元旦『朝生』──本当はこういうことを話し合いたかったのに…… ― 2012/01/04 22:23
元旦『朝生』──本当はこういうことを話し合いたかったのに……
大晦日深夜(元日未明)の『朝まで生テレビ』に出演してほしいという依頼があったのは12月15日頃だっただろうか。
真冬の「狛犬見学会」(12月11日、白河市東野出島地域活性化プロジェクト主催)も無事に終わり、これで少し落ち着いて年末年始の準備にとりかかれるかなと思っていたときだった。
あの番組はもう何年も見たことがない。話がこれから、というときに司会進行役が邪魔をしたり遮ったりトンチンカンな質問を浴びせたりして、議論がきちんと進まないシーンが多く、見る気がしなくなっていた。
ましてや年が明け、静かに厳かに新年を迎えたい時間帯に見ようとは思わない。
しかし、『裸のフクシマ』のあとがきにも書いたが、僕の人生、というかものの考え方、価値観を一大転換させるきっかけとなったのがこの番組だった。
20年以上前、この番組で原発の是非を論じた回が2回あった。そこで、「では、反対している人は代替案を持っているのか?」という進行役からの問いに対して、反対派の論客として出ていた槌田敦氏(物理学者、当時は理化学研究所)や室田武氏(経済学者、当時は一橋大学教授)は苦汁に満ちた表情で「そういう問題じゃない」というような歯切れの悪い答えをした。それを見て、これはなんなんだろうと、心に引っかかるものがあった。
代替案がないまま反対しているという単純な話ではなさそうだな、と感じて、とりあえず彼らの著書を買い求めて読んでみた。
『資源物理学入門』(槌田敦、NHKブックス、1982年)と『エネルギーとエントロピーの経済学』(室田武、東洋経済新報社、1979年)。
そうか、そういうことだったのか!
目から鱗が落ちるとはこういうことを言うのかと思うほどの衝撃を受けた。
エネルギー問題というのは、ここから出発しなければ論じられないのだ。それを踏まえて語ろうとしている人たちに、進行役も推進派も「原発は是か非か」「原発がなければ困るのだから、代案のない反対は無責任だ」という戦法で押しまくっていただけ。その馬鹿馬鹿しさにつき合わされた虚しさがあの苦汁に満ちた表情だったのだなと、よく分かった。
あれから四半世紀の時間が流れた。
原発がどうしようもないことは分かっていたが、あまりにも巨額の税金が注ぎ込まれ、巨大な利権構造ががっちり構築され、多くの人は考えることも面倒になっていった。
いつか破綻することは分かっているが、決定的な破綻が目に見えるようになって人々が後悔するのは、自分が死んだ後ではないか。僕自身、そう思うようになっていた。
まさか、原発の運営現場までもがあそこまで慢心し、堕落しきっていたとは……。
そして、今度は僕があの番組に呼ばれた。
今の僕は当時の槌田敦氏や室田武氏と同じ年代になっている。
遠路はるばる会いに来てくださったプロデューサーは、僕と同学年だった。
これが皮肉な運命というなら、受け入れるしかない。
そう思って出演依頼を受けたのだが、四半世紀前の番組よりはるかにひどい内容になってしまい、今は虚しさだけを感じている。
反省をこめて、ここに「最低でもこれだけは言っておきたかった」ことをまとめておきたい。
(⇒次へ)
「元の福島に戻す」ではダメ ― 2012/01/04 22:27
■元旦『朝生』──本当はこういうことを話し合いたかったのに…… (2)
(←承前)
1)福島県民は今……実情、問題点、要望……
2)原発事故と放射能問題
帰宅問題(時期、問題点)、風評被害問題(実態、対策、問題点)、除染問題(汚染実態と現場実情、国・県行政の問題点)、被曝と健康(新基準値、内部被曝と発癌率、これからどうなるか)、廃炉工程と事故収束宣言、補償・賠償問題
3)事故調査・検証委員会中間発表への感想と見解
4)どうする? エネルギー政策
民主党政権の本音とは? 再生エネルギーで代替可能か? 送発電分離のメリット、デメリット、省エネの可能性
5)再び福島県民の声
……となっていた。
本番ではこれの何一つまともに討論できなかったのは、ご覧になっていたかたはお分かりの通り。
このままではあまりにも気持ち悪いので、最低限、言いたかったことだけ、この「討論案」に沿ってまとめてみたい。
●福島から発信する意味
実は、本番前にプロデューサー氏が困った表情で控え室に入ってきた。
番組の飾り付けディスプレイに「フクシマ」とカタカナで書いたことに対して、怒っている人がいるという。
それを聞いてかどうか、本番開始早々、石原洋三郎議員(民主党)が、福島をカタカナで表記するということ自体がすでに偏見の現れだというようなことを言い始めた。
その発言に僕がちょっと切れて「そういう情緒的なレベルの話をしている場合じゃない」というようなことを口走ったら、後でまた「そういう情緒的な話じゃないとか言っている人がいたが……」と、ギャラリーの中から非難された。
僕が言いたかったのは、被害者意識を剥き出しにするだけで、自分たちから何かを冷静に明示していく姿勢がないとしたら、そのことが問題なのだ、ということ。
それと、福島選出の与党議員がここに出てくるなら、党の方針がどうであれ、自分は福島のために戦い、おかしいことにははっきりと異を唱えるくらいの気概を見せてほしい。
ところが、そういう姿勢はまったく見られず、党や政府の既定路線を繰り返し口にしているだけ。姑息にも冒頭からカタカナ表記で云々などと言い出してくる。その程度の気構えなら出てくる意味がない。顔を売りたいだけなのか! そう叱咤したかったわけだ。
しかも、この議員はあらゆる事柄について、極めて基本的な知識さえ持ち合わせていないことがあちこちにうかがえた。
例えば、石原議員は、12月6日に文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会(能見善久会長)がまとめた「警戒区域、計画的避難区域などを除く福島県の23市町村を対象に全住民に1人あたり8万円、妊婦と18歳以下の子どもに1人あたり40万円」の賠償金を支払うという方針を、まるで「政府も一生懸命追加支援をしている」と言いたいかのように持ち出していたが、これがどれだけふざけた内容か、福島選出の議員がクレームをつけないとは何事か。(この問題については⇒こちらを参照)
福島の人たちは、3.11以降、ただでさえ問題をたくさん抱えて疲弊しているのに、政府や県の対応のまずさで、さらに追い打ちをかけるようにぐちゃぐちゃにされている。
そこまで言及できずに、ただ、「大変なんですよ」で終わったら、福島の人を集め、福島から放送している意味がない。
福島の実情を福島の人たちがしっかり伝えるためにわざわざ福島放送の小さなスタジオに集まったのではなかったのか?
それなのに、基本的なことも分かっていない人たちがパネリストとして呼ばれていた。会場から「そんな話は本屋やネットでもっとマシな情報がいくらでも入手できる」という声が上がったのも当然だった。
また、福島に暮らす人たちの側からも、ただの被害者アピールではなく、本当の問題はどこにあって、自分たちはそれに対してどう向き合う覚悟ができていて、そのためには具体的にこうこうこうした金の使い方や法令の整備をしてほしいという要求をつきつけていかなければならない。
大変な目にあっているのに放っておかれている。なんとかしてくれ。……と言うだけでは、権力側の思うつぼだ。
「元の福島に戻してほしい」という言葉をよく聞くが、そんなことは無理なのだ。
また、これがいちばん重要なことだが「元の福島」に戻ってしまってはいけないのだ。
原発に代表される国策事業にぶら下がり、まともな頭で考えることをやめてしまったからこうなってしまった。以前の福島に戻ってしまったらどうしようもない。同じ過ちを、マイナスから再生産するという悲惨なことになる。
福島は土地としては素晴らしい場所で、今まで、でたらめをやって土地を破壊してきても、まだ残っている環境が福島の土地としての魅力を最低限保ってくれていた。
しかし、この「すばらしい自然環境」という最大の宝物を汚された以上、福島を再生させるためには、間違いを徹底的に修正してから再出発しなければいけない。そうでなければ、破壊された上に、さらなる破壊を加速させるだけだ。
行政を筆頭に、その覚悟ができるかどうか。そこがいちばん問われている。
●帰宅問題
今、20km圏内は入ってはいけないことになっている。
しかし、この20km圏内に残って暮らしている人たちが何人かいる。
一人で残って、見捨てられた犬や猫の世話をしている男性。痴呆の妻を抱えて、ここで静かに暮らしていきたいと訴える老学者。
まずは、20km圏内でも汚染が比較的低くて済んだ場所を切り捨てるのかどうか(現状では切り捨てられている)を考えなければいけない。
切り捨てるのであれば、そこに今残って暮らしている人たちを法的に罰するのかどうか。
見て見ぬ振りをするのか。
犬猫レスキューなどの活動を保証し、公的支援もすることは考えないのか……現在進行形の問題がいくつもある。
「復活のコメ」として有名になった川内村の秋元美誉さんは、国からの作付け禁止命令に従わずに、「自分で確かめたい」として、田圃1枚だけ作付けをした。そこで収穫した米は全量廃棄させられ、彼が自分の手で民間検査機関に持ち込みたいという願いは断たれた。
彼はこの時点で犯罪者であって、罰せられる運命にある。昨年8月に改正・追加された農水省省令に違反したことで、10万円以下の罰金なのである。さすがにそういう結末にはしたくなかった村が、県とも相談して、「ここはひとつ、調査は我々がやるから、最初からあなたに調査のための作付けを依頼した、ということにしてほしい」という和解案を出し、秋元さんもそれを呑んだのだ。
ちなみに秋元さんの田圃で穫れた米からはセシウムは検出されなかった。
彼が国からの命令に反して作付けしなければ、川内村で今年栽培した米が汚染されているかどうかというデータはまったく入手できなかったのだ。
この話だけでもちゃんとしていきたかったが、残念ながら「面白い話だとは思うけど……」と遮られてしまった。
面白い話? このへんでさすがに徐々にぶち切れ始めた。
30km圏で汚染が低い場所(川内村、広野町、南相馬市の海岸沿いなど)は、すでに緊急時避難準備区域指定が解除されているが、自治体によって対応がまるで違う。
南相馬市は必死になって生活が正常化できるように努力している。
川内村や広野町は逆で、解除されても帰りたくない、補償問題が先だ、という姿勢。
役場が戻って来ない村で、人々は普通に暮らし始めている。電気は最初から止まらなかったし、ネットも郵便も宅急便も4月から動いている。だからこそ僕も生活ができた。
村でいつも通り生活し、『裸のフクシマ』を書き上げる間、特に大きな障害はなかった。
ところが、村に戻って商売を再開した人が「何を勝手なことをやっているのか」と後ろ指をさされるという状況が生まれている。「みんなでじっと動かずに死んだふり作戦をしているときに、勝手なことをして統制を乱すな」というわけだ。戦時中の○○統制と同じだ。
それがおかしなことだと気がつかないほどに「上からの命令には従うのがあたりまえ」「他の人と違うことをしてはいけない」という空気が、浜通りの原発立地、あるいは隣接エリアの人たちの間にはもともとあったようだ。
それが「元の福島」なのであれば、元の福島に戻してはいけない、というのが僕の主張だ。
●外部被曝の数値論はもういい
未だに年間何ミリシーベルトまであびても大丈夫だのなんだのという議論をしていることが情けない。
これはもともと、身体の外からあびるガンマ線の量のことだ。
放射線技師など、「放射線管理区域」で働く人たちが年間10ミリシーベルトまでというのは、エックス線装置から漏洩する放射線などで被曝する可能性を言っているのであって、放射性物質が空中に漂っていたり壁や床に付着している部屋で働いているわけではない。
今の日本で、我々があびている放射線というのは、原発から飛び散った放射性物質から発せられる放射線をあびているわけで、原因物質(放射性物質そのもの)がそこかしこに付着したり浮遊したりしている環境なのだ。
これをエックス線検査や飛行機で太平洋を横断するときにあびる放射線量と一緒にして比較すること自体ナンセンスだということくらい、誰でも分かるだろうに、なぜ「専門家」までもが未だに真面目な顔で「年間○ミリシーベルト」を論じているのか。
年間10ミリシーベルトが完全に外からの被曝であれば、はっきり言ってもうどうでもいい。
怖いのは、年間10ミリシーベルトの放射線量を出す放射性物質がそこかしこに散らばっていて、それを何かの拍子に身体に取り込んでしまうかもしれないという可能性のほうなのだ。
当初、ヨウ素は甲状腺に、セシウムは筋肉に、ストロンチウムは骨に溜まりやすいというようなことが言われていた。しかし、どうもそう単純なものではないらしい。
誰もが認めているのは、チェルノブイリ後、子供の甲状腺癌は増えたということ。
甲状腺に溜まるのはヨウ素だけでセシウムは溜まらないとか、溜まったとしてもセシウムでは甲状腺癌は引き起こされないということを言う人もいるが、そんなことをどうして断定できるのだろうか。
結局は「分からない」ということではないか。
直観的に言えば、
ということだ。
もうひとつ重要なのは、ベータ線を出すストロンチウムやアルファ線を出すプルトニウムが体内に入った場合、ホールボディカウンターでも検出できないから、どうやったところで「分からない」ということ。
ストロンチウムやプルトニウムがどれだけ散らばっているのか、お上は正確なデータをなかなか出してこない。
だからこそ、我々はいろいろ工夫をして、内部被曝の可能性をとことん低くしていかなければならない。
例えば、セシウムがべったりはりついて、ちょっとやそっとじゃ剥がれないようなコンクリート建造物の中で生活して年間10ミリシーベルト被曝しますよ、という環境と、
空間線量を見ると年間3ミリシーベルトかそこいらだけれど、放射性物質は土や砂の上に広く浅く散らばっていて、そこで毎日土埃、砂埃を巻き上げながら作業しなければいけない環境があるとする。
どっちかを選ばなければならないとしたら、僕は迷わず前者を選ぶ。
前者の環境というのは、いわば、放射線管理区域のようなもので、被曝はしても、放射性物質が体内に入る心配はほとんどない。後者は内部被曝の原因と毎日つき合わなければならない。どっちが怖いことか。
『朝生』では、こういう話をぜひ「専門家」にぶつけてみたかった。
ところが、元原子力委員会の委員が、「放射能の半減期というのは身体の中に入ると短くなるんですね」というようなことを口走る。まさか、この人は「生物学的半減期」という言葉を勘違いしているのでは? と、ぎょっとさせられた。
生物学的半減期の「半減期」というのは、単純に尿や汗に混じって身体の外に出て行くことで体内被曝が減っていくということであって、放射性物質そのものの半減期はどこにあっても変わらない。
言い換えれば、身体に取り込まれた放射性物質は少しずつ身体の外に排出されるが「生物学的半減期」という言葉があるくらいで、完全に出きってしまうことは難しい。付着した部位によっても排出されやすさは大きく違う。プルトニウムが肺の中にペタッと貼り付いて動かないというような状況は、なかなか大変なことらしい。
学者が相変わらず数字を並べ、原子力ムラでお金を得てきた人が未だに不勉強なまま、なんの反省もなくテレビに出てくることに、改めて驚かされた。
「元の福島」に戻してしまってはいけない
今回の『朝生』、一応討論案としては、1)福島県民は今……実情、問題点、要望……
2)原発事故と放射能問題
帰宅問題(時期、問題点)、風評被害問題(実態、対策、問題点)、除染問題(汚染実態と現場実情、国・県行政の問題点)、被曝と健康(新基準値、内部被曝と発癌率、これからどうなるか)、廃炉工程と事故収束宣言、補償・賠償問題
3)事故調査・検証委員会中間発表への感想と見解
4)どうする? エネルギー政策
民主党政権の本音とは? 再生エネルギーで代替可能か? 送発電分離のメリット、デメリット、省エネの可能性
5)再び福島県民の声
……となっていた。
本番ではこれの何一つまともに討論できなかったのは、ご覧になっていたかたはお分かりの通り。
このままではあまりにも気持ち悪いので、最低限、言いたかったことだけ、この「討論案」に沿ってまとめてみたい。
●福島から発信する意味
実は、本番前にプロデューサー氏が困った表情で控え室に入ってきた。
番組の飾り付けディスプレイに「フクシマ」とカタカナで書いたことに対して、怒っている人がいるという。
それを聞いてかどうか、本番開始早々、石原洋三郎議員(民主党)が、福島をカタカナで表記するということ自体がすでに偏見の現れだというようなことを言い始めた。
その発言に僕がちょっと切れて「そういう情緒的なレベルの話をしている場合じゃない」というようなことを口走ったら、後でまた「そういう情緒的な話じゃないとか言っている人がいたが……」と、ギャラリーの中から非難された。
僕が言いたかったのは、被害者意識を剥き出しにするだけで、自分たちから何かを冷静に明示していく姿勢がないとしたら、そのことが問題なのだ、ということ。
それと、福島選出の与党議員がここに出てくるなら、党の方針がどうであれ、自分は福島のために戦い、おかしいことにははっきりと異を唱えるくらいの気概を見せてほしい。
ところが、そういう姿勢はまったく見られず、党や政府の既定路線を繰り返し口にしているだけ。姑息にも冒頭からカタカナ表記で云々などと言い出してくる。その程度の気構えなら出てくる意味がない。顔を売りたいだけなのか! そう叱咤したかったわけだ。
しかも、この議員はあらゆる事柄について、極めて基本的な知識さえ持ち合わせていないことがあちこちにうかがえた。
例えば、石原議員は、12月6日に文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会(能見善久会長)がまとめた「警戒区域、計画的避難区域などを除く福島県の23市町村を対象に全住民に1人あたり8万円、妊婦と18歳以下の子どもに1人あたり40万円」の賠償金を支払うという方針を、まるで「政府も一生懸命追加支援をしている」と言いたいかのように持ち出していたが、これがどれだけふざけた内容か、福島選出の議員がクレームをつけないとは何事か。(この問題については⇒こちらを参照)
福島の人たちは、3.11以降、ただでさえ問題をたくさん抱えて疲弊しているのに、政府や県の対応のまずさで、さらに追い打ちをかけるようにぐちゃぐちゃにされている。
そこまで言及できずに、ただ、「大変なんですよ」で終わったら、福島の人を集め、福島から放送している意味がない。
福島の実情を福島の人たちがしっかり伝えるためにわざわざ福島放送の小さなスタジオに集まったのではなかったのか?
それなのに、基本的なことも分かっていない人たちがパネリストとして呼ばれていた。会場から「そんな話は本屋やネットでもっとマシな情報がいくらでも入手できる」という声が上がったのも当然だった。
また、福島に暮らす人たちの側からも、ただの被害者アピールではなく、本当の問題はどこにあって、自分たちはそれに対してどう向き合う覚悟ができていて、そのためには具体的にこうこうこうした金の使い方や法令の整備をしてほしいという要求をつきつけていかなければならない。
大変な目にあっているのに放っておかれている。なんとかしてくれ。……と言うだけでは、権力側の思うつぼだ。
「元の福島に戻してほしい」という言葉をよく聞くが、そんなことは無理なのだ。
また、これがいちばん重要なことだが「元の福島」に戻ってしまってはいけないのだ。
原発に代表される国策事業にぶら下がり、まともな頭で考えることをやめてしまったからこうなってしまった。以前の福島に戻ってしまったらどうしようもない。同じ過ちを、マイナスから再生産するという悲惨なことになる。
福島は土地としては素晴らしい場所で、今まで、でたらめをやって土地を破壊してきても、まだ残っている環境が福島の土地としての魅力を最低限保ってくれていた。
しかし、この「すばらしい自然環境」という最大の宝物を汚された以上、福島を再生させるためには、間違いを徹底的に修正してから再出発しなければいけない。そうでなければ、破壊された上に、さらなる破壊を加速させるだけだ。
行政を筆頭に、その覚悟ができるかどうか。そこがいちばん問われている。
●帰宅問題
今、20km圏内は入ってはいけないことになっている。
しかし、この20km圏内に残って暮らしている人たちが何人かいる。
一人で残って、見捨てられた犬や猫の世話をしている男性。痴呆の妻を抱えて、ここで静かに暮らしていきたいと訴える老学者。
まずは、20km圏内でも汚染が比較的低くて済んだ場所を切り捨てるのかどうか(現状では切り捨てられている)を考えなければいけない。
切り捨てるのであれば、そこに今残って暮らしている人たちを法的に罰するのかどうか。
見て見ぬ振りをするのか。
犬猫レスキューなどの活動を保証し、公的支援もすることは考えないのか……現在進行形の問題がいくつもある。
「復活のコメ」として有名になった川内村の秋元美誉さんは、国からの作付け禁止命令に従わずに、「自分で確かめたい」として、田圃1枚だけ作付けをした。そこで収穫した米は全量廃棄させられ、彼が自分の手で民間検査機関に持ち込みたいという願いは断たれた。
彼はこの時点で犯罪者であって、罰せられる運命にある。昨年8月に改正・追加された農水省省令に違反したことで、10万円以下の罰金なのである。さすがにそういう結末にはしたくなかった村が、県とも相談して、「ここはひとつ、調査は我々がやるから、最初からあなたに調査のための作付けを依頼した、ということにしてほしい」という和解案を出し、秋元さんもそれを呑んだのだ。
ちなみに秋元さんの田圃で穫れた米からはセシウムは検出されなかった。
彼が国からの命令に反して作付けしなければ、川内村で今年栽培した米が汚染されているかどうかというデータはまったく入手できなかったのだ。
この話だけでもちゃんとしていきたかったが、残念ながら「面白い話だとは思うけど……」と遮られてしまった。
面白い話? このへんでさすがに徐々にぶち切れ始めた。
30km圏で汚染が低い場所(川内村、広野町、南相馬市の海岸沿いなど)は、すでに緊急時避難準備区域指定が解除されているが、自治体によって対応がまるで違う。
南相馬市は必死になって生活が正常化できるように努力している。
川内村や広野町は逆で、解除されても帰りたくない、補償問題が先だ、という姿勢。
役場が戻って来ない村で、人々は普通に暮らし始めている。電気は最初から止まらなかったし、ネットも郵便も宅急便も4月から動いている。だからこそ僕も生活ができた。
村でいつも通り生活し、『裸のフクシマ』を書き上げる間、特に大きな障害はなかった。
ところが、村に戻って商売を再開した人が「何を勝手なことをやっているのか」と後ろ指をさされるという状況が生まれている。「みんなでじっと動かずに死んだふり作戦をしているときに、勝手なことをして統制を乱すな」というわけだ。戦時中の○○統制と同じだ。
それがおかしなことだと気がつかないほどに「上からの命令には従うのがあたりまえ」「他の人と違うことをしてはいけない」という空気が、浜通りの原発立地、あるいは隣接エリアの人たちの間にはもともとあったようだ。
それが「元の福島」なのであれば、元の福島に戻してはいけない、というのが僕の主張だ。
●外部被曝の数値論はもういい
未だに年間何ミリシーベルトまであびても大丈夫だのなんだのという議論をしていることが情けない。
これはもともと、身体の外からあびるガンマ線の量のことだ。
放射線技師など、「放射線管理区域」で働く人たちが年間10ミリシーベルトまでというのは、エックス線装置から漏洩する放射線などで被曝する可能性を言っているのであって、放射性物質が空中に漂っていたり壁や床に付着している部屋で働いているわけではない。
今の日本で、我々があびている放射線というのは、原発から飛び散った放射性物質から発せられる放射線をあびているわけで、原因物質(放射性物質そのもの)がそこかしこに付着したり浮遊したりしている環境なのだ。
これをエックス線検査や飛行機で太平洋を横断するときにあびる放射線量と一緒にして比較すること自体ナンセンスだということくらい、誰でも分かるだろうに、なぜ「専門家」までもが未だに真面目な顔で「年間○ミリシーベルト」を論じているのか。
年間10ミリシーベルトが完全に外からの被曝であれば、はっきり言ってもうどうでもいい。
怖いのは、年間10ミリシーベルトの放射線量を出す放射性物質がそこかしこに散らばっていて、それを何かの拍子に身体に取り込んでしまうかもしれないという可能性のほうなのだ。
当初、ヨウ素は甲状腺に、セシウムは筋肉に、ストロンチウムは骨に溜まりやすいというようなことが言われていた。しかし、どうもそう単純なものではないらしい。
誰もが認めているのは、チェルノブイリ後、子供の甲状腺癌は増えたということ。
甲状腺に溜まるのはヨウ素だけでセシウムは溜まらないとか、溜まったとしてもセシウムでは甲状腺癌は引き起こされないということを言う人もいるが、そんなことをどうして断定できるのだろうか。
結局は「分からない」ということではないか。
直観的に言えば、
- セシウムも十分に恐れるべきである
- 癌や白血病だけでなく、心筋梗塞や抵抗力の低下、免疫機能の低下などに関係している可能性がある
ということだ。
もうひとつ重要なのは、ベータ線を出すストロンチウムやアルファ線を出すプルトニウムが体内に入った場合、ホールボディカウンターでも検出できないから、どうやったところで「分からない」ということ。
ストロンチウムやプルトニウムがどれだけ散らばっているのか、お上は正確なデータをなかなか出してこない。
だからこそ、我々はいろいろ工夫をして、内部被曝の可能性をとことん低くしていかなければならない。
例えば、セシウムがべったりはりついて、ちょっとやそっとじゃ剥がれないようなコンクリート建造物の中で生活して年間10ミリシーベルト被曝しますよ、という環境と、
空間線量を見ると年間3ミリシーベルトかそこいらだけれど、放射性物質は土や砂の上に広く浅く散らばっていて、そこで毎日土埃、砂埃を巻き上げながら作業しなければいけない環境があるとする。
どっちかを選ばなければならないとしたら、僕は迷わず前者を選ぶ。
前者の環境というのは、いわば、放射線管理区域のようなもので、被曝はしても、放射性物質が体内に入る心配はほとんどない。後者は内部被曝の原因と毎日つき合わなければならない。どっちが怖いことか。
『朝生』では、こういう話をぜひ「専門家」にぶつけてみたかった。
ところが、元原子力委員会の委員が、「放射能の半減期というのは身体の中に入ると短くなるんですね」というようなことを口走る。まさか、この人は「生物学的半減期」という言葉を勘違いしているのでは? と、ぎょっとさせられた。
生物学的半減期の「半減期」というのは、単純に尿や汗に混じって身体の外に出て行くことで体内被曝が減っていくということであって、放射性物質そのものの半減期はどこにあっても変わらない。
言い換えれば、身体に取り込まれた放射性物質は少しずつ身体の外に排出されるが「生物学的半減期」という言葉があるくらいで、完全に出きってしまうことは難しい。付着した部位によっても排出されやすさは大きく違う。プルトニウムが肺の中にペタッと貼り付いて動かないというような状況は、なかなか大変なことらしい。
学者が相変わらず数字を並べ、原子力ムラでお金を得てきた人が未だに不勉強なまま、なんの反省もなくテレビに出てくることに、改めて驚かされた。
代替エネルギーなどというものはない ― 2012/01/04 22:29
■元旦『朝生』──本当はこういうことを話し合いたかったのに…… (3)
(←承前)
「代替エネルギー」なんてものはない
討論の最後には、今後のエネルギー政策をどうするのかというテーマが予定されていた。
これはものすごくストレスを感じるテーマで、この番組では到底まともには議論できないだろうと思っていた。
討論案にはこう書かれている。
それぞれに対する僕なりの見解を書いてみる。
「民主党政権のホンネ」なんてものはない。
なぜなら政党構成員があまりにも未熟で、エネルギー問題に対応できる力がないからだ。
これは自民党も同じなのだが、自民党には民主党よりも利権屋が圧倒的に多く、エネルギーコストとか環境負荷なんかどうでもいいから、儲かるような仕組みを作っていこう、という輩が主導権を握っていた。
民主党はトップにそれだけの悪知恵さえない。だから簡単に騙され、CO2大幅削減とか、「再生可能エネルギー」高額全量買い取りだとか、亡国の政策を正義の御旗のもとに振りかざし、その後、事実が少しずつ分かってきても引っ込みがつかなくなり、ぐずぐずになる。
政治家がどのくらい程度が低いかという例として、『裸のフクシマ』では、昨年5月末に結成された(正確にはずいぶん昔に話が持ち上がったままになっていたグループが「再結成」したということらしい)「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」のメンバーというのをここに記しておく。
たちあがれ日本:
平沼赳夫(会長)、中山恭子
自民党:
谷垣禎一、安倍晋三、山本有二、森喜朗(以上顧問)、山本拓(事務局長)、塩崎恭久、高市早苗
民主党:
鳩山由紀夫、渡部恒三、羽田孜、石井一(以上顧問)
国民新党:
亀井静香(顧問)
よ~く名前を覚えておこう。この人たちは未だに、原発は地下に作れば安全だなどというとぼけたことを真面目に主張しているのである。驚くべき話ではないか。
「今回の福島第一原発の1?4号機の事故ですが、仮に地下に立地していたのなら、地震には絶対強いです。そして、津波も取水口を封鎖してしまえばいいので、問題ありません。仮に地下でメルトスルーが起きても、中に(放射性物質を)閉じ込めることができるので、外には漏れません。それで、ロボットを使って作業をすると。そうすれば、今の福島のように宇宙服を着た作業員が、危険な作業をするということを避けることができます」(山本拓・自民党衆院議員 福井選出)
こういう人たちが日本の政治を動かしているのだ。
ちなみにこの会が昨年7月7日に開いた第二回の勉強会では、会場を震撼させるようなシーンがあったという。
// 会場の空気が凍りついたのは、「原子炉等が想定外の破損事故を起こしても、原子力施設周辺住民に放射線による被害を及ぼさない地下式原子力発電所について」と題して講演した京都大学名誉教授の大西有三氏(地盤工学)が質問を受けた時のことだ。参加議員に国際社会で「核燃料サイクルはどう変わっているか」と問われた際、「核燃料サイクルと言いますと?」と聞き返したのだ。質問議員が慌てて「プルトニウムを取り出してもう一度使うシステム」だと逆に答えると、「私はちょっとあの……我々がやっているのは一番最後に再処理して残った、これ以上は使えない処理です」という珍問答となった。(「核燃料サイクルを知らない専門家 地下原発議連、2回目の勉強会」 週刊金曜日7月15日号 まさのあつこ氏の記事より)//
お笑い作家でもこんな間抜けなやりとりは考えつかない。
……これが政治家の実態だ。
彼らにエネルギー問題を考える能力などあるはずがない。
次に言いたいのは、再生(可能)エネルギーなどというものは存在しないということだ。
エネルギーの総和は一定だし(質量保存の法則~熱力学第1法則)、エネルギーを利用すれば必ず廃物・排熱が出て、それは増える一方で減らせない(エントロピー増大の法則~熱力学第2法則)のだから。
まだ「自然エネルギー」という名称のほうがマシだが、世の中には自然ではないエネルギーというものはない。地球が得ているエネルギーはすべて太陽光由来のものだからだ。
化石燃料は太陽光エネルギーが形を変えて缶詰のように地下に貯蓄されたものだ。エントロピーが低く、とても利用しやすい。今、人類はその貯金を惜しげもなく使い続けている。そこが問題なのだ。
これに対して、原子力は異質で、自然由来のエネルギーとは言いきれないし、自然環境の中に渡して、地球の循環機構により処理することもできない。だからこそ「使えない」「使ってはいけない」と判断しなければいけないのに、処理できないまま、俺たちが生きている間はなんとかなるだろうと無責任に使い始めたことで悲劇が起きた。
で、そういう定義の問題は置いておくとして、風力や太陽光発電で化石燃料(を燃焼することによるエネルギー利用)を代替できるかと言えば、できるはずがない。化石燃料がゼロになれば風車も太陽電池も作れないのだから。
風力発電や太陽光発電が作りだすものは電力だけであって、地下資源のような原材料に相当するものは何も生み出さない。
発電の話に限って言っても、発電コストが高いというのはそれだけ石油などの資源を使うから高いのであって、実に単純な話なのだ。
このへんの話は、『裸のフクシマ』の最後のほうに書いたので、これ以上は繰り返さないでおこう。
もしかしてその議論になるかな、と思い、最低限用意しておいた資料を示しておく。
ひとつは、Googleで「風力発電 解列」というキーワードで検索すると上位に出てくる「風力発電機解列枠の検討について」という経産省が出している資料。
「解列」という言葉は耳慣れないかもしれないが、要するに「外す」「つながない」ということだ。
風力発電からの電力はあまりにも乱高下が激しく、送電系統を乱すため、送電系にその乱れを呑み込む余力がない(つまり、電力消費が少なく、少ない電力量しか流れていない)ときには、停電を避けるために風力発電からの電気を外す(止める)ということだ。これを「解列」という。
ここにはこう解説されている。
風力発電は,自然条件により出力が変動することから,電力系統への連系量が増大した場合,当該地域内の電力需給バランスが損なわれる可能性があります。
従って,風力発電機の連系に伴う周波数変動を抑えつつ,風力発電の導入拡大をしていく方策の一つとして,出力変動に対応する調整力が不足する時間帯に風力発電機の解列を条件に,新たな風力発電機の系統連系を募集するものです。
国は風力発電を増やせと言っているが、あんな不安定なものをつないだら停電の恐れが出てくる。
しかし、それでも増やせと言うのだから、送電系が対応できそうもない時間帯には最初から風力発電の電気を除外してしまう(外してしまう)ということにすればいい。大量の電気を消費しているときは、風力以外の発電からの電気がたくさん来ているので、そこにちょっとくらい風力からの変動の大きな電気が混じっても、誤差の範囲で対応できる。そういうことにすれば、風力発電はもう少し増やせますよ、と言っているのだ。
これがどれだけバカげた話か、普通の思考力の持ち主なら分かるだろう。
もともと大した発電量が期待できない風力発電だが、夜間などの電力消費が少ない時間帯に風力発電をつなぐと変動によって送電系が対応できず、停電してしまうから、恐ろしくて使えないと言っているのだ。
ちなみに、この「停電」は、電気が足りないから停電するのではなく、需要量変化に供給量を調整しきれずに送電系の機能が止まってしまうことで起きる。
ちなみに、2006年に欧州全域で発生した大停電では、風力発電が(1)非意図的に一斉解列し周波数低下を招き、(2)さらにその後自動再連係したことで出力調整に困難をきたした、と報告されている(電力系統研究会2007)。
『裸のフクシマ』にも示したが、横浜市が運営している1980kwのウィンドタービン「ハマウィング」の一日における発電変動量をグラフに表したものが最初に示した図である。
突出している時間帯でも定格出力の半分にも達しておらず、しかもその時間帯は真夜中だ。
風力発電推進派の人たちが書く文章には、「設備容量」という言葉が頻出する。
これは、どれだけの電力を発電する能力があるかという意味だが、風力発電の場合、最適な風が吹いた時間だけその発電能力を得られる。それより少しでも強ければ、危険だから止めてしまうし、少しでも風が弱くなれば、極端に発電量は落ちていく。結果として、「設備容量」の数字など意味がない。実際にどれだけ発電し、それによってどれだけの化石燃料が節約できたのかというデータを示さない限り、風力発電や太陽光発電が省資源に寄与したことにはならないが、そういうデータはおろか、もっと基本的な、実質発電量のデータさえ風力発電事業者は出してこない。
中国の風力発電に至っては、
世界風力エネルギー協会(GWEC)が2011年4月に発表した世界の風力発電集計によると、中国では昨年1年間で1890万kWの風力発電所が新設され、2010年末時点で合計設備容量は4470万kWに達した。
一方、国家電網公司が4月に公表した「風力発電白書」(「国家電網公司促進風電発展白皮書」)によると、2010年末時点で送電網に接続された風力発電所の合計設備容量は2956万kW。つまり、単純に計算すれば、1514万kWが送電網に接続されていないことになる。
建てただけで、1/3以上の風力発電施設は送電網に接続さえされていない、つまり建っているだけ、という信じがたいことになっている。
これは中国だけの事情ではなく、実は日本でも似たようなものだ。さすがにつないではあるが、解列は頻繁に起きて発電した電気を流していないし、故障や風況不良でまともに発電していないウィンドタービンがたくさんある。コストが合わない(直すとますます赤字になる)ために、事実上修理を断念されているものもある。
設備容量の数字がいかに虚しく、意味がないか、このことからもはっきり分かるだろう。
送発電分離については、是か非か、僕はまだ分からない。
分離しなければ電力会社の地域独占が絶対に解消できないのであればするしかないのではないかと思う。
しかし、送電網配備や電力分配というのは、究極の技術と合理性、コストパフォーマンスの追求が必要な事業だ。競争原理を導入することでそれが進むのならいいが、かえって無駄が出る、不安定要素を増やすのではないかという懸念もある。
本来なら、こういう事業こそ水道事業のように公営にして、国民がしっかり無駄遣いを監視しながら運営することが望ましい。ところが、役人は知恵を働かせてずるをする。無駄を行って私腹を肥やすテクニックばかり追求しているので、結果的に無駄だらけになる。そんなことなら民営化したほうがいい、となり、民営化すると、今度は正常な競争ではなく、国が補助金や許認可権を巡ってどんどん利権構造を作ってしまい、さらにひどいことになっていく……。
原子力ムラはまさにその最たるものだった。
だから、まずは送発電分離よりも前に、10電力会社の独占をどう解消するか、電力事業独占による利権構造をどう解体し、効率的な電力事業運営を組み直せるかという問題をクリアすべきだろう。その方法論の中で、送発電分離も論じられていくはずだ。
現時点では、どっちが完全に正しい、と言うだけの根拠を僕は持ち合わせていない。
省エネの可能性……これはもう、とてつもなくある。
ただし、省エネ製品に買い換えることがいいことだという単純な話にはならない。まだ使えるものをつぶして(ゴミにして)、省エネ新製品を導入したことで、トータルのエネルギー消費は増えることはいくらでもある。
そのへん、どこまで正直に、理想を掲げて産業が進んでいくのか、という問題だろう。
安易に補助金を注ぎ込むことで、この計算が分かりにくくなり、結果的にエネルギー浪費につながることはいくらでもありえる。
こうして書いていくと、結局最後は、各現場の人間がどこまで正直になれるか、タブーをなくして実力を発揮できる職場を保てるか、ということにつきるような気がする。
大量生産、大量消費による金のやりとりという尺度で幸福度や国の序列が決まるという考え方を一掃しない限り、絶対に問題は解決しない。
(←承前)
「代替エネルギー」なんてものはない
討論の最後には、今後のエネルギー政策をどうするのかというテーマが予定されていた。
これはものすごくストレスを感じるテーマで、この番組では到底まともには議論できないだろうと思っていた。
- 民主党政権のホンネとは?
- 再生エネルギーで代替可能か?
- 送発電分離のメリット、デメリット
- 省エネの可能性とは?
討論案にはこう書かれている。
それぞれに対する僕なりの見解を書いてみる。
「民主党政権のホンネ」なんてものはない。
なぜなら政党構成員があまりにも未熟で、エネルギー問題に対応できる力がないからだ。
これは自民党も同じなのだが、自民党には民主党よりも利権屋が圧倒的に多く、エネルギーコストとか環境負荷なんかどうでもいいから、儲かるような仕組みを作っていこう、という輩が主導権を握っていた。
民主党はトップにそれだけの悪知恵さえない。だから簡単に騙され、CO2大幅削減とか、「再生可能エネルギー」高額全量買い取りだとか、亡国の政策を正義の御旗のもとに振りかざし、その後、事実が少しずつ分かってきても引っ込みがつかなくなり、ぐずぐずになる。
政治家がどのくらい程度が低いかという例として、『裸のフクシマ』では、昨年5月末に結成された(正確にはずいぶん昔に話が持ち上がったままになっていたグループが「再結成」したということらしい)「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」のメンバーというのをここに記しておく。
たちあがれ日本:
平沼赳夫(会長)、中山恭子
自民党:
谷垣禎一、安倍晋三、山本有二、森喜朗(以上顧問)、山本拓(事務局長)、塩崎恭久、高市早苗
民主党:
鳩山由紀夫、渡部恒三、羽田孜、石井一(以上顧問)
国民新党:
亀井静香(顧問)
よ~く名前を覚えておこう。この人たちは未だに、原発は地下に作れば安全だなどというとぼけたことを真面目に主張しているのである。驚くべき話ではないか。
「今回の福島第一原発の1?4号機の事故ですが、仮に地下に立地していたのなら、地震には絶対強いです。そして、津波も取水口を封鎖してしまえばいいので、問題ありません。仮に地下でメルトスルーが起きても、中に(放射性物質を)閉じ込めることができるので、外には漏れません。それで、ロボットを使って作業をすると。そうすれば、今の福島のように宇宙服を着た作業員が、危険な作業をするということを避けることができます」(山本拓・自民党衆院議員 福井選出)
こういう人たちが日本の政治を動かしているのだ。
ちなみにこの会が昨年7月7日に開いた第二回の勉強会では、会場を震撼させるようなシーンがあったという。
// 会場の空気が凍りついたのは、「原子炉等が想定外の破損事故を起こしても、原子力施設周辺住民に放射線による被害を及ぼさない地下式原子力発電所について」と題して講演した京都大学名誉教授の大西有三氏(地盤工学)が質問を受けた時のことだ。参加議員に国際社会で「核燃料サイクルはどう変わっているか」と問われた際、「核燃料サイクルと言いますと?」と聞き返したのだ。質問議員が慌てて「プルトニウムを取り出してもう一度使うシステム」だと逆に答えると、「私はちょっとあの……我々がやっているのは一番最後に再処理して残った、これ以上は使えない処理です」という珍問答となった。(「核燃料サイクルを知らない専門家 地下原発議連、2回目の勉強会」 週刊金曜日7月15日号 まさのあつこ氏の記事より)//
お笑い作家でもこんな間抜けなやりとりは考えつかない。
……これが政治家の実態だ。
彼らにエネルギー問題を考える能力などあるはずがない。
次に言いたいのは、再生(可能)エネルギーなどというものは存在しないということだ。
エネルギーの総和は一定だし(質量保存の法則~熱力学第1法則)、エネルギーを利用すれば必ず廃物・排熱が出て、それは増える一方で減らせない(エントロピー増大の法則~熱力学第2法則)のだから。
まだ「自然エネルギー」という名称のほうがマシだが、世の中には自然ではないエネルギーというものはない。地球が得ているエネルギーはすべて太陽光由来のものだからだ。
化石燃料は太陽光エネルギーが形を変えて缶詰のように地下に貯蓄されたものだ。エントロピーが低く、とても利用しやすい。今、人類はその貯金を惜しげもなく使い続けている。そこが問題なのだ。
これに対して、原子力は異質で、自然由来のエネルギーとは言いきれないし、自然環境の中に渡して、地球の循環機構により処理することもできない。だからこそ「使えない」「使ってはいけない」と判断しなければいけないのに、処理できないまま、俺たちが生きている間はなんとかなるだろうと無責任に使い始めたことで悲劇が起きた。
で、そういう定義の問題は置いておくとして、風力や太陽光発電で化石燃料(を燃焼することによるエネルギー利用)を代替できるかと言えば、できるはずがない。化石燃料がゼロになれば風車も太陽電池も作れないのだから。
風力発電や太陽光発電が作りだすものは電力だけであって、地下資源のような原材料に相当するものは何も生み出さない。
発電の話に限って言っても、発電コストが高いというのはそれだけ石油などの資源を使うから高いのであって、実に単純な話なのだ。
このへんの話は、『裸のフクシマ』の最後のほうに書いたので、これ以上は繰り返さないでおこう。
もしかしてその議論になるかな、と思い、最低限用意しておいた資料を示しておく。
ひとつは、Googleで「風力発電 解列」というキーワードで検索すると上位に出てくる「風力発電機解列枠の検討について」という経産省が出している資料。
「解列」という言葉は耳慣れないかもしれないが、要するに「外す」「つながない」ということだ。
風力発電からの電力はあまりにも乱高下が激しく、送電系統を乱すため、送電系にその乱れを呑み込む余力がない(つまり、電力消費が少なく、少ない電力量しか流れていない)ときには、停電を避けるために風力発電からの電気を外す(止める)ということだ。これを「解列」という。
ここにはこう解説されている。
風力発電は,自然条件により出力が変動することから,電力系統への連系量が増大した場合,当該地域内の電力需給バランスが損なわれる可能性があります。
従って,風力発電機の連系に伴う周波数変動を抑えつつ,風力発電の導入拡大をしていく方策の一つとして,出力変動に対応する調整力が不足する時間帯に風力発電機の解列を条件に,新たな風力発電機の系統連系を募集するものです。
国は風力発電を増やせと言っているが、あんな不安定なものをつないだら停電の恐れが出てくる。
しかし、それでも増やせと言うのだから、送電系が対応できそうもない時間帯には最初から風力発電の電気を除外してしまう(外してしまう)ということにすればいい。大量の電気を消費しているときは、風力以外の発電からの電気がたくさん来ているので、そこにちょっとくらい風力からの変動の大きな電気が混じっても、誤差の範囲で対応できる。そういうことにすれば、風力発電はもう少し増やせますよ、と言っているのだ。
これがどれだけバカげた話か、普通の思考力の持ち主なら分かるだろう。
もともと大した発電量が期待できない風力発電だが、夜間などの電力消費が少ない時間帯に風力発電をつなぐと変動によって送電系が対応できず、停電してしまうから、恐ろしくて使えないと言っているのだ。
ちなみに、この「停電」は、電気が足りないから停電するのではなく、需要量変化に供給量を調整しきれずに送電系の機能が止まってしまうことで起きる。
ちなみに、2006年に欧州全域で発生した大停電では、風力発電が(1)非意図的に一斉解列し周波数低下を招き、(2)さらにその後自動再連係したことで出力調整に困難をきたした、と報告されている(電力系統研究会2007)。
『裸のフクシマ』にも示したが、横浜市が運営している1980kwのウィンドタービン「ハマウィング」の一日における発電変動量をグラフに表したものが最初に示した図である。
突出している時間帯でも定格出力の半分にも達しておらず、しかもその時間帯は真夜中だ。
風力発電推進派の人たちが書く文章には、「設備容量」という言葉が頻出する。
これは、どれだけの電力を発電する能力があるかという意味だが、風力発電の場合、最適な風が吹いた時間だけその発電能力を得られる。それより少しでも強ければ、危険だから止めてしまうし、少しでも風が弱くなれば、極端に発電量は落ちていく。結果として、「設備容量」の数字など意味がない。実際にどれだけ発電し、それによってどれだけの化石燃料が節約できたのかというデータを示さない限り、風力発電や太陽光発電が省資源に寄与したことにはならないが、そういうデータはおろか、もっと基本的な、実質発電量のデータさえ風力発電事業者は出してこない。
中国の風力発電に至っては、
世界風力エネルギー協会(GWEC)が2011年4月に発表した世界の風力発電集計によると、中国では昨年1年間で1890万kWの風力発電所が新設され、2010年末時点で合計設備容量は4470万kWに達した。
一方、国家電網公司が4月に公表した「風力発電白書」(「国家電網公司促進風電発展白皮書」)によると、2010年末時点で送電網に接続された風力発電所の合計設備容量は2956万kW。つまり、単純に計算すれば、1514万kWが送電網に接続されていないことになる。
建てただけで、1/3以上の風力発電施設は送電網に接続さえされていない、つまり建っているだけ、という信じがたいことになっている。
これは中国だけの事情ではなく、実は日本でも似たようなものだ。さすがにつないではあるが、解列は頻繁に起きて発電した電気を流していないし、故障や風況不良でまともに発電していないウィンドタービンがたくさんある。コストが合わない(直すとますます赤字になる)ために、事実上修理を断念されているものもある。
設備容量の数字がいかに虚しく、意味がないか、このことからもはっきり分かるだろう。
送発電分離については、是か非か、僕はまだ分からない。
分離しなければ電力会社の地域独占が絶対に解消できないのであればするしかないのではないかと思う。
しかし、送電網配備や電力分配というのは、究極の技術と合理性、コストパフォーマンスの追求が必要な事業だ。競争原理を導入することでそれが進むのならいいが、かえって無駄が出る、不安定要素を増やすのではないかという懸念もある。
本来なら、こういう事業こそ水道事業のように公営にして、国民がしっかり無駄遣いを監視しながら運営することが望ましい。ところが、役人は知恵を働かせてずるをする。無駄を行って私腹を肥やすテクニックばかり追求しているので、結果的に無駄だらけになる。そんなことなら民営化したほうがいい、となり、民営化すると、今度は正常な競争ではなく、国が補助金や許認可権を巡ってどんどん利権構造を作ってしまい、さらにひどいことになっていく……。
原子力ムラはまさにその最たるものだった。
だから、まずは送発電分離よりも前に、10電力会社の独占をどう解消するか、電力事業独占による利権構造をどう解体し、効率的な電力事業運営を組み直せるかという問題をクリアすべきだろう。その方法論の中で、送発電分離も論じられていくはずだ。
現時点では、どっちが完全に正しい、と言うだけの根拠を僕は持ち合わせていない。
省エネの可能性……これはもう、とてつもなくある。
ただし、省エネ製品に買い換えることがいいことだという単純な話にはならない。まだ使えるものをつぶして(ゴミにして)、省エネ新製品を導入したことで、トータルのエネルギー消費は増えることはいくらでもある。
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こうして書いていくと、結局最後は、各現場の人間がどこまで正直になれるか、タブーをなくして実力を発揮できる職場を保てるか、ということにつきるような気がする。
大量生産、大量消費による金のやりとりという尺度で幸福度や国の序列が決まるという考え方を一掃しない限り、絶対に問題は解決しない。
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