「ドレスの色の見え方が違う」問題 暇つぶし研究2015/03/01 19:25

白・金? or 青・黒?
「ドレスの色が違って見える問題」の研究


一昨日あたりから「このドレスの色は金と白? それとも黒と青?」っていう論争がネット上を席巻している。
ある女性がネットに投稿した写真が「騒動」の発信源らしい。またたくまに世界中に広まったようだ。
あまりに騒がれすぎているので、ここで敢えて取り上げるのも大人げない?気もするが、久々に面白いネタだったので、とことん調査してみた。

↑これが「元ネタ」らしい

実物は「黒と青」 要するに写真の色味がおかしい


↑これが実物 
このドレスの「実際の色」は黒と青だそうだ。販売サイト↑にある写真がいちばん本物に近いだろう。50ポンドで売られている。
しかし、問題の写真はどう見ても「黒と青」には見えない。撮影時の設定が狂っているのか、カメラの性能が悪くて逆光に耐えきれず色情報が飛んでしまっているのか、後から意図的に色味を変えたのか……とにかく正しい色に記録されていない。
これはまず疑いの余地がない事実。

ネット上にはたちまちいろんな説が登場した。
一つ目は、「脳内で推測した『環境光』によって色を補正して認識するため、逆光ととらえるか順光ととらえるかで違う色に見えてしまう」というような説。一種の錯視である、というわけだ。
⇒ここ とか ⇒ ここではそうした「錯視説」を唱えている。

その論証の材料として、騒動の元になった画像のホワイトバランスを極端にいじった画像を並べて説明を試みている人たちがたくさんいる。
下の画像はその代表例。

Twitterに投稿された「どMなキョン・真打」さんが作成した元写真、金色に見える写真、青に見える写真

それでも残る謎

上の画面は、元の写真の「白か青か」で揉めている部分を四角く切り取って、これが「青」に見えるにはどこまで補整したらいいかを実験しているところ。
ご覧のように、ガンマ補正で極端に暗くして、RGBでは、赤をど~んと落とし、緑も落とし、青はど~んと上げると、ようやく「青」になる。
「青と黒に見える」と言っている人は頭の中でこれだけ極端な修正をしているのだろうか?
この写真の色味やホワイトバランスが大きく狂っていることは歴然だが、問題は、その「色情報がおかしくなった写真」をなんの事前情報もなく見て、「青と黒にしか見えない」という人がいっぱいいることだ。

これも多くの人が試みているが、そもそも元写真の色情報はどうなのか?
僕もやってみた。

「黒」か「金」かで揉めている部分の色をスポイト抽出↑


色情報はこうなる↑


「青」か「白」かで揉めている部分の色をスポイト抽出↑

色情報はこうなる↑


もう少し分かりやすく四角に切り取ってみる↑


切り取った部分はこうなっている↑(A)


「青」か「白」かで揉めている部分を切り取ると↑


切り取った部分はこうなっている↑(B)
上の切り取った四角形を単独で見て、これを「折り紙」だとしたら何色に見えるだろうか。
(A)を「黒」だと言い張る人はいないのではないだろうか? 普通に見れば、金茶色、黄土色、濃いベージュ……いろんな言い方がありそうだが、間違っても「黒」ではない。
(B)はちょっと微妙で、正確にいえば「白」ではない。見たまんまなら、青みがかったグレーというところだろう。カラーピッカーで色情報を見ても、青系統であることははっきりしている。だからこれを「青」と言う人は間違っているとは言えない。青が何かの拍子に白っぽく写ってしまった、という解釈を脳内ですることはありそうだ。

つまり、「白と金」と見ている人は、この写真の色そのものから判断している。逆光あるいは暗い場所で撮ったために、白はグレーになり、金は黄土色のように写っている、と脳が判断している。
逆に、「青と黒」と言っている人は、極端に色を暗めに修正して見たことになる。



このカラーピッカーのチャートで分かるように、色の薄い部分の実際の色情報としては明るいブルーグレーなのだが、このポイントを右下に移動させていけば(暗くしていけば)青系統の色になる。

ということは、
  • 白と金 に見えている人は、実際の写真の色に近い色で判断している
  • 青と黒 に見えている人は、実際の写真の色ではなく、その色情報を極端に暗めに脳内で補整して見ている
ということになる。

さらに興味深い仮説

大体のところはこういうことだと思うが、それでも、なぜ金茶色を黒に、明るいブルーグレーを濃い青にまで補整してしまう人が多数いるのか、まだスッキリしない。
多分違っていると思うが、興味深い仮説もひとつ紹介。
「青と黒」に見える人の多くは女性だそうである。で、実際のドレスの色は青と黒である。女性のほうがファッションには敏感なので、このドレスの本当の色は青と黒だと、経験則、あるいは配色の好み(センス)が働いて色味が壊れる前の実物が何色かを「見抜いている」のではないか? という説。
う~~ん。面白いけれど、無理がある?

もうひとつ、これはかなり可能性が高いと思うが、「色の名前」と実際の色の照合具合(レンジの広さ)が人によって違うからだ、という説。どこまでを「青」と言うのか……というような問題。
今回の写真の、

↑これを、同じように見えてはいるけれど、「青みがかったグレー」だと認識している人と「薄い」だと認識している人がいる、というわけだ。言い換えると言葉(色の名前)の「定義」の問題。
グレーなら白が影に入ればグレーに見えるから、「もとは白だよね」と脳が判断する。
一方で「薄い青」だと思っている人は、広義で「青」と言っている。(よく訊いてみると「濃い青だとは言っていない。薄いくすんだ青だ」というように説明する人がいる)
であれば、見ているモニターの輝度もかなり関係してくる。明るくしていれば青には見えづらいし、暗くしていれば青に見えやすい。

哲学?の命題で、ある人が「青」だと認識している色が別の人には「赤」く見えているかもしれない。でも、色の名前と見えている色をお互いに照合して「違う」と分かることはできないので、永遠にその違いに気づくことはない……というのがある。
そんなことも思い起こす。

錯視の種類と個人差

以下は「オマケ」。

今回の「騒動」を錯視の一種だとするなら、錯視しやすさ(度合)は当然個人差があるだろう。
また、錯視にはいろいろな種類があり、明暗差の補整錯視と色味の補整錯視では起きやすさが人によって違うことも考えられる。
今回の現象を説明しようとしているWEBページやブログには、いろんな錯視サンプルが出ている(中には今回の説明のためにわざわざ作ったらしいものもある)のでいくつか紹介してみる。


まずは有名な明暗差の錯視。上の図は⇒こちらから引用させてもらった(そのさらに元があるのだと思うが分からない)。
誰が見てもAとBが同じ濃さには見えないが、実際に切り取って並べてみると同じだと分かる↓


同じサイトに、色味が変化して見える実験としてこんな図もある↓



瞳の部分がそれぞれ水色、黄色、赤に見えるが、実際には同じグレーだ、というもの↓

↑左の画像の左右の瞳部分を抽出して並べたもの


今回のドレスの色騒動を説明するために作られたイラストもある。
⇒ここ にある女の子のイラストや、⇒ここにあるモデルの女性の明暗差でドレスの色が変わって見えるかという画像に関しては、どちらも僕の場合は同じに見えて、大きな差は感じなかった。(2つめのページの女性の画像は、左側はスカートのいちばん下の部分を女性と一緒に暗くしてしまっているので黒くなってしまってはいるが、これは単なる処理ミスだろう)


……とまあ、こんなところでしょうか。
セシウムがどうのとかいう話題ばかりだと疲れるから、たまにはこういうネタで盛りあがるのもいいかもね。
そうそう。今回の騒ぎの中で、いちばんうけたのはこれ↓かな


惜しいのは「金と銀」としたら、「赤と青」にしないとね。「青と赤」じゃ逆ですから~! (ギター侍風に)


↑最近いちばん感動した買い物 小さな黒い箱をつなぐだけで家庭のテレビで世界の娯楽を楽しめる

「ぷぺ!」と「Jane Jane」2014/08/15 12:10

「ぷぺ!」とJane Jane

『ジョン・コルトレーンと女子高生』というブログネタをFBでシェアしているFB友達(画家のOさん)がいて、ついつい読んでしまった。
ブラスバンド部員らしき女子高生たちが電車の中でこんな会話をしていたというお話。
「顧問の〇〇がさあ、これを聞いて勉強しろって、ジョンコルトレーンっていう黒人のCD貸してくれたんだけどさ~、メチャクチャ吹いてるだけでさ~、も~、うるさいんだよね~」

「あんたなんかいいわよ。わたしなんかマイルスとかゆう黒人でさ。時々「プペ!!」っていうだけなんだから」

「でもさ~、一番悲惨なのは〇子よね~。キースなんとかいう白人のピアニストでさ、妙な喘ぎ声上げながら弾いてるの。もうキモくてキモくて鳥肌たっちゃったわ」

「やっぱ音楽聴くんなら嵐よね~。センスが違うわよね~」

「よね~」
これを書いた「ドラびでお」氏は、本名は一楽 儀光(いちらく よしみつ)といって、最近までドラマーをしていたが、腰痛に耐えられなくなり現役引退したという。
引退後の今は、山本製作所の電子デバイス開発部門「tkrworks」とともに開発した新楽器「DORAnome」の演奏活動をしているそうだ。⇒こんな感じのものらしい。
昔(僕が高校生の頃)、キース・エマーソンが舞台上でなんかこんな感じのことをやっていたような……。

で、FBではこのネタをめぐって、画家のOさん(女性)と占星術ライター(??)のAさん(女性)が長い長いチャット状態になり、い~~っぱいコメントを書いていて、そのコメント群のほうが面白くて、ついついこれも最後まで読んでしまった。
以下はOさんの膨大なコメントから抜粋。
あたしが嫌だなあと思うのは、若い子たちが自分が理解できないことに対して畏れや敬いを持たないってことです。
「これがわからない自分が無知なだけじゃないのか」と考えたり「自分にわからないものは世の中ににいくらでもあり、今わからないからってそれはくだらないものであるとは限らない」「自分はこれから進歩するんだから感性だって変わるはずだ」ぐらいのことは考えられるべきでしょう。
権威というのは歴史とくっついている価値観だけど、それは進化を信仰することなので。もしも人間は進化なんかしていないってことになれば、歴史の後ろに連綿と続く価値観も軽くなっちゃいますね。事実以上のものってなくなっちゃうね。

若者は本能的に権威を憎むけど、そのうち理解するようになる。それが今までの常識だけど、そうじゃなくなるかもしれません。「教養」が共有できない世界が来れば、ピカソはへたくそで、ルノワールはデブばっか描いてた気持ちのわるい変態絵描き、ってことでOK!ですわ。


いやあ、楽しませてくれるなあ、みなさん。

僕は元ネタの女子高生の会話は作り話ではないのかと思ったのだが(できすぎているから)、多少「盛っている」としても、ほんとにあったのかもしれない。
3匹目の猫を飼うことになったら、名前は「ぷぺ!」にするか……とか思ってしまった。



「若い子たちが自分が理解できないことに対して畏れや敬いを持たない」というのはいつの時代でもそうなのだろうけど、今は特にその傾向が強いかもしれない。

僕は小学校高学年くらいまで、美術、特に絵画については興味が持てなかった。
それが「あれ? もしかして絵って面白いのかもしれない」と思ったきっかけはパウル・クレー展が東京であって、それを見に行くというお袋が見せてくれた画集の中の『さえずり機械』という作品だった。
『さえずり機械』パウル・クレー
感動とまでは言わないが、なんかいいなあこれ、なんだろう、この「いいなあ」って思う気持ちは……と。
恋に目覚める少年のような心の動きがあった。

(この作品に感動している人は他にもいっぱいいる↑。実際に作ってしまった人も……)



音楽はもっと晩稲だった。
2歳10か月でカナダ人の音楽教師(シスターだったらしい)から音感教育を受け、4歳でヴァイオリンを習ったが、とにかくお袋が独善的に押しつける「音楽教養主義」みたいなのが嫌で、小学校に上がってからはずっと音楽に興味が持てなかった。
それが小学校6年生のときに放送部で朝礼の前に行進曲のレコード(『双頭の鷲の旗の下に』)をかける係をやってからマーチ音楽にかぶれ、スーザ作品集をソノシートで買ってもらったのが音楽が好きになるきっかけだった。
中学生でサイモン&ガーファンクルとオフコース。
それからはずっと美しい声(男声)のPOPコーラスにかぶれていた。

……で、ジャズの話。

ジャズという音楽ジャンルについては、僕はずっと理解できなかったし、理解しようとも思わなかった。
子供のときに叩き込まれた音感が、いわゆる教会旋法で終わっていたので、普通の長調と短調以外のメロディは「ドレミで歌えない」というところで困惑する。それこそ「ぷぺ!」や「滅茶苦茶でうるさいだけ」と感じるものが多かった。要するに「メロディのない音楽なんて何が楽しいの? そんなのただの『音』じゃん」と思っていた。
それが、「あれ? ジャズってかっこいいのかも」と思ったのは、ナベサダがやっていたFM番組『My Dear Life』で、鈴木良雄をゲストに迎えて、鈴木良雄のオリジナル『Sleep My Love』というのを聴いたのがきっかけだった。
ドレミでは歌えないテーマだが、すごくかっこいい。聴いていてゾクゾクする。
ほぼ同時に樋口康雄を知り、大野雄二が作曲するかっこいいCM音楽(特にFMで流れていたAKAIのシリーズ)にもショックを受け、俄然、ジャズ的な要素にはまっていった。
自分がやっていたバンド活動(S&Gやオフコースのコピーから始まっていたので、基本は歌とギター)のほうでも、9thやsus4といったテンションに痺れ、デビッド・クロスビーによってEm9の洗礼を受け、ローラ・ニーロにadd 9の緊張感を教えられ……。
(実は、今思えばこれはあんまりいい影響ではなく、歌のほうはもっとドレミファ旋法で「歌える鼻歌メロディ」の美しさを追求すべきだったのだが……)

……こんなふうに、歳を取って、昔を懐かしむ時間が増えた。
仕方がないことだとは思う。
今の日光に引っ越すことになり、資金を得るために百合丘に持っていた仕事場(木造長屋の一角)を処分したのだが、その際に膨大な数のカセットテープやレコードを処分した。
貴重だと思える音源は、ずいぶん前にDATにコピーしてあったのだが、今思うと甘かった。
当時は価値を感じていなかった音源が、今になって無性に聴きたくなる。あの録音はどこかに残っているかな……と、DATテープの山を引っかき回すこともある。

『タモリ倶楽部』で、日本で唯一、カセットデッキを製造し続けているTEACのショールームに、出演者たちが昔のカセットテープを持ち寄って聴くという企画の番組を見た。
「高速道路ぶっとばしBGM」とか書いたテープを持って来たのは泉麻人。
当時のヒット曲が入っている。
でも、そんなもの、今は「YouTubeで聴けるじゃん」というのが僕の感想。
そのカセットテープの存在を「物」として懐かしむ以上の意味はない。

みうらじゅんは、自分が若いときに400曲くらい書いたというオリジナル曲(ギター1本で弾き語り)の入ったテープを持って来ていた。
これは感心してしまった。あの人はやっぱりただ者ではない。
「好き」とか「面白がる」も、みうらじゅんくらいに徹底的にやるとプロと呼べる。

ちなみにうちにはもう再生可能なカセットプレイヤーは1台もない。DATデッキは2、3台残っているのだけれど、たまに残されたテープを再生するためだけに使っていて、新たに録音はしない。あたりまえだな。
おかげでDATやMDの未開封テープがかなり残っている。皮肉だ。
レコードプレイヤーは、多分動くだろうというのを1台だけ残してあるが、物置のいちばん奥に入れてあって、もう一生、引っぱり出すこともないだろう。
アナログレコードのほうがデジタル録音よりいい音だ、と感慨にふける趣味も持ち合わせていない。自分の聴力ががっくり落ちていることもあるし。

我が家に今でも残っているレコードは十数枚くらいで、そのほとんどは自分の曲が収録されたものとか、マイナーすぎてCD化もされていないような(ちゃんと調べればCD化されているものがほとんどだろうけど)もの。

今、後悔しているのは、レコードのコピーなんかはどうでもよかったから、自分たちの生演奏のテープとか、そういう、無二の録音物のコピーをしっかり残せなかったこと。
何とかの法則で、今思うと貴重なもの、残しておきたかったものほど喪失している。

高校1年生くらいのとき、学校の階段下で、放課後、ラジカセを回して録音した演奏とか……。

↑これは聖光学院時代、自分のバンド「巨蕭(きょしょう)」の練習風景。1971年くらい。
中学2年(1969年)の秋、卒業生(8年先輩)のオフコースが学園祭の閉会式間際に飛び入り演奏したのを聴いて衝撃を受け、翌日すぐにオフコースのコピーバンドを結成。
当時のオフコースはPPMのコピーなどをしていたから、僕らはオフコースを通じてPPMやバカラック、ビートルズ、ニール・セダカ……などなどを知ることになった。
これは『Jane Jane』というPeter,Pual & Mary (PPM)の曲。
小田さんのパート(Maryのパート)を歌っているのが僕。

僕らはオフコースの演奏でこれを知ったので、本家のPPMの演奏を聴いたのは後になってからだった。
今はYouTubeで動画まで見られる。すごい時代だ。

↑本家PP&Mの『Jane Jane』



上智で非常勤講師をしていたとき、初期では3回くらい講義できたので、1回目はそういうのを学生に聞かせて、こんな感じで俺は音楽を一生のテーマにしようと決めていったのだよ、と語ったりしていた。
オフコースが歌った『Jane Jane』(1969年の録音)は必ず最初に聴かせた。その後に上の、聖光学院時代にオフコースをコピーしていた自分たちの演奏を聴かせ、樋口康雄にかぶれていったきっかけとなった『遠い海の記憶』(歌は石川セリ)を聴かせ、樋口さんの実家二階で一緒に練習したときのテープを聴かせ……。
最後はビクターでデビューしかけたとき、デビューアルバムに収録されるはずだった『Go Away』という僕のオリジナルを聴かせて、こんな風に若気の至りで人生を失敗したのだよ、と語る……。

それも数年続くと自分があまりにも惨めになってきて、やめた。
そのとき、高校1年生のときの演奏を、授業では1曲まるまる聴かせるのはしんどいなと思って、フェイドアウトさせる編集をしたのだが、今は元テープが喪失して、その、途中(というか、出だし)で終わってしまうコピーしか残っていない。↑

今、ちゃんと1曲分聴きたいと思っても残っていない。


で、話が脱線したが、再びジャズの話。

15年くらい前、鬱病と金欠で死にそうになっていたとき、今は亡き永井明さんに誘われて、四ッ谷のバーで行われた小さなパーティに行った。
そこで、僕のことを心配した(のだと思う)永井さんに、朝日新聞社の穴吹史士さんを紹介されて、それからしつこく何年も穴吹さんに本を送り続けたのがきっかけで、朝日新聞デジタル版でコラムを書くことになり(穴吹さん個人が勝手にやっていた梁山泊的なコラム子集団AIC。原稿料はどれだけ書いても2000円。朝日のOBは無料奉仕だったから、まだ2000円もらえるだけよかったが)、そこから少しずつ回復していって、岩波や講談社ともつながって……という、今思えば重要な一日だった。



そのパーティには大野雄二トリオが呼ばれて生演奏した。
大野雄二(pf)、鈴木良雄(b)、村田憲一郎(ds)というトリオ。
大野雄二も鈴木良雄も大好きなミュージシャンだったので、それを聴くために無理をして行ったのだった。(当時は本当に金がなくて、会費の1万円を出すのは大変な決意が必要だった)

大野雄二は、AKAIのFM番組のCMソング、CM音楽をいっぱい作っていて、大好きだった。
ビクターから「アンサー」でデビューしかけたとき、丸井の20周年だかのキャンペーンソング『丸井からありがとう』を歌ったのだが、その作曲が大野さんだった。
その話を大野さんにしたけれど、全然覚えてなかった。
「いっぱい作ったからね……」
そんなのいちいち覚えていない、と。

鈴木良雄さんには、「ナベサダのFM番組『マイディアライフ』で、鈴木さんがゲストのとき、鈴木さんがナベサダさんと一緒に生演奏した『Sleep My Love』という曲が、僕が「ジャズっていいなあ。これこそ純粋な音楽かもしれない」なんて考えを変えるきっかけになったんですよ。だから鈴木さんは僕をジャズに引き入れてくれた人なんですよ」と言った。(初対面だったから、さすがに愛称の「ちんさん」とは言えなかった)
ところが、これまた「全然覚えてない」と言うのだ。
「こういうメロディですよ」
って、テーマをハミングしてみせたんだけど、それでも「思い出せない」……と。

嘘だろ。自分で作曲して、あのナベサダと一緒に演奏して、番組で放送もされた曲の曲名もテーマも忘れているなんて、と、びっくりした。

でも、本物のアーティストって、そういう人たちなのかもしれない。
常に今を、これから先にどんな作品を作れるか、何ができるかを考えている。昔のことは忘れてもいい。


形あるものは必ず滅す。

自分の存在も。

僕はもう長いこと、自分がどう死ぬかというテーマでずっと悩んでいる。
できればぎりぎりまで楽しんで、最後は極力苦しまない、周囲にかける迷惑も少なくした形の半自殺みたいなのがいいのかな、とも思う。病院でパイプにつながれて……というのだけは嫌だ。
で、その寸前まで「新しいもの」を作り続けたいと思う。
社会的には無視されても、自分の心の中では「現役」でいたい。
今も身体がどんどん動かなくなっているが、指だけはなんとか動かせるようにしておいて、死ぬ直前まで現役で創作し続けたい。
ナベサダとかステファン・グラッペリは、生涯現役で一流のプレイをしている(いた)。
僕にとってはもう、神様みたいな存在だ。

どこまで頑張れるのかなあ……。

とりあえずは、今やっている『デジタル・ワビサビ』の音楽アルバムを完成させよう。


『Threshold: Whispers of Fukushima』の予告編第2弾が完成↓

Threshold Whispers of Fukushima trailer vol. 2 from Toko Shiiki on Vimeo.


『赤毛のアン』の訳者比較2014/03/31 01:24

27年前、茅野さんから送られてきた『赤毛のアン』と手紙
明日から始まるNHKの連続テレビ小説『花子とアン』は、『赤毛のアン』の最初の訳者として知られる村岡花子さんの生涯を描くものだそうだ。
『赤毛のアン』というと、僕にとっては親友である茅野美ど里さんが念願叶って翻訳を手がけた作品、という認識が最初にある。というか、彼女が翻訳したものを送ってくれるまで、『赤毛のアン』に興味を持ったことはなかったし、正直、今もあんまりない。
で、茅野さんが以前、「『アン』シリーズは村岡さんの訳が神聖視されているようなところがあって、なかなか他の人が手を出せる感じではなかった」というようなことを言っていたのを思いだした。
『赤毛のアン』の日本語訳を手がけた人はどのくらいいるのだろうと改めてWikiを見てみたら、

(1952年) 村岡花子訳 - 日本にアンを普及させた訳として知られているが、完訳ではなく所々に省略箇所がある。三笠書房、新潮文庫(1954年)。
(1957年) 中村佐喜子 訳 - 角川文庫。
(1969年) 岸田衿子 訳 - 学習研究社
(1973年) 神山妙子 訳 - アニメ作品の底本となった訳。旺文社文庫、新学社文庫。旺文社文庫版は絶版入手困難。グーテンベルク21のデジタルブック版は入手可(外部リンクを参照)。新学社文庫版は中学生用図書教材であり、一般書店では流通しておらず、最寄りの新学社教材取扱店が注文を受けてくれれば個人でも現在入手可。
(1975年) 猪熊葉子 訳 - 講談社文庫(旧版)。
(1987年) 茅野美ど里 訳 - 偕成社。
(1989年) 石川澄子 訳 - 東京図書。
(1989年) きったかゆみえ 訳 - 全訳に近い抄訳。金の星社。
(1990年) 谷詰則子 訳 - 篠崎書林。
(1990年) 谷口由美子 訳 - 少年少女世界名作の森 14。集英社。
(1990年 - 1991年) 掛川恭子 訳 - 完訳シリーズ。ただし、トビラでのブラウニングの詩の引用がない。講談社(2005年4月から文庫化)。
(1992年) 曾野綾子 訳 - 抄訳。河出書房新社・河出文庫、新学社世界文学の玉手箱シリーズ。
(1993年) 松本侑子 訳 - 訳者の研究による注釈が豊富な訳本。文学引用を解説している。集英社。


……と、結構ある。
茅野さんは1987年で村岡花子さんから数えると6人目の訳者らしい。

⇒このブログ に、村岡花子、掛川恭子、松本侑子 3氏の訳の比較が出ていた。
これに茅野さんのを並べてみると、とても興味深い結果になった。


原文:
A child of about eleven, garbed in a very short, very tight, very ugly dress of yellowish gray wincey. She wore a faded brown sailor hat and beneath the hat, extending down her back were two braids of very thick, decidedly red hair. Her face was small, white and thin, also much freckled; her mouth was large and so were her eyes, that looked green in some lights and moods and gray in others.
So far, the ordinary observer; an extraordinary observer might have seen that the chin was very pointed and pronounced; that the big eyes were full of spirit and vivacity; that the mouth was sweetlipped and expressive; that the forehead was broad and full; in short, our discerning extraordinary obeserver might have concluded that no commonplace soul inhabited the body of this stray woman-child of whom shy Matthew Cuthbert was so ludicrously afraid.

村岡花子・訳 (1952年三笠書房刊、1954年新潮文庫版)
 年は十一歳くらい。着ている黄色みがかった灰色のみにくい服は綿毛交織で、ひどく短くて窮屈そうだった。色あせた茶色の水兵帽の下からきわだって濃い赤っ毛が、二本の編み下げになって背中にたれていた。小さな顔は白く、やせているうえに、そばかすだらけだった。口は大きく、同じように大きな目は、そのときの気分と光線のぐあいによって、気取り色に見えたり、灰色に見えたりした。
 ここまでが普通の人の観察であるが、特別目の鋭い人なら、この子のあごがたいへんとがって、つきでており、大きな目には生き生きした活力があふれ、口元はやさしく鋭敏なこと、額は豊かに広いこと……

茅野美ど里・訳 (1987年刊、偕成社)
 十一歳ぐらいの女の子で、綿と毛の混紡織りの、なんともさえない、つんつるてんの黄ばんだ服を着ている。頭には色あせた茶色い水兵帽をかぶっており、帽子の下から、まっかもまっか、すごい赤毛の太い三つ編みが二本、背中にたれていた。顔は小さくて青白く、やせていて、そばかすだらけだった。目も口も大きく、目は角度と気分によって緑色にも灰色にも見えた。
 ここまでが、ごくふつうの人の観察である。もうすこし観察眼のするどい人なら、この少女のあごがとがって、きわだっていること、大きな目には元気と活力がみなぎっていること、くちびるが愛らしく情感にあふれていること、ひたいが広くて豊かなことに気がついたはずである。つまり、洞察力にすぐれた人が見れば、マシュー=カスバートがばかみたいにおそれている、このさすらいの少女のからだには、人なみはずれた魂がやどっていることがわかったはずなのである。

掛川恭子・訳 (1990年刊、講談社)
 年は十一歳ぐらい。白だか黄色だかわからない綿と毛の混紡の布で作った、とても短くて、とてもきちきちで、とてもみっともない服を着ている。色のあせた茶色い麦藁帽をかぶり、帽子の下から、見まちがいもないほど真っ赤な太いおさげが二本、背中までぶら下がっている。小さな顔は青白くて、やせていて、そばかすだらけだ。口は大きく、同じように大きな目は、光の具合やそのときの気分で、緑色に見えたり、灰色に見えたりする。
 そこまでわかるのは、普通の観察力のある人だ。もっと観察力の鋭い人には、それ以上のことがわかるだろう。あごがとてもとがっていて、頑とした意志を感じさせる。大きな目は気迫にあふれて、いきいきと輝いている。口もとはやさしくて、表情豊かだ。額はゆったりと広い。

松本侑子・訳 (1993年刊、集英社)
 年の頃は、十一歳くらい。黄ばんだ白の服を着ている。綿と毛の混織地で、丈が短く、幅もきちきちで、みっともない代物だ。色あせた茶色のセーラー帽をかぶり際立って赤い髪を、二本の太い三編にして背中に下げている。小さな顔は青白くて、肉が薄く、雀斑が散っている。口は大きいが、目も大きく、その瞳は、光線や気分によって緑色にも灰色にも見えるようだ。
 普通の人が見ればこの程度だが、洞察力のある人なら、こんなこともわかるだろう。あごは尖っていて凛々しいこと。大きな瞳は生き生きと生気に満ち、唇は愛らしいが、口元は表情に富み、そして額が広く豊かなこと。


……とまあ、こんな感じだ。
茅野訳以外は、引用元のブログで1つの文章の途中までの訳しか出ていないので最後のところは比較できなかったが、訳文の違いを見ていくとすごく興味深い。
このシーンは、アンが最初に登場するシーンで、ひっそりと暮らす初老の兄妹が孤児院から男の子を引き取ったつもりだったが、兄が駅に迎えに行くと、待っていたのは男の子ではなく赤毛の女の子だった……という場面。
だから、読者にどう印象づけるかがすごく重要になってくる。
小説を書くとき、こういう説明を並べただけの文章というのは結構難しい。どう書けば読者の頭にすっとイメージが浮かぶか、登場人物像をうまく印象づけられるか……テクニックの見せ所となる。

なぜか掛川恭子訳だけ sailor hat を「麦藁帽」と訳している。麦藁帽とセーラーハットでは全然違うが、単純なミスだろうか。ミスだとしてもすごく不思議なミスだ。

服の描写が、

着ている黄色みがかった灰色のみにくい服は綿毛交織で、ひどく短くて窮屈そうだった。(村岡訳)

綿と毛の混紡織りの、なんともさえない、つんつるてんの黄ばんだ服を着ている。(茅野訳)

白だか黄色だかわからない綿と毛の混紡の布で作った、とても短くて、とてもきちきちで、とてもみっともない服を着ている。(掛川訳)

黄ばんだ白の服を着ている。綿と毛の混織地で、丈が短く、幅もきちきちで、みっともない代物だ。(松本訳)

……というのも面白い比較になりそうだ。

その後、家まで馬車で送られる道中、アンが迎えに来てくれたマシュー(60歳・独身。妹と同居の小心で風采の上がらない男)に、
「いつか白いドレスがほしいんです。白いドレスを着られたら、最高のしあわせだと思うわ。あたし、きれいな服って大好き。おぼえてるかぎり、一度もきれいなドレスなんて着たことないけど、これから着られるかもしれないって思えば、そのぶんたのしみにできるでしょ? (略)けさ、孤児院をでたとき、このぼろっちい、みにくい、混紡織りの服を着なくちゃならなくて、ほんとうに恥ずかしかった!」(茅野美ど里・訳)
と告げている。
この部分の伏線にもなっているから、着ている衣服のことはちゃんと読者に印象づけなくてはいけない。
服を形容する very ugly の訳として、出版順に見ていくと、

「みにくい」(村岡)⇒「なんともさえない」(茅野)⇒「とてもみっともない」(掛川)⇒「みっともない」(松本)
 ……となっている。


ugly の訳語としては「醜い」「見苦しい」「醜悪な」「不快な」「いやな」……といったものが辞書に載っているが、日本語にするとき、この場合はどんな形容をすればいいのか……そのへんに訳者のセンスが現れる。
中学生のとき、「小説というのは描写することであり、説明してはいけない」と教えられた。
著者の主観が入った形容詞や説明はなるべく抑えるべきだとすれば、「みっともない」というのはかなり主観的な形容詞のようにも思える。
また、後から訳す人ほど、それまでの訳者の文章を参考にできるわけで、ちゃんと原文にあたって自分の訳を心がけないと、思わぬ誤訳をコピペしてしまう可能性もある。
……そんなことを考えながら訳文を比べていくと、一日どころか何か月でも遊べそうだ。
それにしても、翻訳というのは滅茶苦茶大変な作業だなあ、と、たったこれだけの文の訳を比べてみただけでも思い知らされる。
原文があるほうが大変。小説を書くのはゼロからだから楽なんだな、と思った。

上の写真は我が家の本棚の一角。茅野さんから謹呈された本が並んでいる。
『赤毛のアン』は最初の謹呈本だったと思う。
引っぱり出したら、ページはすでに黄ばんでいた。
「謹呈 訳者」と印刷されたしおりには「☆一度でいいから、こういうの、やってみたかった!」と書き添えてある。
ちなみに「こういうの」とは、翻訳のことではなく、「訳者謹呈」のことだ。
手紙も挟んであった。日付は1987年9月10日となっている。
「ここまで来るのは、本当に長かったけれど、やっと道が開けてきたみたい」と、素直に喜びを綴っている一方で、夫の実家がある地方都市に引っ越した後の生活は、その喜びを分かち合ってくれる人がそばにいないと、孤独についても書いてあった。
この孤独は、僕もずいぶん味わってきたし、今もそのまっただ中なのでとてもよく分かる。

乗り越えるには、井津先生の言葉「大勢にではなく、ひとりに向かって」を噛みしめることかな。
今は「一人に向かって」というよりは「自分の心に向かって」に近い。
自分にとって最高レベルの自己満足ができればいい……という心境。

さて、この日記を書くために『赤毛のアン』の冒頭を読んでみたのだが、ああ、小説ってこうじゃなくちゃね、と改めて思った。
描写の連続で構築する世界。
説明してはいけない。描写する。そこにどれだけのメッセージを込められるかが小説家の腕。
……ということを教えてくれたのは、聖光学院中学、高校の国語教師・臼井先生だった。
偏屈で人気のない先生だったけれど、彼のこの言葉だけはしっかり覚えている。
さらには、小説はエンターテインメントである、というのが僕のモットーでもあり、あからさまに作者の主義主張が述べられているような小説は、小説ではなくてノンフィクションやコラムとして書けばいいと思っている。
かといって「面白いだけの小説」を書きたいとも思わない。メッセージやテーマがない小説はゲームやパズルのようなもので、それはそれで必要だし、良質の娯楽を作る大変さは分かっているけれど、やっぱりテーマがないとね……って思ってしまう。
……ん? なんかこの「小説とは……」という話題で、昔、茅野さんと意見が噛み合わなかったような記憶もうっすらと……。
そうね。面白ければいいのよね、小説は。
つまらないのは論外。

しかしまあ、よい小説を書ける、出せる世の中でないとね。まずは。


追記:
「村岡花子さんの『赤毛のアン』は神聖視されていて……」という話は、もしかしたら茅野美ど里さんではなく、谷口由美子さんと話したときに聴いたような気もしてきた。
谷口さんは茅野さんのさらに先輩(二人とも上智大学英語学科卒)で、上智で非常勤講師をしたときに知り合って、何度か話をする機会があったのだった。
調べたら、谷口さんも『赤毛のアン』を訳している。
比較してみたくて、アマゾンで注文してしまった。
というわけで、上のWikiから引っ張ってきた訳者一覧に谷口さんを加えた。また、彼女の訳書が届いたら、この日記を更新することになるかな。
追記2:
この日記をUPした当初は原文が分からなかった。ありがたいことに、UPした数時間後に、ドイツ在住のFB友達・白鳥さんが原文を送ってくれたので、さっそく追記と書き換えを行った。
//私も昔、村岡花子訳にはまり、中学三年の時に渋谷で原書を手に入れ、その頃の語学力では全く歯が立たなかったにも関わらず、冒頭を暗記しようとしたり、少しでも「アン」の世界に近づこうとした「赤毛のアン」マニアでした。大学生になってからアルバイトでお金を貯め、プリンスエドワード島にまで行ってしまいました。//

……とのことで、『アン マニア』はいっぱいいるのだなあと、改めて思い知らされた次第。
ちなみにその原文ペーパーバックの表紙裏には茂木健一郎氏のサインが入っているとか。茂木氏もアン マニアで、白鳥さんと同じ原書を持っていた縁で、だとか。

雨の日曜日。ごく短時間でこれだけ楽しめ、なんだかすごくお得な気分になった。これで次の連ドラを見る目も少し変わるかな?

こういうの(謹呈)、やってみたかった! と書かれていた。27年前か……



↑美ど里さんが作詞し、僕が作曲した『Two Note Waltz』



『てっぱん』はB型ドラマだった!2011/02/19 14:18

『てっぱん』は、最近の連続テレビ小説の中ではいちばん面白い。
視聴率は17%前後らしいが、連続テレビ小説の視聴率は人気とは連動しない。なぜなら、面白ければみんな録画してじっくり見ようとするからだ。朝の慌ただしい時間にBGM代わりに流しておくのはもったいない。また、後からじっくり見たいので、朝はつけない。
キャスティングが真面目で、ストーリー展開がテンポがよいのがGOOD。

ともするとクサくなりすぎる話なのに、そう感じさせないのは俳優たちの演技や存在感がほんわかしているからかもしれない。とりとめのないところ、お節介が多いところ、熱中する一方であっさりしているところ、なんだかB型っぽいドラマだと感じていた。
試しに出演者20人の血液型を調べてみたところ、こんなグループ分けができた。

●安田成美、川中美幸、朝倉あき、京野ことみ、尾美としのり、遠藤要、松田悟志、趙 珉和、小市慢太郎

○ともさかりえ、神戸浩、赤井英和、森田直幸、柏原収史

■滝本美織、富司純子、遠藤憲一、長田成哉

★竜雷太、柳沢慎吾

多い順に、9人(45%)、5人(25%)、4人(20%)、2人(10%)でありますね。
よく知られているように、日本人の血液型分布は、およそ4:3:2:1で、A型、O型、B型、AB型の順になる。ところが、『てっぱん』の出演者はB、A、O、ABの順だった。つまり、本来なら、20人集めたら4人しかいないはずのB型が倍以上の9人もいるのだ。
なるほど、ドラマの雰囲気がB型っぽいわけだ。
それに比べて、A型が少ない。しかも、神戸浩(絵描きのおっちゃん)、柏原収史(バンドを指導しているちょっとずれた先生)、赤井英和(鰹節を削っている駄洒落を連発する独身男)といった、雰囲気があの場では浮いているキャラが多い。村上家の次男・鉄平役の森田直幸は、本来はB型っぽい役どころだが、A型の気配りがもろに目立つ。
村上家の父・錠はO型、母はB型だから、本当ならこの次男・鉄平のA型はありえなくて、鉄平こそ親が違うことになる。

ちなみに、ドラマの中では写真と短い回想シーンにしか出てこないあかりの実の母親・千春役、木南晴夏はA型。実の父親役・橘先生はB型なので、あかりがO型で生まれてくる確率は4分の1以下。

出演者の血液型グループ、もう一度確認しておくと、

A型:ともさかりえ、神戸浩、赤井英和、森田直幸、柏原収史

O型:滝本美織、富司純子、遠藤憲一、長田成哉

B型:安田成美、川中美幸、朝倉あき、京野ことみ、尾美としのり、遠藤要、松田悟志、趙珉和、小市慢太郎

AB型:竜雷太、柳沢慎吾

……うんうん、よく分かる……という感じでしょ。

スリムクラブ M1準優勝2010/12/27 21:17

スリムクラブ と入力変換したら、ATOK2010は「擦りむくラブ」と変換してくれた。
なんか切ないフレーズだ。
昨夜のM1グランプリ、10回にして最後だそうだが、オートバックスの資金難でしょうね。来年からはソフトバンクがタイトルを変えて継続か? その場合は局を変更するのかな。踏ん張れテレ朝。

スリムクラブの二人はどちらもB型。ネタは坊主頭のほう(内間政成)が書いているのかと思ったら、「声変わりに失敗した」ほう(真栄田賢)が書いているんだそうだ。
内間がもうちょっとプロ意識に目覚めて演じていれば、つまり、終始にやけているのではなく、基本が無表情でたまにニヤっとやっていれば、素人臭さが半減し、優勝していたかもしれない。

でもまあ、笑い飯優勝でもいいや。去年までは毎年贔屓にしていたのだ。

しかし、日本国中からあの瞬間嘲笑された民主党は……ほんとになんとかならんのかね。