今の生活は本当に変えられないのか?2021/01/14 15:48

序章:幸福は「相対的な価値」(2)

世の中で「絶対」と呼ばれているもの、考えられているものも、見方を変えればすべて相対的です。
もっとも、私たちは日常生活の中でそんなことを意識してはいません。考えないほうが楽だからです。いちいち何かと比較しながら物事を決めていたら、時間がかかって仕方ありません。
昼飯を何にするかで悩むのが面倒だから「月曜日はカレー」と決めてしまう程度のことなら、人生が大きく壊れることはないですし、そのルールを決めるのが自分自身であれば、いつでも変更は効きます。
しかし、行動の基準を絶対的なものだと認めてしまうと、人生が簡単に壊されることもあります。
仕事がなくなる、学校が変わってしまう、友人関係が壊れる……そうしたことに縛られて、人生全体を台なしにしてしまうこともあります。
今のあなたの生活基盤……本当に変えられないものですか?

自分の人生を縛っているものとは?

 私はよく、「あんたは器用でいろいろな才覚があるからどこにいても生きていけるんだろうが、そんな生き方は一般の人には真似できないよ」と言われます。
 しかし、私は人一倍不器用な人間です。自慢じゃありませんが、この不器用さゆえに、人生ずっとビンボーです。
(「貧乏」と書くと、貧しく乏しい人生のようで悲しくなるので、「ビンボー」と表記しています)
 私の年収は日本人の平均年収(400万円台?)のせいぜい半分くらいです。それでも、極貧だと思ったことはありませんし、ひもじい思いをしたこともありません。(子供時代はかなりひもじい思いもしましたが)
 もちろん、どんなに工夫をしても、努力しても、最低限の金がなければ不幸や不運は乗り切れないかもしれません。
 自分の人生を振り返ってみると、川崎市に木造長屋を買ったときも、越後に家を買ったときも、それを中越地震で失って福島県川内村の山中に土地と家を買ったときも、千万単位のお金は持っていませんでしたが、百万単位のお金は持っていました。
 もっとお金を持っていれば、選択肢は一気に広がっていたでしょうが、ないものはどうしようもないので、そのときどきに使える金額の範囲内で選択をしていくしかありませんでした。その決断に必要なのは、特殊な才覚、能力ではなく、少しの勇気と発想の転換です。
 給与生活者は特定の土地(職場に通える範囲)に縛られて生きていくしかないと思い込みますが、通勤生活が一生続くわけではありません。退職後の生活を今までと同じ土地で暮らさなければいけない必然性は何もないはずです。
 また、人生の幸福度数を考えたとき、勤めを辞めて別の土地に移り、今持っている金の範囲で違う生活を始めるという選択は年齢に関係なく可能でしょう。

 子育て世代の人たちからは「子供の学校のことを考えると転校させるのは可愛そう」などという声をよく聞きますが、子供の幸せではなく、そう思い込んでいる自分の生活を変更するのが怖いだけではないでしょうか。
 子供は養育されている間は親についていくものです。怒られるのを承知でいえば、子供は人間なのだからどんな環境でも順応して生きていけますが、一緒に暮らしている犬や猫を連れて行けないとか、親の痴呆症がどんどん進んでいくのでひとりにしておけないといった問題のほうがよほど解決が難しいように思います。

 阿武隈に住んでいた7年間で友人になったマサイさんは、若いときに仲間と一緒に電気も水道も、道さえもない山奥に「獏原人村」というヒッピーコミューンを作って勝手に住み始め、地主にばれてからはその土地を買い取って、今も自給自足生活を続けています。かつて獏原人村の人たちはそこで子供を作り、育てました。子供たちも、就学年齢になると、ちゃんと村の小学校、中学校に通い、その後立派に独立していきました。
 私にはそんな友人たちが何人もいます。
 私自身はそこまではできませんし、そうした生き方を推奨しているわけでもありませんが、今の日本では、よほどの不幸・不運を多重債務のように背負い込まない限り、どうにでも生きていけるはずだとは思っています。
コロナ時代の稼ぎ方
 ウィズコロナ時代になって、さかんに「リモートワーク」ということがいわれるようになりました。
 会社のオフィスにわざわざ行かなくても、自宅でできる仕事は自宅でしよう、ということですが、これをもう一歩進めて考えれば「そもそも会社に雇われている必要があるのか」という考え方に行き着くかもしれません。
 仕事の内容にもよりますが、今まで会社で積み重ねてきた経験と技術をもとに独立できないか、考えてみてはどうでしょう。
 今まで会社内で「効率が悪いな」「俺ならこうするのに」「こんなことでいいのか」といった疑問や不満を抱いていたことを、独立して実際にやってみるいいチャンスかもしれません。
 これからは大量生産・大量消費の時代ではありません。少子高齢化社会で、スキマ産業やきめ細かなサービス業、ネットを駆使したビジネスが生き残るはずです。
 独立する最大のメリットは「無理をしなくていい」「大きく儲けなくていい」ことです。自分が満足できて、生活が続けられればいいのです。仕事をすることに幸せを感じられる人生こそ、最も「効率のいい」幸福です。
リタイアしてから考えるのでは遅い
 今の時代、企業に所属する給与所得者(正規雇用者)になることさえも大変になりましたが、定年まで給料をもらって暮らしてきた人は、それまでの仕事の流儀や金銭感覚からなかなか抜け出せず、プライドも高いので、価値観の切り替えに失敗することが多いようです。
 家計のやりくりは妻に任せ、会社では経費を使って大きな仕事をしているというような人ほど、名刺の肩書きも給与も目の前の仕事もなくなる退職後、気持ちの切り替えができません。

 Aさんは大手出版社で定年まで雑誌の編集者をしていました。職場では毎晩最後まで残って仕事をし、その真面目さは上司からも評価されていたようです。
 そんなAさんも、若いときには絵描きを志していたそうで、それを知っている家族は、定年後は忙しすぎたサラリーマン時代の時間を取り戻すように、趣味三昧の生活を送るのだろうと思っていました。
 ところが、編集業が身体の奥まで染み込んでしまったのか、Aさんは退職後も知人が起業した編集プロダクションに誘われるまま仕事を続けました。しかも、その知人の「会社を立ち上げたばかりで余裕がないから、交通費しか払えない」という無給の条件をのんで事務所に通い続けたのです。
 当然家族は「そんなバカなことはやめてください」と言いましたが、Aさんは頑として聞かず、退職後も毎日終電で帰宅するような生活が続きました。
 10年後、その編集プロダクションはつぶれました。
 Aさんにとって、人生でいちばん楽しく過ごせたかもしれない60代の10年間はそうして消えてしまいました。
 私は出版に関しては素人ではないのでよく分かっていますが、Aさんが編集者をしていた時期は、印刷・出版業界が、活版~写植印字~DTPと変化していった時代です。退職した頃にはDTPに完全移行する直前で、コンピュータが操作できないと編集作業はできない時代になっていました。写植時代の経験はDTP時代にはあまり役に立たないどころか、場合によっては邪魔になることもあります。
 DTP時代をあまり経験していない熟年世代編集者が集まって立ち上げた編集プロダクションが、バブル崩壊後の厳しい出版業界で生き残れるはずもなかったのです。
 ですから、Aさんはきっぱり編集という仕事を忘れて、本来自分が何をしたかったのか、これから何をすれば幸せな時間が過ごせるのかを真剣に考え、生き方を選択すべきでした。
 Aさんは会社勤めを真面目に続けるうちに、いつしか自分の幸福感や価値観が、会社で与えられた仕事をこなし、出世していくことにリンクしてしまったのでしょう。
 同僚より仕事ができると上から有能だと評価される、そうした皮相的な相対性の中でのみ、幸福感、満足感を得ていたのだと思います。
 そうした仕事の経験に根ざすプライドも、相対する価値観が変われば見直すしかありません。
 Aさんが大切にするべきだったのは、編集という仕事の技術ではなく、今まで経験してきたことや知識を生かして新しい価値観を見出し、それを残りの人生の中で新しい形に再構築することだったと思います。
 年金をしっかりもらえる世代という幸運を生かせず、60からの楽しい人生を棒に振ってしまったのは残念でなりません。
「生涯現役」の覚悟
 私自身は今までの人生で、企業に勤めたことがないので、「固定給」や「賞与」をもらったことがありません。
 私が20代の頃は今とは違って「企業に就職するのがあたりまえ」という価値観が支配的な社会でしたから、一生、企業には所属しないという生き方を選ぶことは、多少の勇気が必要でした。
 一生、企業や組織に所属しない、通勤もしたくないという生活を実現するために、年金生活も最初から諦めました。
 企業や組織に勤めたことがない人間は国民年金のみですが、受給額は、保険料の納付月数で決まるため、20歳から60歳までの40年間きっちり保険料を納めた場合の上限が年額約78万円(月額約6万5000円)です。40年間しっかり納めている人ばかりではないため、国民年金の平均受給月額は、約5万6,000円だそうです(2019年)。
 最低受給資格期間の10年間(平成29年度より)であれば月額約1万6000円です。これは現在の年金の月額保険料(1万6540円)とほぼ同じなので、受給資格を得てから10年以上もらい続けてようやく「元本割れ」がなくなる計算です。
 これは40年間完全に支払い続けた場合も同じことで、要するに受給資格を得て(現在は65歳から)後に10年は生き続けないと元が取れないのが国民年金です。
 これからの時代、大規模災害や世界規模の戦争、テロ、資源枯渇と環境汚染……と、命を脅かす要因は山のようにあります。いつまでも平均寿命が80代のまま続くとは限りません。
 しかも、払った金は確実に消えますが、将来、年金がもらえるかどうかは分かりません。年金システムが破綻するのはほぼ確実なわけで、もらえるとしても今のような金額ではない可能性が高いでしょう。
 ギリギリの経済状態で人生のいちばん大切な時期を生きている若い人たちが、自分が生きているかどうか分からない65歳から(70歳からに引き上げることも検討されています)の人生で、もらえるかどうか分からない月額数万円のために月々1万6000円以上の保険料を払いたくなくなるのは当然のことでしょう。月に1万6000円あれば、今、家賃4万9000円のアパートに住んでいる人は6万5000円の部屋に住み替えられる計算です。どれだけ住み心地がよくなることか……。
 一方で、高度成長時代を生き抜いた熟年世代では、厚生年金の分が膨らみ、かなりの受給額になっていて、年金だけで余裕のある生活をしている人がたくさんいます。
 私の回りを見ても、高度成長時代に公務員や一流企業で高給を得ていた人は、月額20万~30万の年金をもらっているケースが珍しくありません。現代日本は「年金格差社会」なのです。

 私は「仕事ができなくなったときが死ぬとき」という覚悟で、自由業、自営業という生き方を選びましたから、年金に関しては最初からないものとして人生設計していました。
 年金ゼロということは、収入を得られなくなった後は、蓄えだけで生き延びるしかありません。常に、預金が毎年どれだけ目減りしていくかを見ながら生きています。
 それでも、今のところビンボー生活が不幸だと感じることはありません。
サイレントマジョリティの呪縛
 コロナ禍が訪れた2020年よりずっと前から、日本では世の中の空気が戦前に似てきたと言われていました。
 2019年に亡くなった私の父は昭和3(1928)年生まれで、陸軍士官学校で終戦を迎えましたが、何度もそう言っていました。
 政治は一党独裁に近い状態で、明らかな不正がまかり通り、それを阻止し、罰する役割の人たちがまともに仕事をしません。
 こうした傾向を支えている人たちはどういう人たちでしょうか。
 ネトウヨと呼ばれる排外主義的な人たちの言動がよく話題になりますが、いわゆるヘイトスピーチを繰り返すようなグループがそんなに多くいるとは思えません。
 しかし、実際には何度選挙を重ねても、政治の暴走を止める方向に動きません。
 2016年の参院選挙後、ある人がフェイスブックで呟いた一言がとても印象に残っています。
「戦前は強烈な『プロパガンダ』があったが、今はそこまでいかない『空気』程度だもんなあ。それでもこれか……」

 古い言葉ですが「サイレント・マジョリティ」(声をあげない多数派)こそが、社会の空気を作りだしていることは間違いないでしょう。
 サイレント・マジョリティの行動様式を決めているのは「ウィルフル・ブラインドネス」「ウィルフル・イグノランス」(やっかいな問題を見ないこと、考えないこと、ないものとすること)です。

 さらに踏み込んでいえば、小さな子供を持つ親のほうが、子供を持たない大人よりも未来のことをきちんと想像できていないのではないかと感じることがあります。
 環境破壊、経済格差、国のエネルギー政策の危険性と非合理、閉鎖的な村社会に埋没することによる八方ふさがりの人生……。そうした大きな負の要因・原因を直視せず、とりあえず親である自分が明日のご飯代、教育費もろもろの生活費を稼ぐこと、地域社会の中で「浮かない」こと、村八分にされないこと、といった日常の「空気感」を優先してしまう。「家族のために」と思って口を閉ざし、空気を読み続ける人たちが、昔からサイレント・マジョリティを形成しているのだと思います。
 親は「子供のため、家族のためにそうしている」と信じて行動する、あるいは行動しないわけですが、その結果、無意識のうちに深刻な問題の根源をうやむやにさせ、子供世代が将来その問題に対処することをさらに困難にさせてはいないでしょうか。
 目先の安心感を選ぶことが、子供の未来よりも、自分が今苦しまないほうを選ぶということになりかねません。もっとはっきり言えば、子供の将来より自分の余生のほうが大切だという深層心理が働くからではないでしょうか。
 こうした「日常家族保守主義」とでも呼べそうなものが、いつの世にも多数派を形成しているのだと思います。

 一方で、サイレント・マジョリティの対語であるノイジー・マイノリティのほうは、頭(理論)だけで問題が解決できると思いこみ、人間社会の細部を観察できていない傾向があります。
 自分の理想社会にとって不都合な真実を見極めず、理念だけで「これが正しい」と主張しがちです。
 マイノリティ(少数派)である上に、「突っ込まれどころ」を抱えてしまうと、サイレント・マジョリティからは、「ああ、あの手の連中ね」「関わらないほうがいい」「無視するに限る」と思われてしまい、いつまで経っても両者の間に有益な会話や議論、すり合わせが生まれません。
 その構造を熟知している頭のいい人たちは、サイレント・マジョリティを操るための道具としてノイジー・マイノリティを利用します。結果、悪代官的な人たちがますます権力構造を維持しやすくなります。
 川内村の「獏原人村」に今も残っているマサイさんはこう言っていました。
「理想ってさ、これが理想だと決めちゃうと、非理想があるってことになるじゃない。非理想は悪だ、って言っちゃってるわけじゃない。それってとても傲慢なことだよね」

社会は変えられないが、自分の生活は変えられる

 このように、目の前にあるものが「絶対」ではなく「相対価値」であることを忘れてしまうと、社会全体が間違ったルールで絶対化されるおそれがあります。
 では、そうならないように、社会を変えることはできるのでしょうか?
 社会、あるいは時代の空気というものが一人一人の「マイルール」の集合体であるとすれば、一人一人が意識すれば社会や時代の空気を変えることができるのでしょうか?
 一人では無理でも、意識を高めた人たちが集まっていけば、結果として社会は変わるのでしょうか?
 できると思っている人たちがいるからこそ、さまざまな啓蒙運動や言論活動が起きます。ましてや今は民主主義の社会なのだから、選挙で政治を変え、世の中を変えることができるはずだと多くの人たちは主張します。
 もちろんその考え方は正しいでしょうし、社会生活をしていく基本精神でしょう。
 しかし、正直なところ、私は社会や時代の空気を個々の人の意識変革によって変えることはほとんど不可能だと思っています。
 サイレント・マジョリティの力が大きすぎることもありますが、なにより人間の歴史が証明しています。人間社会は、とことん困り果て、痛めつけられないと、いい方向には変化しません。
 啓蒙や教育は絶対に必要ですし、その効果も、もちろんあります。私自身、人生の中で、いくら虚しくなってもそうした努力を続けているつもりです。外に対してだけでなく、何よりも自分に対して。
 私は選挙権を得てから45年以上にわたり、一度も棄権したことはありません。仕事を干されるのを承知で、政権批判や社会の様々なタブーに踏み込んだ発言もしてきました。
 しかし、個人がどれだけ頑張っても、社会や歴史を根底から変えるまでの力にはなりえないだろうとも思っています。
 なぜなら、最終的に個々の人間をつき動かしているのは、理論や合理性ではなく、生存本能やもろもろの欲望だからです。
 前述のサイレント・マジョリティの行動様式(「行動しない」ことも含めて)も、生存本能や「面倒そうなことには関わりたくない」という欲望によるものです。
 本能や欲望の力は強大で、しかも能力のいかんや人柄のよしあしに関係なく誰もが持っています。
 頭のいい人たちも、長生きしたい、強くなりたい、支配したい、快楽を得たい、楽をしたいといった欲求で動いているので、この世界では強大な支配者が非倫理的で不合理なシステムを作り上げているという現実があります。
 これを倫理や正義や合理性でひっくり返すことは無理でしょう。
 政治家が政治資金を私的に使っていたことが発覚しても、政治資金規正法では金をどう使うかは規制していないので「道義的には問題があっても法には触れていない」などということが起きます。規制される側であるべき政治家が自分の都合のいいように法律を作っているのですから、どうしようもありません。
 それを正すには法律を改正するしかないのですが、世論は政治家個人を攻撃して少しだけ憂さ晴らしをするだけ。メディアも政治家個人の人となりを暴き立て、庶民の感情を煽るだけで、問題の本質には踏み込まない。
 そういうことの繰り返しで、少しも進歩がありません。
 結果、多少人が入れ替わったとしても、社会は変わりません。少し改善されると、しばらくして揺り戻しのように元に戻ってしまう。現在はこの揺り戻しによってどんどん劣化しているように見えます。

 ですから、ここでは「社会を変える」とか「正義を訴える」ということよりも、劣化していく、悪化していく社会環境の中で、どのように正気を保ち、幸福感を維持できるかという、ささやかな方法を考えていきます。
 社会を変えることはできなくても、自分の生活を変えることは自力でできるからです。


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