さらば阿武隈 ― 2015/01/24 21:25
さらば タヌパック阿武隈
川内村の家と土地を……というより「タヌパック阿武隈」を手放すことになった。理由は「維持できなくなった」から。
3.11後、いろんなものを失い、収入も激減。維持していく余裕がなくなった。
同じ理由で百合ヶ丘の仕事場も手放したわけだが、もう余生が長くないと思うと、身辺整理という意味合いも強い。
12月、1月はそのための後片づけや手続きのために、日光と川内村を何往復もした。暖かい時期だったらよかったのだが、寒いし、雪が降り、道が凍結すれば命がけだし、大変だった。
この土地と建物には、簡単には言い尽くせない思いがある。
2007年10月23日の中越地震で越後の家を一瞬にして失い、気持ちまでぺしゃんこになったまま年を越すのは嫌だと、新天地を探した結果、ここ川内村にすばらしい土地を見つけ、引っ越した。
ずっとここに暮らして、生きること、生き抜くこと、人との関係、自然との関係を考えながら歳を取り、一生を終えるつもりだった。
それが、たかだか(と敢えて言う)原発が爆発したというだけで、いろんなことがぐちゃぐちゃになり、バラバラになり、消えていく。
「あれ」が起きてからもうすぐ4年。
今はもう、怒りとか絶望とかを超えて、なんだか淡々とした、それでいて割り切れないという、不思議な気持ちだ。
↑この部屋のこの机と椅子で『裸のフクシマ』を書いたり『SONGBOOK1』をマスタリングしたりしたんだなあ……。
2015年1月22日。
午前中に本宮市の銀行に行って最終決済と所有権移転手続き。
その後、買い主のSさん、不動産屋さんらと川内村に向かい、最終引き渡し。
低気圧が来て1日中荒れた天気になるということは1週間前から予報されていたので、ずっと心配だった。
東北道が雪でスピードが出せないと本宮まで相当かかるかもしれないので、予定より30分早く家を出た。
幸い、出たときは道にうっすらと雪も積もっていたが、高速に乗ってからはほとんど問題なく走れて、約束の11時よりずっと早く到着した。
東北道は順調だったが、途中、郡山IC付近でピーピーと音がしてぎょっとした。
線量計の警告音だった。日光~矢吹~小野~川内村というルートで今まで何往復もしてきたが、線量計の警告音がしたことは一度もない。
そういえば、郡山市内の不動産屋さんに最初の契約に出向いたときも、市内で一度線量計が鳴ってびっくりした。
郡山はやはり線量が高いという事実を改めて思い知らされる。
それでも町の中では普通にみんな生活していて、今はもう、放射能汚染を話題にすることが完全にタブーになっている感がある。
福島の人たちはみんなそうした事情を分かって、飲み込み、沈黙しながら生活している。その雰囲気や精神状態は分かりすぎるほど分かっているので、僕も今では積極的に公言することはない。
話題にしても、ここで暮らしている人たちには「余計なお世話」「言ったところでどうなるものでもない」ことだし、外から見ている人たちにはさらなる刺激材料になり、一部では情報が加工されて暴走していくだけだからだ。
「フクシマ」の問題は、「福島が……」という話ではない。
放射線量がどうの、という単純な話でもない。
ここにも何度も書いてきたように、「フクシマ」はシステムの問題であり、社会のあり方、人の心のあり方、生き方の問題なのだ。
しかし、現実として郡山市や福島市といった福島県を代表する都市部が今も相当に汚染されていることはしっかり認識しておく必要がある。
認識してほしいが、外から見ている人たちには、非難の矛先を決して間違えてほしくない。「なぜ逃げ出さないのか?」ではなく、まずは自分たちが選んだ政治家や、今も電気料金を払い続けている電力会社が何をしてきたのか、今何をしているのか、していないのかを考えれば、福島に暮らす人たちを責めるようなとんちんかんな論法にはならないはずだ。
で、朝飯は本宮IC手前の安積PAにて。連日、寒さの中で作業したりして身体を酷使していたせいか胃が痛いので、うどんにした。
銀行で契約手続きを無事に終え、それから買い主さん、不動産屋さん、僕と妻が車3台で別々に川内村に移動。
僕らは12時50分頃に到着。
遅れてきたSさんに室内を確認してもらい、水回りなど、いろいろな注意点を伝達。
不動産屋さんと買い主のSさんは先に帰り、僕と妻は運び出しきれなかった荷物をクロネコに渡すために残った。
僕が一人でクロネコを待つ間、妻は奥のきよこさんの様子を見に。
夕方、一人暮らしのきよこさん(80代半ば)の様子を見に通うのが日課だった妻にとって、これがおそらく最後の訪問になる。
ようやくクロネコが来て、最後まで残った12個の段ボールを運び出したので、僕もきよこさんの顔を見に奥に向かった。
原発が爆発したときも、助手さんはきよこさんの様子を見に行っていた。テレビで爆発シーンを見た僕は、恐怖で心臓がバクバクして、息苦しくなりながらこの坂を登って呼びに行った。きよこさんちの玄関を開け、「逃げるぞ!」と言った僕を、みんなは一瞬きょとんとした顔で見ていたっけ。
きよこさんはいつもと同じ場所(玄関を開けるとすぐに目の前)で炬燵に入っていた。
あんたらのようないい人たちが去って行くのは嫌だ、と言う。
「大丈夫。次にくる人はとてもいい人ですから。不在のままの僕らよりずっといいですよ」
と言ったが、笑顔はない。
みぞれ混じりの雨が強くなってきた。暗くなると帰り道が危ない。
「じゃあ、行くね。お元気でね」
別れを告げて雑木林と沢の間の道を下って戻る。
もう、ここを「うち」と呼べなくなってしまった。
7年間。
川内村で暮らした時間。
全村避難になってほぼ空っぽになった村に戻ってきたのは2011年4月の終わり。
あのときは、これだけのことがあったのだから、今度こそこの村を自立した村として建て直すのだ、という意気込みを持っていた。友人たちもみんな同じ気持ちだったと思う。
しかし、そうはならなかった。
関守・じゅんこさん夫妻は北海道へ、しょうかん・愛ちゃん一家は岡山へ、みれっとのよーすけさん・けーこさん夫妻は長野へ、小塚さん夫妻、出戸さん夫妻は佐渡へ、佐藤こーちょーは三島へ、ブッチ・りくさん夫妻は山形へ、そして僕らは日光へ……友人たちはみんな散り散りになってしまった。
毎日一緒に散歩したお隣のジョンもいない。ジョンは「被災犬」として間違って捕獲されてしまったが、今は所沢で幸せに暮らしているはずだ。
雪道を滑りながら車を出す。下のけんちゃんの家に寄って最後の挨拶。
「せっかく親しくなったのに、いなくなるのは嫌だねえ。また来たときは寄らっしぃ」
きよこさんと同じことをけんちゃんの母親・ふさこさんも言った。
「お元気で」
ふさこさんに、きよこさんに言ったのと同じ言葉をかける。
精一杯の笑顔で言ったけれど、多分、もう会えない。
お互い分かっている。
「これ、お菓子です」
と、妻が菓子折を渡す。これが最後の菓子折。
言い尽くせない思いが頭の中を巡る。
阿武隈……50代になって「これだ」という思いがあった。
阿武隈に呼ばれたのだと思った。阿武隈で余生を過ごし、死ぬのだと決めた。その「阿武隈」というキーワードが、どんどんフェイドアウトしていく。
悔しいというよりは、脱力……だろうか。あまりにいろんなことがあって、今はうまく言葉が紡げない。
きよこさんもふさこさんもけんちゃんもしょーたろーさんも、ここにいる人たちはみんな、それぞれに生きている。精一杯。
なにが正しいとか、間違っているとか、もう、そんなことはどうでもいいという気持ちになる。
だって、みんな、それぞれに精一杯生きているんだもの。
力尽きて死んでしまった人たちもいっぱいいる。「BSを見たい」というので僕がBSアンテナをつけてあげたまさときさんはじめ、近所の老人たち。死屍累々。
「あれ」がなければ、多分今も生きていただろう。昨日と同じ今日を生きて、笑っていただろう。
みんな生きがいを失い、たちまち身体を壊して、あっという間に死んでしまった。
ばあさんたちよりじいさんたちのほうが変化についていけず、弱かった。
でも、そういうことも含めて、人生であり、運命であり、この「世界」の現実なのだ。
「あれ」は、人間だけでなく、阿武隈に棲むあらゆる生き物をも巻き添えにした。
今年もマツモ池、雨池、土手池、弁天池の上の枝に、モリアオガエルは卵を産むのだろうか。
僕はもう確かめられない。
Sさん。あとはお願いしますね。
池の水、絶やさないようにしてくださいね。
5年かかったのよね。「モリアオガエル同棲計画」
結局、モリアオガエルと一緒には暮らせなかった。
Sさんの家は浜通りの「帰還困難区域」にある。
今も家の周りは7μSv/hくらいあるという。
0.7 じゃなくて、7。
もう、無理だよね。生きているうちに帰るのは。
それでもSさんは、自警団みたいなのに入って、今も100km近い距離を走り、自分が生まれ育った町に通う。誰もいなくなった町の保安のために。
「(帰れないと思っても)やっぱり故郷は捨てられませんか?」
と、恐る恐る訊いてみた。
柔和なSさんの顔がたちまちくもり、少し押し殺すような声でこう答えた。
「だって、爪に火を点すような思いをしながら、ようやくあそこまでこぎつけたんだから……。それが全部……」
Sさんは個人商店主だ。お店兼自宅の様子をGoogleのストリートビューで見た。シャッターが下りたままの建物はまだ新しいように見える。でも周囲に人影はまったくない。
ゴーストタウンになってしまった故郷、そして生きているうちには戻れそうもない我が家。
Sさんは「福島県もりの案内人」「日本自然保護協会自然観察指導員」などの肩書きを持っている。風貌は熊オヤジというかマタギというか……いかついが、人なつこい笑顔が素敵な人だ。
僕が作った「阿武隈カエル図鑑」を家の中に残しておいた。
カエルたちのことがいちばん心配だったので「できることなら池はつぶさないでください」とお願いしたら、「楽しませてもらいます」と笑顔で答えてくださった。
この地にはきっと、雑木林とカエルの神様が住んでいるんだろう。その神様に僕らが呼ばれた。そして、今度はSさんが呼ばれたんだと思う。
Sさん、ここを買ってくださってありがとうございます。
カエルたちをよろしくお願いします。
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