もしも日本が先に原爆を完成させていたら2019/09/08 21:23

石川町でウラン鉱採掘に動員された石川中学(現・学法石川)の生徒たち(Wikiより)
福島県の石川町は、石工・小林和平が生まれ育ち、数々の名作を生み出した土地である。
その石川町が、日本における原爆開発研究ともつながりを持っていると知ったのは20年ほど前のことで、狛犬つながりからだった。

アメリカが原爆開発(マンハッタン計画)に本格着手したのは1942年10月だが、それに遅れること数か月、日本でも陸軍の要請により理化学研究所仁科芳雄博士をリーダーとする「ニ号研究」、海軍の要請で京都帝国大学の荒勝文策教授をリーダーとする「F号研究」と呼ばれる原爆開発研究がほぼ同時にスタートした。
その原料となるウラン235を入手する場所として選ばれたのが石川町で、1945年4月から終戦までの5か月間、旧制私立石川中学校(現在の学法石川)の生徒が勤労動員として採掘作業にあたった。炎天下、わら草履に素手で作業させるなど、ひどい状況だった。しかし、採掘できた鉱石はごくわずかで、ウラン含有率も少なく、使いものにならなかった。

軍部の思惑とは裏腹に、研究者たちは日本で原爆が製造できるとは思ってはいなかったらしい。しかし、仁科や荒勝らには、若い研究者たちが戦場に送りこまれるのを防ぐと同時に、軍からの潤沢な予算を得ることで、原子核の基礎研究を進めたいという思いがあったと、「日本の原爆 その開発と挫折の道程」の著者・保阪正康氏は分析している。
ニ号研究のほうは、昭和20(1945)年5月下旬に、仁科自身が陸軍に「ウラン鉱石すら入手できないようなこの状況ではもう無理である」と告げて、研究者たちも次々に疎開し、そのまま立ち消えてしまった。
海軍では海軍技術研究所科学研究部長の黒田麗(あきら)少将を部長に、(略)F号研究を受け持った。昭和20(1945)年7月21日、琵琶湖のホテルで話し合いの場が持たれている。(略)
黒田は「できれば原子爆弾を作ってほしい」との発言を行った。(略)
「理論的にはまったく可能だが、現状の日本の国力などから考えても無理だといってかまわないと思う」と、荒勝グループの研究者たちは声を揃えた。正式に中止の決定をしましょう、というのが荒勝らの一致した提案だったのである。
「日本の原爆 その開発と挫折の道程」 保阪正康・著 新潮社2012年刊 P170より)

そして、その2週間後には、広島に原爆が投下された。
アメリカのハリー・トルーマン大統領が、広島に投下されたのは原子爆弾であると発表したのは、ワシントン時間で8月6日午前11時(日本時間7日午前1時)であった。(略)長文のこの声明は、アメリカがこの原子爆弾の開発製造のために、いかに国力の総てをつぎ込んできたかを詳細に述べた。(略)
連合国各国がこの“偉業”を賞えていると、アメリカのラジオ放送は伝えた。(略)トルーマン大統領の声明が各国から賞えられるなかで、人類にとって原子爆弾の投下は汚点である、との意見はローマ法王庁ほか、わずかの機関からしか発表されなかった。(略)
当時の日本国民はラジオでアメリカの短波放送を聞いたりすればすぐに逮捕されてしまう時代だから、こういう連合国や国際社会の動きなどはまったく知るよしもなかった。
むしろ内閣情報局での会議、つまりこのニュースをいかに国民に伝えるかの会議では、陸海軍からの出向組は、「トルーマン声明は策略かもしれないではないか」とか、「原子爆弾だと伝えると、国民に衝撃を与え、戦争指導上問題がある」といった強硬意見が出された。
同「日本の原爆」より)


「もしも日本がアメリカより先に原爆を完成させていたら?」という「IF」は、ときどき語られる。
戦時下の昭和19(1944)年には、朝日新聞が「ウラニウム爆弾」について記事で紹介し、「新青年」という読み物雑誌には『桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ』と題した小説も掲載された。ウラン235を入手した日本では原子力の実用化に成功し、原子力飛行機で軽々と太平洋を横断し、敵国アメリカのサンフランシスコ上空8000メートルから原爆を投下する、という内容の小説だという。
こうした記事や小説がきっかけで、「マッチ箱1つの大きさで大都市が吹っ飛ぶ爆弾」が発明され、日本は戦争に勝つという噂が日本国中に広まった。
しかし、当時の状況からして、日本がアメリカより先に原爆を完成させていた可能性はない。
「ニ号研究」では、
容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった。(略)
しかし、同様の経緯である1999年9月の東海村JCO臨界事故により、殺傷力のある放射線が放出されることは明らかとなっている。 (Wikiより)

……つまり、完成させられないまでも、そのまま研究が進み、原材料が調達できていたら、実験段階で日本国内で悲惨な事故が起きていた可能性が高い。そして、当然、それは隠されただろう。
なにしろ、1944年(昭和19年)12月7日に起きた東南海地震(M7.9。死者・行方不明者1223名)も報道規制され、隠されたくらいだから。

「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」と並べてはいけない

こうした歴史に学ばず、2011年3月の原発爆発では、福島県は国に先がけて深刻な放射能漏れを知ったにもかかわらず、それを隠した

歴史は繰り返すというが、こんな歴史を繰り返していいはずがない。

保阪正康氏は著書『日本の原爆』の最後で、非常に重要な指摘・主張をいくつもしている。
原子力や核開発に対しての考え方の違いを超えて、多くの人たちが見落としがちな視点・視座だと思うので、いくつかをほぼそのままの内容で紹介しておきたい。

  • 原子爆弾の製造⇒戦争の終結⇒東西冷戦下の核開発⇒核の均衡による平和⇒核技術の「平和利用」 ……この構図の中には政治と軍事が科学者たちを下僕化したという現実と、政治が「平和利用」の名のもとに科学者を巧みに利用した現実が凝縮している。
  • 原子力の二つの顔(原子爆弾と原子力発電)は、単純に「悪魔と天使」とに二分できるものではない
  • ヒロシマ・ナガサキ・フクシマを並べて論じてはならない。ヒロシマ・ナガサキは基本的にはアメリカが爆弾を投下したという問題だが、フクシマは我々の国のシステムや技術、原発に対する考え方の歪みが起こしたものであり、「我々の国の責任問題」である。
  • 原爆製造計画では、軍事指導者が「聖戦完遂」の名のもとに軍事研究を要求し続けた。原子力発電は、軍事指導者に代わって、政治家や官僚が「平和利用」と「生活の向上」の名のもとに「電力というエネルギーの供給を」と訴え続けた。どちらの大義もその時代が要求する価値観でしかなく、歴史的普遍性に欠けている
  • 日本での原爆製造計画が未遂に終わったために、我々は人類史の上で加害者にはならなかった。しかし、原発事故では、我々のこの時代そのものが、次世代への加害者になる可能性を抱えてしまった。我々が放射線をあびたとしても、それはそうしたシステムを許容した我々自身の責任である。しかし、次世代の人たちに放射能障害の危険性を残していいわけはない。


原発爆発後の日本を見ていると、責任者が責任をとらないどころか、開き直って嘘の上塗りをし、それを国政が後押しする。システムの反省や改善どころか、さらなる欠陥や非合理、不正義を押し進める……。
  • 放射性廃物を永久処理する方法は未だに発見されていないし、地震の巣である日本では、放射性廃物を安全に保管できる施設は作れない。それがはっきり分かっている今も、後始末(廃炉と放射性廃物管理)ではなく、再稼働や、原発の輸出(!)などを押し進める。
  • 原発爆発でばらまいた放射性物質を含んだ土や瓦礫くずを健全な水源地にまで運んで埋めてしまおうなどという馬鹿げた計画を「環境省」がごり押しする。
  • 原発ビジネスとまったく同じ「国が税金を投入して業者を儲けさせる」システムで、「再生可能エネルギー」という新たな名のもとに、大規模環境破壊と国民への不要な経済負担を「国策」として進める。

原爆を投下された直後の日本よりも、今の日本のほうが、人々の理性・判断力・倫理観が劣化しているように思えてならない。


コメント

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://gabasaku.asablo.jp/blog/2019/09/08/9151142/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。