明治神宮の狛犬と陽明門の狛犬の背景を探る ― 2020/11/13 22:14
狛犬界?では有名な大宝神社の木造狛犬というのがある。
明治時代にすでに国宝(後の法律では「国指定重要文化財」)になっており、鎌倉時代の作とされている。
当時の他の木造狛犬(屋内に置かれた、いわゆる「神殿狛犬」)の中では異色ともいえるほどスマートでかっこよく、人気がある。
人気があるためにコピーもたくさん作られ、10月11日の日記に書いたように、明治神宮には創建当時から置かれたし、日光東照宮陽明門の裏側にも置かれている。
さらには、これをモデルとした岡崎古代型という石彫狛犬が日本全国に多数存在する。
最近、大宝神社にはこの有名な狛犬の他に、もう一対、木造狛犬(県指定文化財)が伝わっていたことを知った。
栗東歴史民俗博物館(栗東市小野)に寄託されていて、先月、同館の開館30周年記念展「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」で披露されていた。
大宝神社の「もう一対の」狛犬 (栗東歴史民俗博物館)
これは知らなかった。国重要文化財に指定されている狛犬が有名すぎたこともあるが、今まで、写真が公開されたこともほとんどなかったのではないだろうか。
平安後期~鎌倉時代あたりの木造狛犬の特徴を備えている。修復されているのだと思うが、実にきれいに残っていたものだ。
で、この「もう一対の狛犬」を見ているうちに、以前から有名な「カッコいい」ほうの狛犬に抱いていた一種の違和感というか、モヤモヤしたものがまた甦ってきた。
なぜ、あの狛犬だけが、当時の他の木彫狛犬とは違う印象を放っているのだろう……という思いだ。
いち早く「国宝」に指定されている
平安後期から室町時代にかけて、宮中を始め、公家社会や有名社寺ではいくつもの木造狛犬が彫られ、国の重要文化財の指定を受けているものも多い。現時点で国の重要文化財に指定されている「狛犬」を指定された日付順に並べると、↓こうなる。
■国指定重要文化財の狛犬一覧
(所有者 種類 製作年代(推定含) 指定年月日)- 和歌山県 丹生都比売神社 木造狛犬 鎌倉 1899.08.01(明治32.08.01)
- 和歌山県 丹生都比売神社 木造狛犬(2対) 鎌倉 1899.08.01(明治32.08.01)
- 広島県 厳島神社 木造狛犬(14躯) 平安~桃山 1899.08.01(明治32.08.01)
- 滋賀県 大宝神社 木造狛犬 鎌倉 1900.04.07(明治33.04.07)
- 香川県 水主神社 木造狛犬 室町 1901.03.27(明治34.03.27)
- 京都府 八坂神社 木造狛犬(伝運慶作) 鎌倉 1902.04.17(明治35.04.17)
- 兵庫県 高売布神社 木造狛犬 鎌倉 1904.02.18(明治37.02.18)
- 福岡県 宗像大社 木造狛犬 桃山 1904.02.18(明治37.02.18)
- 福岡県 宗像大社 石造狛犬 中国北宋時代 1904.02.18(明治37.02.18) 建仁元年施入ノ背銘アリ
- 福岡県 観世音寺 石造狛犬 鎌倉 1904.02.18(明治37.02.18)
- 京都府 御上神社 木造狛犬 平安 1909.04.05(明治42.04.05)
- 京都府 由岐社 石造狛犬 鎌倉 1909.09.22(明治42.09.22)
- 京都府 高山寺 木造狛犬 鎌倉 1911.08.09(明治44.08.09)
- 京都府 高山寺 木造狛犬(3対あり) 鎌倉 1911.08.09(明治44.08.09) 内二躯ノ台座ニ嘉禄元年八月一六日行寛ノ記アリ
- 愛知県 深川神社 陶製狛犬 室町 1912.09.03(大正1.09.03)
- 岐阜県 日吉神社 石造狛犬 桃山 1914.08.25(大正3.08.25) 天正五年五月不破光治造之ノ銘アリ
- 薬師寺(東京国立博物館保管) 木造狛犬 平安 1924.04.15(大正13.04.15)
- 石川県 白山比咩神社 木造狛犬 鎌倉 1924.08.16(大正13.08.16)
- 広島県 御調八幡宮 木造狛犬 鎌倉 1917.08.13(大正6.08.13)
- 滋賀県 白鬚神社 木造狛犬 鎌倉 1928.08.17(昭和3.08.17)
- 京都府 藤森神社 木造狛犬 平安 1936.05.06(昭和11.05.06) 胎内ニ徳治二年修補ノ銘アリ
- 奈良国立博物館 木造狛犬 1940.10.14(昭和15.10.14)
- 京都府 籠神社 石造狛犬 桃山 1942.12.22(昭和17.12.22)
- 広島県 吉備津神社 木造狛犬(3躯) 鎌倉 1942.12.22(昭和17.12.22)
- 東京都 大国魂神社 木造狛犬 鎌倉 1949.02.18(昭和24.02.18)
- 千葉県 香取神宮 古瀬戸黄釉狛犬 鎌倉~室町 1953.03.31(昭和28.03.31)
- 宮崎県 高千穂神社 鉄造狛犬 鎌倉 1971.06.22(昭和46.06.22)
- 石川県 白山比咩神社 木造狛犬 鎌倉 1989.06.12(平成1.06.12)
- 奈良県 手向山八幡宮 木造狛犬 鎌倉/附 江戸 2000.06.27(平成12.06.27)
- 岡山県 吉備津神社 木造獅子狛犬 南北朝 2002.06.26(平成14.06.26)
- 東京都 谷保天満宮 木造獅子狛犬 鎌倉 2003.05.29(平成15.05.29)
- 滋賀県 若松神社 木造獅子狛犬 平安 2015.09.04(平成27.09.04)
- 京都府 教王護国寺 木造獅子狛犬 平安 2019.07.23(令和1.07.23)
大宝神社の「国宝」指定は、丹生都比売神社、厳島神社(同時に指定)の次に古い。
それだけ早い時期から重要な狛犬だと認定されていたわけだ。
なぜなのだろう?
廃仏毀釈の反省から生まれた「国宝」
ここで改めて、国宝とか国指定重要文化財というものの歴史を振り返ってみる。明治4(1871)年、明治新政府は、自分たちが発した神仏分離令が引き起こした廃仏毀釈の嵐によって全国で多くの文化財が破壊されたり、流出したことに危機感を抱き、「古器旧物保存方」を布告して、古器旧物の目録および所蔵人の詳細なリストの作成・提出を命じた。
その後、明治28(1895)年に内務省に古社寺保存会が設置され、明治30(1897)年6月に「古社寺保存法」が定められた。
これが文化財保護を目的とした最初の法律で、以後、昭和4(1929)年の「国宝保存法」、昭和25(1950)年の「文化財保護法」へと引き継がれていく。
この古社寺保存法によって、いわゆる「国宝」が誕生した。
現在は国宝と国指定重要文化財とは区別されているが、古社寺保存法の制定時は、「特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範」であるものを「特別保護建造物」または「国宝」としたので、建造物以外の文化財、美術品などはすべて「国宝」とされた。
上のリストは指定順なので分かりやすいが、大宝神社の角のない獅子像は、古社寺保存法制定3 年後の明治33年4月に、早くも国宝の指定を受けている(現在は重要文化財指定)。
このとき「国宝」とされたことで権威もついたため、以後、多くの模倣作が生まれたわけだが、丹生都比売神社、厳島神社に次いで、大宝神社の狛犬が早々と指定されたのはどんな理由で、どういう人たちの決定によるものだったのかが気になる。
丹生都比売神社、厳島神社、大宝神社などの国重要文化財狛犬は、簡単には見られないが、コピー狛犬には簡単に出会える。
例えば、日光東照宮には2対の木造狛犬が置かれていて間近で見ることができるが、どちらも模作(コピー)だ。
大鳥居をくぐって参道を行くと、最初に出会うのは表門(仁王門)にある狛犬で、これは宮中で最初に「獅子・狛犬」形式が出現したときからの、阿像は角なしの獅子、吽像は角ありの狛犬という「正統派」狛犬である。
日光東照宮表門の狛犬。古くからの神殿狛犬を忠実に再現している。
この狛犬と同型のものは多数あるが、京都御所清涼殿御帳台両脇に置かれた狛犬や八坂神社の狛犬(国指定重要文化財)が代表例だ。
清涼殿御帳台横の狛犬。きれいな写真が狛研サイトの福田博通さんの記事にある。
八坂神社の狛犬 (京都国立博物館「獅子・狛犬」より)
八坂神社の狛犬は運慶の作とも伝えられているそうで、もしそうならば鎌倉時代を代表する狛犬といえるだろう。
これより古そうなタイプとしては、教王護国寺(東寺)の狛犬がある。長い間注目されていなかったようだが、2対伝わっていたうちの1対、東寺八幡宮伝来のものが昨年(2019)7月、ようやく国指定重要文化財になった。
教王護国寺(東寺)八幡宮伝来の獅子・狛犬(文化庁発表「文化審議会答申」資料より)
手向山八幡宮の狛犬(外から覗き見られるのはレプリカで、オリジナルは見られない)もこのタイプ(座高が高く、スッと蹲踞している顔長タイプ)に近い。
昨年の文化審議会による答申資料には、
東寺八幡宮に伝来した獅子狛犬の一対。ともに前後二材製で、尾まで共 木で彫出する構造に平安前期的な要素をとどめ、10ないし11世紀の製作とみられる。獅子(阿形)は迫力のある形相と精悍な姿態が表され、動物彫刻の優品として注目される、狛犬(吽形)は彫直しの手が加わっている可能性があるが、一対としてみれば大寺院の鎮守社に置かれるにふさわしい風格を示している。という解説が載っている。
この東寺タイプや八坂神社タイプ(清涼殿タイプ)がどこか高貴さを備えた公家文化的な狛犬だとすれば、大宝神社の重文狛犬は精悍で攻撃的な武家社会の文化を象徴しているように感じる。
日光東照宮陽明門の狛犬は大正時代のものだった
日光東照宮で2番目に出会うのが陽明門裏の木造彩色の狛犬だが、これは大宝神社狛犬(国重要文化財指定のほう)のコピーである。日光東照宮陽明門裏の狛犬。平成の大修理で彩色し直された後の撮影。
この狛犬を見るたびに「なぜこんなに新しそうなものがここに?」という違和感を覚えていたのだが、この狛犬は東照宮に元々あったものではなく、大正5(1916)年に「追加」発注されたものが置かれたという。東照宮のWEBサイトに「(陽明門の)狛犬は滋賀県の大宝神社が所蔵する国宝(現在は重文)の狛犬を模して、大正5年に製作したものです」と書かれているので、間違いないだろう。
陽明門は国宝指定されているが、この狛犬は大正期に持ち込まれたものなので、当然、含まれていない。
ついでにいえば、表門の狛犬と仁王像も重要文化財にはなっていない。
一方、「跳び越えの獅子」(石柵と一体化している一部として)、奥社参道の石造狛犬、鋳抜門の銅製狛犬は重文指定されている。
表門の仁王像は、京(左京)の大仏師・法眼康音の作とされている。
法眼康音は、その子・法眼康知とともに、正保4(1647)年に、家康の三十三回忌法要に合わせて本尊である虚空蔵菩薩像を造像したとされているので、現存の仁王像が康音の作であればその時代からあることになる。
この仁王像は、明治の神仏分離令によって大猷院に移動させられた。その後、明治30(1897)年に元に戻されるまでは、裏にあった獅子・狛犬を表に持ってきて、空いた裏側のスペースには花瓶が置かれていたという話もあるので、表門の狛犬が仁王像とセットで奉納されたものかどうかは疑問だが、少なくとも明治以前には存在していたようだ。
話を陽明門の狛犬に戻す。
陽明門の狛犬が大正期の作であると分かって、すぐに思い出したのが明治神宮内陣の狛犬だ。
大正9(1920)年に創建された明治神宮でも、彫刻家・米原雲海が彫ったとされる大宝神社狛犬の模作が内陣に置かれていた。
10月11日の日記に書いたように、当時の政府や軍部関係者は、この狛犬こそが「故実に準拠」し、「国民崇敬の中心率」となるものとしてふさわしいと惚れ込んでいたようだ。
神社用の装飾は、国民崇敬の中心率とならねばならぬから、故実に準拠することは、我が国体の上から見ても争われぬ事項に属する。(「明治神宮御写真帖 : 附・御造営記録」帝国軍人教育会・編纂)
戊辰戦争で徳川から政権を奪った明治新政府は、神仏分離政策を進めると同時に、「神社制限図」などを定めて、神社の様式を細かく規定しようとしていた。その流れの延長で、神社の「装飾品」としての狛犬も「故実に準拠」し、「国民崇敬の中心率」となるものとして統一的な様式を規定したかったのだろう。大宝神社の狛犬は、まさにそうした意図、お眼鏡にかなった「優等生」「模範生」的な狛犬と認定されたのだ。
明治神宮内陣に置かれていた狛犬(大正9年発行「明治神宮御写真帖」より)
それ故に明治神宮に置かれたのは分かるとして、新政府軍に倒された徳川の聖域である日光東照宮にも持ち込まれたというのは、徳川側にしてみれば屈辱的なことではないだろうか。
陽明門の狛犬に感じていた違和感の正体はまさにそれだったのか、と、今さらながら思うのだ。
東照宮を含め、日光の社寺は徳川政権が滅ぼされた後、荒廃の一途を辿っていた。それを憂えた地元有志や旧幕臣たちが中心となって明治12(1879)年12月に「
その保晃会が解散したのが、奇しくも大宝神社型狛犬が陽明門に置かれた大正5(1916)年である。
狛犬を発注し、陽明門に置いたのは日光社寺共同事務所だという話も聞いたが、社寺共同事務所が設立されたのが大正3(1914)年なので、時期としては合致する。
何か関係があるのかどうかはよく分からないが、保晃会と日光社寺共同事務所が入れ替わった時期に大宝神社型狛犬が陽明門に置かれた、ということになりそうだ。
……と、ここまでいろいろ考えてきた上で、改めて大もとの大宝神社の狛犬を見ると、謎はますます深まる。
そもそも「鎌倉時代」の作というのは本当なのだろうか。
台座の裏には「伊布岐里惣中」という墨書きがあるという。
「伊布岐里」は伊吹山麓にあった村だろう。
「惣」は、中世後期から出てきた村の自治組織で、荘園時代からの領主に対して村民が談判したり、村の結束を固めるために作った寄り合い組織のこと。
つまり、この狛犬は、公家や大名ではなく、村民が奉納したらしい。
となると、鎌倉時代の農民に、あれだけのカッコいい木彫狛犬を奉納するだけの力(財力や余裕)があったのだろうか、という疑問がわくのである。
もしかすると、鎌倉時代ではなく、室町後期くらいなのではないか。戦国時代直前には、惣の主導者階層は武家社会に接近し、次第に武士化していったともいわれており、その時期であれば、自分たちの地位を確認する意図で、あのような立派な木彫狛犬を有名神社に奉納することがあったかもしれない。もちろんこれは勝手な想像にすぎないし、別に、鎌倉時代でなければ価値がないなどと言っているわけではない。
時代云々よりも、村民が突然あれだけのカッコいい(関西人風に言えば「シュッとした」)狛犬を奉納したということに不思議さを感じるのだ。
伊布岐里の惣は、一体誰にあの狛犬の制作を頼んだのだろうか。運慶、快慶などの慶派の仏師に、山里の村民が狛犬を発注できたとは思えないのだが、それにしては慶派の仏師顔負けの完成度の高いものに仕上がっている。そのことがどうにも不思議でしかたない。
ともあれ、大宝神社の狛犬には、誕生後何百年経っても歴史を動かすだけの魔力というか、不思議なパワーが秘められていたといえるだろうか。
あの狛犬を彫った彫師も、まさか自分の死後何百年も経って、日本全国に模作が置かれることになろうなどとは夢にも思っていなかったに違いない。
『狛犬かがみ』に代わる、狛犬本の決定版! 収録カラー画像500点以上! 狛犬ファン必携の書。
B6判、156ページ、フルカラー オンデマンド
1780円(税別)、送料220円
★ご案内ページは こちら
B6判、156ページ、フルカラー オンデマンド
1780円(税別)、送料220円
★ご案内ページは こちら
Amazonでも購入できます。⇒こちら