土の地蔵 ~聖光学院時代の想い出 1~ ― 2023/06/27 11:27
爺のリハビリ一発録りシリーズは、リハビリというより、「昔作った歌を今も歌えるかどうかじたばた試しながら老いを実感しつつしみじみするしょーもないシリーズ」(長い)になっている。
小松くんが中学生のときに書いた「麗しき距離(ディスタンス)」という詩に、あたしが大学入学後に曲をつけた作品があって、Amキーのシンプルな曲なのだが、一部の人たちには人気があった。
単純な構成だけに、訴える力が強いのかもしれない。
最高音がGなので、若いときも通じてあたしが裏声なしで歌えるギリギリ。スローテンポでロングトーンも多いのでごまかしがきかない。リハビリにはもってこいの曲なのだが、やっぱりキツい。
この詩については(薄れかけているが)ちょっとした思い出がある。
中学2年のとき、同級生の工藤くん(現在は母校の校長・理事長)が「文芸同志会」というサークルを作りたいと言いだし、あたしにも声をかけてきた。
文芸よりも音楽に傾倒していたあたしは当初は断ったのだが、「よしみつがいなければ始まらない」とか言われて強引に引っ張り込まれた。
メンバーは数人。集まった作品は、工藤くんが実家(自動車の座席の土台などを作る金属加工工場)にあった湿式コピー機(青写真というやつ)で数部ずつ作った同人誌に載せたりしていた。
詩も俳句も短歌も興味がなかったあたしは、小説の真似事みたいなのを書いた。
連載、とか言いながら、未完のまま終わったりして、顧問(やはり工藤くんが強引に頼み込んだ)の井津先生からは「最初の数行を読んだときはすごい新人作家が出てきたと驚いたが、すぐにペラペラの流行ものみたいになってガッカリした」などと批評された。
この同人誌「新緑」(これも工藤くんが命名)の中で、断トツに輝いていたのが小松くんの詩で、みんながポカ~ンとするくらいのレベルだった。
というか、よく分からない「雰囲気」だけのものだったのかもしれない。いわゆる中二病みたいなやつ。
この『麗しき距離(ディスタンス)』にしても、わざわざ「距離」を「ディスタンス」と読ませたり、最後の「ゼロのアダージョ」(原文では「あだぁじぉ」となっていたような……)という言葉選びなんかが中二病っぽい。
みんな内心、かっこつけてるなあ、で、どういう意味よ、みたいなことは思っていたはずだが、批評するだけの自信も能力もなかった。
小松くんは辛口で、あたしを捕まえては他のメンバー(といっても二人くらいしかいなかった)の作品をけちょんけちょんに笑い飛ばしていた。あたしとしては、自分の小説もどきは文豪・小松くんの目にはどう写っているんだろうと気が気ではなかった。
文芸サークルは高校になっても続いたが、小松くんが、『新緑』はあまりにもダサいとクレームをつけて、誌名は「塔」に変わった。
その頃になると、小松くんの詩はどんどん言葉遊び的なものになっていって、中学時代の意味深なニュアンスが消えてしまった。
やがて大学受験が近づき、「塔」も自然消滅。
聖光学院卒業後、小松くんは現役で東大に進み、少林寺拳法部に入って作務衣(っぽい服?)に下駄履きで闊歩していた。あたしは時々麻雀に誘われたりしたが、麻雀はルールを知らないからと断り続けた。
麻雀抜きで誘われた飲み屋で、白菜鍋が美味いことを生まれて初めて知った。
「美味いだろ? 美味いんだよ。これが大人の味だよ」
みたいなことを、小松くんはあたしの隣で御猪口を片手に満足そうに言っていた。
大学卒業後、小松くんは電通に就職し、コピーライターとして活躍していたようだが、その頃からは疎遠になった。
一方、文芸同志会を立ち上げた工藤くんは明治大学で自分が部長のサークルを立ち上げ、一般人も募るスキーツアーを企画・主催するなど、観光会社もどきのことをしていたが、卒業後は母校・聖光学院に社会科(政治経済)の教諭として就職した。
あたしはレコードデビューでいろいろ失敗し、迷走の20代を過ごしていた。
その頃、作詞が面倒で、他人の詞に曲をつけたほうがいい作品が書けそうな気がして、小松くんが「新緑」時代に書いていた『麗しき距離』『無言歌』という詩を思い出してメロディをつけてみた。
1976年6月に上智でやったアンガジェ解散コンサートでも歌ったので、遅くとも1976年前半までにはできていたことになる。
後にCDに収録する際、小松くんに「地蔵は『土の地蔵』でいいんだよね? 石の地蔵、って書いたバージョンも見た気がするんだけど」と手紙で確認したら、
「書いたことも忘れていたくらいだから覚えてないけど、普通に考えれば地蔵は石でしょ」
という素っ気ない返事が来た。
いや、「土の地蔵」だったように思うがなあ……と訝っていたら、その後すぐに、
「地蔵は土でした。土じゃなければだめです」
という訂正の葉書が届いた。
だろ? 石の地蔵はあたりまえなんだよ。土の地蔵だから徐々に形を失っていく。そこに無常観が出る。
遠目には真っ白で美しい鶴(=麗しき距離)が、実は泥にまみれたドジョウを食って生きている(実体)。
その鶴が空高く飛んでいく姿(=麗しき距離)が、夕闇の藍(あい)色に紛れて、やがて闇に飲み込まれていく(幻想)。
美しい鶴の姿を包み込むのは、愛(あい)か、哀(あい)か……(願望と現実)。
そんな鶴の声(歌)が、雪降る夜半に染み通る。真っ白な雪に埋もれていく、誰かが手慰みで作った土の地蔵が、それを聴きながら、ああ、おのれの命(物質としての姿形)ももうすぐ消えていくんだなと、ほろ酔い気分で心の中で歌っている。
清濁、美醜を合わせ持つ命の営み。
形あるもの、いつかは消えゆく。消えていくから美しい……。
そういう詩なんじゃないの? だから「石の地蔵」じゃダメでしょ。作者が忘れてどうする。しっかりせえよ! と思ったものだ。
十代のときの感性を、人は大人になるにつれ忘れていく。
ユーミンが、アルバム『ひこうき雲』に収められた曲は、あの頃の自分にしか作れない作品で、今はもうあのときの感性は失ってしまったから書けない、というようなことを何かの番組で語っていた。
小松くんにしてもユーミンにしても、十代のときにキラキラと輝く才能と感性を発揮していた。
比べてこのあたしは、ただただ欲情をまき散らし、自己中心に振る舞い、「売れている曲のメロディに共通する傾向は?」なんて邪心にとらわれて曲を書いていた凡庸なバカだった。
50年経って、今はそうした失敗をしっかり俯瞰できているが、あの頃の瞬発力や、放っておいてもメロディが湧き出てくるような力は失ってしまった。
いろんなことを考えながら、まだまだ邪心だらけのまま歌っている爺である。
この距離感は、ちっとも麗しくないよなあ。
土の地蔵の心境になるのはほど遠い。
小松くんが中学生のときに書いた「麗しき距離(ディスタンス)」という詩に、あたしが大学入学後に曲をつけた作品があって、Amキーのシンプルな曲なのだが、一部の人たちには人気があった。
単純な構成だけに、訴える力が強いのかもしれない。
最高音がGなので、若いときも通じてあたしが裏声なしで歌えるギリギリ。スローテンポでロングトーンも多いのでごまかしがきかない。リハビリにはもってこいの曲なのだが、やっぱりキツい。
この詩については(薄れかけているが)ちょっとした思い出がある。
中学2年のとき、同級生の工藤くん(現在は母校の校長・理事長)が「文芸同志会」というサークルを作りたいと言いだし、あたしにも声をかけてきた。
文芸よりも音楽に傾倒していたあたしは当初は断ったのだが、「よしみつがいなければ始まらない」とか言われて強引に引っ張り込まれた。
メンバーは数人。集まった作品は、工藤くんが実家(自動車の座席の土台などを作る金属加工工場)にあった湿式コピー機(青写真というやつ)で数部ずつ作った同人誌に載せたりしていた。
詩も俳句も短歌も興味がなかったあたしは、小説の真似事みたいなのを書いた。
連載、とか言いながら、未完のまま終わったりして、顧問(やはり工藤くんが強引に頼み込んだ)の井津先生からは「最初の数行を読んだときはすごい新人作家が出てきたと驚いたが、すぐにペラペラの流行ものみたいになってガッカリした」などと批評された。
この同人誌「新緑」(これも工藤くんが命名)の中で、断トツに輝いていたのが小松くんの詩で、みんながポカ~ンとするくらいのレベルだった。
というか、よく分からない「雰囲気」だけのものだったのかもしれない。いわゆる中二病みたいなやつ。
この『麗しき距離(ディスタンス)』にしても、わざわざ「距離」を「ディスタンス」と読ませたり、最後の「ゼロのアダージョ」(原文では「あだぁじぉ」となっていたような……)という言葉選びなんかが中二病っぽい。
みんな内心、かっこつけてるなあ、で、どういう意味よ、みたいなことは思っていたはずだが、批評するだけの自信も能力もなかった。
小松くんは辛口で、あたしを捕まえては他のメンバー(といっても二人くらいしかいなかった)の作品をけちょんけちょんに笑い飛ばしていた。あたしとしては、自分の小説もどきは文豪・小松くんの目にはどう写っているんだろうと気が気ではなかった。
文芸サークルは高校になっても続いたが、小松くんが、『新緑』はあまりにもダサいとクレームをつけて、誌名は「塔」に変わった。
その頃になると、小松くんの詩はどんどん言葉遊び的なものになっていって、中学時代の意味深なニュアンスが消えてしまった。
やがて大学受験が近づき、「塔」も自然消滅。
聖光学院卒業後、小松くんは現役で東大に進み、少林寺拳法部に入って作務衣(っぽい服?)に下駄履きで闊歩していた。あたしは時々麻雀に誘われたりしたが、麻雀はルールを知らないからと断り続けた。
麻雀抜きで誘われた飲み屋で、白菜鍋が美味いことを生まれて初めて知った。
「美味いだろ? 美味いんだよ。これが大人の味だよ」
みたいなことを、小松くんはあたしの隣で御猪口を片手に満足そうに言っていた。
大学卒業後、小松くんは電通に就職し、コピーライターとして活躍していたようだが、その頃からは疎遠になった。
一方、文芸同志会を立ち上げた工藤くんは明治大学で自分が部長のサークルを立ち上げ、一般人も募るスキーツアーを企画・主催するなど、観光会社もどきのことをしていたが、卒業後は母校・聖光学院に社会科(政治経済)の教諭として就職した。
あたしはレコードデビューでいろいろ失敗し、迷走の20代を過ごしていた。
その頃、作詞が面倒で、他人の詞に曲をつけたほうがいい作品が書けそうな気がして、小松くんが「新緑」時代に書いていた『麗しき距離』『無言歌』という詩を思い出してメロディをつけてみた。
1976年6月に上智でやったアンガジェ解散コンサートでも歌ったので、遅くとも1976年前半までにはできていたことになる。
後にCDに収録する際、小松くんに「地蔵は『土の地蔵』でいいんだよね? 石の地蔵、って書いたバージョンも見た気がするんだけど」と手紙で確認したら、
「書いたことも忘れていたくらいだから覚えてないけど、普通に考えれば地蔵は石でしょ」
という素っ気ない返事が来た。
いや、「土の地蔵」だったように思うがなあ……と訝っていたら、その後すぐに、
「地蔵は土でした。土じゃなければだめです」
という訂正の葉書が届いた。
だろ? 石の地蔵はあたりまえなんだよ。土の地蔵だから徐々に形を失っていく。そこに無常観が出る。
遠目には真っ白で美しい鶴(=麗しき距離)が、実は泥にまみれたドジョウを食って生きている(実体)。
その鶴が空高く飛んでいく姿(=麗しき距離)が、夕闇の藍(あい)色に紛れて、やがて闇に飲み込まれていく(幻想)。
美しい鶴の姿を包み込むのは、愛(あい)か、哀(あい)か……(願望と現実)。
そんな鶴の声(歌)が、雪降る夜半に染み通る。真っ白な雪に埋もれていく、誰かが手慰みで作った土の地蔵が、それを聴きながら、ああ、おのれの命(物質としての姿形)ももうすぐ消えていくんだなと、ほろ酔い気分で心の中で歌っている。
清濁、美醜を合わせ持つ命の営み。
形あるもの、いつかは消えゆく。消えていくから美しい……。
そういう詩なんじゃないの? だから「石の地蔵」じゃダメでしょ。作者が忘れてどうする。しっかりせえよ! と思ったものだ。
十代のときの感性を、人は大人になるにつれ忘れていく。
ユーミンが、アルバム『ひこうき雲』に収められた曲は、あの頃の自分にしか作れない作品で、今はもうあのときの感性は失ってしまったから書けない、というようなことを何かの番組で語っていた。
小松くんにしてもユーミンにしても、十代のときにキラキラと輝く才能と感性を発揮していた。
比べてこのあたしは、ただただ欲情をまき散らし、自己中心に振る舞い、「売れている曲のメロディに共通する傾向は?」なんて邪心にとらわれて曲を書いていた凡庸なバカだった。
50年経って、今はそうした失敗をしっかり俯瞰できているが、あの頃の瞬発力や、放っておいてもメロディが湧き出てくるような力は失ってしまった。
いろんなことを考えながら、まだまだ邪心だらけのまま歌っている爺である。
この距離感は、ちっとも麗しくないよなあ。
土の地蔵の心境になるのはほど遠い。
2016年2月28日 工藤くんに召集された7人には小松くんも入っていた。
KAMUNAの全盛期に、この講堂でコンサートをやりたかったなあ。
KAMUNAの全盛期に、この講堂でコンサートをやりたかったなあ。
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