよほどすっきりする。

安倍晋三という人物は、内心、対米自立を果さなければならないと思ってはいるのだろうが、それを「国益の増大」というかたちで考える能力がない。そういう複雑なゲームができるだけの知力がない。だから、アメリカに対して一つ従属的な政策を実施した後には、一つアメリカが嫌がることをする、という子供のようなゲームを仕掛けている。
集団的自衛権成立の後に、北朝鮮への経済制裁を一部解除。沖縄の仲井真知事を説得して辺野古の埋め立て申請の承認を取り付けた後はすぐに靖国参拝。自分が個人的にしたいことでアメリカが嫌がりそうなことをわざとやってみせる。それでアメリカと五分五分の交渉をしていると自己満足しているのだろうが、ここまでくるとお笑いにさえならないレベル。



「世界」も「国」も二次元の地図ではない
さて、ではこの国をどうすれば立て直せるのか。
世界を二次元的に「地図」としてとらえ、その中での自分たちの取り分(パイ)はどれぐらいかという点で国威や国力を格付けしていてはいけない。それはビジネスマンの発想。
国とはそういうものではなくて、「時間の中で生きている」もの。
我々がこの国を共有している、日本なら日本という国の構成メンバーであるというのは、同時代に生きている人間だけではなく、この国で死んだ人、これから生まれてくる子供たちも含まれてのこと。
過去に生きた人たち、未来を生きる人たちまで含めて、一つの多細胞生物のような共生体を私たちは形づくっている。そこに「国」というものの本当の強みがある。

今の日本にはグローバリズムとナショナリズムが混交している。
グローバリストはしばしば同時に暴力的な排外主義者でもある。なぜなら彼らは世界を二次元的にしか捉えていないから。「グローバルな陣地取りゲーム」をして、自分たちの取り分を増やそうとする。その点でグローバル資本主義者と排外的ナショナリストは同質だ。

排外主義ナショナリストたちはよく死者を自説の傍証として呼び出し、都合のよい文脈で使っているが、本当の意味で死者への敬意がない。自説に役立つ死者は利用するけれど、自説を覆す死者や、自説に適合しない死者たちは存在しなかったことにする。
だから伝統文化に関しても関心がない。これから生まれてくる人たちの人生にも興味がないし、責任も持たない。

国をたて直すための2つの「資源」
「くに」を立て直そうとするときに僕らが求める資源は、つまるところ二つしかない。
一つは「山河」。
国破れて山河あり。政体が滅びても、経済システムが瓦解しても、山河は残る。そこに足場を求めるしかない。
山河というのは山紫水明の景観というだけでなく、言語であり、宗教であり、生活習慣であり、食文化であり、儀礼祭祀である。我々自身を養い、我々自身を生み、今も支えている。人工的なものと自然資源が絡み合ってつくられた非常に複雑な培養器のようなもの。

もう一つは死者。
死者たちから遺贈されたもの。歴史。それを僕たちの代で断絶させてはならない。未来の世代に伝えなければならないという責務の感覚。

次に取り得る方法論。
僕らは、今存在するもの、具体的に物としてあるものを積み上げていって一つの組織や集団をつくっているのではなくて、むしろ「そこにないもの」を手がかりにして、組織や身体、共同体というものを整えている。
これは理屈ではなく僕は合気道などを通して実感としてそう思っている。
今、日本人に求められているものは、日本人がその心身を整えるときのよりどころとなるような「存在しないもの」なのではないか。
実際には存在しないかもしれないけれど、ありありと思い浮かべることができるもの。それを手にしたと感じたときに、強い力が発動するもの。自分の体が全部整っていて、いるべきときに、いるべきところにいるという実感を与えてくれるもの。

例えば、太刀というものを、「手を延長した刃物」ではなくて、それを握ることによって体が整い、これをよりしろとして巨大な自然の力が体に流れ込んでくるような装置と考えてみる。
今、日本が主権国家として再生するために、僕らが必要としているものも、そんなものかもしれない。
存在しないもの、存在しないにもかかわらず、日本という国を整えて、それが必要なときには必要な場所に立たせ、何をなすべきかを教えてくれるようなもの。そのような指南力のある「存在しないもの」を手がかりにして国を作って行く。
日本国憲法はそのようなものだと思う。

日本国憲法は理想主義的な憲法であって、この憲法が求めている「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する」ことは、たぶん未来永劫実現しない。この地上では実現するはずがない。
でも、そのような理想を掲げることは、国のかたちを整える上で非常に有効なことだ。
何のためにこの国があるのか、自分の国家は何を実現するために存在するのか、ということを知るためには、我々が向かっている、たどりつくことのない無限消失点をしっかりとつかまなければいけない。それなしではどのような組織も立ちゆかない。

私が考える効果的戦略・方法論
現在の安倍政権は、アメリカとも、中国とも、韓国とも、北朝鮮とも、ロシアとも、近隣の国どこともまともな外交会談ができない。ほとんど「来なくていい」と言われている。
いくらなんでももうちょっと合理的な思考をする政治家に日本を統治してほしいという要望が、国内より国外で起きている。そうでないと外交がゲームにならないから。
まともな国だったら、個人的な政治的延命のために国政を左右するような人間とは気味悪がって交渉したくないと思うだろう。ここまでひどい政権だと、長くは保たないのではないか。

安倍政権である限り、これから先、対米、対中、対韓、対ロシアのどの外交関係もはかばかしい進展はないだろう。どの国も「次の首相」としてもう少しもののわかった人間が出てくることを待っていて、それまでは未来を縛るような約束は交わさないつもりではないか。

ただ、安倍晋三が退場しても、次に出てくる政治家もやはり別種の「買弁政治家」であることに変わりはない。看板は変わっても、本質は変わらない。

では、このような政治体制を批判する有効な方法はどんなものだろうか。
彼らが際立って邪悪であるとか、愚鈍であるとか言う必要はない。そうした方法は有効ではない。
僕は、為政者に向かって、あなた方はこういうロジックに従ってこのような政策判断をして、こういう動機でこの政策を採用し、こういう利益を確保しようとしている……ということをはっきり告げることで、政治家本人にも、それを結果的に支えてきた国民にも「メカニズム」を開示していきたい。
彼らの中に走っている主観的な首尾一貫性、「合理性」をあらわにしてゆく。その「学術的」作業こそが、最も強い批評性を持っているだろうと僕は思う。

知識人のネットワークを政治的な運動として展開するということに対しては、その有効性に対して僕はいささか懐疑的である。
人の暴走を止めようと思ったら、その人が次にやりそうなことをずばずば言い当てて、そのときにどういう大義名分を立てるか、どういう言い訳をするか、全部先回りして言い当ててしまえばいい。それをされると、言われた方は不愉快だから、じゃあ違うことをやろうということになったりもする。そういうかたちであれば、口舌の徒でも政治過程に関与することができるのではないか。

(最後の部分はそのまま転載)
今、現実に日本で国政の舵をとっている人たちが何を考えているのか、どういう欲望を持っているのか、どういう無意識的な衝動に駆動されているのか、それを白日のもとにさらしていくという作業が、実際にはデモをしたり署名を集めたりするよりも、時によっては何百倍何千倍も効果的な政治的な力になるだろうと僕は信じております。
 私も、これからこういう厭みな話をあちこちで語り続ける所存でございます。何とかこの言葉が安倍さんに届いて、彼がすごく不愉快な気分になってくれることを、そして俺はこんなことを考えているのかと知って、ちょっと愕然とするという日が来ることを期待して、言論活動を続けてまいりたいと思っております。


(2014年11月7日 立憲デモクラシーの会 公開講演会 基調講演
「資本主義末期の国民国家のかたち」  内田樹)

☆原文(http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/activities2)を要約

原文は講演を丸ごと書きおこした文章で、400字詰め原稿用紙で約80枚ありますが、それを一部アレンジしながら約26枚分に縮めてみました。(まとめ文責:たくき よしみつ)

「小4なりすまし事件」雑感2014/11/30 12:13

なりすましや絵作りの手法と技術について

「10歳の中村」を名乗るネットユーザーが作った「どうして解散するんですか?」というサイトが「小学4年生が作ったとは思えない」と疑惑の目で見られ、すぐに「偽装」がばれて、書いた本人(20歳の大学生)が陳謝するという騒動があった。
書いたのはNPO法人「僕らの一歩が日本を変える」の代表・青木大和氏(20歳)。
彼は、「僕の軽率な言動により、関係のない多くの方に多大なご迷惑をおかけしてしまいました。本当に申し訳ありませんでした」と謝罪し、「僕らの一歩が日本を変える」の代表を辞任した。
これに対しては、多くの人たちが様々な反応をしている。
中でも、
「文章は世の中を動かせない」 (小田嶋 隆)
と、
「青木大和の焦りなどについて」 (宇佐美典也)
は、対照的で興味深い。
愛があるかないか、あるいは文章に表れるストレス指数のサンプルとでもいうか……。

ちなみに、僕は青木大和という名前に見覚えがあった。最初にこの事件を知ったとき、「あれ? もしかしてあの彼?」と気づいた。
今年出した『デジタル・ワビサビのすすめ 「大人の文化」を取り戻せ』(講談社現代新書)の中に、彼と「スーパーIT高校生」(当時)Tehuくんの対談(東洋経済ONLINE)(2014年1月2日)の一部を引用したのだった。
元記事は⇒ここ(前編)⇒ここ(後編)に今でもあるので読める。
一部を紹介すると……、
青木:(略)オレはデモなんかしても社会は変わらないと思っています。

Tehu:ホント、意味のあるデモって何?

青木:オレもそれがわからないから、デモが起きると絶対見に行くんだけど、参加者の年齢層がめちゃくちゃ高いんだ。見た感じ、定年すぎた人たちっぽくて、そのあたりって世代的に叫びたい世代じゃん。みんな時間を持てあましていて、鬱憤を晴らしに来てるんじゃないのかなって思う(笑)。

Tehu:政治家からそう見なされてもおかしくないよね。だからこそ、石破さんが「テロ行為だ」と言ったわけで。

青木:若い人にもぜんぜん響いてない。友達と「デモのニュース見た」という話はするけど、実際に行こうってヤツはやっぱりいなくて、結局、そこ止まり。少数の中で回していて、果たして意味があるのかな。そこを自分は変えていきたいんです。
でも、若い人はデモには行かないけど、ツイッターで思いを書く人はたくさんいるよね。

Tehu:いるいる。

青木:ということは、若者は政治に関心がまったくないわけじゃなくて、関心はあるんだけど、その発散場所がたぶんわからないんです。とくに、オレたち10代なんてまだ選挙権がないから、「選挙権を行使しろ」と言われてもできないし、「政治家になれば」って言われても、被選挙権もないわけで。それなら、そういう環境を自分たちがつくっていくしかない。

Tehu:(略)そもそも20歳未満は選挙権もないから、議員さんにとっては無視したって何の影響もない。それについてはどう思う?

青木:めちゃくちゃ憤りがある。結局、選挙に勝つためには、選挙権を持っている人に会ったほうがいいわけです。でも、政治ってその場その場ではなくて、10年後、20年後、30年後の社会を描いていくために、コツコツ積み上げないといけないものでしょ。若い人の意見をないがしろにするのは、先を見ていないってことだよね。

Tehu:だね。

青木:ただ、そういう現実を嘆いているだけでは仕方がないから、政治家が若者の話を聞いてくれるような環境を自分たちでつくらないといけない。自分たちも若者の意見をきちんと言わないといけない。それがいますごく求められていると思います。

Tehu:ボクは何か発言すると、大人から「若造のくだらない意見だ」とdisられることもあるんだけど、一方で、活発な若者の多くが団塊の世代を敵視しているのも違和感がある。「老害廃絶」って。

青木:オレらが求めていることはそうじゃないんだよね。よく「世代間対立」といわれるんだけど、別にオレらはオレらで思いがあるし、お年寄りはお年寄りで思いがあるわけだから、お互いに意見を出し合って妥協点を探ればいいと思う。
また、メディアも世代間対立を煽りたがるんだ。オレが「高校生100人×国会議員」の討論会を開いたときも、記事のタイトルで“若者が老人にモノ申してる”感を出そうとする。あれはやめてほしい。
いろいろな大人と接してきて感じるのは、60代以上のおじいちゃん、おばあちゃん世代って、意外とオレたちに優しいんですよ。孫世代だから。逆にオレらの親世代や30代ぐらいの人たちのほうが厳しい目を持っている。

Tehu:ボクらを「ゆとり世代」というのも、そこらへんな気がする。50歳ぐらいまでかな。
とはいえ、お年寄りと仲良くしても、ボクらとは意見がぜんぜん違うんだから、お年寄りに政治を任せてしまってはいけないわけです。

青木:いやあ、そうです。

……こんな感じの対談。読んでいてとても面白かった。
こんな高校生たちがいるのだと知って、かなりびっくりしたものだ。

ちなみに、『デジタル・ワビサビのすすめ』に引用したのは次の箇所だ。
Tehu:いま政治的に不安定なこともマズいですよね。総理は「若者がんばれ」って言うけどさ。

青木:政治がうまくいかなかったら、みんなバイバイじゃないですか。「おまえら、がんばれ」ってオレら背中叩かれるだけ。え? もう手札ないじゃん、みたいな。

Tehu:もちろん、ボクらもがんばるけどね。

青木:むちゃくちゃがんばりますよ、オレらは。

Tehu:だけど、あなたたちもがんばりなさいよって。50代、60代の逃げ切り世代にも、ちょっと責任を負わせたいわけです。

Tehu:でも、いまの10代は自分の意見を堂々と言う人が多いけど、大人とコネクションを作らないよね。ボクらは作ってるけど、ほかの10代は大人と手をつなぎにいくヤツがあんまりいない。

青木:横のつながりばっかり意識して、縦のつながりを持とうとしないよね。横のつながりのまま、ステップアップしていこうとしている。オレは横と縦がマッチングして、初めて先が見えてくると思っているんですよ。横だけでつながっていても前に進まないけど、大人と組んで縦にもつながると、三角形になって一気に進む。

──10代が横だけでつながるのは、目的よりも仲間意識が最優先ということ?

青木:そうです。だから、学生の間で発展途上国支援が異様に流行るんです。それって、横のつながりだけでできるから。縦につながらずに横でグループになって、発展途上国に行って「手伝います」って言えばできちゃう。しかも、それって上から目線なんです。「オレらがやってやる」って。
 そういう活動を就活でアピールしたりするのが、もうナンセンスで……。本質的に社会を変える意識がないんですよ。学生団体も横だけのつながりでサークル化しちゃってる。
(略)何かしたいという意識はあるんだけど、小さいコミュニティの中でちょっと有名になればそれでいい。ツイッターのフォロワーが1000人ぐらいだと、「あの人、マジすげえ」みたいな。オレは10年後、20年後の社会をオレらが担っていくんだから、社会をどうしたいかという話をしたいのに、みんなそういうことは考えていない。本当に社会を変えたいと思っている人がなかなかいない分、Tehu君と話が合うんです。

Tehu:やっぱり大人と手をつながないとダメですよ。

本にも書いたが、二人がこんなふうに自分たちの世代へのダメ出しもしていたことがとても新鮮だった。
横に(同世代の仲よしサークル的に)つながっているだけではダメで、世代を超えた縦のネットワーク作りが必須だ、というのだ。

これを読んでいて「予備知識」があったために、今回の事件は「ああ、あの子がやらかしたか~」という印象で、僕自身は、彼をぼろくそに言うなどという気持ちはまったく抱かなかった。
だって、まだ20歳になったばかりなのだ。自分が20歳のときはどうだったかを思い出せば、とても偉そうなことは言えない。

一方で、僕と同い年の安部晋三首相が、自身のフェイスブックで「批判されにくい子供になりすます最も卑劣な行為」と取り上げたことで、「一国の首相が20歳の一個人に対してわざわざコメントするようなことか」「大人げない」「首相のほうがよほど子供っぽい」などなど、これまた批判が噴出した。
複数のメディアでもこのことが取り上げられた後は、この書き込みを削除してしまったが、その後も、安部晋三アカウントのフェイスブックでは、
意見の内容や意見を述べる人の立場に嘘や偽りがあってはなりません。このことは、大人でも子供でも、どのような世界のどのような場面にあっても変わらぬ普遍の原則です。いっとき人を欺き出し抜くようなことはできても、結局『詭道は正道にかなわぬ』ものです。
それでも、好奇心や見栄に負けて過ちを犯してしまったら、行動を改めればよい。
小学4年生と偽った大学生も「そのアイディアやエネルギーを強くて明るい将来に向けてほしい」と心から願います。
などと書いている。

あ~、やってらんないなあ~。

……なんか、引用しているだけでアホらしくなってきたので、このへんでやめよう。
それでも一言だけ言うなら……:

この「安部晋三」というアカウントのフェイスブックを、安部晋三自身がキーボード叩いて書いていると思っている人って、どれくらいいるのかなあ……。

「なりすまし」っていっても、いろんなレベルのがあるよね。
僕は若い頃タレントや脚本家のゴーストライターとしての仕事をいくつかやったが、その中の一人は今、政治家になっている。
イザヤ・ベンダサン という「ユダヤ人」が書いた『日本人とユダヤ人』という本が300万部という驚異的なベストセラーになったこともある。
このイザヤ・ベンダサンという「筆名」を「さあ、ウンコをしよう、という意味だ」と看破したのは故・遠藤周作氏だったかな。
あの当時、親父が山本七平氏に講演依頼をしにいくというので、3畳くらいのスペースに古書を積み上げた「山本書店」についていったこともある。「絵作り」ってこういうことなのかと、感心したものだ。

若い青木大和くんはなりすましの手法や絵作りの技術が未熟だった。でも、少なくとも彼は、小学4年生として書いた「どうして解散するんですか?」という文章も、それが引き起こした騒動に対するお詫び文も、自でキーボードを叩いて書いている(と、僕は信じている)。

もう一度言うよ。
「安部晋三」というアカウントのフェイスブックを、安部晋三自身がキーボード叩いて書いていると思っている人って、どれくらいいるのかなあ……。