ウィズコロナ時代が教える固定観念の脆さ2021/01/14 15:38

序章:幸福は「相対的な価値」

コロナと共に生きていかなければならなくなった2020年以降、いやが上にも生活スタイルや従来の価値観を見直さざるをえなくなりました。
政治や社会体制に絶望したり怒ったりしているだけではどうにもなりません。ひどい社会でも、自力で生き抜く術を構築していくしかないのです。

ただでさえ苦しい生活だったのに、コロナで仕事の継続も難しくなり、これ以上何を「自力」で頑張れるというのだ、と反発するかたも多いでしょう。しかし、誰も助けてくれませんし、一時的な援助では根本的な解決にはなりません。
まずは、「考え方を変える」こと、今まで自分の中で「常識」「絶対」だと思っていた尺度を根底から見直すことから始めませんか。
具体的な技術や方法はそれからです。

固定観念に殺される時代

 2020年代を生きている私たちの大多数は、幸いにして戊辰戦争も太平洋戦争も関東大震災も経験せずに済みました。
 私は65歳を過ぎた「高齢者」ですが、戦後の高度成長時代やバブル経済を知っています。しかし、そうした時代は人類の長い歴史の中では、極めて特殊な、ほんの一瞬のことです。
 その特殊な、一瞬の時代に植えつけられた「常識」は、もはや通用しなくなっているのですが、多くの人が、未だに気づいていません。

 戦後の日本は概ね平和でしたが、経験した大きな災厄の一つに、2011年3月の東日本大震災と福島第一原発(1F(いちえふ))の爆発~放射性物質の大量ばらまきがあります。
 1Fが壊れて大量の放射性物質をまき散らした2011年3月12日、私と妻は福島県の川内村というところで暮らしていました。
 私たちはテレビで原発が爆発するシーンを見てすぐに逃げましたが、1か月後には自宅周辺の汚染状況を把握できたので、敢えて全村避難している村に戻って生活を再開しました。
 そのとき、壊れた原発内で放射線測定をする仕事を続けている20代の青年と話をする機会がありました。
 勤めている会社の社員半数は原発爆発後に辞めていったそうです。その半数の社員のように会社を辞めることをせず、放射能汚染された原発敷地内で仕事を続けているのはなぜかと訊いてみました。何か使命感のようなものからなのか、と。
 彼の答えは実にあっさりしていました。「嫌だけれど、他に仕事がないから辞められないだけだ」というのです。
「今のいちばんの望みは、被曝線量が限度になると他の原発でも働けなくなるので、そうなる前に他の原発に異動できることだ」とも言っていました。
 何よりも驚いたのは、「この村に生まれた以上、原発関連で働くしかない。そうした運命は変えようがない。仕方がない」という言葉でした。
 まだ20代の若さでありながら、転職する気力もなければ、ましてや起業して自立するなどというのは「無理に決まっている」というのです。
 つまり彼は、原発が爆発するという異常事態が起きてもなお、自分が勤めている会社と自分との関係、自分が生まれた土地と自分の人生との関係を相対化できず、絶対的なものだと感じているわけです。
 おそらく、子供の頃は彼にも将来の夢があったでしょう。それがなぜそうなってしまったのか。
 これを読んでいる多くのかたがたは、その青年の考えは異常だと感じるでしょう。仕事を変えるとか、生まれた土地を離れて新天地を探すなんてことは人生においていくらでもありえることじゃないか。何をバカなことを言っているんだ……と。
 私もそう思うので、彼の言葉にショックを受けたのです。
 しかし、彼のような感じ方、考え方をしている人は、案外多いのです。因習の強い田舎にだけではなく、都会にもたくさんいると思います。
二者択一ではない
 大人になるにつれ「仕方がない」「これが運命だ」と諦めて、自分からは何もしなくなってしまう。人をそうさせてしまう風土や社会の空気、仕組み(システム)を「絶対化」させてしまう傾向というのは、都会より田舎に顕著だとは思います。田舎に生まれ育つと、自分が置かれた境遇を絶対視しやすくなるのでしょう。
 しかし、情報や基準値を絶対化させてしまう過ちは、メディアに振り回されやすい都市生活者のほうが陥りやすいかもしれません。
 原発が爆発したときのことを思い出してみてください。
「放射能汚染された福島にはもう住めない。それなのに子供と一緒に住んでいる親は無責任だ」とか、「危険なのに安全だと言って無理矢理住民を帰そうとしている政府は人殺しだ」といった批判の発信源は、主に都会で暮らしている人たちでした。
 そうした批判の一部は正しくても、一方的に発せられるそうした論に対して、汚染された土地、特に福島県内で暮らしている多くの人たちは、迷惑この上ないと感じていました。
 放射性物質がばらまかれたのですから、それ以前よりも危険が増したことは間違いありません。しかし、人が生きていく上で、危険や困難は他にたくさんあります。
 うっすら汚染された場所で生活を続けていく危険より、家族がバラバラになったり、収入が途絶えたり、生き甲斐をなくしたりすることによる危険、あるいは不幸になる度合や加速度のほうがはるかに大きいと判断することは間違いではありません。
 あのときに起きた「年間20ミリシーベルト論争」も、数値を絶対化してしまうことから生じた対立といえます。
 20ミリシーベルト論争を忘れてしまったかたのために、少しだけ解説しておきます。
 日本には「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律」というものがあり、そこで「人が放射線の不必要な被ばくを防ぐため、放射線量が一定以上ある場所を明確に区域し人の不必要な立ち入りを防止するために設けられる区域」として「放射線管理区域」というものを定めています。
 その条件の一つに「外部放射線量が3か月あたりで1.3mSv(ミリシーベルト)」というのがあります。3か月で1.3mSvということは年間で5.2mSvであり、1時間あたりにすれば0.6μSv(マイクロシーベルト)になります。
 ところが、福島第一原発が壊れて大量の放射性物質を環境中にばらまいてしまった後は、暫定基準としつつも、年間20mSvまでは健康被害はないと考える、ということにしてしまいました。
 これに対して、「とんでもない話だ」という人たちと「ヒステリックに騒ぐのは愚かだ。冷静になれ」という人たちが真っ向から対立し、議論も噛み合いませんでした。
 20mSvという数値のことでいえば、安全か危険かということ以前に、都合が悪くなったので一気に基準を引き上げるという姿勢がまずダメです。
 なぜこんなことになってしまったのか、責任は誰にあるのか、そうなってしまった以上、これからどうするべきなのかという話が全部棚上げ、無視されたままで「20mSvで大丈夫です」と、そこだけはさっさと決めてしまう。そうした不誠実さがまずは追及されるべきですが、実際にはそうなりませんでした。
 また、「大丈夫」派は「チェルノブイリに比べれば放出された放射性物質はずっと少ない」という言い方をしますが、これは一見、チェルノブイリ事故との相対化をしているようでいて、実際にはチェルノブイリ事故の数値を絶対化して、「あれに比べれば……」という論法に持ち込んでいます。
 チェルノブイリも「フクシマ」も、放出された放射性物質の絶対量や汚染された土地の面積規模が問題の本質ではありません。
 そういう事態に至らせた人間側の問題、社会やシステムの欠陥を見ていかなければ何の解決にもなりません。

 ……と、解説が長くなりましたが、振り返ってみて、あのときの状況は、2020年からのコロナ対策論争にそっくりだと思いませんか?
 「一刻も早く緊急事態宣言を出すべきだ。従わない者には厳罰を与えろ」という人がいるかと思えば、「コロナなんてただの風邪だ。日本ではコロナで死ぬより生活困窮で自殺する人のほうがずっと多い」という人もいます。
 感染対策か経済優先かという二者択一論のような論法も、原発爆発後の「放射能は安全か危険か」「汚染された地域の避難解除をするにも、経済的インフラを戻すのが先か、人が戻るのが先か」といった論争の二極論に似ています。
  • 放射能汚染が低くなった場所は避難指示を解除して復興を目指せ。
  • しかし、働き手世代は仕事のなくなった場所には戻れない。
  • 子供を抱えている親は放射能が不安で子供と一緒には戻りたくない。
  • 年寄り世代は住み慣れた家に戻りたいけれど、子供世帯は戻ろうとしないから独居老人世帯にならざるをえない。
  • しかも、田畑は荒れてしまって、今まで生活のリズムを作っていた農作業もできない。

 こういう負のスパイラルを抱えた地域に暮らしていた、あるいは今も暮らしている人たちにとって、放射線量が高い低い、安全か危険かといった二極論的議論はあまり意味がないのです。

 これと同じようなことが、2020年からのコロナ禍社会で繰り返されています。
 感染防止優先か経済優先かという二者択一論は、実際に影響を受ける職種や現場の人たちにとっては「なんにも分かってない!」という怒りを買うだけのことです。
 そして、政治が無力である、無力どころか、火事場泥棒的な犯罪に近い利権探しだけはしっかりやる、という点でも、同じことの繰り返しです。

 ただ、今回一つだけ違うのは、相手が時間と共に薄れていく放射能ではなく、下手をするとどんどん増えていくウイルスだということです。
 人と人の絆がどうのというお題目は通用しません。人と接触してはいけないというのですから、今まで「よきこと」とされていたもの、幸福感を生み出す源が、根こそぎ否定されることになりました。
 それによって、くだらない会議や宴会、接待が減り、通勤ラッシュが緩和されるのはいいことですが、人と直接触れあうことで得られる情愛や学びが失われる社会になりました。
 これを個人の努力で変えることはできません。
 そういう厳しい前提の上で、「幸せビンボー」の具体的な方法を探っていかなければなりません。
 つまり、今までの常識を改めて見直しながら、これからの常識を探りつつ、できる範囲内で幸福度を「相対的に」上げていく具体的な方法や人生哲学を見つけていくしかないのです。



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