「絶対」音感なんてものはない2019/02/11 21:25

学校の放送室

「移動ド音感」と「固定ド音感」

学校のチャイム

テスト1


とりあえずこれ↑を聴いてほしい。(音が出ない場合は左端の三角印をクリック)
どう聞こえるだろうか?
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

1の人は、メロディを聴くとドレミファ……という階名をラベリングする習慣がある。
2の人は、メロディを階名と結びつける習慣がない。

世の中の人は、概ねこの2通りに分けられる。
ちなみに上のメロディを譜面に表せばこうなる↓

テスト2

では、次のこれ↓はどうだろうか(三角印をクリック)


  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ファラソド ファソラファ ラファソド ドソラファ ……と聞こえる
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない


1の人は移動ド音感である。
2の人は固定ド音感である。
3の人はどちらでもない。(メロディは「ああ、あれだ」と分かっても、階名には結びつかない)

最初のケースの1の人が、2つのグループに分かれたわけだ。
ちなみに上のメロディを譜面に表すとこうなる。

これを移動ド音感の人は、キー(調)に関係なく、「長調のメロディ」として聞こえてくるので、

↑こう聞こえる。ちなみにF(和音名=ヘ)の音をドレミ……のドにした長音階(ヘ長調)に相当するので、本来譜面の横には b(フラット) が1つつくが、この学校チャイムのメロディには「B」(和名音名なら「ロ」)に相当する音が含まれていないので、b がなくても演奏には影響がない。

一方、固定ド音感の人は、あくまでもA=440Hzの調律をした楽器の「Cの音をドと固定して聴いている」ので、

↑こう聞こえる。

テスト3

では、次はどうだろうか?(三角印をクリック)

  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ファラソド ファソラファ ラファソド ドソラファ ……と聞こえる……かな?
  3. ミ ソ# ファ# シ ミ ファ# ソ# ミ ソミファシ シ ファ# ソ# ミ ……と聞こえる……かな?
  4. 気持ちが悪い
  5. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

1はもう説明不要だが、移動ド音感の人である。
2.3.4.は固定ド音感の人だが、いわゆる「絶対音感」というものにどれだけ忠実な耳であるかで反応が分かれる。
実はこれ、A=422.5Hzというチューニングになっている。
現代では、A=440Hzというチューニングが標準とされ、クラシックなどでは少し高めのA=442Hzあたりのチューニングをすることもある。
しかし、A=422.5Hzまで下げると、A=440Hzのときの半音下のAb(G#)が415.3Hzなので、ヘ長調(Fメジャー)でもホ長調(Eメジャー)でもない中途半端なチューニングになる。(FメジャーよりはEメジャー寄り)

念のために、半音下げたEスケール(ホ長調)でも聴いてみよう。↓



これはA=440Hzのチューニングなので、「気持ちが悪い」という人はいなくなり、
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ミ ソ# ファ# シ ミ ファ# ソ# ミ ソミファシ シ ファ# ソ# ミ ……と聞こえる
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

の3通りに分かれると思う。

しつこいようだが、Gスケール(ト長調)でも聴いてみよう。



これだと、
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる(移動ド音感)
  2. ソシラレ ソラシソ シソラレ レラシソ ……と聞こえる(固定ド音感)
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

の3通りのグループに分かれるはずだ。

端的に言えば、固定ド音感の人にとって、Fスケールの学校チャイムとEスケールの学校チャイムは(違う高さの音で構成されている)「別々のもの」だが、移動ド音感の人にとってはこの両者は(「学校チャイムのメロディ」という意味で)「同じもの」なのである。

音楽は「相対音感」の文化である

さて、多くの人たちは、耳で聞いたメロディを即座に楽器で演奏してみせる人のことを「絶対音感」がある、などというが、それは間違いである。
まず、世の中の多くの人たちが「絶対音感」と呼んでいる音感は、ほとんどが「A=440Hz調律をしたときの固定音感」とでも呼ぶべき音感である。
このタイプの「固定音感」の持ち主は、クラシック音楽の演奏家などに多い。
「譜面に強い」のも特徴で、上のテストで固定ド音感であった人たちの多くは、この程度のメロディであれば、聴いた音をサラサラと譜面に書きおこすこともできる。
一方、移動ド音感の持ち主は「相対音感」を持っている。基準音がどんな周波数に調律されていようと、1オクターブ(周波数が倍音の関係)の間を12に分割した音の相対関係が正確であれば、音楽的には何の問題もなく、ちゃんと「メロディ」として把握できる。
優れた「相対音感」の持ち主もまた、メロディを聴けば譜面なしで歌ったり演奏したりできる。
この「相対音感」こそが、音楽(特に作曲や即興演奏)にとって重要な音感である。

固定音感(世の中の多くの人が「絶対音感」と呼んでいる音感)を持っていても音痴な人はいる。逆に、相対音感を持っていても「譜面は読めない」「譜面には弱い」という人はとても多い。
典型的な相対音感人間の例は安全漫才のみやぞんだ。

みやぞんはメロディを相対音感でとらえているので、譜面などなくてもメロディを再現できる↑
ガヤの中から「絶対音感があるやん」という声が聞こえるが、これは間違い。「相対音感」があるのだ。


上の動画を見て分かるように、原曲のキーに関係なく、みやぞんはすべてFスケール(ヘ長調)で弾いている。それが自分にとって弾きやすく、コードなどもFスケールの指癖で覚えてしまっているからだろう。
彼にA=422.5Hzでチューニングされたメロディや歌を聴かせても、長調であれば全部ヘ長調で演奏するに違いないし、A=440Hzからずれたチューニングであることも気づかないはずだ。

「半音」部分を言い表せない移動ド音感

ドレミファ……の階名には一つ大きな問題がある。
長音階(メジャースケール)、短音階(マイナースケール)から外れた音に対するラベリング(名前付け)がないことだ。
ひとつ例を挙げよう。
もうひとつ例を挙げよう。

月桂冠のテレビCM
この「好きだよね 月だよね」というジングル(広告コピーや社名、商品名などを短いメロディにのせたもの)はとてもよくできている。
こういうメロディだ。



これはBbスケール(変ロ長調)を基本にしたメロディなので、移動ド音感の人は、最初のところは

レミレドミ

……と聞こえる。
ちなみに、フリューゲルホルンやテナーサックス、ソプラノサックス、トロンボーン、ユーフォニウム、バスクラリネットなどは「Bb管」と呼ばれる管楽器で、基本のドレミファ……がBbスケール(Bbが「ド」)の音になる。だから、これらの楽器で「レミレドミ……」と吹けば、上の音になる。
これらは「移調楽器」なんて呼ばれるけれど、固定ド固定音感の人がこうした移調楽器を演奏しようとするとき、あるいは記譜しようとするときは、頭の中で一旦移調しなければならず、混乱するという。

ところで、このメロディのチャームポイント?は、二度目の「だよね」の「だ」がブルーノート(メジャースケールにもマイナースケールにも含まれない音)になっているところだ。
完全な長調のメロディだとちょっと面白くないのだが、ここにブルーノート(移動ドでいえばレとミの間の半音)が入ることでちょこっとおしゃれ感というか、ブルーステイストが出る。
しかし、ドレミファの階名だと、こういう半音部分は名前がないので、移動ド音感の人は、そこだけドレミで歌えなくなる。

レミレドミ ラソ●~レド

と聞こえるのだ。
●のところは普通に行けばミになりそうだが、ミではない。思わず頭の中では「む~」とか「ん~」となってしまう。
それに引きずられて、その後に続く最後の「レド」も、この音の後だともはや「レド」とは聞こえず、

レミレドミ ラソむ~むむ~

……みたいに聞こえてくるかもしれない。

一方、固定ド固定音感の人たちにはこうしたことはまったく関係ない。これがミbであることはすぐに分かるからだ。この音はこれでしょ、と、楽器上で勝手に指が動く。そういう訓練を受けている人たちが多い。


ちなみにみやぞんがこれを聴いて「ピアノで弾いてみて」と言われたら、迷わずFメジャー(ヘ長調)で弾き始めるだろう。
こういう感じで↓



シンプルにコードをつければこんな感じかな。





相対音感人間が激減している?

みやぞんが優れた相対音感の持ち主であることは間違いないが、彼がメロディを聴いたときにドレミ……の階名ラベリングを頭の中でしているかどうかは分からない。
また、ドレミ……でラベリングできるかどうかは、さほど重要なことでもない。
ドレミ……という階名は長調と短調のスケールの中でのラベリングであって、ジャズのようなテンションや転調がコロコロ出てくる音楽ではドレミ……ラベリングはあまり意味をなさないかもしれない。
実際、耳で聴いたときの階名ラベリングができなくても優秀な相対音感を持っている人たちもたくさんいる。ドレミは分からないし、譜面も読めないけれど、一度聴いたらすぐに歌えてしまう人などはそういうタイプだ。

ただ、みやぞんのような相対音感人間がどんどん少なくなってきていると感じるのは私だけだろうか。

「絶対音感」なんてない

固定ド固定音感の人たちが、移動ドや相対音感のことを、上から目線で「育ちが悪い」とか「音が狂っているのに分からないなんて」とか「ファソラなのにドレミって歌うなんて吐きそうだ」とか言っているシーンを目にする。音大生やプロの演奏家にも多い。
そういう人たちは、自分たちが「絶対音感」の持ち主であることにエリート意識を持っている。しかし、彼らは「絶対音感」という言葉の「絶対」という部分にマインドコントロールされているだけではないのか。
調律の仕方に「絶対」なんてない。どんな高さに調律しても、個々の音の相関関係がしっかりしていればなんの問題もない。ピアノの名門・スタインウェイ社は、一時期、A=435Hz~460Hzまで、何種類ものピアノを作っていた。
それに、平均律12音階ではない、ピタゴラス音律や純正律といった調律法、音階も存在する。純正律主義者?に言わせれば、ピアノやギターの平均律は「12音すべてが平均的に狂っている調律」だということになる。

また、ベートーベンもモーツァルトもバッハも、A=440Hzで音楽を作ったり聴いたり演奏してはいない。
Aの音(ハ長調の「ラ」の音)を440Hzにしようと決めたのは20世紀になってからのことだ。1917年にアメリカの音楽協会がA=440Hzを決めて、その後、1953年にISO(国際標準)が正式にひとつの基準として認定した。
しかし、それ以前の音楽の歴史を遡れば、A=440Hzというチューニングはむしろ異端で、時代によって、また同じ時代でも場所によって、もっと高かったり低かったりした
彼らの時代に演奏されていたオリジナルの音楽をそのまま今聴けば、「固定音感」の人たちはきっと「調律が狂っていて気持ちが悪い」と感じるだろう。
昔は録音機がなかったから、どんな音の高さで演奏されていたかは分からないではないかと言われそうだが、使用されていた調律用の音叉が残っている。
ヘンデルが使った音叉はA=422.5Hzで、ベートーベンの時代にはA=433Hzまで上がったそうだ。
A=422.5Hzというのは、A=440Hzで調律したときのAbが415Hzだから、今ならAとAbの中間あたりの音である。
そう、さっき聴いた学校チャイムの聴音「テスト3」がこれだ。
もう一度聴いてみよう。


ヘンデルはこの音程で調律した楽器を使っていたのだ。この調律で演奏される音楽が気持ち悪いと感じる人は、ヘンデルと一緒に演奏はできないことになる。
現在、バロック音楽の演奏会ではAの音を半音低い415Hz(Ab)に調律することが多いが、それはバロック時代の調律が今より低かったことが分かっているものの、現代の調律の標準であるA=440Hzとの整合性をとるために、A=422.5Hzなどという「中途半端」な調律にはせず、便宜上、Abの高さまで(半音ちょうど)低くしているわけだ。

もうお分かりだと思うが、要するに絶対音感と呼ばれる音感の「絶対性」は、基準点をどこに決めるかで変わってしまうのだ。
その意味で「絶対」音感などは存在しえない。あるとすれば、ある基準音を決めたときの「固定」音感とでも呼ぶべきものだ。

クラシックの名作曲家たちは、おそらくすぐれた相対音感の持ち主であっただろうし、チューニングの基準をどこに決めるかなんてことは、演奏する際の便宜にすぎないということを理解していた。「優れた音感」はあっても、「絶対音感」などという概念はなかったのではなかろうか。
人間音叉になってしまうような固定音感は、決められた調律で与えられた譜面通りに演奏するのには都合がいいかもしれないが、それでは「人間MIDI」ではないか?
メロディを作りだしたり、自由に楽しむためにはむしろ弊害のほうが多いと思われる。

誤解してほしくないが、私は、どんな音感が偉いとか言っているのではない。ただ、固定ド固定音感をつけさせることが音楽のエリートを養成する第一段階のようになってしまったら、それはとても怖いことだと思うのだ。
私にとっての音楽は、「音そのもの」よりも、音同士の相対性の関係(メロディ)に価値(美)を見出す文化だ。
一方で、固定ド固定音感の音楽世界は、音色の美しさや演奏技術の高さに最高価値を置いている世界観、言いかえれば「音そのものの価値観」の世界のような気がするのだが、どうだろうか。
どちらが「偉い」とか「高尚だ」という話ではない。同じ「音楽」といっている文化だが、人によって価値観が違うだけでなく、聞こえ方そのものが違う、という話である。

あなたはどうだろう?
譜面を与えれば、どんなに難しい曲も弾きこなせてしまうが、簡単なメロディの伴奏も譜面なしではできない演奏家と、演奏技術は大したことはないが、耳から入ってきたメロディを自分の好きなキーですぐに再現できるみやぞんタイプ……あなたなら、どちらになりたいだろうか?

今敢えてソニーAマウントを買う理由2018/12/14 13:11

古いソニーα300とAマウント最終形のα57

Aマウントならカメラ+レンズが5万円以下で揃う!

久々に「ガバサク」ネタを書く。
どんなシーンでもカッコいい写真を撮るために必要な道具(カメラとレンズ)で、今いちばんコストパフォーマンスが高い方法を再確認したのでご報告したい。
答えは、
ソニーのAマウントでカメラとレンズを揃える
だ。

その答えを導き出すまでの理屈をまとめると、
具体的なお勧めは、カメラ本体はソニーのα57、α65、α77のいずれか。それにタムロンかソニー(中身は同じタムロン製)の18-250mm/F3.5-6.3というズボラズームをつける。
この組み合わせ、カメラは程度のよい中古を探すしかないが、2~3万円で見つかる。レンズは新品でも2万円弱で買えるので、なんと、5万円以下で強力な「なんでも撮れる万能デジイチセット」が手に入るのだ。
カメラがどんどん高級路線になった今、5万円以下で本格的な写真が楽しめる方法というのは他に見つからない。
ほぼ同じ内容をEマウントで揃えると、例えば中古のα6000が3万円台Amazonで購入新品のタムロン18-200mmが約5万円Amazonで購入で、合計8~9万円はかかる。
さらにこれをフルサイズモデルで揃えると、レンズだけで12万円以上。カメラもフルサイズとなれば当然、中古でも10万円以下はなかなか見つからない。

具体例としては、中古のα7Sが10万円台(新品だと約16万円)、フルサイズ対応のEマウントレンズ、ソニーの24-240mm/F3.5-6.3が実売価格が12万円以上Amazonで購入で、合計23万円以上となる。しかも、フルサイズだと望遠端が240mmまでで、AマウントのAPS-C専用ズボラズームの375mm相当には負ける。フルサイズセンサーならトリミングして拡大しても画質はかなり確保できるから、実質では負けないかもしれないが……。

レンズ交換式カメラでズボラズームをセットした場合のまとめはこうなる。
  1. フルサイズ:最低でも23万円以上。望遠端は240mm。
  2. EマウントのAPS-C:最低でも8万円以上。望遠端は300mm相当。
  3. Aマウント5万円以下で可能。望遠端は375mm相当

……となれば、今からでも、敢えてAマウントのカメラとレンズで揃えるという戦略は極めて正しいではないか。私のような、写真趣味は捨てられないが、道具にそんなに金をかけられない人間にとっては、まさに「魔法の解」である。

バランスがよい、1600万画素CMOSの最終モデル α57はAmazonで購入で2万円台から売られている。ヤフオクよりAmazonのほうが出品者に対して厳しい指導を行っているので何かと安心だろう。


2400万画素のAPS-Cモデルα77も、中古ならAmazonで購入で2万円台から売られていることがある。性能的には新品が10万円前後で売られているα77Ⅱと基本的には変わらないので、程度のよい中古を狙うのは賢いやり方。


実際にやってみた

というわけで、2018年12月に、ソニーのα57というAマウントのカメラを敢えて購入してみた。Amazonで2万2000円だった。中古だが、きれいな完動品で、文句なし。
かつてα300につけていたSONYの18-250mmズボラズームをつけて撮ると……さすがにα300とは別次元の気持ちよさだ。画質はほとんど変わらない(場合によってはα300のほうがいいのでは? と思えることもある)が、AFの速さや連写速度などは雲泥の差。ファインダーの視野角も大きくなって別世界。なんでもっと早く気がつかなかったのだろうと後悔した。
Aマウントはもう新機種は出ないが、最終形となったα57やα65、α77の性能なら、残りの人生10年20年を写真趣味三昧で楽しむのにまったく不足はない。これ以上カメラに金をかけるより、旅行の費用にでもあてたほうがずっといい。

世の中がどんどんおかしくなっていき、老後を楽しく平穏に過ごすには相当な「技術」と「思考回路の再構築」が必要になってきた。
そうした「生き抜く技術」の一つとして、こんなこともご紹介してみた次第。
ヒントとなれば幸いだ。
次へテスト撮影の様子を日記に紹介

ガバサクのサイトでのまとめ次へこちら

注目したいAマウントレンズ群


●TAMRON AF18-250mm F/3.5-6.3 Di II LD Aspherical [IF] Macro用 A18S
かつては実売価格が5万円以上した18-250mmズボラズーム。Aマウントが絶滅危惧種になった今はAmazonで購入新品でも1万円台で売られている。みんなが気づいて買いに走る前に入手したほうがいいかもしれない


ストイックな求道者用レンズ 30mm/F1.4(シグマ)

見かけの画角は45mm相当。いわゆる標準レンズ。ストイックにこれ一本で風景から人物まで全部撮るというのも潔い。画質はピカイチ。明るいので暗い場所でもOK。Amazonで購入で3万円台


Neewer 32mm F/1.6

これは面白い! マニュアルフォーカスだがなんと新品がAmazonで購入7000円で買える! 静物撮りならこれでOK!ユーザーの評判も上々。


TAMRON AF70-300mm F4-5.6 Di MACRO フルサイズ対応 A17S

なんとフルサイズにも対応している超望遠レンズ(105-450mm相当)も、AマウントならAmazonで購入でたった1万円!



軽自動車こそ究極のエコカーである2018/11/07 10:21

「笑点」メンバーの着物の色ってどっかで見たなあと思っていたら……これだった

製造と廃棄の段階での環境負荷

X90を手放した心痛と悔しさから逃れるため、代わりに我が家の一員となった17万円のアルトラパン4WDを目一杯愛す方向に頭を切り換えている。

世の中、ハイブリッドカーや電気自動車が「エコカー」と持ち上げられ、極端な優遇税制を受けたりしている。しかし、今さらいうまでもないことだが、化石燃料や金属資源の節約、環境負荷の軽減という意味では軽自動車こそが真のエコカーである。

自動車が環境に与える負荷は、主に
  1. 製造する段階でどれだけのエネルギー資源や金属などの地下資源(特にレアメタル類)を使ったか
  2. その自動車が走ることでどれだけのエネルギー資源を消費したか
  3. その自動車が走ることでどれだけ環境を汚染し、道路などの公共資産を傷めたか
  4. その自動車を廃棄する段階でどれだけの資源(特に金属)を失い、環境を汚染、破壊したか

ということで計算することになる。
ところが、ハイブリッド車や電気自動車については、上記の2と3しか取り上げられず、1と4の視点がほとんど抜け落ちている。
さらには、作られた自動車でどれだけの仕事ができたか(人力などを節約できたか)もあまり論じられない。

エコカーと呼ばれる車の多くは価格が高く、庶民にとっては高嶺の花だ。実際、所有している人たちはそこそこの所得がある人たちであり、用途もレジャーや買い物などが多い。
一方、公共輸送に使われるバスやトラックなどはもちろん、毎日走り回っている営業車の類、プロパンガスを交換している2トン車やエアコンやボイラーの修理のために回っている軽バン、農家にはなくてはならない軽トラがハイブリッドカーや電気自動車である、という社会にはなっていない。
なぜなら「エコカーは高くつく」からだ。

田舎では必須の軽自動車にも、ハイブリッドや電気自動車はほとんどない。(現時点では、スズキに小規模なハイブリッド車があるだけ)
ハイブリッドは、従来のガソリンエンジンの他に高性能バッテリーとモーターを積んで、走行状況に合わせ、モーターがエンジンをアシストするというものだ。しかし、自動車として究極までに軽量化・高効率化された軽自動車は、エンジン本来の性能を徹底的に効率化させることですでに従来の常識を覆すような高燃費を実現している。それを多少上回る程度の燃費改善のために、モーターやリチウムイオンバッテリーという重くて高価なパーツを軽自動車に組み込むメリットが見出しづらい。
軽自動車のユーザーはもとより経済性最重視だから、通常の(ガソリンエンジンのみの)軽自動車との価格差を燃費の差で埋めることは相当難しいであろうことを理解している。
しかし、軽自動車というのは常に「無理をして」ギリギリの設計をしてきた車だから、最小限のモーターアシスト機構をうまく組み入れられれば、さらに進化する可能性が普通車よりあるかもしれない。スズキはすでにその領域に入ってきたような気もするので、期待もしている。

石油よりもレアメタルが先に枯渇する

ハイブリッドカーや電気自動車でいちばん懸念されるのは、稀少金属を大量に使っていることだ。
初代プリウスにはニッケル水素バッテリーが使われていたが、ニッケルの可採年数(採掘可能な残り年数)は約40年という(経産省「諸外国の資源循環政策に関する基礎調査」より)
現行プリウスには、グレードによってリチウムイオンバッテリーも使われているが、リチウムはチリやアルゼンチンなど、極めて限られた地域に偏在している稀少金属だ。
仮に全世界の自動車保有台数の 50% を環境低負荷自動車(HV + PHV と EV をそれぞれ50% の割合とする)にすると、約790 万 t の金属リチウムが必要ということになる。この金属リチウム量は、次章で示す金属リチウムの推定埋蔵量に迫る量になる。
「リチウム資源の供給と自動車用需要の動向」河本 洋、玉城わかな)

いずれにしても、このまま自動車にモーター駆動用の二次電池を積むことを続けていれば、石油の枯渇よりも金属資源の枯渇のほうが早くなるだろう。石油はまだなんとかあるけれど、ニッケルもリチウムももうなくなりそうなので高性能電池はもう作れません、という時代が来る。わずかに残されたレアメタルの価格は急騰し、さらには争奪で戦争にもなりかねず、燃費向上がどうのという話どころではなくなる。
ハイブリッドや電気自動車万歳という風潮には、こうした現実的な予測がまったく欠けている。
燃料電池車などは論外で、そもそもエネルギー収支の点からやる意味がまったくない。水素エネルギー社会が到来するなどというのは補助金目当ての詐欺PRでしかない。

頻繁に新車に乗り換えることこそ環境破壊

環境負荷を減らしたいなら、自動車を製造する~使う~廃棄するという全課程での資源消費を極力少なくし、環境に有害な物質を極力出させないことだ。
少ないエネルギー、資源で、大きな代替労力を得られる車こそが「エコカー」を名乗っていい。
残念ながら、現時点ではハイブリッド車も電気自動車も「エコカー」とは言い難い。
日本で生まれた軽自動車という規格は、世界に類をみないユニークなものだった。「ガラ軽」と呼んだ人がいたが、まさにそうかもしれない。しかしこれは、極めてよい意味でのガラパゴスだ。
軽自動車は高級車に比べればいろいろな点で快適ではないし非力だが、効率よく仕事をして、環境への負荷も少ないという点では極めて優れている。
田舎暮らしではどうしても車が必要だから、「申し訳ないけれど車を使わせてもらってます。でも、環境負荷は最小限にしたいので、軽自動車、しかも中古車を徹底的に長く乗ります」という生き方がいちばん合理的で社会倫理的だろう。
今回、理由はどうであれ、そういう「軽自動車文化」に仲間入りできたと思い、X90を手放す苦しさを軽減させることにした。
X90も廃車ではなく、ちゃんと次のオーナーが決まっている。この乗り換えで、新しく製造された車が増えたわけではない。すでに製造され、十分に仕事をして元を取ったであろう車が入れ替わるだけだ。

……とまあ、例によってぐだぐだ能書きを垂れながら、15年間連れ添った珍車X90に別れを告げるのであった。

「不条理社会」に生きる2018/11/07 09:47

X90のメーター 22年前の車だが、まだ6万キロ台 なぜこれに重税をかける

「明らかな悪法」が作られ、まかり通る

増税でのいじめに耐えきれず、22年前に作られ、うちに来てから15年経つスズキ X90という珍車?をついに手放すことになった次第については表の日記に詳しく書いた。

車を大切に長く使うと増税という非合理、不条理に憤っているだけでは免疫細胞が死んでしまう一方なので、ここで「なぜこんな非合理が許されるのか」を人間の心や社会構造という面から改めて考えてみた。

この悪法が成立した裏には、自動車メーカーの利益を守るために、まだまだ乗れる自動車を早く手放させて新車を買わせようという意図があることは明白だ。
ある業界や企業の利益誘導のために、公共の利益を害することを押し進める。そのためには大きな嘘をつく。嘘を信じ込ませるために、メディア、教育、情報社会などに働きかけ、あらゆる手段を駆使する。……こうしたことを平気でできる人間をAタイプとしておく。
Aタイプにも、金儲け依存症、権力志向、世の中を動かす自分の能力に酔いしれる自己陶酔型などいろいろありそうだが、とにかくこのタイプはバカではないし、行動力もある。ザックリ言えば「エリート」と呼ばれる人たちに属する。

次に、「エリート」と呼ばれるグループには属しているが、自分では方向性を見つけようとせず、上からの指示に従い、自分の生活レベルや地位を守ることに専念するタイプの人たちがいる。これをBタイプとしておこう。
Bタイプは当然Aタイプよりも数は多いし、現場での戦力という意味で、Aタイプにとって不可欠な道具だ。実行部隊の隊長だから、頭脳や実行力はAタイプより優れていることも多いだろう。
AタイプにしろBタイプにしろ、自分たちがやっていることが公共の利益や地球環境の保全・持続という面では明らかに悪行であることは十分理解している。それでも悪行を続けるのは、結局のところ、自分、あるいはせいぜい自分の家族という極めて狭い範囲の生活レベルやステータスを、人生において最も大切なこと、最上位の価値だと信じているからだ。
自分が死んだ後のことなども考えない。自分が死んだ3分後に地球が破滅して全生物が滅んでも、自分はもはやそこにはいないし、感知できないのだから関係ないと思うような極端なサイコパスも混じっているかもしれない。

次に、AタイプやBタイプに言いくるめられ、嘘を本気にしてしまう人たちがいる。これをCタイプとしておこう。
社会を構成している人の多くはCタイプである。
例えば、「ハイブリッド車や電気自動車などの『エコカー』に乗り換えることが環境負荷を下げることになる」と本気で信じている人はたくさんいる。官僚にはあまりいないかもしれないが、政治家には結構いる。だから車を長く乗り続ける人には増税という不条理・非合理な法律が野放しにされている。
同様に「次に到来するのはクリーンな水素社会だ」とか「原発は必要悪であり、資源のない日本には欠かせない技術である」などと主張するCタイプの人たちがいるが、AタイプやBタイプと違って本気でそう思い込んでいるのがやっかいだ。
Cタイプの知性はとてもゾーンが広い。学歴や人格も関係ない。「人間的にはとてもいい人」は、このCタイプにいちばん多い。
政治家にはCタイプがとても多い。
しかも「困ったCタイプ」ばかりだ。いわゆる「いい人」は政治のようなドロドロした世界ではのし上がれないから。
偏狭な信念を持っていて、現実を正確に分析できない人。頭がよくないのに家柄や成り行きで権力を得てしまったために、取り巻きの説明を鵜呑みにして、それが自分の知力だと勘違いしている人。単純に頭が悪くて、政界の中の保身、立ち回りだけで精一杯な人。そんな人たちがいっぱいいる。

こう見ていくと、世の中の不条理、非合理は、

  • 自分が死んだ後のことはどうでもいいというAタイプが考案し、社会がそう動くように仕掛ける。
  • 本当は違うんだけど、上から言われたから仕方がないという生き方のBタイプが粛々と押し進める。
  • 深く考えようとしない、あるいはだまされたまま変な信念を持っているようなCタイプが、悪行を許容したり実行に加担したりする。
……という構造で生まれ、定着してしまうということが分かる。
「それはおかしい」「あまりにも非合理だ」と異を唱え、正論を述べる人たちの力は及ばない、ということなのだろう。

現代人が知らなければいけない「条理」「合理」とは

僕はよく「不条理」とか「合理性」といった言葉を使うが、ここで「条理」「合理」とは何かを改めて考えてみる。

条理:物事がそうなければならない当然の道理・筋道
合理:物事の理屈に合っていること

世の中には様々な条理、合理があるが、現代社会を生きる人間にとって、生命や幸福な生活を守るための基本的な条理、合理は次のようなことだと思う。
  1. 地球上で生物が活動できるのは、水の循環をはじめとする物質循環が存在し、増大したエントロピーを熱に変えて宇宙に捨てる仕組みがあるからである
  2. 物質循環を支えているのは水、植物層、動物層の健全さと多様性である
  3. 地球環境は有限であり、地下資源は使えば枯渇する
  4. 現代文明は石油を筆頭とする「地下資源文明」であり、化石燃料や金属資源(特に稀少金属資源)は極力無駄に使わないようにすることが文明の寿命を延ばすことに直結する
  5. 人間の幸福感は、物やエネルギーの大量消費によって保障されているわけではなく、工業生産やエネルギー消費を減らしても精神的な豊かさを増やす方法はいくらでもある
  6. 今の社会を少しでも長く平和な状態に保つには、人工的なエネルギーや生産に過度に依存せず、精神的幸福感を維持・増大させる生活スタイルに変えていくことが必須である

現代社会の「不条理」「非合理」は、これらの命題に明らかに反していることであるのに、嘘や情報コントロール、権力者からの圧力によって押し進められることで生じている。
さらにやっかいなのは、上に示したような基本的な「条理」「合理」が社会の中で共有されていないことだ。

上の(3)はほとんどの人が理解はしている。でも、(1)と(2)を理解していない人が多い。学校でもちゃんと教えていない。
(4)は分かったつもりでいて、実は分かっていない人が多い。特にエネルギー収支については考えていない、あるいは間違った理解をしている人が実に多い。
(5)(6)は表向き賛同するものの、自分が生きている間はなんとかなるだろうと思って、真剣には向き合おうとしない。

この傾向はすべてのタイプの人にあてはまるが、CタイプよりはBタイプ、BタイプよりはAタイプの人のほうが、これらすべての条理・合理を本当は理解している。理解している上で無視し、自分の利益を最優先させることが自分にとっての条理・合理だと信じている。

社会が「数」の力で動くとすれば、Cタイプが圧倒的に多い以上、Aタイプの支配を崩せない。
崩せるとしたら、Aタイプを許さない超人的な人物が登場したり、Bタイプの中で大きな意識革命が起きてAタイプに反旗を翻したり、Cタイプの中で条理・合理を理解する人たちが増えていき、社会の軌道修正を求めていくことだろう。しかし、そんなシーンは、少なくとも僕が生きているうちには見ることはできない。不条理・非合理はますます増えていくに違いない。
そんな社会の中で、自暴自棄にならず、どう生き抜いていけばいいのかを考え、試行している人たちもいる。ついでだから、Dタイプとでもしておきますか。
DタイプはA~Cタイプに比べれば社会を変えていく大きな力にはなりにくい。無害だけれど、個人主義というか、幸福感至上主義のエゴイストみたいなところがある。
やはり、社会を動かしているのはA~Cタイプの人たちだ。
……と、ここまで考えてくると、「人間社会」というものが少しだけ見えてくるし、その中で生きていくしかない自分というものにも、静かに向き合える気がする。

テレビドラマより分かりやすい善悪劇

東京電力の旧経営陣3人(勝俣恒久、竹黒一郎、武藤栄)が業務上過失致死傷罪で強制起訴された裁判は、2018年10月末現在、第33回公判まで進んでいる。
その内容が、NHK NEWS WEBの特別ページにまとめられている。
他に、元朝日新聞記者の添田孝史氏が書いているLevel 7 News「公判傍聴記」(添田孝史)というシリーズがよくまとまっていて読みやすい。まるで法廷ドラマを見ているようだ。
これを『下町ロケット』みたいなノリでテレビドラマ化してくれないものだろうか。
こういうの↓をそのまま脚本にするだけでいいから。


高尾氏ら現場の技術者は、2007年11月からずっと対策の検討を進めていた。「対策を前提に進んでいるんだと認識していた」と高尾氏は証言した。それが2008年7月31日、わずか50分程度の会合の最後の数分で、武藤副社長から突然、高尾氏が予想もしていなかった津波対策の先送りが指示される。高尾氏は「それまでの状況から、予想していなかった結論に力が抜けた。(会合の)残りの数分の部分は覚えていない」と証言した。今回の公判のクライマックスだった。
添田孝史 第5回公判傍聴記

この時期の東電「裏工作」で最も悪質なのは、先行する他社の津波想定を、自分たちの水準まで引き下げようとしていたことだろう。
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高尾氏は、武藤氏の指示のもと研究者への説得工作も行っていた。2008年10月ごろ、秋田大学の研究者に面談した際の記録には「長期評価の見解を今すぐ取り入れないなら、その根拠が必要でないかとのコメントがあった」「非常に緊迫したムードだったが、(東電の方針を)繰り返し述べた」と書かれていた。大組織のサラリーマンの悲哀を感じさせる記録だった。
同・第6回公判傍聴記


高尾氏の証言を聞いていると、2007年以降の福島第一原発は、ブレーキの効かない古い自動車のようだった。
ブレーキ性能(津波対策)が十分でないことは東電にはわかっていた。2009年が車検(バックチェック締め切り)で、その時までにブレーキを最新の性能に適合させないと運転停止にするよ、と原子力安全委員会からは警告されていた。ところがブレーキ改良(津波対策工事)は大がかりになると見込まれ、車検の日に間に合いそうにない。そこで「あとでちゃんとしますから」と専門家たちを言いくるめて車検時期を勝手に先延ばしした。「急ブレーキが必要になる機会(津波)は数百年に一度だから、切迫性はない」と甘くみた。

一方、お隣の東北電力や日本原電は車検の準備を2008年には終えていた。それを公表されると、東電だけ遅れているのがばれる。東電は「同一歩調を取れ」と他社に圧力をかけて車検を一斉に遅らせた。

そして2011年3月11日。東電だけは予測通りブレーキ性能が足りず、大事故を起こした。
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東北電力は、土木学会が2002年にまとめたマニュアル(津波評価技術、土木学会手法、青本とも呼ばれる)では想定していない貞観地震をバックチェック最終報告には取り入れていた。長谷川昭・東北大教授の「過去に起きた最大規模の地震を考慮することが重要であり、867年貞観地震の津波も考慮すべきである」という意見をもとにしていた。貞観地震を想定すべきかどうか、土木学会で審議してもらう必要がある、などとは考えていなかった。

日本原電も、土木学会手法(2002)より大きな茨城県の想定(2007)を取り入れていた。その採用にあたって、やはり土木学会の審議が必要とは考えていなかった。「土木学会に時間をかけて審議してもらう」と言ったのは、東電だけなのだ。
同・第7回公判傍聴記


15.7mより低い想定値にすることは出来ないか、それによって対策費を削ることができる可能性がないか検討するために、土木学会を使って数年間を費やす方向が決められ、大学の研究者への根回しが武藤氏から指示された。

最終バックチェックに、地震本部の予測を取り込まないと審査にあたる委員が納得してくれないだろう。武藤はその可能性を排除するため、有力な学者に根回しを指示した。「保安院の職員の意見はどうなる」という検察官の問いに、「専門家の委員さえ了解すれば職員は言わない」と山下氏は答えていた。

2009年6月に開かれた保安院の審議会で、専門家から東電の津波対応が不十分という指摘がされたことについて、土木調査グループの酒井氏は「津波、地震の関係者(専門家)にはネゴしていたが、岡村さん(岡村行信・産業技術総合研究所活断層・地震研究センター長、地質の専門家)からコメントが出たという状況」と関係者にメールを送っていたことも、公判で明らかになった。水面下で進めていた専門家へのネゴ(交渉)に漏れがあり、公開の審議会で問題になったと白状していたのだ。
同・第24回 公判傍聴記


……テレビドラマにでもしない限り、ほとんどの人は永遠にこういう問題には目を向けない。
でも、もしテレビでドラマ化したりすれば、それを見た人たちは「あ~あ、どうせそういうことでしょ」という気持ちを強めるだけで、ますます社会が劣化、弱体化、無気力化していくのかもしれない。

国が相手なら、とにかく金は入る


で、その福島では、今まさにこんなことになっている。
経済産業省の実証研究として福島県沖に設置された国内最大規模の洋上風力発電施設が、最大出力7000キロワットでの運転をほとんど実施できていないことが(2018年6月)21日、明らかになった。
(略)
実証研究は、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から間もない11年度に始まった。丸紅を中心に、三菱重工業や東大などで構成するグループが受託した。国は18年度までに計585億円の予算を計上し、2000キロワット、5000キロワットの2基を含む計3基を福島県沖20キロの太平洋上に設置した。
2018/06/21 時事ドットコム

政府が東京電力福島第一原発事故からの復興の象徴にしようと福島県沖に設置した浮体式洋上風力発電施設3基のうち、世界最大級の直径167メートルの風車を持つ1基を、採算が見込めないため撤去する方向であることが26日、分かった。商用化を目指し実証研究を続けていたが、機器の不具合で設備利用率が低い状態が続いていた。
(略)
実証研究は福島県楢葉町沖約20キロに設置した風車3基と変電所で12年から実施しており、これまでに計約585億円が投じられている。問題となっているのは出力7000キロワットの一基で、建設費は約152億円。15年12月に運転を開始したが、風車の回転力を発電機に伝える変速機などで問題が続発。17年7月からの1年間の設備利用率は3.7%に低迷しており、新規洋上風力の事業化の目安とされる30%に大きく届かなかった。

 今年8月には経産省が委託した専門家による総括委員会が「初期不具合や解決に至らなかった技術的課題があり、商用運転の実現は困難」「早急に発電を停止し、撤去の準備を進めるべき」と指摘。風車の解体場所として、関連企業の工場に近い淡路島沖か、製造した三菱重工業の長崎造船所の二案を軸に検討に入っている。撤去には建設費の一割程度かかるとみられるという。
2018年10月27日 東京新聞

実際の発電実績データは⇒こちら

この金の使い道、到底「合理的に」考えたとは思えない。
洋上風力の問題点は数々ある。これが実利を追求するプロジェクトであれば数百億かけてやる企業などない。
失敗したと簡単にいっているが、これで請け負った企業が損をしたわけではない。しっかり金は入って「儲かった」のだ。

実用性がないことを承知の上で、巨額の税金を注ぎ込んでもらうために提案した⇒Aタイプ
馬鹿げているよなあ~、大金を海に捨てるようなもんだよなあ~と思いつつも、現場で指揮を執った実務部隊⇒Bタイプ
「それはいい! 福島復興のシンボルになるし、環境にも優しい」と乗せられた政治家や行政⇒Cタイプ

……そういうことだ。

AdobeのCC商法につき合わないで済む方法2018/10/12 12:00

ヤクザのみかじめ料まがいのビジネスがまかり通る時代

前回紹介したアジャ博士はTA2020を3ドルで売りに出し、トライパス社は消えてしまった。
発明や新技術を開放して広く世の中に役立てるか、権利を独占して巨利を得るか……天才と呼ばれる人たち、あるいは先駆的な技術を開発した企業は必ずこうした別れ道に立たされる。

MacOS、Windows、Linux、Tron……コンピュータのOSが、作られた後、ライセンスをどのようにしたかを振り返ってみるといい。
コンピュータなしでは成立しない現代において、OSは共通言語といえる。英語やドイツ語にライセンスがあり、「アジア人が英語を使うにはライセンスが必要です」とか「ドイツ政府に無断でドイツ語文献を翻訳してはいけません」なんていう世界になったら、とても不自由だ。
しかし、IT世界ではそれに近いことが普通に行われている。

Adobe社は2013年5月から、Creative Cloudという、月額いくらという使用料を支払い続ける方法でしか製品を使えなくした。
それまで単体でも販売していたIllustratorやPhotoshop、InDesignといったDTP業界御用達のソフトはすべて通常販売を終了。バージョンアップもできなくなった。
すべての製品が使えるライセンスは月額4,980円で年間契約(新規ユーザーの場合)。PhotoshopやIllustratorなど、単体製品のみだと2,180円/月(同)……とまあ、年間で万単位の料金を支払い続けないとソフトが使えないという、ものすごいことになっている。
おかげで、プロの現場からも猛反発が出ている。
クラウドとは名ばかり、ぼったくり殿様商売に気づきましょう
Amazonのカスタマーレビューより

Adobeから完全撤退
自身のPCからAdobe製品/アプリケーションをすべて削除したいのですが、どのようにすれば可能ですか?方法を教えて下さい。
(略)
アプリケーションソフトを先進的に進めて来たのはもう過去の出来事となってしまいました。衰退する事柄を言い表すのに「あぐらをかく」と言うことがありますが、まさにAdobeに対してそれを感じています。残念ながらMicrosoftやApple、Googleのような恒久性のある存在ではないと判断しましたので、PC内のAdobeすべてを削除/アンインストールする方法を教えて下さい。1秒でも早く私の時間からAdobeを無くしたいです。
Adobeフォーラム内での質問より

これって、クラウドアプリっていえるもんなんですかねぇ。
(略)
要するに、1ヶ月で使えなくするタイマー付きのアプリ(いわゆる体験版ですね)をベースにして、契約した者だけに毎月クラウドで認証(タイマーリセット)して継続使用させるというシステムなんでしょう。
クラウドからリセットかけないと、すぐに使えなくなるクラウド管理型ワンマンスアプリ。
(略)
そもそも、Adobe って、ほんとに創造力のある会社なのかというところからして、私は疑問に感じています。
きちんと、オリジナルの技術で作り上げたのは、ポストスクリプト言語と、その応用技術である PDF くらいなんじゃないんでしょうか?(それらも、あくまで技術成果品であって、創造という類いのものではないですし)
アプリケーションに関していえば、Illustrator 以外はほとんど社外からの買取り・買収品のオンパレードだし。
その Illustrator ですら、初期のバージョンから最新の CC に至るまで、ひたすら FreeHand のマネばかりしてきたコピーまがい商品だから、本当にユーザーの期待に応えてくれる創造力のある会社だとは思えないわけで。
(略)
というわけで、私個人的には、Adobe には何も期待していないし、かかわりたくもないので、とりあえずは Creative Cloud 契約を交わす予定はありません。今後新しいアプリが必要になったら、まずは選択肢から Adobe を外して色々探すことになるでしょう。その方が開発環境の独自性も保てるというものです。
ちょっと一言、Creative Cloud と Adobe に想うこと [FreeHandで行こう!] より)


本当に嫌な時代になった。
新しいものを創り出すというエネルギーではなく、既得権益にしがみつき、いかに合法的、強制的に金を巻き上げ続けられるかという方法論が先行するビジネスモデル。
これは明らかに「文化」としては退廃であり、衰退だろう。

僕がAdobe CC商法に気づかず5年以上過ごせたわけ

Tanupackが、電子書籍だけでなく、オンデマンドで紙の本を製作・販売するようになってだいぶ経つ。
印刷所への入稿は印刷所が指定するフォーマットのPDFで入れている。
DTP業界では今でも、入稿はIllustrator(aiかeps)、Photoshop(PSD)、あるいはPDF形式がほとんどだ。すべてAdobeのフォーマット。

Adobeがすべての製品を月額使用料いくらの方式でしか売らなくなったのは2013年5月のことで、すでに5年以上経っている。ところが、僕はAdobeが上記のような商法に切り替えたことについ最近まで気づかなかった。
そんな長い間、僕がそのことに気づかず、Adobe製品を使い続けてこられたのは、運よく使っている製品がすべて古いバージョンだったからだ。
DTPソフトのInDesignはCS5。Photoshop Elementsは 5 を使っている。
使わなくなって久しいが、Illustrator8、Photoshop7、Acrobat9も持っている。
調べてみたら、Illustrator8の発売は1998年、Photoshop7は2002年、Photoshop Elements 5.0は2006年、Acrobat9は2008年、InDesign CS5は2010年だった。
Illustrator8は20年も前のものだったのか。上智大学の非常勤講師になったとき、アカデミックパックを買うなら今だと思って他のものとセットになっているやつを購入したのだった。以後、印刷所に入稿するのに最終的なaiファイルを作るために使うことがあったが、基本的にはまったく使っていない。

先日、何年ぶりかでPhotoshop7を立ち上げた(PCに入っていないと気づき、インストールディスクからインストールした)が、これはPhotoshopの機能を使うわけではなく、Elements 5.0で作成したRGBのPSDファイルを読み込んでCMYKに変換するためだけ、要するに「ファイルコンバーター」としてのみ使った。
以前からその使い方しかしたことがない。印刷所にPDF入稿するのがあたりまえになってからは、PSDファイルでの入稿からも遠ざかっていた。
今回は、6年ぶりに音楽CDを作るのに、ジャケットや盤面印刷のファイルがIllustratorかPSDの指定だったので、IllustratorよりはPhotoshopのPSDファイルのほうが簡単でいいや、ということで立ち上げたのだった。
ちなみにIllustrator8も、購入時から何かの「制作」に使ったことは一度もなく(あんな使いづらいソフトはないと思う)、もっぱらai形式かeps形式のファイルにコンバートするためだけに使っていた。

Acrobat9は、オフセット印刷に回すときの版下をPDF入稿する際、以前使っていた「パーソナル編集長6.5」で作成したファイルを印刷所指定のPDFに出力するために使っていた。つまりこれもファイルコンバーターとしてしか使っていなかった。
今はパーソナル編集長は使っていない(過去に作成したファイルを呼び出して再利用することはある。名刺印刷とか……)。InDesignには細部をカスタマイズした仕様のPDFに出力する機能がついていて、その際、埋め込んだRGB画像をCMYKに変換してくれるので、AcrobatもPhotoshop7も必要なくなった。
そんなわけで、Adobeのあこぎな商法に悩まされることなく、本や印刷物を作ってこられたというわけだ。

旧バージョンで固定してしまえばいいじゃないの

Illustratorはバージョンが新しくなるとファイル形式の仕様が変わってしまうことが多く、新しいバージョンのIllustratorファイルを古いIllustratorで開くことができない。開けたとしてもレイアウトが崩れたりする。しかし、基本的に古い形式のファイルを新しいバージョンのIllustratorで開くことはできる。
ちなみに、これはMicrosoftのワードなどでも同じで、うちにはdocxに対応したワードはないので、テキストファイルで済むような文書がdocx形式で送られてくると腹が立つ。一応docx形式をdoc形式にコンバートしてくれるコンバーターが出ているので、古いワード(うちで使っているのはWord2002)で内容が読めないようなことはまずないのだが、コンバートする時間がかかるのが腹立たしい。(まあ、10秒もかからないけど)

DTP業界では今でもIllustratorのファイルをやりとりするのはあたりまえになっているが、以前一度だけ利用した小さな印刷所では「入稿はバージョン8形式で」と指定していた。賢明な対応だと思う。
ただ、20年前のIllustrator8はWindows7などにはインストールさえできない。インストーラーに16bitコードが含まれているかららしい。
以前、それで困って検索したら、すぐに⇒このページが見つかり、無事インストールできた。以後、パソコンが代わって再インストールする際にも困らないように、内容はメモにしてとってある。

16年前のPhotoshop7は、保存するドライブの空き容量が概ね1TB以上あると「保存先の容量が足りません」といってきてファイルを保存できないバグを抱えている。
バージョン7が出た2002年当時にはテラバイト単位の保存ドライブなど想定外だったのだろうが、なんともお粗末だ。
仕方なく、Photoshop7でCMYK変換したPSDファイルは一旦容量の小さなドライブに保存してから大きなドライブにコピーするなどしていたが、今回は何の問題もなく読み書きできた。ファイル保存に使っている外付けHDDは4TB。3TB以上になるとOKなのか、それとも4TBのドライブも空き容量が1TB以下なっているのでOKだったのかはよく分からない。まあ、ファイルコンバーターとしてしか使うことはない(それも、PDF入稿が増えた今は、滅多なことでは使わなくなった)ので、問題はない。

最初からPhotoshop7を使わず、Photoshop Elements 5.0を使っているのは、16年前のPhotoshop7よりは12年前のElements5のほうがはるかに使いやすく、機能も豊富だからだ。
Photoshop Elementsだけは今も単独パッケージ販売しているようなので、買えるうちに最新バージョンを買っておこうかなともちょっと思うが、入れた途端に古いAdobe製品すべてを検出して、なんやらガチガチにライセンス関連を固めてしまうとか、使用状況を裏で送信するなどのスパイウェアもどきの機能が仕込まれていそうで怖いのでやらない。

CCを使わずに印刷版下を入れるためには

以上のことをまとめると、AdobeのCC商法に関わることなく印刷所にDTP版下を入稿するために最低限必要なAdobe製品は、
  1. InDesignのCS6以前のバージョン
  2. PhotoshopElements
の2つだ。
この2つがあれば、InDesignがRGB画像をCMYKに変換してからPDF出力してくれるので、AcrobatやPhotoshopはいらない。

CS6以前のInDesignが手に入らない場合は、DTPソフトにパーソナル編集長を使うという手もある。今のパーソナル編集長は、たいていの印刷所が対応してくれる「PDF/X-1a」形式のPDFに出力してくれるので、AcrobatがなくてもPDF入稿ができる。

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印刷所が「PDF/X-1a」PDFに対応しておらず、PSDかIllustrator形式のファイルしか受け付けてくれない場合は、古いPhotoshopがあればファイルコンバーターとして使える。Photoshop形式(PSD)のファイルはバージョンに関係がないので、ファイルコンバーターとして使う限り、古いバージョンで何の問題もない。20年前のPhotoshop7で保存しても大丈夫なのだ。

え? Illustrator? ファイルコンバーターとしてじゃなくて、最初から画像作成に使う?
この際、他のソフトに乗り換えたほうが精神衛生上いいかもしれませんよ。
特に、これからデザイン業界で仕事をしていこうとしている若い人たちには、AdobeのCC商法にはまる前に、CC契約をしなくても仕事ができる方法を模索することを強く勧めたい。
Illustratorに代わるソフトとしては、Inkscapeというフリーソフト(!)がいちばん人気だ。ai形式のファイルも開くことができ、編集もできる(一部形式を除く)。ai形式での保存はできないがeps形式なら保存できるので、eps形式を要求する印刷所にも渡せるのでは?
Windows、MacOS X、Linuxに対応でOSを選ばないのも素晴らしい。

……といっても、自分が使わなくても、最新形式のIllustratorファイルを受け取らなければいけないプロ現場の人たちはどうしようもないか……。
でも、プロはすでに旧バージョンを持っているはずだから、それで開けないようなファイルが送られてきたら「バージョン○以前の形式にして送ってください」と差し戻す運動でも始めたらいいと思う。

DTP業界全体としても、このままAdobe製品に支配されたままでいいのか、考え直す時期が来ているのではなかろうか。
かつてDTPではPost Scriptフォントを使うのが慣例だったが、販売されるフォントセットの高額さに多くの印刷所やデザイン事務所は泣いていた。
今は高品質で安価 or フリーのOpen Typeフォントがいくらでも出回っていて、そういう商売は通用しなくなった。
今後は、Illustratorの入稿ファイルは「Version○形式まで」で止めるとか、PDF入稿をいっそう進めるとかして、Adobe支配に抵抗する業者が増えていくのではないかと思う。



天才が活躍できる「環境」がない2018/10/12 11:06

垂直型拡大思考ではもう勝てない

少し前に読んだコラムで、こんな記述↓が印象に残った。
世界を見渡すと、全工程を一つの企業に集める垂直統合型の企業構造を拡大してきた日本の大企業が、自社工場を持たないアップルに代表される水平分業型ビジネスへの移行に対応できず、シェアリング・エコノミーやフィンテックといった流れにも著しく立ち遅れている現状がある。
業界横並びやリスク回避指向の強い大企業が、政府の過保護に頼って生きのびてきた結果、必要な淘汰や世代交代が進まなかったことも、原因の一つとしてあげられるだろう。
元凶は経団連。日本にアップルもアマゾンも生まれない当然の理由 『国家権力&メディア一刀両断』by 新恭 2018/09/28)

戦後日本の高度成長は垂直統合型企業によって実現された。事業分野は鉄鋼、電気、自動車それに電力だ。…日本経済全体の成長率はこうした企業の売上高成長率によって規定されてきた。そして未だに合併して企業規模を大きくする方向を目指している。…しかしそれによって未来が積極的に拓かれるわけではない。
(上記コラムに引用されている野口悠紀雄氏「産業革命以前の未来へ」の中の一節)

↑これはまさにその通りだと思った。

最近、中国の経営者たちのエネルギーや(ある種の)真面目さに驚かされることがよくある。
Amazonやアリババなどを戦場に選び、少数精鋭のゲリラ戦を展開している。
中国製品は玉石混淆だが、あきらかに以前に比べて「玉」を見つけることが多くなった。
隙間商品を見つけ、小さな資本のベンチャー企業でも戦えるような工夫をしながら商品価値を上げていく。結果、品質もどんどん高くなる。
未だに粗悪品も多いが、驚くようなコストパフォーマンスの良品が増えた。
こうしたエネルギーが、今の日本企業には見いだせない。

天才が出てこない? それとも天才はつぶされる?

野口氏が垂直統合型企業の代表としてあげた鉄鋼、電気、自動車、電力の分野で日本を代表する大企業が、次々と信じられないような失態を続けている。
神戸製鋼や各自動車メーカーの不正や、政府のトヨタ過保護による歪み、原発爆発やもんじゅへの馬鹿げた税金投入、東芝やシャープの転落ぶり、計算上、数字上だけで「経済は回復している」と言い張るアベノミクスというペテン……。
そしてなにより、こうした現実を認めようとしない下々の人たち。結果、ボケ頭の人たちがいつまでも老害をまき散らし、せっかく蓄えてきた国力が無駄遣いされている。

例えば東芝。
僕はここ10年20年、東芝の電化製品にはとても優れたものが多かったと思うが、今は企業の存続が危ぶまれるような事態になっている。原発を廻ってアメリカの産業界にいいように利用され、身ぐるみ剥がされたからだ。
そんなボケた経営陣をいつまでも居座らせた企業体質が問題だ。
家電分野には今も優秀な人たちが残っているだろうに、本当に残念だ。

思うに、高度経済成長時代の日本は、「日本人が優秀」だったのではなく、一部の天才や努力家が結果を出せる環境があったということではないだろうか。本田宗一郎とか松下幸之助とか井深大とか……。

おそらく今でも優秀な人たちはいるのだろう。でも、そういう人たちが活躍できる「環境」がないのではないか?

先日の日記でも書いたが、オーディオアンプに革命をもたらしたTripath TA2020というICチップを作った Dr.Adya S.Tripathi はインドの出身で、1979年にアメリカに渡った。その後、IBMやヒューレット・パッカードなど、いくつかの企業を渡り歩いた後、1995年に独立してTripathという会社を設立。翌年には、それまでのD級オーディオアンプに革命的な改良を加えた「Class-T」と称する方式を特許登録し、伝説となったICチップTA2020を発売する。
従来のD級アンプは、省電力だが音質は悪いということでオーディオ機器メーカーからは相手にされていなかったのだが、TA2020が出て、常識が完全に覆された。
TA2020はわずか3ドルという低価格で売られ、SONY、Apple、Audio Researchといった名だたるメーカーに採用されて、たちまち世界中に広まった。
Tripath社はその後倒産しているのだが、同社のTA2020に倣ったICチップは他メーカーからゾロゾロ出てきて、今ではスマホやテレビなどだけでなく、「音を出す」機器にはあたりまえに使われている。

これはTA2020の後継ICチップTA2024を使ったミニアンプ。米国デイトン・オーディオの製品 DTA-1。単三乾電池でも駆動できる。Amazonで購入

このTA2020を作った天才技術者・アジャ博士は今どこで何をしているのかと調べたら、2008年にTula Technology Incという会社を設立して会長兼チーフエンジニアを務めていた。
このTula Technologyという会社のWEBサイトを見ると、音響製品やコンピュータではなく、自動車の写真ばかり出てくる。
え? なんの会社?
……なんと、エンジンの効率化、省燃費を実現するDynamic Skip Fire (DSF?)という技術を売りにしている会社なのだった。

音響技術とはなんの関係もなさそうなエンジンの効率化技術への転身?
よくよく考えると、小さな信号を増幅する際にデジタル技術で効率化を図るという発想は、エンジンのトルクをデジタル技術で効率よく制御するということに結びついているのかもしれない。

音響工学からエンジン工学へという自由さにも驚かされるが、次世代自動車ともてはやされるものの、実際には公的資金の援助(それこそ政府の過保護)に頼らざるをえない(まともな技術として成立しえない)燃料電池車だのではなく、従来の燃料エンジンを改良しようという技術であることに感心する。
従来型エンジンのトルク制御に関する技術ということは、火力発電のタービンを制御して、より細かな出力制御を低燃費で実現することなどにも応用できそうな気がする。そうした技術こそが、今の時代には求められている。

アジャ博士は本物の天才であり、合理性を最重視する人なのだろう。
今の日本では、こうした人物が活躍できない社会構造や教育環境になってしまっている。これを解決していかない限り、日本経済の復活はありえない。



ノーベル賞は「偉い」のか?2018/10/04 20:52

ノーベル物理学賞発表直前のテレビはこんな感じだった

「教科書を信じない」の波紋

一番重要なのは、何か知りたい、不思議だと思う心を大切にする。教科書に書いてあることを信じない。本当はどうなっているのかという心を大切にする。自分の目でものを見る、そして納得する。そこまであきらめない。

先日、ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏のこの言葉が話題になった。
NHKのニュースでのインタビューでも同じことを言っていた↓


この「教科書を信じない」発言は、かなりのインパクトがあったようで、ネット上にはさまざまな反応コメントが飛び交った

この発言を鵜呑みにするな的な反応をまとめると、
「教科書を信じない」を真に受けて教科書も読まないような馬鹿は論外。「教科書を勉強しなくていい」ではない。教科書は信じておいたほうがいい
……となるだろうか。
でも、この手のコメントをムキになって書き込んでいる輩がいっぱいいる時点で、今の日本はかなりダメなんじゃないかと思う。


小学生向けの教科書副読本「わくわく原子力ランド」 2010年11月、文部科学省発行 中学生向けには「チャレンジ!原子力ワールド」という同様の副読本が配布されていた


これは副読本だが、国が作っていた「教科書」だ。
2011年の原発爆発後にすべて回収されたらしいが、「歴史的資料」として、今でもネット上にはあちこち残されている。「わくわく原子力ランド」で検索すれば簡単に見つけられる。こういうものが、ついこの前まで国が作った教科書副読本として小中学生に与えられていたという「歴史的事実」をしっかり記憶に刻んでおきたい。



国会図書館での検索結果



↑「トンデモ本」と呼んでもいい内容なだけでなく、子供たちにトンデモなことを信じ込ませる、巧妙な誘導に終始していた↓



↑火力発電を悪者に仕立てるために、イラストもこんな風にアレンジされているなど、随所にあからさまな「誘導」「洗脳操作」がある


この「副読本問題」については、福島大学放射線副読本研究会というグループが「放射線と被ばくの問題を考えるための副読本」という興味深いものを出しているので、ついでに紹介しておきたい。

学校で使う「教科書」は、国が「検定」している。その時点で、時の政治権力の意向が入っていると考えるほうが自然なことだろう。

ノーベル賞は「偉い」のか?

毎回嫌になるのが、日本人がノーベル賞をとった、とらないということに焦点を絞って報道しているメディアの低俗さだ。
本庶さんがノーベル医学・生理学賞を受賞したことで、翌日、物理学賞もいけるんじゃないかと、ニュース番組では「物理学賞をとれそうな日本人学者リスト」なるものをデカデカとパネルにして待ち構えていたが、日本人以外が受賞と決まった瞬間「残念でした」とだけ伝えて終わってしまった。受賞した学者はどんな人で、どんな研究成果をあげたのかという肝心な部分にまったく触れないのだから、どうしようもない。

↑とれるか? と騒がれた人たちはとんだ迷惑だったのでは?


本庶さん流に言うなら、そもそも

ノーベル賞ってそんなにすごいのか?
ノーベル賞をとることに価値があるのか?

という疑問を持つべきだろう。
ノーベル賞の中でも、平和賞と文学賞は、「西欧社会が世界をどうみているか、どうあるべきだと考えているか」というメッセージ発信ツールになっているという指摘がかねてからされてきた。
特に平和賞の受賞者に関しては常に議論が巻き起こる。
佐藤栄作、金大中、ヘンリー・キッシンジャー、イツハク・ラビン、シモン・ペレス、ヤーセル・アラファト、アル・ゴア……みんなノーベル平和賞受賞者だ。
バラク・オバマは2009年の大統領就任当初(候補者推薦の締切が就任12日後)に受賞しており、大統領として何かを成し遂げたからではなく「黒人がアメリカ大統領に就任したこと自体に意味がある」という解釈しかできない。

平和賞はスウェーデンではなくノルウェーで授与される。選考を司るノルウェー・ノーベル委員会は、ノルウェーの国会が指名する5人の委員と1人の書記で構成されている。つまり授与主体はノルウェー国家である、といってもいい。
西欧先進国社会を代表してノルウェーが、この人に平和賞を与えることが我々が考える世界平和のメッセージだ、と発信している、といえるだろう。

日本人の頭には「ノーベル賞受賞者=歴史に名を残す=偉人」という刷り込みがあるようだが、それは大間違いだ。
今年は金正恩とドナルド・トランプが平和賞の候補ではないかなどと冗談のような噂が飛び交ったが、実際、2000年には「史上初の南北首脳会談を実現させた」という理由で、当時の金大中大韓民国大統領が平和賞を受賞しているし、さらに遡れば、アドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニ、ヨシフ・スターリンといった名だたる独裁者らが候補にあがっていたことも判明している。(ヒトラーは皮肉を込めて推薦されたというが……)


文学賞に関しても同様だ。
例えば、2006年のノーベル文学賞はトルコのオルハン・パムクが受賞したが、これも西欧世界からイスラム社会へのメッセージだという人たちがいる。
彼の受賞にスウェーデン・アカデミーの、選考過程で政治的状況は考慮していないとの公式発表は 全く信じない。『第二次世界大戦回顧録』で受賞したチャーチルがいい例だが、文学賞であれ政治的状況が強く反映されるのは知られている。たとえ優れた作品 をいくら書いたところで、パムク氏がアルメニア人大量殺害を認めない姿勢ならば、受賞は絶対出来なかっただろう。
トーキング・マイノリティ トルコ初のノーベル文学賞受賞

「トルコは東西の懸け橋、と形容されることが多いが、重要なのはパムク氏がヨーロッパ側に橋を渡ってきた人だということ。彼への受賞には、イスラム教徒が固有文化の障壁を自ら越えて西欧的価値観を共有してほしいという、西欧知識人のメッセージが読み取れる」と池内(恵)氏は見る。
(2006/10/17 読売新聞)


2016年は音楽畑のボブ・ディランが受賞して話題になったが、あれも穿った見方をすれば、トランプを大統領にして、乱暴粗雑低教養を加速させているアメリカに対してのヨーロッパ側からの嫌みかもしれない。

その視点で考えれば、日本国内で何年もの間「村上春樹がノーベル文学賞を取れるか」と騒いでいるのは能天気な勘違いであり、昨年、日本で生まれたがイギリス国籍を取得して「イギリス人」になったカズオ・イシグロが受賞したことも頷ける。
ちなみに、日本の文部科学省は、南部陽一郎氏(2008年、物理学賞。アメリカ国籍)、中村修二氏(2014年、物理学賞。アメリカ国籍)は「ノーベル賞を受賞した日本人」としているが、イギリス国籍のカズオ・イシグロ氏は数に入れていない。

NHK大河ドラマの罪

教科書に出てくる武将だの政治家だのは「歴史上の人物」かもしれないが、ほとんどの場合「偉人」ではない。直接間接を問わず、彼らのせいで死んだり殺されたりした人がどれだけいるか考えてみればよい。
人びとにまともな歴史観をもたせなくさせている元凶がテレビの「歴史ドラマ」、映画、歴史小説の類だ。
今年のNHK大河ドラマは西郷隆盛が主人公。それにあやかったわけでもなかろうが、2019年版の中学道徳教科書にこんな題材が入ることになった。
2019年度版の中学3年生向け教科書「中学道徳3 とびだそう未来へ」(教育出版)に、150年前の戊辰戦争で激しく敵対した薩摩藩の西郷隆盛と庄内藩の菅実秀の戦後の深い交流を紹介したコラム「徳の交わり―西郷(せご)どんと菅(すげ)はん」が掲載されている。敗れた庄内藩に対する西郷の寛大な処分と、西郷の人柄に引かれた菅ら庄内藩士と西郷の交わり、西郷の教えを基にした松ケ岡開墾、菅らによる「南洲翁遺訓」の編さんに触れ、郷土の復興に尽くした先人の姿を通じて、郷土の発展のために寄与することの意義を伝えている。
荘内日報 2018/06/25 西郷隆盛と菅実秀「徳の交わり」 中3生の道徳教科書に


これに対して異を唱えているのが「ワッパ騒動義民顕彰会」。⇒こちらのブログにその内容が詳しく出ている。
複数の資料から検証される西郷、菅の実像を紹介した上で、結論部にはこう記されている。
(菅はん」こと菅実秀が、1890(明治23)年に出した)『南洲翁遺訓』に見られる「徳」は、「君子」つまり支配者、治政者、上司としての在り方や心構えの「徳」であり、民主主義の現代社会における価値とは相いれないのではないかと考えられます。
教科書掲載を機に、地域の歴史を学び地域を知り地域を創るきっかけになれば幸いですが、史実に目を閉ざし情緒的な「美談」が流布してしまうことにならないか懸念しています。
道徳教科書への「徳の交わり~西郷どんと菅はん」掲載についての意見書 結び部分)


今年(2018年)から、道徳が小学校の正式な教科として加わった。中学は来年度からだ。↑これは、その教科書の話である。

3.11後、「わくわく原子力ランド」は回収されたが、教育界全体をみると、歴史的大失敗に学ぶどころか、以前にも増して危ない方向に突き進んでいる。
柴山昌彦文部科学相は2日の就任会見で、教育勅語に関し「同胞を大切にする、国際的協調を重んじるといった基本的な記載内容について現代的にアレンジして教えていこうと検討する動きがあると聞いており、検討に値する」と述べた。
日本経済新聞 2018/10/03


新しい文科相は、教育勅語はその中身よりも、それが歴史の中でどのように使われたかということが問題だという認識がまったくできていないようだ。
今、この国のトップには戦前回帰志向という極めて特殊な思考傾向の人たちが集まって、歴史を作ろうとしている。
一方で、「難しいことはよく分からないけど、私の回りではみんなこう言っている」という人が増えている。
そのレベルに合わせて、メディアが「日本人ノーベル賞受賞者」が出るか出ないかで騒いでいていいのか。
そうではないよ、本当はこうなんだよ、こういう考え方もあるんだよ、と分かりやすく教えてあげるのがメディアの仕事ではないのか。


森水学園第三分校の校歌2018/09/24 11:30

森水学園第三分校 校歌

↑Clickして、まずは聴いてみましょう




★大きい画面で見たいかたは⇒こちらへどうぞ

森水学園初代学園長の森水生士センセは、カタカムナのウタヒでいちばん有名な「ヒフミヨイの歌」を学園の校歌にしようとしていたようですが、完成を見ずに不慮の死を遂げました。
学園長の死後、音楽担当の林田光センセが作曲、林田センセが作った歌詞に鵯田つぐみセンセが補作してできあがったのが第一校歌です。
生徒たちからは「校歌ということを意識しすぎて普通になっちゃったんじゃない?」など、評判は今ひとつのようですが、これはこれで学園の精神を歌い込もうと努力して作られた立派な校歌だと思います。

元になった「ヒフミヨイの歌」を見ておきましょう。
ヒフミヨイ   (一二三四五)
マワリテメクル   (回りて巡る)
ムナヤコト   (六七八九十)
アウノスへシレ   (合うの術知れ)
カタチサキ   (形先)
ソラニモロケセ   (空にもろ消せ)
ユヱヌオヲ   (結えぬ尾を)
ハエツヰネホン   (生え 終 根本)
カタカムナ   (形ある世界と形のない世界)


この「ヒフミヨイの歌」の精神を歌詞に込めたのが、我が森水学園第三分校の校歌です。

森水学園第一校歌「ヒフミヨイの歌」

(林田光 作詞・作曲、鵯田つぐみ 補作詞)


ヒフミヨイ 時間(とき)も物質(かたち)も
回りてめぐる この世界に
生まれ出で 出会いを重ね
形なき闇を 見つめる術知る

ムナヤコト 夜が訪れ
また日は昇る この世界よ
罪も汚れも 結べぬ答えも
すべて吐き出し 空にもろ消せ

ああ、森と水が 我らが母校
命を学ぶ 森水学園

練習用に譜面とメロディだけの動画も作りました
★画面右下のスピーカーマークをクリックして音を出してください


ちなみに、全国に散らばる森水学園関係者や生徒の多くは、⇒この曲↓を校歌にもらってくればいいのではないか、と言っています。
第二校歌としてご紹介しておきます。


2011年上智大学講堂にて KAMUNA 最後の上智ライブ


「敬老」されない老人たち2018/09/17 22:02

今日は「敬老の日」で世の中的には休日。日本の法律によれば「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」趣旨の日だそうだ。

昨日、ホームに立ち寄って、羊羹2本を置いてきた。
親父と義母は元気だが、今もお互いが親戚関係であることに気づいていない。昨日などは二人並んで玄関に僕らを見送りに出てきたが、それでもお互いの関係を認識できていない。そのほうが問題が増えないので、そのままにしている。
親父はせん妄や多動が問題になっているので、先日からアリセプトの服用をやめてみているのだが、変化は見られないという。アリセプトが原因ではないか、まだ抜けきっていないか……いずれにせよ、アリセプトをやめても変化がないのであれば、服用する意味がないので、このままやめるか、他の薬(メマリーなど?)に替えてみるか、ということになるだろう。
メマリーは攻撃性をなだめるために精神安定剤的に処方されることもあるようだが、いずれにせよ、次回、主治医と相談することになる。
あとは、いよいよ秒読み段階みたいになったときに、どうするか。今のホームで看取りたいが、ホームで看取れる程度(範囲)で静かに穏やかに状態が移行するかどうかは分からない。今の主治医は訪問診療はしていないので(訪問診療医を見つけるのは至難の業)、その前に義母をお願いした訪問診療医に頼み込んでバトンタッチできるか、あるいは今の主治医に頼んで訪問看護師に指示書を書いてもらって対応しきれるか……。
まだまだ難題、不安が山積している。

義母は以前から被害妄想的な錯覚、思いこみ──自分の失敗を他人に原因があると思い込む症状(自分で片づけたものが見つけられず、「盗られた」「隠された」「取り上げられた」と訴える、など)が見られ、それは今も続いている。
二人ともスタッフには大なり小なり迷惑をかけているが、まだ暴れたりしないだけいい。
ここ数年、親の認知症や介護問題に直面してからは、もっとやっかいですさまじい話をたくさん耳にする。

事例1:
子ども(多くは息子)が親の状態を認めようとせず、病院に連れていかない、介護サービスを受けさせないという事例。
自分は会社に行ってしまい、親の介護は妻などにやらせている例が多く、被害は自分以外の身内や周辺の人たちが大きく被ることになる。息子の妻が「お義母さんの面倒はもう素人には無理。介護サービスを使いましょう」と言っても「まだ早い」などと言って取り合わない。自分では母親のオムツを替えることもしたことがないのに、だ。
夫が頑固で「お国の世話にはならん」と言い張り、自分では介護しきれない妻を抱え込むケースも多い。自分もそこそこ惚けているので、ちゃんと世話をしているつもりでもできてないから、妻は汚物まみれで悪臭を放ち、どんどん衰弱していく……。子供がいない場合、配偶者が介護サービスを受けようと決断しない限り状況は改善できない。国民年金しかもらっていない貧困老人夫婦所帯では、介護や医療は金がかかると思い込んで、頑なに公的サービスに背を向けているケースも多い。周囲がいくら説明しても理解しようとしない。こういう事例は本当に多い。

事例2:
身体は元気だが、歳を取ってどんどん性格が悪くなる人というのも結構いて、家族だけでなく、近所にも迷惑をかける。
家の前の荒れ果てた針葉樹林のおかげで陽があたらなくなったので、土地の持ち主(高齢の男性)に「伐ってもいいか」と相談すると、どうぞどうぞと言われたので伐ったところ、その妻が血相を変えて怒鳴り込んできて、数十万円の賠償金を要求された。面倒なので……と、その人は言われるまま数十万円を支払った。手入れしてなくて、何本かは枯れて倒れたりしているような林なので、当然、伐った木に経済的な価値などない。「どうぞどうぞ」と答えた戸主は妻には頭が上がらず逃げてしまう。息子も母親には逆らえず、見て見ぬ振り。こんな姑に耐えきれなくなった息子の妻は家を出て、老父母と息子だけになった一家はますます近所からは距離を置かれる。

事例3:
認知症になり、せん妄がひどく、暴力をふるうようになった女性。同居しているのは高齢の夫と息子夫婦。デイホームに預けても、スタッフを殴ったり噛みついたりするので、手に負えず、何か所も断られる。しかし、家族ではとうてい面倒はみられず、下半身が汚物のために爛れて見るも無残な状態に。見るに見かねた別のデイホームのスタッフが「もう、いいですよ」と言う家族を説得し、頑張って引き受け、噛みつかれたりしながらも一生懸命に下のケアをし、風呂に入れて手当するが、家に戻って数日後にはまた爛れた下半身、全身あざだらけの状態でやってくる。挙げ句の果てに、別居している独身の娘が「あそこのデイホームで痣を作った」と役所に訴え出た。ホームでも暴れるので小さな傷くらいできたかもしれないが、スタッフもこの利用者のせいで打撲やらかみ傷などの怪我が絶えない。
ケアマネも息子夫婦もそのことはちゃんと分かっている。ケアマネは「もう在宅介護では無理なので、どこか24時間入所の施設を探すしかない」というが、夫と娘が頑なに拒否する。特に娘が問題で、どうも、自分の生活費などを母親の年金などに依存しているから、母親が24時間入所施設に入ってしまうのを恐れているのではないかと周囲の人たちは見ている。

……ここ数年、こんな話ばかり見聞きしてきた。
どれも珍しい話ではない。これからはこういうタイプの「老害」事例がどんどん増えていき、それに人的にも経済的にも対処しきれなくなって、社会が疲弊していく。
それを思うと、単純に「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」なんてきれいごとだけではなく、真剣に超高齢社会の問題について考える日にしてもいいんじゃないかと思う。

俺だって老人なのに……

そもそも、こんなことを書いている自分自身が63歳の老人。同窓生の多くは孫がいて、おじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれている年齢なのだ。
仲のよかった同窓生が何人もすでに亡くなっている。毎朝、起きるときの身体の辛さが日増しにひどくなってきて、ほんと、親父より自分が先に死んじゃう可能性も十二分にあるなと感じる。信長も歌っていたではないか「人生50年~~~♪」と。
しかし、僕らは敬老の日に誰からもねぎらってもらえない。還暦を超えても、子供のときと同じように、親に何かしなくちゃいけないかな、と気を遣う。
親のためにする「何か」というと、どうしても、病院に付き添ったり、オムツや薬を買いに行ったりということが頭に浮かぶ。
ホームに足を運ぶ回数が増えてきたが、それによって親父はむしろ不安をつのらせ、せん妄が増えている。自分のことで施設長と何か相談しているらしい。何かされるんじゃないか。病院や他の大きな施設に入れられてしまうんじゃないか、という不安が膨らむらしい。
会いに行けば単純に喜んで……ということではないので、敬老の日だから何か特別なことを、というのは、かえってよろしくない結果になる。そういうことまで計算して動かなければならない。

そんなこんなで家に戻ると、自分の体力・気力・創造力が落ちていることで思い悩む。
経験だけは積んでいるわけだから、今までの10倍、100倍の時間をかけてもいいと、ガバッと大きく構えようとは思っているのだが、最終的にできあがるものが、今までのクオリティよりぐんと落ちるのではキツい。生涯でいちばんの傑作が生み出せなくてもいいから、せめて若いときと同じレベルくらいの作品を生み出し続けたい。
でも、その判断もどんどんおかしくなるのだろう。自分に甘くなる? それとも、僻みっぽくなって、そこそこいい出来の作品も認められなくなる?
どちらも嫌だねえ。

そうそう、よくても悪くてもひと月に一曲作るぞプロジェクト(いつそんな名前になった?)だが、6月の曲『June Storm』に続く7月の曲『Mars and the moon』ができた↓ June Storm を作っているときから、アップテンポの打ち込みはキツいから、次はゆったりしたのをシンプルに打ち込みなしで……と思っていた。生ギターとEWIだけで……サクッと作ったと言いたいところだけれど、メロディが決まるまで、何週間もかかってしまったよ。
これはスマホのちっちゃなスピーカーやイヤホンではなく、ある程度低音がしっかりゆったり出るスピーカーで聴いてほしい作品
EWIはEWI USB付属のGarritan音源の中から、スーザホーンとチューバを6:4くらいでブレンドしてみた。
Logicをアップデートするために、やむなくOSをアップデートした話はすでにしたが、その結果、EWI USBの音源ソフトを立ち上げると警告が出るようになってしまった。Appleのサイトを見ると、今は警告だけだが、いずれは32ビットソフトは完全に使えなくなるようにするという。
GarritanのEWI USB音源を64ビット仕様にすることは考えていないだろう。ということは、Mac OSが完全に32ビットソフトを拒否するようになったら、この音が出せなくなるってことじゃないの。冗談じゃないよなあ。
Logicをアップデートしても、今のところなんにもメリットが増えたと思えないので、これ以上のOSアップデートはやめよう。

……なんてあれこれ悩んだり、試行錯誤できているうちはまだボケてないかな。うん、そう思いましょ。

ホッケー⇒今市高校⇒バドミントン⇒大堀⇒桃田⇒富岡高校2018/09/17 11:31

2018年現在の立ち入り規制区域図

ホッケーはラクロスよりマイナー?

退職後、毎日、うちの前の畑でせっせと野菜作りをしているSさんの孫のゆいちゃんは、最近よくピンポ~ンとやってきて「み~ちゃんは?」とねだる。ゆいちゃんのお相手をするのが、み~の新しいお務めになっている。
み~ちゃんのお務め
昼寝をしていたのにゆいちゃんのお相手に起こされて若干機嫌が悪いみ~

そのゆいちゃんの両親はホッケーの選手だったそうで、Sさんはその関係からか、よく車で日本全国にホッケーの試合を応援しに行く。高速道路を使わず、車中泊しながらなので、一度出かけると数日戻って来ない。
栃木県は自転車のロードレースとアイスホッケーが盛んだということは、ここ日光に引っ越して来てから知ったのだが、フィールドホッケーも盛んだそうで、今年は地元の今市高校が全国大会で優勝したという。
先日のアジア大会でも日本は男女アベック優勝で、もっと話題になってもいいのに……とSさん。
リオデジャネイロまで4大会連続五輪出場を果たしている女子に対し、男子は1968年メキシコ五輪を最後に出場がなく、影が薄かった。昨年6月に復帰したオランダ出身のアイクマン監督の下、海外遠征を重ねて強化。東京五輪にはすでに開催国枠での出場の権利があるが、弾みがつく初のアジア王者となり、主将の山下は「前半に4点を入れられ、負けてしまうと思った。それでも、最後まで走りきることだけを一生懸命やった」と興奮気味に語った。
ホッケー男子が初の王者 3点差追いつく驚異の粘り 成長の証し 「ホッケーにとって大きな勝利」 産経新聞 2018/09/02

祝!ホッケー日本代表
3年次生の松本和将君がホッケーの日本代表としてサムライジャパンに選出されました。 高校生では唯一の代表入りとなります。
今市高校WEBサイトより)


フィールドホッケーという競技は世界的にはそこそこ競技人口も多いスポーツらしいし、日本でも、もっと競技人口が増えていけばいいのにねえ。
というわけで、フィールドホッケー部のある高校というのはどのくらいあるのか調べてみた。
首都圏のみのデータだが、どんな部があるかというリストが⇒ここにあった。
で、これはあるだろうなと思えるテニス部の有無を調べると、829校。8割を超えている。逆に、テニス部のない高校があることに驚く。
サッカー部は812校でテニス部のある学校とほぼ同じレベルだが、男子校と共学校だけなら95%なので、テニスより人気が高いといえそう。

じゃあ、少ない部はどんなものかな。
ゴルフなんて贅沢な大人のスポーツかなと思ったら、90校もある。
最近パワハラや暴力が問題になったアメフト、ボクシング、体操、重量挙げはどうかな?

アメフト部   54校
ボクシング部   28校
体操部   133校
重量挙げ部   15校

……体操部がかなり多いのは意外だった。学校外にクラブも多いだろうから、子どもの競技人口はかなりなものだろう。
あと、「重量挙げ部」ってあるんだねえ。高校に……。

その他、これは少ないだろ、と思えるのをチェックしていったのだが、かなり意外な結果になった。

釣り部   27校
自動車部   26校
射撃部   26校
ラクロス部   26校
水球部   20校
馬術部   16校

……馬がいなければ成立しなさそうな馬術部のある高校が関東だけで16校もある。北海道とかならまだ分かるけど……。
射撃部が26校というのも驚いた。高校生が銃を持てるのか?と疑問に思って少し調べてみたら、最初はビームライフルというのを使うらしい。その後、場合によっては「年少射撃資格者」という資格を取って、教員が所持しているエアライフルを借りて本格的にライフル射撃を練習することもあるのだとか。
自動車部というのもビックリ。工業高校なんかで自動車の修理を学んでいるとかかと思ったら、慶應義塾高校には本格的なモータースポーツの自動車部があった
他は、本田宗一郎杯Hondaエコマイレッジチャレンジという1リットルでどれだけの距離走れるか、というレースに参加するための部活動、というのも多いらしい。

ラクロス……どんな競技だっけ? セパタクローとかカバディとか、そういうレベルのマイナースポーツを一瞬思い浮かべたのだが、世界的にはかなり競技人口があるらしい。

で、こういうのより少ないのが、

ホッケー部   15校

え? 重量挙げ部と同じ? 馬術部や射撃部より少ないの? ラクロス部より全然少ないの?
これはビックリだ。

ということは、オリンピック代表になるのも競争率低い。サッカー部の1.8%。部員数にしたら1%を切っているんじゃないだろうか。つまり、単純に考えても、サッカーで日本代表になるより100倍可能性が高い。
それでも、アジア大会で男女ともに優勝するんだから、すごいじゃないか。
考えてみると、サッカーやラグビーに比べたら、身体のぶつかり合いは少ないだろうし、背が低くてもマイナス要因にはならない。日本人向きの競技なのだろう。もっと競技人口増やせばいいのに。

今市高校と富岡高校を結ぶバドミントン

ちなみに、今市高校のスポーツ系部活動部員数を見ると、バドミントン部もかなり多い。

今市高校のスポーツ系部活動部員数 (JS日本の学校 より)

かつてはインターハイ団体優勝などしていたそうで、そのときの選手の一人が女子バドミントンで活躍する大堀彩選手の父親・大堀均氏。
大堀氏は今市高校卒業後、日本体育大学~トナミ運輸と進んでバドミントン選手として活躍。全日本ジュニア単優勝、全日本総合複2位などの成績を残している。
三協アルミでバドミントンダブルス選手として活躍していた麻紀さんと結婚した。
2006年に福島県の富岡高校に赴任してバドミントン部監督就任。桃田賢斗や娘の優・彩姉妹をバドミントン選手として育てたが、2011年、福島第一原発の爆発で富岡高校は校舎を失い、生徒はバラバラに。
それでも翌2012年にはインターハイ女子団体優勝、世界ジュニア選手権では桃田賢斗を日本勢初の優勝に導いた。
ちなみに、大堀彩の姉・優もバドミントン選手で、夫の斎藤太一もバドミントン選手。斎藤太一選手も富岡中学~富岡高校で、大堀均氏の指導を受けている。
栃木県のバドミントン関係者の多くは、大堀ファミリーが「栃木県」と関係がないように報じられることに複雑な思いを抱いているらしい。

そんな話を知って、富岡高校や富岡町は今どうなっているのか、ちょっと調べてみた。
川内村にはスーパーもDIY店もないから、村民の多くは富岡が生活拠点だった。富岡に職場を持っている人たちも多かった。
僕らも富岡にはよく買い物に行ったので想い出はたくさんある。
Googleマップで見ると、富岡高校は⇒こんな感じになっている。
富岡高校だけでなく、原発爆発で立ち入りが規制された区域にあった双葉郡の各高校の生徒は、福島県内各地8校に分散させられ、(サテライト校、などと口当たりのいい言葉を使っているが)もともとの校舎には通えない「名前だけの高校」になった。
桃田選手や大堀彩選手の活躍で、メディアではサラッと「2013年 富岡高校卒業」「2015年 富岡高校卒業」などと書いているが、富岡高校は「物理的」には2011年3月以降は存在していないのだ。

2018年現在の規制範囲(Clickで拡大)


上の図を見れば分かるように、富岡町は避難指示解除されたエリアが多いが、普通の町に戻るのは、僕らが生きている間は無理だろう。
富岡高校は、今は「物理的」にだけでなく、「名義上」も、もうない。「休校」となっているが、事実上は消滅したといえる。2015年には広野町に福島県立ふたば未来学園高等学校が開校したので、今後も「富岡高校」として復活することはないだろう。廃校ではなく「休校」としているのは、富岡町民らの心情を配慮してのことと思う。
そもそも、原発爆発の前から双葉郡の高校は過疎問題に直面していた。富岡高校は普通科を廃し、Jビレッジなどとの連携を図って、スポーツに特化した学校をめざしていた。川内村には富岡高校川内分校があったが、それも原発爆発の前に廃校になっている。
今後はふたば未来学園高等学校の関連などで、いろんなところからの金がどこにどう流れて、育成費やら設備投資やらに使われ……みたいなことが内輪の話題として進行していくのだろうと想像する。

僕らは川内村から日光に移り住んで、いちばん近い高校が富岡高校から今市高校になった。この2つの高校を結ぶキーワードがバドミントンだったというのが面白い。
それにしても、スポーツの世界で上に行くのは大変なことなんだと改めて思う。裏には、メディアが取り上げないいろんなドラマが隠れている。
芸能界もそうだし、人生、社会的な成功や名声を得る裏のドラマに耐えられない「弱い」人たちのほうが幸せな人たちなのかもしれない。
……なんてことをふと思ったのだった。


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