Amazonでオリジナル書籍を売るまでの道のり2019/09/22 21:28

ISBNコードを振ってA5判からB6判208ページ構成に改定した『新・マリアの父親』
オンデマンド出版なら赤字を抱えずに本が作れる、という時代になった。しかし、赤字にならないのはいいが、とにかく売れない。個人が運営するWebサイトだけでPRするのは限界があるし、カード情報の入力なども抵抗があるからか……。
オンデマンドブックをAmazonで売れたらいいのだがなあ……ということは以前から考えていた。
『狛犬かがみ』は初版と改訂第2版のいずれも売り切って、現在在庫なし状態が続いている。一般書店で数千冊も売れたとは到底考えられないので、ほとんどはAmazon経由ではないかと思う。
現在の版元(トランスビュー)は取次を通さない「一人出版社」の先駈け的存在で、その販売手法はいろいろなメディアで取り上げられている。
哲学思想、宗教、教育などを中心に、日販・トーハンといった取次店を通さず、直接書店に書籍を郵送する方法で卸す独自の営業で注目されている。取次店では太洋社のみ取引があるが、このルートで流通された商品は書店からの返品を認めない。また配本部数も全て書店に一任されており、他の出版社が行う新刊委託(注文がなくても、出版社・取次店側が見計らって送品すること)は一切行わない。
池田晶子「14歳からの哲学」( ISBN 978-4-901510-14-1 )は30万部を超えるベストセラーとなった。
Wikiより

トランスビュー方式とは、「書店に直で卸す本は、送料自社持ちで返品も認めるが、返品するときは送料は書店持ちでね」という方式。
しかし、この方法でも、本はオフセットでまとまった冊数作っておかねばならないし、受注・発送などの作業も全部自分でやらなければならないから、労力も運転資金もかなり必要になる。

ISBN出版者コードを取得する

商業出版では売れないと判断される本を自分で次々に出版しようとする場合、在庫を抱える方式は到底無理なので、オンデマンド出版以外は考えられない。しかし、オンデマンド本をAmazonで売ることは可能なのか?
調べていくと、最初の条件は「ISBNコードをつける」ことだった。
Amazonでは、商品としての本には必ずこれがついていることを条件としている。

ISBNとは何か?
出版業界の人には説明不要だが、一応書いておくと、ISBNは書籍を識別するための世界共通コードで、本の戸籍のようなもの。ISBNコードをつけることで、日本だけでなく、世界中ですぐにその本が何かを特定することができるようになる。
13桁のコードで表され、日本の出版物の場合、通常は、
ISBN978 - 4 - AAAA - BBBB - C
という構成になっている。
最初の978-4は出版元が日本または言語が日本語であることを示している。ちなみに978-0および978-1は英語、978-2はフランス語、978-3はドイツ語……だ。
A部分は「出版者記号」、B部分は「書名記号」で、それぞれの桁数は決まっていないが、合計で8桁になる。
A部分が2桁なら残りは6桁だから、000000から999999までの100万冊分の書名コードが割り振れる。
最後のC部分の1桁は「チェックディジット」といって、検算機能を持っている。ISBNコードが正しいかどうかを決められた数式にあてはめて計算した結果の0 - 9の数字1桁が入る。
『医者には絶対書けない幸せな死に方』には、ISBN978-4-06-291514-4 という13桁のISBNコードがついている。
06が講談社を示し、291514は『医者には絶対書けない幸せな死に方』という本に個別に振られたコードだ。
ちなみに2桁コードを持っている出版社を番号が若い順に並べていくと、
  • 00 岩波書店
  • 01 旺文社
  • 02 朝日新聞社出版
  • 03 偕成社
  • 04 角川書店
  • 05 学研
  • 06 講談社
  • 07 主婦の友社
  • 08 集英社
  • 09 小学館
……である。
これらは計算上は100万タイトルまでは順番にISBNコードを振っていけることになる。

ISBNを取得するには、出版社や発行人となる個人や団体が日本図書コード管理センターに登録申請をして「出版者コード」を決定してもらうことが第一歩となる。

今回、「タヌパック」が取得した出版者コードは910117で、6桁コードなので、その後に使えるのは2桁(00~99)。つまり100冊(100タイトル)分のISBNコードを取得した。死ぬまでに100タイトル使いきるかどうかは分からないが、10タイトルでは不足なのは明らかだから、とりあえずは100タイトル分取得したわけだ。

Amazonで売るための3つの方法

さて、ISBNコードをつけたオンデマンド本をAmazonで売るためには、以下の方法があることが分かった。
  1. Amazon PODという、Amazon自身がやっているオンデマンド本販売システムで売る。ただし、これはAmazonが契約した取次業者を通してしか使えない。
  2. 「e託」という方法で、Amazonに本を預けて売ってもらう。Amazonの仕入れ数はAmazonが決める。売れたら、その分、Amazonから納入依頼が届くので、都度、Amazonに本を納入する。
  3. Amazonに毎月契約料を払って「大口販売業者」となり、マーケットプレイスで販売する。売れても売れなくても契約料は支払わなければならないし、本の発送も自分で行う。

このそれぞれについて、経費やリスク、運営する上での自由度や満足度を調べた結果、3の方法しかないと分かった。
1は本の形式がAmazonで細かく決められており、本を作る上での自由度が制限される。また、取次業者に本を登録(PDFファイル)した後は、訂正が効かない。もちろん、取次業者への手数料がかかる。
2は、Amazonに支払う手数料割合が大きい上、都度、本をアマゾンに納入する手間とコストがハンパない。
3は、自分で配送するから、印刷・製本所から購入者に直送できるので、送料と時間を節約できる。ただし、売れても売れなくても大口取り引き契約者としての契約料(毎月約5000円)は払い続けるし、個別の売り上げにもAmazonへの手数料(15%+80円)はかかるので、赤字は確実に出るであろう……。

ここまで調べて、計算をするのだけでもかなりのエネルギーを使った。しかし、ISBNと出版JANコード取得(これはAmazonでしか売らないなら必要ないのだが、一応、将来どうなるか分からないので取得した)も済んだので、後には戻れない。

最後の壁は、Amazonのカタログに本を新規登録することだった。新たにISBNを振る本だから、当然、どこのデータベースにも存在しない本なわけで、「こういう本を新規に出版しますので、Amazonさんのカタログに登録してください」と申請し、認めてもらわないといけない。
これが実はいちばん不安だった。その不安は的中して、最初にいろいろやりとりがあって、行き違いもあったのだが、数日で解決し、今は自由に「新刊書」をAmazonのカタログに登録できるようになった(今後、システムやポリシー変更などがないことを祈るばかり)。

現在、「タヌパック」がAmazonで売っている本は⇒こちらからどうぞ。

ISBNと出版JANコードのバーコードを規定通りに印刷した本。このバーコード、デザイナーにはとても評判が悪い。これのおかげで本の表4デザインが台なしになってしまうから……。実際、その作業をしてみると、「邪魔だよなあ」という気持ちになる

賢治に比べたら……

……というわけで、なんとかタヌパックの本がAmazonを通じて販売できるようになった。

しかし、これでめでたしめでたしとは当然ならない。
最大の誤算は、「Amazonに出しても売れない」ということだった。
すでに1週間以上経過したが、見事に1冊も売れていないのである。
10月からは消費税も上がり、印刷・製本代、送料、Amazonへの契約料など、すべての経費が上がる。
人々の生活も苦しくなり、本を読む気力も時間も金銭的余裕もなくなる一方だろう。
こうなったら、しっかり覚悟を決めるしかない。
どうせ残された時間はわずかなのだから、生死に関わらない範囲なら、金勘定のことでアッパトッパすることはない。
宮沢賢治は、生きている間は自分の作品がまともに本にさえならなかった。
生前に刊行されたのは、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』だけだが、どちらも自費出版だ。『春と修羅』は地元花巻の印刷所に持ち込んで1000部を作り、ある人物に500部委託して東京での販売を頼んだものの、「ゾッキ本」(売れない新刊本)として流され、定価2円40銭のところ、古本屋で50銭で売られたという(Wikiより)。
『注文の多い料理店』のほうは、盛岡高農の後輩たちの協力を得てなんとか出版費用を工面して1000部作ったが、まったく売れず、賢治自身が父親から借金して200部を買い取ったそうだ。

まあ、それに比べたら、今の自分ははるかに恵まれた環境にいる。この幸福を味わい尽くしてから死ぬぞ、という前向きな気持ちになれる。

改定の道程も作品?

今回、Wikiの「宮沢賢治」を改めてチェックしていて、
賢治の作品は、一旦完成した後も次から次へ書き換えられて全く別の作品になってしまうことがある。これは雑誌に発表された作品でも同様で、変化そのものが一つの作品と言える。(Wikiより

という一節を初めて読んだ。
ああ、これって、オンデマンドならいくらでもできるんだよな、と思った。ISBNコードの役割からしたら、同じ番号の書物の内容がどんどん書き換えられるのは御法度だろうが、誤字訂正とかなら当然許容範囲だし、デジタル時代の出版物というのは、改訂作業の自由度が高いことも大きなメリットといえる。
Kindleブックなどは、同じ登録書籍のカバーや内容改定をいつでもWEB上の編集ページから行えるしね。

現在、ISBNコードを振りながら、コストの問題もあって、A5の2段組で作った本をB6の1段組に編集し直したりしているのだが、2013年に作ったA5判の『新・マリアの父親』には、だいぶ直したつもりだったが、かなり誤字・脱字が残っていた。細部の表現や間違いなども直しながら、頭からていねいに編集した。
その編集作業をしながら、へえ~、こんな話だったのか、と、感心している「作者」。ラストシーンでは思わず涙ぐんでしまったよ。

1冊も売れていないのに、あれもこれも……と、やりたいことが一気に増えた。楽しい60代を送るための赤字なら、それはもう人生の必要経費でしかない。
しかし、オンデマンド本は1冊も売れなければ、「もの」として存在しなかった本になってしまうわけだから、このままではいかんわなあ……。



靖国神社の「狛犬」と脚気と「舞姫事件」2018/02/12 19:24

靖国神社の中国獅子。大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成が三学寺に奉納したもの
狛犬を見続けていると、江戸期の狛犬は結構残っているのに、明治になった途端、パタッと狛犬が建立されていないことに気がつく。再び奉納されるようになるのは明治20年代くらいからだ。明治一桁代建立の狛犬というのはほとんどない。あったとしても、江戸期の狛犬をへたくそに模したようなものが多く、銘品と呼べる力作や新種の狛犬はまず出てこない。

拙著『神の鑿』の最後には利平・寅吉・和平の年譜も載せてあるが、それを見ても、
慶應元(1865)年 沢井八幡神社の狛犬 利平61歳? 寅吉21歳 願主石工菅田庄七

明治20(1887)年 関和神社(白河市)の狛犬(銘なし)寅吉43歳
↑この間、20年以上、作品の記録が空白なのだ。
明治初期、廃仏毀釈を皮切りにして、いかに庶民文化がつぶされ、停滞したかを物語っているかのようだ。

そこで、改めて「明治維新」前後の歴史をおさらいしているところだ。

森鴎外と脚気

その作業をしていて、ひょんなことから森鴎外(森林太郎)が陸軍兵士数万人の死に関係していたと知った。

ネット上にもたくさんの関連記事があるが、中でも、⇒これなどはとてもよくまとまっているのでご一読を。
 陸軍が嘱望する若き軍医森林太郎は、日清・日露の戦争を控え、兵士の健康を維持する大役を担った。そして当時の軍隊において最大の健康問題が脚気流行である。

 全陸軍の疾病統計調査は明治8年から始まるが、明治9年には兵員千人に対し脚気新患者108人、17年には263人、つまり4人に一人がこの病気にかかっている。そして致死率は約2~6%だった。しかし、戦時には、これらの数字が跳ね上がる。
(略)

明治27~28年の日清戦役では、陸軍の戦死者がわずか977人にたいし、傷病患者約28万人、患者死亡約2万人であり、脚気患者は約4万人という奇妙な現象が起こる。前代未聞の脚気大流行であるのに、陸軍首脳はまだ懲りなかった。海軍には軽症脚気は認められたが重症例の多発はなかった。

 明治37~38年の日露戦争では、陸軍の戦死者約4万6千人、傷病者35万人であり、そのうち脚気患者25万人という驚くべき数字になる。しかも、戦病死者3万7千人中、脚気による死者が約2万8千名に登った。

 日清・日露戦役での大惨事を起こした陸軍脚気対策に、森林太郎の誤りが深く関っていた事実は、東京大学医学部衛生学教授山本俊一が、1981年初めて、学会誌「公衆衛生」において指摘した。両戦役からすでに一世紀近い月日が経っていた。
(医療法人和楽会 フクロウblog 大井玄先生のコーナー 「病と詩(11) 軍医森林太郎と脚気」 より)

日清・日露戦争において、直接の戦死者よりも脚気で死んだ兵士のほうが多かったというのは、学校で学ぶ日本史には出てこないと思う。
上記のブログやWikiの詳しい解説などをもとにまとめてみると、
  • 全陸軍の疾病統計調査(明治8(1875)年開始)によれば、明治17(1884)年には4人に1人以上が脚気にかかり、致死率は約2~6%だった
  • 海軍医務局長・高木兼寛は、イギリス留学中にヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主とする兵食に原因があるのではと推論し、周囲の猛反対、猛反論を押し切って明治18(1885)年以降、海軍の兵食をタンパク質の多い麦飯に切り替えた結果、海軍での脚気発症をほぼ根絶させた。
  • 一方、陸軍では、陸軍一等軍医森林太郎(森鴎外)が明治18(1885)年にライプチヒで執筆した論説「日本兵食論大意」を根拠に、陸軍軍医総監・石黒忠悳らは「脚気伝染病説」を信じており、白米を基本とした兵食を変えてはならないと主張した。
  • 明治21(1888)年に帰国した森は、講演「非日本食論ハ将二其根拠ヲ失ハントス」で、高木兼寛を「英吉利流の偏屈学者」と呼び、非難する。また、米食、麦食、洋食を食べさせる比較試験の結果、「カロリー値、蛋白補給能、体内活性度」のすべてで米食が最優秀という結果が得られたとして、陸軍兵食の正当性を主張した。
  • 結果、日清戦争(その後の乙未戦争も含む)における陸軍の脚気患者は4万1,431人、脚気による死亡者4,064人という惨事を引き起こした。(『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』)
  • さらに、日露戦争では、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であったにも関わらず、大本営陸軍部が「勅令」として白米食を指示したため、戦地で25万人強の脚気患者が発生。戦地入院患者25万1,185人のうち脚気が11万0,751人 (44.1%)で、入院脚気患者2万7,468人が死亡した。(陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計)

……というようなことだったらしい。
森林太郎(鴎外)が主張した「米食が最優秀」説の罪がいかに大きいかが分かる。
海軍では麦飯に切り替えて脚気が激減したという明らかな結果が得られているにもかかわらず、日清戦争の10年後の日露戦争時にさえ改善できず、何万という死者を出しているのだ。

石黒忠悳と靖国神社の「狛犬」

ところで、森の論文や主張に流される形で陸軍内に脚気を蔓延させた石黒忠悳軍医総監は、僕の中では「靖国神社の中国獅子」にまつわる裏話に登場して初めて名前を目にした人物だ。
その内容は⇒ここに詳しく書いているが、簡単にまとめると、
  • 日清戦争(1894-95年)の最中、海城の三学寺が日本軍の野戦病院にあてられていた。
  • そこの総責任者であった石黒忠悳軍医総監が、戦が終結して帰国していた明治28(1895)年、軍司令官の山縣有朋を訪ねたおり、三学寺にあった獅子像が「古奇愛すべき」ものであったと語った。
  • それを聞いた山縣が、そんなにいいものならぜひ日本に持ってきて「陛下の叡覧に供して大御心の程を慰め奉りたい」ということになった。
  • そこで石黒は、満州に留まっていた奥保鞏(やすかた)中将(後の元帥)に連絡を取り、寺より譲り受けて日本に運ぶように依頼した。
  • 奥中将は、白くて大きな獅子一対と、青みがかった一体(これは対になっていない)を選んで日本に運んだ。
  • 日本に運び込まれた3体の中国獅子を山縣が明治天皇に献上したところ、天皇は喜んだ様子で、白い石の一対は靖国神社に、青い一体は山縣に与えた。
  • というわけで、白くて大きな一対は現在も靖国神社にあり、青色の一体は栃木県矢板市にある山縣有朋記念館の敷地内に置かれている

靖国神社にある中国獅子を、ほとんどの参拝客は「変わった狛犬だねえ」と見上げるが、あれはそもそも「狛犬」ではない。大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成という人物が三学寺に奉納した獅子像なのだ。

『舞姫』の記憶

僕にとって、石黒忠悳軍医総監は「靖国神社の中国獅子」だが、森鴎外といえば『舞姫』くらいしか記憶にない。
『舞姫』は高校の国語の教科書に載っていて、じっくり、1行1行読解させられた。
当時の国語担当は臼井先生といって、相当変わったキャラクターの教師だった。
感情の起伏が激しく、機嫌のいいときはニコニコしながら好きな谷崎潤一郎論などを延々と喋り続けるが、機嫌が悪いと「チッ! こんな問題もできないのか。馬鹿ばっかりだなこのクラスは。もういい、帰る」と言い放ち、さっさと教室を出て行く。
そんなわけで、生徒からの評判はすこぶる悪かったのだが、僕は彼の授業は決して嫌いではなかった。
『舞姫』を題材にした授業では今でも印象に残っているシーンがある。

臼井先生「このページの中に、豊太郎とエリスがすでに性交渉をしたと分かる一文がある。それはどこか。分かる人」

こういうとき、誰も手を挙げないと先生の機嫌がどんどん悪くなるのを知っている生徒たちは、必死で答えを探す。
何人かが答えて、その度に「違う!」「馬鹿!」などとはねつけられた末に、クラスでいちばん元気のよかった平岡くんが恐る恐る手を挙げた。
  • 「うん、平岡!」
  • 「はい! 『鬢の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる腦髓を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何にせむ』……のところだと思います」
  • 「もっと絞って」
  • 「鬢の毛の解けてかゝりたる……」
  • 「そう! そうだね! 『鬢の毛の解けてかかりたる』というのは、もうこの二人の間に男と女の関係ができたということを暗示しているんだね! さすがは鴎外。そのへんの三文小説家なら、性描写に3ページくらい割くところを、鴎外は『鬢の毛の解けてかかりたる』という、これだけで伝えているんだな」

生徒たちは半ばポカ~ンとその解説を聞いていた。僕も、この『鬢の毛の解けてかかりたる』がどれくらいすごいのか、今でもよく分からないのだが、平岡くんが他の生徒より早熟だったことは確かだろう。

『舞姫』のエリスが Elise Marie Caroline Wiegert (エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト 1866年~1953年)という実在の女性をモデルにしていて、主人公の豊太郎は鴎外自身がモデルであろう、ということは、今では周知されている。
鴎外は4年間のドイツ留学時代に、エリーゼと恋仲になったが、別れて帰国した。その直後に、エリーゼは鴎外を追って日本まで来たが、ひと月あまり後にまたドイツに戻っている。
鴎外の東大医学部時代の同期生・小池正直は、後に陸軍軍医総監石黒忠悳に宛てた手紙(明治22(1889)年4月16日付)の中で、
兼而小生ヨリヤカマシク申遣候伯林賤女之一件ハ能ク吾言ヲ容レ今回愈手切ニ被致度候是ニテ一安心御座候。
(私がしっかり言いきかせましたので、この「ベルリン賤女」の一件は、今度こそ手切れになると思います。どうぞご安心を)
と書いている
これはエリーゼが帰国したときのことをいっているのだろう。
年譜にすると、
  • 明治17(1884)年 鴎外、ドイツに留学
  • 明治21(1888)年 9月8日、ドイツより帰国。
  •          9月12日、エリーゼが鴎外の後を追って来日。
  •          9月18日、赤松登志子と婚約。
  •          10月17日、エリーゼが帰国。
  • 明治22(1889)年 2月 赤松登志子と結婚
  • 明治23(1890)年 民友社社長の徳富蘇峰の依頼により『舞姫』を執筆。1月『国民之友』付録として発表。
  •          9月、長男於菟(れお)誕生。
  •          11月27日、登志子と離婚。
  • 明治35(1902)年 荒木志げと再婚。
  • 明治36(1903)年 長女・茉莉(まり)誕生。
  • 1909年 次女・杏奴(あんぬ)誕生。

……という経過で、この間のエリーゼ来日から登志子との離婚あたりの一連のゴタゴタが「舞姫事件」「エリス事件」などと呼ばれている。
で、改めてこれを「日本の脚気史」「靖国神社の中国獅子」と重ねて見ると、
  • 明治17(1884)年 1月、海軍軍医・高木兼寛の意見などで海軍で洋食への切り替えが図られ、脚気新患者数、発生率、および死亡数が明治16(1883)年には1,236人、23.1%、49人だったものが、1884年には、718人、12.7%、8人。1885年には41人、0.6%、0人と激減した。
      同年、森林太郎(鴎外)がドイツに留学。
  • 明治18(1885)年 鴎外、ライプチヒで「日本兵食論大意」を執筆し、日本式白米食の優越性を強調。陸軍の白米主義の根拠となる。
  • 明治21(1888)年 鴎外ドイツより帰国。エリーゼが鴎外の後を追って来日し「エリス事件」に。
  • 明治22(1889)年 赤松登志子と結婚
  • 明治23(1890)年 『舞姫』発表。長男於菟(れお)誕生。登志子と離婚。
  • 明治27(1894)年、日清戦争勃発。石黒忠悳軍医総監が野戦病院であった三学寺で中国獅子に興味を持つ。脚気患者が約4万人に。
  • 明治28(1895)年、日清戦争終結後、石黒が山縣有朋に三学寺にあった獅子像の話をしたことで、中国獅子像3体が日本に持ち込まれる。
  • 明治35(1902)年 鴎外、荒木志げと再婚。
  • 明治36(1903)年 長女・茉莉(まり)誕生。
  • 明治37(1904)年 日露戦争勃発。陸軍内の脚気患者25万人。入院していた脚気患者の死者数は約2万8千人に。
  • 明治42(1909)年 次女・杏奴(あんぬ)誕生。

……とまあ、日清日露戦争をはさみ、脚気蔓延と三学寺の中国獅子が日本に持ち込まれた件と「舞姫事件」が同時進行していたことが分かる。

脚気で数万人死んでいったときにカフスボタン紛失を嘆く鴎外

扣鈕       森鴎外

南山の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん*
ひとつおとしつ
その扣鈕(ぼたん)惜し

べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ* 電燈あをき
店にて買ひぬ
はたとせ*まへに

えぽれつと* かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女(をとめ)
はや老いにけん
死にもやしけん

はたとせ*の 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ

ますらを*の 玉と碎けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕

(森鴎外の日露戦争従軍詩歌集『うた日記』より)
*こがねのぼたん:金のカフスボタン *パサージュ:ここではアーケード商店街のこと *はたとせ:20年 *エポレット:コートなどの肩につける装飾。軍服由来 *ますらを:勇壮な男。ここでは兵士たちのこと *ももち:百千(大人数)

日露戦争で死んでいった多くの兵士たちも惜しいけれど、かつての愛人との思い出が詰まった金のカフスボタンが片方だけになってしまったのも惜しい、と歌っているわけだ。

この詩について、鴎外の長男・森於菟は、『父親としての森鴎外』の中で、こう述べている。
この「黄金髪ゆらぎし少女」が「舞姫」のエリスで父にとっては永遠の恋人ではなかったかと思う。(略)
私が幼時祖母からきいた所によるとその婦人が父の帰朝後間もなく後を慕って横浜まで来た。これはその当時貧しい一家を興すすべての望みを父にかけていた祖父母、そして折角役について昇進の階を上り初めようとする父に対しての上司の御覚えばかりを気にしていた老人等には非常な事件であった。親孝行な父を総掛かりで説き伏せて父を女に遇わせず代りに父の弟篤次郎と親戚の某博士とを横浜港外の船にやり、旅費を与えて故国に帰らせた。
(略)
『歌日記』の出たあとで父は当時中学生の私に「このぼたんは昔伯林で買ったのだが戦争の時片方なくしてしまった。とっておけ」といってそのかたわの扣鈕をくれた。歌の情も解さぬ少年の私はただ外国のものといううれししさに銀の星と金の三日月とをつないだ扣鈕を、これも父からもらった外国貨幣を入れてある小箱の中に入れた。
私はある時祖母が私にいうのを聞いた。「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶らせたが父の気に入らず離縁になった。お前を母のない子にした責任は私達にある」と。
(森於菟著『父親としての森鴎外』)


コラム「病と詩 軍医森林太郎と脚気」の最後は、こう結ばれている。
鴎外森林太郎は、「玉と砕けし」兵士「ももちたり(百、千人)」よりもはるか多くが脚気に罹り倒れたことを知っていても、自分の知的誤り・傲慢さが、どんなに大きくそれに寄与していたかに、気づいていなかったろう。

本当に生涯このことに気づいていなかったのだろうか……。
まあ、そのことに責任を感じていたら、日露戦争のときにまでこんな詩を書いているわけはないか……。

ともあれ、鴎外には文学よりも軍医としてちゃんと仕事してほしかったと思う。


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