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人形作家・鐸木能子のネット葬2018/01/09 17:31

銅鐸をモチーフにした異色の人形

母親を「ネット葬」で送る

古いネガフィルムの中から、こんなのが出てきた。
なんともおどろおどろしいと感じるのだが、中には「これ、いい! 好きだ」という人もいて、感性というのは本当に様々だなあと思う。
↑これはお袋(鐸木能子)が人形制作を始めた頃、「銅鐸を題材にした人形を作ってみる」と言って作ってしまったもの。
写真だと分からないと思うが、表面は革(バックスキン)で、桐の木を彫ったものに木目込みして、その革の上から着色を施している。
人形とは何か、自分が作る人形はどうあるべきなのか……と、悩んでいる時期の興味深い作品。

そもそもお袋はなんで人形作家をめざしたのだろう。
「何か一つ、一生をかけて追求するものを見つけたい」と言って始めたのだが、そうなるまでにはいろんな紆余曲折があった。

もうすぐ出る本『医者には絶対書けない幸せな死に方』(講談社プラスα新書)の中で僕は、
死者を弔うという行為は、気持ちをどれだけ寄せられるかが大切であるはずです。であれば、時間を置いて「偲ぶ会」を宗教色なし、会費制で行うなどのほうが、参加者の心に残る、意味のある会になるように思います。
 それも大変なら、メモリアル動画をYouTubeにアップして、離れた人でもそれを見ながら死者との思い出や死者への敬意を持つ時間を作れる「YouTube葬」はどうでしょう。

……と書いた。
その精神で、お袋の人生を少しだけ振り返ってみたくなった。

人形作家・鐸木能子の生涯

お袋・鐸木能子は、昭和3(1928)年3月に群馬県の旧佐波郡伊勢崎町の蝋燭問屋・細野智之助の4女(7人兄弟の6番目)として生まれた。
母親は香といい、福島県白河の出身。奥の細道や一遍上人絵伝に出てくる「白河の関」の関守であった石井家とは親戚関係で、小峰城のお姫様で、子供の頃に棚倉城に移されたとかなんとか……そのへんの話はどうもはっきり分からないが、ともかく武家の娘だったことは確か。
子供の頃はよく「よしみつは時代が時代なら、侍大将として敵軍に突っ込んでいかなければならなかったのよ。なにを泣き言言ってるの!」と叱られたものだ。

父・細野智之助は伊勢崎で2番目の金持ちで、屋敷は広大で、門から母屋まで歩く間に使用人の家が両側に何軒もあって……というような話も、子供の頃はよく聞かされていた。
ところが父親が亡くなってからは、武家出身の母親が商売にまったく疎いお嬢様だったため、たちまち金を騙し取られて無一文になり、白河の白坂というところに開拓農民として移り住んだ。
父親代わりとして妹たちを育てていた長男は出征し、ボルネオ島で通信兵をしていたときに現地妻を作り、娘が生まれたが、その後、捕虜になり、妻子とは離ればなれになった。
帰国後は開拓農民として白坂の土地を開墾し、その土地(2町7反歩と聞いている)を払い下げてもらい、農業をする傍ら、教員免許を取って地元の小学校の教師として働いた。結局、ボルネオ島に残してきた妻子には二度と会うことはなかった。

お袋は5人の姉妹の4番目で、早くに死んだ父親の記憶はほとんどなく、長兄が父親代わりだった。貧乏だったので上3人の姉はみんな尋常小学校どまり。兄弟の中では初めて女学校まで行かせてもらったらしい。(ちなみに次兄は兄弟の中でいちばん頭がよかったが、病弱で、結婚後、娘を1人もうけた後に死亡)
お袋は上京して聖路加女子専門学校に学び、看護師の資格を取った。
そのときの恩師が有名な日野原重明氏(故人)で、戦時中は聖路加国際病院に担ぎ込まれる怪我人たちの手当や看護をしていた。
聖路加病院は立教大学と同じく、日本聖公会(イギリス聖公会の日本バージョン)の系統で、その影響で日本聖公会で洗礼も受けた。
その影響が強くて、若いときから西洋美術やキリスト教文化に強い憧れ(一種のコンプレックスかもしれない)を抱いていたようだ。

終戦後は立教女学院に就職。その後、看護師として白河市の病院に勤務。
そのとき、結核病棟に入院していた僕の父親(実父)と、看護師と患者として知り合い、結婚する。
実父は福島県の職員で、林業担当だった。犬と演歌と森が好きだったらしいが、そのことは大人になるまで知らなかった。
結婚後、白河の病院を辞めて、福島市に移り、福島大学附属中学に養護教諭として就職。そこで僕が生まれた。このときお袋は27歳。

20代終わり頃のお袋

その後、附属中学に今の親父(養父)鐸木經彦が理科の教師として赴任してきた。
で、親父はお袋に一目惚れしたらしく、同僚であるお袋に熱烈なラブレターもどきを書いて手渡したそうだ。
その話はお袋から聞いたが「子持ちの人妻である同僚にラブレターを渡すなんて、一体この人は何を考えているのか、って呆れたわよ」と言っていた。

お袋は附属中学の同僚である音楽教師から絶対音感の話を聞き、まだ2歳だった僕に絶対音感をつけさせようと、福島市内で適任者を探す。探し当てたのは市内の修道院にいたカナダ人シスターで、僕はそこに通って音感教育を受けた(当時の記憶はほとんどない)。

当時お袋が附属中学で影響を受けたものに「立体版画」というのもあった。
これは普通の版画のように版木に紙をあてて転写するのではなく、インクをつけたローラーを版木の上に転がし、そのローラーをそのまま紙の上に転がして、ローラーに残ったインクの濃淡を転写する、というもの。普通の版画とは違って、左右反転して彫る必要はない。
考案者は泉田さんといったかな。美術教員だったのか、課外教室の講師のような立場で附属中学に来ていたのかは知らないが、何年もの間、立体版画の年賀状が届いていた。
お袋も用具一式を購入し、年賀状は毎年その「立体版画」だった時代がある。
当時から、美術に対する興味や情熱はかなりのものだったのだろう。

B型のお袋は自由な生き方を愛し、当時の言葉で言えば「職業婦人」であることに大変な誇りを持っていた。
附属中学は国立だから、同じ公務員でも県の職員だった実父よりも給料がよかったという話も何度も聞かされたものだ。
実父は演歌が好きで、ギターの弾き語りはセミプロ並みだったらしい。でも、お袋は演歌を「下品なもの」としか見ていなくて、僕にはクラシック音楽を聴かせようとした。
そういうところも含め、お袋と実父は性格も趣味も合わず、僕が4歳くらいのときに離婚する。
当時、実父は出張先の新潟に愛人がいて、お袋はお袋で親父(養父)から言い寄られていて、離婚は時間の問題だったのだろう。
両親が離婚したときのことは少しだけ覚えている。
  1. お袋から「離婚してもいいか」と訊かれたので「いいよ」と即答した
  2. 仲のよかった飼い犬が実父と一緒に去って行くのが悲しくて、実父が出ていくトラックに向かって「クマ~ クマ~」と何度も犬の名前を呼びながら泣いた
  3. 通っていた幼稚園で、ある朝、園児全員の前で園長先生から「今日から添田くんは細野くんになります」と紹介された
この3つは特に記憶から消えないで残っている。

その後、お袋は今の親父と再婚(親父は初婚)し、2人で教師を辞めて上京した。

上京後、親父は学研の編集者として途中入社し、お袋は日本看護協会に事務職員として就職した。そこで、看護協会出身の女性代議士に見込まれ「私の後継者はあなただ」と言われたそうだ。
お袋もそれに応えて、ゆくゆくは代議士として政治の世界に入るつもりでいた。
しかし、物心ついたときからずっと鍵っ子だった僕は、毎日、長屋で1人留守番をしている生活に耐えられず、ある日、芝居を打った。
夜遅くなっても帰ってこない両親を待ち、台所の床の上で縮こまって寝たふりをしたのだ。
この姿を見れば親として少しは気持ちが揺らぐのではないか……と。
その夜、2人は一緒に帰ってきた。
「よしみつ、ここでお腹空かせたまま寝ちゃったのね」
「かわいそうに……」
……みたいな会話を、僕は寝たふりをしながら聞いていた。この頃から知能犯だったのだ。
作戦はまんまと成功した。
お袋はしばらくして日本看護協会を辞めた。
「あのときやめていなければ、今頃は政治家だった」という、半ば恨み言のような言葉を、僕は大人になってからも何度か聞かされた。

ところが、これでお袋が戻ってくると思ったら、そうはいかなかった。
お袋が妊娠したのだ。
妊娠したとき、お袋は僕に「やっぱりパパの子も生まないと、パパに悪いから」と言った。自分の連れ子だけを育てさせるのは気が引ける、ということだ。
ところが、親父のほうはそんな風には考えていなかったようで、自分の血を引いた娘が生まれても、あまり興味を示さず(赤ん坊というものにどう接していいか分からなかったようだ)、ひたすら会社人間として夜中まで働き続けていた。

妹の赤ん坊時代、我が家は地獄のようだった。
異常なまでにカンの強い赤ん坊で、一日中大声で泣き続ける。声が涸れ、ひきつけを起こしたように顔が紫色になっても泣き止まない。
ようやく寝たかと思うと、ほんのちょっとした物音で目を覚まして、途端にまた大声で泣き続ける。
おかげで、我が家ではテレビも音を出して見ることができず、イアホンアダプターというイアホンを3本分岐させてつなぐ器具を買って、イアホンでテレビを見ていた。
それでも、うっかりイアホンが引っこ抜けてテレビから音が出た途端にギャ~と泣き始める。途端にお袋が般若のような顔になって「何やっているの!」と僕に向かって怒鳴る。一家全員が極度の育児ストレスになって、暗い家庭になった。
こうした経験もあって、僕は、自分は絶対に子供は作らないと、小学生のときにすでに決めていた。(実際、そうした)

その地獄のような日々がようやく終わり、妹が泣かなくなった頃、お袋は今度は再就職ではなく、芸術の道へ進むと言い出した。
このまま専業主婦として一生を終えるなど考えられない。自分しかできないことを探して、一生それを追求する、というわけだ。
最初はリボンフラワーとかに手を出したりしていたが、すぐに先生を抜いてしまい「こんなものは一生かけてやるものじゃない」とやめて、その後に見つけたのが創作人形作家という道だった。
人間国宝の平田郷陽という人形師の作品に感銘を受け、平田氏が主宰する「陽門会」というグループの門を叩くが、平田氏がこれ以上、弟子は取らない方針だと知り、次に、陽門会のメンバーひとりひとりに弟子入り志願し、ようやく直弟子の一人・大谷鳩枝氏に弟子入りがかなった。

それからのお袋は、人形一筋だった。
大谷氏の下で10年、平田郷陽氏の秘伝である技法を一通り伝授され、マスターすると、大谷氏のもとを離れ、独立の道を探る。
最初は神奈川県展に応募したが落選。
入選作の展示を見て「あんな下手な作品が私の作品より上なはずはない」と、人形部門の審査員に直接電話をして「なぜ落ちたんでしょう」と問い質した。その勇気というか行動力はすごいなと思う。そういうところはまったく僕には遺伝しなかったのが残念だ。
お袋の気迫に押されたのか、審査員をしていた人形師は「あなたの作品は応募作の中ではいちばん優れていたけれど、私もやはりプロなので、自分の弟子たちを入選させてしまうのですよ。美術界というのはそういうものです」と、これまた正直に答えたそうだ。
それでもお袋は引き下がらない。「では、先生が所属しているグループに私も入れてください」と申し出て、しっかりその美術家グループに入会してしまった。
その会は日展系の会で、平田郷陽氏らの伝統工芸展グループとは対立、とまではいわないまでも、別系統だった。
お袋自身、人形に関しては日展よりも伝統工芸展のほうが格が上で、技術的にもすぐれた作家が集まっていると思っていたようだが、とにかくなんらかのグループに所属していなければ展覧会に入選できないのだから仕方がない、と割り切っていた。

お袋が人形作家をめざすきっかけは展覧会で平田郷陽氏の作品を見たことだが、今、ネットで「平田郷陽」を検索すると、平田氏の「生き人形」(生身の人間のようなリアルな人形)ばかりが出てくる。
平田氏は生き人形を作る人形師だった父親の後を継いだが、次第にアート志向になり、伝統的な木彫木目込み衣装人形の技法で「アートとしての創作人形」を追求するようになる。
お袋が感動したのはそうなってからの氏の作品だ。
「平田郷陽先生の若い頃の生き人形は、技術的にはすごくても、芸術とはいえない」
というようなことを、お袋はよく口にしていた。

日展に応募するようになってからのお袋は、自分が作る人形はどうあるべきかについて常に悩んでいた。
その時期の作品を撮った写真が少し残っていた↓



ほんとに悩んでいるなあ。
当時の作品を僕はいっぱい見ているけれど、一度も誉めたことはない。
「こういうのなら、彫刻やればいいじゃない」
「そもそもなぜ『人形』なの? 人形ってアートなの?」
というようなことを言って挑発していた。
そのたびにお袋は「そうねえ……」と言葉を濁していたように思う。
お袋の中でも「人形」とはなんなのか、という答えが明確には出ていなかったのだろう。

悩みながらも彼女は日展には毎年応募し続け、10年連続で入選も果たし、「日展会友」の資格も得た。
日展では伝統工芸的な人形は馴染まなかったので、「日展向けに」作っていた、ということもあるだろう。
その当時はバブル期とも重なり、お袋の人形は有名ホテルに100万円で買い上げられたりもした。
恩師である日野原重明氏を通じて、母校の聖路加看護大学にも1体「希望」という名の人形を贈っている。
聖路加看護大学の玄関ロビーでは、マントルピースとその上に「希望」と題した人形が来訪者を迎えています。(略)
マントルピースの上に飾られている人形は、昭和22年厚生科を卒業した鐸木能子(旧姓 細野)さんが本学の新校舎落成を祝い1998年(平成10)に贈呈して下さったものです。
鐸木さんは群馬県伊勢崎市の蝋燭問屋の生まれで、前学長 常葉惠子先生と同期生ですが、1965年以降人形作家になり日展会友、新工芸会員としてアーティスティックな創作人形を創る一方、伝統技法を生かした新しい気風の雛人形作家として活躍しました。
鳩を抱え、空を見上げている女性の人形像は、平和と希望を表現した作品で、伝統技法に加えた、鐸木さん独自の人形技法をみることができます。
Lukapedia: 聖路加看護大学 ともにつくる歴史事典 「由緒ある品々」より)

この頃の作品は写真を撮らずに売られていったため、今ではどんなものだったのか、僕の記憶も薄れてきている。
人形というよりは立体造形作品のようなものが多かった。そういうものに対して、僕はずっと疑問を抱いていた。
「こういうのを作るなら、木や石を彫り上げたもののほうがずっと力強いし、感動もある。粘土や布を使って作るようなものじゃないんじゃないか」と。
お袋は僕の酷評を否定はしなかった。そんなことは重々分かっている。でも、「大人の事情」があるから……ということだろう。
ただ、彼女の中での美意識や「芸術性」に対するセンス、理解力は揺るぎないものだった。
ダサい、つまらないと感じるものに対しては容赦なかった。その自信がどこからくるのかは分からない。
彼女の中では芸術的価値は100%自分の価値観で決まるものだった。
晩年、お袋を古殿町や棚倉町まで案内し、小林和平の狛犬を見せたが、手放しで興奮し、感動していた。
世に知られているかどうかは関係ない。いいものはいい。くだらないものはくだらない。自分の審美眼に適わないものは「全然ダメね」と、ズバッと切って捨てる。

そんなお袋が雛人形という活躍の場を見つけたきっかけは、所属するグループの先輩であった彫金の作家さんから言われた言葉だったそうだ。
「鐸木さんは人間国宝の平田郷陽さんの孫弟子でしょう? せっかく平田先生の秘伝技術を学んでいるんだから、それを生かさないのはもったいない。あなたは雛人形をやりなさい。雛人形はいいですよ。あれは食えるジャンルでもありますから」
そう言われたお袋は、平田郷陽氏の流れを汲んだ伝統工芸の技法で雛人形を作るという挑戦を始めた。

雛人形を作り始めた頃。髙島屋で展示できるようにもなった


それが成功し、お袋の雛人形を見て集まってきた弟子たちも抱え、「木の鐸会」というグループも作った。

雛人形は大きく分けると立ち雛と座り雛があり、立ち雛は木目込み、座り雛は衣装人形(衣装を着せた人形)が多い。
しかしお袋は自分が学んだ木彫木目込みの技法を座り雛にも取り入れようとした。
十二単の衣装を「着せる」のではなく、「木目込む」には手間と技術が必要になる。それまでは誰もそんなことはやっていなかった。
その技法は年々磨きがかかっていき、お袋もようやく「自分が築き上げた」と自信が持てる人形と向き合えるようになった。

1995年、神奈川新聞の記事(Clickで拡大)



木目込みで十二単の座り雛を作り始めた頃の作品

座り雛の十二単衣装を「着せる」のではなく「木目込む」ことに成功した



雛人形の歴史を振り返りながら、立ち雛にもいろいろなスタイルを取り入れようとした



雛人形を始めた頃は、10回入選すれば日展会友になれるから、ということで、日展への出品作だけは作っていたが、会友になった後は雛人形一筋になっていった。
晩年は、「今年のはいい出来よ。続けているとうまくなるものなのねえ」などと、嬉しそうに言っていた。

2007年5月。写真を撮ってくれと呼ばれたときのお袋
以下は↓そのときに撮ったもの。ほぼ遺作のようになってしまった








お袋は80になる直前、電話でこう言っていた。
「死ぬ前って、こんな気持ちなのね。でも、いい人生だったわ。そう思うでしょ?」

脳梗塞の兆候が現れて認知症状が顕著になり、脳卒中で倒れるのはそれからまもなくのことだった。

……とまあ、これがお袋の人生。

自己中心で、わがままで、周囲の人間を巻き込んで不幸にすることもあったけれど、死ぬまで好きなように生きたのだから、その点では幸せな人生だっただろう。
ただ、死に方は最悪だった。
こういう死に方だけはしてはいけない、させてはいけないということを身を持って教えてくれたお袋。
死んでだいぶ経つけれど、このページは僕なりの「ネット葬」かな。

今年も木の鐸会の雛人形が展示・販売されます
日本橋髙島屋美術工芸サロン(6F):2018年1月10日(水)~1月16日(火)
横浜髙島屋美術画廊(7F):2018年1月24日(水)~2月6日(火)
売れた作品は展示から消えていきますので、全作品が揃っている初日にどうぞ!
↑写真:木の鐸会代表・鐸木郁子の作品(日本橋髙島屋出展)



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