25年間で4000回以上のWEB日記を書いていた ― 2020/10/02 21:39
煩悩は続くよどこまでも
思うところあって、2002年からAIC(朝日新聞のWEBコラムサイト Asahi Internet Caster)火曜日に連載していたコラム『デジタルストレスすでにAmazonでも販売している。
エッセイ集を作ったことで、過去のWEB日記も見直してみた。
いちばん古いのは1996年で、まだデジカメもなかった時代。インターネット黎明期で、確かアナログ電話回線でピーガーって音を出すモデムで2400bpsとかでつないでいた。それが4800bpsになり、9600bpsになり……。
使っていたパソコンはIBMのPS-V Visionというやつ。メインメモリが8MBで内蔵HDDが170MBだった(GBじゃないよ)。
プロバイダはインターリンクというしょぼい回線のところから始まって、biglobeに移って、その後はAsahi-Net。1996年だと、biglobeに移ったあたりかな。
当然、写真画像なんて入れられなくて、入れるとしても画像ファイルは30KB以下なんてのが常識だった。30KBのちっちゃな粗いJPEGファイルでも、開くのに時間がかかって、プログレッシブJPEGなんて形式もあって……。
この頃は精神的にはものすごく追い込まれていて、日記に書いている内容もやたらと暗い。
それからなんとなく続いて、気がつくと25年も経っている。
以前のWEBページは、文字コードはShift-JISで、フェイスブックにリンクを張ると拾ったテキストが文字化けする。
ヘッダ情報のタイトルにトピックを入れてなかったので、目次を作るのに内容を拾えなくて苦労する。
それを今回、できうる限り直した。
文字コードをShift-JISからutf-8に変換し、ヘッダにはタイトル情報を全部入れていき、スマホで開いてもなんとか読めるように
<meta name="viewport" content="width=device-width,initial-scale=1.0" />
というおまじないも入れた。
結果、日記の目次ページが4000行を軽く超えるというすごいことになった。つまり、25年間で軽く4000ページ以上のWEB日記を書いてきたことになる。
さらに困ったのは、何年か前にサーバーを移転したとき、画像ファイルの縦横情報が消えてしまったらしくて、多くの縦位置写真が横に表示されてしまったことだ。
ただ、寝てしまうだけならまだしも、縦横比も入れ替わるのでひどいことになる。それを一つ一つ見つけ出してIrfanViewに読み込み、写真を90度回転させて保存し直してサーバーにアップロードし直す……という、気が遠くなる作業をやった。
リンク切れや、今となっては意味のないリンクはなるべく消したが、まだまだいっぱい変なリンクやらミスが残っているはず。
でもまあ、だいぶよくなっただろう。
それにしても4000ページ以上の日記か……。何やってるんだか。
こういうのも煩悩のなせるわざだなあ。
それを自分の死後にも残したいと思って本にする。どこまでも深き煩悩よ。
- この世における自分の人生を嘆く⇒煩悩
- この世における自分の人生は諦めるが、自分の死後のこの世に思いをはせる⇒煩悩
- この世のことはすべて幻想だと割り切り、別の次元の世界に思いをはせる⇒煩悩
そろそろ第3段階の煩悩へと移行していきたい。
死ぬ夢は見ても殺される夢は見ない ― 2018/02/02 22:14
先日、夜中に久しぶりに「死ぬ夢」を見た。
どういう状況で死ぬのか、思い出せないのだが、何か黒くて四角い巨大なアイコンというかスイッチのようなものが目の前にあって(垂直ではなく、地面の上に置いてあるような感じ……そのへんはっきりしない)、そこに乗るだか触れるだかした瞬間、あ! これで死ぬんだ! とはっきり分かり、思わず軽い悲鳴を上げて目がさめた。
毎晩、寝るときには「このまま目がさめなければいいかもしれない。そんな死に方ができたら最高だ」と思いながら、す~っと眠りに落ちるのだが、寝ている最中はまだまだ死への恐怖、生への執着があるのだと実感した一瞬だった。
心身ともに疲れて、ああ、睡い、身体が重い、このまます~っと死ぬならそれでいい……と思うような死に方ならいいのだが、気持ちが伴わないままで、突然死を突きつけられるのはやはり怖いのだな。
しかし、考えてみると、「死ぬ夢」は見ても、「殺される夢」というのは見た記憶がない。見ているのかもしれないが、覚えてない。銃で撃たれたり、ナイフで刺されたり、刀で斬られたり……そういう夢は見たことがない(と思う)。それだけ平和な時代に生きているということだろうか。
これが戦国時代や戦時中なら、絶対に「殺される夢」を見るのではないだろうか。
たまに見る死ぬ夢のうち、いちばん多いのは高いところから落ちるというもの。あ、ここから落ちたら絶対に助からない。あと1秒か2秒で死ぬのだ……と思って、恐怖のうちに目がさめる、というパターン。
死ぬ準備ができていないままの死は怖い。
目がさめてから思った。
まだ生きる気満々じゃん、俺って。やることはいっぱいある。それを人から評価されるかどうかはどうでもいい。自分の価値観に従って生きられるだけでも、奇跡のような幸運、幸福ではないか……と。
以下のいずれからでもご購入できます(Click)
どういう状況で死ぬのか、思い出せないのだが、何か黒くて四角い巨大なアイコンというかスイッチのようなものが目の前にあって(垂直ではなく、地面の上に置いてあるような感じ……そのへんはっきりしない)、そこに乗るだか触れるだかした瞬間、あ! これで死ぬんだ! とはっきり分かり、思わず軽い悲鳴を上げて目がさめた。
毎晩、寝るときには「このまま目がさめなければいいかもしれない。そんな死に方ができたら最高だ」と思いながら、す~っと眠りに落ちるのだが、寝ている最中はまだまだ死への恐怖、生への執着があるのだと実感した一瞬だった。
心身ともに疲れて、ああ、睡い、身体が重い、このまます~っと死ぬならそれでいい……と思うような死に方ならいいのだが、気持ちが伴わないままで、突然死を突きつけられるのはやはり怖いのだな。
しかし、考えてみると、「死ぬ夢」は見ても、「殺される夢」というのは見た記憶がない。見ているのかもしれないが、覚えてない。銃で撃たれたり、ナイフで刺されたり、刀で斬られたり……そういう夢は見たことがない(と思う)。それだけ平和な時代に生きているということだろうか。
これが戦国時代や戦時中なら、絶対に「殺される夢」を見るのではないだろうか。
たまに見る死ぬ夢のうち、いちばん多いのは高いところから落ちるというもの。あ、ここから落ちたら絶対に助からない。あと1秒か2秒で死ぬのだ……と思って、恐怖のうちに目がさめる、というパターン。
死ぬ準備ができていないままの死は怖い。
目がさめてから思った。
まだ生きる気満々じゃん、俺って。やることはいっぱいある。それを人から評価されるかどうかはどうでもいい。自分の価値観に従って生きられるだけでも、奇跡のような幸運、幸福ではないか……と。
「医者には絶対書けない幸せな死に方」(講談社プラスα新書)
2018年1月18日発売 内容紹介は⇒こちら
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日光より年末のご挨拶 ― 2016/12/24 01:50
みなさま、どうぞよい年末年始をお迎えください。
数学は芸術か? ― 2015/09/28 19:51
テレビに放送大学の美学だか美術史だかの授業が映し出されていて、そこから「芸術のための芸術……」というようなフレーズが聞こえてきた。
純粋芸術と大衆芸術。あるいは、純粋に芸術的な行為としての美術や音楽に対して商業美術(音楽)という言葉もあるけれど、そもそも芸術ってなんなんだろう。
先日、テレビのクイズバラエティ番組で、ヴァイオリニストの葉加瀬太郎が問題をプロデュースし、一部の問題は自分の演奏で出題するという趣向のをやっていたのだが、なかなかいいお勉強になった。なおかつ、やはりクラシック音楽作品の定番って、メロディの価値がすぐれているなあと再認識させられた。
やはり、残りの人生、体力や気力がどんどん落ちていく中で、純粋にメロディの価値を追求したいと思った。
演奏して楽しい、とか、いい音色だとかではなく、オタマジャクシの並び方だけを追求する。
孤独だが、それがいちばん自分にとっては価値の高い生き方ではないか、と。
そこで改めて思った。
数学は芸術だろうか?
「美しい数式」とか「きれいな解き方」といったものは、芸術なのではないだろうか。
幾何の定理なんかも、最初に発見して証明した人の行為は芸術なのではないだろうか。
メロディの価値を追求するというのは、そういう「数学的美学」に近いことかもしれない。
純粋芸術と大衆芸術。あるいは、純粋に芸術的な行為としての美術や音楽に対して商業美術(音楽)という言葉もあるけれど、そもそも芸術ってなんなんだろう。
先日、テレビのクイズバラエティ番組で、ヴァイオリニストの葉加瀬太郎が問題をプロデュースし、一部の問題は自分の演奏で出題するという趣向のをやっていたのだが、なかなかいいお勉強になった。なおかつ、やはりクラシック音楽作品の定番って、メロディの価値がすぐれているなあと再認識させられた。
やはり、残りの人生、体力や気力がどんどん落ちていく中で、純粋にメロディの価値を追求したいと思った。
演奏して楽しい、とか、いい音色だとかではなく、オタマジャクシの並び方だけを追求する。
孤独だが、それがいちばん自分にとっては価値の高い生き方ではないか、と。
そこで改めて思った。
数学は芸術だろうか?
「美しい数式」とか「きれいな解き方」といったものは、芸術なのではないだろうか。
幾何の定理なんかも、最初に発見して証明した人の行為は芸術なのではないだろうか。
メロディの価値を追求するというのは、そういう「数学的美学」に近いことかもしれない。
神は人の数だけいる ― 2015/09/10 20:32
心を傷つけられると眠くなる。若いときは多分違った。今はただただ眠くなる。
頭(理性)ではその原因や背景をちゃんと分析できるから、傷つく必要はないって理解できる。理解できても心は別物だから眠くなる。寝て、DNA修復をするのだろう。うまくできている。
DNA修復のために寝ながら、ふと思ったこと:
自分が大切に思っている価値は自分にしか分からない。隣で生きている人、そのまた隣で生きている人も同じで、それぞれがそれぞれの価値観を持ち、何かを信じようとして、それを拠り所にこの世界での一生を生き抜こうとする。そこに普遍的な意味や価値はない。
死ねば「あの人死んじゃったね」と思われて終わりだし、そのときにはもう「自分」はいない。
そこまで脳では理解しているのに、傷つく心があるし、信じたいものがある。
神は人の数、いや、生命の数だけ存在する……そういう宗教があってもいい。
頭(理性)ではその原因や背景をちゃんと分析できるから、傷つく必要はないって理解できる。理解できても心は別物だから眠くなる。寝て、DNA修復をするのだろう。うまくできている。
DNA修復のために寝ながら、ふと思ったこと:
- 神様は生命の数だけ存在しているのかもしれない。
- ひとり(ひとつ?)の神があらゆる生命体を見守っているというのが多くの宗教のイメージだけど、そうじゃないんじゃないか?
- 人間なら、そのひとりひとりに1対1で対応する個別の「神」がいるのかもしれない。
- 脳は肉体の一部だと思う。その脳が多くのことを学び、成し遂げ、各生命体の個性を形成する。
- 一生を通じて追いかけていると思い込んでいた「何か」はすべて脳(肉体の一部)の仕業なのか?
- 個人の一生はもとより、家族だとか国だとか人類だとか地球だとかもすべて有限で消滅するのだから、それを超える価値を一個人が追いかけるなんて馬鹿げているということになる。
- もし「神」もまた有限で、消滅してしまうものであれば、ずいぶんありがたみが薄れる気がする。
- 有限な肉体、死ねばおしまい……で説明しきれないものを感じるから、芸術だの哲学だのってものが生まれる。
- その芸術や哲学、美学、美意識……あらゆる個別の価値観は人それぞれの感性や思考から生まれるのだから、神も人の数だけいるのではないか?
自分が大切に思っている価値は自分にしか分からない。隣で生きている人、そのまた隣で生きている人も同じで、それぞれがそれぞれの価値観を持ち、何かを信じようとして、それを拠り所にこの世界での一生を生き抜こうとする。そこに普遍的な意味や価値はない。
死ねば「あの人死んじゃったね」と思われて終わりだし、そのときにはもう「自分」はいない。
そこまで脳では理解しているのに、傷つく心があるし、信じたいものがある。
神は人の数、いや、生命の数だけ存在する……そういう宗教があってもいい。
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