「自己中心思想」から始める2021/01/14 15:52

序章:幸福は「相対的な価値」(3)

 世の中に絶対的なものなどほとんどありません。
 しかし、ひとつだけ間違いなくあるとすれば、それは「自己」です。
「我思うゆえに我あり」の「我」。
 残りの人生を生き抜く上で、個人と社会のどちらかを基準点に選ぶとすれば、「個人」です。
 世の中がどれだけ理不尽でも、天変地異が襲ってきて思いもよらぬような不幸・不運に見舞われても、その中で生きている私やあなたという個人は、変えようがない、消しようがない「基準点」です。
 自分が可愛い。自分が大切だ。自分が好きだ。そういう「自己主義」を絶対的なものとして一旦認めてしまえば、ものの見方が定まってくるのではないでしょうか。

相対化の基準点を自分の幸福に置く

 自分の幸福を基準にして物事を考える──というと、利己的なやつだ、自分だけよければいいのか、日本人の美徳を忘れている……などなど、非難が殺到しそうです。
 しかし、きれいごとではなく、「まずは自分がここにいる」「その自分をいかに幸福に生かし、死なせるか」が価値基準である──というところからすべての事象を「相対化」していかないと、この混迷の時代、どんどん本質を見失い、自分も周囲も不幸になっていきます。

 「いや、私は自分よりも子供や妻のほうが大切だ」という人もいるでしょう。
 もちろんそれはそれで結構です。でも「子供や妻のほうが大切だと思う自分」がいるからこそ、子供や妻が自分の存在より大切だ、ということができます。
 自分がいなければ、子供や妻「のほうが大切だ」という相対化は不可能です。
 また、自分より家族のほうが大切だと思いこんでいる人が、往々にして自分の主義や嗜好を家族に押しつけて悲劇を招く例も少なくありません。自己をしっかり確立できなければ、他人を正しく愛すことはできません
自己主義と利己主義
 話を進めやすくするため、自分の幸福を見極め、そこに基準を置くことを「自己主義」とでも呼ぶことにしてみましょう。
 この「自己主義」は、自分に利することになればどんなことをしてもいいという利己主義とは違います。
 ちなみに日本語の利己主義は「社会や他人のことを考えず、自分の利益や快楽だけを追求する考え方。また、他人の迷惑を考えずわがまま勝手に振る舞うやり方」(大辞林)というような意味で使われますが、これに対応するとされている英語の「エゴイズム」には、「我思うゆえに我あり」的な意味合い(哲学でいう唯我論、独我論)も含まれているようです。 
 自分さえよければ他はどうなってもいいというわがままではなく、「まず自分のことを基準に考える」という意味合いでの「自己主義」は、ある意味「絶対的」な基準点になるかもしれません。
基準点を間違えた幸福感は正しい自己主義につながらない
 といっても、自己主義と利己主義の区別は難しいかもしれません。
 覚えているでしょうか。政治資金を家族旅行や家族との会食、自分の趣味に使っていた都知事が糾弾され、辞職に追い込まれるという事件がありました。彼の論理では「自分や家族の幸福を行動の基準点に置くことが正しいなら、私がやったことは何も間違っていない。しかも法律に触れるようなことはしていないのだから、何の問題もない」となるのでしょう。
 しかし、政治というのは人々の幸福最大値をさぐる仕事です。政治家が仕事に対して抱く幸福感は、他人を幸福にする方法を探り出し、合理的、効率的に実行していくことにあるはずです。
 もとより人は社会的動物なのですから、自分だけが幸せになるということはありえません。自分にとって心地よい世界が必要であり、その世界には自分以外の人間が共生しているわけですから、自分が行う仕事によって他人が幸せになることも、自分にとっての重要な幸福要因となるはずです。
 政治家が人々を幸せにすることに職業上の幸福感を感じることなく、自分や家族の利益のために公金を使い、他人に不利益をもたらす、他人の不幸を増すことを平気で実行する──言い換えれば、単に自分と家族の上等な生活や、趣味、快楽の追求に幸福の基準点を置いてしまうというのは、正義不正義以前に、一種の病気、精神障害なのだと考えられます。
 生き物が苦しむのを見て悦楽に浸る人がいますが、それは一般にはサイコパス、精神障害の一種と見なされます。
 他人の迷惑や痛みを考えることなく、いきなり女性のお尻を触ったり、預かった他人のお金でギャンブルをしたりする人もまた、病気であるとみなされます。
 となれば、政治家個人の資質を糾弾するよりも、病人たちに政治を任せていいのか、という問題であり、そういう事態を招かないようにするにはどのような改革を進めるべきかという議論こそが重要になるはずです。
 自己の幸福を基準点にすることは「絶対的に正しい」のですが、幸福感の幅が狭かったり、幸福感を得るための基準点が間違っていれば、この大前提は成立しません。
幸福とは「相対的な価値」である
 幸福の「基準点」について、もう少し考えてみましょう。
 例えば、自分ではとても満足のいくことを成し遂げたとします。できないと思っていたことができたとか、今まで気づかなかったことに気づいて精神的な満足感を得られたとか、なんでもいいです。自分の中では百点満点、あるいはそれ以上の結果が得られたとします。
 ところが、その結果に対して、世間はとても冷淡であり、評価してくれない、気づいてもくれないということはよくあります。そんなとき、多くの人は、満足感・幸福感から一転して、不満・不幸を感じてしまいます。
 これは個人の価値観が自分の中で完結しておらず、世間(人間社会)との「相対性」において左右されていることを意味します。
「自己満足」という言葉はたいてい悪い意味で使われますが、これも要するに、個人が感じている幸福感は世間一般の評価に照らしてみれば「相対的に」レベルが低いものだ、と言っているわけです。
 しかし、自分の価値観が低レベルなのではなく、世間一般、今の世の中、時代風潮のほうが低レベルなのだと感じる人たちもたくさんいるでしょう。
 自分個人の人間性や能力は努力で高められても、時代風潮を変えたり世の中の文化レベルを向上させることはできません。自分の幸福が世の中との相対性で決められてしまうとなると、絶望が深まるばかりで、身動きが取れなくなります。
 世間(社会)との相対性を断ちきれば、自分だけの精神世界、自分だけの絶対的価値観で結果を評価するだけでいいので、幸福でいられるかもしれませんが、ほとんどの人間は、世間と完全に隔絶した仙人のような生き方はできません。
 また、自分がたまたま生まれた時代、自分が置かれた社会、家族・家庭の違いによって、同じ才能や肉体であっても、まったく違う人生を送ることになります。こうした「環境との相対性」はある意味不可避で、運悪く戦争や大災害に巻き込まれたりする人生を送らねばならない人もいます。そうした「時代や時間軸との相対性」にはまったく抗えないのでしょうか。

 相対の反対は「絶対」ですが、人生、生き甲斐、価値観といったものが相対的だとしても、死は絶対的なものだと誰もが思っています。
 しかし、死が絶対的だというのは、自分の人生という時間に限定したときのことであって、自分が生きている時間の前後、気の遠くなるほどの時間軸を考えた場合、自分が生きた時間は、それを挟んでいる、より長い時間に相対して評価されるものかもしれません。
 つまり、長生きしたとか、充実した人生だった、という評価もまた相対的なものです。
 このように、自分が今いる環境、時間の中で、他と関連させることで初めて生きる意味や価値が生ずる──そういう縛りの中でしか生きられない生物──それが人間です。
 であれば、死ぬ前にこの「相対性」の壁についてより深く理解し、今の自分の生き方を考え直してみることで、苦しみが和らぎ、残りの人生を楽に、そして魅力を感じながら生きられるかもしれません。

「おいおい、なんだか大袈裟な話になってきて、つき合いきれんなあ……」と、ここまで読んでくださったあなたは感じていることでしょう。
 はい。長い「序章」はこのへんにしましょう。
 ここからは、具体的な方法論、戦略、小技といった、実践的な話をしていくつもりです。
 おつきあい願えれば幸いです。



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