4K・8Kテレビ放送の虚無2020/11/27 14:57

デジタル放送開始当時のテレビと今のテレビのリモコン
居間のテレビが冬になると液晶画面がおかしくなり、しばらくウォーミングアップしないと映らなくなっていた。数年前からなのだが、どんどんひどくなって、今年は室温15度以下でもおかしくなる。
あと、ときどき地上波のTBSが電波が弱くて乱れる。これはテレビのせいではなく、アンテナの受信環境のせいだろうから、ブースターを追加したり、いろいろやってなんとかしのいできたのだが、先日、これもひどくなり、アンテナ配線を抜き差ししているうちに、今度はBSが映らなくなった。
不思議なことに、BSが映らなくなったのに、110度CSは映るチャンネルと映らないチャンネルがある。
それも、時間と共に映らないチャンネルが増えていく。
これはアンテナ関連ではなく、内蔵チューナーがいかれてしまったんだろうと判断。しょうがない。買い換えるか。
このテレビ(42型)は購入してまだ9年しか経っていない。その前に使っていた37型のほうはまだピンピンしていて、しかも画質がきれい。同じREGZAなのに、なんで新型のほうが画質が悪いのかと不満には思っていたのだが、まあ、うるさく言うほどではないので、いろいろ調整して使ってきたわけだが、9年でアウトかい~。

どうせ買い換えるならでかいやつ、ということで、当初は42型⇒55型を考えたのだが、妻が「ついでにこの両脇のスピーカーも片づけられないの?」と言うので(北欧のAudio Proだったかな、なんかお洒落なトールボーイ型スピーカーを使っている)、スピーカーをどけた場合の最大サイズ(壁の横幅いっぱい)に収まる65型にした。

多分、65型でトリプルチューナーのやつではいちばん安い。USB外付けHDD4台つなげられる。540が出て、現在値崩れ中?Amazonで購入

ネットで調べて、いちばん安い店に発注したら、届くのに6日かかった。

機能的には満足のいくものだし、同じREGZAなので、使い方もほぼ一緒なのだが、案の定、音は悪い。
オーディオスピーカーは片づけてしまったので、なんとか調整して内蔵スピーカーで我慢……と思ったけれど、どうにも我慢できず、余っていたPC用のミニスピーカーを取り付けた。これ、なかなかの優れものなのよね。
大きさ的にも邪魔にならず、うまくいった。


こんな感じで落ち着いた。

4Kと従来のBSって、区別つく?

……で、ここからが本題。
知らないうちに、売られているテレビのほぼすべてが4Kチューナー内蔵になっていた。だから、届いたテレビも4Kチューナーが内蔵されていて、BSの4K放送が見られる。
しかし、4Kだの8Kだのって、まったくいらんなあ。
NHKの朝ドラなどは、BSプレミアム(解像度:1920×1080)と4Kチャンネル(3840×2160)が同じ内容を同時放送しているが、切り替えても違いが分からない。
もっと馬鹿げているのは、BSで4K、8K放送を開始するために、NHKのBS1や民放キー局のBSチャンネルの解像度が、それまでの1920×1080から地上波デジタルと同等の1440×1080に落とされた(2018年から)ことだ。
こういうのを本末転倒という。
このときも事情を知った視聴者や放送現場からは「なんとバカなことを」という声が上がっていたが、テレビメディアは一切このことを報じなかった。
しかも、「実際には放送各社のほとんどが番組の映像を1440×1080の規格で管理しているため、解像度が変更となった後も実際の画質はこれまでと変わらない」などという説明がされる始末。つまり、「ほとんどの放送コンテンツは1440×1080で編集・保存されているんだから、1440×1080で十分なのだ」と告白しているわけだ。
NHKの朝ドラはお金をかけて映像制作しているだろうから、解像度の違いが分かるはずだと思ってじっくり見てみた。
地上波(1440×1080)とBSプレミアム(1920×1080)の解像度の微妙な差はなんとなく分かる(画面に近づいてじ~~っと見て、そうかなぁ……と感じる程度)。でも、BSプレミアムと4Kの差は分からない。65型でも分からないのだから、42型くらいのテレビなら、まったくと言っていいほど分からないんじゃないだろうか。
ものすごく高いテレビだと液晶のクオリティが高くなって分かるのかもしれないけど、あたしゃ老眼だし、大画面テレビの目の前に座り込んで見ているわけではないので、意味なしホウイチだ。
ましてや、1日中通販番組をしている4Kチャンネルで「今ならお値段そのままで、もう一台オマケでついてきます!」なんてやっている人の顔をデカデカと映し出されてもねえ。

金のかけ方がおかしい

大宅壮一が「一億総白痴化」という言葉を使ったのはいつのことだったか。今ではその言葉を知っている人のほうが少なくなっているだろうなあ。
我々視聴者はもともとテレビによって白痴化していたのだが、テレビがでかくなっていき、4Kだ8Kだと騒ぐにつれ、さらにバカになっていく。
これ以上バカになっていいのか? 4K、8Kインフラに投資するより、質の高い番組を作るために金をかけようよ。それやらないと、俺たち貧乏人が作るYouTubeコンテンツにも負けるよ。

NHKにしても、昭和の懐かし映像を無理矢理高解像度化した変な映像なんて、元画像が粗いんだから、4Kで放送する意味はないでしょ。

貴重な電波の周波数帯資産、もっと違うものに割り当てられないのかと呆れるばかり。
テレビ放送が全部デジタル化したのはいいとして、あのとき、地上波の利権構造はリセットしておくべきだった。デジタル放送を受信可能エリアの狭いUHF帯中心でやる必要はまったくない。BSやネット回線が中心ということにして、地上波(AM、FM、UHFなど)はローカルメディアやデータ送信に割り当てていくべきだった。
それまでの利権を守るために、わざわざ狭くて性能の悪いメディアに固執した。これは総務省とテレビ局の癒着による罪。

今のテレビには最初からhuluだのNetflixだのというアプリがインストールされていて、視聴者に有料放送サービスを購入させるようにさせるようにと前のめりで攻めてくる。
クラウドサーバーに自動的に視聴者の視聴記録や嗜好を集めて、そのデータを裏で売買したり、あらゆる営業活動に利用したりする仕組みも入っている。
そこまでやっておいて、未だに地上波はBS、CSよりえらいとか、昔ながらのサンプル数が極端に少ない「視聴率」なんてものに振り回されていたりして、放送業界もバカで凝り固まっている。

道具に支配された人間

テレビの解像度が上がるにつれ、肝心の番組の質はどんどん劣化しているのは確かだ。
この「ハイテク道具に支配され、主人であるべき人間の知性や感性が劣化する」という現象は、テレビ業界だけでなく、あらゆる産業、文化の分野で起きている。
結局、道具ばかり進化しても、使う我々がそれに振り回されるだけで、道具によって想像力が奪われてしまうのだろう。
受け手の想像力が劣化すると、送り手(創り手)の創造力もそれに合わせて低レベルな方向に合わせていく。そうしないとビジネスにならないから。
道具が進化して、今なお安価で入手できることはありがたいのだが、ある程度、道具は不自由、不完全なほうが、創意工夫をしながら、形のない価値(芸術とか哲学とか)を育てる力が育つのだろうな、と思う。

私は一般家庭にテレビがない時代に生まれた。近所のお金持ちが初めてテレビというものを買って、それを庭から縁側越しに覗きに行っていた時代を知っている。
テレビは今も完全な受動態道具だけど、創作や自己表現のための道具──例えば楽器なんかも贅沢品だった。
紙と鉛筆でさえチビチビと使わなければ怒られた。
本も高くて買ってもらえなかったから、同じものを何度も読み返した。
子どもの頃に何度も読み返した「シートン動物記」の文章がしっかりしていたから、今の文章作成能力につながったのかなあ、なんて思う。

ワープロが出てきたのは20代後半だったかな。そのうちにパソコンが出てきて、デジタル信号ですべて処理・記録するようになって……と、その後の劇的なデジタル革命を全部見てきたから、今の「最初からデジタルだけ」の世代とは違う価値観や歴史観を持っている。
まあ、いい時代に生まれたんだろうなあ。

……と、ジジイ根性丸出しの戯言はこのへんにして、さっさと創作活動をしなさい、って。

……というわけで、オマケはこんなのを……。


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パソコンは中国製に限る?2020/10/25 22:14

今回メインマシンに昇格させた中国製ミニPCの中
画像編集ソフトのPhotoshop Elementsは常用アプリで重宝しているのだが、今使っているのは15年以上前のバージョンだ。
ElementsシリーズはAdobeの年間ライセンス契約ではなく単独購入できる最後の砦だが、これまでライセンス購入のみにされたらたまらないと思い、思いきって最新版を購入した。
ところが、Windows7にはインストールできないと判明! ショックだ。
1万円以上出したアプリがインストールさえできないのでは洒落にならない。いろいろ考えた末に、メインのWindows7マシンと、去年買って、サブ機にしているWindows10 のミニPC(格安の中国製)を入れ替えることにした。
その経緯と初期設定やトラブル解決法の詳細は⇒日記に3ページ以上にわたって詳しく書いたのだが、この作業をやっていて改めて考えさせられたのは、日本は本当にITに関してはアジアの中でも最底辺にいるなあということだ。

日記を読んだかたから、
  • Windowsは日本語バージョンと英語バージョンでは恐ろしく違う。
  • 日本語版はお節介機能が満載で、ストレスやトラブルが段違いに多い。
  • 日本語版WindowsがプリインストールされているPCは余計なバンドルソフトがプリインストールしてあったりしてますますトラブルが多いので、買わない。
  • 日本製のデバイスのドライバーもまともに動かないものが多い。英語版ではそういうことはまずない。
  • 同じiPhoneでも、日本で発売するものにはSIMロックがかかったりしていた時期もあったし、とにかく日本製の機器はストレスだらけである。
……といったコメントが寄せられた。
英語版Windowsを使ったことがないのでどこまでそうなのかは分からないが、さもありなん、だとは思う。


「仕事のためのパソコン」の理想像とは

だいぶ前から、私がPCに求めるのは、
  1. コストパフォーマンス
  2. 静かで小型であること
  3. いざというときに手当てできる分かりやすい構造

……の3点だ。

ノートPCでは快適な仕事環境にはならない。かといって、マジンガーZ(古い?)の操縦席みたいなゴツいものは邪魔でうるさいだけだからいらない。
デスクトップマシンはゲームマニアのものだけではない。普通に「仕事をする人」のものである。
そういう「普通の人」は、小さくて、静かで、サクサク動いて、安定しているPCを求めている。(こういうやつだ)


昨年購入した怪しげな中国製ミニPCは、3はともかく、1と2を満足させている。
これに匹敵するデスクトップパソコンは国内メーカーはおろか、DELLのような巨大メーカーの製品にも見あたらない。捜しまくっても、聞いたことのない中国製マシンしか見つからないのだ。
小さいのに強力。音はまったくしないし、重量級の外部HDDやらなにやら10個以上のUSB機器をつなぎまくっても、なんのトラブルもなくサクサク動く。 しかも、安い。
これを選ばない理由がない。

その中国製ミニPCをメイン機にしなかったのは、Windows7のメインマシンの環境を移行するだけで相当な手間がかかるし、あまりにも小さくて安いマシンだったので、イマイチ信用していいものかどうか迷ったからだった。
しかし、今回入れ替えてみて、このミニPCの実力がかなりのものであることが分かった。
兄弟機のような、もっと安い機種を妻が使っているが、1年以上何のトラブルもなく動いている。
こんなことならもっと早く入れ替えればよかった。

中国はIT産業の裾野がものすごく広く、活気があることを感じる。
専制国家体制の国なのに、なぜ産業の現場では活気があって、欧米をも脅かすほどに急成長したのだろうか。
思うに、商品開発や技術研究をする現場の人たち、特に上に立つ人たちが、「どうすればよりよく、合理的な製品を安く作れるか」を第一に考え、動いているからではないか。

それに対して日本では、「どうすれば売れるか」「どうすれば儲かるか」「どうすれば客をうまく瞞して商品を買わせられるか」を第一に考えているように感じる。
もちろん中国でも、そういう腐った根性でやりくりしている企業や輩もいっぱいいて、今も安かろう悪かろう製品はたくさん生まれている。でも、裾野が広く、活気があるから、山の中腹から上の部分がどんどん立派になっている。

日本は、企業の姿勢、製品開発や商売倫理という部分で、根本的な間違いをおかしているような気がする。だから、一部の優秀で真面目な人たちの努力が形にならない。山の中腹から上がしっかりしないどころか、上からも麓からもボロボロ崩れていく一方だ。
この「根本的な間違い」という病巣が、メディアの姿勢、官僚の働き方など、あらゆる分野に巣くっている。
この仕事は誰のために、どういう目的でやる仕事なのかという考え方の「だれの、何のために」が間違っているのだ。
目先の利益や保身を最優先させる結果、国全体の力が落ちていくという難病。

今の日本は、IT後進国というだけでなく、あらゆる面で、今までの歴史の中で何度もおかしてきた間違いを次々に甦らせ、その間違いに鈍感になっているのではないか。
その鈍感さと無責任さが導く先を想像するのが恐ろしい。
どうにもならなくなってからでは遅い。どん底を見る前に、なんとか山崩れを防ぐことはできないものだろうか。



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Amazonでオリジナル書籍を売るまでの道のり2019/09/22 21:28

ISBNコードを振ってA5判からB6判208ページ構成に改定した『新・マリアの父親』
オンデマンド出版なら赤字を抱えずに本が作れる、という時代になった。しかし、赤字にならないのはいいが、とにかく売れない。個人が運営するWebサイトだけでPRするのは限界があるし、カード情報の入力なども抵抗があるからか……。
オンデマンドブックをAmazonで売れたらいいのだがなあ……ということは以前から考えていた。
『狛犬かがみ』は初版と改訂第2版のいずれも売り切って、現在在庫なし状態が続いている。一般書店で数千冊も売れたとは到底考えられないので、ほとんどはAmazon経由ではないかと思う。
現在の版元(トランスビュー)は取次を通さない「一人出版社」の先駈け的存在で、その販売手法はいろいろなメディアで取り上げられている。
哲学思想、宗教、教育などを中心に、日販・トーハンといった取次店を通さず、直接書店に書籍を郵送する方法で卸す独自の営業で注目されている。取次店では太洋社のみ取引があるが、このルートで流通された商品は書店からの返品を認めない。また配本部数も全て書店に一任されており、他の出版社が行う新刊委託(注文がなくても、出版社・取次店側が見計らって送品すること)は一切行わない。
池田晶子「14歳からの哲学」( ISBN 978-4-901510-14-1 )は30万部を超えるベストセラーとなった。
Wikiより

トランスビュー方式とは、「書店に直で卸す本は、送料自社持ちで返品も認めるが、返品するときは送料は書店持ちでね」という方式。
しかし、この方法でも、本はオフセットでまとまった冊数作っておかねばならないし、受注・発送などの作業も全部自分でやらなければならないから、労力も運転資金もかなり必要になる。

ISBN出版者コードを取得する

商業出版では売れないと判断される本を自分で次々に出版しようとする場合、在庫を抱える方式は到底無理なので、オンデマンド出版以外は考えられない。しかし、オンデマンド本をAmazonで売ることは可能なのか?
調べていくと、最初の条件は「ISBNコードをつける」ことだった。
Amazonでは、商品としての本には必ずこれがついていることを条件としている。

ISBNとは何か?
出版業界の人には説明不要だが、一応書いておくと、ISBNは書籍を識別するための世界共通コードで、本の戸籍のようなもの。ISBNコードをつけることで、日本だけでなく、世界中ですぐにその本が何かを特定することができるようになる。
13桁のコードで表され、日本の出版物の場合、通常は、
ISBN978 - 4 - AAAA - BBBB - C
という構成になっている。
最初の978-4は出版元が日本または言語が日本語であることを示している。ちなみに978-0および978-1は英語、978-2はフランス語、978-3はドイツ語……だ。
A部分は「出版者記号」、B部分は「書名記号」で、それぞれの桁数は決まっていないが、合計で8桁になる。
A部分が2桁なら残りは6桁だから、000000から999999までの100万冊分の書名コードが割り振れる。
最後のC部分の1桁は「チェックディジット」といって、検算機能を持っている。ISBNコードが正しいかどうかを決められた数式にあてはめて計算した結果の0 - 9の数字1桁が入る。
『医者には絶対書けない幸せな死に方』には、ISBN978-4-06-291514-4 という13桁のISBNコードがついている。
06が講談社を示し、291514は『医者には絶対書けない幸せな死に方』という本に個別に振られたコードだ。
ちなみに2桁コードを持っている出版社を番号が若い順に並べていくと、
  • 00 岩波書店
  • 01 旺文社
  • 02 朝日新聞社出版
  • 03 偕成社
  • 04 角川書店
  • 05 学研
  • 06 講談社
  • 07 主婦の友社
  • 08 集英社
  • 09 小学館
……である。
これらは計算上は100万タイトルまでは順番にISBNコードを振っていけることになる。

ISBNを取得するには、出版社や発行人となる個人や団体が日本図書コード管理センターに登録申請をして「出版者コード」を決定してもらうことが第一歩となる。

今回、「タヌパック」が取得した出版者コードは910117で、6桁コードなので、その後に使えるのは2桁(00~99)。つまり100冊(100タイトル)分のISBNコードを取得した。死ぬまでに100タイトル使いきるかどうかは分からないが、10タイトルでは不足なのは明らかだから、とりあえずは100タイトル分取得したわけだ。

Amazonで売るための3つの方法

さて、ISBNコードをつけたオンデマンド本をAmazonで売るためには、以下の方法があることが分かった。
  1. Amazon PODという、Amazon自身がやっているオンデマンド本販売システムで売る。ただし、これはAmazonが契約した取次業者を通してしか使えない。
  2. 「e託」という方法で、Amazonに本を預けて売ってもらう。Amazonの仕入れ数はAmazonが決める。売れたら、その分、Amazonから納入依頼が届くので、都度、Amazonに本を納入する。
  3. Amazonに毎月契約料を払って「大口販売業者」となり、マーケットプレイスで販売する。売れても売れなくても契約料は支払わなければならないし、本の発送も自分で行う。

このそれぞれについて、経費やリスク、運営する上での自由度や満足度を調べた結果、3の方法しかないと分かった。
1は本の形式がAmazonで細かく決められており、本を作る上での自由度が制限される。また、取次業者に本を登録(PDFファイル)した後は、訂正が効かない。もちろん、取次業者への手数料がかかる。
2は、Amazonに支払う手数料割合が大きい上、都度、本をアマゾンに納入する手間とコストがハンパない。
3は、自分で配送するから、印刷・製本所から購入者に直送できるので、送料と時間を節約できる。ただし、売れても売れなくても大口取り引き契約者としての契約料(毎月約5000円)は払い続けるし、個別の売り上げにもAmazonへの手数料(15%+80円)はかかるので、赤字は確実に出るであろう……。

ここまで調べて、計算をするのだけでもかなりのエネルギーを使った。しかし、ISBNと出版JANコード取得(これはAmazonでしか売らないなら必要ないのだが、一応、将来どうなるか分からないので取得した)も済んだので、後には戻れない。

最後の壁は、Amazonのカタログに本を新規登録することだった。新たにISBNを振る本だから、当然、どこのデータベースにも存在しない本なわけで、「こういう本を新規に出版しますので、Amazonさんのカタログに登録してください」と申請し、認めてもらわないといけない。
これが実はいちばん不安だった。その不安は的中して、最初にいろいろやりとりがあって、行き違いもあったのだが、数日で解決し、今は自由に「新刊書」をAmazonのカタログに登録できるようになった(今後、システムやポリシー変更などがないことを祈るばかり)。

現在、「タヌパック」がAmazonで売っている本は⇒こちらからどうぞ。

ISBNと出版JANコードのバーコードを規定通りに印刷した本。このバーコード、デザイナーにはとても評判が悪い。これのおかげで本の表4デザインが台なしになってしまうから……。実際、その作業をしてみると、「邪魔だよなあ」という気持ちになる

賢治に比べたら……

……というわけで、なんとかタヌパックの本がAmazonを通じて販売できるようになった。

しかし、これでめでたしめでたしとは当然ならない。
最大の誤算は、「Amazonに出しても売れない」ということだった。
すでに1週間以上経過したが、見事に1冊も売れていないのである。
10月からは消費税も上がり、印刷・製本代、送料、Amazonへの契約料など、すべての経費が上がる。
人々の生活も苦しくなり、本を読む気力も時間も金銭的余裕もなくなる一方だろう。
こうなったら、しっかり覚悟を決めるしかない。
どうせ残された時間はわずかなのだから、生死に関わらない範囲なら、金勘定のことでアッパトッパすることはない。
宮沢賢治は、生きている間は自分の作品がまともに本にさえならなかった。
生前に刊行されたのは、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』だけだが、どちらも自費出版だ。『春と修羅』は地元花巻の印刷所に持ち込んで1000部を作り、ある人物に500部委託して東京での販売を頼んだものの、「ゾッキ本」(売れない新刊本)として流され、定価2円40銭のところ、古本屋で50銭で売られたという(Wikiより)。
『注文の多い料理店』のほうは、盛岡高農の後輩たちの協力を得てなんとか出版費用を工面して1000部作ったが、まったく売れず、賢治自身が父親から借金して200部を買い取ったそうだ。

まあ、それに比べたら、今の自分ははるかに恵まれた環境にいる。この幸福を味わい尽くしてから死ぬぞ、という前向きな気持ちになれる。

改定の道程も作品?

今回、Wikiの「宮沢賢治」を改めてチェックしていて、
賢治の作品は、一旦完成した後も次から次へ書き換えられて全く別の作品になってしまうことがある。これは雑誌に発表された作品でも同様で、変化そのものが一つの作品と言える。(Wikiより

という一節を初めて読んだ。
ああ、これって、オンデマンドならいくらでもできるんだよな、と思った。ISBNコードの役割からしたら、同じ番号の書物の内容がどんどん書き換えられるのは御法度だろうが、誤字訂正とかなら当然許容範囲だし、デジタル時代の出版物というのは、改訂作業の自由度が高いことも大きなメリットといえる。
Kindleブックなどは、同じ登録書籍のカバーや内容改定をいつでもWEB上の編集ページから行えるしね。

現在、ISBNコードを振りながら、コストの問題もあって、A5の2段組で作った本をB6の1段組に編集し直したりしているのだが、2013年に作ったA5判の『新・マリアの父親』には、だいぶ直したつもりだったが、かなり誤字・脱字が残っていた。細部の表現や間違いなども直しながら、頭からていねいに編集した。
その編集作業をしながら、へえ~、こんな話だったのか、と、感心している「作者」。ラストシーンでは思わず涙ぐんでしまったよ。

1冊も売れていないのに、あれもこれも……と、やりたいことが一気に増えた。楽しい60代を送るための赤字なら、それはもう人生の必要経費でしかない。
しかし、オンデマンド本は1冊も売れなければ、「もの」として存在しなかった本になってしまうわけだから、このままではいかんわなあ……。



「絶対」音感なんてものはない2019/02/11 21:25

学校の放送室

「移動ド音感」と「固定ド音感」

学校のチャイム

テスト1


とりあえずこれ↑を聴いてほしい。(音が出ない場合は左端の三角印をクリック)
どう聞こえるだろうか?
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

1の人は、メロディを聴くとドレミファ……という階名をラベリングする習慣がある。
2の人は、メロディを階名と結びつける習慣がない。

世の中の人は、概ねこの2通りに分けられる。
ちなみに上のメロディを譜面に表せばこうなる↓

テスト2

では、次のこれ↓はどうだろうか(三角印をクリック)


  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ファラソド ファソラファ ラファソド ドソラファ ……と聞こえる
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない


1の人は移動ド音感である。
2の人は固定ド音感である。
3の人はどちらでもない。(メロディは「ああ、あれだ」と分かっても、階名には結びつかない)

最初のケースの1の人が、2つのグループに分かれたわけだ。
ちなみに上のメロディを譜面に表すとこうなる。

これを移動ド音感の人は、キー(調)に関係なく、「長調のメロディ」として聞こえてくるので、

↑こう聞こえる。ちなみにF(和音名=ヘ)の音をドレミ……のドにした長音階(ヘ長調)に相当するので、本来譜面の横には b(フラット) が1つつくが、この学校チャイムのメロディには「B」(和名音名なら「ロ」)に相当する音が含まれていないので、b がなくても演奏には影響がない。

一方、固定ド音感の人は、あくまでもA=440Hzの調律をした楽器の「Cの音をドと固定して聴いている」ので、

↑こう聞こえる。

テスト3

では、次はどうだろうか?(三角印をクリック)

  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ファラソド ファソラファ ラファソド ドソラファ ……と聞こえる……かな?
  3. ミ ソ# ファ# シ ミ ファ# ソ# ミ ソミファシ シ ファ# ソ# ミ ……と聞こえる……かな?
  4. 気持ちが悪い
  5. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

1はもう説明不要だが、移動ド音感の人である。
2.3.4.は固定ド音感の人だが、いわゆる「絶対音感」というものにどれだけ忠実な耳であるかで反応が分かれる。
実はこれ、A=422.5Hzというチューニングになっている。
現代では、A=440Hzというチューニングが標準とされ、クラシックなどでは少し高めのA=442Hzあたりのチューニングをすることもある。
しかし、A=422.5Hzまで下げると、A=440Hzのときの半音下のAb(G#)が415.3Hzなので、ヘ長調(Fメジャー)でもホ長調(Eメジャー)でもない中途半端なチューニングになる。(FメジャーよりはEメジャー寄り)

念のために、半音下げたEスケール(ホ長調)でも聴いてみよう。↓



これはA=440Hzのチューニングなので、「気持ちが悪い」という人はいなくなり、
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ミ ソ# ファ# シ ミ ファ# ソ# ミ ソミファシ シ ファ# ソ# ミ ……と聞こえる
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

の3通りに分かれると思う。

しつこいようだが、Gスケール(ト長調)でも聴いてみよう。



これだと、
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる(移動ド音感)
  2. ソシラレ ソラシソ シソラレ レラシソ ……と聞こえる(固定ド音感)
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

の3通りのグループに分かれるはずだ。

端的に言えば、固定ド音感の人にとって、Fスケールの学校チャイムとEスケールの学校チャイムは(違う高さの音で構成されている)「別々のもの」だが、移動ド音感の人にとってはこの両者は(「学校チャイムのメロディ」という意味で)「同じもの」なのである。

音楽は「相対音感」の文化である

さて、多くの人たちは、耳で聞いたメロディを即座に楽器で演奏してみせる人のことを「絶対音感」がある、などというが、それは間違いである。
まず、世の中の多くの人たちが「絶対音感」と呼んでいる音感は、ほとんどが「A=440Hz調律をしたときの固定音感」とでも呼ぶべき音感である。
このタイプの「固定音感」の持ち主は、クラシック音楽の演奏家などに多い。
「譜面に強い」のも特徴で、上のテストで固定ド音感であった人たちの多くは、この程度のメロディであれば、聴いた音をサラサラと譜面に書きおこすこともできる。
一方、移動ド音感の持ち主は「相対音感」を持っている。基準音がどんな周波数に調律されていようと、1オクターブ(周波数が倍音の関係)の間を12に分割した音の相対関係が正確であれば、音楽的には何の問題もなく、ちゃんと「メロディ」として把握できる。
優れた「相対音感」の持ち主もまた、メロディを聴けば譜面なしで歌ったり演奏したりできる。
この「相対音感」こそが、音楽(特に作曲や即興演奏)にとって重要な音感である。

固定音感(世の中の多くの人が「絶対音感」と呼んでいる音感)を持っていても音痴な人はいる。逆に、相対音感を持っていても「譜面は読めない」「譜面には弱い」という人はとても多い。
典型的な相対音感人間の例は安全漫才のみやぞんだ。

みやぞんはメロディを相対音感でとらえているので、譜面などなくてもメロディを再現できる↑
ガヤの中から「絶対音感があるやん」という声が聞こえるが、これは間違い。「相対音感」があるのだ。


上の動画を見て分かるように、原曲のキーに関係なく、みやぞんはすべてFスケール(ヘ長調)で弾いている。それが自分にとって弾きやすく、コードなどもFスケールの指癖で覚えてしまっているからだろう。
彼にA=422.5Hzでチューニングされたメロディや歌を聴かせても、長調であれば全部ヘ長調で演奏するに違いないし、A=440Hzからずれたチューニングであることも気づかないはずだ。

「半音」部分を言い表せない移動ド音感

ドレミファ……の階名には一つ大きな問題がある。
長音階(メジャースケール)、短音階(マイナースケール)から外れた音に対するラベリング(名前付け)がないことだ。
ひとつ例を挙げよう。
もうひとつ例を挙げよう。

月桂冠のテレビCM
この「好きだよね 月だよね」というジングル(広告コピーや社名、商品名などを短いメロディにのせたもの)はとてもよくできている。
こういうメロディだ。



これはBbスケール(変ロ長調)を基本にしたメロディなので、移動ド音感の人は、最初のところは

レミレドミ

……と聞こえる。
ちなみに、フリューゲルホルンやテナーサックス、ソプラノサックス、トロンボーン、ユーフォニウム、バスクラリネットなどは「Bb管」と呼ばれる管楽器で、基本のドレミファ……がBbスケール(Bbが「ド」)の音になる。だから、これらの楽器で「レミレドミ……」と吹けば、上の音になる。
これらは「移調楽器」なんて呼ばれるけれど、固定ド固定音感の人がこうした移調楽器を演奏しようとするとき、あるいは記譜しようとするときは、頭の中で一旦移調しなければならず、混乱するという。

ところで、このメロディのチャームポイント?は、二度目の「だよね」の「だ」がブルーノート(メジャースケールにもマイナースケールにも含まれない音)になっているところだ。
完全な長調のメロディだとちょっと面白くないのだが、ここにブルーノート(移動ドでいえばレとミの間の半音)が入ることでちょこっとおしゃれ感というか、ブルーステイストが出る。
しかし、ドレミファの階名だと、こういう半音部分は名前がないので、移動ド音感の人は、そこだけドレミで歌えなくなる。

レミレドミ ラソ●~レド

と聞こえるのだ。
●のところは普通に行けばミになりそうだが、ミではない。思わず頭の中では「む~」とか「ん~」となってしまう。
それに引きずられて、その後に続く最後の「レド」も、この音の後だともはや「レド」とは聞こえず、

レミレドミ ラソむ~むむ~

……みたいに聞こえてくるかもしれない。

一方、固定ド固定音感の人たちにはこうしたことはまったく関係ない。これがミbであることはすぐに分かるからだ。この音はこれでしょ、と、楽器上で勝手に指が動く。そういう訓練を受けている人たちが多い。


ちなみにみやぞんがこれを聴いて「ピアノで弾いてみて」と言われたら、迷わずFメジャー(ヘ長調)で弾き始めるだろう。
こういう感じで↓



シンプルにコードをつければこんな感じかな。





相対音感人間が激減している?

みやぞんが優れた相対音感の持ち主であることは間違いないが、彼がメロディを聴いたときにドレミ……の階名ラベリングを頭の中でしているかどうかは分からない。
また、ドレミ……でラベリングできるかどうかは、さほど重要なことでもない。
ドレミ……という階名は長調と短調のスケールの中でのラベリングであって、ジャズのようなテンションや転調がコロコロ出てくる音楽ではドレミ……ラベリングはあまり意味をなさないかもしれない。
実際、耳で聴いたときの階名ラベリングができなくても優秀な相対音感を持っている人たちもたくさんいる。ドレミは分からないし、譜面も読めないけれど、一度聴いたらすぐに歌えてしまう人などはそういうタイプだ。

ただ、みやぞんのような相対音感人間がどんどん少なくなってきていると感じるのは私だけだろうか。

「絶対音感」なんてない

固定ド固定音感の人たちが、移動ドや相対音感のことを、上から目線で「育ちが悪い」とか「音が狂っているのに分からないなんて」とか「ファソラなのにドレミって歌うなんて吐きそうだ」とか言っているシーンを目にする。音大生やプロの演奏家にも多い。
そういう人たちは、自分たちが「絶対音感」の持ち主であることにエリート意識を持っている。しかし、彼らは「絶対音感」という言葉の「絶対」という部分にマインドコントロールされているだけではないのか。
調律の仕方に「絶対」なんてない。どんな高さに調律しても、個々の音の相関関係がしっかりしていればなんの問題もない。ピアノの名門・スタインウェイ社は、一時期、A=435Hz~460Hzまで、何種類ものピアノを作っていた。
それに、平均律12音階ではない、ピタゴラス音律や純正律といった調律法、音階も存在する。純正律主義者?に言わせれば、ピアノやギターの平均律は「12音すべてが平均的に狂っている調律」だということになる。

また、ベートーベンもモーツァルトもバッハも、A=440Hzで音楽を作ったり聴いたり演奏してはいない。
Aの音(ハ長調の「ラ」の音)を440Hzにしようと決めたのは20世紀になってからのことだ。1917年にアメリカの音楽協会がA=440Hzを決めて、その後、1953年にISO(国際標準)が正式にひとつの基準として認定した。
しかし、それ以前の音楽の歴史を遡れば、A=440Hzというチューニングはむしろ異端で、時代によって、また同じ時代でも場所によって、もっと高かったり低かったりした
彼らの時代に演奏されていたオリジナルの音楽をそのまま今聴けば、「固定音感」の人たちはきっと「調律が狂っていて気持ちが悪い」と感じるだろう。
昔は録音機がなかったから、どんな音の高さで演奏されていたかは分からないではないかと言われそうだが、使用されていた調律用の音叉が残っている。
ヘンデルが使った音叉はA=422.5Hzで、ベートーベンの時代にはA=433Hzまで上がったそうだ。
A=422.5Hzというのは、A=440Hzで調律したときのAbが415Hzだから、今ならAとAbの中間あたりの音である。
そう、さっき聴いた学校チャイムの聴音「テスト3」がこれだ。
もう一度聴いてみよう。


ヘンデルはこの音程で調律した楽器を使っていたのだ。この調律で演奏される音楽が気持ち悪いと感じる人は、ヘンデルと一緒に演奏はできないことになる。
現在、バロック音楽の演奏会ではAの音を半音低い415Hz(Ab)に調律することが多いが、それはバロック時代の調律が今より低かったことが分かっているものの、現代の調律の標準であるA=440Hzとの整合性をとるために、A=422.5Hzなどという「中途半端」な調律にはせず、便宜上、Abの高さまで(半音ちょうど)低くしているわけだ。

もうお分かりだと思うが、要するに絶対音感と呼ばれる音感の「絶対性」は、基準点をどこに決めるかで変わってしまうのだ。
その意味で「絶対」音感などは存在しえない。あるとすれば、ある基準音を決めたときの「固定」音感とでも呼ぶべきものだ。

クラシックの名作曲家たちは、おそらくすぐれた相対音感の持ち主であっただろうし、チューニングの基準をどこに決めるかなんてことは、演奏する際の便宜にすぎないということを理解していた。「優れた音感」はあっても、「絶対音感」などという概念はなかったのではなかろうか。
人間音叉になってしまうような固定音感は、決められた調律で与えられた譜面通りに演奏するのには都合がいいかもしれないが、それでは「人間MIDI」ではないか?
メロディを作りだしたり、自由に楽しむためにはむしろ弊害のほうが多いと思われる。

誤解してほしくないが、私は、どんな音感が偉いとか言っているのではない。ただ、固定ド固定音感をつけさせることが音楽のエリートを養成する第一段階のようになってしまったら、それはとても怖いことだと思うのだ。
私にとっての音楽は、「音そのもの」よりも、音同士の相対性の関係(メロディ)に価値(美)を見出す文化だ。
一方で、固定ド固定音感の音楽世界は、音色の美しさや演奏技術の高さに最高価値を置いている世界観、言いかえれば「音そのものの価値観」の世界のような気がするのだが、どうだろうか。
どちらが「偉い」とか「高尚だ」という話ではない。同じ「音楽」といっている文化だが、人によって価値観が違うだけでなく、聞こえ方そのものが違う、という話である。

あなたはどうだろう?
譜面を与えれば、どんなに難しい曲も弾きこなせてしまうが、簡単なメロディの伴奏も譜面なしではできない演奏家と、演奏技術は大したことはないが、耳から入ってきたメロディを自分の好きなキーですぐに再現できるみやぞんタイプ……あなたなら、どちらになりたいだろうか?

今敢えてソニーAマウントを買う理由2018/12/14 13:11

古いソニーα300とAマウント最終形のα57

Aマウントならカメラ+レンズが5万円以下で揃う!

久々に「ガバサク」ネタを書く。
どんなシーンでもカッコいい写真を撮るために必要な道具(カメラとレンズ)で、今いちばんコストパフォーマンスが高い方法を再確認したのでご報告したい。
答えは、
ソニーのAマウントでカメラとレンズを揃える
だ。

その答えを導き出すまでの理屈をまとめると、
具体的なお勧めは、カメラ本体はソニーのα57、α65、α77のいずれか。それにタムロンかソニー(中身は同じタムロン製)の18-250mm/F3.5-6.3というズボラズームをつける。
この組み合わせ、カメラは程度のよい中古を探すしかないが、2~3万円で見つかる。レンズは新品でも2万円弱で買えるので、なんと、5万円以下で強力な「なんでも撮れる万能デジイチセット」が手に入るのだ。
カメラがどんどん高級路線になった今、5万円以下で本格的な写真が楽しめる方法というのは他に見つからない。
ほぼ同じ内容をEマウントで揃えると、例えば中古のα6000が3万円台Amazonで購入新品のタムロン18-200mmが約5万円Amazonで購入で、合計8~9万円はかかる。
さらにこれをフルサイズモデルで揃えると、レンズだけで12万円以上。カメラもフルサイズとなれば当然、中古でも10万円以下はなかなか見つからない。

具体例としては、中古のα7Sが10万円台(新品だと約16万円)、フルサイズ対応のEマウントレンズ、ソニーの24-240mm/F3.5-6.3が実売価格が12万円以上Amazonで購入で、合計23万円以上となる。しかも、フルサイズだと望遠端が240mmまでで、AマウントのAPS-C専用ズボラズームの375mm相当には負ける。フルサイズセンサーならトリミングして拡大しても画質はかなり確保できるから、実質では負けないかもしれないが……。

レンズ交換式カメラでズボラズームをセットした場合のまとめはこうなる。
  1. フルサイズ:最低でも23万円以上。望遠端は240mm。
  2. EマウントのAPS-C:最低でも8万円以上。望遠端は300mm相当。
  3. Aマウント5万円以下で可能。望遠端は375mm相当

……となれば、今からでも、敢えてAマウントのカメラとレンズで揃えるという戦略は極めて正しいではないか。私のような、写真趣味は捨てられないが、道具にそんなに金をかけられない人間にとっては、まさに「魔法の解」である。

バランスがよい、1600万画素CMOSの最終モデル α57はAmazonで購入で2万円台から売られている。ヤフオクよりAmazonのほうが出品者に対して厳しい指導を行っているので何かと安心だろう。


2400万画素のAPS-Cモデルα77も、中古ならAmazonで購入で2万円台から売られていることがある。性能的には新品が10万円前後で売られているα77Ⅱと基本的には変わらないので、程度のよい中古を狙うのは賢いやり方。


実際にやってみた

というわけで、2018年12月に、ソニーのα57というAマウントのカメラを敢えて購入してみた。Amazonで2万2000円だった。中古だが、きれいな完動品で、文句なし。
かつてα300につけていたSONYの18-250mmズボラズームをつけて撮ると……さすがにα300とは別次元の気持ちよさだ。画質はほとんど変わらない(場合によってはα300のほうがいいのでは? と思えることもある)が、AFの速さや連写速度などは雲泥の差。ファインダーの視野角も大きくなって別世界。なんでもっと早く気がつかなかったのだろうと後悔した。
Aマウントはもう新機種は出ないが、最終形となったα57やα65、α77の性能なら、残りの人生10年20年を写真趣味三昧で楽しむのにまったく不足はない。これ以上カメラに金をかけるより、旅行の費用にでもあてたほうがずっといい。

世の中がどんどんおかしくなっていき、老後を楽しく平穏に過ごすには相当な「技術」と「思考回路の再構築」が必要になってきた。
そうした「生き抜く技術」の一つとして、こんなこともご紹介してみた次第。
ヒントとなれば幸いだ。
次へテスト撮影の様子を日記に紹介

ガバサクのサイトでのまとめ次へこちら

注目したいAマウントレンズ群


●TAMRON AF18-250mm F/3.5-6.3 Di II LD Aspherical [IF] Macro用 A18S
かつては実売価格が5万円以上した18-250mmズボラズーム。Aマウントが絶滅危惧種になった今はAmazonで購入新品でも1万円台で売られている。みんなが気づいて買いに走る前に入手したほうがいいかもしれない


ストイックな求道者用レンズ 30mm/F1.4(シグマ)

見かけの画角は45mm相当。いわゆる標準レンズ。ストイックにこれ一本で風景から人物まで全部撮るというのも潔い。画質はピカイチ。明るいので暗い場所でもOK。Amazonで購入で3万円台


Neewer 32mm F/1.6

これは面白い! マニュアルフォーカスだがなんと新品がAmazonで購入7000円で買える! 静物撮りならこれでOK!ユーザーの評判も上々。


TAMRON AF70-300mm F4-5.6 Di MACRO フルサイズ対応 A17S

なんとフルサイズにも対応している超望遠レンズ(105-450mm相当)も、AマウントならAmazonで購入でたった1万円!




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