「ブリーフ岡本」と「メロリンQ」2019/07/24 17:31

吉本興業のグダグダ問題──わざわざ取り上げるようなことではない、と思って書かなかったのだが、一私企業の内紛というだけでは済まされない問題もはらんでいるようなので、やっぱりちょっとだけ書いてしまう。

「闇営業」という言葉はやめるべき

オール巨人が「『会社を通さないだけの営業』は『直の営業』。『反社会的勢力相手の(分かった上での)営業』が『闇営業』で、別物」という趣旨のことを言って、業界では「今さら『闇営業』の定義を変えられたら困る」と大困惑している、という記事があった。
でも、オール巨人が言っていることこそ従来の定義なのでは? 芸人たちは所属事務所を通さない営業を「直(チョク)」と呼んでいて、自分たちで「闇営業」などと言っていたわけではない。
だから、今回の騒動は「所属事務所も黙認している直の営業に行ったら、その相手が犯罪者集団だったことがずっと後になって判明した」という話であって、それを読者や視聴者を煽るために「闇営業」という言葉を使ったメディアの「コンプライアンス」こそが糾弾されて然るべきだ。

契約書も交わしていないのだから「直」に何の問題もない

吉本芸人の場合、事務所と専属契約を交わしているわけではないらしいので、事務所を通さない仕事をすることになんら法的問題もない。
吉本興行側も、カラテカ入江を「売れていない芸人たちを世話してやってくれ」的なノリで利用していたフシがあるので、吉本と入江の関係も相互互恵関係だったと思われる。
「いっそ、プロモーターとして能力があるらしい入江が経営したほうがよほどうまくいくんじゃないの?」(隣で飲んでいる女性談)

「中田カウス問題」を放置している企業がコンプライアンス云々を語る資格なし

「反社会的勢力の問題と吉本興業の企業体質に芸人が不満を抱いている問題とは別の問題として分けて考える必要がある」などとしたり顔で語るコメンテーターがいるが、決して「別の問題」ではない。
吉本興業に限らず「興業」というより「興行」の世界がヤクザ社会と切っても切れない関係にあった歴史は打ち消しようがない。
かつては任侠団体が芸能界を仕切っていた。昭和33年に神戸芸能社と名を変えた山口組芸能部は、美空ひばり、田端義夫、山城新伍などの興業の実権を握っていた。その他、橋幸夫、坂本九、三波春夫、マヒナスターズ、舟木一夫など当時のトップスターのほとんどを手がけている。(「凄惨すぎるヤクザたちの争い3選!! ノンフィクションライターが選出」TOCANA
吉本は反社会的勢力の排除を徹底する考えを文書で示したが、在阪の芸能プロモーターは「どこまで本気か」と、こう首をかしげる。
「反社との関係が取り沙汰された、ベテラン漫才師の中田カウス(70)を厚遇している限り、解決になりませんよ」(「吉本興業 芸人の“闇営業問題” 遠因とささやかれる大物漫才師」サンデー毎日)

2007年1月には吉本創業家とその後の大崎体制を確立した現経営陣との間に「裏社会との結びつき告発合戦」ともいうべき騒動が起きた。
創業家当主だった故・林マサさんの夫で吉本の社長だった婿養子の故・林裕章さんは、生前、女性関係や金銭トラブルといったスキャンダルが絶えなかったが、五代目の名前をチラつかせてトラブル処理に奔走したのがカウスだった。
(略)
口火を切った「週刊現代」(講談社)の「吉本興業副社長”暴脅迫事件”一部始終」では、大崎氏が山口組系の男にホテルに呼び出され、元会長の子息の役員就任を要求されたと告発。これを受けて、マサさんが「週刊新潮」(新潮社)誌上で反論。手記「”吉本興業”は怪芸人『中田カウス』に潰される!」で、カウスが山口組との交流をチラつかせて経営にまで口を出し、「吉本最大のタブー」になっていると暴露した。(吉本興業がコンプライアンス徹底を誓うも、上方漫才協会初代会長・中田カウスの処遇に問題は? 本田圭

連日の吉本騒動に関する報道を見ていても、これだけ「反社会勢力」という言葉が飛び交いながら、「中田カウス問題」を口にする者は誰一人もいない。それだけ大きく根の深いタブーだということなのだろう。

企業の体をなしていない

7月20日の宮迫博之、田村亮の「手作り記者会見」は、日大アメフト部事件のときの加害選手が一人で受け答えした謝罪会見を思い出させた。
その後の吉本興行側の緊急記者会見は、さらに衝撃的だった。
最初に、雇われ弁護士で吉本社員の「マイクプルプル小林」(動揺すると手に持ったマイクが嘘発見器のごとく分かりやすく震え始めるので、私が命名)が、延々30分かけて事の経緯を話し始めた。ちなみに彼の、人形にはめ込まれたような目が誰かに似ていると思っていたのだが、国会で大ウソを突き通した功績で国税庁長官に出世した佐川宣寿氏の目と似ているのだった。

ようやく岡本社長が登場してからの30分くらいは、社長がまともな日本語を喋れないことにビックリさせられた。「なんじゃこりゃ?」と。
さらに辛抱強く見ているうちに、今度は笑うしかなくなった。コメディUKというか、モンティ・パイソンのシュールなコントを見ているような感じ。
何かわからないものが、ずっとすごい弱火ですごい焦げている(天竺鼠・川原
おそらくこれは相当な高等技術で全てを霧に包めるマヌーサみたいな魔法なんだと信じてる(元カリカ・家城

ニュース番組やその後のワイドショー番組で編集されたダイジェスト版しか見ていない人には分からないかもしれないが、日本語が通じない相手との会話をネタにした、尺無制限コントを見せられているようだった。
最初は「山根会長と組んで漫才すればいい」「いや、それだとWボケで収拾がつかないし、尺が足りなくてテレビ向きじゃないな」などといいながら見ていたのだが、最後はなんだか薄ら寒さを覚えてきた。
こんな企業が日本のテレビ局を牛耳っているのか……と。

社長は「悪人」ではない?

あの記者会見で日本中に衝撃を与えた岡本社長という人物はしかし、日大アメフト部の内田元監督や日大田中理事長などとは違う種類の人間のようだ。
「平気で嘘をつく政治家なんかに比べたら、悪人ではない。○○なだけ」という評は当たっていると思う。
ダウンタウンの元マネージャーということなので、それでググったところ、ツイッターやYouTubeなどにブリーフ一丁ででかいとら猫を抱いた不思議な動画が多数出てきた。
「ブリーフ岡本」とか「おかもっちゃん」などと呼ばれて、ダウンタウンの番組に出ていじられキャラ、キレキャラを演じていたらしい。
YouTubeで「ブリーフ岡本」を検索すると、当時の動画がいろいろ出てくる↓。

これを見て、ようやくあの記者会見の異様さの正体が分かった気がした。
ダウンタウンの芸がなぜそんなに持ち上げられるのかさっぱり分からなかったのだが、ここにある動画のようなものを見て面白がっていた人たちがいっぱいいて(笑いの感覚に地域差もあると思うが)、ダウンタウンがなぜか知らないうちに大御所みたいに持ち上げられて、それにテレビ局も乗っかって、いくつかの不祥事や事件もうやむやにされてきて……そういうのの延長線上に今の吉本王国があるんだ、と。
その象徴ともいうべきものが、2008年に行われた「キングオブコント」第1回目だった。松本人志が総指揮のような立場に持ち上げられて始まったこのイベントは、決勝戦の審査は予選リーグで敗れた決勝進出者6組の芸人たちが口頭で優勝にふさわしいチームの名を告げるというシステムだった。
このとき決勝リーグに残ったのは、バナナマン、ロバート、バッファロー吾郎、チョコレートプラネット、ザ・ギース、天竺鼠、TKO、2700(決勝戦1回目の得点順)の8組。
TKO(松竹芸能)、バナナマン(ホリプロコム)、ザ・ギース(ASH&Dコーポレーション)以外はすべて吉本の芸人だった。
Aリーグ最高点のバッファロー吾郎とBリーグ最高点のバナナマンが最終決戦を行い、残り6組が起立して口頭で「どちらが勝者にふさわしいか」を告げて、優勝者を決めるというこのひどい仕組みも松本が考案している。
誰の目にも芸が優れているのはバナナマンのほうだったが、6組のうちで「バナナマン」と口にしたのはザ・ギースだけだった。それも、苦渋に満ちた表情で言ったのが印象的だった。
いつから松本人志はこんな権力をもつようになったのか? と、驚いたものだった。

岡本社長は松本に言われれば汚れ役を素直にやる忠実な「大崎・松本ファミリーの番頭」であり、今の吉本興業は「松本閥」が仕切る胴元なのだな……と、そこまで理解したら、なんだか岡本社長が哀れに思えてきた。

マイクプルプル小林を見ていて、国会中継も思い出してしまった。
この図、今の日本の政治の世界とそっくりだ。
ありえないこと(たとえば公文書の改竄・破棄とか、逮捕状が出てまさに逮捕しようとしていた準強姦罪被疑者が、逮捕寸前で警視庁刑事部長からの命令で見逃されるとか……)が平気で「その世界のトップ」の間で行われ、それを制御する者がいない。システムがどんどん壊れていき、修整が効かなくなる。
メディアがそれを是正する役割を担っていないどころか、忖度し放題で、ますます取り返しのつかない状況にしている。
それを見ている国民(視聴者)もまた、「世の中(芸能界)ってこういうもんでしょ」という気分の中で生きていくことに満足しようと努力する。
腹を立ててもどうにもならない。あの世界のことは自分たちにはコントロールできないのだから……という諦観。

……そう気づいたら、シュールなコントとして笑っているだけでは済まないんだなあ、と、薄ら寒くなってしまったのだった。
そのとき隣からこんな声が。
「要するに、ダウンタウンと大崎会長と岡本社長が出て行って別会社を作ればいいんじゃないの?」
「!!」
そらそうだ。吉本にはお笑い文化に情熱を持って仕事をしている優秀な社員がたくさんいるという。だったら、その人的資産はそっくりそのまま残して、会社をダメにした現経営陣が独立し、松本興行でも松本組でもなんでもいいから、「ファミリー」的な会社を作って、好きなように興行の元締めをすればいい。
な~んだ。解決法は簡単だったね。

芸人の力はすごい

それにしても、宮迫博之のあの会見での渾身の演技(パフォーマンス?)といい、加藤浩次の正義感といい、田村亮の「いいやつ」ぶりといい、この世界でしぶとく生き残ってきた芸人たちの潜在能力や剛胆さはすごいなあと感心する。とても真似できない。
ただ忖度しまくる官僚や、秘書に平気で暴力をふるう官僚上がりの議員などよりよほど政治家に向いている。もちろん「勉強してくれたら」という条件付きだけれど。
……あ、それがメロリンQなのか!
メロリンQは今回の参院選でゲリラ戦法も身につけたし、まだまだ見応えのある舞台を見せてくれるだろうか。期待していいのかな? (でも、くれぐれも「刺客」には気をつけてね)


「飛翔獅子」という呼称について2019/03/01 21:30

鹿島神社の「飛翔獅子」(吽像)

川田神社の飛翔獅子。寅吉自身が奉納した記念すべき最初の飛翔獅子 明治25(1892)年11月15日「浅川町福貴作 石工小松布孝作之」の銘



鹿島神社の狛犬(裏側から) 明治36(1903)年 「福貴作 石工 小松布孝」の銘

小説版『神の鑿』上巻 小松利平、は、目下160枚ほど書いて、利平がようやく福島に初めて足を踏み入れようとするあたり(天保年間)まできた。
小説化するにあたって、毎日、執筆時間よりも調べ物をしている時間のほうが多いのだが、ネット検索していると自分が書いた文章やサイトにぶつかることもある。
今日は朝日新聞のこんな記事を見つけた。
白河市を中心とする福島県南部には、全国でもめずらしい……というよりは、この地方だけではないかといわれる“飛翔する狛犬”たちが見られる。

……と始まる「城とラーメンの町で注目を集める新名物は“飛翔する狛犬たち”/福島県白河市ほか」(文・写真 中元千恵子 2017年3月22日)という記事。
2017年3月だから、2年も前に書かれていたのね。

で、ここでも書かれている
通常は前足を伸ばして腰を下ろした姿勢だが、白河地方では“飛翔獅子(ひしょうじし)”とよばれる独特のスタイルが生まれた。雲に乗り、尾やたてがみを風になびかせた姿は躍動感があり、彫りの美しさからも、もはや芸術、と称されている。

の、「飛翔獅子」や「雲に乗り」という部分がおかしいと主張している人がいると最近知った。
実際に問い合わせもあった。
狛犬の下の部分は明らかに「雲」ではない。雲ではないのだから、「空を飛ぶ」もおかしいのではないか、という趣旨のご指摘だ。
「雲に乗り空を飛ぶ」というのは、拙著『狛犬かがみ』にこんな記述がある。
江戸獅子の豪華版として獅子山というスタイルがある。獅子山の獅子は、今にも飛びかかりそうな躍動感にあふれているものが多い。加賀地方には、山の上で逆立ちしている獅子像がある。広島には玉に乗った狛犬が多い。しかし「雲に乗り空を飛ぶ狛犬」という構図は、ほとんど見たことがない。石で造るがゆえに、あまり自由な構図が許されないからだろう。
寅吉は生涯何体もの狛犬を彫っているが、ついにはこの「飛翔獅子」というスタイルに行き着く。これが寅吉の「発明」だとすれば、大変な功績といえよう。
(『狛犬かがみ』バナナブックス)

獅子を支えている部分については、「雲」ではない、と言われればその通りかもしれない。
しかし、江戸獅子の獅子山とは発想がまったく違う。仏像の蓮華座そのものかといえば、そうともいえない。蓮の意匠をあしらった部分もあるし、牡丹の花を添えているのもあるが、「あの部分」に関しては、おそらく、「後ろ脚を蹴り上げて飛んでいるような格好の石獅子を台座の上でバランスよく成立させるためには、どのような造形にすればいいか」という命題から出発して、あのようにまとめ上げたのだと思う。獅子と一体に一つの石から彫られているのも、そのためだ。

寅吉の出発点(発想の最初)はあくまでも、龍のように「天翔る獅子」を彫りたい、だっただろう。
重い石獅子をあの形で仕上げるには、前脚だけが台座に接続しているのでは無理がある。長くもたせるためには、重量バランスを考えて、なおかつ全体のデザインが壊れないようにまとめなければならない。そこで、「台座にのせる」という発想から一旦離れて、「獅子をあの形で宙に浮かせるためにはどういう形にすればいいか」という発想に切り替えた結果なのだ。
悩んだ末に、蹴り上げた後ろ脚を支える支柱の代わりに、モコモコっとした「何か」を後肢方向に盛り上げて、その「何か」込みで全体のデザインと重量バランスをまとめる、という作業に取り組み、完成させた……と見る。
あの「何か」が岩山なのか蓮華座なのかという定義は、寅吉にとってはあまり意味のないことだったのではないか。それをどう呼ぼうが「後付けの問題」で、あくまでも「天翔る獅子」を成立させるための「デザイン」が必要だった、ということだろう。儀軌的な定義ではなく、あのスタイルを実現するための物理学的な工夫の結果だった。雨水が溜まらないように随所に空洞を作るという工夫もされている。
あの部分に蓮や牡丹の意匠を採用していても、それは「ここはこうあるべきだ」ではなく、不自然さがなく、かつ、豪華、豪快にまとめるためのパーツ(木彫扉の錺金具のようなもの)だったと思うのだ。
あれを岩山であるとか、蓮華座であるとか厳密に「規定」してしまうと、途端に主役の獅子の動きが止まってしまい、躍動感や感動が薄れてしまう気がする。
あくまでも主題(目的)が「天翔る獅子」であるならば、「それを可能にするためのデザイン」として下にあるものを「雲にたとえて」もいいのではないか。

もちろん、寅吉自身が「空を飛ぶ獅子」というイメージをまったく抱いていなかったという可能性はありえる。
蹲踞した狛犬ではつまらないから、獅子に何か驚くようなポーズをとらせたいと考えた末に、後ろ脚を高く持ち上げてみた……というだけだった。それを見た人たちが勝手に「すごい! 狛犬が空を飛んでいる!」「雲に乗っている!」と感じた(解釈した)だけだ、という可能性……。
そうであったとしても、それまで誰も挑戦したことのない造形を生み出そうとしたことは間違いない。であれば、あれを見た人がイメージした「天翔る獅子」「飛翔獅子」が表現や呼び方として定着するのは、悪いことではない。たとえ寅吉がそう意図していなかったとしても、「雲に乗って空を飛ぶ獅子」と評されることを、寅吉自身、喜ぶのではないか。

芸道や芸術の修業における段階を表す「守破離」という言葉がある。
」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。(デジタル大辞泉より)

仏教では「習絶真」という言葉がこれに近い。
寅吉にとって、飛翔獅子の考案は、守破離の「破」から「離」に相当するものであった。それは確かだ。

思うに、寅吉の師匠である利平は、寅吉よりずっと自由人だった。利平に比べたら、寅吉はむしろ儀軌を重視する保守的な一面も持った人だった。
しかし、自由を愛した利平も、獅子を飛行させることはできなかった。アイデアはあったかもしれないが(そのアイデアを寅吉に語っていた可能性は大いにある)、彫り上げることはできなかった。
寅吉は、並外れた努力と技術で、それを形にしてしまった。……そういうことだ。

残念なのは、利平が寅吉の飛翔獅子を見ることなくこの世を去ったことだ。生きていたら、飛翔獅子を完成させた寅吉にどんな言葉をかけただろうか。

謎の飛翔獅子

矢吹町中畑字根宿の八幡神社には、後肢に支えのないアクロバティックな飛翔獅子がいる。

根宿八幡神社の飛翔獅子 明治41(1908)年。石工名なし


明治41(1908)年旧8月という銘があるが、石工の名前がない。
間違いなく寅吉の工房で彫られていると思うが、寅吉の作ではない。作風がまるで違うし、このとき寅吉はすでに64歳で、八雲神社の燈籠(「福貴作小松布孝六十五年調刻」の銘)にかかりきりだったはずだからだ。
極めて端正な顔とスマートな体躯。これは一体誰が刻んだのだろうか。
私の推理としては、当時まだ20代だった和平か、和平の同僚であった(?)岡部市三郎、あるいはこの二人の合作ではないか。
和平や市三郎以外の腕の立つ職人が石福貴にいたのかもしれない。

これは、「飛翔獅子を後肢に支えをつけないで設置できるのか」というテーマ(タブー?)に挑戦した作品であろう。
そういうことをやろうと思うのは、若く、反骨精神旺盛なときだと思う。守破離でいえば、「破」であがいている時期か。
老境に入って、自分の石工人生を振り返りつつあった寅吉は、弟子がそういう生意気な挑戦をすることについて黙って見守っていたのかもしれない。
あの飛翔獅子を彫ったのが和平だとすれば、後に「やはりあれは無茶だった。師匠が完成させた形を受け入れよう」と改心して、なおかつ「自分にしか彫れない飛翔獅子」を生み出そうと試行錯誤した結果、石都都古和気神社の親子獅子以降の傑作が生まれたのではないだろうか。

……とまあ、過去の物語をいろいろ想像しながら、目下、小説版『神の鑿』上巻を執筆中。
勉強することが多すぎて、寅吉や和平が登場するまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。



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「絶対」音感なんてものはない2019/02/11 21:25

学校の放送室

「移動ド音感」と「固定ド音感」

学校のチャイム

テスト1


とりあえずこれ↑を聴いてほしい。(音が出ない場合は左端の三角印をクリック)
どう聞こえるだろうか?
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

1の人は、メロディを聴くとドレミファ……という階名をラベリングする習慣がある。
2の人は、メロディを階名と結びつける習慣がない。

世の中の人は、概ねこの2通りに分けられる。
ちなみに上のメロディを譜面に表せばこうなる↓

テスト2

では、次のこれ↓はどうだろうか(三角印をクリック)


  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ファラソド ファソラファ ラファソド ドソラファ ……と聞こえる
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない


1の人は移動ド音感である。
2の人は固定ド音感である。
3の人はどちらでもない。(メロディは「ああ、あれだ」と分かっても、階名には結びつかない)

最初のケースの1の人が、2つのグループに分かれたわけだ。
ちなみに上のメロディを譜面に表すとこうなる。

これを移動ド音感の人は、キー(調)に関係なく、「長調のメロディ」として聞こえてくるので、

↑こう聞こえる。ちなみにF(和音名=ヘ)の音をドレミ……のドにした長音階(ヘ長調)に相当するので、本来譜面の横には b(フラット) が1つつくが、この学校チャイムのメロディには「B」(和名音名なら「ロ」)に相当する音が含まれていないので、b がなくても演奏には影響がない。

一方、固定ド音感の人は、あくまでもA=440Hzの調律をした楽器の「Cの音をドと固定して聴いている」ので、

↑こう聞こえる。

テスト3

では、次はどうだろうか?(三角印をクリック)

  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ファラソド ファソラファ ラファソド ドソラファ ……と聞こえる……かな?
  3. ミ ソ# ファ# シ ミ ファ# ソ# ミ ソミファシ シ ファ# ソ# ミ ……と聞こえる……かな?
  4. 気持ちが悪い
  5. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

1はもう説明不要だが、移動ド音感の人である。
2.3.4.は固定ド音感の人だが、いわゆる「絶対音感」というものにどれだけ忠実な耳であるかで反応が分かれる。
実はこれ、A=422.5Hzというチューニングになっている。
現代では、A=440Hzというチューニングが標準とされ、クラシックなどでは少し高めのA=442Hzあたりのチューニングをすることもある。
しかし、A=422.5Hzまで下げると、A=440Hzのときの半音下のAb(G#)が415.3Hzなので、ヘ長調(Fメジャー)でもホ長調(Eメジャー)でもない中途半端なチューニングになる。(FメジャーよりはEメジャー寄り)

念のために、半音下げたEスケール(ホ長調)でも聴いてみよう。↓



これはA=440Hzのチューニングなので、「気持ちが悪い」という人はいなくなり、
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる
  2. ミ ソ# ファ# シ ミ ファ# ソ# ミ ソミファシ シ ファ# ソ# ミ ……と聞こえる
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

の3通りに分かれると思う。

しつこいようだが、Gスケール(ト長調)でも聴いてみよう。



これだと、
  1. ドミレソ ドレミド ミドレソ ソレミド ……と聞こえる(移動ド音感)
  2. ソシラレ ソラシソ シソラレ レラシソ ……と聞こえる(固定ド音感)
  3. 学校のチャイムのメロディだが、階名は分からない

の3通りのグループに分かれるはずだ。

端的に言えば、固定ド音感の人にとって、Fスケールの学校チャイムとEスケールの学校チャイムは(違う高さの音で構成されている)「別々のもの」だが、移動ド音感の人にとってはこの両者は(「学校チャイムのメロディ」という意味で)「同じもの」なのである。

音楽は「相対音感」の文化である

さて、多くの人たちは、耳で聞いたメロディを即座に楽器で演奏してみせる人のことを「絶対音感」がある、などというが、それは間違いである。
まず、世の中の多くの人たちが「絶対音感」と呼んでいる音感は、ほとんどが「A=440Hz調律をしたときの固定音感」とでも呼ぶべき音感である。
このタイプの「固定音感」の持ち主は、クラシック音楽の演奏家などに多い。
「譜面に強い」のも特徴で、上のテストで固定ド音感であった人たちの多くは、この程度のメロディであれば、聴いた音をサラサラと譜面に書きおこすこともできる。
一方、移動ド音感の持ち主は「相対音感」を持っている。基準音がどんな周波数に調律されていようと、1オクターブ(周波数が倍音の関係)の間を12に分割した音の相対関係が正確であれば、音楽的には何の問題もなく、ちゃんと「メロディ」として把握できる。
優れた「相対音感」の持ち主もまた、メロディを聴けば譜面なしで歌ったり演奏したりできる。
この「相対音感」こそが、音楽(特に作曲や即興演奏)にとって重要な音感である。

固定音感(世の中の多くの人が「絶対音感」と呼んでいる音感)を持っていても音痴な人はいる。逆に、相対音感を持っていても「譜面は読めない」「譜面には弱い」という人はとても多い。
典型的な相対音感人間の例は安全漫才のみやぞんだ。

みやぞんはメロディを相対音感でとらえているので、譜面などなくてもメロディを再現できる↑
ガヤの中から「絶対音感があるやん」という声が聞こえるが、これは間違い。「相対音感」があるのだ。


上の動画を見て分かるように、原曲のキーに関係なく、みやぞんはすべてFスケール(ヘ長調)で弾いている。それが自分にとって弾きやすく、コードなどもFスケールの指癖で覚えてしまっているからだろう。
彼にA=422.5Hzでチューニングされたメロディや歌を聴かせても、長調であれば全部ヘ長調で演奏するに違いないし、A=440Hzからずれたチューニングであることも気づかないはずだ。

「半音」部分を言い表せない移動ド音感

ドレミファ……の階名には一つ大きな問題がある。
長音階(メジャースケール)、短音階(マイナースケール)から外れた音に対するラベリング(名前付け)がないことだ。
ひとつ例を挙げよう。
もうひとつ例を挙げよう。

月桂冠のテレビCM
この「好きだよね 月だよね」というジングル(広告コピーや社名、商品名などを短いメロディにのせたもの)はとてもよくできている。
こういうメロディだ。



これはBbスケール(変ロ長調)を基本にしたメロディなので、移動ド音感の人は、最初のところは

レミレドミ

……と聞こえる。
ちなみに、フリューゲルホルンやテナーサックス、ソプラノサックス、トロンボーン、ユーフォニウム、バスクラリネットなどは「Bb管」と呼ばれる管楽器で、基本のドレミファ……がBbスケール(Bbが「ド」)の音になる。だから、これらの楽器で「レミレドミ……」と吹けば、上の音になる。
これらは「移調楽器」なんて呼ばれるけれど、固定ド固定音感の人がこうした移調楽器を演奏しようとするとき、あるいは記譜しようとするときは、頭の中で一旦移調しなければならず、混乱するという。

ところで、このメロディのチャームポイント?は、二度目の「だよね」の「だ」がブルーノート(メジャースケールにもマイナースケールにも含まれない音)になっているところだ。
完全な長調のメロディだとちょっと面白くないのだが、ここにブルーノート(移動ドでいえばレとミの間の半音)が入ることでちょこっとおしゃれ感というか、ブルーステイストが出る。
しかし、ドレミファの階名だと、こういう半音部分は名前がないので、移動ド音感の人は、そこだけドレミで歌えなくなる。

レミレドミ ラソ●~レド

と聞こえるのだ。
●のところは普通に行けばミになりそうだが、ミではない。思わず頭の中では「む~」とか「ん~」となってしまう。
それに引きずられて、その後に続く最後の「レド」も、この音の後だともはや「レド」とは聞こえず、

レミレドミ ラソむ~むむ~

……みたいに聞こえてくるかもしれない。

一方、固定ド固定音感の人たちにはこうしたことはまったく関係ない。これがミbであることはすぐに分かるからだ。この音はこれでしょ、と、楽器上で勝手に指が動く。そういう訓練を受けている人たちが多い。


ちなみにみやぞんがこれを聴いて「ピアノで弾いてみて」と言われたら、迷わずFメジャー(ヘ長調)で弾き始めるだろう。
こういう感じで↓



シンプルにコードをつければこんな感じかな。





相対音感人間が激減している?

みやぞんが優れた相対音感の持ち主であることは間違いないが、彼がメロディを聴いたときにドレミ……の階名ラベリングを頭の中でしているかどうかは分からない。
また、ドレミ……でラベリングできるかどうかは、さほど重要なことでもない。
ドレミ……という階名は長調と短調のスケールの中でのラベリングであって、ジャズのようなテンションや転調がコロコロ出てくる音楽ではドレミ……ラベリングはあまり意味をなさないかもしれない。
実際、耳で聴いたときの階名ラベリングができなくても優秀な相対音感を持っている人たちもたくさんいる。ドレミは分からないし、譜面も読めないけれど、一度聴いたらすぐに歌えてしまう人などはそういうタイプだ。

ただ、みやぞんのような相対音感人間がどんどん少なくなってきていると感じるのは私だけだろうか。

「絶対音感」なんてない

固定ド固定音感の人たちが、移動ドや相対音感のことを、上から目線で「育ちが悪い」とか「音が狂っているのに分からないなんて」とか「ファソラなのにドレミって歌うなんて吐きそうだ」とか言っているシーンを目にする。音大生やプロの演奏家にも多い。
そういう人たちは、自分たちが「絶対音感」の持ち主であることにエリート意識を持っている。しかし、彼らは「絶対音感」という言葉の「絶対」という部分にマインドコントロールされているだけではないのか。
調律の仕方に「絶対」なんてない。どんな高さに調律しても、個々の音の相関関係がしっかりしていればなんの問題もない。ピアノの名門・スタインウェイ社は、一時期、A=435Hz~460Hzまで、何種類ものピアノを作っていた。
それに、平均律12音階ではない、ピタゴラス音律や純正律といった調律法、音階も存在する。純正律主義者?に言わせれば、ピアノやギターの平均律は「12音すべてが平均的に狂っている調律」だということになる。

また、ベートーベンもモーツァルトもバッハも、A=440Hzで音楽を作ったり聴いたり演奏してはいない。
Aの音(ハ長調の「ラ」の音)を440Hzにしようと決めたのは20世紀になってからのことだ。1917年にアメリカの音楽協会がA=440Hzを決めて、その後、1953年にISO(国際標準)が正式にひとつの基準として認定した。
しかし、それ以前の音楽の歴史を遡れば、A=440Hzというチューニングはむしろ異端で、時代によって、また同じ時代でも場所によって、もっと高かったり低かったりした
彼らの時代に演奏されていたオリジナルの音楽をそのまま今聴けば、「固定音感」の人たちはきっと「調律が狂っていて気持ちが悪い」と感じるだろう。
昔は録音機がなかったから、どんな音の高さで演奏されていたかは分からないではないかと言われそうだが、使用されていた調律用の音叉が残っている。
ヘンデルが使った音叉はA=422.5Hzで、ベートーベンの時代にはA=433Hzまで上がったそうだ。
A=422.5Hzというのは、A=440Hzで調律したときのAbが415Hzだから、今ならAとAbの中間あたりの音である。
そう、さっき聴いた学校チャイムの聴音「テスト3」がこれだ。
もう一度聴いてみよう。


ヘンデルはこの音程で調律した楽器を使っていたのだ。この調律で演奏される音楽が気持ち悪いと感じる人は、ヘンデルと一緒に演奏はできないことになる。
現在、バロック音楽の演奏会ではAの音を半音低い415Hz(Ab)に調律することが多いが、それはバロック時代の調律が今より低かったことが分かっているものの、現代の調律の標準であるA=440Hzとの整合性をとるために、A=422.5Hzなどという「中途半端」な調律にはせず、便宜上、Abの高さまで(半音ちょうど)低くしているわけだ。

もうお分かりだと思うが、要するに絶対音感と呼ばれる音感の「絶対性」は、基準点をどこに決めるかで変わってしまうのだ。
その意味で「絶対」音感などは存在しえない。あるとすれば、ある基準音を決めたときの「固定」音感とでも呼ぶべきものだ。

クラシックの名作曲家たちは、おそらくすぐれた相対音感の持ち主であっただろうし、チューニングの基準をどこに決めるかなんてことは、演奏する際の便宜にすぎないということを理解していた。「優れた音感」はあっても、「絶対音感」などという概念はなかったのではなかろうか。
人間音叉になってしまうような固定音感は、決められた調律で与えられた譜面通りに演奏するのには都合がいいかもしれないが、それでは「人間MIDI」ではないか?
メロディを作りだしたり、自由に楽しむためにはむしろ弊害のほうが多いと思われる。

誤解してほしくないが、私は、どんな音感が偉いとか言っているのではない。ただ、固定ド固定音感をつけさせることが音楽のエリートを養成する第一段階のようになってしまったら、それはとても怖いことだと思うのだ。
私にとっての音楽は、「音そのもの」よりも、音同士の相対性の関係(メロディ)に価値(美)を見出す文化だ。
一方で、固定ド固定音感の音楽世界は、音色の美しさや演奏技術の高さに最高価値を置いている世界観、言いかえれば「音そのものの価値観」の世界のような気がするのだが、どうだろうか。
どちらが「偉い」とか「高尚だ」という話ではない。同じ「音楽」といっている文化だが、人によって価値観が違うだけでなく、聞こえ方そのものが違う、という話である。

あなたはどうだろう?
譜面を与えれば、どんなに難しい曲も弾きこなせてしまうが、簡単なメロディの伴奏も譜面なしではできない演奏家と、演奏技術は大したことはないが、耳から入ってきたメロディを自分の好きなキーですぐに再現できるみやぞんタイプ……あなたなら、どちらになりたいだろうか?

軽自動車こそ究極のエコカーである2018/11/07 10:21

「笑点」メンバーの着物の色ってどっかで見たなあと思っていたら……これだった

製造と廃棄の段階での環境負荷

X90を手放した心痛と悔しさから逃れるため、代わりに我が家の一員となった17万円のアルトラパン4WDを目一杯愛す方向に頭を切り換えている。

世の中、ハイブリッドカーや電気自動車が「エコカー」と持ち上げられ、極端な優遇税制を受けたりしている。しかし、今さらいうまでもないことだが、化石燃料や金属資源の節約、環境負荷の軽減という意味では軽自動車こそが真のエコカーである。

自動車が環境に与える負荷は、主に
  1. 製造する段階でどれだけのエネルギー資源や金属などの地下資源(特にレアメタル類)を使ったか
  2. その自動車が走ることでどれだけのエネルギー資源を消費したか
  3. その自動車が走ることでどれだけ環境を汚染し、道路などの公共資産を傷めたか
  4. その自動車を廃棄する段階でどれだけの資源(特に金属)を失い、環境を汚染、破壊したか

ということで計算することになる。
ところが、ハイブリッド車や電気自動車については、上記の2と3しか取り上げられず、1と4の視点がほとんど抜け落ちている。
さらには、作られた自動車でどれだけの仕事ができたか(人力などを節約できたか)もあまり論じられない。

エコカーと呼ばれる車の多くは価格が高く、庶民にとっては高嶺の花だ。実際、所有している人たちはそこそこの所得がある人たちであり、用途もレジャーや買い物などが多い。
一方、公共輸送に使われるバスやトラックなどはもちろん、毎日走り回っている営業車の類、プロパンガスを交換している2トン車やエアコンやボイラーの修理のために回っている軽バン、農家にはなくてはならない軽トラがハイブリッドカーや電気自動車である、という社会にはなっていない。
なぜなら「エコカーは高くつく」からだ。

田舎では必須の軽自動車にも、ハイブリッドや電気自動車はほとんどない。(現時点では、スズキに小規模なハイブリッド車があるだけ)
ハイブリッドは、従来のガソリンエンジンの他に高性能バッテリーとモーターを積んで、走行状況に合わせ、モーターがエンジンをアシストするというものだ。しかし、自動車として究極までに軽量化・高効率化された軽自動車は、エンジン本来の性能を徹底的に効率化させることですでに従来の常識を覆すような高燃費を実現している。それを多少上回る程度の燃費改善のために、モーターやリチウムイオンバッテリーという重くて高価なパーツを軽自動車に組み込むメリットが見出しづらい。
軽自動車のユーザーはもとより経済性最重視だから、通常の(ガソリンエンジンのみの)軽自動車との価格差を燃費の差で埋めることは相当難しいであろうことを理解している。
しかし、軽自動車というのは常に「無理をして」ギリギリの設計をしてきた車だから、最小限のモーターアシスト機構をうまく組み入れられれば、さらに進化する可能性が普通車よりあるかもしれない。スズキはすでにその領域に入ってきたような気もするので、期待もしている。

石油よりもレアメタルが先に枯渇する

ハイブリッドカーや電気自動車でいちばん懸念されるのは、稀少金属を大量に使っていることだ。
初代プリウスにはニッケル水素バッテリーが使われていたが、ニッケルの可採年数(採掘可能な残り年数)は約40年という(経産省「諸外国の資源循環政策に関する基礎調査」より)
現行プリウスには、グレードによってリチウムイオンバッテリーも使われているが、リチウムはチリやアルゼンチンなど、極めて限られた地域に偏在している稀少金属だ。
仮に全世界の自動車保有台数の 50% を環境低負荷自動車(HV + PHV と EV をそれぞれ50% の割合とする)にすると、約790 万 t の金属リチウムが必要ということになる。この金属リチウム量は、次章で示す金属リチウムの推定埋蔵量に迫る量になる。
「リチウム資源の供給と自動車用需要の動向」河本 洋、玉城わかな)

いずれにしても、このまま自動車にモーター駆動用の二次電池を積むことを続けていれば、石油の枯渇よりも金属資源の枯渇のほうが早くなるだろう。石油はまだなんとかあるけれど、ニッケルもリチウムももうなくなりそうなので高性能電池はもう作れません、という時代が来る。わずかに残されたレアメタルの価格は急騰し、さらには争奪で戦争にもなりかねず、燃費向上がどうのという話どころではなくなる。
ハイブリッドや電気自動車万歳という風潮には、こうした現実的な予測がまったく欠けている。
燃料電池車などは論外で、そもそもエネルギー収支の点からやる意味がまったくない。水素エネルギー社会が到来するなどというのは補助金目当ての詐欺PRでしかない。

頻繁に新車に乗り換えることこそ環境破壊

環境負荷を減らしたいなら、自動車を製造する~使う~廃棄するという全課程での資源消費を極力少なくし、環境に有害な物質を極力出させないことだ。
少ないエネルギー、資源で、大きな代替労力を得られる車こそが「エコカー」を名乗っていい。
残念ながら、現時点ではハイブリッド車も電気自動車も「エコカー」とは言い難い。
日本で生まれた軽自動車という規格は、世界に類をみないユニークなものだった。「ガラ軽」と呼んだ人がいたが、まさにそうかもしれない。しかしこれは、極めてよい意味でのガラパゴスだ。
軽自動車は高級車に比べればいろいろな点で快適ではないし非力だが、効率よく仕事をして、環境への負荷も少ないという点では極めて優れている。
田舎暮らしではどうしても車が必要だから、「申し訳ないけれど車を使わせてもらってます。でも、環境負荷は最小限にしたいので、軽自動車、しかも中古車を徹底的に長く乗ります」という生き方がいちばん合理的で社会倫理的だろう。
今回、理由はどうであれ、そういう「軽自動車文化」に仲間入りできたと思い、X90を手放す苦しさを軽減させることにした。
X90も廃車ではなく、ちゃんと次のオーナーが決まっている。この乗り換えで、新しく製造された車が増えたわけではない。すでに製造され、十分に仕事をして元を取ったであろう車が入れ替わるだけだ。

……とまあ、例によってぐだぐだ能書きを垂れながら、15年間連れ添った珍車X90に別れを告げるのであった。

「男前豆腐」と「海老名メロンパン」2018/08/30 14:41

男前豆腐店の「やさしくとろけるケンちゃん」

「波乗りジョニー」は男前豆腐店の商品ではなかった

豆腐にタレを掛けたら「男」の文字が浮かび上がった。男前豆腐店のロゴなのだが、このタイプの豆腐(一人前のボート型の充填豆腐)、少し前までは「波乗りジョニー」という商品名だったと思った。
妻がずいぶん前から男前豆腐店の豆腐は美味しいと言って贔屓にしていたのだが、なぜか最近は全然買わない。単純に高いからかなと思っていたのだが、「波乗りジョニー」は高額な商品ではない。
で、気になったので「男前豆腐」を調べてみたら……かなりビックリするような結論が待っていた。
商品開発に携わった代表取締役社長の伊藤信吾は茨城県の三和豆友食品に在籍時、単価を低く抑えようとする豆腐業界の経営には未来はないとし、単価は高いが品質も高い、と言う方針で商品の開発を開始する。これら商品がヒットを収め、2005年、「男前豆腐店株式会社」を設立。同年9月、倒産した大手豆腐メーカーの京都工場を買い取り、京都府南丹市へ移転する。
(Wikiより)


なるほどなるほど、と思う。
しかし、話はここで終わらなかった。

「男前豆腐」という名前の商品は、男前豆腐店と三和豆水庵(旧・三和豆友食品)で製造されている。また「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」という名前の商品は、三和豆友食品で製造されていた。
これは、男前豆腐店代表取締役社長の伊藤信吾が、実父が経営していた三和豆友食品に勤務していた際に、これらの商品を開発した事による。「ジョニー」とは伊藤信吾の愛称であり、今までにない豆腐を作る思いからこの商品名となった。
その後伊藤は2005年に男前豆腐店株式会社を設立し独立した~(同上)


……という。
要するに、男前豆腐は、現男前豆腐店伊藤信吾社長が、父親が経営していた豆腐製造会社(旧・三和豆友食品)に勤めていたときに考案した名称で、「ジョニー」は伊藤氏の愛称だった。
伊藤氏の独立後もいろいろあって、現在では「波乗りジョニー」を発売している三和豆友食品と、ジョニーの愛称を持つ伊藤社長が経営する男前豆腐店とは何の関係もない
男前豆腐店は三和の「ジョニー」とはっきり区別するためか、自社製品の商品名から「ジョニー」を一掃し、今では「ケンちゃん」シリーズにしている。なんとテーマソングもある。
一方、三和豆友は、男前豆腐の産みの親である伊藤氏が独立していなくなり、伊藤氏の父親も退任している今でも「男前豆腐」という商品名の豆腐を作り、伊藤氏の愛称であった「ジョニー」の名を冠した商品も作っている。実にややこしい。
「男前豆腐」「男前豆腐店」「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」の商標は、男前豆腐店社長個人で登録済みだそうだ。男前豆腐店側は「三和豆友食品株式会社の製造する『男前豆腐』『波乗りジョニー』は、男前豆腐店製造の豆腐とは製造方法、使用原料もまったく異なる」と表明している。

しかしまあ、ここまで調べてスッキリした。
妻があるときから波乗りジョニーを買わなくなったのはなぜなのか……。確かめたところ「明らかに味がおかしい商品があったから」という。
製造過程での瑕疵がある商品だったらしい。以来「男前豆腐」に対する信頼を持てなくなったようだ。一度は評価していた会社なのに……という裏切られ感が大きかった分、ますます買わなくなったのではなかろうか。
しかし「波乗りジョニー」は「男前豆腐店」の豆腐ではなかったのだ。

↑ここに写っているのは男前豆腐店の商品「やさしくとろけるケンちゃん」である。「特濃ケンちゃん」を食べてみたいものだが、残念ながら我が家がよく利用するスーパー「さがみや」には売っていないようだ。(仕入れてくれ~)
ちなみに、「さがみや」には「やさしくとろけるケンちゃん」も「波乗りジョニー」も置いてあるのでややこしい。

「海老名メロンパン」は埼玉で作られていた



先日、圏央道外回り線の厚木PA売店で、「焼きたてメロンパンの48時間売り上げ個数世界一でギネス認定」みたいなPOSが嫌でも目に入るように設置されているコーナーに積み上げてあったメロンパンを1つ買った。
海老名SAのメロンパンのことはどこかで聞いたことがあるような気がしていたので、そのときは単純に、「ああ、これがそうか。ここは海老名ではなく、お隣の厚木PAだけれど、海老名のメロンパンが有名になったので、ここにも持ってきて売っているのか」と思った。230円はいくらなんでもぼりすぎだろと思いつつも、ちょっと迷った末に、試しに……と1個買ってみたのだった。
ビニール袋に入っているのでここで焼いたものではないことは明らかだったが、海老名からここまで運んでくるのに剥き出しでは運びづらいし、衛生上の問題もあるからだろうと思った。しっかり歩けなくなった義母のトイレ休憩で、妻はそちらにかかりきり。そんな状況だったので、裏のラベルをしっかり確かめることもしなかった。

で、このメロンパン、車内で食べることはなく、家に持ち帰って食べたのだが、袋から出した途端に違和感を感じた。
表面はベタッとして、メロンパン特有のサクサク感がまったくない。なんというか、黄色い黴がついて変色した鏡餅のような感じなのだ。
「外はサクサク、中はふわふわしっとり」というのが売りのはずが、逆で、外はベタベタ、中はボソボソ。味もお世辞にもうまいというようなものではなく、人工的な味付け感がたっぷり。
結局、全部食べる気がしなくなり、半分ほどは捨ててしまった。我が家で食べ物を捨てるなどということは滅多にない。よほどまずいか、身体に悪そうだと感じたときのみのことである。
焼き上げてから時間が経っていたから、ということは当然ある。しかし、ラベルに記載されている「消費期限」は明日である。
なぜこれが大人気なのか? もしかして「海老名のメロンパン」人気に便乗した「偽物」なのではないかと思い、一旦ごみ箱に捨てた包装ビニールを拾い上げて裏のラベルを確認すると↓

圏央道厚木PA(外回り)で売られていた「海老名メロンパン」のラベル↑

……なんと、製造しているのは埼玉の工場で、販売者の住所は東京都。しかし、名称はしっかり「海老名メロンパン」となっている。
海老名SAの厨房で焼き上げたメロンパンをここにも運んできて売っていたわけではないのだった。

しかし、海老名で作られていないメロンパンに「海老名メロンパン」と名づけて「ギネスで世界一認定」というPOSをつけて売っていていいのか? そんな商法が許されるのか? 元祖海老名メロンパンから訴えられないのか? と、疑問がどんどん出てきたので、ネット上を検索して少し調べてみたところ、驚くべきことが判明した。
まとめると、

……とまあ、こういうことだったのだ。
だから、「ぽるとがる」ブランドではない「海老名メロンパン」が堂々と「ギネス世界一」というPOSを立てて売られているし、埼玉県の工場で作られて厚木まで運ばれてきても「海老名メロンパン」と名乗れる。
要するに日本中のあちこちで「海老名メロンパン」という名称のメロンパンが大量に作られ、売られている。となると、焼き上げてからの時間や原材料の品質にバラツキが出てくるのは当然だろう。

結果、今では「海老名のメロンパンは有名な下り線のではなく、上り線のほうがうまい」という評もある
海老名SA上り線でメロンパンを売っているのは箱根ベーカリーと成城石井だが、どちらも「箱根メロンパン」「成城石井自家製」として売っており、「海老名商法」ではなく、味と品質でまともな勝負をしているようだ。

そもそも海老名SA下り線「ぽるとがる」のメロンパンが人気になったのは、観光バスのガイドや運転手の休憩所に無料で提供したことがきっかけだという。
同社(西洋フード・コンパスグループ株式会社)が着目したのが「バスガイドの口コミ力」だった。
 バスガイドやバス運転手が集う休憩スペースに海老名メロンパンを試食用に提供した結果、観光バスの車内でバスガイドが「海老名SAの名物はメロンパンです」などとアナウンスするケースが相次ぎ、観光客がメロンパンを求めて、売り場に殺到したという。
 日本の“大動脈”とされる東名高速の海老名SAには、全国から観光客やドライバーが集まっており、その人気ぶりは口コミによって、一気に全国に波及したのだった。
「海老名メロンパン」48時間で2万7503個販売、ギネス認定 産経ニュース 2018/06/19)


これは綾小路きみまろが売れたのと同じ手法。(彼は自分の漫談を入れたカセットテープを高速道路のSAで、観光バスガイドに無料で配りまくった)
しかしまあ、ここまでは一種のサクセスストーリーとして「なるほど」と納得できる。

海老名の「ぽるとがる」で売られているメロンパンも埼玉産だった!

食べ物はあくまでも味と品質が命。特に「おいしいパン屋さん」という言葉に人びとが一般的に抱くイメージは、頑固な職人さんが真面目に研究と努力を重ねてコツコツと売っている街の小さなパン屋さん、とか、田舎の夫婦が作る伝説のパンとか、そういうものだろう。数が売れればいいというものではない。
ギネス記録の名目は「48時間以内で最も多く売れた焼きたて菓子パンの数」というものだ。
そもそも48時間で2万7503個というと、1時間で573個、1分で約10個という計算だ。となると、そんなペースで売れるものが「焼きたて」であるはずもない。この2万7503個全部が海老名SAの「ぽるとがる」の焼き窯で焼かれたのだろうか? はたまた、海老名SA下り線だけの売り上げ数字なのだろうか? ちょっと信じられない。

厚木PAで売られている「海老名メロンパン」を作っている工場をGoogleマップで見てみたら、サンフレッセという巨大な工場だった。公式サイトの企業概要を見ると社員数590名。パートを入れた数なのかどうかは分からないが、とにかく「でっかい工場」だ。工場内の直売所は地元でも大人気で、オープンと同時に行列ができるらしい。きっと、この工場で作られた「焼きたて」のパンは美味しいのだろう。ちなみにここの直売店ではメロンパンは100円とか70円で売られているらしい。多分、大きさは「海老名メロンパン」よりも小振りなのだろうが、もしかしたらそっちは美味しいのかな、とも思った。
しかし、この工場から厚木PAまではおよそ100kmの道のり。おそらく都内の各企業社員食堂や売店などにも配送しているだろうから、もちろん店頭に並んだときは「焼きたて」ではない。真夏の高温多湿下でもなんとかもつようにするためには、いろいろな添加物も加えなければならなくなるだろう。

で、さらにネット検索していくと、なんと!海老名SAの「ぽるとがる」で売られている「海老名メロンパン」も、埼玉の工場で作られたものだということが分かった。
こちらの方のブログには、海老名SAで買った「海老名メロンパン」の写真、レシート、裏のラベルすべての写真がクリアに載せてあって、裏のラベルは、今回僕が厚木PAで買ったものと同じだった。

つまり、海老名SAの「ぽるとがる」で売られている「海老名メロンパン」も、埼玉のサンフレッセ工場で作られたものなのだった。これで「48時間に2万7503個」の謎も解けた。巨大工場で大量に作っておいたものを運んできて売ったのだろう。

……今回この日記を書き始めたときは、厚木PAで売られていた「海老名メロンパン」は、海老名SA下り線の「ぽるとがる」で売られているメロンパンとは違うものだと思っていた。だから、気を使ってラベルにぼかしまで入れていたのだが、このブログの写真こちらのツイッターを見て、そうした配慮も馬鹿馬鹿しくなってきた。
一体「海老名SAのメロンパン」とはなんだったのか? もはや海老名SAは関係なくなってしまって(「どこそこの○○」ではなく)、ヤマザキのランチパックはおいしい、セブンイレブンの冷凍ラーメンはおいしい、という口コミと同じ規模の話なのだと分かった。(実際、セブンイレブンの冷凍ラーメンは美味しいと思う。正しい企業努力の成果だろう)
しかし、真相を知るにつけ、せっかく有名になった「海老名のメロンパン」の商品価値を、なぜこんなことまでして下げてしまうのだろうかと、つくづく不思議に思う。
そして、口コミ、行列、「ギネス」だの「三つ星」だのの情報に弱い日本人ということを、改めて痛烈に考えさせられたのだった。
一言でまとめれば、現代日本の食文化は「貧乏くさくなった」。
自分が暮らす日光には、有名なベーカリーブランドがあって、お土産に買っていく観光客もいるが、直売所で一度買ってみたところ、全然美味しくなかった。しかも高い。
一方、たった一人のパン職人が作る小さなパン屋さんがいろいろあり、どこも美味しい。
正しい食文化を守る個人商店、職人さんたちへの感謝の気持ちが、さらに強まった一件だった。

鹿沼からおばちゃんが運転する移動販売車で日光まで売りに来るパン屋さんのパンにはよくお世話になっている。感謝