「元の福島に戻す」ではダメ2012/01/04 22:27

■元旦『朝生』──本当はこういうことを話し合いたかったのに…… (2) (←承前)

「元の福島」に戻してしまってはいけない

今回の『朝生』、一応討論案としては、

1)福島県民は今……実情、問題点、要望……
2)原発事故と放射能問題
 帰宅問題(時期、問題点)、風評被害問題(実態、対策、問題点)、除染問題(汚染実態と現場実情、国・県行政の問題点)、被曝と健康(新基準値、内部被曝と発癌率、これからどうなるか)、廃炉工程と事故収束宣言、補償・賠償問題
3)事故調査・検証委員会中間発表への感想と見解
4)どうする? エネルギー政策
 民主党政権の本音とは? 再生エネルギーで代替可能か? 送発電分離のメリット、デメリット、省エネの可能性
5)再び福島県民の声

……となっていた。
本番ではこれの何一つまともに討論できなかったのは、ご覧になっていたかたはお分かりの通り。

このままではあまりにも気持ち悪いので、最低限、言いたかったことだけ、この「討論案」に沿ってまとめてみたい。

●福島から発信する意味

実は、本番前にプロデューサー氏が困った表情で控え室に入ってきた。
番組の飾り付けディスプレイに「フクシマ」とカタカナで書いたことに対して、怒っている人がいるという。
それを聞いてかどうか、本番開始早々、石原洋三郎議員(民主党)が、福島をカタカナで表記するということ自体がすでに偏見の現れだというようなことを言い始めた。
その発言に僕がちょっと切れて「そういう情緒的なレベルの話をしている場合じゃない」というようなことを口走ったら、後でまた「そういう情緒的な話じゃないとか言っている人がいたが……」と、ギャラリーの中から非難された。

僕が言いたかったのは、被害者意識を剥き出しにするだけで、自分たちから何かを冷静に明示していく姿勢がないとしたら、そのことが問題なのだ、ということ。
それと、福島選出の与党議員がここに出てくるなら、党の方針がどうであれ、自分は福島のために戦い、おかしいことにははっきりと異を唱えるくらいの気概を見せてほしい。
ところが、そういう姿勢はまったく見られず、党や政府の既定路線を繰り返し口にしているだけ。姑息にも冒頭からカタカナ表記で云々などと言い出してくる。その程度の気構えなら出てくる意味がない。顔を売りたいだけなのか! そう叱咤したかったわけだ。
しかも、この議員はあらゆる事柄について、極めて基本的な知識さえ持ち合わせていないことがあちこちにうかがえた。

例えば、石原議員は、12月6日に文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会(能見善久会長)がまとめた「警戒区域、計画的避難区域などを除く福島県の23市町村を対象に全住民に1人あたり8万円、妊婦と18歳以下の子どもに1人あたり40万円」の賠償金を支払うという方針を、まるで「政府も一生懸命追加支援をしている」と言いたいかのように持ち出していたが、これがどれだけふざけた内容か、福島選出の議員がクレームをつけないとは何事か。(この問題については⇒こちらを参照

福島の人たちは、3.11以降、ただでさえ問題をたくさん抱えて疲弊しているのに、政府や県の対応のまずさで、さらに追い打ちをかけるようにぐちゃぐちゃにされている。
そこまで言及できずに、ただ、「大変なんですよ」で終わったら、福島の人を集め、福島から放送している意味がない。
福島の実情を福島の人たちがしっかり伝えるためにわざわざ福島放送の小さなスタジオに集まったのではなかったのか?
それなのに、基本的なことも分かっていない人たちがパネリストとして呼ばれていた。会場から「そんな話は本屋やネットでもっとマシな情報がいくらでも入手できる」という声が上がったのも当然だった。

また、福島に暮らす人たちの側からも、ただの被害者アピールではなく、本当の問題はどこにあって、自分たちはそれに対してどう向き合う覚悟ができていて、そのためには具体的にこうこうこうした金の使い方や法令の整備をしてほしいという要求をつきつけていかなければならない。
大変な目にあっているのに放っておかれている。なんとかしてくれ。……と言うだけでは、権力側の思うつぼだ。
「元の福島に戻してほしい」という言葉をよく聞くが、そんなことは無理なのだ。
また、これがいちばん重要なことだが「元の福島」に戻ってしまってはいけないのだ。
原発に代表される国策事業にぶら下がり、まともな頭で考えることをやめてしまったからこうなってしまった。以前の福島に戻ってしまったらどうしようもない。同じ過ちを、マイナスから再生産するという悲惨なことになる。
福島は土地としては素晴らしい場所で、今まで、でたらめをやって土地を破壊してきても、まだ残っている環境が福島の土地としての魅力を最低限保ってくれていた。
しかし、この「すばらしい自然環境」という最大の宝物を汚された以上、福島を再生させるためには、間違いを徹底的に修正してから再出発しなければいけない。そうでなければ、破壊された上に、さらなる破壊を加速させるだけだ。
行政を筆頭に、その覚悟ができるかどうか。そこがいちばん問われている。


●帰宅問題

今、20km圏内は入ってはいけないことになっている。
しかし、この20km圏内に残って暮らしている人たちが何人かいる。
一人で残って、見捨てられた犬や猫の世話をしている男性。痴呆の妻を抱えて、ここで静かに暮らしていきたいと訴える老学者。
まずは、20km圏内でも汚染が比較的低くて済んだ場所を切り捨てるのかどうか(現状では切り捨てられている)を考えなければいけない。
切り捨てるのであれば、そこに今残って暮らしている人たちを法的に罰するのかどうか。
見て見ぬ振りをするのか。
犬猫レスキューなどの活動を保証し、公的支援もすることは考えないのか……現在進行形の問題がいくつもある。

「復活のコメ」として有名になった川内村の秋元美誉さんは、国からの作付け禁止命令に従わずに、「自分で確かめたい」として、田圃1枚だけ作付けをした。そこで収穫した米は全量廃棄させられ、彼が自分の手で民間検査機関に持ち込みたいという願いは断たれた。
彼はこの時点で犯罪者であって、罰せられる運命にある。昨年8月に改正・追加された農水省省令に違反したことで、10万円以下の罰金なのである。さすがにそういう結末にはしたくなかった村が、県とも相談して、「ここはひとつ、調査は我々がやるから、最初からあなたに調査のための作付けを依頼した、ということにしてほしい」という和解案を出し、秋元さんもそれを呑んだのだ。
ちなみに秋元さんの田圃で穫れた米からはセシウムは検出されなかった。
彼が国からの命令に反して作付けしなければ、川内村で今年栽培した米が汚染されているかどうかというデータはまったく入手できなかったのだ。
この話だけでもちゃんとしていきたかったが、残念ながら「面白い話だとは思うけど……」と遮られてしまった。
面白い話? このへんでさすがに徐々にぶち切れ始めた。

30km圏で汚染が低い場所(川内村、広野町、南相馬市の海岸沿いなど)は、すでに緊急時避難準備区域指定が解除されているが、自治体によって対応がまるで違う。
南相馬市は必死になって生活が正常化できるように努力している。
川内村や広野町は逆で、解除されても帰りたくない、補償問題が先だ、という姿勢。
役場が戻って来ない村で、人々は普通に暮らし始めている。電気は最初から止まらなかったし、ネットも郵便も宅急便も4月から動いている。だからこそ僕も生活ができた。
村でいつも通り生活し、『裸のフクシマ』を書き上げる間、特に大きな障害はなかった。

ところが、村に戻って商売を再開した人が「何を勝手なことをやっているのか」と後ろ指をさされるという状況が生まれている。「みんなでじっと動かずに死んだふり作戦をしているときに、勝手なことをして統制を乱すな」というわけだ。戦時中の○○統制と同じだ。
それがおかしなことだと気がつかないほどに「上からの命令には従うのがあたりまえ」「他の人と違うことをしてはいけない」という空気が、浜通りの原発立地、あるいは隣接エリアの人たちの間にはもともとあったようだ。
それが「元の福島」なのであれば、元の福島に戻してはいけない、というのが僕の主張だ。

●外部被曝の数値論はもういい

未だに年間何ミリシーベルトまであびても大丈夫だのなんだのという議論をしていることが情けない。
これはもともと、身体の外からあびるガンマ線の量のことだ。
放射線技師など、「放射線管理区域」で働く人たちが年間10ミリシーベルトまでというのは、エックス線装置から漏洩する放射線などで被曝する可能性を言っているのであって、放射性物質が空中に漂っていたり壁や床に付着している部屋で働いているわけではない。
今の日本で、我々があびている放射線というのは、原発から飛び散った放射性物質から発せられる放射線をあびているわけで、原因物質(放射性物質そのもの)がそこかしこに付着したり浮遊したりしている環境なのだ。
これをエックス線検査や飛行機で太平洋を横断するときにあびる放射線量と一緒にして比較すること自体ナンセンスだということくらい、誰でも分かるだろうに、なぜ「専門家」までもが未だに真面目な顔で「年間○ミリシーベルト」を論じているのか。

年間10ミリシーベルトが完全に外からの被曝であれば、はっきり言ってもうどうでもいい。
怖いのは、年間10ミリシーベルトの放射線量を出す放射性物質がそこかしこに散らばっていて、それを何かの拍子に身体に取り込んでしまうかもしれないという可能性のほうなのだ。

当初、ヨウ素は甲状腺に、セシウムは筋肉に、ストロンチウムは骨に溜まりやすいというようなことが言われていた。しかし、どうもそう単純なものではないらしい。
誰もが認めているのは、チェルノブイリ後、子供の甲状腺癌は増えたということ。
甲状腺に溜まるのはヨウ素だけでセシウムは溜まらないとか、溜まったとしてもセシウムでは甲状腺癌は引き起こされないということを言う人もいるが、そんなことをどうして断定できるのだろうか。
結局は「分からない」ということではないか。

直観的に言えば、

  • セシウムも十分に恐れるべきである
  • 癌や白血病だけでなく、心筋梗塞や抵抗力の低下、免疫機能の低下などに関係している可能性がある

ということだ。
もうひとつ重要なのは、ベータ線を出すストロンチウムやアルファ線を出すプルトニウムが体内に入った場合、ホールボディカウンターでも検出できないから、どうやったところで「分からない」ということ。
ストロンチウムやプルトニウムがどれだけ散らばっているのか、お上は正確なデータをなかなか出してこない。
だからこそ、我々はいろいろ工夫をして、内部被曝の可能性をとことん低くしていかなければならない。

例えば、セシウムがべったりはりついて、ちょっとやそっとじゃ剥がれないようなコンクリート建造物の中で生活して年間10ミリシーベルト被曝しますよ、という環境と、
空間線量を見ると年間3ミリシーベルトかそこいらだけれど、放射性物質は土や砂の上に広く浅く散らばっていて、そこで毎日土埃、砂埃を巻き上げながら作業しなければいけない環境があるとする。
どっちかを選ばなければならないとしたら、僕は迷わず前者を選ぶ。
前者の環境というのは、いわば、放射線管理区域のようなもので、被曝はしても、放射性物質が体内に入る心配はほとんどない。後者は内部被曝の原因と毎日つき合わなければならない。どっちが怖いことか。

『朝生』では、こういう話をぜひ「専門家」にぶつけてみたかった。
ところが、元原子力委員会の委員が、「放射能の半減期というのは身体の中に入ると短くなるんですね」というようなことを口走る。まさか、この人は「生物学的半減期」という言葉を勘違いしているのでは? と、ぎょっとさせられた。
生物学的半減期の「半減期」というのは、単純に尿や汗に混じって身体の外に出て行くことで体内被曝が減っていくということであって、放射性物質そのものの半減期はどこにあっても変わらない。
言い換えれば、身体に取り込まれた放射性物質は少しずつ身体の外に排出されるが「生物学的半減期」という言葉があるくらいで、完全に出きってしまうことは難しい。付着した部位によっても排出されやすさは大きく違う。プルトニウムが肺の中にペタッと貼り付いて動かないというような状況は、なかなか大変なことらしい。

学者が相変わらず数字を並べ、原子力ムラでお金を得てきた人が未だに不勉強なまま、なんの反省もなくテレビに出てくることに、改めて驚かされた。

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